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わだじゅんけん 物語

前回から続きます。
少し横浜から 離れます。
松屋中興の祖、内藤彦一は
東京商工会議所の議員をしていた頃、藤沢の鵠沼に1,000坪ほどの土地を別荘地として購入します。
近隣には後藤たま(帝國興信所創業者夫人)邸や、三輪善兵衛(ミツワ石鹸創業者)邸他 政財界の豪邸が立ち並ぶ別荘地でした。
http://kugenuma.sakura.ne.jp
上記サイトを参考に「内藤彦一 邸」周辺の別荘人脈を乱暴にプロットしてみました。
ここには、益田孝をはじめ多くの三井人脈が別荘を所有していたことが解ります。
lig_鵠沼に別荘作家芥川龍之介も
時期は少しずれますが鵠沼雑記に当時の様子を描いています。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card2328.html
当時、東京商工会議所は生活改善運動を掲げ「生活の簡素化」「住宅難問題」などを活動目標にしていました。
そこで内藤は「生活の簡素化」「住宅難問題」を実践する試みとして、
米国の組立家屋(ブレハブ住宅)を輸入し鵠沼に建てることを試みます。完成までにはかなりの苦労があったようです。シアトルの住宅会社アメリカン・ポータプル・ハウス社(American Portable Houses Co.)の組立家屋(プレハブ住宅)を発注しますが、船便で部材は痛み横浜港に荷揚げされた部材の通関業務にも苦労したそうです。これが日本初期の組立家屋(ブレハブ住宅)といわれています。
※1910年(明治43年)東京赤坂に建てられた藤倉五一邸がツーバイフォー住宅を導入しています。1920年(大正9年)7月に内藤邸は完工し、当時の建築雑誌や「主婦の友」といった家庭誌にも紹介されます。関東大震災で周囲の家屋が殆ど倒壊する中、内藤邸は基礎部分と20cm程度ずれが生じたものの戦後も長く現役だったそうです。この鵠沼 内藤邸を組立家屋(ブレハブ住宅)で建てる企てに一人の建築家が関わります。

彼の名は“和田 順顕(わだ・じゅんけん)”

松屋の成長期を支えた建築家です。
1912年(明治45年)に東京美術学校を卒業し、松屋・鶴屋に勤めます。
明治35年に帝大工科建築学科を卒業した古宇田 實の下で横浜「鶴屋呉服店」社屋建設に携わり建築の腕を磨きます。
その後、1915年(大正4年)に独立し建築事務所を開設します。
鶴屋・松屋との関係は切れず
1917年(大正6年)鶴屋創業者古屋徳兵衛の別荘を手がけます。
これが縁かどうかわかりませんが
1920年(大正9年)に
松屋支配人 内藤彦一別邸を輸入プレハブ材で建てます。
この時に、このプレハブ住宅を日本向けに設計し直しています。
lig_和田2x4設計<内藤邸建設にあたって和田が設計変更した図>
※H22日本大学理工学部 勝原・大川論文より

横浜に関わった多くの建築家の中で
和田 順顕の存在はあまり知られていないようですが
戦前に建てられた「日本郵船ビル」の存在だけでも十分に横浜に足跡を残した建築家としてその名を残していくに値すると思います。
戦後
孤高の建築家、神奈川県庁を設計した1898年(明治31年)生まれの小尾 嘉郎(おび かろう)が1889年(明治22年)生まれの和田 順顕の事務所に
1961年(昭和36年)1月勤めたという記録があり驚きました。
70代の和田 順顕、60代の小尾 嘉郎のタッグは凄かったでしょうね。
何かの折にもう少し調べてみたいエピソードです。

(和田 順顕年譜 ※は作品で一部掲載)
1889年(明治22年)4月21日 石川県金沢市に生まれる
1907年(明治40年) 石川県立第一中学校卒業
東京美術学校予科入学
1912年(明治45年) 東京美術学校卒業
横浜鶴屋 (設計・古宇田實)の工事に携わる
(古宇田實は明治35年帝大工科建築学科卒)
松屋本店工事に携わる。
1915年(大正4年) 建築事務所設立
※ワイキキ公園大噴水塔
1916年(大正5年)
※皇太子及各皇子御用机及椅子 設計
※田守呉服店
1917年(大正6年)
※古屋徳兵衛別邸
※田辺貸し洋館三棟
※森八本店
1919年(大正8年)
※日露戦役記念塔
※三津輪銀行 土浦支店→現在の常陽銀行土浦東支店
  常陽銀行土浦支店その後の土浦東支店?
1920年(大正9年)日本建築学会正員
※内藤彦一別邸
※紅屋菓子店 風月堂北浜店 他
1921年(大正10年)1〜10月 アメリカ各地を研究視察する
1922年(大正11年) 日本建築士会正員に推薦
平和博覧会嘱託
1923年(大正12年) 丸ビル内に建築事務所を設置
※田中源太郎酒造
※風月堂 横浜  他風月堂関係多数
※米津分店(横浜市馬車道)・米津武三郎(米津松造・三男)?
※米津支店(横浜市元町)・原田千太郎(松造・弟子)の可能性も
金沢市建築顧問
1926年(大正15年)
※安田善兵衛 邸 他
1927年(昭和2年)この頃からビル・大型建築設計時代
※日華生命京城支店・日本ビル・尾張屋銀行・日本電報通信社ビル(現在の電通) 他
1931年(昭和6年)
※日本医科大学第一病院 他
1933年(昭和8年)
※箱根登山鉄道 早雲山駅舎及千人風呂 他
1934年(昭和9年)6月 旧濱口吉右衛門邸(大崎)
昭和18年よりタイ王国大使公邸
1936年(昭和11年)8月
→ ※日本郵船横浜支店
lig_日本郵船ビル1936年(昭和11年)
※湘南中学校体育館 風月堂本店
1937年(昭和12年)
※日本郵船横浜支店構内倉庫
※慶應義塾大学医学部特別薬化学教室→信濃町メディアセンター
1938年(昭和13年)
※大日本航空金沢飛行場事務所
1947年(昭和22年) 金沢市建築顧問再嘱託
1952年(昭和27年)
※横浜セントラルビル
1958年(昭和33年) 加賀市建築顧問嘱託
※神奈川県中央児童相談所
※県立茅ヶ崎高校 体育館
1959年(昭和34年) 建築事務所を株式会社とし、代表取締役となる。
※神奈川県庁屋上会議室
1960年(昭和35年)
※横浜市立稲荷台小学校体育館
1962年(昭和37年) アメリカを視察
建設大臣表彰 黄授褒賞
1964年(昭和39年) 勲五等瑞宝章
1977年(昭和52年)12月13日 大磯町の自宅で逝去

今回は、単純に年譜を探し出し 補足しただけです。
神奈川県内に作品も多く(あまり現存していませんが)、
彼の足跡を追ってみても面白いなと思います。
文中でも紹介しましたが
60代にして殆ど個人で仕事をしてきた孤高の建築家、小尾 嘉郎(おび かろう)が
和田の元で晩年仕事をした話も 関心があります。
実は
1919年(大正8年)で紹介した
三津輪銀行 土浦支店→現在の常陽銀行土浦東支店ですが
1990年に福島県勿来から東京まで5泊で歩いたルート上で
たまたま写真に撮った 土浦の風景が残っていました。
lig_ppp041.jpgこれが 「じゅんけん」作の常陽銀行だとしたら 感激なのですが まだ未確認です。
だから【芋づる式余談から駒!】はたまりません。

