9月 8

第911話 中世の横浜を理解する(1)

近年、横浜の近世以前が丁寧に解説されるようになってきました。確かに開港一辺倒の横浜史が多い時期もありました。
今年は吉田新田完成350年ということもあり、近世=江戸時代に少し光が当たっています。
さらに時代を遡って中世の横浜は?
横浜市域が武士の時代を迎える頃が中世の始まりですが、調べ始めると知らないことばかりでした。まず、入門ということで、中学生の副読本を読み始めました。これがかなり<難解>というか複雑な関係を簡単に表記しようとしているためか、一読では中々内容が理解できない内容でした。
私の理解力が低下していることも理由にあげられますが、中学生のレベルでもかなりハードルが高いのであなどれません。
私、中世日本の一般的な歴史知識は無く、高校での授業も殆ど記憶にありません。最近、近世史以降は少し学び始めていますが、中世というと真っ暗なのが現状です。
西洋史では<中世>は暗黒なんて言われていた時代があります。それはさておき、横浜市域の中世をざくっとレビューしてみました。
まず、そもそも論から。
ここが私の<困った>ところです。
古代から中世への分岐点(画期)は、律令制の行き詰まりにより武士が力を持った平安末期とするのが一般的のようです。平安末期、院政が始まり「保元・平治の乱」で平清盛が太政大臣に就任し、武家政権が成立したあたりからが中世ということです。
古代から、東国は良馬の生産地でもありました。※

平安時代末期に天皇家と摂関家による家督争いが表面化し実力行使が行われるようになってきました。この実力行使に、源氏・平家の武士団が動員され、地域に生きる豪族・武士団が政権存続に関わるようになりました。ここに東国の地方豪族=武士団が次々と登場するようになります。
横浜市域は武蔵国・相模国にまたがっていますから、「武蔵国武士団」「相模国武士団」が中世の重要登場人物となっていきます。
□五畿七道(ごきしちどう)
古代律令制度の時代にはその後の日本に影響を与えた様々な国家制度が作られますが、中でも地域区分を行うことで、国の政治制度を支えました。
五畿とは「畿内」ともいい、大和、山城、摂津、河内、和泉の五国。
七道とは全国の大きな行政区分で、東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道のことです。地域区分により街道も整備され現在もこの七道は<道>としても活きています。以後、鎌倉幕府は「鎌倉道」を整備し、近世・近代に至るまで、国家は道作りの歴史でもありました。
武蔵国武士団は「東山道」に属していましたが、東海道東部、相模国武士団とも大きく関係するようになり人的交流が生まれます。同じ武士団でも
この頃、北関東一帯の有力武士団であったのが秩父一族です。帷子川流域の榛谷氏、鎌倉幕府の有力御家人となった畠山氏の畠山重忠らは横浜市域で活躍した秩父一族です。
□里山の風景
古代から中世にかけて形成された集落が現在の里山集落の原型・原点となっています。河川下流域に大きな集落が生まれるのは近世以降で、中世の集落の殆どが<谷戸><山間地>の村でした。海側の集落では漁業を生業とする漁村も誕生します。
現在の桜木町駅近辺は野毛浦と呼ばれた磯場で、江戸湾人気のマナコ漁が盛んに行われていました。歴史でクローズアップされるのが<戦(いくさ)>ですが、戦の場となるのが集落の拠点と成る山城です。小机城、蒔田城、荏田城、高田城、神奈川城、青木城、佐々木城といった城群が中世には点在していました。といっても戦闘方法が変わる戦国時代以降の城郭ではなく、丘陵を活かした陣地という程度のもので十分だったようです。
中世と近世の分れ目(画期)は検地・刀狩りによる兵農分離といわれています。織田信長・豊臣秀吉が強力に推し進めた兵農分離以前は、戦う農民そして田畑を耕し生産活動を行っていた「もののふ」が軍事力の中心でしたので、田植えの時期や収穫期の<いくさ>は両陣営でなるべく避けたそうです。
中世は下克上「源平合戦」の始まりでもあります。
次回は 横浜を舞台にした<戦い>を眺めてみます。
※京都平安京から遥か離れた<東国>には良馬の生産地として天皇の直轄の<御牧(みまき)>が何箇所かありました。
(2)横浜の戦い  へつづく

