12月 26

汽車道は三線あった

汽車道は近年人気のプロムナードで、土日休日は行列のように通行人が繋がる。桜木町駅前から新港埠頭を繋ぐ約500mの遊歩道で、感覚的には「赤レンガ倉庫」がゴールのように感じられるが、手間で終点となる。
大正期に完成した新港埠頭倉庫群(赤レンガ倉庫他)と当時の横浜駅を繋ぐために整備された鉄道路線で
当初の計画書には「横浜鉄道海陸連絡線」(以下連絡線)とある。この「連絡線」、現在の横浜線と深い関係にあり多くのエピソードを持っているが、詳しくは別の機会にしたい。
ネット検索でもかなり面白い説明に出会える。例えば京急(京浜電気鉄道)の高架化顛末
この連絡線「汽車道はもともと「ウィンナープロムナード」と呼ばれていた(wikipedia)」
 とあるが俗称で正式名称では無かったと思う(資料無し)。税関線と呼ばれていたこともある。 
連絡線は複線仕様で新港埠頭に入って複数に分岐していた。その中で、主に日本郵船が使用していた4号近くに現在もプラットホーム跡が残っている。
と思っていたが、資料を漁っていたら、少し状況が異なっていたようなので、この点だけここに紹介しておく。連絡線は汽車道と呼ばれるように戦前は貨物を中心に、客船の乗客も<汽車>で運搬していた。
さて、この汽車道に線路は何本あったのだろう?単線だったのか複線だったのか?現在は単線がモニュメントとして残されているが、資料から私は複線だったとしていたが、実は一部<三線>だったようだ。

上記写真地図は主に戦後接収時代の頃で、新港埠頭に近いところの島状になった所まで単線らしきものが伸びているのが解る。ここには上屋らしきものがあったことが伺える。近辺に多くの<艀>が係留されている。なんらかの作業場であったのだろう。
別の証拠は無いか?探してみた。昭和9年の新港埠頭図が見つかった。

昭和九年新港埠頭入口

昭和九年の横浜税関資料では 確かに三線となっている。
では 途中まで伸びている単線の役割は何だったのだろう。荷物の積み降ろしのための護岸(桟橋)用だったのだろうか?


汽車道略年表
1915年(大正4年)東横浜駅開設。
1920年(大正9年)7月23日 日本郵船 香取丸 出航時にボートトレインとして旅客をはじめる。 東京からの初の乗り入れとなる。主に北太平洋航路の客船が現在の海保、赤レンガ倉庫に面する<3号・4号ふ頭>を利用。(〜昭和17年3月まで)
1945年(昭和20年)港湾部新港埠頭接収
 戦後日本郵船は氷川丸以後客船部門から撤退し客船飛鳥で復活。
1950年(昭和25年)〜1953年(昭和28年)
 朝鮮戦争用に旅客輸送として使用
1952年(昭和27年)に返還。
1957年(昭和32年)8月 戦後唯一残った貨客船「氷川丸」
 出港時にボートトレイン再開。
1961年(昭和36年)氷川丸の最終航海時まで旅客運送が行われていた。
この時期、港湾経済は「船混み」状態をどう解決するかが最大の懸案事項。
政府方針「国民所得倍増計画」の下に横浜港第一次港湾整備五か年計画(〜昭和40年)によりふ頭整備計画が実施される。
※氷川丸は現在の係留地、大さん橋から出航ではなく、新港埠頭
1962年(昭和37年)3月 正式廃止
1964年(昭和39年)5月 根岸線磯子まで延伸。6月高島線全通。
1965年(昭和40年)山下ふ頭輸送力増強を目指し新港埠頭から山下公園を抜け山下ふ頭に繋がる「臨港鉄道」が景観論争を経て建設。
※港湾物流の変化(コンテナ時代へ)港湾経済の転換点その1
1973年(昭和48年)オイルショック 港湾経済の転換点その2
1986年(昭和61年)10月汽車道供用廃止
1997年(平成9年)に整備され「汽車道」となる。
JR桜木町駅前から新港埠頭を結ぶ約500mの区間を指す。

4月 29

【ミニミニ今日の横浜】3月19日

この【ミニミニ今日の横浜】はこれまで数年間集めてきた資料や年表から簡単にその日その日の出来事を紹介してきました。大体が過去の調査資料の範囲内で<料理>していましたが、
今回は ちょっと違うぞ! ちょっと待て!もっと調べたい。
という私にとってはかなりエアポケットに落ち込んだ感じたっぷりテーマです。
まず、19日テーマのブログは以前
No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=538
「慶応4(1868)年のこの日、明治政府が幕府から接収した神奈川奉行所を横浜裁判所に改めた。この横浜裁判所は、裁判だけではなく一般行政も行う現在の県庁に相当するものであることから、神奈川県庁ではこの日を「立庁記念日」としている。」
神奈川県庁の「立庁記念日」を紹介しました。

では 今回の3月19日テーマは
「横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図」から始まります。
「時」の風景(更新)
横浜の時報について紹介しました。
明治になり変わった新しい時刻、定時法(24時間を均等に分ける)をどうやって知ったのか?