横濱デパート物語(MATSUYA編)

前回「横濱デパート物語」からMATSUYAをピックアップ。

以前、「MATSUYAのDNA」というタイトルで
横浜ルーツのMATSUYA GINZAを取り上げました。銀座MATSUYAは横浜が創業の地です。
No.30 1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
ここでは別な角度から創業時の「鶴屋呉服店→(MATSUYA)」を紹介しましょう。簡単な沿革から
1869年11月3日(明治2年9月30日)
初代の古屋徳兵衛が横浜石川町亀の橋に鶴屋呉服店を創業します。
※WikiのMATSUYAの項目では創業日を
「1869年12月5日(明治2年11月3日)」としています。
松屋HPでは1869(明治2)年11月3日と表記されています。
http://www.matsuya.com/co/gaiyo/
他の文献でも1869年11月3日となっていましたので
創業は1869年11月3日とします。
★鶴屋呉服店創業の意義
1869年(明治2年)
横浜に創業という歴史には意義があります。
我が国の百貨店史上多くの老舗は、
江戸時代に創業し店舗を新時代に適応させてデパートに変身します。
「鶴屋呉服店」は、
明治初期、新天地横浜に創業し、横浜と東京で共に成功を収め
最終的に東京でトップ百貨店の名声を得、
現在も維持しています。
MATSUYA GINZAには明治横浜時代の
“先取と独走”の気風があるのではないでしょうか。
→ちょっと横浜に無理振りですが…
※参考資料「百貨店の文化史」(日本の消費革命)
山本・西沢:世界思想社刊1999

1889年(明治22年)
神田鍛冶町の今川橋松屋呉服店を買収し継承します。
買収といっても当時度重なる神田の大火で
大きな被害を受けた「松屋呉服店」再建のために
「鶴屋呉服店」が取引先に依頼され
言い値の13,000円で、従業員18名も居抜きで経営権を得ます。
鶴屋オーナーは、鶴屋の名は使わず
しばらくの間「今川橋松屋呉服店」として営業します。
※神田の火事
江戸時代以来 火事と喧嘩は“江戸の花”などと言われる程頻発します。明治になっても、しばし大火が続きます。
●1881年(明治14年)1月26日午前1時40分頃に出火
「忽ちの内に大和町元岩井町の方に向ツて押し広がり豊島町、江川町、橋本町、馬喰町の方へ燃え移ツて」(読売新聞1881年1月27日付朝刊)
焼失戸数は1万5,000にも及びました。
●「梅若実日記」1892年(明治25年)4月10日
今晩一時三十分ニ小川町猿楽町ヨリ出火。追々大火ニ相成神田今川橋通リ迄焼出ル。二十何ケ町焼ル。
本日午後一時三十分二慎火。四千八百戸程ノ類焼怪我人多シ。

1903年(明治36年)
会社法が整備され、中小の企業は「合名会社」組織を作るようになります。
古屋合名会社松屋呉服店に、
古屋合名会社鶴屋呉服店に それぞれ改組します。

1906年(明治39年)
営業雑誌「今様」を創刊。
→後述
初めて女子社員を採用します。

1907年(明治40年)
鶴屋と松屋のマークを合わせた“松鶴マーク”を導入し、
1978年(昭和58年)まで継承します。
20140118055955932 <松鶴マーク>
今川橋松屋呉服店が三階建洋風に増築し、
東京で初の本格的デパートメントストアと言われました。
→後述
「バーゲン・デー」といった「○○デー」の元祖ともいわれています。

1908年(明治41年)
50銭均一販売専門部署を設置し、均一販売手法の草分けとなります。

1910年(明治43年)
横浜の「鶴屋呉服店」3階建洋館が落成します。

1913年(大正2年)
今川橋松屋呉服店に和服裁縫部が創設されます。
この和服裁縫部が
松徳学園東京ファッション専門学校の前身です。
http://tfi.ac.jp

1919年(大正8年)
「株式会社松屋鶴屋呉服店」を設立します。

1923年(大正12年)
(関東大震災により東京・横濱主要店舗焼失)

1924年(大正13年)
横浜伊勢佐木町吉田橋に鶴屋呉服店が開店します。元は警察署でした。
現在はマリナード地下街入口あたりです。
東京の今川橋松屋呉服店が新築開店、「㈱松屋呉服店」に改称します。
20140118055950e321925年(大正14年)5月1日
銀座3丁目に銀座店が開店し、
翌年銀座本店となります。

lig_松屋呉服店T14開店
<震災後再建した銀座本店>

1930年(昭和5年)
吉田橋の鶴屋呉服店を松屋呉服店に改称。
横浜支店が新築開業します。

1934年(昭和9年)
横浜伊勢佐木町に株式会社鶴屋を設立します。
→株式会社壽百貨店

1946年(昭和21年)
GHQによりPXとして全面接収されます。

1948年(昭和23年)
商号を「株式会社松屋」に変更。

1953年(昭和28年)
横浜支店の接収解除。横浜支店が全館開店。

1976年(昭和51年)
横浜支店が閉店。

1978年(昭和53年)
新Clを導入します。
ligMATSUYA(松屋と横浜)
横浜の商業史というか、百貨店の歴史はそのまま横浜の中心核の移動の歴史でもあります。特に鶴屋呉服店と松屋呉服店の緩やかな関係の中に独創性を競うスタンスは松屋を一流に育て上げた「内藤彦一」(支配人)の百貨店戦略からも伺うことができます。
三越に日比 翁助がいたように、松屋呉服店は「内藤 彦一」が軸となって百貨店新時代を築きます。
1907年(明治40年)に鶴屋と松屋のマークを合わせた“松鶴マーク”を導入し横浜資本の東京の百貨店を内藤は、ハードとソフトから消費者を“あっ”と言わせます。
今川橋松屋呉服店は三階建洋風に増築し、東京で初の本格的デパートメントストアと言われました。
デパート宣言は三越ですが、これぞデパートだと言わしめたのは今川橋松屋呉服店新館でした。
さらに内藤彦一は自ら編集長となり
画期的なPRメディア『今様』を発刊します。
デパートの文化戦略の草分けは「三越」です。明治32年に『花ごろも」を発刊し、その後月刊「みつこしタイムス」「三越」に続くPR誌を発行していきます。
20140118055949af2大阪では高島屋が「新衣装」を明治35年に創刊し、東京では白木屋が発刊し新興富裕層の支持を受けます。
そこに登場した『今様』は、当時記事による商品PRだった既存誌に対し
布地の実物見本を貼付けた、まさに「商品見本カタログ」を業界向けではなく一般顧客に配布します。
「此の数も七十三種の多きに上り、高価なるは“藤波お召し”の七円より貼付けてある。聞けば此のために各種の反物を十何反とか棒にふったとのこと。」と当時の驚きを表しています。(円城寺良)
さらに当時の百貨店PR誌が格調高き“文芸誌”の役割を果たしていました。トップランナー『三越』に勝るとも劣らないレベルに『今様』はグレードアップし、東京の三大百貨店といわれるまでになっていきます。

