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第972話 白秋の横浜

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前回に引き続き
白秋を追いかけます。
北原白秋の門下生「薮田義雄」がまとめた「評伝 北原白秋」
には何箇所か横浜に関する記述がありました。
薮田義雄
「(やぶた よしお、1902年4月13日‐1984年2月18日)神奈川県小田原市生まれ。小田原中学三年の時、その地に住む北原白秋の門人となる。法政大学に学ぶ(卒業したかは不明)。詩のほか、白秋の初の本格的伝記などを書いた。wikipedia」

ここでは一章を使って「所謂 「桐の花事件」の真相」について書いています。
一般的には、北原白秋が「姦通罪」で訴えられ、約二週間収監されその後放免された事件前後に作った作品集が「桐の花」。
当時、スキャンダルネタとして大きく取り上げられたこともあり、白秋の評判が一気に落ちたという彼の人生最大の逆風期でした。
引越し好きという表現が適切かどうかわかりませんが、白秋はとにかく転居の連続でした。
1912年「桐の花事件」のあった年の数年前に遡ってみます。

1907年(明治40年)5月千駄ヶ谷に転居。年末牛込北に転居。
1908年(明治41年)10月に神楽坂二丁目
1909年(明治42年)10月本郷動坂
1910年(明治43年)2月牛込小川町
 9月青山原宿に転居。
1911年(明治44年)2月木挽町で下宿生活を始める。
  9月<旅館住まい>
  年末京橋新富座裏に転居。
1912年(明治45年)1月浅草聖天横町
 5月越前堀に転居
★7月姦通罪で告訴
★8月10日の公判で免訴放免。
この事件前後の作品をまとめたものが「桐の花」でした。
[刑法旧規定第183条 姦通罪]
① 有夫ノ婦姦通シタルトキハ2年以下ノ懲役ニ処ス 其相姦シタル者、亦同シ
② 前項ノ罪ハ本夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス 但、本夫姦通ヲ縦容シタルトキハ告訴ノ効ナシ
※夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス
(事件の顛末)
 白秋が1910年(明治43年)牛込から青山原宿に引っ越した隣家に
 国民新聞社写真部に勤める松下長平、その妻 俊子が住んでいました。国民新聞とは、徳富蘇峰が1890年(明治23年)創刊した日刊新聞で、明治後期から大正初期にかけて政府・軍部とのつながりが強くなり政府系新聞の代表的存在となります。
隣家の松下俊子(旧姓福田俊子)と北原白秋の
<禁断の恋>というのが当時の醜聞となり、メディアの格好の材料にされました。
新聞は「詩人 白秋起訴さる 文藝汚辱の一頁」と書き立てます。
真実はわかりませんが、傍系資料などから、当時の理不尽な夫が浮き彫りになってきました。新聞社写真部に勤める松下長平なる人物から妻の俊子は今で言うDV(ドメスティック・バイオレンス)を受けていました。
さらには夫には愛人(妾では無く?)がおり、間には子供がいました。
俊子が妊娠・出産するなか、DVが続いたことと、俊子自身が詩歌に関心があったことなどから、出会った「北原白秋」への思いを膨らませます。
この頃、白秋は極貧生活と体調不良の中、上田敏に作品を絶賛され、一気に詩壇に登場します。旅館住まいから京橋新富座裏に転居、浅草聖天横町、越前堀と短い間に数回転居する中、二人の思いが募ります。
どんなにひどい夫でも<姦通罪>は「夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス」しかなく、今から考えればすごい時代でした。
冒頭の参考にした「評伝 北原白秋」では、二人の思い、関係を詳細に資料から分析しています。
二人の<ふしだらではない恋>は姦通罪で罪となり、彼女は離縁、故郷の伊賀に帰り、白秋は死に場所を求めて彷徨し、三浦三崎を訪れたりしていました。
この<三浦三崎訪問>が後に白秋一家がこの地に移るキッカケにもなっています。
私はもう一つ、時代背景も少し加味してみました。
1912年(明治45年)1月浅草聖天横町
 5月越前堀に転居
★7月姦通罪で夫松下長平が告訴。
☆7月30日 明治天皇 崩御。大正時代へ。
★8月10日の公判で免訴放免。
近代日本が初めて天皇の死を迎え、一世一元の大正を迎えた時期にあたります。
坂野潤治の説く明治近代化の軋轢が再編成の欲求として噴火した「大正政変」が起こった1910年代は税制・経済、外交・軍備、護憲・藩閥等の多元化欲求の衝突の時代でした。

