7月 25

No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)

No.19 1月19日で紹介した五島慶太の夢の補遺版です。
1956(昭和31年)7月25日、城南地区開発マスタープランである
 「多摩川西南新都市計画」が決定し発表されました。

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五島慶太「私の履歴書」より

1956年(昭和31年)は東急電鉄にとっても、
五島慶太にとっても重要なターニングポイントとなります。
この年から3年後の1959年(昭和34年)に亡くなった五島慶太にとってこの1956年は、最後の夢実現への命を削った一年だったのかもしれません。
横浜市の都市形成を考える上で、
五島慶太の「田園都市構想」は欠かせない計画で現在も東急Gが継続しているプランです。
1953年に五島が発表した「城西南地区開発趣意書」
http://ja.wikisource.org/wiki/城西南地区開発趣意書
については簡単にこのブログ開始直後に紹介しています。
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢

ご参照ください。

この「城西南地区開発趣意書」は各方面に衝撃を与えました。
民間発の交通インフラと都市計画を一括して推進する方法は昭和初期から(実験的に)推進されてきましたが、五島のプランは規模が違いました。
川崎から横浜東部を
「8つのブロック」に区分し開発していくものでした。
交通インフラの中心は戦前の基本方式だった鉄道から自動車を基幹にした「高速道路計画」(ターンパイク構想)でした。
ところが、建設省と構想が重なる部分がかなり生じ修正を余儀なくされます。
そこで、
8つのブロック計画を4つに集約し、
交通インフラを国道246号線、
鉄道を「田園都市線」に軌道修正したものが
「多摩川西南新都市計画」です。

(4つのブロック)
■第1ブロック
川崎市土橋・馬絹・宮崎・有馬・梶ヶ谷・野川・菅生・上作延・長尾・末長・新作・千年
第2ブロック
横浜市港北区元石川町・荏田町など
第3ブロック
横浜市港北区東方町・池辺町・佐江戸町など
第4ブロック
横浜市港北区恩田町・長津田町など

その後、1965年(昭和40年)に東京都が「多摩ニュータウン」計画を決定し「多摩」名は有名になりますが
1966年(昭和41年)完成の田園都市線「たまプラーザ」駅名には、五島の夢がこめられた(執念?)の駅名といえるでしょう。(息子の五島昇命名)

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(ここから大胆な私見となります)
ところが、東急の田園都市計画は、大きなハードルが立ちはだかります。
1963年(昭和38年)に横浜市長となった飛鳥田一雄(市長時代1963年〜1978年)は、東急の田園都市計画に消極的態度を示します。
この消極策が横浜北部と横浜南部を都市構造として分断する結果を招きます。
磯子出身が影響したかどうかわかりませんが、飛鳥田時代の横浜北部は置き去りにされていたといっても過言ではないでしょう。
都市計画のコンサルに西武の堤義明が入っていたことも関係があるかもしれません。
いわゆる「7つの丘」が地勢的に
横浜を南北に分断する結果となります。
その後、青葉区出身の市長が二代続くことで北部と南部の連結、さらには東西のアクセス改善も進みますが、いまだ多くの課題が山積しています。

高齢化、空室率10%超えの横浜市の街づくり、再生をどうするのか?
五島なら何と言うか?聞いてみたいところです。

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私の履歴書第一巻 最初の登場が「五島慶太」

1956(昭和31年)「多摩川西南新都市計画」が発表された年、日経新聞で新シリーズ「私の履歴書」が始まります。その第一回が東急会長の五島慶太でした。
最後に、
「若い女と馬鹿話をしていると、仕事の話や世間の苦労からまぬかれて頭の中が「空」になってくる。そうすると夜熟睡ができるので、またあすへの活力がでてくるのである。これが私の健康法である。三昧ということが、女でも、碁、将棋、スポーツなんでもよい。三昧になるーーすなわち「空」になるということが必要である。」
(私の履歴書 第一巻第一部)

