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嘘ではないが間違っている

この絵葉書の風景解読には少し時間がかかりました。
まず表題に「横濱高等小学校前」とあります。校舎は水辺に沿っている瀟洒な建物でしょうか。いくつか洋風の建物が確認できます。
でも横浜市内で明治後期から大正初期、水辺に建っている(高等)小学校を探し出すことができませんでした。
ここに写っているのがタイトル通り<横濱高等小学校>だとしたら、設計デザインはかなり気合いが入っています。
疑問がいくつか湧いてきました。
「横濱高等小学校」が正しければ現在の本町小学校のことになります。この時期に橫濱高等小学校は北仲地区にありましたが、川岸にはありません。

当時の地図で確認すると
大岡川と小学校の間には「横浜商業=Y校」が立ちはだかっているのです。
そこで改めてY校史を紐解くと、一発氷解しました。
この風景は、1897年(明治30年)7月に完成した横濱商業新校舎だと思われます。
「新校舎は大岡川に面して正門があり、横浜駅(現在の桜木町駅)が左正面に見え(Y校70年史)」とあります。ここに一点のスケッチが掲載されていました。

川面のボートを除いて位置関係がほぼ一致します。

この絵葉書は明治30年7月に新築落成した横濱商業新校舎であることはほぼ間違いありません。
では、何故 キャプションが「横濱高等小学校前」となったのでしょうか。
単なる間違いなのでしょうか。
「横濱高等小学校」と「横濱商業学校」
その成り立ちを見てみましょう。
近代以降日本の学校の変遷は目まぐるしく変わっていきます。
1872年(明治5年8月)近代の学校教育制度を定めた「学制」の発布に始まります。
全国を8つの大学区に分け、その下に中学区、小学区を置き、各学区にそれぞれ大学校・中学校・小学校を1校ずつ設置することとされました。
これによって発布から数年間に全国で2万校以上の小学校が整備され、約40%の就学率となりました。
「学制」が公布された明治5年橫浜にも小学校が設立されます。
第一番小学壮行学舎として創立
第二番小学如春学舎(明治6年5月、元弁天の官舎に創設)
第三番小学同文学舎(明治6年6月、住吉町に創設)を併合して
元浜町一丁目に移転「横浜学校」と改称
1905年(明治38年)横浜第一高等小学校
1908年(明治41年)横浜市尋常高等小学校
1923年(大正12年)横浜市本町尋常高等小学校
「横浜高等小学校」は第一高等小学校として関内に創立します。

★横浜市立横浜商業高等学校は?
1882年(明治15年)3月20日横浜商法学校 開校(横浜町会所)
 同年 北仲通六丁目68番地 新校舎へ移転
1888年(明治21年)横浜商業学校と改称
 隣接地火災により本町六丁目84番地へ
1889年(明治22年) 北仲通六丁目76番地 仮校舎へ移転
1892年(明治25年) 本町他十三ケ町立となる
1893年(明治26年) 宮内省御料地が運動場となる
1897年(明治30年) 新校舎落成
1905年(明治38年) 南太田に新校舎完成 移転
1917年(大正6年)→横浜市立横浜商業学校
1948年(昭和23年)→横浜市立横浜商業高等学校
さて ここからは私の推論です。
この絵葉書風景が撮影されたのは横浜商業竣工直前ではないか?
この絵葉書発行時点では 横浜商業新校舎はまだ完成していなかった。
1897年(明治30年)初め、工事中の風景ではないか!

【絵葉書時代考証指標】
電柱の存在を時期推定に活用すると写真の撮影時期前後推定が可能となります。
拡大してみると 実に面白い光景が発見できます。
 長い棒、柱の上部に人が写っています。
 これは、電柱の配線工事の光景と推理できます。
まとめると 
 大岡川河口、ここに町立Y学校の校舎建設中
 その奥には、横浜市立高等小学校が(既に)開校していた。
 この状況に合わせて
  <横濱高等小学校>の前に建設中の町立学校新校舎と大岡川が写っている
 YよりHを優先したんだな!?
 この位置には現在、8代目市役所が建っています。

【横浜人物録】秋元不死男1

秋元不死男、彼の名を知る人は限られていると思います。戦前から戦後にかけて活躍していた俳人です。人生の大半を横浜で過ごし、横浜の情景を詠んだ句も多く残されています。
彼に関しては、以前簡単なブログを書いています。
No.35 2月4日 秋元不死男逮捕、山手警察に勾留
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/24.html

現在1,000話を越えたこのブログの初期に書いたものです。毎日一話を一年間続けてみようと決め、35日目に選んだのが「秋元不死男逮捕、山手警察に勾留」の記事でした。
この頃、彼は東 京三(ひがし きょうぞう)と名乗っていました。不死男という勇ましい名に変えたのは戦後のことでした。秋元にとって戦場には行きませんでしたが、生死の境を乗り越えた安堵感が不死男の名に繋がったのかもしれません。

「自選自解秋元不死男句集」より

秋元不死男は、1901年(明治34年)11月3日に横浜市中区元町生まれました。父茂三郎は漆器輸出商を営み、長男は不死男が生まれた日に病没したと記録されています。このことも戦後の不死男の名に繋がっていると思います。
他に姉が一人、弟・妹が二人ずついました。ところが、不死男13歳のときに父が病気で亡くなります。おそらく生活はそれ以前から厳しくなっていたと想像できます。子どもたちは姉が奉公、末弟・末妹はそれぞれ他家に貰われ、秋元家は母と三人の子供が残りました。
以後母 寿は<和裁の賃仕事>や<夜店の行商>をして家計を支えたことが彼の作品に残されています。

秋元不死男句集カバー
『自選自解秋元不死男句集』には彼が生きた幼き時代と社会人時代の横浜風景が細かく詠まれていて思わず引き込まれてしまいました。横浜風景論としても素晴らしい資料です。

「横浜の石川町にあった地蔵の縁日は四の日。運河を背に夜店を張ると、舫っている艀からポン、ポンと鈍い音を立てて夜の時計が刻を告げて鳴り出す。」と自解した句が
「夜店寒く艀の時計河に鳴る」です。
この頃、秋元一家は元町を離れ吉浜町に移り、亀の橋を渡って中村川岸で屋台を出したのでしょう。近くには派大岡川、中村川の運河が流れ、多くの艀が川面を占領していた時代です。大正初期、石川町付近は横浜有数の繁華街でした。
石川町で発行されていた明治大学中川ゼミ編集の「石川町の史実」には
「当時の石川町3丁目(現在の2丁目)の河岸から地蔵坂の途中の蓮光寺あたりまでで賑やかな縁日の催しが行われた。大勢の人が集まり坂下の鶴屋呉服店周辺※①ではゴッタ返しであった。また夏の縁日には、金魚屋、風鈴屋、綿菓子屋、新粉細工屋、玩具店、べっこう菓子屋あるいはカルメ焼屋などが軒を連ねた。今ではほとんどみられなくなったアセチレンガス灯の火が、華やかに闇に浮いて見えた。」と町のかつての様子を伝えています。
この情景を不死男も詠っています。

2012年発行の石川町広報紙


※①鶴屋呉服店は当時横浜有数の呉服店で、その後伊勢佐木に移り東京松屋と合併し松屋呉服店、現在の銀座MATSUYAとなります。
『自選自解秋元不死男句集』の冒頭の句が
「寒や母地のアセチレン風に欷き」(さむやははちのあせちれんかぜになき)
「短日に早くもアセチレン灯をともすと、ひゅう、ひゅうと青い焔が鳴り出す。すすり泣くようなその音をきいていると寒さが骨を噛じりにくる。」と自解しています。