その時 港では<報時球信号>を使い、市中は時の知らせ(時鐘のゴーン)で時間を知り居留地では本町通りの角に建った<横浜町会所>の「時計台」とそこに備えられた<梵鐘>の音で時間を知らせました。
という話です。
この横浜町会所の梵鐘について調べる際
「横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図」が当然 往時の姿として登場します。
この「時計台神奈川県全図」の作者<歌川国鶴>が今日のテーマです。
前置きが 長くなりました。
1878年(明治11年)の今日3月19日
江戸時代後期に活躍した浮世絵師<歌川国鶴>が横浜関外最初の町「吉田町」で亡くなります。73歳でした。彼は文化4年江戸築地に生まれ二代目歌川豊国に学びます。本名 和田 安五郎、「一寿斎」「一雄斎」などと号し晩年の安政6年(1859年)頃、横浜に居を移し絵草紙屋を開業、横浜絵・役者絵を得意として多くの作品を残します。
彼の作品は、1879年(明治12年)6月に来日したグラント元大統領が持ち帰った日本土産の中に何点か含まれていて、現在はホワイトハウスヒストリカル協会に所蔵されています。
No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=357
No.248 9月4日(火)坂の上の星条旗(後)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=356
No.248-2 9月3日 坂の上の星条旗 改題
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=84

このように 彼の作品に関わるテーマを追いかけていましたが、
「歌川国鶴」なる横浜浮世絵師は 全くノーチェックでした。
実は「歌川国鶴」から始まるドラマは この先からに面白い展開が待ち受けます。絵師、歌川国鶴には二代目を継いだ息子の歌川国鶴(嘉永5年(1852年)〜1919年(大正8年)2月4日)と娘のムラさんがいました。
歌川國鶴作「横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図」は初代と二代目歌川国鶴が共に絵草紙屋を経営していた時期ですので共作かもしれません。

歌川國鶴二代目を継いだ息子、そして彼に西洋の絵心を紹介した人物が娘<ムラ>の夫N.P.キングドンです。
初代「歌川国鶴」の娘ムラの夫N.P.キングドン氏の足跡を探るとこれまた横浜には欠かせない人物であることが分かります。
彼の物語に関しては 近々もう少し資料を読んでから紹介します。
今日はここまで。

 
 

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4月 6

【横浜をめぐる話】7月22日編異常気象

近年、”異常気象”の冠に相応しい?変な天気が続きます。コラムを書いている今年2017年(平成29年)の夏は日照不足でした。関東は秋になって台風の洗礼を受けています。
※過去にボツにしたコラムに手を入れアップしたものです(202204)
過去の<発生数>
2021年 22個 内上陸 3個
2020年 23個 上陸無し
2019年 29個 内上陸 5個
2018年 29個 内上陸 5個
2017年 27個 内上陸 4個
2016年 26個 内上陸 6個
2015年 25個 内上陸 4個
2014年 23個 内上陸 4個
2013年 31個 unmarkTextString内上陸 2個

天気予報も中々定まらない予測しにくい気象条件が重なっているようです。
戦後横浜を中心に台風・水害史をざくっと調べてみました。
1934年(昭和9年) 9月21日 室戸台風
1947年(昭和22年) 9月13〜15日 カスリーン台風
1948年(昭和23年) 9月15〜16日 アイオン台風
1949年(昭和24年) 6月19〜22日 前線・デラ台風
1949年(昭和24年) 8月31日〜9月1日 キティ台風
1949年(昭和24年) 10月27〜28日 パトリシア台風
1951年(昭和26年) 10月13〜15日 ルース台風
1952年(昭和27年) 6月22〜24日 ダイナ台風
1956年(昭和31年) 10月 豪雨
1958年(昭和33年) 7月 台風11号
1958年(昭和33年) 9月 台風22号(狩野川台風)
1961年(昭和36年) 6月 集中豪雨
1965年(昭和40年) 8月 台風17号
1966年(昭和41年) 6月 台風4号※
1970年(昭和45年) 7月 集中豪雨
1971年(昭和46年) 8月 台風23号
1972年(昭和47年) 9月 台風20号
1973年(昭和48年) 11月 集中豪雨
1974年(昭和49年) 7月 集中豪雨
1976年(昭和51年) 9月 台風17号
1977年(昭和52年) 9月 台風9号(沖永良部台風)
1979年(昭和54年) 10月 台風20号
1981年(昭和56年) 7月22日 集中豪雨
1982年(昭和57年) 9月 台風18号
1990年(平成2年) 9月30日 台風第20
1991年(平成3年) 9月18日〜20日 台風第18号
1991年(平成3年) 9月18日〜20日 台風第18号
1999年(平成11年) 8月13日〜14日 熱帯低気圧による集中豪雨
2002年(平成14年) 10月1日 台風第21号、三浦半島を通過
2004年(平成16年) 10月9日 前線・台風第22号、トラック転倒
2007年(平成19年) 9月5日〜7日 台風第9号
2009年(平成21年) 10月7日〜8日 台風第18号
2010年(平成22年) 9月8日 台風第9号
2012年(平成24年) 6月 台風第4号(上陸)
2012年(平成24年) 9月 台風第17号(上陸)
2013年(平成25年) 9月 台風第18号(上陸)
2014年(平成26年) 7月 台風第11号(上陸)
2014年(平成26年) 9月 台風第8号(上陸)
2014年(平成26年) 9月 台風第18号(上陸)
2014年(平成26年) 9月 台風第19号(上陸)
2016年(平成28年) 8月 台風第7号(上陸)
2016年(平成28年) 8月 台風第9号(上陸)
2016年(平成28年) 8月 台風第10号(上陸)
2017年(平成29年) 7月 台風第 3号(上陸)
2017年(平成29年) 7月 台風第 5号(上陸)
2017年(平成29年) 8月 台風第15号(接近)
2017年(平成29年) 9月 台風第18号(上陸)
2017年(平成29年) 10月 台風第21号(上陸)
2017年(平成29年) 10月 台風第22号(接近)