一連の<姦通罪>で離れ離れになった二人は、大正2年になり
劇的な再会をします。
伊賀に戻ったはずの福田俊子が横浜南京町(中華街)で暮らしていることを白秋は知ります。
白秋は彼女を迎えに行き、家族の了解を得て正式に結婚し、居を三浦に移します。
ここで生まれた詩が「城ヶ島の雨」でした。
https://www.youtube.com/watch?v=ZI4ebUR2hLU
評伝では
西村陽吉の回想録から
白秋は本牧三渓園の通りに面した桜並木に<隠れ家>があったと書かれていました。
「本牧で電車を降りて海岸の三渓園まで行く道は、両側に桜が植わって、(中略)三渓園の通りには、おでんや団子や目かつら風船玉などを売る露天が並んで、白秋の仮寓は、そのにぎやかな通りの中の、茶店のような家だった。」
この時期が大正2年4月ごろと推理しています。
1906年(明治39年)5月から三渓園外苑が一般公開されるようになり、桜の季節は特に多くの見学者が訪れるようになりました。
1908年(明治41年)には「横笛庵」が完成し、梅林も整備され”梅の三渓園”としても有名に。
1911年(明治44年)12月26日に元町(西ノ橋)から本牧原町(三渓園)まで横浜電気鉄道本牧線が開通し、さらに多くの人が三渓園を訪れ横浜最大の行楽地になっていきます。
この時期に、俊子とその子供が三渓園近くで白秋と共に暮らしていた時期があったことは驚きでした。この暮らしぶりを詠った詩歌を探していますが、まだ未明です。

桜並木で有名な三渓園通り
大正初期の三渓園 園内か?

昭和初期の三渓園付近

その後、妻俊子とは貧困も影響し離婚し、白秋はまた一つの転機を迎えます。
この先の白秋に関しては、触れませんが、作曲家山田耕筰と組んで多くの校歌を手がけています。その中で神奈川県内の学校は三校あります。
■神奈川県立湘南高等学校
http://www.shonan-h.pen-kanagawa.ed.jp/zennichi/gaiyo/kouka.html
■神奈川県三浦市立三崎小学校
http://www.city.miura.kanagawa.jp/kyouiku/misaki/documents/e-misaki-kouka.pdf
※PDFがダウンロードされます。
■川崎市立川崎小学校
http://www.keins.city.kawasaki.jp/2/ke202001/

第971話 白秋・白雨・柊二

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今回は横浜との細い線を結びながら、一人の詩人を追いかけます。
北原白秋。
戦前の詩歌界を代表する北原白秋は母の実家である熊本県玉名郡に生まれ、江戸時代から続く柳川の商家で育ちました。
彼が作った多くの詩の一編は今でも多くの人の記憶に刻まれています。
神奈川の地にも暮らし、小田原・三崎での創作活動では精力的に作品を残しています。
北原白秋はその57年の人生に幾つかの転機を迎えますが
最初の転機は、青年期の多感な時期に一人の親友を失ったことでした。
白秋。
”白”に込めた仲間の一人に「白雨」と名乗った友人中島鎮夫がいました。19歳の時、中島白雨は自ら命を絶ちます。
以来、北原は”白秋”と亡くなるまでまで名乗り数多くの作品を残しました。
彼の最初の転機とも言える中島白雨の死について
詩集「思ひ出」の一節で鮮烈な詩を詠っています。
20歳前の少年の<激しい悲しみ>が込められた詩です。
長くなりますが、紹介します。
●「たんぽぽ」
「わが友は自刄したり、彼の血に染みたる亡骸はその場所より靜かに釣臺(つりだい)に載せられて、彼の家へかへりぬ。附き添ふもの一兩名、痛ましき夕日のなかにわれらはただたんぽぽの穗の毛を踏みゆきぬ。友、年十九、名は中島鎭夫。」

あかき血しほはたんぽぽの
ゆめの逕(こみち)にしたたるや、
君がかなしき釣臺(つりだい)は
ひとり入日にゆられゆく…………

あかき血しほはたんぽぽの
黄なる蕾(つぼみ)を染めてゆく、
君がかなしき傷口(きずぐち)に
春のにほひも沁み入らむ…………

あかき血しほはたんぽぽの
晝のつかれに觸(ふれ)てゆく、
ふはふはと飛ぶたんぽぽの
圓い穗の毛に、そよかぜに…………

あかき血しほはたんぽぽに、
けふの入日(いりひ)もたんぽぽに、
絶えて聲なき釣臺の
かげも、靈(たましひ)もたんぽぽに。

あかき血しほはたんぽぽの
野邊をこまかに顫(ふる)へゆく。
半ばくづれし、なほ小さき、
おもひおもひのそのゆめに。

あかき血しほはたんぽぽの
かげのしめりにちりてゆく、
君がかなしき傷口に
蟲の鳴く音も消え入らむ…………

あかき血しほはたんぽぽの
けふのなごりにしたたるや、
君がかなしき釣臺は
ひとり入日にゆられゆく…………

親友、中島鎭夫は何故自殺したのか。
秀才中島鎭夫は、早くからロシア文学に関心を抱き、独学でロシア語を学んでいました。この時期、皮肉にも日露戦争勃発と重なり、中島には事実無根の”ロシアスパイ容疑”がかけられます。しかも通報者は学び舎の教師だったそうです。
1904年(明治37年)白秋は故郷を捨て上京します。

北原白秋に関して私は、有名な詩歌をいくつか知る程度でした。横浜との関連も殆ど無いと思っていましたが、彼をさらに知るようになったのは白秋の門下生であり横浜に暮らした歌人、宮柊二(みや しゅうじ)との接点からでした。
No.33 2月2日 歌人が見上げた鶴見の空
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=590