彼は震災の時に半年神戸に暮らし、横浜唐沢に戻りその後、結婚で一時期東京に居を移しますが、息子近史が喘息になり環境の良い根岸海岸に移りこの地に二十年近く暮らします。
この転地療養が良かったようで、長男近史は治癒し健康になったそうです。
秋元近史は明治大学を卒業後しばらくして草創期の日本テレビに入社し『シャボン玉ホリデー』などの演出を手がけたテレビマンとして活躍します。
ところが、父不死男の名とは逆に、1977年(昭和52年)父が病死後の1982年(昭和57年)に自殺を選んでしまいます。享年49歳でした。
(つづく)
参考資料:
『俳人・秋元不死男』庄中健吉 永田書房 昭和57年
『自選自解秋元不死男句集』秋元不死男 白凰社 昭和47年

【吉田町物語】吉田町清水組

現在、吉田町に拠点を構える最も古い企業は、都橋のたもとに事業所を持つ清水建設横浜支店です。
左側 都橋袂、清水建設横浜支店
現在スーパーゼネコン※と呼ばれている5社の中で、特に「清水建設」と「鹿島建設」は開港場を舞台に横浜普請で飛躍した会社です。
※清水建設、鹿島建設、大成建設、大林組、竹中工務店
清水組は安政の大獄の始まった1858年(安政5年)
時の大老、井伊直弼から「外国奉行所」など幕府施設建設を請け負うことで横浜開港場との関わりが始まります。
1859年(安政6年)
清水組を興した初代喜助が死去し養子の清七が2代清水喜助となった年、
「横浜坂下町」に店宅を新築し、横浜へ進出します。(清水建設社史)
この開港場の拠点「坂下町」、磯子ではありません。現在の「日本大通」と「横浜公園」が接するあたりと推定できます。
清水組は「神奈川戸部村外国奉行所、石崎関門ならびに番所および野毛坂陣屋前役宅を施工」する事業に関わります。神奈川戸部村外国奉行所はおそらく現在の紅葉ヶ丘神奈川奉行所、石崎関門・番所はわかりません。
野毛坂陣屋前役宅も現在の宮崎町近辺でしょうか?調査中です。
清水組は神奈川役所定式普請兼入札引受人となるなど、事業は順調に拡大していきます。
ところが、
1866年11月26日(慶応2年10月20日)午前9時頃に港崎遊郭の西方向、現在の尾上町一丁目付近から出火し開港場の大半が消失した<慶応の大火>で「横浜坂下町店宅」も類焼し、失ってしまいます。
(写真資料)
清水喜助は吉田町に家屋を新築し移転します。この場所で釘や鉄物商のほか材木商も兼業し事業を拡大していきます。
当時、木造家屋の密集する日本の都市は、火災に弱く何度かの大火災に悩まされます。
移転した吉田町店も火災にあいまたまた類焼のため宮川町へ移ることになります。
その間、時代は明治となり、開港場は居留地と商人の大都市に変貌し始めます。
喜助は吉田町に戻ることを決意し、
1874年(明治7年)吉田町に洋風3階建の店宅を新築し、宮川町から復帰します。
大岡川下流から都橋を望む。
大岡川、都橋下流側 右岸に清水組
1881年(明治14年)に横浜店は清水満之助が経営
 神田新石町店は清水武治が経営する東京・横浜分業体制を採ります。
1883年(明治16年)には横浜吉田町宅を本店とし、日本橋本石町居宅が支店となりますが、
1887年(明治20年)満之助が35の若さで死去、残された8歳の長男が四代満之助襲名しますが、三代目満之助の遺言により経営の神様と呼ばれた”渋沢栄一”を相談役(〜1916年)に迎え経営危機を乗り越えます。
1892年(明治25年)9月に日本橋本石町店を本店、横浜店を支店に改め、拠点を東京に移します。
1895年(明治28年)東京・横浜両店を合併し、清水組が一本化。
清水組を創業した清水嘉助は、越中小羽(現・富山県富山市小羽)出身で、故郷富山で大工の修行をして、日光東照宮の修理に関わったことをキッカケに江戸に出て神田の地で創業します。江戸城西の丸修復で建設業の基盤を築きます。
富山(越中)人脈は、
1838年(天保9年)11月25日 安田善次郎 富山市で出生(安田財閥の祖)
1848年(嘉永元年)4月13日 浅野総一郎 氷見市で出生(浅野財閥の祖)
1881年(明治14年)大谷米太郎が小矢部市で出生(大谷重工業、ホテルニューオータニ創業者)
1885年(明治18年)正力松太郎 正力松太郎が射水市(大門町)で生れる(読売新聞中興の祖)
安田、浅野も横浜・川崎を舞台に一代を築いた越中人です。
どこかで、つながりがあったと思います。機会があれば、横浜の越中人脈も探ってみたいと思います。
成人した四代目清水満之助は
1915年(大正4年)8月10日竣工、二代目横浜駅建設を手掛けます。煉瓦造2階、平面形状は不等辺三角形。階上に待合室、改札口がある荘厳な駅舎となります。
<横浜の清水>作品を抜粋します。
◯谷戸橋(堀川)1880年(明治13年)
◯横浜税関(関内)1885年(明治18年)12月
◯横浜水道開設事業 三井用水取水所の内 用水取入口、貯水池、濾水池1887(明治20)年9月
◯第一銀行1911年(明治44年)6月
★二代目横浜停車場1915年(大正4年)6月
★横浜市開港記念会館(旧開港記念横浜会館)1918年(大正7年)
 平成の修復も清水建設。
◯ホテル、ニューグランド1927年(昭和2年)新築 設計渡邊仁
1933年、1958年、1964年 増築
2016年 耐震改修
◯味の素横浜工場サイロ竣工(昭和30年)9月
◯横浜マリンタワー1961年(昭和36年)1月
◯石川島播磨重工業横浜第2工場建造ドック及び修理ドック
 1965年(昭和40年)3月<建造ドック>
 1966年(昭和41年)8月<修理ドック>
◯横浜スタジアム1978年(昭和53年)3月
◯県立神奈川近代文学館1984年(昭和59年)3月
◯横浜地下鉄1号線 吉田町工区1986年(昭和61年)3月
◯関内ホール(横浜市市民文化会館)1986年(昭和61年)
◯新横浜プリンスホテル1992年(平成4年)2月
◯横浜・八景島シーパラダイス デザインシステム(清家清)
 <建築部分>1993年(平成5年)5月
 <土木部分>1994年(平成6年)3月
◯横浜ランドマークタワー1993年(平成5年)6月
◯横浜銀行本店1993年(平成5年)7月
◯飯田家長屋門 保全1996年(平成8年)3月
◯日石横浜ビル1997年(平成9年)6月
◯Foresight21(関東学院大学1号)2001年(平成13年)3月
◯慶應義塾大学日吉新研究室棟(来往舎)2002年(平成14年)1月
◯横浜港大さん橋国際客船ターミナル(第一工区)2002年(平成14年)11月
◯今井川地下調節池2004年(平成16年)3月
◯横浜市立みなと赤十字病院2003年(平成15年)12月
◯日産自動車グローバル本社2009年(平成21年)4月
◯富士ゼロックスR&Dスクエア2010年(平成22年)3月
◯アニヴェルセルみなとみらい横浜2013年(平成25年)11月
◯横浜グランゲート2020年(令和2年)