2018年(平成30年) 7月 台風第12号 神奈川接近 三重上陸
2018年(平成30年) 9月 台風第21号 徳島上陸
2018年(平成30年) 9月 台風第24号 和歌山県上陸
2019年(令和元年) 9月 台風第15号 三浦半島通過、東京湾、千葉県上陸
2019年(令和元年) 10月 台風第19号 ※伊豆半島上陸
※市内 浸水害 山がけ崩れ災害多発

「横浜の災害」「気象庁」より抜粋
戦後の横浜は毎年のように夏の水害があり、死者を含め多大な被害がありました。
上記は被害程度の大きいものを抜粋しているだけですので、さらに累積の被害を積み上げていくと更に市内の被害規模は拡大します。
横浜で戦後最大の被害は、1966年(昭和41年)に神奈川を直撃した台風4号国際名は「Kit(キット)」です。
 死者 32人、傷者 50人
 住家全壊 110棟、住家半壊 140棟
 床上浸水 9,835棟、床下浸水 35,922棟
 り災世帯 51,599世帯、り災人員 197,880人
 がけ崩れ 850箇所
※横浜市内のみの被災状況です。
市内に甚大な爪痕を残した台風です。
この被害から国・神奈川県・横浜市は緊急災害対策に乗り出し、市内各地の治水事業が行われます。
大岡川の分水路事業もこの台風4号がキッカケとなりました。

第834話 1966年(昭和41年)6月28日女性職員3人犠牲
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7790
大岡川分水路について

浸水被害だけのデータは
http://www.city.yokohama.lg.jp/doro/kasenkeikaku/menu/chisui/suigai.html
に一覧が掲載されています。

この水害史において、今日取り上げようとしている
昭和56年 7月22日の集中豪雨は、被害規模においてはそれほど甚大なものではありませんでした。
たまたま、7月22日に関する資料を探していたこともあり、この<集中豪雨>についてもう少し追いかけてみると、新しいタイプの災害の<走り?>だったのかもしれません。
昭和56年7月22日 集中豪雨
住家一部壊 7棟
床上浸水 149棟
床下浸水 413棟
り災世帯数 176世帯
り災者数 480人
がけ崩れ 4箇所
「北海道東方海上の低気圧から南西にのびる寒冷前線が能登半島付近に達していた。また、上空にはオホーツク 海方面から寒気が、南からは弱い熱帯 低気圧が運ぶ暖かな空気が入って、大 気が不安定となった。このため、神奈川県東部では前線の南下に伴い、夕刻にかけ各地で激しい雷雨となった。ま た、市内で落雷による火災が計5件発生した。最高時雨量 63mm(港北区)(横浜の災害より)」
この災害がこれまでの災害と少し異なっていたのが「落雷」による被害でした。
当時の新聞記事によれば

「東京で連続十六日間も真夏日が続くなど、うだるような暑さのなか、関東地方は二十二日夕、寒冷前線の接近で、突然雷を伴った猛烈な強い雨に襲われた。
横浜では午後五時から同六時までの一時間に六四ミリの豪雨となり、七月としては観測史上の新記録となった。」

この雷雨で「ラジオ関東」の放送が中断、羽田の全日空機が直撃を受け職員が怪我、新幹線も東京新横浜間で全面ストップし在来線もかなりダイヤがみだれます。
雷による都市機能のダメージが顕著になり始めた災害といえるのではないでしょうか。