【内藤彦一】(ないとうひこいち)
1865年7月6日山梨県生まれ。
内藤朝政の長男として生まれ米国に留学し商業・経済学を学びます。
ニューヨークマンハッタン6番街14丁目にあった
メーシー百貨店に勤め経験を積みます。
2014011806053559dhttp://www.macysinc.com
帰国後、鶴屋呉服店に就職し、東京に進出計画を推進します。
松屋呉服店〜松屋百貨店まで支配人、専務として活躍します。その間、東京商工会議所理事。一方で銀座菊水煙草店店主も務めます。
彼にはもう一つの歴史があります。
玄洋社に参加し昭和初期の事件に関わります。
1933年(昭和8年)7月10日に起こった「神兵隊事件」です。事件自体は未遂に終わりますが、
1932年(昭和7年)5月15日(515事件)と1936年(昭和11年)2月26日(226事件)の狭間に計画された一種のクーデターです。内藤は事件発覚後、裁判が始まる前、
1933年(昭和8年)11月17日に亡くなります。
この時代(玄洋社の時代)は、継続して調べているところです。

(さらに)
その間、東京商工会議所理事時代
内藤彦一は、藤沢市鵠沼海岸1-9-24に別荘の土地を譲り受け、画期的な住宅をそこに建てます。
この別荘エピソードにも横浜物語がありました。
【芋づる式余談から駒】で次回に続きます。

横濱デパート物語

20世紀はデーパートの時代と呼ばれました。

三越が全国主要新聞に1905年(明治38年)全段広告を掲載し
「店販売の商品は今後一層その種類を増加し凡そ衣服装飾に関する品目は一棟の下にて御用弁じ相成候様設備致し,結局米国に行はるるデパートメント・ストーアの一部を実現可致候事〜」と宣言
“百貨店”の存在を明確にしました。
“百貨店”と呼ばれる大型店が日本に登場したのはこの三越がデパート宣言するよりも前のことですが
この三越によるデパート宣言の凄さは、アートから建築、文学その他文化を総動員した販売戦略の元で
元々江戸時代に呉服店の「越後屋」(ゑちごや)として創業し既に正札販売を世界で初めて実現していたスタイルを明確にしたことです。
今回は、横浜を舞台に店舗進出した「百貨店」を紹介しましょう。
日本橋三越8<日本橋 三越>
大手百貨店の創業時期と場所を簡単に紹介します。
●松坂屋→J.フロント リテイリング株式会社
1611年(慶長16年)名古屋に創業した「えびす屋いとう呉服店」に始まります。
※横浜に関連ある場所→伊勢佐木町
松坂屋06●三越→株式会社三越伊勢丹ホールディングス
1673年(延宝元年)
伊勢松坂の商人三井高利が江戸日本橋本町1丁目にオープンした越後屋呉服店が始まりです。
※横浜に関連ある場所→横浜駅西口
三越18mitukosi.jpg●大丸→J.フロントリテイリンググループ
1717年(享保2年)
下村彦右衛門正啓が京都伏見に作った呉服店「大文字屋」が始まりです。
●そごう→セブン&アイ・ホールディングス
1830年(天保元年)十合伊兵衛(そごういへえ)、大阪に古着屋「大和屋」開業します。
※横浜に関連ある場所→横浜駅東口
https://www2.sogo-gogo.com/wsc-customer-app/page/511/dynamic/top/Top
そごう48●高島屋
1831年(天保2年)
飯田新七が京都烏丸で古着木綿商「たかしまや」を開店します。
※横浜に関連ある場所→横浜駅西口
横浜髙島屋の誕生

●野澤屋→松坂屋
1864年(元治元年)
初代茂木惣兵衛(もぎそうべい)が横浜の弁天通2丁目(現在の神奈川県横浜市中区)で野澤屋呉服店を創業したのが始まりです。
lig_iriku.jpg<入九が野澤屋のマークでした。画像は震災後の仮店舗?とみられます>
※横浜に関連ある場所→伊勢佐木町
lig_松屋があった吉田橋2●松屋
1869年(明治2年)
古屋徳兵衛が横浜石川町に「鶴屋呉服店」を創業し1899年に東京神田の松屋呉服店を買収し、東京に進出、松屋に。
※横浜に関連ある場所→伊勢佐木町
lig_鶴屋22●伊勢丹→株式会社三越伊勢丹ホールディングス
1886年(明治19年)
小菅丹治(こすげたんじ)が東京の神田旅籠町に創業した「伊勢屋丹治呉服店」が始まりです。
●岡田屋(現横浜岡田屋)
1910年(明治43年)10月 岡田宗直が「岡田屋呉服店」を設立したのが始まりです。川崎に創業ですが、その後横浜の老舗として現在も頑張っています。
※横浜に関連ある場所→横浜駅西口
http://www.more-s.com●ピアゴイセザキ店
1919年(大正8年)伊勢佐木町が創業地の「松喜屋」呉服店が
1927年(昭和 2年)伊勢佐木町で創業した古川呉服店→「ほていや」が
1969年(昭和44年)「松喜屋」を買収。
1971年(昭和46年)ほていやを含む数社が合併し、ユニー株式会社となります。
松喜屋からほていや時代にかけて、屋上には遊戯施設が設けられていました。
ピアゴ20

ピアゴ1
<解体前に了解を得て撮影した遊園地看板>

※横浜に関連ある場所→伊勢佐木町

●白木屋
1662年(寛文2年)に江戸の日本橋通三丁目(とおりさんちょうめ)に江戸支店として進出し、「白木屋」を創業しました。
lig_sirokiya
<日本橋白木屋本店>
1956年(昭和31年) 東京急行電鉄グループ入り、後に「東急百貨店」へ。
1999年(平成11年)1月31日閉店へ。
※少し 横浜に関係あり。
白木屋乗っ取り騒動は日本の経営史上に残る経営紛争の一つです。
白木屋乗っ取りを画策した横井英樹は、最終的に五島慶太に高く株式を売切ります。この横井英樹が「ノザワ松坂屋」の株式買い占めを行い、乗っ取り騒動がありました。

ここまで一覧化して
以前ブログで紹介した「MATSUYA」を改めて調べ始めたら
【余談から駒!】
新しく紹介したいネタが【芋づる式】に出てきました。
今日はあっさりここまでにして
→次回へと続きます。 

横浜市出身山田太郎くん

山田太郎君
といえば、大ヒット漫画「ドカベン」週刊「少年チャンピオン」連載、水島新司作品の代表作の登場人物です。
好きな「野球漫画」は?
50代は巨人の星、
40代はドカベンだそうですが
この「ドカベン」1972年(昭和47年)から1981年(昭和56年)まで連載されました。
ここに登場するドカベンが山田太郎君です。
実は「ドカベン」最初は柔道漫画だったそうです。私は野球時代しか知りません。
ドカベンの通う「神奈川明訓高校」は神奈川県にある私立高校を想定していますが、果たして明訓は横浜の高校か?という疑問が湧きます。おそらく そうでしょう。
少なくとも山田君は“横浜在住の畳屋さん”だったかな。確認してません。
「ドカベン」に登場する
県内のライバル校には
「横浜学院高校」なんとなく横浜高校らしく感じますが
「東海高校」これは東海大相模でしょう!
「白新高校」神奈川最強と呼ばれる投手、不知火守(しらぬい まもる)擁する最大のライバル校です。(神奈川ではなく作新の江川と同世代なのでこのイメージが被ってしまいます)
ドカベンの画像はありません。ごめんなさい。
以前持っていたコミックも2000年に処分してしまいました。
結構しっかり最後までとっておいたんですがね   。ところで、山田太郎といえば
かなり高年齢の方には通じるかな?
「新聞少年」
1965年(昭和40年)に山田太郎さんの
「ぼくの名前を知ってるかい。朝刊太郎と言うんだぜ?♪」の歌声が全国に流れ大ヒットとなって親しまれました。(世代的には私がギリギリ?)
この「新聞少年の像」が日本大通脇に建っています。しかも長ズボンで!

lig_新聞少年
日本大通りの守り神?