【吉田町物語】KEY木村商店

開港場の誕生によって、吉田町界隈のにぎわいは自然に生まれました。
開港直前に横浜道が貫通し、開港場を目指した多くの人々は、関内を目前にして一休みしたり、身支度を整えたりしたのかもしれません。開港から10年という激動の時を経て、時代が明治となり、野毛浦地先を埋め立てたところに鉄道が敷設されたことで吉田町はさらに賑わいを見せていきます。
明治から大正にかけて
この短くも活気あふれた<吉田町>界隈を経て大きく育っていった企業群があります。
吉田町と関係の深い大手企業といえば、
清水組(清水建設)
キーコーヒー

二社をあげることができます。 今回は、木村商会、後のキーコーヒーを紹介します。
【キーコーヒー株式会社】
年商:640億円(2020年3月)
従業員:1,176 名(連結) / 824 名(単独)
東京証券取引所1部に上場しているコーヒー業界国内最大手です。
本社所在地:東京都港区西新橋二丁目
<沿革>
1920年(大正9年)伝説の珈琲店カフエ・パウリスタ横浜店に勤めていた木村文次が各国産コーヒー焙煎加工卸および食料品の販売を、創業の地横浜市中区福富町で「木村商店」を開業します。
木村の勤めていた伝説の「カフエ・パウリスタ」は当時盛んに行われた移民と大きく関わっていました。日本人のブラジル移民をいち早く手がけた”水野龍”が、現在で言うところのアンテナショップ的なブラジル・サンパウロ州政府庁専属ブラジル珈琲発売所「カフェーパウリスタ」を設立し、ブラジル移民の経済支援として日本へのコーヒー輸出振興事業を起こします。
「カフエ・パウリスタ」は東京を中心に出店され、日本にカフェ文化を伝える重要な役割を担いました。
https://www.paulista.co.jp/paulista/
ここでコーヒー文化と出会った木村文次「木村商店」は福富町から、相生町次いで住吉町へと店を移転し事業を拡大していきます。社史によると開業の翌年、最初のヒット商品となる「コーヒーシロップ」の製造・販売を開始します。
ワインの普及と同様、<辛口>文化の無かった日本では甘い飲料が好みとなったので、コーヒーもブラックではなく<甘味>を加えることで広がっていった歴史があります。
1922年(大正11年)に木村文次は結婚。遠縁の柴田家に婿入し、柴田文次と改名し新婚生活をスタートしますが
1923年(大正12年)9月1日の関東大地震で被災し、妻子を含め親類縁者を失ってしまいました。
文次は傷心の中でも諦めることなく
9月10日に店を<吉田町>に移転して再起、復活を図ります。移転先は具体的にわかりませんが、
1930年(昭和5年)の資料には「木村コーヒー店」※吉田町58とありますので、位置は図の位置と思われます。
※1928年(昭和3年)屋号を『木村商店』から『木村コーヒー店』へと改称。
出典:キーコーヒー
明治14年ごろの吉田町
横浜工場が竣工。コーヒー、ココア、紅茶の缶詰物、コーヒーシロップ、清涼飲料の製造を開始し、「コーヒーは、日本人の新しい食生活と文化を開く鍵だ。」と考え、現在につながる<KEY>のロゴを制作。
1946年(昭和21年)本社機能を横浜から、東京支店(東京都港区芝田村町四丁目8番地)へ移すまで横浜吉田町が「木村コーヒー店」本店でした。
正面写真が無かったので遠景ですみません
その後、横浜本社だった拠点は横浜支社となり、場所も防火帯建築として健在の神奈川県吉田町第二共同ビルの一角に近年までありましたが、現在は撤退してしまいました。桜木町駅前、ぴおシティに輝いていた広告も幕を降ろしてしまいました。
横浜生まれ、吉田町で育ったキーコーヒー本社が再び横浜に戻ってくることを夢見て 簡単ですが紹介を終わります。

【バス物語】江ノ電バスラストラン

2019年(令和元年)12月15日
江ノ電バス横浜の2系統路線が廃止されるラストランの日だった。
大船駅から横浜駅までを繋ぐY2系統
栗木から横浜までのY3系統 
江ノ電の分類ではY16・Y17となっているが、表示はY2Y3。
「神奈川バスルート案内」では23系統・42系統と表記。
なんともわかりにくいバス系統が不思議な番号で綴られている。 横浜市内には市営、神奈中、臨港、東急、京急、小田急、相鉄、大新東、横浜交通開発、富士バスそして江ノ電など11社が路線を持っている。世界最大級と云われているバス会社神奈中を筆頭に、それぞれ<なわばり>みたいなエリアがある。横浜江ノ電は、戸塚駅より西に系統網を持っているが、際立っていたのが<Y2Y3系統>だった。
Y2・3系統は、終着点を「横浜駅東口」に設定している。つまり江ノ電の本拠地に近い地点から「下り」ルートが設定されている路線で、江ノ電が明治期の創設前に目指した鎌倉から黄金町までの路線に重なっている伝統?路線だったようだ。
江之島電氣鐵道、横浜電気株式会社(買収)の時代もあった。
江ノ島電気鉄道、東京横浜電気鉄道(傘下)、江ノ島鎌倉観光など目まぐるしく経営環境が変わった鉄道事業者である。
戦前の一時期神奈中バス(大東急時代)に経営を全面的に手渡したが戦後復活時にバス部門を取り戻し、江ノ電エリアから遠く離れたこの路線も取り戻した伝統あるものであった。 今回、2019年(令和元年)12月15日をもって
「大船〜横浜」という横浜市内最長クラスの路線が廃止されてしまった。過去に二度利用したことがあるが、平日午後利用客も多かった記憶がある。
もう一つの派生路線<栗木〜横浜駅>は数回利用したことがある。これも赤字路線とは思えない。 廃線理由は「運転手不足」という実に悲しい事態だった。運転手不足はこの10年、バス業界に吹き荒れた嵐だった。全国的な人手不足の中、神奈中・市営・京急などが集中するエリアで、江ノ電は今考えれば孤軍奮闘していたのかもしれない。 このY2・Y3路線の横浜・野毛大通り間のルートが不思議な経路を持っている点でマニア的にはとても面白い。 
これが無くなってしまったことはとても残念だ。 (上下分離路線)
横浜駅〜日ノ出町駅前までの路線について特記しておく。
<ルート>
■下りルート
〜日ノ出町駅前〜野毛町〜野毛大通り〜紅葉坂〜雪見橋〜花咲町〜高島町※〜横浜駅改札口前※〜横浜駅東口
※横浜駅東口行き方向のみ停車。
この印のある3停留所のみ江ノ電バスは別ルートを走ります。
■上りルート
横浜駅(東口)〜高島町〜花咲町〜雪見橋〜紅葉坂〜野毛大通り〜野毛町〜日ノ出町駅前〜<以下省略> 横浜駅東口、桜木町駅間のバスルートは上下線が別れているのが特徴です。
理由は桜木町駅前の交差点にあります。
ここは、国道16号線と、山下長津田線(新横浜通り)が並行している区間で、国道16号線が右折禁止のため並行する山下長津田線(新横浜通り)をバイパス道として使い、右折できるためです。
この路線が廃止されたのは残念でなりません。
ラストランの日、バスファンが多く乗り合わせる中、
日頃利用されているお年寄りがガラケイを出し記念撮影をしている姿が印象深かった。
「残念ね。20年利用していたのにね。今日はお休みなんだけど、最後に乗りたいから来ました。」と語っていました。
運転手不足で廃線しなければならないほど悔しいことはないでしょう。