8月 26

【横浜風景史】伊勢山皇大神宮

「関東のお伊勢さま」と呼ばれている伊勢山皇大神宮は、開港後の急激な近代化する横浜港の鎮守様として野毛山に1870年(明治3年)創建されました。
 【伊勢山皇大神宮】
所在地:横浜市西区宮崎町64
宮司は池田正宏さん。
祭神は「天照皇大神」。
http://www.iseyama.jp
もともと戸部村東部の伊勢山(現在の掃部山公園の東北端あたり)にあった大神宮を、1870年(明治3年)に当時の神奈川県権知事だった井関盛艮によって、野毛山(現在地)に遷座して伊勢山皇大神宮と称えました。「横浜の総鎮守」とも呼ばれ以降この一帯は伊勢山と呼ばれるようになりました。
社殿は1926年(大正12年)関東大震災で倒壊焼失しましたが、
1928年(昭和3年)に再建されまた。
境内には野毛の鎮守であった「子の大神」も祭られています。裏参道には水神宮があります。神殿は堀立柱の唯一神明造鋼板茸ですが、
2020年(平成32年)の創建150年を期に伊勢神宮の部材を用いて建て替えることになります。
これは中々の出来事です。
例祭日は五月十五日。
境内には他に「明治十年西征陣亡軍人之碑(明治一二年建立)」「以徳報怨」「蒋公領徳碑(昭和六一年)」「万葉歌碑(犬養孝書・昭和六三年)」などがあります。

一神明造鋼板茸の社殿
境内の風景
参道の風景
伊勢山 その風情は変わりませんが
周囲は 驚くばかりの変化です。

7月 2

第898話 【横浜・大正という時代】その2 大正時代

横浜の歴史にかるーく関心を持って10年、資料を調べ始めて5年。
腰を据えなければ!と思って3年になりますが 0からの学びは広すぎますね。
ということで
歴史の初学者として先生に<ご指導>をお願いしているのですが、
「あなたは初学者ではない。社会経験は歴史学に必須条件です。もうすでにこの条件はクリアしている」と息子のような歳の師に慰められています。
なぜ歴史学に<社会経験>が必要なのか おいおい紹介していきますが
今日は 横浜史を学ぶにあたって 時代区分が大切ですよ!!という話。
歴史書、歴史の教科書に目を通すと、時代区分がされています。
●●時代という区分です。今回も【横浜・大正という時代】としました。
一般的な歴史区分を大事にしながらも
自分なりの歴史区分を考えなさい!ということです。
テーマによっても歴史区分が変わってくるからです。
(一般的な区分)
・暦で分ける
19世紀から20世紀にかけてとか
大正から昭和にかけてとか
1930年代とか
※時系列比較するときに便利です。

・事件で分ける
戦間期(第一次と第二次世界大戦の間)
戦前・戦中・戦後(第二次世界大戦を指すことが多い)
革命以前以後とか震災前後 事件後、
※時代を変えた事件を軸に歴史を区分することは<事件>を捉える上で大切です。

(横浜を区分する)
横浜を考える上で、開港は外せません。特に開港の舞台となったことも大きいでしょう。
横浜史を<事件前後>二つに分けるとしたら?異論なく開港でしょう。
次に、私は「関東大震災」が横浜に与えた様々なインパクトは大きい要素だと考えています。
震災前後で横浜の人々の生活は大きく変わりました。災害の内容も東京や神奈川近郊とも異なる部分があり、横浜としての被災前後の政治・経済・社会はその後の横浜復興計画・都市間競争を踏まえながら変化していきます。
※東日本大震災も 震災前後として歴史を捉える時期が来るでしょう。
というところで、横浜史を学びながら<時代区分>を考える中、

(横浜・大正という時代)
ようやく本題に入ってきました。横浜を元号区分で俯瞰すると
大正時代は濃い時代です。
1912年(大正元年)〜1926年(大正15年)の15年間を大正時代と呼びます。
この間、1923年(大正12年)に起こった関東大震災は大転換期でもありました。
日本史において 大正時代の重要事項は
<大正デモクラシー>
<第一次世界大戦>
<ロシア革命>
<関東大震災>
横浜は被災地
などが代表的事件とされます。
横浜でも上記の歴史的要因の影響を大きく受けますが、特徴ある横浜での重要項目を列挙しました。

■横浜大正期(明治末期以降)の重要事項
横浜の大正期は近代化に伴う都市整備が始まった時期にあたります。
●都市計画の始まり
→小横浜から大横濱への計画が立案されます
1919年(大正8年)久保田周政(きよちか)市長は市区改正局と慈救課を設置し、都市計画と社会福祉を設置
1920年(大正9年)市区改正局→都市計画局 慈救課→社会課
横浜市の都市計画が本格的に検討されたのが大正初めのことでしたが、計画半ばで大震災が起こり挫折、0からの復興計画が始まります。→有吉忠一の横浜復興