(その他の7月22日)
1925年(大正15年)7月22日
鶴見臨港鉄道建設着工(横浜市史Ⅱ第1巻下p113)
横浜市史とはいえ他の「鶴見臨港鉄道」関連の資料から<裏>が取れないので中止しました。

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10月 19

【絵葉書の風景】横濱山手英国病院

<ちょっと具合悪そう>
「横濱山手英国病院
 English Hospital Bluff Yokohama.」

撮影場所:横浜市中区山手
撮影時期:明治末期か?
横濱絵葉書コレクターの世界では人気の一枚らしい。
確認できる最古?クラスのブラフ積み擁壁とガス灯が写っているからだそうです。
偶然手に入れたものですが、この絵葉書の風景、拡大してみると人物が尋常じゃななそう。
まず絵解きをする前に
横濱山手英国病院(イギリス海軍病院)は、横浜山手居留地(ブラフ)161番に1868年頃完成しました。
横浜が開港しました!
外国人が来ました!って話なんですが、当時の状況はそんなに甘いもんやおまへん。
当時の二大強国<英・仏>は居留地の自国民を守るために、軍隊を常駐させます。現在のふらんす山と港のみえる丘公園あたりが英仏の駐屯地でした。
そこに、様々な自国民のための施設を建設します。これは戦後の進駐軍と似ています。
(ここは病院前)
一台の人力車、二人の和服の女性。
よく見ると、女性の一人は”具合悪そう”に見えませんか?
人力車の車夫も心配そうに二人を眺めています。
付き添いの女性は<傘>を持っています。
雨か雪でも降りそうな空模様、
背景の<桜花>から季節は春先でしょうか?
勝手に物語を想像すると
急に具合が悪くなった日本人女性が、「そうだ丘の上にエゲレス病院がある」というわけで付き添いを伴って人力車で駆けつけたところ
<断られた>
<利用するかどうか逡巡><重い病気を告げられた>
どれででも良いのですが この女性は確かに尋常ではなさそうです。
撮影者はこの女性と人力車を”意図”して絵にしたのか?
いろいろ想像力を掻き立てる風景です。
(ブラフ積み)
直方体の石材を縦横交互に並べ、端面が1つおきに出るように積む技法を、当時の山手近郊の<ブラフ(崖)>に因んで「ブラフ積み」と後から呼んだものです。
煉瓦積みの技法に「フランドル積み」または「フランス積み」と呼ばれるものがあります。この手法が「ブラフ積み」として擁壁に応用された限定的なもので貴重な近代遺産です。
少し長いですが
「横浜には数多くの歴史的建造物、遺構があることは周知の事実である。特に山手などは外国人居留地があった時代が色濃く残っている。「ブラフ積」という洋風石垣も、その中のひとつである。「ブラフ積」とは、1867年に第一回山手地所の競売によって外国人の住宅地として開放され、細かく入り込んだ斜面に宅地が造成された過程で生じた多くの崖の土留めのことを言う。千葉の房州石を棒状の直方体に加工し、長手面(横)と小口面(縦)を交互に並べたもので、従来の「野面積」とは異なる積み方は当時としては大変画期的であった。もともと「ブラフ(Bruff)」とは、海岸や谷間の「絶壁・断崖」を意味し、当時本牧や山手に多く見られた切り立った崖を「ブラフ」と呼んでいた(幕末、日本来航時に横浜周辺を測量したペリーは、本牧十二天《現在の本牧市民公園》のオレンジ色の崖をその色から『マンダリン・ブラフ』と呼んでいた)ことから、居留地によって生まれた洋風技術と言える。また、縦に積むことで、崖に深く入り込むようになっているため、耐震性にも優れ、関東大震災でほとんど崩壊せず現存している場所が多いことを考えてもそれが実証済みだと言えよう。(横浜経済新聞2007-10-03)」
「横濱山手英国病院」は1867年以降山手地区の洋館群が競って建設される中、1868年に完成したものです。
参考に、山手を下り元町にあった薬師堂の雁木と擁壁も紹介しておきましょう。
一枚の絵葉書、いろいろなところに注目すると面白いですね。
9月 16

【水辺の風景】セレクト

横浜の水辺
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?cat=24
横浜の水辺に関するテーマ一覧です。 この中から
No.105 4月14日 白の悲劇(加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=512 【ハガキの風景】人の居る風景1
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5150
【ハガキの風景】人の居る風景2
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5174
【ハガキの風景】人の居る風景3
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5181 第952話 吉田町通物語
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11464 No.62 3月2日 みらいと歴史をつなぐ道
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=557 No.187 7月5日(木) 目で見る運河
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=420 No.192 7月10日(火)【横浜の河川】もう一つの大岡川
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=415 No.425 川の交差点、都橋界隈
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=147 No.239 8月26日 (日)タマちゃん調べ出したら止まらない
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=367
6月 4