No.157 6月5日(火) 半ズボンより長ズボンでしょ!

私のお気に入りブログの一つです。
ぜひ 再読ふくめ よろしく!現地に行って長ズボン確認してみてください。

【2月16日】ヨコハマグランドホテル解散

このブログは 2013年に書いたものからお気に入り、
加筆が欲しいものを「過去ネタ」としてアップしているものです。

grandH絵はがき

1927年(昭和2年)2月16日、関東大震災で倒壊・焼失した「The Grand Hotel Yokohama」が再建を断念し会社を解散しました。明治から大正期に横濱の高級ホテルとして輝いた「The Grand Hotel Yokohama」は震災をきっかけにその栄光の歴史に幕を下ろします。
この「The Grand Hotel Yokohama」エピソードを中心に紹介します。
「The Grand Hotel Yokohama」の創業に関わった人物の一人が写真家として有名なベアトです。
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/univj/list.php?req=1&target=Beato
フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)
http://ja.wikipedia.org/wiki/フェリーチェ・ベアト

1870年(明治3年)夏にベアトが購入した英国公使館跡地の建物を(グリーン夫人が)石造りのホテルとして開業しましたが上手くいきませんでした。(写真家は財力があったんですね)
場所は海岸通20番地エリア、フランス波止場(西波止場とも)近くです。(マップ参照)
現在の人形の家近辺です。(フランス山もすぐ近くです)

lig_居留地東
lit_grandhotel
grandhotel

※ちなみに横浜には開港時三つの港がありました。元町よりのフランス波止場、現在の大桟橋エリアのイギリス波止場、そして万国橋エリアの日本波止場(上の画像マップからは外れています)です。

立ち行かなくなったホテルは
再度ベアトが資金調達し1873年(明治6年)に改装オープンします。
その後、1889年(明治22年)に個人経営から法人化(株式会社)し翌年の明治23年にフランス人の建築家サルダ(Sarda,Paul)設計により、隣接の18・19番に新館を増築します。
室数は200余りと横浜を代表する大型ホテルとして
関東大震災で焼失するまで営業していました。

※設計者サルダ(Sarda,Paul)は、指路教会会堂を設計した建築家です。
当時、高級ホテルのノウハウはやはり英仏、特にフランスが持っていました。
ホテルの朝食にもこの伝統が流れています。
コンチネンタルブレックファースト、
ブリティッシュ ブレックファースト(アメリカンブレックファースト)ですね。
海岸通20番地エリアはフランスの支配が強く感じられるエリアでしたので、
フランスの高級ホテルの名を使い(The Grand Hotel)としたのでしょう。
余談ですが、スウェーデンのストックホルムにある世界的にも有名な5つ星「グランドホテル」も
1872年(明治5年)にフランス人の(Jean-François Régis Cadier)によって設立されたホテルです。
関東大震災が無ければ、現在もThe Grand Hotel Yokohamaは営業していたかもしれません。

このグランドホテルを語るときに 忘れてはいけない人物がいます。
1889年(明治22年)支配人として、サンフランシスコから着任したルイス・エッピンガー(Louis Eppinger)です。
※カクテルの紹介でルイス・エッピンガーをバーテンダーと紹介している資料もありますが、手元の資料では支配人と紹介されていますのでここでは支配人としておきます。

1898_grandhotel.jpg

エッピンガーは着任2年目の1890年(明治23年)新しい創作カクテルの考案に取り組みます。
彼はカクテルに造詣が深く、アメリカ時代に(1885年頃)ニューヨークで人気を博したカクテル「アドニス」をバーのメニューに加えます。
「アドニス」とはライト・オペラと呼ばれた草創期のミュージカルのタイトルで、ギリシア神話を題材にした女神アフロディーテ(ヴィーナス)と四季の始まりとなった逸話を残すペルセポネの二人に愛された美少年“アドニス”の代表的悲劇をアメリカ流にアレンジしたものです。
このライト・オペラ「アドニス」は1880年代空前のロングランヒットとなります。
ヒット作品には早速新しいカクテルが考案されます。
19世紀まで主流だったブランデーに代わり当時人気のあった手軽で高級感のあるシェリー酒、特にフィノベースのカクテルが作られました。
カクテル「アドニス」
ドライ・シェリー3分の2、
スイート・ベルモット3分の1、
オレンジ・ビターズひと振りをステアして
カクテル・グラスに注いだものです。
食前酒としておすすめです。

この「アドニス」をエッピンガーは横浜版にアレンジしました。
スイート・ベルモットをドライ・ベルモットに変えたのです。
「アドニス」に比べ甘さが抑えられ「竹のように素直でクセがなく、すっきりとした辛口に仕上げられた」ためエッピンガーはこれを「バンブー」と名付けたそうです。

私の珍説(仮説)があります。
「電灯の事業化に成功した」発明王エジソン(1847年2月11日 – 1931年10月18日)は、
1879年(明治12年)に電球の実用化に成功しますが、
そのフィラメントに京都岩清水八幡宮脇の竹林から採取した竹を使います。
http://www.iwashimizu.or.jp/story/edison.php?category=0
その後すぐに新素材が開発されますが、日本の竹フィラメントは驚異的な寿命を実現し、世界にその名が轟きます。
それから約10年経っていますから、Japan Bambooというブランドはアメリカでも日本でも話題になっていたのではないでしょうか。

大西洋を渡った美少年(アドニス)は、アメリカに渡り「竹」を割って生まれた「かぐや姫」に変身して太平洋を渡ったとしたら なんとエキゾチックな物語でしょうか。

No.295 10月21日(日)先達はあらまほしきことなり

(グランドホテル焼失)
関東大震災は、横浜のほとんどの建造物を倒壊、焼失させます。
再建を試みるもの、諦めるものありましたが、
グランドホテルは後者を選びます。
国際ホテルの必要性を感じた横浜市内の財界、市役所の総意で1927年(昭和3年)12月1日現在のニューグランドホテルがオープンします。
敷地は幕末に開設されたフランス海軍病院跡で
ここでもフランスとの因縁があります。
またまた余談ですが、福沢諭吉が横濱から旅立ち
欧州を巡った時、帰路パリで泊まったホテルがグランドホテルです。

ヨコハマグランドホテル解散(過去ネタ)

【横浜側面史】 観艦式

戦前、横浜で開催された大規模の式典が多くあります。

■製茶共進会・生糸繭共進会(1879年(明治12年))
■開港50周年記念式典(1909年(明治42年))
■神奈川県横浜市勧業共進会(1913年(大正2年))
■震災復興記念横濱大博覧会(1935年(昭和10))
この他、
特に横浜で多く開催されたのが海軍「観艦式」です。
今日はこの横浜沖「観艦式」を少しレビューしてみます。

観艦式930373
<昭和3年観艦式記念絵葉書  合成写真っぽい>
「観艦式」は明治に始まり現在も行われていますが、戦前は軍拡競争の中で国の威信をかけた式典として盛大に行われました。
「観艦式」
戦前、明治から昭和にかけて 日本海軍は「観艦式」を計18回実施しています。
その半数九回が横浜沖で実施されました。
No.285 10月11日(木)武装セル芸術

ここでは1940年(昭和15年)10月11日(金)に開かれた帝国海軍、最後で最大の「観艦式」について簡単に紹介しました。

そもそも「観艦式」というのは1341年に英国で始まったデモンストレーションで、当時のエドワード3世が英仏戦争の際に指揮を鼓舞するために出撃の際観閲したことに始まります。
余談ですが、
礼砲の作法も英国のプロトコルが世界標準になっています。発射数を最大21発として19発・17発・15発〜と奇数回その地位によって数が決まっています。
No.231 8月18日 (土)give a twenty‐one gun salute.