■横浜市の大正期三大公営事業<水道><瓦斯><電気>
現在電気と瓦斯は民営事業となっていますが、横浜市は全国でもいち早く<瓦斯>を公営化、さらには電気鉄道も公営化します。
共に横浜の実業家高島嘉右衛門・安田善次郎らの事業を横浜市が引き継ぐことになります。
●横浜市内の水道第二次拡張工事期
→明治期に水源を山梨に求め、多摩川での水源紛争を避けた先見性のある横浜市でしたが
都市の急膨張は想定外でした。拡張に伴い、市民の飲料水の確保と何回も横浜を揺るがしたペスト・コレラ対策のための上下水道整備も急務となっていました。
No.217 8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い

No.89 3月29日 ペスト第一号もYOKOHAMA

●瓦斯エネルギーの転換期
市営瓦斯事業の整備
平沼瓦斯製造所(横浜市西区西平沼町 5-55)が1908年(明治41年)に完成、
現在相鉄線・東海道線沿線の平沼にある<ガスタンク>は明治に完成。大正時代の瓦斯供給を担います。
第二次世界大戦中に現在の東京瓦斯と新しい瓦斯会社を設立し
1944年(昭和19年)に瓦斯局が廃止されました。(市史Ⅱ)
平沼の瓦斯工場稼働により高島嘉右衛門に始まった<花咲町瓦斯工場>が配給所になります。→現在の中区本町小学校
●市電網の拡充
1921年(大正10年)に横浜市は経営難の「横浜電気鉄道」を620万円で買収し市営化を図ります。
市営化により第一期の設備投資が行われますが、関東大震災により設備の大半を失ってしまいます。事業としては初期設備投資と復興事業の二重負債を負うことになり、市電網の拡充に遅れが生じたことは否めません。

■民間経済の発展と挫折
●横浜開港五十年祭の開催
1909年(明治42年)に横浜は一つの節目を迎えます。
市を挙げて「開港五十周年」の式典を行います。ここにはもう一つの「開港五十周年」がありました。
明治期の薩長藩閥政治に不満を持つ人達と旧徳川家に関わってきた人達の動きの一つが「井伊直弼像」建立の動きでした。
開港の地、横浜で開港記念日に藩主井伊直弼の像を建立する計画が旧彦根藩士を中心に持ち上がります。詳しくは別な機会に紹介しますが、
政府(薩長出身)の大反対を受け開港記念日の除幕式は断念しますが、遅れて盛大に挙行されます。何故?横浜の地で「井伊直弼像」は建立できたのか?
横浜の大正時代を考える一つの出来事でしょう。
●民間の物流インフラの整備
横浜鉄道、横浜倉庫 他
→1905年(明治38年)
私鉄では京浜電気鉄道(後の京浜急行)が
品川(現・北品川)〜神奈川間開通します。
→1906年(明治39年)
横浜倉庫 横浜鉄道の姉妹会社として設立
→1908年(明治41年)
東神奈川駅〜八王子駅間(現在の横浜線)横浜鉄道が開業します。

●太平洋電信網の完成
横浜商工会議所(特に生糸商)が切望の日米電信網が完成します。
1906年(明治39年)8月1日
太平洋が通信線で繋がる。
第879話【時折今日の横浜】3月27日日米接続

No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って(加筆)
●工業化
京浜エリアの工業化 横浜は繊維貿易を基盤にした経済都市からの脱皮、
重工業都市への転換を図るため大正期から湾岸の埋立が急加速していきます。