横浜市鶴見区鶴見で暮らした宮柊二は、大正元年、新潟県魚沼の書店主の子として生まれ、白秋のように20歳で家業を捨て東京中野に移り、職を転々とします。
縁あって1935年(昭和10年)に白秋の秘書となります。目を患った晩年の白秋の口述筆記を担当するようになりますが、まもなく白秋の元を去り、川崎の大手鉄鋼会社「富士製鋼所(のちの日本製鉄)」に勤めることになります。
そして結婚を期に、鶴見に居を構え保土ケ谷疎開、召集を含め17年間を横浜で過ごします。出征し、会社員として働きながら歌人としての活動を続け、最終的には歌人として独立し労働者の視点で多くの詩を残しました。

では
北原白秋と横浜の接点といえば?
神奈川県の三崎、小田原での暮らしが彼の歌人生活で良く知られたことですが、横浜との接点はあるのだろうか?
と白秋の生き様を追ってみると、意外な横浜での接点がありました。
前置きが長くなりましたが、
今回は北原白秋と横浜の細くも劇的な接点を紹介、
する前に、白秋の人生はジェットコースターのような激変の連続、極貧と名声の中で数十回にも及ぶ<引っ越し>生活を送りました。
結婚は三度、都度相手の女性も彼にとって大きな転機となっています。
年譜をさらっと眺め、最初に気がついた「横浜」は
大正14年に横浜港から樺太・北海道に視察旅行へでかけたという記述です。
北原白秋のエッセイ「フレップ・トリップ」から
〈フレップ〉はコケモモ、ツルコケモモ、〈トリップ〉はエゾクロウスゴ
『(1925年(大正14年)8月)当の七日の正午には、私は桜木町から税関の岸壁を目ざして駛っている自動車の中に、隣国の王やアルスの弟や友人たちに押っ取り巻かれて嬉々としている私自身を見出した。それから高麗丸の食堂ではそろって麦酒(ビール)の乾杯をした。一同で選挙した団長が日露役の志士沖禎介(おきていすけ)の親父さんで、一等船客の中には京大教授の博士もいれば、木下杢太郎(きのしたもくたろう)の岳父(しゅうと)さんもいる。』
ここに登場する沖禎介は下記の番外編で紹介しています。
番外編【絵葉書の風景】ハルピンの沖禎介
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9546
彼の横浜時代は資料がありませんが、興味がある人物の一人です。

この旅行は、鉄道省が主催したもので、沖禎介の父親「沖荘蔵」氏を観光団長に選び、約二週間の旅でした。
戦前の国際港といえば、東日本は横浜でしたので、多くの渡航者が横浜港を訪れています。ワタシ的には弱い横浜ネタでした。
今回「評伝 北原白秋(薮田義雄)」に目を通す中、
横浜が登場する
「所謂 「桐の花事件」の真相」という謎めいたタイトルの中で触れています。
次回に紹介します。

第970話【絵葉書の風景】山下公園

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山下公園 船溜りに傘を差す和装の女性
神奈川県庁と横浜税関の塔が見える絵葉書。
1000話に向けて閑話休題ちょっと軽く流します。

この絵葉書は私の好きな一枚です。
携帯の待受画面にもしています。
風景
右側が岸壁で、現在氷川丸が係留されているあたりです。
撮影時期は横浜税関(クィーン)が建っているので昭和9年以降で、
(大横濱名所)のタイトルから戦前だろうと推測しました。

明治初期の海岸線(海岸通り)左側が仏蘭西波止場、右側が英吉利波止場
英吉利波止場=西波止場  仏蘭西波止場=東波止場

この船溜りは、幕末から明治期にかけて仏蘭西波止場と呼ばれていました。幕末、開港以来、フランス人の多く暮らすエリアで大桟橋ほどではありませんが小さな船着場があり、このあたりでヨットレースや水泳大会も盛んに行われた場所です。
関東大震災の後、震災の瓦礫を使って海岸通りに親水公園を整備、これが山下公園となった訳で、その際、仏蘭西波止場の構造を活かしてこの船溜りとなります。
<復興記念横浜大博覧会>
1935年(昭和10年)3月から5月まで開催
震災復興の博覧会ではこの「船溜り」前に無理やりクジラを運んできたけれども、すぐに死んでしまったという、現在なら大騒ぎとなった場所でもあります。

現在は埋め立てられて沈床花壇になっていますが、完全に埋めてしまうのは残念だったのか、船溜り部分を沈床とし花壇整備しています。
現在はどうなっているか?
<実際に訪れてみてはいかがでしょう>

■山下公園船溜りの風景
手元にある絵葉書を調べてみると
いくつか「山下公園船溜」が写っている風景がありましたので紹介します。

さて
ここまでは「山下公園」を説明する定型文でした。
この絵葉書で実は私が気になるのは、
<白い傘の女性>!よーく見ると結構派手な着物です。
ではなく、左遠景に写り込んでいる丘の風景です。
絵葉書を眺めると背景に丘陵が写り込んでいるのが判ります。

少し拡大

手前の近代資産
右手に建つ県庁の塔屋高は48.60m
  開港記念横浜会館が36m
  横濱税関が51m
さて?いわゆる三塔の奥に見えるこの丘は野毛山なのだろうか?
先ず地形的には 野毛山しか考えられないのですが、妙に存在感がある点、少し疑ってしまいたいのがヨノツネ。
たぶん 野毛山は 高いビルがなにもない時代は このように見えたのでしょうね。