第993話【一枚の絵葉書】根岸療養院

根岸療養院
前回は中村石川にあった「横浜市中央教材園」の絵葉書から導き出された風景を紹介しました。今回も前回と同様の「一枚の絵葉書」から横浜史の一風景を読み解いていきたいと思います。
この【一枚の絵葉書】シリーズは、手元の絵葉書から、そこに写し出されている風景を読み解きながら関連情報を探っていきます。
基本読み物としては鬱陶しくなってしまいますが、ご辛抱ください。
1000話までこんな感じです。
前回は 第992話 リケ児育成のために(修正追記)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12622
今回の一枚は「根岸療養院(山海館)」
第一印象はタイトル通り根岸の病院か結核療養施設の風景のようです。
Google検索でいくつか関連データが見つかりました。
「中区史」の地域編のなかで明治期の根岸開発の模様を伝えた記事がヒットしました。
中区史根岸療養院記述
「さらに四十五年七月には五坪(一六、五平方メートル)の家屋を改造した病室を持った根岸療養院が二、一四九番地に建てられたことである。」とあり<所在地>と<設立年>が判明しました。 1912年(明治45年)開設
場所は根岸村2,149番地
これをヒントに開設場所を地図で探ってみました。
手元にある地図では明治45年(大正元年)近くのものが無く、少し時間の経った大正12年、震災前発行の地図から「根岸療養院」の場所を探してみました。
大正12年4月根岸
遡って明治14年の迅速図、昭和に入った根岸周辺地図でもあたってみました。
明治14年根岸
昭和4年根岸
本牧・根岸は戦後海岸線が埋め立てによって大きく変貌しましたが、当時の「根岸療養院」からは眼下に海が広がっていた事でしょう。 ではこの療養院はいつまで存続したのか?Google検索から
大正12年の関東大震災における「横浜・神奈川での救援・救済対応」という震災資料がヒット。
「神奈川県庁は、9月2日、桜木町の海外渡航検査所に救護(治療)本部を置き、傷病者の治療を開始した。3日、同所に県庁仮事務所を置き、高島町の社会館内に傷病者の収容所を設けた。社会館は県庁が震災の2年前に開設した労働者のための宿泊施設である。既に述べたように、同日、衛生課長の下に救護(救療)、衛生材料調達、死体処理などの係を設けて衛生課職員を配置した。医師、看護婦は、横浜市の十全病院、根岸療養院より借り入れ、また、臨時の募集を行って不足を補い、救護本部や社会館内の収容所に配置した。」(中略)「根岸療養院は個人の経営する結核患者の療養所だったが、震災以後、結核患者を郷里に戻し、9月8日から30日までの間、一般傷病者の収容を行った。受診患者数(延べ)は入院1,803人、外来4,299人であった(『神奈川県震災衛生誌』)。10月以後、日本赤十字社に療養院の建物と器具、職員が無料で提供されて、同神奈川県支部の臨時根岸病院となった。
と記載されていました。日本赤十字社と関係があったことが伺えます。
日赤の資料も探ってみると
1924年(大正13年)結核専門の療養施設である根岸療院を開設。とありました。これだけでは根岸療院=「根岸療養院」なのかまだ確定しませんが、この「日赤根岸療院」が源流となったのが昭和21年に改称された「横浜赤十字病院」です。
そして現在の「横浜市立みなと赤十字病院」につながります。
横浜市立図書館のオープンデータに
1917年(大正6年)発行の横浜社会辞彙という当時の紳士録に近い資料がありその中に「根岸療養院」について記載された概要を下記にまとめました。横浜社会辞彙「根岸療養院」項目に院長の名がありませんでしたが、個人名から創設者が<大村民蔵>ということがわかりました。 院長 大村民蔵
根岸2194番地
電話2411番
敷地 2500坪 全9棟 延べ床 525坪
 個人病室 30室
 共同使用病室 8室
全体で凡そ100名の患者を収容。
1912年(明治45年)7月18日 根岸に開設
1913年(大正2年)7月春心館を建築
1915年(大正4年)7月山海館(2階建て)
8月 静温館
10月 浴室等完成
日運館・赤心館
(庭園)松林・梅林・菊園・ダリア
この時点で、図書館DBで他の資料が無いか確認した所
創設者である大村民蔵氏の資料(自伝)がありましたので 創設者大村氏を追いかけてみました。
膨大な自叙伝ですのでプロフィールの一部分だけ紹介します。 大村民蔵
山口県防府市 出身
1869年(明治2年)11月22日
大村茂兵衛の四男として生まれ
17歳のときに故郷から横須賀に移り、役場に勤めた後、鉄道局駅吏として横浜駅(現桜木町駅)に勤務しますが、初心を貫き東京に出て「済生学舎」に学び医師資格を目指します。
1897年(明治30年)12月医術開業試験に合格し医師の道を歩み東京荏原(品川)の病院に勤務します。
※「済生学舎」1876年(明治9年)長谷川泰により設立された医師を目指すための医師免許専門の学校でした。
 野口英世・吉岡弥生・荻野吟子らがここで学び、医師の道をめざしました。
1898年(明治31年)に佐野常民より「日本赤十字社社員」の辞令を受け、これが現在に続く横浜との因縁の一つとなります。
横浜との関係は、東京時代に警視庁警察医務の嘱託となったことで
1900年(明治33年)に神奈川県監獄医務所長の辞令を受け根岸にある監獄署官舎に引っ越したことに始まります。
翌年34年には現職のまま研鑽のため北里柴三郎に就き伝染病学を学ぶことになり、これがキッカケで北里人脈が広がります。
1902年(明治35年)に根岸町871番に診療所を開き亡くなるまで横浜市内で医師として活躍することに。
1924年(大正13年)3月31日
「根岸療養院を、日本赤十字社神奈川支部に結核予防と治療を継続する条件にて譲渡し、根岸療院と改名す。
→ここで前述の 根岸療院=「根岸療養院」 が確定しました。
大村民蔵氏はその後も日赤と深く関わることになり、戦後は地域の医者として94歳まで診療に携わり
1969年(昭和44年)12月101歳で亡くなります。 根岸療養院を支えた多くの医師の中でも初期の二人。
医学博士 守屋 伍造
医学博士 古賀玄三郎