7月 2

第897話 藤田雄蔵をめぐる物語

2015年11月5日Facebook掲載より転載・加筆・修正しました。
東京高円寺の古書店で一枚の絵葉書を購入しました。

「航研機」絵葉書

購入価格は200円。
一機の航空機が写っている戦前の絵葉書です。
今日はここで入手した昭和15年のスタンプがある航空機の絵葉書から辿る旅を始めます。

■「航研機」
写真のようにも、絵画のようにも見えるこの航空機は東京帝国大学航空研究所が開発した新型航空機で「航研機」と呼ばれました。この「航研機」で「周回航続距離世界記録」を樹立した記念絵葉書として発行されたものです。
宛名面には
「航研長距離機川崎特殊型700馬力最大速度280粁/時
乗員3名記録飛行距離11,651粁011飛行時間62時間22分49秒」
スタンプは
昭和15年(1930年)2月11日となっています。
・「航研機」スペック
全幅:28.00m
全長:15.06m
全高:3.84m
エンジン:川崎特殊液冷 700ps/1800rpm 巡航速度240㎞/h(飛行高度1000m)
総重量:9000㎏(乗員3名、食料、装備、燃料、オイル含む)
機体は不時着した際発見しやすいよう両翼が赤く塗られていました。
■飛行記録
「周回航続距離世界記録」に挑戦したのは
1938年(昭和13年)5月15日
ルートは<木更津飛行場→銚子→大田→平塚→木更津飛行場>の左回り。
結果は2つの長距離飛行世界記録を樹立しました。
●周回航続距離記録
1周401.759㎞のコースを無着陸で29周、
62時間22分49秒の飛行時間で
周回航続距離10,651.011km
●1万kmコース上の最速記録
1万kmコース平均速度186.192km/時という記録を打ち立てました。
この記録は、
国際航空連盟(FIA)によって公式に認定された記録で日本航空史に輝く偉業といえるものでした。
■時代背景
「航研機」が開発された昭和初期の時代

1937年 蘆溝橋事件が起こり日中戦争が始まる。
1938年5月5日は「国家総動員法」施行

アジアでの軍事的衝突と国際的緊張が高まる中、
この世界記録樹立は<国威発揚>にはうってつけのものでしたが、開発記録を読むと「航研機」を開発した<東京帝国大学航空研究所>の航空機基礎研究部門は当時の政治要因の影響を色濃く受け、厳しい条件下で記録に挑戦しなければなりませんでした。
陸軍と海軍、帝大を監督する文部省など、縦割りの弊害が有ったと読み取れます。
※資料1 開発当事者のエピソード、若干疑問符もありますが、
限られた予算とスタッフで世界レベルを目指した実験機の詳細なドキュメントでした。

研究所スタッフは
「ただただ世界記録のために総てをそれに徹した機体」を開発することに重点を置き、航空機としては極めて運転しにくい構造設計が推進され、操縦席からの前方視界が殆ど無い!?航空機が誕生することになります。
残念ながら樹立された記録は翌年イタリアのサヴォイア・マルケッティ SM.75機によって破られてしまいます。
開発過程や記録挑戦までのエピソードからは実にワクワクする技術開発の現場が見えてきます。横浜ネタからさらに離れてしまいますので航研機ドラマに関しては略します。
※※資料1をお読みください。

■飛行士
記録を樹立した「航研機」
視野が側面にしか無く<横を見おろしながら位置を確認>しなければならない構造でした。飛行性能を追求したあまり操縦性が後回しになった中での記録樹立、この飛行の成功は飛行士にあったと言っても過言では無い!と思えてなりません。
この資料を読み解く中で私はこの実験機に関わる<人間像>に関心をいだきました。
航研機乗員は3人乗りで、飛行チームは陸軍航空技術研究所のパイロット2名と機関士1名で構成されました。
※国の支援が無かった状況ですが 海軍は非協力的で陸軍航空技術研究所とは交流・協力体制ができていたようです。このあたりは、軍の経費節減に伴う陸海軍、陸軍内部の抗争も関係していたのではないか?と推理しています。まだ推測の領域ですが軍関係資料から意外な真実が判ってくるかもしれません。

「航研機」スタッフ
操縦士:藤田雄蔵(陸軍少佐)
副操縦士:高橋福次郎(陸軍曹長)
機関士:関根近吉(帝大技手)