今日のおすすめブログ
■私個人は「戦後の曲がり角1980年代の日本」をライフワークに資料を集め、読み込んでいますが横浜は(周囲も観ず働いていたので?)空白なんです。
このサイトは 記録としても記憶としても大切な資料です。
制作者に敬意を表します。
http://hama80s.exblog.jp/

7月 25

No.208 7月26日 (木)ザ・みなとの劇場

1874年(明治7年)7月26日(土)の今日、
住吉町1丁目9番地に完成した最新設備を誇る“港座(湊座)”劇場の杮落し公演が行われました。

港座
煙突のある建物の隣が港座。煙突はガス会社から電気会社に、現在は東電の変電所
現在の港座位置
横浜公園の隣。現在は雑居ビルが建っています。

かつて芝居小屋は街の賑わいのシンボルでした。
人・モノ・情報、そしてお金が集まった横浜界隈は日本有数の賑わい空間でした。

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明治25年赤い場所が大型の施設 縦にベルト上に建っています

その中心地が関内、関外エリアです。
横浜界隈には下田座、羽衣座、喜楽座、蔦座、賑座、相生座他 大小合わせて20以上の劇場がありました。
その多くが伊勢佐木界隈に集中していましたが、これに対しビジネス街のど真ん中に最新の設備を誇る劇場を建てたのが“豪商”高島嘉右衛門です。

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ガス会社、鉄道、学校創設など、日本初と日本一が大好きな高島嘉右衛門が、一世一代の投資をして彼我公園脇に日本で初めて近代技術“ガス灯”を装備した劇場「港座」を建てました。

ガス灯は、街路を照らすだけではなく劇場のような集客空間の夜間ビジネスの最新モデルとなりました。
劇場「港座」は明治33年にその幕を閉じますが、往時を懐かしむ記事がでたように横浜経済のピークを象徴するものでした。

横浜の芝居
横浜の芝居に関する貴重な資料です

「我市の盛時に於て故団十郎は三度来りて我港に妙技を振えり、高島屋血達磨一世一代の大入りは東京に見ずして却って我市港座に之を見たりき、娯楽場の盛衰は実に一市の活力に伴うもの、今日人口往時に幾倍し而も一劇場の見る可き無し」(横浜貿易新報 1916年1月号)

(超一流尽し)
とにかく最新、日本一にこだわった高島嘉右衛門は、芝居小屋「港座」の杮落しに当世一流のメンバーを集め興行を行いました。
公演は“大芝翫”と呼ばれた名優4代目が率いる成駒屋「中村翫雀一座」を招聘します。当時この一座に公演をさせるということは実に大変なことで、全国の芝居ファンを仰天させました。

四代目中村翫雀
四代目中村翫雀

座主高島の“わがまま”はこれだけではなく、「中村翫雀一座」にオリジナル作品「近世開港魁」7幕15場の上演までさせてしまいます。
この芝居の作家には「西洋道中膝栗毛」「安愚楽鍋」で不動の人気戯作者となった仮名垣魯文、狂言作者の三代目 瀬川如皐を起用し、杮落しは大盛況でした。

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観光の魅力は“名所旧跡”もありますが、街にライブな芝居見物ついでに観光というコンテンツも重要要素でしょう。

(余談)
“大芝翫”と呼ばれた名優4代目「中村翫雀」の系譜が「中村鴈治郎」「坂田藤十郎」と続く成駒屋。現在の五代目「中村翫雀」は「坂田藤十郎」と「扇千景」の子で 48年ぶりに上方歌舞伎の名跡を継ぎます。
弟が「三代目扇雀」で1995年(平成七年)10月に五代目中村翫雀・三代目中村扇雀のダブル襲名披露を行いました。(全くの余談でした)
No2 1月2日(月) ニュース芝居、最先端劇場で上演

No18 1月18日(水) 三度あることは四度ある