No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に

「No.285 10月11日(木)武装セル芸術」の回での紹介を含め
今回「観艦式」を再度紹介するに至ったのは
なぜ 「観艦式」の半分を横浜で行ったのだろうか?
という素朴な疑問があったからです。
おそらく 横浜港沖で行った理由は
「帝都東京」と「東海鎮守府」である海軍中枢基地「横須賀」に近いこと。
そして
横浜港の持つ構造の良さだろうと推測できます。
→後半で別途紹介します

全18回の「観艦式」の内訳は
横浜沖で9回
神戸沖で6回
横須賀沖で2回
1回(初回のみ)大阪天保山沖
で行われました。

観艦式44288d
<式次第>                  kawakita collections

観艦式41384

観艦式928357
kawakita collections

最初に横浜沖で実施された「観艦式」は
1905年(明治38年)10月23日<日本海海戦勝利凱旋観艦式>と呼ばれ、
日露戦争の勝利を祝う目的も兼ねていました。
第五回目にあたるこの「観艦式」は、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将が総司令官として式典に臨み国民の関心もかなり高いものでした。
観艦式図 <当時の観艦式 配列図>
この第五回目以降、観艦式は拡大を続けます。
明治期観艦式の見物人に関する資料は手元にありませんが、
1928年(昭和3年)御大礼特別観艦式(昭和天皇即位式)として実施された横浜沖での観艦式は天候にも恵まれ
鶴見岸から本牧まで、多数の見学者が水際を埋め尽くしその数は100万人を越えていたそうです。
この観艦式には米国『重巡洋艦ピッツバーグ』、英国『重巡洋艦ケント』『重巡洋艦サフォーク』『重巡洋艦ベルウィック』、仏国『装甲巡洋艦ジュール・ミシュレ』、伊国『リビア』、オランダ『ジャワ』と各国の特務艦計11隻の外国艦船も参加しています。

(劇場としての横浜港一帯)
横浜港一帯が最高の一大劇場と化していたことになります。
横浜港の持つ円形劇場、
横浜港から鶴見川崎にかけての、岸辺・丘からの眺め
現在のように工場や高層ビルの無い時代に、少し小高い丘に登れば横浜沖の東京湾が一望できたロケーションは、海上デモンストレーションには最高です。
多くの国民・関係者にプレゼンスできる「横浜港一帯」だったのです。

観艦式444384
kawakita collections

以前 このブログで 帝都東京と 港都横浜の都市間競争を紹介しましたが、帝都東京が力と権力も有しながら中々開港できなかった背景は、省庁間・地元経済界の猛反対に加え、多くの市民の支持と
「港都横浜」としての“劇場性”もあったからではないでしょうか。

70年代に私が初めて横浜港周辺を散策し始めた頃、
まだまだ海辺は近づくことが難しかった時代でした。
「KEEP OUT」の文字も多かった気がします。
横浜港の水際が自由で快適な空間になりはじめたのは つい最近のことです。
戦前以上に港都横浜の魅力を楽しめるようになった?今
“平和会議場”もあることですし
みなとのみらいから積極的平和を発信できる都市に成長していって欲しいものです。

観艦式一覧
1868年 (明治元年3月26日) 大阪天保山沖 4月18日
1890年 (明治23年)4月18日 神戸沖。
1900年 (明治33年)4月30日 神戸沖。
1903年 (明治36年)4月10日 神戸沖。
1905年 (明治38年)10月23日 横浜沖 日露戦争終結
1908年 (明治41年)11月18日 神戸沖。
1912年 (大正元年)11月12日 横浜沖。
1913年 (大正2年)11月10日 横須賀沖。
1915年 (大正4年)12月4日 横浜沖。
1916年 (大正5年)10月25日 横浜沖。
1919年 (大正8年)7月29日 横須賀沖。
1919年 (大正8年)10月28日 横浜沖。
1927年 (昭和2年)10月30日 横浜沖。
1928年 (昭和3年)12月4日 横浜沖 【御大典記念】
1930年 (昭和5年)10月26日 神戸沖。
1933年 (昭和8年)8月25日 横浜沖。
1936年 (昭和11年)10月29日 神戸沖。
1940年 (昭和15年)10月11日 横浜沖。
【日本海軍最後の観艦式】紀元二千六百年特別観艦式

(余談)
観艦式資料を探していたら
観艦式準備資料の中からこんな図面・文書を発見しました。
観艦式509317
観艦式4397e3 以前横浜水上署見学の際
ここで西波止場という言葉が使われていました。何気なく聞き流していましたが
lig_sanbasi 戦前からこのあたりを
「西波止場」と呼び続けていたんですね。

【横浜風景巡り】一文字バス停

(追記版)
気がつかなければ“ただの風景”ですが、視点を変えれば新しい風景が見えてきます。

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201403101435220b7
横浜駅西口バス総合案内盤

最近、バスを意識して利用するようになりました。一日乗車券も大量に購入し?!何時でも思った時に使えるようにと財布にストック!
なんと(車内で買えるしICでも購入できるじゃない)

これまでなるべく自転車で市内は巡ろう!と決めて市内散策していましたが、バスの利用頻度が多くなりはじめると、バス路線そのものに関心が向いてしまいます。

今回は「一文字(ひともじ)バス停」一文字のバス停名にスポットを当ててみます。

「一文字(ひともじ)バス停」は意外と少なく、横浜市内でも数える程しかありません。
市営バスルートでは4つ、それ以外で3つ発見しました。
県内でもバスマップで探した範囲ですが 数カ所程度でした。
後半でちょっと紹介します。
※バスマップをひたすら探すという作業で探したので見逃し「一文字(ひともじ)バス停」があるかもしれません。ご了解ください。

(横浜市内の「一文字(ひともじ)バス停」)

都筑区 西(302系統)★
港南区 原(鎌倉街道 県道21号線)☆
磯子区 峰(10系統)★
    浜(横須賀街道16号線)★
緑区  境(中原街道 県道45号線)★
戸塚区 表(県道203号線)☆
青葉区 島(神奈中つ01系統)
※★降りたことのあるバス停 ☆通過したことのあるバス停

(実際降りたことのあるバス停ガイド)
(1)都筑区 西(302系統)
201403101434556ec-1市営バス302系統「西」バス停 正確には乗ったことがあるが降りたことはありません。たまたま、ニュータウンの調査の帰りにここからバスにのりました。写真撮ってあって良かった!
バス停付近は、港北ニュータウンの東端を走る第三京浜都筑インターチェンジ出口近くに位置します。
この「西」バス停のある302系統、開通当初は 近隣の工場や事業所関係の利用者中心でしたが、市営地下鉄グリーンライン開通で、役割が変化してきた路線です。
ブルーライン「仲町台」と「東山田」を結ぶシャトル便的な路線となり近隣住民のアクセス向上につながっています。
※「東山田」は「ひがしやまた」です。濁りません。
バス停横には神奈川県内に二つしか無いイスラム教のモスクがあります。
ジャーメ=マスジド=横浜(通称:横浜モスク)
〒224-0025 横浜市都筑区早淵 1-31-13
201403101434309f5※ここがなぜ「西」なのか?調べていません。港北ニュータウンを基準にすれば「東」ですが、近くに「西架道橋」があり、この西と関係があるかもしれません。

lig_P6090079
<野村港南台住宅>

(2)港南区 原(鎌倉街道 県道21号線)
何度か通過したことがあります。近くを歩いたこともあります。
「原」バス停付近は、鎌倉街道 県道21号線と環状3号線が交わるところにあります。JR根岸線延伸(昭和48年)に伴い開発されたエリアです。
バス停名は「原」ですが、環状3号線「原乃橋」が完成するまでは鎌倉街道の谷間の交差点でした。「原」の名は日野村の字名かもしれません。
環状3号線は現在、磯子区杉田五丁目〜戸塚区戸塚町日之出橋までの区間が開通していますが、全線完成にはまだまだ時間がかかりそうです。