■藤田雄蔵
操縦士藤田雄蔵(陸軍少佐)の経歴を調べていたところ、
彼は (少なくとも)幼少期を横浜で過ごしていたことが判りました。
「本籍青森県。日本郵船社員・藤田未類二の長男として横浜で生まれる。横浜一中卒を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、砲兵少尉に任官し野戦重砲兵第2連隊付となる。(wikipedia)」
別の資料では
「藤田雄蔵少佐(1898-1939)は周回航続距離世界記録を樹立した航研機のパイロットとして知られる。日本郵船社員の藤田未類二を父に、清美を母として、弘前市小人町12で生まれた。まもなく父の勤務の関係で横浜に移ったが、横浜では、今東光、日出海の両親も父が日本郵船の社員、母が幼なじみということで親しくしていた。横浜一中(17期)から陸軍士官学校(33期)に進み、昭和9年から陸軍航空本部技術部付のテストパイロットになった。」
また
森川肇『空の英雄藤田雄藏中佐』清教社、昭和15年刊では若干記述が異なっています。引用します。
「藤田雄藏中佐は、明治三十一年二月十九日、青森県弘前市で孤々の声をあげた。が、生まれるとすぐに横浜市神奈川区松ヶ丘町十四番地の藤田類二氏の養子となって横浜市に移った。従って小学校は西戸部小学校に入学し、続いて大正元年横浜一中の第十七期生として入学した。
中佐の父君は雄藏氏の今日を見ずして、さきにこの世を去った。その後は、亡父の親友であった横浜一中の校長木村繁四郎氏が、中佐の親代わりをつとめ、中佐の母と共に、その大いなる成長をみつめて来た。」
養子と記述されたり
また、親の名が「藤田未類二」または「藤田類二」と異なった表記があります。
父親「藤田類二」の点に関しては
大正十三年の新聞記事に「藤田未類二」が登場していて実在することが確認できています。
従って(wikipedia)「藤田未類二」が正しいのでは?と思われます。
藤田未類二が住んでいたとされる横浜市神奈川区松ヶ丘町十四番地から西戸部小学校に通うのは現実的ではなく
父親の仕事の関係で横浜市中区戸部(当時)にあった「日本郵船」の社宅に暮らしていたのではないでしょうか?
此の時に、伊勢町で育って西戸部小学校に通った同い年の今東光、弟の今日出海と交友があったと推察できます。
No.86 3月26日 老松小学校の悪童


『空の英雄藤田雄藏中佐』清教社には 他にも幾つか<粉飾><誇張>が見られます。

当時世界記録に輝いた藤田は、
その後日中戦争に出征し、1939年2月中国大陸で戦死します。

<第一中学>現希望が丘高校に通うために毎日のように水道道を上り下りしていた少年藤田雄藏の姿を、この道に重ねながら
一枚の絵葉書から 新しいドラマに出会えたことを感謝します。

<余談>
この航研機の翼及び燃料タンク、車輪カバーを担当したのが山本峰雄で彼は日本自動車界の基礎を築いた人物として歴史に名を残しています。
http://www.yamafami.com/cm/

※名称変遷を繰り返した第一中学・1899年2月6日神奈川県中学校
・1900年4月1日神奈川県第一中学校
・1901年5月7日神奈川県立第一中学校
・1913年4月1日神奈川県立第一横浜中学校
・1923年4月1日神奈川県立横浜第一中学校
・1948年4月1日神奈川県立横浜第一高等学校
・1950年4月1日神奈川県立希望ヶ丘高等学校

参考資料
資料1「航研機」世界記録樹立への軌跡 富塚清 著 三樹書房
資料2「藤田雄藏中佐」森川 肇 著 清教社

関係ブログ
1937年4月9日
朝日新聞社の国産機「神風号」、ロンドンに到着。94時間17分56秒の国際新記録を達成。
航研機に関して
No.692 世界一周機「ニッポン」(号)

6月 28

第895話 【横浜のミニ暗渠】新田間川緑道

横浜市内の小さな(短い)暗渠を紹介します。
今回はわかりやすい「新田間川緑地」です。
「新田間川緑地」は
帷子川支流の新田間川のさらに派川部分が暗渠になっています。
川の名称は運河となると少々面倒ですが、帷子川の派川の一つです。
ここは端から端まで簡単に暗渠探しできます。 起点(上流)は新田間川に架かる「新田間橋」脇の左岸から分岐し「新田間川緑地」の標識が設置されています。途中ビル街の合間を抜け、帷子川分水路出口にある「楠ポンプ場」まで暗渠となっています。ポンプ場の奥は「楠木町公園」、不思議な空間ですのでおヒマな時にお尋ねください。
話はそれますが、下水道局のポンプ場を探すとそこは<暗渠>のシグナルです。吉野町市民プラザ吉野ポンプ場(日枝神社大池)、桜木ポンプ場(桜川)などもかつては水路・池だった場所に設置されています。

もう一つ
新田間川(しんあらたまがわ)は、新田・間・川→新田と新田の間を流れる川という意味で名付けられたそうです。左岸側が岡野新田、右岸が安永新田・弘化新田にあたる場所です。まあ「しんでんあいだがわ」では呼びにくいですね。