横浜市庁舎の歴史(資料編)

表組み練習を兼ねてブログ書き出した頃に作ったページです。昭和30年代まで
1911年
明治44年
7月1日
新市庁舎開庁
1923年
大正12年
9月2日
桜木町の中央職業紹介所を仮市庁舎に
1923年
大正12年
9月11日
市会、仮市庁舎屋上で、震災復旧善後策に関する緊急市会開催
1923年
大正12年
9月日
市庁舎類焼により、桜木町の中央職業紹介所を仮庁舎とする(A)
1940年
昭和15年
7月17日
紀元2600年記念事業案(市庁舎新築、動物園開設、文化会館建設)
1944年
昭和19年
8月28日
市会で市庁舎の老松国民学校移転を可決
1944年
昭和19年
10月1日
市庁舎、野毛山老松国民学校等へ移転(市会議場は横浜市図書館内設置)
1944年
昭和19年
10月1日
市庁舎が木造建物で危険、臨時に老松国民学校に移転
1945年
昭和20年
 
市会は図書館へ、市庁舎は老松国民学校などの鉄筋コンクリート校舎に移転する。
1949年
昭和24年
7月28日
市会、全員協議会市庁舎移転の件(日貿博建物への移転を市長が提案)
1949年
昭和24年
10月21日
市庁舎移転問題でGHQに陳情(議員六名老松小学校からの移転の猶予を求める)
1949年
昭和24年
10月27日
市会、市庁舎対策特別委員会の設置(市庁舎の移転問題)
1949年
昭和24年
12月17日
市会、市庁舎対策特別委員長が報告(日本貿易博跡移転で意見一致と報告)
1949年
昭和24年
 
市会、市庁舎の貿易博覧会反町会場跡地への移転を正式決定(A)
1950年
昭和25年
11月日
市庁舎、反町の貿易博跡に移転(A)
1953年
昭和28年
6月29日
市庁舎建設候補地、反町、港町、横浜駅前等
1953年
昭和28年
6月29日
市庁舎建設特別委員会各候補地の実情調査結果の説明
1953年
昭和28年
10月5日
市庁舎建設特別委員会(各会派内の協議結果を発表)
1956年
昭和31年
11月2日
市庁舎基本設計案について市長が採用決定
1956年
昭和31年
12月20
市、新市庁舎起工式
1956年
昭和31年
1月日
市、市庁筆数地問題につき港町の旧市庁舎跡を候補地に決定(A)
1957年
昭和32年
4月12日
市庁舎建設事務所の設置
1958年
昭和33年
4月5日
市庁舎新築工事、特別基礎工事完了(6・23躯体工事に着手)
1958年
昭和33年
6月日
市庁舎立柱式、工事現場で挙行(A)
1959年
昭和34年
2月26日
市庁舎市会棟完成、市会事務局移転
1959年
昭和34年
9月12日
市庁舎落成式
1959年
昭和34年
9月12日
市庁舎落成式(中区港町)
1959年
昭和34年
 
現在の市庁舎が落成する。
1960年
昭和35年
9月日
市庁舎、港町に完成、落成式(A)
1962年
昭和37年
3月1日
反町市庁舎跡地開発計画決定(公園・子供遊園地等)
4月 13