(3)磯子区 峰(10系統)
その名の通り、峰(の中腹)にあるバス停。ここも何度か乗り降りしたことがあります。自転車でも通過しましたがかなり難所です。
20140310143458089-1根岸線磯子駅から小型タイプの10系統に乗り、「京急杉田駅」駅前から栗木を抜け円海山麓の“峰の郷”終点まで繋がっています。
「峰」は終点の一つ手前にあります。以前はこの「峰」が終点で「円海山」散策スタートポイントでしたが、2001年に特別養護老人ホームが開設するなど地域ニーズが高くなったため延伸しました。

「円海山」に近いバス停です。あまり歩きたくない!方はぜひご利用ください。
「峰」付近には「峰市民の森」他
20140310143500b80 絶景の「白山神社」、樹林・花の寺「阿弥陀寺」もあり春先・秋口はお勧めのスポットです。「峰せせらぎ遊歩道」がありますが、夏場はブッシュに気をつけてください。あまり手入れされていません。
※円海山は海抜153.3mで横浜で二番目に高い地点です。
第一位は近くにある「大平山尾根筋」(天園峠)で標高159.4mです。

(4)磯子区 浜(横須賀街道16号線)
「一文字(ひともじ)バス停」の中で一番頻繁に利用しています。
201403101434572ce-1県内「一文字(ひともじ)バス停」の中で最も繁華街?!でしょう。
“有名 人気商店街浜マーケット”前がバス停です。

【番外編】磯子区濱

(5)緑区  境(中原街道 県道45号線)
20140310143432809
古代から続く道「中原街道」の旧新治村と旧都岡村の境にある尾根筋にあります。

ここからの眺望はなかなかです。近くには南北に広がる自然豊かな公園が点在しています。
nakayamasakai lig_P7170061-1No.450 【横浜かわとみちの物語】プロローグ

(6)戸塚区 表(県道203号線)

通過したことがあるだけで、詳細はわかりませんが面白いバス停名です。
「表(おもて)」と読みます。近隣の交差点名・ビル名にもなっていますので古い地名と思われます。
今度近所でリサーチしてみます。

(バス停考)
バスの停留所、位置・名前に関してはいろいろエピソードを拾うことが出来ます。
2015年はバス巡り年になりそうです。エピソードが集まり次第 紹介していきます。
【バス旅】横浜18区路線バスの旅(日曜版)

No.449 横浜18区路線バスの旅

さらなるチャレンジを計画中です。

県内で「一文字(ひともじ)」バス停をざくっと探してみました。
●川崎市 「平」
→生田緑地入口

●横須賀市 「林」☆
→自衛隊武山駐屯地角
hayashi

●厚木市 「泉」☆
→厚木から半原方面へ

●秦野市 「関」☆「北」☆
→第61回全国植樹祭会場「県立秦野戸川公園」に参加した時に通りました。
戸川公園
「峠」

●足柄上郡大井町 「柳」
峠柳

●足柄上郡山北町 「岸」☆
light_2014-11-27 10.36.41●足柄上郡山北町 「宿」☆

●藤沢市 「城」☆
lightP4020001間違いではありません。「城」は「たて」と読みます。バス停の読みは時々 驚かされます。

●鎌倉市 「台」
→大船駅からすぐです。地名「台」をそのまま使っていますが、一般的には「台町」というような“町”をつけるケースが多いようですがここでは「台」一文字です。

●足柄上郡松田町 「寄」(やどりき)★
→釣り・キャンプのスポットです。一字で「やどりぎ」と読みます。
横浜では「鉄」→(くろがね)という地名があります。
※★降りたことのあるバス停 ☆通過したことのあるバス停

公共交通としての路線バスの歴史は長く、私たちの都市生活に欠かせない移動ツールです。きめ細かなネットワーク網を活かした新しいモビリティの可能性は十分にあると思います。路線バスは根底から価値観の転換で、面白くなると思うのですが。
(2016年4月 追記)

No.159-2 6月7日(土) 三井物産ビル

開港場のある5つの都市は「もののはじめ」が大好き。
というか、お初好きは徳川時代の“江戸っ子”気質から?
真偽の程は専門家に任せるとして…。

今日は横浜開港場に現存する「お初」を一つ紹介しましょう。
日本初の鉄筋コンクリートビルディングが横浜にあります。
(正確には「日本初の鉄筋コンクリート製オフィスビル」らしい)
1911(明治44)年、日本大通り中程に建った「三井物産横浜支店」です。

日本大通旧三井物産ビル<旧三井物産横浜支店>
このビルなら知ってるよ!という方も多いでしょう。
この「旧三井物産横浜支店」は、「震災・戦災・占領」という横浜の危機を幾度となく乗り越えてきた建造物の一つです。
冒頭「旧三井物産横浜支店」は、
1911(明治44)年、日本大通り中程に建ったと紹介しましたが、実は半分が明治時代のもので残りは昭和に入って増築されたものです。
外観を観る限り全く違和感のない明治の設計意匠をそのまま活かしています。
歴史性(古さ)でいえば、前年の1910(明治43)年にこの建物の裏手にあたる場所にレンガとコンクリートを使って建てられた「三井物産倉庫(現 日東倉庫)」が現存しています。
→この日東倉庫が今 解体の危機にあります。残念ですね。(20140731)→解体されました。

日東ビル(旧三井物産倉庫)
インフォメーションが無いと見過ごし通り過ぎることの多いこの倉庫、明治から建っている歴史的建造物です。
明治の建造物が現役で存在していることに驚きと敬意を感じます。
■建築概要
☆旧三井物産横浜支店
設計:遠藤於菟、酒井祐之助
竣工:1911(明治44)年→一号館
改修増築:1927(昭和2)年→二号館
構造:鉄筋コンクリート造り4階建て
所在地:横浜市中区日本大通14
★旧三井物産横浜倉庫
設計:遠藤於菟
竣工:1910(明治43)年
構造:煉瓦造、一部コンクリート使用
所在地:横浜市中区日本大通14
※遠藤於菟(えんどうおと)
主な作品
横浜正金銀行(技師として現場監督を務めた)
帝蚕倉庫本社事務所
横浜生糸検査所

(斬新なデザイン)
遠藤於菟設計、明治の建築物としては斬新なデザインでした。華美でなくシンプル・質素なスタイルは100年経っても現在を感じます。
同時代
1917(大正6)年7月1日に開館した開港記念横浜会館(現在は横浜市開港記念会館)と比較すると使用目的は異なるがシンプルさが際立っています。
同時代の商業ビル建築デザインとして比較してみると意匠のシンプルさは良く判ります。
旧兼松商店本店「日濠館」(現・海岸ビルヂング)

■少し横道に逸れます。
建築家 遠藤於菟の作品は残念ながら殆ど残っていません。

http://modern-building.jp/endo_oto.html
ここでも横浜の作品しか紹介されていませんが、
三井物産横浜支店造築設計とほぼ同時期(大正14年)に北海道札幌の老舗丸井今井本店ビルの設計を担当していることに驚きました。
(丸井今井本店ビルは連続改築のため原型を留めていません)
丸井今井札幌本店
「丸井今井」は輝かしき北海道の歴史を刻んできた老舗百貨店でした。
残念ながら経営破綻し現在は三越伊勢丹HG傘下となっています。
No.462 北海道と横浜を結ぶ点と線2

このブログで少し紹介しましたが、丸井今井は 北海道・新潟そして横浜を結んでいます。
機会があれば追跡したいテーマです。

(竣工当時)
さて、この三井物産横浜支店の竣工当時の姿(一号館)を観たいと思っていました。
現在の姿は、昭和2年に震災復興を兼ね造築(二号館)・一号館を改修したものです。
ほぼ竣工当時の姿を守っているとのことですが、どこか変わっているのではないか?