この「新田間川緑地」はその昔、横浜駅西口一帯が埋め立てられた時期に排水路も兼ねて運河化しましたので「派新田間川」となりました。現在「北幸」と「鶴屋町」の境が運河で、上を首都高速三ツ沢線が走っています。
この「派新田間川」はある意味、嫌われ川で、何時暗渠化するのか<してほしい>という状況でした。
とは言え何年かに一度の<帷子川氾濫>への対策が求められる中、大規模の<分水路計画>が策定されます。
帷子川の中流部にあたる横浜市旭区白根1丁目付近で帷子川から分水し延長約 5.3kmのトンネルでつなぎ、ドブ川だった 旧派新田間川に接続、横浜駅東口あたりで帷子川本川に合流(総延長約 6.6km)する事業で 1997年(平成9年)に完成することで、死に体の「派新田間川」が生き返りました。
※それでも 帷子川はその後2度氾濫被害にあっていますので、自然は想定できないものだということを記憶しなければなりませんね。
※地図上の表記が「新田間川緑道」となっていますが、正しくは「新田間川緑地」です。訂正が面倒なもんですみません。
関連ブログ
【横浜風景】護岸・誤岸?

6月 12

第893話 山手警察小史

山手警察の歴史を中心に

※手元の資料で簡単に整理してみました。
神奈川県警察全体の項目も含んでいます。
●山手警察 現在の所在地
横浜市中区本牧宮原1番15号

【略年表】
1870年(明治3年)1月

神奈川に取締見廻役設置
横浜居留地に居留地取締役を置く
山手に屯所(取締局)を設置。

1871年(明治4年)
8月〜10月
陸奥宗光、神奈川県令就任により警察制度改革。横浜関内外の関門・見張所全廃。
県兵に代え階級制度による取締役(ポリスマン)を配置。
※取締役・邏卒・巡査 いずれもポリスマンの訳
12月
居留地の警察権回復「邏卒」制度完成(陸奥宗光)
神奈川県に邏卒課を設置。取締区域を五区に分け、会所詰邏卒を配置。
※陸奥宗光は神奈川県初代県令(明治4年〜明治5年)在任短期間だったが警察制度の大改革と行った。
その片腕となったのが大江卓(陸奥の後任、二代目神奈川県令)→大江橋

1872年(明治5年)
3月 東京府 神奈川県の「邏卒」制度に準拠。以後、全国基準となる。
  ※日本の警察制度の基本となる「邏卒」制度は神奈川(横浜)モデルだった?

1874年(明治7年)6月
邏卒本営設置(堺町二丁目)

1875年(明治8年)3月
行政警察規則 発布。

1875年(明治8年)11月
山手居留地に、山手警察署の前身である警察出張所が設置

1877年(明治10年)
警察出張所を警察署、屯署を分署と改称。
第一号警察出張所→横浜堺町警察署
第二号警察出張所→山手警察署
第三号警察出張所→横浜松影町警察署
第四号警察出張所→横浜長者町警察署
第五号警察出張所→横浜戸部警察署
第六号警察出張所→横浜高島警察署

1879年(明治12年)
山手居留地・山元町の所管、松影町警察署から山手警察署に変更。

1882年(明治15年)
7月1日
松影町・長者町・戸部町の三警察廃止、堺町警察署に統合。
堺町警察署を横浜警察署(後の伊勢佐木警察署)と改称。
横浜警察署に居留地警察署(後の加賀町警察)を設置
→山手警察署は居留地警察署 山手分署となる。

1884年(明治17年)
横浜警察署、堺町二丁目から伊勢佐木町25番地の新築庁舎に移転。

明治38年伊勢佐木警察署付近
明治38年伊勢佐木警察署

居留地警察署、堺町二丁目から加賀町通203番地に移転。

1893年(明治26年)12月
居留地警察署 山手分署 山手警察署の名に戻る

1895年(明治28年)12月
伊勢佐木町警察署 横浜市伊勢佐木町1丁目
戸部分署 横浜市戸部町一丁目
加賀町警察署 横浜市居留地加賀町
水上分署 横浜市西波止場岬
山手本町警察署 横浜市居留地山手本町
石川町警察署 横浜市石川町四丁目
日下分署 久良岐郡日下村笹下
神奈川警察署 橘樹郡神奈川町青木
川崎分署 橘樹郡川崎町新宿
高津分署 橘樹郡高津村溝口
都田警察署 都筑郡都田村川和
以下 略

明治38年

1897年(明治30年)
山手町に木造平屋の庁舎が完成(山手本町警察署)