第967話 【市電ニュースの風景】1931年 №37・38

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№37    1931年(昭和6年)9月13日(日)から9月18日(金)
№38    1931年(昭和6年)9月18日(金)から24日(木)

1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を何回かに分けて読み解いている。
※「市電ニュース」は、車内吊り広報紙で、市内で開催される講演会、音楽会、展覧会、祭り、野球などの情報や、市政情報を乗客に伝えるメディアサービスとして掲載した。
№37は
 1931年(昭和6年)9月13日(日)から9月18日(金)まで
№38は
 1931年(昭和6年)9月18日(金)から24日(木)まで
【市電ニュースキーワード】
№37
■元町横濱プール
前回紹介
■山王町日枝神社(お三の宮)大祭
第968話【絵葉書の風景】お三の宮
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11786
「関外総鎮守お三の宮日枝神社」
http://www.osannomiya-hie.or.jp

■全国特産品國際市演芸開始
=芝居、茶番、洋楽、舞踊
※茶番=こっけいな即興寸劇。
江戸歌舞伎の楽屋内で発生し、18世紀中ごろ一般に広まった。口上茶番と立ち茶番とがある。茶番狂言。
■四号岸壁へ
明治後期から大正にかけて建設・整備されてきた「新港埠頭」には12号まで岸壁が設置されていた。その中でも外海に最も近く接岸しやすかったのか、四号岸壁が客船用に多く利用された。

終戦後米軍が占領のため兵士が続々と上陸した岸壁も四号だった。

■神奈川県文化展覧会・物産陳列会
=東京三越本店四階にて=
現在も東京で地方PRブース、物産展が開催されるが戦前も県物産展が開催された。
何が展示されたのか、知りたい!

№38
■暁鳥 敏(あけがらす はや)
1877年〈明治10年〉7月12日〜1954年〈昭和29年〉8月27日
真宗大谷派の僧侶、宗教家
http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kankoubunkabu/bunkasinkou/senzin/akegarasu.html
■横浜公園
横浜公園は、開港してまもなく遊郭ができた空間(港崎遊郭)が慶応の大火で消失し遊郭は移動。その跡地はしばらく放置、居留地の外国人から生活環境改善要求があり、土木技師リチャード・ブラントン設計による海岸から日本大通・横浜公園一帯が整備された。本質的な狙いは<防火帯>だったが、本格的な近代公園として、現在まで残る貴重な公共空間である。横浜公園は開園当時、我も彼もという意味で「彼我公園」と呼ばれた。園内には外人居留地運動場、噴水、回遊歩道などが整備された。
1931年(昭和6年)当時は※音楽堂 ※球場があり多くの人々に利用された。

No.78 3月18日 横浜公園に野球場完成

第956話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第一話

■■関連ブログ
第966話 【市電ニュースの風景】1931年 №35・36
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11764

第920話【市電ニュース】市電域と市電ニュース
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10847

【市電ニュースの風景】第一号その1
1930年(昭和5年)12月25日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7276

【市電ニュースの風景】1931年 №21
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7482

第968話【絵葉書の風景】お三の宮

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日枝神社正面

まもなく1000話になりますが、お三の宮はうっかり紹介していませんでした。
昔のお三ノ宮付近の絵葉書・地図を少し紹介しながら
「関外総鎮守お三の宮日枝神社」に触れます。
多くの方は「お三の宮」と略して呼んでいます。
関外総鎮守の名からわかるように
横浜関外地区=吉田新田域の鎮守様です。
約360年前、江戸の木材・石材商の吉田勘兵衛が、深い入り海部分を干拓する願いを幕府に出し、新田事業に成功します。この「吉田新田」の鎮守(守り神)として、寛文十三年 (1673年)に建てられたのが「関外総鎮守お三の宮日枝神社」です。
なぜ「お三の宮」なのかは諸説あります。
(1)お三の宮の旧社名である「山王社」が転詑して、「山王(さんのう)の宮」から「おさんのうのみや」「お三の宮」になった。
(2)お三の宮は江戸赤坂の山王社からの勧請で、日吉大社→東京赤坂の日枝神社→お三の宮、と三番目にあたる。
(3)江戸の山王社は、近江日吉山王二十一社の中の、大宮・ニノ宮・三ノ宮であるから、お三ノ宮もその分霊を祀ったので。
以上は「山王」に関係するもの。
(4)明治初期の古地図には、お三の宮の位置に、「お産の宮」と当て字をしたものもあり、お産の信仰があったのではないか。
(5)古田新田埋立ての際の人柱「おさん」を祀ったので。
(4)(5)は庶民信仰の中から呼ばれるようになったようです。
定説となりそうなのは「山王社」の<さんのう>→<おさんのう>
このあたりではないでしょうか。

「お産の宮」と表記された地図

日枝神社には<池>がありました。
明治から大正時代の地図をみると日枝神社裏には大きな池がありました。
現在はどうなっているか?
吉野町市民プラザになっています。

日枝神社は古くから猿が神様の使い「神猿(まさる)」信仰がありました。
中世から近世にかけて山王信仰のなかでサルは神の使いとしての役割を担うとされ、
外部からの侵入を排除して村内を守る役割や、音から難がサル、「神猿(まさる)」は勝るに繋がるとして縁起物となりました。