【吉田町物語】吉田町清水組

現在、吉田町に拠点を構える最も古い企業は、都橋のたもとに事業所を持つ清水建設横浜支店です。
左側 都橋袂、清水建設横浜支店
現在スーパーゼネコン※と呼ばれている5社の中で、特に「清水建設」と「鹿島建設」は開港場を舞台に横浜普請で飛躍した会社です。
※清水建設、鹿島建設、大成建設、大林組、竹中工務店
清水組は安政の大獄の始まった1858年(安政5年)
時の大老、井伊直弼から「外国奉行所」など幕府施設建設を請け負うことで横浜開港場との関わりが始まります。
1859年(安政6年)
清水組を興した初代喜助が死去し養子の清七が2代清水喜助となった年、
「横浜坂下町」に店宅を新築し、横浜へ進出します。(清水建設社史)
この開港場の拠点「坂下町」、磯子ではありません。現在の「日本大通」と「横浜公園」が接するあたりと推定できます。
清水組は「神奈川戸部村外国奉行所、石崎関門ならびに番所および野毛坂陣屋前役宅を施工」する事業に関わります。神奈川戸部村外国奉行所はおそらく現在の紅葉ヶ丘神奈川奉行所、石崎関門・番所はわかりません。
野毛坂陣屋前役宅も現在の宮崎町近辺でしょうか?調査中です。
清水組は神奈川役所定式普請兼入札引受人となるなど、事業は順調に拡大していきます。
ところが、
1866年11月26日(慶応2年10月20日)午前9時頃に港崎遊郭の西方向、現在の尾上町一丁目付近から出火し開港場の大半が消失した<慶応の大火>で「横浜坂下町店宅」も類焼し、失ってしまいます。
(写真資料)
清水喜助は吉田町に家屋を新築し移転します。この場所で釘や鉄物商のほか材木商も兼業し事業を拡大していきます。
当時、木造家屋の密集する日本の都市は、火災に弱く何度かの大火災に悩まされます。
移転した吉田町店も火災にあいまたまた類焼のため宮川町へ移ることになります。
その間、時代は明治となり、開港場は居留地と商人の大都市に変貌し始めます。
喜助は吉田町に戻ることを決意し、
1874年(明治7年)吉田町に洋風3階建の店宅を新築し、宮川町から復帰します。
大岡川下流から都橋を望む。
大岡川、都橋下流側 右岸に清水組
1881年(明治14年)に横浜店は清水満之助が経営
 神田新石町店は清水武治が経営する東京・横浜分業体制を採ります。
1883年(明治16年)には横浜吉田町宅を本店とし、日本橋本石町居宅が支店となりますが、
1887年(明治20年)満之助が35の若さで死去、残された8歳の長男が四代満之助襲名しますが、三代目満之助の遺言により経営の神様と呼ばれた”渋沢栄一”を相談役(〜1916年)に迎え経営危機を乗り越えます。
1892年(明治25年)9月に日本橋本石町店を本店、横浜店を支店に改め、拠点を東京に移します。
1895年(明治28年)東京・横浜両店を合併し、清水組が一本化。
清水組を創業した清水嘉助は、越中小羽(現・富山県富山市小羽)出身で、故郷富山で大工の修行をして、日光東照宮の修理に関わったことをキッカケに江戸に出て神田の地で創業します。江戸城西の丸修復で建設業の基盤を築きます。
富山(越中)人脈は、
1838年(天保9年)11月25日 安田善次郎 富山市で出生(安田財閥の祖)
1848年(嘉永元年)4月13日 浅野総一郎 氷見市で出生(浅野財閥の祖)
1881年(明治14年)大谷米太郎が小矢部市で出生(大谷重工業、ホテルニューオータニ創業者)
1885年(明治18年)正力松太郎 正力松太郎が射水市(大門町)で生れる(読売新聞中興の祖)
安田、浅野も横浜・川崎を舞台に一代を築いた越中人です。
どこかで、つながりがあったと思います。機会があれば、横浜の越中人脈も探ってみたいと思います。
成人した四代目清水満之助は
1915年(大正4年)8月10日竣工、二代目横浜駅建設を手掛けます。煉瓦造2階、平面形状は不等辺三角形。階上に待合室、改札口がある荘厳な駅舎となります。
<横浜の清水>作品を抜粋します。
◯谷戸橋(堀川)1880年(明治13年)
◯横浜税関(関内)1885年(明治18年)12月
◯横浜水道開設事業 三井用水取水所の内 用水取入口、貯水池、濾水池1887(明治20)年9月
◯第一銀行1911年(明治44年)6月
★二代目横浜停車場1915年(大正4年)6月
★横浜市開港記念会館(旧開港記念横浜会館)1918年(大正7年)
 平成の修復も清水建設。
◯ホテル、ニューグランド1927年(昭和2年)新築 設計渡邊仁
1933年、1958年、1964年 増築
2016年 耐震改修
◯味の素横浜工場サイロ竣工(昭和30年)9月
◯横浜マリンタワー1961年(昭和36年)1月
◯石川島播磨重工業横浜第2工場建造ドック及び修理ドック
 1965年(昭和40年)3月<建造ドック>
 1966年(昭和41年)8月<修理ドック>
◯横浜スタジアム1978年(昭和53年)3月
◯県立神奈川近代文学館1984年(昭和59年)3月
◯横浜地下鉄1号線 吉田町工区1986年(昭和61年)3月
◯関内ホール(横浜市市民文化会館)1986年(昭和61年)
◯新横浜プリンスホテル1992年(平成4年)2月
◯横浜・八景島シーパラダイス デザインシステム(清家清)
 <建築部分>1993年(平成5年)5月
 <土木部分>1994年(平成6年)3月
◯横浜ランドマークタワー1993年(平成5年)6月
◯横浜銀行本店1993年(平成5年)7月
◯飯田家長屋門 保全1996年(平成8年)3月
◯日石横浜ビル1997年(平成9年)6月
◯Foresight21(関東学院大学1号)2001年(平成13年)3月
◯慶應義塾大学日吉新研究室棟(来往舎)2002年(平成14年)1月
◯横浜港大さん橋国際客船ターミナル(第一工区)2002年(平成14年)11月
◯今井川地下調節池2004年(平成16年)3月
◯横浜市立みなと赤十字病院2003年(平成15年)12月
◯日産自動車グローバル本社2009年(平成21年)4月
◯富士ゼロックスR&Dスクエア2010年(平成22年)3月
◯アニヴェルセルみなとみらい横浜2013年(平成25年)11月
◯横浜グランゲート2020年(令和2年)
4月 1