1909年(明治42年)
山手本町警察署、煉瓦造りの2階建てに改築

1911年(明治44年)
4月10日「(タイトル)遠乗会寄贈品、自動車と衝突 八日午前十一時市内松影町四ノ一三五馬淵宇平が自転車に乗じて山元町一ノ一先街路に来かかりたり所前方より来りし外人四人乗りの自動車と衝突し自転車は滅茶苦茶に破壊されしより宇平は直ぐに外人を捕へて山手署へ同行を乞ひたるに外人は自分の名刺を同人に渡し自分は山下町二〇グランドホテルに投宿し居るなれば若し用があればホテルに来れよと云い捨てし儘立去りたるより宇平は直ちに山手署へ訴へ出でたり(横浜貿易新報)」

1923年(大正12年)
9月山手本町警察署、関東大震災で全壊、仮庁舎を本牧に置く。
11月山手本町警察署八幡橋分署(後の磯子署)設置。

1925年(大正14年)
10月1日山手警察署 本牧町に新設。

昭和9年山手警察署

1926年(大正・昭和)
八幡橋分署が八幡橋警察署(後の磯子署)となる。

1945年(昭和20年)
山手警察署、横浜大空襲での全焼などによる幾度からの移転
大鳥国民学校→本牧国民学校→横浜授産所

1965年(昭和40年)
5月新庁舎完成。現在の場所に移転。

1994年(平成6年)
山手警察署 新庁舎竣工。

6月 8

第892話【ある日の横浜】東口「横浜ホテル」

ここに在る日の横浜の風景写真があります。

横浜ホテル

この写真は、かつて横浜駅東口にあった「横浜ホテル」と帷子川の風景です。
撮影年は確定できませんが昭和24年頃と推定しました。
東急電鉄がこのホテルを買収する直前か、買収後で改装前のものと思われます。
万里橋の上から国道1号線が通る築地橋方向を撮影しています。その先は当時の「表高島町」操車場にあたります。
このホテルは現在、東急グループの神奈川都市交通が経営するガソリンスタンドとなっています。
横浜ホテルと東急の関係は以前ブログで紹介しましたので参照ください。
1954年(昭和29年)6月30日東口「横浜ホテル」
もう一枚この近所が同時期に撮影されている写真も紹介します。

横浜東口高島通商店街

万里橋の袂で現在、裏高島の面白い飲食店が集まるエリアです。
横浜大空襲を経て終戦となり復興が始まった「高島通商店街」の様子が垣間見ることができます。ここ「高島通商店街」は80年代までは賑わったエリアです。90年代に入り高島エリア(みなとみらいエリア)の空洞化に伴い刃毀れ状態となっていて衰退。
横浜駅の中心が”東から西”へシフトし減退エリアの象徴のようになってしまいました。
写真正面に見える「三共商会」は最近までこの地で運輸業を営業していましたが、移転したようです。

実はこの場所が<高島町2丁目>裏高島エリアだと確定したのは
「三共商会」の奥に「神奈川県製パン協同組合」のビルを確認できたからです。

横浜駅東口エリアには
豆腐会館
神奈川県製パン協同組合
神奈川県印刷組合
など 様々な業界の組合ビルもありました。
※豆腐会館は現在もあります。

このエリア活性化の動き
裏横浜地域活性化プロジェクト urayoko net
http://urayoko.net
ちょっとデータが古いですね。
一時期<裏高島>で頑張ったていましたが
さらに
もうひと踏ん張りして欲しいですね。
2017年6月記す。

6月 3

第890話【横濱の風景】西之橋からみる風景

ふと気がついた疑問をFacebookにアップしたネタですが、結構反応があり改めて確認してみると面白いのでブログアップします。
昔の絵葉書や地図を少しコレクションしていますが、
絵葉書とマップを比較することはほとんどありませんでした。
今回のテーマは
【中村川】横濱西ノ橋川岸雪ノ景
横濱の冬景色の絵葉書は少なく風情のあるいい風景です。

この絵葉書に関してこれまで
下記のキャプションを用意してきました。
「中村川と堀川そして埋め立てられた派大岡川が交わるあたりを西之橋から見た雪風景です。現在は石川町駅と首都高速が川の上にありこの風景の面影は殆どありません。今の西之橋は大正15年に再建された震災復興橋の一つで画像上流には、中村川に架かる亀之橋が見えます。昔の美しい景色が写る貴重な運河の風景です。」