 ともに伝染病研究所で所長だった北里柴三郎の門下生でここ「根岸療養院」との関わりだけでもさらに深い物語が登場します。
志賀潔、浅川範彦、そして守屋 伍造の三名が部長として片腕となり、ここに助手として入所したのが野口英世でした。
■古賀玄三郎は
1879年(明治12年)10月20日生まれ〜1920年(大正9年)
佐賀県三養基郡里村(現:鳥栖市)出身。
1899年(明治32年)長崎第五高等学校医学部卒
上京し、東京市築地林病院(築地五丁目)医員となる
1901年(明治34年)岩手県盛岡市立盛岡病院外科部長。
1910年(明治43年)京都帝国大学医学部に入学、特発脱疽の研究(「チアノクプロール」(シアン化銅剤)の開発)、治療法で博士号。
→当時古賀玄三郎博士によって開発された注射液「チアノクプロール」を1915年(大正4年)7月15日に初めて試みたのが有島安子で作家有島武郎の妻だという記載資料がありました。ここでも横浜と繋がります。
1920年(大正9年)
10月17日大連市(中国東北部)で開催された満州結核予防会 発足にあたり記念講演後、
10月18日大連駅で倒れ、21日に亡くなります(41歳)。
大村民蔵氏は師の北里柴三郎はもとより、福沢諭吉とも関係があったようです。
中でも北里柴三郎は1927年(昭和2年)横浜の絹織物商・椎野正兵衛商店の長女・婦美子と再婚しています。
成功名鑑飯島栄太郎
追いかければキリがないくらい様々なつながりが出てきますが
ここでは最後に 横浜の財界人であった飯島栄太郎氏を紹介しておきます。
「横濱成功名誉鑑」にも登場する飯島栄太郎は境町(現日本大通り)「近栄洋物店」のオーナーとして、創業者であった飯島栄助を継ぎ家業の外国人向けの雑貨店を発展させます。創業者の栄助は近江彦根の出身、幕末期京阪、江戸(東京)を放浪の末、明治3年に元町で業を起こし成功します。明治9年に境町2丁目に移転、西洋雑貨取引で財を成し、
明治31年 息子飯島栄太郎に譲り、栄助は予てより取得していた根岸の別荘に<隠居>
明治38年12月に亡くなります。
飯島栄太郎は、家業の雑貨商だけではな無く、アメリカに留学または滞在し、日本に帰国したのち政界・経済界で活躍した人々が集まり、交友を深め便益をはかることを目的に、明治31(1898)年に設立された米友協会の会員として活躍します。
微妙な日米関係となった白船来航時には、国を挙げて米国艦隊を迎える中、大谷嘉兵衛、野村洋三、浅野総一郎や左右田金作とともに歓迎の晩餐会を開催、日米関係の融和に努めました。
【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7201
彼の表した『米国渡航案内』は明治期の渡米ガイドとして大ベストセラーとなります。
 さらには飯島栄太郎の妻・飯島かね子もまた津田梅子に学び「帝國婦人技藝協會」を創立した傑女でした。 またまた遠回りになりましたが、
飯島栄太郎の父、「近栄洋物店」の創設者 栄助が隠居した根岸の別荘が栄助死後、空き家になっていた関係から
友人だった 大村民蔵のサナトリウム計画に協力し、別荘と敷地を譲渡することになりました。 ネット検索の過程で
「根岸小学校は全国でも最も早い時期に学校医の制度を導入したことで知られる。校医は日赤の実質的創設者でこの地で長年結核の治療にあたった大村民蔵氏」とあり、検証してみました。
学校医は明治期から法律的に導入されている制度で
「1894(明治27)年5月に東京市麹町区,同年7月に神戸市内の小学校に学校医が置かれたのが日本における学校医の始まり」であり、大村民蔵氏が根岸小学校の校医を拝命したのが1903年(明治36年)のことでした。また日赤の実質的創設者というのもおそらく間違いです。
「根岸療養院」は神奈川県内の日赤病院草分け的存在といえるでしょう。
という感じですか。
後から発見した別の全景がわかる根岸療養院はがき。
一枚の絵葉書の風景から様々な関係が見えてきました。
大村民蔵は近くにあった「根岸競馬場」とも関係があり、競馬に関するエピソードも満載です。
まだまだ人・場所・出来事との興味ある繋がりがありますが、
今回はここまでにしておきます。

第992話 リケ児育成のために(修正追記)

<絵葉書の風景>
一枚の絵葉書風景を読み解きます。
タイトルは「横浜市中央教材園」です。
高台にあるこの施設はタイトルが示すとおり「中央教材園」の温室と関連施設と思われます。
設置されている場所は現在の「石川小学校」の隣接地で、敷地内の北側に位置した場所に「温室」と「植物栽培用の耕地」がありその一部です。
写真の右端に見える大きな建物は、天正5年(1577)に創建した「玉泉寺」と思われます。
当初明治五年に開山した浄光寺と判断しましたが、ご指摘を受け当時の地図と角度を合わせ、異なることを確認しました。
石川小の前を通る坂は坂は「遊行寺坂」と呼ばれこの近くに生まれた作家の吉川英治も歩いた坂です。
遠景は中村町一・二丁目が眼下に見え、遠くには関外(吉田新田)エリアが広がっているのがわかります。隣接する浄光寺は時宗総本山「遊行寺」 藤沢清浄光寺と同じ<時宗>のお寺です。

玉泉寺と中村川
※大慈山瑠璃院玉泉寺
天正5年(1577)に創建
高野山真言宗
横浜市南区中村町1-6-1
関東大震災で全て消失。
昭和6年202坪の本堂が竣工。 写真に写っている本堂は昭和6年に竣工したものと思われます。
撮影時期が少し絞り込まれました。
[教育施設の基本]
絵葉書の「横浜市中央教材園」とは何なのか、少し資料を追いかけてみました。
一昔前まで、進学時には<理系><文系>という分岐点がありました。未だ色濃く文系・理系の区別がされていますが最近では統合型の教育もかなり導入されるようになってきました。
そもそも文理の分離!?
は高校あたりの<数学>との付き合い方で変わってきます。
数学に通じたリケ女がクローズアップされてこうネーミングされると理系が少し”近くなる”と感じるのは文系おじさん現象でしょうか。 冗談はともかく、教育、特に自然科学系には教室と教師だけではなく実験室や教材の準備他 様々な設備を必要とします。
戦前の初等教育でも自然科学系教育の設備投資は厳しかったのかもしれません。いつの時代も必要性を説いた先人が新しいジャンルを切り開いてきました。
下記の文面は大正15年に発表された「中央教材園の必要」と題されたものです。
ここでは
理系児童の育成プログラムとして教育用の植物教材を提供するための「植物園」開設が説かれています。 「市民をして特に自然科学の一般に習熟せしめようとするいわゆる自然研究の第一歩は小学校における博物教育の実績いかんにかかる。それにはまず生徒をして十分博物(ここでは特に植物に関する方法を指す)の知識を授ける手段として実物に日夕親しませる必要がある。このためには本来ならば各学校に植物園、植物見本園、栽培園のごときものを併置するのが最も有数であるが しかしこれはいうべくして行われる程度でない。殊に狭い都市の中には小学校の校庭を占めるさえかろうじてできるくらいなのにどうしてそれ以上贅沢な圃場までとることができよう。」ということで、各小学校に<教材>をおくるための施設「教材園」が必要だ!と説いています。
「この種の計画には相当広い面積を必要」
「相当経験のある技術者」を揃えれば各学校に必要な植物教材(苗木・種子・切り花)を配布できる。ということで、この資料には 小学校教材になりうる植物の一覧が紹介されています。一部を紹介しましょう。 リストでは「栽培容易」「栽培困難」に分類されていて、
パインアップル、マニラ麻、コーヒー、オリーブ、マングローブ、ユーカリ、やし 等
熱帯地域の植物もリスト化されていました。
そこで「温室」が必要となったのでしょう。
現在ではごく普通の「温室」(ビニルハウス)風景ですが、温室装置設置は戦前、丈夫なビニールなど無く板ガラス、強度を保つ枠など当時の最先端技術を必要としました。
横浜市は全国に先駆けて自然科学教育教材用の植物を育成する温室をここ「石川小学校」に隣接した高台の一角に「横浜市中央教材園」を昭和4年に開設します。
昭和7年ごろの石川小学校付近。教材園は南東に隣接したところに開園。
徹底調査していませんが、絵葉書に写された「横浜市中央教材園」は別の資料にも日本で唯一という表記があり、当時はかなり珍しかった施設と思われます。
この「横浜市中央教材園」
横浜市南区中村町1丁目66番地
に設置されていました。
中央教材園に関して簡潔にまとまった沿革が「横浜市学校沿革誌」にありましたので紹介します。
「石川小学校わきの山谷埋立地を昭和2年7月より整地開墾し、昭和4年4月27日、石川小学校の校舎落成式と同時に開園式を行い、1,250坪の教材園を開園した。
当時は植物教材の配布、温室による観察等に機能を発揮していたが、昭和19年8月以降は戦争が激しくなったので、農業指導所(経済局所管)になり、温室も取り払われて食料増産園となった。
昭和26年6月に至り再開されることになり、運営委員会も組織され温室も再建され、花壇、薬草園、蜜蜂園等も年を追って充実を重ねて観察用、研究用、又は教材の配布に活動している。
また、中央教材園の活動を地域的にたすけるため、大鳥小、鶴ヶ峰小、本郷小、金沢中、杉田小、潮田中、六角橋中、富士見台小、市立商業高、谷本中、谷本小に分園が置かれている。
連合協力園として間門小、根岸中、浜小、杉田小、文庫小、市沢小、新治小がある。
昭和50年2月、南区六ツ川所在の都市公園に設置を進めている「こども植物園(仮称)」内に移転した。(横浜市学校沿革誌)」
まとめると
 昭和2年に準備が始まり
 昭和3年に完成、翌年昭和4年新学期に隣接している石川小学校校舎新築と一緒に開園式を行い
 昭和19年に閉鎖
 戦後昭和26年に再開され昭和50年に南区六ツ川「こども植物園」内に移転
戦後の復活した後の施設レイアウトです。地図にあわせて北を上に向け画像を回転させました。
昭和27年ごろ、教材園の表記は無く更地のようにも見えます。
[設置目的]
 当時の教育課長であった中川直亮の話によると
 「理科教育の基本である観察・実験・実習・直感の育成過程において、
 教材はできるだけ実物を見せなければならない。」