【吉田町物語】KEY木村商店

開港場の誕生によって、吉田町界隈のにぎわいは自然に生まれました。
開港直前に横浜道が貫通し、開港場を目指した多くの人々は、関内を目前にして一休みしたり、身支度を整えたりしたのかもしれません。開港から10年という激動の時を経て、時代が明治となり、野毛浦地先を埋め立てたところに鉄道が敷設されたことで吉田町はさらに賑わいを見せていきます。
明治から大正にかけて
この短くも活気あふれた<吉田町>界隈を経て大きく育っていった企業群があります。
吉田町と関係の深い大手企業といえば、
清水組(清水建設)
キーコーヒー

二社をあげることができます。 今回は、木村商会、後のキーコーヒーを紹介します。
【キーコーヒー株式会社】
年商:640億円(2020年3月)
従業員:1,176 名(連結) / 824 名(単独)
東京証券取引所1部に上場しているコーヒー業界国内最大手です。
本社所在地:東京都港区西新橋二丁目
<沿革>
1920年(大正9年)伝説の珈琲店カフエ・パウリスタ横浜店に勤めていた木村文次が各国産コーヒー焙煎加工卸および食料品の販売を、創業の地横浜市中区福富町で「木村商店」を開業します。
木村の勤めていた伝説の「カフエ・パウリスタ」は当時盛んに行われた移民と大きく関わっていました。日本人のブラジル移民をいち早く手がけた”水野龍”が、現在で言うところのアンテナショップ的なブラジル・サンパウロ州政府庁専属ブラジル珈琲発売所「カフェーパウリスタ」を設立し、ブラジル移民の経済支援として日本へのコーヒー輸出振興事業を起こします。
「カフエ・パウリスタ」は東京を中心に出店され、日本にカフェ文化を伝える重要な役割を担いました。
https://www.paulista.co.jp/paulista/
ここでコーヒー文化と出会った木村文次「木村商店」は福富町から、相生町次いで住吉町へと店を移転し事業を拡大していきます。社史によると開業の翌年、最初のヒット商品となる「コーヒーシロップ」の製造・販売を開始します。
ワインの普及と同様、<辛口>文化の無かった日本では甘い飲料が好みとなったので、コーヒーもブラックではなく<甘味>を加えることで広がっていった歴史があります。
1922年(大正11年)に木村文次は結婚。遠縁の柴田家に婿入し、柴田文次と改名し新婚生活をスタートしますが
1923年(大正12年)9月1日の関東大地震で被災し、妻子を含め親類縁者を失ってしまいました。
文次は傷心の中でも諦めることなく
9月10日に店を<吉田町>に移転して再起、復活を図ります。移転先は具体的にわかりませんが、
1930年(昭和5年)の資料には「木村コーヒー店」※吉田町58とありますので、位置は図の位置と思われます。
※1928年(昭和3年)屋号を『木村商店』から『木村コーヒー店』へと改称。
出典:キーコーヒー
明治14年ごろの吉田町
横浜工場が竣工。コーヒー、ココア、紅茶の缶詰物、コーヒーシロップ、清涼飲料の製造を開始し、「コーヒーは、日本人の新しい食生活と文化を開く鍵だ。」と考え、現在につながる<KEY>のロゴを制作。
1946年(昭和21年)本社機能を横浜から、東京支店(東京都港区芝田村町四丁目8番地)へ移すまで横浜吉田町が「木村コーヒー店」本店でした。
正面写真が無かったので遠景ですみません
その後、横浜本社だった拠点は横浜支社となり、場所も防火帯建築として健在の神奈川県吉田町第二共同ビルの一角に近年までありましたが、現在は撤退してしまいました。桜木町駅前、ぴおシティに輝いていた広告も幕を降ろしてしまいました。
横浜生まれ、吉田町で育ったキーコーヒー本社が再び横浜に戻ってくることを夢見て 簡単ですが紹介を終わります。
10月 3