ここで遠くに見える橋を中村川に架かる「亀之橋」とばかり思い込んでいました。根拠は「横浜絵葉書」関連書籍に同じ風景が収録されていて
「亀之橋」とあったので検証しなかったからです。
ところが実際「西ノ橋」袂に立ってみるとここから亀之橋を確認することはかなり厳しい角度にあります。
奥に見える高架は根岸線、その奥が 「石川町駅前歩道橋」です。
1960年代に首都高工事で「派大岡川」を埋め立てた際に少し中村川の川筋が変わった可能性もあるので、過去の地図を幾つか探し出してみることにしました。

大正11年
昭和2年

見えないこともない?色々探してみると 発見したのがもう一つの橋でした。
「亀之橋」と「西之橋」の間にもう一つ橋が架かっている地図があったのです。
現在の根岸線の石川町駅前歩道橋あたりに架かっていたようです。
<ようです>というのは
この謎の橋が表記されていない地図もあったからです。戦前の地図、少なくとも橋に関しては、<謎の橋>が時折現れます。ここにもう一枚、陸軍測量部迅速図明治41年発行「横浜」を拡大しました。陸軍の迅速図の場合、要素が欠けている場合がありますが、余分な情報を付け加えることはありません。西ノ橋と亀之橋の間には橋が確認できます。
さて?
この橋の名は。地図上にも橋梁名が記されていません。
仮に<石川町橋>とでもしておきましょうか。
解明はこれからです。

さらにこの地図から新たなる疑問が。「堀川」ではなく「中村川」になっています。正式に堀川は何時から呼ばれるようになったのでしょうか。(2017.09追記)
また宿題が増えました。

5月 2

【横浜の風景】元町百段坂を数えてみた!part2

関東大震災まで元町に「百段坂」がありました。
以前このブログで、
「百段坂」は俗称で実は?101段である。
実際元町百段坂を数えてみました
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9211
結果
やはり101段だろう という結論におぼろげながら達しました。
まあ「101段坂」よりはすっぱり「百段坂」が良いでしょうね。
今回
画像に不明な点もあったので新しい画像を元に
再度「百段カウント」に挑戦してみました。
元になった写真

これを拡大し階段を一つ一つ確認していくと
出てきた不明点があります。
(第一の不明点)
最初の一段はどこだ?
階段の始まり、小学生とおぼしき少年と愛犬らしき動物の後に段差があるように思えます。スロープににも見えますが、段にも。

ここは0段、グランドフロアみたいなものか?

以前Part1に使用した写真の0段付近を拡大してみることに。

段差があるようなないような。あるといえばある。
ただ、
Part1は明治初期(電信柱も電力柱も無い頃)と思われるので、階段下は整備されてまもなくのころで<登る人>も少なかったのではないか。

Part2の写真では30個の碍子「電信柱」が写っていますので明治中期以降だろうろ推理できます。

(第二の不明点)
ちょうど90段目あたりの段差が確認しにくいのですが、高くなればなるほど段差は狭く見えるはずなので91段目をカウントしました。

【結論】
結論はやはり101段が正解のようです。
なんだ! ということですが、百段坂の時代変化も少し確認できたので<良し>としておきます。

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4月 30

第887話【大桟橋の風景】旅立ちの日

空港は<そらのみなと>、
人類の歴史は<水の港>から始まりこの歴史の方が圧倒的に長いが、次第に<水の港>は遠くなっていく。
今でも船出には
今生の別れとなってしまうかもしれないという思いが漂うのは何故だろう。
だから見送りにも特別な感情が流れるのかもしれない。

そういえば最近
<旅立ちの見送り>が激減した。

小学生のころ、横浜大桟橋から親戚を見送った記憶が焼き付いている。カルフォルニアの仏教寺院に<僧侶>として骨を埋めることになり、移民としてアメリカに向かう家族を親戚と見送ることになった。私はことの重大性には気づいていなかったが、母が泣く姿を覚えている。
この時、船側から知り合いを見つけてはテープを投げる見送りの儀式が始まる。桟橋では風に流されながらも飛んでくるテープの片端を追い求め、つかの間のつながりと別れを味わう。
今でも
テープがプツンと切れ、切れ端がフワッと浮き上がっていく感触が残っている。

<絵葉書に見る大桟橋>
ここに大正期を中心に船出風景の絵葉書を紹介する。
戦前、横浜港が果たした役割は大きかった。首都圏、さらには東日本の国際港として外国との窓口となっていたからだ。
横浜港からは<移民>も多く旅立った。
留学、赴任、視察、商談、遊学 他
戦前の日本を支えたキーパーソンは横浜港に一度は立っていた!といっても過言ではない。

大さん橋誕生、港の核芯(戦前編)

大さん橋の見える風景

第818話【横浜2345】大横浜の時代

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