 ※特に都市部の教育には本物が求められる。
 「直接実物に接しさせることによって、自然の理をわきまえ、自然の美を感得することになる。」
  と語っています。
[運 営]
 そこで、この「横浜市中央教材園」が 市内初等教育における
理科学習教材供給センターとしての役割を担いました。
当時の記録では、季節季節の植物教材がまとめて栽培され、市内各校の自転車・リヤカー等を使って配布し、配布した植物の栽培育成方法を技術指導に赴いていたそうです。
開園から2年たった昭和6年にはさらに規模を拡大し、六角橋に分園(専用農園)を開き、養蚕実験も開始します。養蚕に必要な桑葉は小机から運んだそうです。
見学に来た子どもたちの人気は養蚕風景・バナナ・パイナップルなどの熱帯植物だったそうです。
養蚕風景。本文とは直接関係がありません。
戦後、教材園を見学する子どもたち。
「横浜市中央教材園」
基本的に北斜面という恵まれない条件でした。植物育成には南斜面が必要ですがなぜここに「教材園」設置が決まったのか、これに関する資料には出会っていません。
理由を考えた時、この中央教材園が設置された石川小学校の歴史が古く、学校経営とも深く関係があったと想像しています。
<石川小学校>
1872年(明治5年)「養賢学舎」として「玉泉寺」境内に設立した古い歴史を持っています。明治33年には児童数約1,300人を抱え、学区は石川町、石川仲町、中村町でした。
植物園は独立組織でしたが温室管理には学校の協力が欠かせません。当時の校長であった荒波階三以下教師陣による積極的姿勢が関係していたかもしれません。校長を勤めた荒波階三は平沼小学校の訓導(教諭)から大正13年11月に就任、新校舎造営に関わり昭和3年10月の新校舎落成後、平沼小学校長に転任しています。その後「青木国民学校長」を戦後まで勤め昭和21年の三ツ沢小学校への統合を終え退職しています。
もう一つ、ここに温室のある植物園が設置された理由と思われる要素がありました。
この石川小学校近くには明治期から国際的な植物ビジネスを手がけてきた「横浜植木」があります。
横浜植木
https://www.yokohamaueki.co.jp
明治期に創業、いち早く世界の植物サンプルを集め、米国にも支店を出すなど、当時の日本園芸、植木業界のリーディングカンパニーとしての業績を今に残しています。間接的かもしれませんが、横浜植木の技術的支援を受けた可能性は高いと思います。 [その後]
横浜市こども植物園
■沿革
・横浜市こども植物園の前身は昭和30年に世界的な植物遺伝学者、木原均博士が財団法人木原生物学研究所を、京都市郊外の物集女(もずめ)から移転してきたところから始まる。
横浜市はその一部を昭和45年3月、公園用地として買収し、当初は横浜市教育委員会が、児童、生徒の理科学習や教職員の野外研修所「子供自然教育園」として使用し、その後、教育委員会の中央教材園分園として活用していた。昭和49年に教育委員会から緑政局へ管理移転されて、公園整備工事に着工し、昭和51年度都市緑化植物園として都市計画決定を得て整備を続けた。
昭和54年6月23日国際児童年を記念し、世界で唯一、「こども」と名のつく植物園として開園した。
目的
 ①横浜市こども植物園は、一般の都市公園とは異なり、植物を題材とした自然史博物館的施設として、多くの種類の植物を収集・保存、育成・展示し、利用者に観賞してもらうことを目的としている。
 ②植物をとおして、自然に親しむことにより、子供が植物に関する知識を深め、緑を守り・育てる心を育むことを目的としている。
 ③機能的には植物研究型やレクレーション型の植物園ではなく、主に子供を対象に普及啓発的活動をとおして教育する指導型の植物園である。
[概要]
果物園(木原博士のコレクションが元になっている200年以上存続した品種の保全接ぎ木等)
花木園(教材園の頃からあった樹木を中心に、生活や文化との関わりの深い代表的な種で、話題性のあるものを選んで植栽している)
薬草(身近な薬草をはじめ、染料、香料、工芸、油料植物等、生活に利用する植物や、役立つ植物を植栽展示)
生垣園(生垣として用いられる代表的樹種28種をあつめ、植栽展示)
シダ園(日陰地を利用し、約50種を植栽展示)
タケ園(生活に深い関わりのあるタケの仲間をタケ、ササ、バンブー類に大きく3つに分類し、30種を植栽展示)
その他:市内に自生する野草約150種を使って、ロックガーデン風展示。市内の海岸から平地・山地まで自生する野草という観点で植栽している。
温室群・管理圃場・実習圃場・池(水生植物見本園)
現時点ではここまで、
なにか新資料に出会ったら、さらに追いかけてみたいと思います。 石川小学校
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/ishikawa/ No.225 8月12日 (日)太夫 打越に死す
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=382