一号館だけのときは正面玄関が日本大通脇にあったのが、二号館が造築されることで日本大通側になったようです。よく見ると 一号館と二号館は完全に左右対称ではないことに気がつきます。
微妙に意匠が変わっている。壁面等はどうなんだろう。
手元にある資料を引きずり出しましたが現在の写真しかありませんでした。
ところが
たまたま まとめ買いしてあった大量の戦前絵葉書の中からこの一枚を発見したのです。

横浜関連雑資料023三井物産横浜支店の竣工当時のものだとは当初気がつかず見逃していましたが、再度拡大してみると確かに三井物産横浜支店であることが判りました。
lig_mituiビル

lig_横浜三井ビル表面BW024撮影時期は「ハガキ表面」から大正7年以前であることは推定できます。

lig_窓アップ lig_倉庫

一号館の最上階の窓のデザインは現在のものと異なっています。
また倉庫に関しては、用途が変わったのかなにか換気口のようなものが窓から出ていることが判ります。

この画像からもう少し新たな発見があるかもしれません。

→次回へ

No.475 点・線遊び「足利尊氏からフェリスまで」

今日は、点と線を結ぶ“遊び”をします。
つなぐのは 足利尊氏と横浜ゴムとフェリスの秀才です。
この三つのキーワードにどのような関係があるか、
おわかりですか?

近年足利尊氏像では無い説が有力
■歴史認識
 日本史で足利尊氏ほど戦前と戦後で評価が変わった人物はいないでしょう。
 時代は14世紀、第96代後醍醐天皇と対立して足利政権を樹立し、
 史上最大の逆賊とも
 史上屈指の有徳の英雄とも評されました。
 現在の研究では尊氏の人間的側面や、人間関係の分析がかなり深く行われ新しい人物像が描き出されているようです。
 (横浜と足利氏)
 栃木県足利市は、尊氏の「足利家」に因んだ名前です。では“横浜”との関係は?
 彼の簡単な伝記を読む限りではトピックスとなるような「横浜」との関係はありませんでした。ところが、
 足利尊氏関連の日本史を調べている時、彼の時代=中世ではなく“近代史”で横浜が浮上してきました。
 足利尊氏が“国賊”とされていた戦前に彼を再評価しようとした人物が横浜にいたのです。歴史で習う「南北朝」の歴史認識は明治時代に入り、「南朝正統・尊氏逆臣」という「皇国史観」に反する考えや研究、発言が抑圧されるようになります。
 1934年(昭和9年)にいわゆる「足利尊氏論」が起こり当時の斎藤実内閣商工大臣だった「中島 久万吉」が辞任します。
 ※中島久万吉が、13年前に(会員向け)同人誌に発表した論文「足利尊氏論」が月刊誌『現代』に採録されたことが、衆議院で取り上げられ紛糾します。
 中島大臣の論文内容は、足利尊氏を賛美する内容でそれが国粋主義者たちを刺激します。
 この中島久万吉、横浜を舞台に実業家として活躍した人物です。
 彼は大手メーカー古河グループの中核となる 「古河電気工業」と「横浜ゴム」を創業し、昭和に入り政界入りします。
 
 ■平沼育ち
 横浜ゴム関係は幾つかこのブログでも紹介しています。
 横浜ゴム株式会社は、横浜で誕生した「横濱電線製造」が成長し古河グループ(古河電工)の一員となります。このお膳立てをした実業家が中島 久万吉です。
 電線とタイヤの原材料のゴムは“絶縁体”として密接な関係があります。古河電工は銅線を、横濱電線製造はその銅線に絶縁加工し「電線」を製造しました。
 この横浜電線製造を起こした横浜の“発明王”が山田与七です。
 山田は高島町に山田電線製造所を作り成功します。
  中小起業から脱却するために横浜商人の木村利右衛門、原富太郎らの出資を得て横浜電線株式会社を作り 一回り大きい製造会社となります。この時に次世代電線製造に必要だったのがゴムでした。
 「銅線」製造部門が古河鉱業(古河電工)になり、
 「ゴム」製造部門が「横浜ゴム」となって
 現在の日本の基幹産業となります。
 
 No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王(加筆修正)

No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?

■浜流しになった父信行
この古河の立役者、中島 久万吉、1873年(明治6年)横浜に生まれます。
父は中島信行、母は陸奥宗光の妹“初穂”で、久万吉を生んだ後体調を崩し1877年(明治10年)に若くして亡くなります。
父の信行は土佐勤王党→長州藩の遊撃隊→坂本龍馬の海援隊→陸援隊に参加した幕末の強者の一人で大暴れし、明治になっても波乱の人生を送ります。
新島襄との出会いでクリスチャンとなり新政府の幹部として活躍しますが、自由民権運動に板垣退助とともに参加し、政府批判を強めます。
優秀だった中島はこの間、任官し外国官権判事や兵庫県判事、神奈川県令を務めますが、
戦前の大悪法の一つ「保安条例」によって
横浜に追放されます。
よこはまついほう?
現在の感覚では信じられませんが、自由民権運動を弾圧するためできた“にわか”法律です。秘密の集会・結社を禁じ内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れがあるとされた自由民権派の多くが
<東京ところ払い!>
皇居から3里(約11.8km)以外に退去させられます。

尾崎行雄、星亨、林有造、中江兆民 そして中島信行と後妻となった中島湘煙夫婦も1887年(明治20年)12月に追放される<ハメ>になります。
島流し ならぬ ハマ流しになる始末が その後の中島の人生を大きく変えます。

■政治家への転身
中島 久万吉の父、信行は横浜に落ち着くとまもなく
1890年(明治23年)7月1日
第1回衆議院議員総選挙に神奈川県第5区から立候補して当選し
その後は 政治家として活躍し
最後は 療養中の神奈川県大磯別邸にて亡くなります。
長男の中島 久万吉は
自由民権の理想を最後まで貫いた父と
義母「中島湘烟」の影響を十二分に受け経済界と政界で活躍します。