猿面を被った姿が確認できます
狛犬の位置に注目してください。人物と比較して非常に高いことがわかります。

日枝神社周辺の風景

第966話 【市電ニュースの風景】1931年 №35・36

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市電ニュース35
市電ニュース36

1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を
何回かに分けて読み解いている。
※「市電ニュース」は、車内吊り広報紙で、市内で開催される講演会、音楽会、展覧会、祭り、野球などの情報や、市政情報を乗客に伝えるメディアサービスとして掲載した。
№35は
 1931年8月29日(土)から9月4日(金)まで
№36は
 1931年9月4日(金)から10日(木)まで
【市電ニュースキーワード】
■元町横濱プール
元町横濱プールは1930年(昭和5年)5月20日に完成、6月1日(日)に開場式が行われた。夜間施設を持っていたので開場の翌月(7月)には日本初の夜間水上競技会が開催された。現在は「元町公園プール」と呼ばれている。
水源は井戸水を使っていたためにかなり冷たく真夏でも凍る!プールで有名だったが現在は<水道>で温かい?!。
戦後1946年(昭和21年)3月1日に米軍に接収され「オリンピックプール」とネーミングされ1952年(昭和27年)に解除、返還された。

戦前の元町プール

■9月1日は震災八周年記念日 久保山で慰霊祭
 記念日はめでたいものに対するものだと思っていたが、記念とは忘れないぞ!ということなので震災を忘れないぞ!ということだろう。

■日本郵船 日枝丸出航
 新港埠頭 四号岸壁 シャトルへ(特別シャトル便のことか)

■4日 朝鮮音楽と舞踊の会
 第二隣保館

■横濱洋画展覧会 横濱興産館
第694話【一枚の横浜絵葉書】「桜木町横浜市授産所ノ偉観」

■満蒙問題講演会
 和田亀治 元第1師団帳陸軍中将
 (わだ かめじ)大分県出身、陸軍士官学校(6期)陸軍大学校(15期)
 日露戦争に第1師団参謀として出征。
 1928年(昭和3年)8月29日、予備役へ。帝国在郷軍人会副会長。

■日本郵船 秩父丸
 大桟橋C発 桑港へ
 秩父丸は1939年(昭和14年)1月に鎌倉丸と改名。

詳しい本文は画像で確認お願いします。
★同時期の出来事
8月29日(土)
 濱口雄幸 前首相告別遥拝式 民政党県本部で執行
 ※1931年(昭和6年)8月26日 東京駅で銃撃され、それが遠因で死亡。
 横浜市、市内9箇所でルンペン※調査実施。
(総数224人。内女性4人、子供3人)
  ※浮浪者。また比喩的に、失業者。本来《ぼろ切れの意》
9月2日(水)
 <朝鮮古代音楽と舞踏の会>横浜公園音楽堂で開催。
 ※市電ニュースで告知の「朝鮮音楽と舞踊の会」第二隣保館
  と同じものか? 会場変更になったのか 別のものか不明
9月4日(金)
 銀座のカフェ・バー<クロネコ>が女給150人を引き連れ伊勢佐木町に進出
9月5日(土)
 第1回女子中等学校水上競技大会開催。
9月6日(日)
 戸塚町矢沢に野球場が新設された。
9月7日(月)
 空の英雄、リンドバーク夫妻来浜。市民の熱狂的歓迎を受ける。
 夫妻は数日間、東京で過ごす間、日本政府機関との打ち合せの合間をぬって、リンディ夫妻は横浜市民の好意に感謝の意を伝えるために訪れた。

No.251 9月7日(金)リンディ夫妻の喜び
 

■■関連ブログ
第920話【市電ニュース】市電域と市電ニュース

【市電ニュースの風景】第一号その1
1930年(昭和5年)12月25日

【市電ニュースの風景】1931年 №21

1931年(昭和6年)5月21日から27日まで

第961話 8月1日(水)

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1000話まで後40話となったので、力まずブラブラ書いていくことにしました。
そもそもこのブログは私が<横浜>を一から学ぶ、確認していくという作業の一つとして始めたものです。1000話まではこのスタンスで進め、それ以降はじっくり深掘り横浜を始めたいと決めました。そもそもが自分にノルマを与え、プレッシャーをかけ、書いていく作業を始めた第一話が
No.1 1月1日(日) 奇跡の1998年(前半)

これはネタとしてもかなり劇的な始まりでした。
ということで、
今日は8月1日
手元のネタ帳から
1896年(明治29年)8月1日の今日、大桟橋のたもと、後の山下公園脇に位置する海岸通一丁目に、「神奈川県測候所」が設立されました。
1923年(大正12年)の関東大震災により被災消失し、1927年(昭和2年)に現在の横浜地方気象台のある場所に移り再建され11月から観測業務を開始しました。
海岸通りに測候所があった風景は、当時の絵葉書に多く残されています。