【閑話休題】

第990話 近代・ミシン・横浜
を三回に分けて書きましたが、結果消化不良になってしまいました。
この事件は、偶然書店で購入した「ミシンと日本の近代」の中で横浜中央店を舞台にした労働争議の模様が実に詳しく書かれていたので、簡単に紹介してみようと思い立ちました。
「シンガーミシン争議」は横浜市史に書かれていたので概要は知っていましたが、
歴史や市場背景に関しては追いかけていませんでした。
なぜ”ミシン”で乱闘事件が起こったのか?
詳しくは「ミシンと日本の近代」を!
「ミシンと日本の近代」
ミシンは日本の近代化を考える上でとても興味深い道具です。欧米より日本の近代化におけるミシンの存在は大きいでしょう。<和服>から<洋服>へ そして近代軍隊への転換にミシンは重要な役割を担ってきました。
確かに軍服という近代の象徴はうなづけます。ここに日清・日露戦争による未亡人・女性の自立があったり、女性の総合教育の機能を担ってきた背景があります。
一方で企業のグローバリズム化による初期資本主義の弊害をここにみることができます。 横浜を素材に日本の近代化(異文化の受容)を考えてみたい。
これが現在の私のテーマです。
異なったこと、違うモノを受け入れる際の「受容と拒否」が近代化の日常でした。異なったことを<新しいこと>に置き換え、新しいことは<良いこと>という物語を維持しながら、日本は比較的スムースに近代化の道筋を歩んできたように思います。
開港開国以降、明治維新を経て、日本の近代化はある意味”節操の無い”程の積極的受容を試みます。歴史家の中では「不平等条約」を撤廃するための受容だった、と分析している方もおります。
異文化導入をテコに、武士政権から天皇を軸にした立憲君主的な政治構造への変革を遂げるには近代化の需要は必須だったのかもしれません。
日本人はアジアの中で早く近代化の道を歩み始めます。時期的にも 受容の速度としても早かったことは事実です。 横浜の明治から大正期の人通りから 横浜でも圧倒的に女性は和服だということが分かります。
当時の服装を絵葉書から眺めてみます。
伊勢佐木、花見煎餅、玩具の満利屋、ガス灯が見える。人々はほぼ和装。自転車も普及。
伊勢佐木町界隈の風景。ハットをかぶる男性、傘をさす和装女性、和装の従業員、自転車に乗る白服男子
野毛の風景。車夫以外は和装。右側は最近閉店した醍醐三河屋茶店
大正末期の風景、母親は和装、子供は洋服(制服か)
明治期の子供たち。
大正初期の風俗絵。尻にひかれている子供を背負う洋服の夫と和装の女性。

第990話 近代・ミシン・横浜(3)

シンガーミシン騒動 in Yokohama
神奈川県警史には「戦時体制下の警察ー特異事件ー」に一項目立てて記述しています。
五.シンガーミシンの乱闘事件

神奈川県警史

ここでは4pを使って<乱闘事件>の概要を警察視点で説明しています。

また
横浜市史でも「労働者状態と労働運動」の項で
「シンガーミシン争議」
 として6pにも及ぶボリュームを使って触れています。
「横浜を舞台に、外資系企業で「民族意識に燃えた特異な」労働争議が発生した。」

横浜市史でも神奈川県警史でも<特異>であるとしています。
この「シンガーミシン争議」は、それまでの資本家(企業側)と労働者対立である労働争議とは異なる事件でした。

事の発端は
1932年(昭和7年)8月にシンガーミシン神戸支店に勤める従業員がシンガーミシン本社に向けて待遇改善を求めたことに始まりますが、
ここに至る背景には日米の企業の経営方式の違いや
シンガーミシン労使関係のこじれが積み重なっていました。
まず時代背景ですが
1901年(明治34年)まさに20世紀、日本に進出したシンガー社は同時に世界市場を席巻、「世界初の成功した多国籍企業」(ハーバードビジネスレポート(2003年))と呼ばれたグローバル企業の騎手でした。
20世紀前半が複製、大量生産、均一化の時代の始まりでした。工場・学校・映画などが時代を大きく変え始めます。
特に大量生産を具現化したのが<machine>でした。
しかも<服製造>という日常を席巻したのが<ミシン>でした。

1929年(昭和4年)10月にアメリカ合衆国で起き世界中を巻き込んでいった<世界恐慌>の影響が遅れて日本にも及び、昭和恐慌と呼ばれた不景気に陥ったことで販売不振に陥ったことも労働問題を悪化させました。

米国有数のグローバル企業シンガー社は
日本に進出した1896年の前、
1890年には 「SINGER brand reaches 90% market share globally.」と自社サイトでも告知しているようにほぼ市場を独占していました。
本社をニューヨークに置き、資本金十四億円、
明治38年に起こった<日露戦争>当時の日本の国家予算
一般会計が4億2000万円。
軍事費が7億3000万円、あわせて11億5000千万円より大きい資本金を保有していました。
神戸に日本総支部(現地本社)を置き、横浜、大阪、神戸、京城に中央支店と呼ばれる地位拠点を設けました。各中央支店には代表として本社社員(外国人)が就き、事務員(有給社員)と歩合給の販売員が雇われていました。
販売社員は全て固定給なしの歩合給で、
しかも入社に際し200円という大金を保証金として会社に納め、信用保険に強制加入、さらに国税10円以上を納める人物二名の保証人まで求められたという始末です。

販売組織は中央支店の下に各分店(販売店)を置き、
分店(販売店)は顧客に一台250円で販売し一年12ヶ月月賦で販売、毎月集金人が回収する方法を採っていました。
販売員は現金入金額の歩合で給与が支払われましたので、月賦回収が遅れると賃金も遅れ、回収不可能となった場合、退職の場合には<保証金><保証人>から回収という方法が採られました。
さらに昭和恐慌が起こったこと、この明治期に採用した特殊の雇用関係は日本が<働き方>の変革を進める中も変わらぬまま継続され続けます。
ここに販売員の不満が爆発することになった訳です。
従業員は交渉を求め、米国本社は一切の要求をはねつけます。経営者側は従業員を甘く観ていたようです。実力行使に出た従業員に対して米国から極東支配人リチャード・マクリアリーがホテルニューグランドに拠点を置き、強行な姿勢を貫きます。
「要求は全て拒絶」しこれをキッカケに従業員の結束が固められ
最終的に横浜を舞台に大乱闘事件が起こり外交問題にまで発展します。
会社側は信興団という暴力団を雇入れ、争議団体を威圧、それまで比較的左翼労働者組織に加盟しなかった争議団は組合を結成、総同盟に加入するという全面対決の様相となります。
1933年(昭和8年)1月18日争議団体のリーダー山本東作の下で実力行使を決定。
朝10時半に150名を集めさらに他の支店からも横浜公園に集合し
花園橋脇にあった横浜中央店に<薪>を手にして乱入。

中央店の位置はこのあたり?(未確認)

会社側は信興団が30名待ち構え、
ここに仁義なき大乱闘が始まります。重傷者1名、負傷者27名が出て店内はほぼ破壊されました。
事件は、
加賀町警察による争議団側の幹部175名逮捕で終局します。内、48名が起訴されますが、事件の内容としては実に寛大な措置となりました。
その後も警察が双方の間に入り、横浜商工会議所とともに調停に乗り出し争議団は一部の要求を実現しただけで渋々和解に応じます。
『全従業員をニグロ視する謬見を止めよ!』
『ヤンキー資本家』
途中で離脱した日本人従業員には
『日本人ながらも唐化している、米国のスパイ』といった発言もみられ、
新聞も警察もやや労働者側寄りになりという日本の戦前労働争議としてはナショナリズム(反米)と資本主義、社会主義が入り混じり不思議な事件として結末を迎えます。

結果、
米国大使(ジョセフ・グルー)、米国国務長官までがこの事件に言及し事態の回復を求めますが、時は日米対立、開戦へと向かうことになります。
多くの従業員が職場を離れ、国内企業に移動しシンガー社は殆どシェアを失います。
戦争を経て戦後の日本ミシンメーカー発展の大原動力となり、戦後のミシンブームを支えることになります。シンガー社は戦後販売組織を回復しますが、殆どシェアを回復することはできませんでした。

昭和7年ごろの日本政府は
~1932年(昭和7年)5月26日まで
犬養 毅(政友会)内閣 5・15事件のため首相暗殺のため総辞職し
1932年(昭和7年)5月26日~
斎藤 実(海軍)内閣が成立1934年(昭和9年)7月8日まで
当時の
駐日米国大使は
 戦後「本当の意味の知日家で、『真の日本の友』であった」と吉田茂が評したジョセフ・グルー(Joseph Clark Grew、1880年5月27日〜1965年5月25日)
1932年(昭和7年)2月19日(任命)〜
1941年(昭和16年)12月8日 太平洋戦争開戦時の大使