横浜史自分版を作る

横浜市のサイトに掲示されている「横浜市のあゆみ 略年表」の近世幕末期までの部分を転載しました。
出展:「横浜市のあゆみ 略年表」
    横浜市のあゆみ 略年表
約20,000~2,400年前   先土器・縄文時代は、まだ農耕が生活の中心になる前の時代ですが、横浜市域でも旭区矢指谷遺跡などで先土器後期の人々の活動の最初の痕跡が見られます。また縄文時代の中頃には、都筑区三の丸遺跡のような環状集落と呼ばれる大型の集落遺跡が残され、人々の生活の営みが知られます。
約2,400~1,700年前   弥生時代は、本格的な水田稲作と金属器の使用がはじまった時代です。磯子区三殿台遺跡や都筑区大塚・歳勝土遺跡などに稲作を行う農耕集団の集落が営まれています。
西暦300年ころ~建久3(1192)年   古代は、力をつけた地域の首長のために古墳がつくられた古墳時代と、律令という法にもとづく国家がつくられた奈良・平安時代にわたります。市域に関わる最も古い文字史料は、飛鳥で発見された「諸岡五十戸」と記された木簡で、後の久良郡師岡郷にあたるものです。古代では、市域は武蔵国の都筑郡・久良郡を中心に編成され、『万葉集』にみえる防人など、人々は様々な負担を課せられました。青葉区の長者原遺跡は古代都筑郡の役所(郡家)の跡です。 10世紀以降、東国は武士を生み出す基盤となりますが、 鎧の部品を製作した都筑・西ノ谷遺跡など、市域にも関連する遺跡が発見されています。
建久3(1193)年~天正18(1590)年   中世は、新しく力をもつようになった武士により、戦いが繰り返された時代です。鎌倉に武家政権が成立すると、金沢区の六浦は中世都市鎌倉を支える物資の集積地として、 諸国から商人や職人など多くの人々が集まり大変なにぎわいを見せました。 また、称名寺などを中心として鎌倉に劣らない仏教文化が栄えました。
天正18(1590)年~安政6(1859)年   近世は、江戸幕府を中心として、安定した社会が続いた時代です。江戸時代の横浜には約200か村を越える村々が存在し、 その多くは幕府領や旗本領でしたが享保6(1721)年には武州金沢藩(米倉氏)が成立しています。 また慶長6(1601)年には東海道の宿場として神奈川宿と保土ヶ谷宿が、 慶長9(1604)年には戸塚宿が成立し、地域の経済・文化の中心となっていきました。
近世は、
江戸幕府を中心として、安定した社会が続いた時代です。江戸時代の横浜には約200か村を越える村々が存在し、 その多くは幕府領や旗本領でしたが享保6(1721)年には武州金沢藩(米倉氏)が成立しています。 また慶長6(1601)年には東海道の宿場として神奈川宿と保土ヶ谷宿が、 慶長9(1604)年には戸塚宿が成立し、地域の経済・文化の中心となっていきました。」とまとめています。
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”横浜市”を形成する歴史的要素に「吉田新田」の記述が無いのは大変残念だと思います。
通史を考える時、時代をどう区分するのか?時代の画期をどう考えるのか?この作業を進めていくのが歴史を考える重要な柱です。
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ということで、自己版「横浜史」を吉田新田をベースにまとめてみることにしました。
⑴入海時代(吉田新田以前)
⑵技術移転時代(中世末期から近世)
⑶大干拓時代と新田時代
⑷開港の部隊(幕末)
⑸近代、西欧の受容
⑹五大苦、苦難の時代
むすび そして未来へ
こんな感じでまとめてみたいと考えています。
7月 21

【中締めに向けて】

横浜界隈通信も間もなく1000話一つの区切りが訪れます。
なかなか越えられません。残り六つ、肩の力を抜いて書き抜きます。 このブログの始まりは自身の<リハビリ>の一つとして先輩からブログを勧められたことに始まります。
チャレンジとしてはかなり無謀でしたが「一日一話形式」で暦に因んだ横浜のテーマを取りまとめてみることでした。このブログを始める前まで、横浜市に暮らしていながら、断片的な知識しか無く、現在はもちろん歴史に関しては地元の小学生より貧弱だったと思います。
まずは横浜に関するテーマを調べることから私の横浜像を少しづつ広げていくことにしました。マイルールは、可能な限りテーマに関した<現地>に足を運ぶことにしました。
No.1 1月1日(日) 奇跡の1998年(前半)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=622
→スポーツ史 駅伝・国立競技場・横浜球場
No2 1月2日(月) ニュース芝居、最先端劇場で上演
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=621
→川上音二郎と横浜 野毛山
No3 1月3日(火) 大火事
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=620
→横浜の大火 
No4 1月4日(水) 昭和の歌姫
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=619
→美空ひばり 杉田
No5 1月5日(木) 漂泊の詩人 永井叔(一部加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=618
No.6 1月6日(金) 天然スケートリンク開場(修正、加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=617
→大倉山天然スケート場開場 系統立てる事なく、ひたすら資料に登場する出来事やテーマを元に周辺資料を調べ、足を運ぶことを一年間(365話)続けました。
今読むと書き直したいものも多数ありますが、新資料や間違いの修正加筆にとどめています。
二年目に入り、取り上げたテーマから発見したテーマや、枝葉のように広がったテーマを追いかけながら、ジグゾーパズルのピースを埋め込むような作業が始まります。
600話位からでしょうか、ぼやーっと横浜という<立体像>を結ぶようになってきました。
1001話以降は少し横断的な横浜像をあぶり出していきたいと思っています。