2018年の夏は、7月梅雨が明けるかどうかの時期から熱帯状態が続いています。多くの人が天気予報やニュースから連日続く暑さにうんざりしているところですが、この情報の源泉は”気象観測体制”がしっかり整備されているからに他なりません。
現在気象庁は国土交通省に所属する組織ですが、気象観測の重要性は明治以降意外と冷遇されてきた経緯があったようです。
近代国家を歩み始めるにあたり、国家運営上必須の情報が<国土情報>でした。土地の正確な把握は税制の根幹であり、国防の基礎でもありました。
明治政府は
1871年(明治4年)7月工部省に測量司を置き、東京府下の三角測量を始めることにしました。国土を測量するために外国人技師の力を借ります。
測量・土木・鉄道等に関しては当初、英国から多くの技師が来日しました。
横浜で言えば、ブラントン、パーマー、そしてモレルの名が出てくるでしょう。
1870年(明治3年)に来日した英国人H.B.Joyner(ジョイネルまたはジョイナー)は、京浜間の鉄道布設に係る測量がミッションでしたが、彼は気象観測の必要性を明治政府に建議します。
日本には、西欧諸国が驚く正確な測量力を江戸時代から認識していましたが、インフラ整備をするための精度と国全体の詳細地図のモジュールを求めました。
一方で国を管理するためにも地図が必要で1873年(明治6年)に設置された内務省は早速「地理寮」を置きます。工部省がインフラのために始めた外国人技術者による測量部門は一旦ここで内務省に移管されることになります。
ただ ここに日本近代化の欠点が露呈します。河川・灌漑・護岸等に関係することは<測量>も含めて工部省管轄のオランダ人技術者たちに委ねられます。
チグハグさを簡単にまとめておきます。
1869年(明治2年)民部省に戸籍地誌掛設置
 同年、北海道開拓使ではアメリカ人技術者の下で三角測量が始められた。
1870年(明治3年)同省に地理司測量掛設置。工部省が民部省から分離。
 十寮一司が設置される。
1871年(明治4年)大蔵省と合併。租税寮地理課が設置。租税用の地図作成に乗り出す。
 同年 大蔵省と合併する前の民部省に山林局が置かれ山林・地形測量が始まる。
 同年 工部省は三角点設置の測量を開始する。
1872年(明治5年)8月日本最初の気象観測所、北海道函館に開設。
1873年(明治6年)5月工部省測量司が気象台設置を決定。ロンドン気象台長に気象器械のあっせんを依頼。翌年観測機器を携え、技師が来日。この時、地震の多い日本ということで、気象器械とともにイタリアから地震計を調達した。
 同年11月10日大・大蔵省への反発が強く内務省が分離設置。
1874年(明治7年)工部省の測量・地図事業が内務省測量司に移る。
 内務省地理寮となりそこに地質関係を調べる部門が登場。
1875年(明治8年)三角測量の所管が内務省地理寮に移り「関八州大三角測量」開始。
 同年 機器の取り付けが完了し、東京気象台が日本初の気象観測を始める。同時に地震観測も開始する。
 ※観測場所は内務省地理寮内。現在の東京都港区虎ノ門
1877年(明治10年)指導にあたったジョイネル帰国後、伝習生だった正戸豹之助が日本人観測主任に就任。
1881年(明治14年)内務省地理局地質課が農商務省農務局地質課となり
 鉱山技術に強いドイツ人技術者の指導を受けることになる。地質図の基礎となる地形図作成が、ドイツスタンダードで進められる。
 同年、内務省地理局から五千分の一「横濱實測圖」発行。

明治14年迅速図全体図(市立図書館蔵)

明治14年迅速図宮崎町付近拡大(個人蔵)

1883年(明治16年)ドイツ人技術者クニッピング(E.Knipping)の指導で毎日1回午前6時の気象電報を全国から収集できるようになった。
1884年(明治17年)陸軍参謀本部測量局、一等三角測量を開始。
1887年(明治20年)東京気象台が「中央気象台」と改称される。
1895年(明治28年)4月内務省から文部省に移管。
そして
1896年(明治29年)8月1日 神奈川県測候所、海岸通一丁目に設立。
(その後の気象庁)
1943年(昭和18年)11月運輸通信省に移管。
1945年(昭和20年)5月運輸省に移管。
1956年(昭和31年)運輸省所管 気象庁となる。

だいぶ、気象観測から逸れましたが、
インフラ整備や、税制、地質調査、開拓等々様々な理由から測量や観測が始まり、明治中頃になってようやく全体の統一感がでてきます。

海岸通りの測候所風景に戻ります。
上掲の絵葉書の発行時期は確定できませんが、電信柱や建造物から前後関係は推理できます。全て関東大震災前の風景です。
現在はここにパイロットビルが建っています。
さきの時代の面影を現地に見つけることは出来ませんが、日本最大級の国際港だった横浜港の運行に欠かせない気象情報がこの場所で観測され、天気図となり活用された当時の様子を想像すると、周りの風景を含めて懐かしき良き時代だったという感傷に浸ってしまいます。
本日はこれまで。

その他の8月1日
1915年(大正4年)8月1日
神奈川県鎌倉郡に大正村が起立。
1939年(昭和14年)第6次市域拡張で横浜市に編入された4月1日に「大正村」は消滅します。現在は学校名や施設、住宅にその名が残されています。

No.214 8月1日 (水)開港場を支えた派川工事

No.214 8月1日 (水)開港場を支えた派川工事


二級河川「大岡川小派川 堀割川」完成の日です。

第960話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第五話

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今回は
横浜真景一覧絵図に見る「橋梁」を追いかけてみた。
明治期に大岡川で架橋された多くの<橋>は現在も少し位置の変更はあるものの残っている。運河が廃止されたことで消え去った橋梁も多いが、1974年(昭和49年)まで大岡川下流域は運河の街だった。