うまくまとまっていませんが参考資料が多く出されています。
日本労働史の視点からも実に興味深い事件です。

□追記
シンガーミシンの負の面ばかり紹介しましたが、
前回の章で洋裁学校の誕生を年表に記しました。
「シンガーミシン裁縫女学院」が東京、大阪、横浜等に開校され
日本の洋裁学校の草分け的存在となります。
ここから文化服装学院、杉野ドレメ、横浜洋裁専門女学院=岩崎学園
 他全国に広がりました。

第990話 近代・ミシン・横浜(1)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12530

第990話 近代・ミシン・横浜(2)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12535

第990話 近代・ミシン・横浜(2)

シンガー日本市場を席巻
戦後生まれの人には<ミシン>といえばシンガー以外にジャノメ・ブラザー(安井兄弟社)・ジャガー(丸善ミシン)といった国内メーカーが登場しますが、戦前は圧倒的にシンガーでした。

幕末、横浜に初めて上陸したミシン=sewing machineは
明治期に認知されるようになり、洋服を製造する産業機械として輸入されました。
和服から洋服への転換が必要であった<軍><警官><鉄道員><郵便夫>他公務員の制服製造への導入を皮切りにミシンは日本全国に普及していきます。
キャッチアップが得意な日本人は、輸入されたミシンを元に国産化に挑戦しますが、20世紀に日本上陸を果たしたシンガーによる内製化した大量生産体制の前にほぼ独占状態を許します。
シンガーミシンの成功は後の自動車産業とほぼ同じ歴史を歩みました。フォードはシンガーの成功例に多くのことを学んだかどうかは不明ですが、
シンガーミシンの企業戦略の特徴は
本体機械と部品規格化し内製化を進め、訪問による月賦販売や操作指導(学校開設)といった総合的な販売システムであったことです。
一時期は、日本全国ミシンはシンガー!という時代を築きますが、昭和初期に起こった横浜を舞台にした一大争議と戦争というタイミングから一気に日本市場から消滅し、戦後もシェアを取り戻すことができませんでした。
簡単にシンガーミシン史をベースに洋服と日本におけるミシン普及の足跡を追ってみましょう。

<>は日本国内関係
1851年(嘉永4年)創業者アイザック・メリット・シンガーが(I.M.Singer & Co.)を創立。
 第1号実用ミシンの特許取得。
1853年(嘉永6年)シンガーミシン1号機が100ドルで発売される。
1855年(安政2年)パリ万国博覧会で最優秀賞を受賞。
1856年(安政3年)個人向け月賦購入制度、分割払い販売等を考案。
1858年(安政5年)年間売り上げが3000台達成。
1863年(文久3年)所持特許数が22に登る。シンガー裁縫機械会社として資本資産550,000ドルを超え初代社長はインスリー・ホッパー就任。
<日本国内では、横浜居留地97番にピアソン婦人がドレスメーカーを開店、ヒュースケンがミシンを輸入し横浜の商館で展示する、日本人がミシンを購入>
<山岸民次郎横浜山下町舶来屋「オランダ屋」に住み込み>
1865年(慶応元年)Singer Manufacturing Company に改称。
1866年(慶應2年)<セールス・フレーザー商会(洋服店)開業→翌年閉店し道具一切を佐藤与次郎に譲渡>
1867年(慶応3年)スコットランドのグラスゴーでミシン海外製造開始。
<片山淳之介「西洋衣食住」の中で背広を紹介>
<この頃の洋服製造技術は横浜居留地に集中、東京には洋服店が殆ど見当たりませんでした>
1871年(明治4年)<茅場町に「柳屋」開店>
1872年(明治5年)<明治天皇が初めて西洋式スーツを着用して公の場に登場>
 <慶應義塾衣服仕立局を開設、ミシン2台購入>
1877年(明治10年)<西南戦争に伴い軍服大量生産のためミシン導入>
1883年(明治16年)シンガー生産拠点英国に拡大。
 クライドバンク市に週に10,000台生産可能な巨大製造工場設立。
1884年(明治17年)半期販売数、横浜490台、長崎90台、兵庫55台(635台)
1887年(明治20年)<この頃から足袋縫製にミシンが導入される>
1889年(明治22年)初の電動式ミシンを発売。
1890年(明治23年)シンガー東京有楽町に本部を設立。(1900年説もあり)
<5月10日嘉仁親王(大正天皇)、九条節子(さだこ)と結婚。>
<陸軍被服本廠 設置>

1901年(明治34年)横浜・神戸「中央店」を軸にシンガー全国販売体制を短期間に整備。
1903年(明治36年)首位だったドイツ製を抜き首位に。農商務省を辞して秦敏之入社。
1904年(明治37年)ミシン裁縫女学院 神田区表神保町一番地に設立の記事あり。

1905年(明治38年)<第26代大統領セオドア・ルーズベルトの長女アリス・ロングワース・ルーズベルト(21歳)がアジア歴訪で来日。昭憲皇后に面会した際皇后から「アメリカのミシンが欲しい」とリクエストがあった>


1906年(明治39年)”シンガーミシン裁縫女学院”を東京・有楽町に開校(設立願受理)。極東支配人は秦敏之で校長は妻の秦利舞子(はたりんこ)。その後、大阪、横浜他各地にも裁縫女学院を開校。
1907年(明治40年)3月 269名在籍。4人でミシン1台という学習環境。秋には定員1,000人へ。生徒20人に13台程度の環境とある。
1908年(明治41年)<名古屋で安井商会=ブラザー設立>
1910年(明治43年)”シンガーミシン裁縫女学院”閉鎖。
1912年(大正元年)”シンガー裁縫刺繍院”開設。
1913年(大正2年)シンガー世界販売数250万台を突破。
1914年(大正3年)第一次世界大戦の影響でドイツ製ミシンからシンガー全盛期に。
1916年(大正5年)”シンガー裁縫院”に名称変更。
1918年(大正7年)大阪神戸横浜に中央店、全国に30監督所、600店の支店。
1919年(大正8年)<並木婦人子供服裁縫教授所、開校>
1921年(大正10年)<パイン裁縫機械製作所=ジャノメ、設立>
1922年(大正11年)<並木婦人子供服裁縫教授所、文化裁縫学院→文化学園>
1926年(大正15年)<杉野芳子「ドレスメーカー・スクール」開校>
1927年(昭和2年)<横浜洋裁専門女学院=岩崎学園 創設>
1929年(昭和4年)ミシン輸入が最高潮に年間61,144台に達する。
 国内シェア95%に達する。
1932年(昭和7年)※シンガー労働争議 横浜が最も最大の闘争舞台に。
1934年(昭和9年)<パインミシン、中野工場敷地内に日本洋裁学校開校>
1938年(昭和13年)<東京重機製造工場=JUKI、発足>
1939年(昭和14年)アメリカが対外物資輸出を禁止しミシンが含まれる。

ミシンと日本の近代
<参考文献>
ハマことば
参考文献「ハマことば」

外国資本に対して史上最大の労働争議となった
※ 1932年(昭和7年)シンガーミシン騒動は
大正期から昭和にかけて起こった多くの労働争議とは異なった背景の中で、その後のミシン業界が大きく変化するキッカケになりました。
(つづく)