■戦士、岸田俊子
岸田俊子(きしだとしこ)
明治の時代を駆け抜けた女権拡張運動家・作家です。
俊才「岸田俊子」後の中島湘烟

(ブログでも紹介しました)
No.153 6月1日(金) 天才と秀才
1889年(明治22年)6月1日
 25歳だった二人の俊才がフェリス女学校の大講堂で演説を行いました。
明治期のフェリス女学院のエネルギーを伝える若松賤子(島田かし子)と同じく中島湘烟(岸田俊子)の短くも激しい人生を追います。
ブログから 引用します。
(天才・神童の出現)
若松賎子の半年前(文久3年)に京都の呉服商の長女として生まれた「岸田俊子」は、小さい頃から神童と呼ばれた俊才でした。
1870年(明治3年)6歳で下京第15校に入学、
1875年(明治8年)中学に進みます。
1879年(明治12年)15歳で昭憲皇太后(当時34歳)に「孟子」などの漢書講義を担当する事となった訳ですからその「俊才」ぶりが伺われます。
いじめられのかどうかはっきりしませんが、名誉職を1年で辞退し“自由民権運動”に目覚めていきます。
1882年(明治15年)4月大阪道頓堀の政談演説会で最初の演説デビューとなった岸田俊子の「婦女の道」は、世間をあっと言わせます。
あでやかな容姿、弁舌口調は視聴者を魅了します。
全国各地で彼女の演説は人気を博しますが、時代は言論封殺、明治の暗黒時代に入ります。滋賀県大津の演説で官史侮辱罪で投獄され、方向転換を迫られ演説から寄稿による言論に変わっていきます。
この時期活動を共にしていた18歳年上の自由党副総裁中島信行と結婚(後妻)します。
若き日の中島信行は、坂本龍馬、睦奥宗光ら土佐藩士と共に討幕運動に参加した海援隊メンバーの一人で、死別した最初の妻は睦奥宗光の妹でした。
睦奥宗光、中島信行は共に神奈川県令を務め、中島は第一回の衆議院選挙で神奈川4区で当選した横浜ゆかりの人物でもありました。
※神奈川第1区は島田三郎
俊才中島湘烟(岸田俊子)はフェリスとの関わりを深くしていきます。
1888年(明治21年)5月にはフェリス和英女学校名誉教授
1893年(明治26年)9月にイタリア公使になった信行ともに結核を発病
1898年(明治31年)11月帰国し神奈川県大磯町に転居、夫婦ともに治療に専念します。
1899年(明治32年)3月26日信行が肺結核のため53歳で亡くなり、
1901年(明治34年)5月25日一年後追うように中島湘烟、肺結核のため28歳で逝去します。

■大磯に死す
ここに登場した中島信行 俊子(湘烟) は神奈川県中郡大磯町の大運寺に墓があります。

この大磯という街は不思議な街です。新島襄が療養中に無くなったように茅ヶ崎市と並んで“サナトリウム”当時不治の病に近かった結核療養施設が多かったことも関係がありますが、明治中期から昭和初期にかけて、要人の避暑・避寒地としても最高のロケーションだったようです。
吉田茂
伊藤博文
山形有朋
その他、西園寺公望、大隈重信、陸奥宗光、岩崎弥之助、安田善次郎など
明治時代の幹部勢揃いといえそうな顔ぶれです。
最初の帝国議会が開かれた時
初代衆議院議長となった中島信行
初代貴族院議長となった伊藤博文
内閣総理大臣は山県有朋でした。
この三人が大磯に別荘を持っていました。

→大磯と横浜の歴史的関係
 調べてみると面白い繋がりがありそうです。

※個人的には山県有朋に関心があり
 彼の資料を調べていますが
 一時期作られた イメージとはかなり異なる人間像が感じられます。
 何かの折に 紹介しましょう。

「山県有朋」関連書籍リスト

山県有朋 明治日本の象徴
岡義武  岩波新書(絶版)

山県有朋
半藤 一利 筑摩書房

山県有朋 愚直な権力者の生涯
伊藤 之雄 文春新書

山県有朋と明治国家
井上 寿一 NHKブックス

【絵葉書の風景】2013年12月16日 

私の(数少ない)横浜絵葉書コレクションから
風景を読み解いてみます。
今日の一枚は
THE THEATRE STREET,YOKOHAMA.
(横濱名所)歓楽の巷伊勢佐木町通り

風景の位置は、伊勢佐木町三丁目方向を道路を挟んで二丁目から臨んでいます。

発行年代の推定は
 まず オデオン座の映画看板『妻と女秘書』は
 1936年(昭和11年)日本公開。
 クラーク・ゲーブル主演の米国映画。
隣の「又楽館」上映の「地の果てを行く」は1935年9月公開のフランス映画。
 キネマ旬報ベストテン外国映画5位となった作品。
このことから この絵葉書の風景年代は 1936年(昭和11年)と推定できます。
※オデオン座の風景からはさらに面白い光景を読み取れます。

 二階の窓から 人が出て何か作業を行っています。どうやら吊り広告の「レート化粧料ご愛用者五千名様御招待レートクリーム」と読めそうです。
このレートクリーム

戦前は「東のレート、西のクラブ」と称された有名化粧品メーカーだったようです。

1878年(明治11年)に開業し1954年(昭和29年)に廃業したレート(仏語LAIT)ブランドを販売した平尾賛平商店(ひらおさんぺいしょうてん)

時代は1936年(昭和11年)頃と推定できますが、
1936年(昭和11年)4月にオデオン座が改築し拡張しています。画像からも新しさを感じます。改築後とするともう少し絞り込めそうです。
開戦まで5年という切迫感はこの絵葉書から感じることができません。伊勢佐木通りを走る“自動車”が右側を走っているのも気になります。(一方通行だったのでしょうか?)
ただ 戦後すぐであれば 伊勢佐木は空襲の爪痕もありもう少し荒れた風景もあったのではないでしょうか。また連合国軍占領下ではオクタゴンシアターと呼ばれていましたからこの風景は戦前の幸せなひとときかもしれません。
簡単に店舗推理をします。
 向かって右側から
■尾張屋呉服店(尾のマークが見えます)
■桜花化粧品店
■石渡洋服店
(数軒おいて)
■喜楽座(ちょっと不確定)

 向かって右側から
■オデオン座(映画館で昭和11年竣工)
■又楽館(映画館)

ここまで調べてきて
妙にひっかかることが出てきました。
伊勢佐木のオデオン座は
横浜本牧生まれの平尾榮太郎(平尾商会)によって創業された映画館ですが
その後 六崎市之介へ移り最終的には松竹の傘下にはいります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜オデヲン座
そして
この昭和11年頃ののオデオン座に大きく掲示されている広告
「レート化粧料ご愛用者五千名様御招待レートクリーム」
前に紹介したように「平尾賛平商店」の広告が掲示されています。
同じ「平尾氏」による経営ですが
手元で調べる限り 両社の関係性が見えてきません。
たまたま同性で 意気投合したのか
「五千名様ご招待」はかなりの大盤振る舞いではないでしょうか?
■当時の映画館入場料は50銭
理髪料が40銭
はがき1銭5厘
白米(10 キロ)2円50 銭
5,000人分となると25万円+経費分のインセンティブになります。
現在の物価との比較はかなり難しい作業ですが
1銭が20円程度と換算できそうです。となると
50銭=1,000円程度 でしょう。
一枚の「絵葉書」から 
ちょっと眺めただけでも 様々なことを“読むこと”ができます。
さらに“電柱”“服装”“看板”“建築”等々の歴史と重ね合わせると
いろいろなことが読み取れるでしょう。
単に 懐古趣味ではなく そこに生活している人々・景色から現代を重ねることで、この街の姿が見えてきます。
「歴史は現在と過去の対話である」E・H・カー
“An unending dialogue between the present and the past.”

ピアゴ屋上からオデオン方向

(余談)
平尾榮太郎は、ヨコシネとも不思議な関係がありました。

No.319 11月14日(水)東のヨコシネ(加筆修正)