大岡川下流域橋梁図一部

横浜真景一覧

この絵図から橋梁部分をズームアップしてみた。

辨天橋

弁天橋風景

辨天橋は三連橋脚の桁橋で、片側に四つのガス灯がある。絵地図では片側三灯となっているが、概ね構造をとらえている。

初代大江橋

二代目大江橋

桜川・大岡川十字路

柳橋

都橋

都橋の袂に小屋が確認できます。邏卒所と思われます。現在もここは交番になっているので、横浜の中でも歴史ある<交番>といえるでしょう。

都橋・宮川橋

長者橋

たぶん大岡川長者橋

全く根拠はないが、一枚の撮影場所不明の横浜写真は「長者橋」ではないか?と推理している。明治四十三年時の横浜市域で川筋を調べてみると「横浜真景」での橋脚図が正確という前提で当てはめてみた。左岸に住宅、右岸に材木業、4つの橋脚あたりから「長者橋」が導き出された。
かなり乱暴な推理なので、新しいことが分かり次第 撤回!?確定!?どちらかへと向かうことになるだろう。

第958話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第三話

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初代横浜駅前の様子

「横浜真景一覧」には他のエリアとは異なり少々おざなりな描かれ方の初代横浜駅が描かれている。

初代横浜駅構内全景

横浜に初めて鉄道が開業したのは1872年6月12日(明治5年(旧暦)5月7日)のことだ。維新直後の明治2年には鉄道敷設が決定され、衣替えのように<近代化>が進んだ背景には、近世江戸期の文化・技術の奥深さがあったことを再認識しなければならない。
それでも相変わらず厳しい<攘夷思想>が渦巻く明治初期に全く経験値のない鉄道を設計・敷設・指導した英国人技師モレルに対しては改めてその偉大な成果、努力に敬意を表したい。山師の様な、詐欺まがいの外国人もいた中、優秀で正直、謙虚なモレルには感謝しかない。また彼を支えた日本人パートナー達の努力も同じく敬意を表したい。
中でも<現桜木町ネタ>的に紹介するなら、
鉄道敷設の起点となった<野毛浦地先海岸埋立地(吉田橋北詰から野毛浦.・石崎までの埋立)>は内田清七(京屋清七)の功績が大きく、彼の事業成功が無ければ、鉄道事業はこんなに早く完成していなかっただろう。高島嘉右衛門の功績が大きく紹介されている反面「内田清七」の名は鉄道発祥の地から殆ど消え去っているのは残念なことだ。大江橋も内田が請け負った歴史ある橋だ。
内田町を殆ど廃止したのは横浜町名史の汚点ではないか!
語り継ぐ人名はその功績に対し、残すのが後の人々の役割だと思う。
<吹上>
前置きが長かったが今回のテーマは、吹上。駅前の噴水に注目することにした。
この噴水も「内田清七埋地」に設置されたものだ。1891年(明治24年)に描かれた「横浜真景一覧」に登場する<初代横浜駅>前に大きな噴水がある。「吹上ゲ」と表示され、噴水脇にはガス灯らしきものが描かれているということは当時かなり珍しい噴水のライトアップも行われた証だ。
最初、地図上に発見した時「噴水か」「昔は吹上と言ったのか」という程度の認識だったが、この噴水は一体何時出来たのか?開業当初からなのか?という疑問が起こると
噴水好奇心の迷宮にはまり込んでしまった。
この噴水塔は1887年(明治20年)10月の近代水道創設を記念してつくられたものという資料があった。1887年時点では横浜市制前、神奈川県の管轄だった時期だ。
1889年(明治22年)に市制が施行され、水道事業が横浜市に移管されたのが翌年1890年(明治23年)のことだ。
ということはこの「吹上ゲ」の水源は横浜市の水道設備を経た道志の水ということだ。しかも新橋駅デザインのコピー的な評価を受けた初代横浜駅だが、駅前設計に関しては圧倒的に横浜駅のほうが素晴らしい。
新橋駅前にはこの「吹上ゲ」がない!(写真は現在の新橋駅舎レプリカ) 横浜駅は川に近く、海にも近い。そもそもの[港]に近い駅だった。
横浜駅を降り立った多くの乗客は、その開放感と潮の香りに新しい時代を感じ取ったに違いない。

横浜駅噴水

(余談)
古い噴水といえば「横浜公園の噴水」が有名だが、現在の噴水は1928年(昭和3年)関東大震災の復興事業としてつくられた?らしい。元々はブラントン設計時からだとすると1876年(明治9年)か?(資料未確認)
では噴水の歴史は?ということで調べ始めた。存外困難を極め、噴水の歴史に近づくには本格的に図書館通いが必要そうなテーマに膨張。今回は入口前の散歩にとどめておく。
■噴水(ふんすい)
池や湖などに設けられる水を噴出する装置、またはその噴出される水そのもののことである。広場や庭園、公園の装飾的設備として設けられることが多い。
日本の噴水に限り歴史的には、wikipediaを引用すると
「奈良県にある飛鳥時代の石神遺跡では、水位差を利用して水を噴出させていたと推測される須弥山像と見られる石造物と、石人像が発掘されている。石人像は異国人の風貌を持つ男女の老人が杯を持つ姿をした像であり、百済からの渡来人の技術によって制作されたものと考えられる。
日本で最古とされる噴水は兼六園の噴水で、1861年に前田斉泰が金沢城内に作らせたものである。当然、動力は使われておらず、高低差を利用した位置エネルギーのみで動いている。その他、長崎公園の噴水も装飾噴水としては古いとされる。」
ここで紹介された<長崎公園の噴水>が近代以降の最初の噴水ということらしい。
長崎諏訪神社に隣接して開園した長崎公園内に1878年(明治11年)ごろに建造された。
では横浜公園の噴水は何時か?
別な資料では
一番目がこの長崎公園
二番目が大阪箕面公園の噴水(開園は1910年(明治43年)11月1日)で
三番目が千代田区日比谷公園の噴水。1905年(明治38年)頃東京美術学校(現在の東京芸大)の津田信夫、岡崎雪声両氏に依頼製作したもの。
ということは、1887年(明治20年)完成のこの初代横浜駅前噴水は歴史に記録されていない?
それは変だろう!さらに調べたら
1879年(明治12年)東京劇場千歳座庭園に噴水がある<絵>があった。
この辺を調べるには
「1873年(明治6年)太政官布達第16号」が深く関わっている。
噴水の歴史に関しては もう少し時間をいただくことにしたい。
(つづく)

第956話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第一話

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明治中期に描かれた地図に「横浜真景一覧」という実に見事な鳥瞰地図がある。測量による近代地図的描法が取り入れられ平面図が主流になった時期の珍しい都市鳥瞰図である。

横浜真景一覧

この地図を詳細に見ていくと様々なことが見えてくる。今回から数回に分けてこの「横浜真景一覧」を徹底分析してみたい。
■都市鳥瞰図
近代の歴史をさかのぼる有効な資料に「写真」や「地図」がある。
近世以前にはほとんど無かった領域の史料の登場である。
「写真」や「地図」、
明治期まで遡ると現存する「写真」の数は限られてくる。地図も測量技術の輸入により正確な位置関係は判るようになったが、町の姿はなかなか見えてこない。
しかも横浜は震災と戦災を経て多くの資料が失われてしまった。
ここに紹介する「横浜真景一覧」は絵図である。作図なので作者のフィルターを通してどこかを<省略>しているのだが、描かれた<ところ>と両者に注目していくと、
この「横浜真景一覧」は都市景観を探る一級史料になる。
※調べた限り横浜真景一覧の<表現>に関する研究は少数しか見当たらなかった。
もっと多くの研究が登場することを期待したい。
■「横浜真景一覧図絵」の概要
「横浜真景一覧図絵J は1891年 (明治24年)尾崎冨五郎によって描かれた銅版画である。「佐野冨」という版元として販売され大変人気を博した江戸職人の技が凝縮された絵地図の代表作といえるだろう。
尾崎富五郎は木版を使って”地図一筋”に生きた職人でこの「横浜真景一覧図絵J は最晩年の<銅版画>で「尾崎はその人生の中で,多くの横浜の絵図を手掛けている。「 横浜真景一覧図絵」までの尾崎の絵図には詳細な建造物の記載はないが,ここには詳細な建造物の様子が描かれており,開港後に浮世絵師たちが描いた横浜の絵図を回顧したようにも思われる作品である。(乙部純子)」
おそらく歩測を重ね、実地見聞を元に「風船ノ上ヨリ望シ如ク市中ノ景色名所」と書かれているように、都市鳥瞰図の傑作に仕上がっている。
横浜が開港し、居留地が形成され多くの外国人、日本人に人気があったのが横浜風錦絵だった。多くの店が立ち並び版元の「師岡屋」「金港堂」「錦誠堂」等が<江戸>から<横浜>に進出し短くも艶やかな“横浜浮世絵時代”が築かれた。
明治に入り横浜浮世絵人気も落ち着いた頃「野毛村」に店を構えたのが「佐野冨」こと錦誠堂・尾崎富五郎で、この「横浜真景一覧図絵」は冒頭でも説明したように全てが正確に描かれている訳では無く、ところどころ絵師としてのデフォルメも見られる点が興味深い。
まずどのくらいの正確さなのか、全体のスケール感を掴むためこの「横浜真景一覧」を現在の関内エリアの地図と重ねてみた。

現代と重ねた図

どうだろう、関内外の運河のスケール感はピッタリ。道路の幅や街区のズレはあるものの、概ねこの町の姿を描き出している。 おそらく当時発行されている居留地図を元にしてトレースしてからスケッチに入ったのではないか?と
当時有名な1888年(明治21年)末発行の ”The Japan Directory”をトレースして重ねてみた。地図の軸線となるだろう横浜公園を基準に運河の位置や桟橋の位置を比較したが明らかに異なるので、これを参考にしてはいないと思われる。 現在のマップとの比較では、
<関内エリア>は正確だが、関外になるとかなり方角にズレが生じているのがわかる。ただ伊勢山の描写等から関外の描写も内容に関しては丁寧に観察されていることがわかる。利用者にとって当時としてはかなり正確に感じられたのではないだろうか。
(つづく)