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【横浜テーマ】横浜の〜」カテゴリーアーカイブ

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【横浜小さな駅】田園都市線 市が尾駅

田園都市線沿線の小さな駅「市が尾駅」周辺を紹介しましょう。

「市が尾駅」は
1966年(昭和41年)4月1日に田園都市線が長津田まで延伸した際に開設されます。
田園都市線の駅間距離が1km前後中心ですが、
隣接駅「江田」へは1.3km、「藤が丘」へは1.5kmと平均より長くしかも起伏のある傾斜地に作られた「駅舎」です。
昔、マーケティングの師匠の教え
「鉄道、国道は川と同じ。地域をつなぐが分断もする。橋が無ければ万里の長城、文化も変える」
「市ケ尾駅」に降り立つとこの言葉を思い出します。
田園都市線はほぼ「国道246号線」に沿って走っていますが、都内の地下路線を除いて「江田駅」とともに246号線に最も近い駅です。

鉄道=田園都市線、国道=246号線が
このエリアを南北に走り、
しかも西側を「一級河川鶴見川」が北から南に流れ“地域を分ける要素”が揃っています。
これは決して悪い意味ではなく、横浜市内の田園都市線沿線としては昔の香りと新興住宅地の香りが併存している独特の街に感じます。

旧道、そして河川敷の佇まい。
起伏のある丘陵地帯と、そこに広がる新興住宅地。
典型的な「郊外の街」とも少し違う街の佇まいがあります。

鶴見川に沿って散策していくと鉄(くろがね)町、さらに上流には寺家のふるさと村もあり、横浜の“原風景”を巡る最適なルートです。

「市が尾」は不思議な町です。
青葉区内の田園都市線各駅「青葉台」や「あざみ野」「たまプラーザ」と比較して小さな町ですが、
青葉区の行政上の中心地域としての顔があります。
○横浜市青葉区総合庁舎
 市内18区の中でも、青葉区役所は解りにくい(行きにくい)ベストスリーに入るかもしれません。
 ○横浜市青葉福祉保健センター
 ○横浜市青葉スポーツセンター
 ○横浜市青葉公会堂
 ○横浜市消防局 青葉消防署
 ○青葉郵便局
 ○神奈川県警察 青葉警察署
 ○横浜地方法務局 青葉出張所
 ○神奈川県 緑県税事務所
 ○緑税務署
と行政の施設が集中しています。
また1998年(平成10年)3月に
東名高速道路 横浜青葉インターチェンジが開通したことで、交通の要衝になります。

(古代史の街)
市ケ尾他鶴見側流域には、古代遺跡が数多く発見され、残されています。
市が尾駅からほど近いところにある「稲荷前古墳群」は珍しい中規模古墳で、当時の生活圏の大きさ(統治者の規模)を測ることができます。15〜17号墳の3基が保存されていて中でも16号墳は全国的にも珍しい方墳と方墳が線で結ばれたような形をしています。
http://kofun.info/kofun/213

また「市ヶ尾横穴古墳群」は、有力な農民の墓として6世紀後半から7世紀後半の古墳時代末期に造られたと考えられています。派手な「古墳群」ではありませんが、このエリアを歩いているとひと際良くわかる“こんもりとした丘”が「古墳群」として残されています。一部は開放されていて無理をすれば横穴に入ることもできます。(子供であれば難なく)
中にはガラス窓から横穴を覗くこともできます。
http://kofun.info/kofun/573

(ついでに)
駅から1分のところにある「市が尾第三公園」のオブジェ

「市が尾ベーカリー」
地元で信頼のあるパン屋さんだそうです。
“人気の”という枕ではなく“信頼の”というところがミソですね。
ご夫婦二人で、切り盛りされています。
→駅から徒歩7分位


「田園の憂鬱」
No.472 横浜と法政大学、その点と線

ここでも書きましたが、佐藤春夫が一時期暮らしていました。
「田園の憂鬱」の舞台となりました。

「とんかつ とん平」
なかなか丁寧な仕事ぶりで、
地元に愛されている感じが伺えるお店です。
→駅から徒歩5分位

※「市が尾駅」特に「わざわざ」行くところではありませんが、
 時にぶらっと立ち寄ってみたいところです。

【番外編】ランドマークが建つ

残照、ある時期 みなとみらいエリアに建つ(建設中の)ランドマークタワーを撮っていた時期があります。
記憶に残るランドマークタワーの風景を紹介します。
ごめんなさい!!一部画像が逆版です、
修正アップし直しますのでしばし逆でご勘弁を。
フィルムからスキャンした際 左右を間違えました。

■ランドマークタワー
正式には「横浜ランドマークタワー」といいます。
70階建てで高さ296.33mです。
1990年(平成2年)3月20日に着工し、1993年(平成5年)7月16日に開業しました。
http://www.yokohama-landmark.jp/page/
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜ランドマークタワー
今日は 写真集です。
特に解説は設けません。

全国から精鋭の職人が集まったそうです。クレーン職人が話題に。 
建設中のランドマークタワー

【横浜雑景】グランモール公園

みなとみらいの中心部を南北に貫く都市公園グランモールが
整備されて四半世紀の時間が流れたそうです。
今日は、思い出の写真を含めて

少々古いMMマップですが   。

グランモール雑景をランダムに並べてみました。
ランドマークプラザとクイーンズスクエアの中間部分にあたるヨーヨー広場から閉鎖された(る)GENTO YOKOHAMA手前まで、
約700mあります。

フィルムを探していたら発見。美術館前から山手方向。先に何もありません。
みなとみらい建設開始!の時期ですかね

かつて ジャックモールというショッピングモールがありました。

みなとみらい創世記の記録も含めて 懐かしいものも入っています。

ジャックモール
ヨーヨー広場から北方面へ
盆栽?
最後に
グランモール公園再整備に向けて、
市民の皆様のご意見を募集します
平成25年10月24日(木)までですって!

横浜年表ピックアップ【10月5日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。

●2013年(平成25年)の今日から
「馬のアート cartoons×comics〜時代を映す諷刺と現代マンガの世界〜」
根岸競馬記念公苑 馬の博物館 第2展示室において開催されます。

会期〜12月1日(日)まで。
休館日:月曜日(但し祝日・振替休日は開館)
入館料:一般100円
    小・中・高校生30円
10月20日(日)には「馬とのつどい2013」も関連開催
※森部英司アートパフォーマンス
※武蔵野美術大学ワークショップ
※馬車、ポニー、馬の試乗会
※ホースアトラクション
http://www.bajibunka.jrao.ne.jp

「横山大観展」(良き師、良き友)

横浜生まれの思想家・岡倉天心が創設に関わった東京美術学校第一期生の横山大観展を今日10月5日(土)から11月24日(日)まで開催します。
http://www.yaf.or.jp/yma/index.php

●1894年(明治27年)は
「時刻表記念日」です。
意外と地味な記念日ですが、
鉄道発祥の地、横浜には重要な記念日といえるでしょう。
今日は
日本で最初の月刊時刻表が発行された日です。
時刻表は、1872年(明治5年)新橋・横浜間に日本初の鉄道が開業した時から存在していました。
『鉄道列車出発時刻及賃金表』が駅構内などに貼り出される程度でした。
全国に鉄道網が拡大するにつれて、
情報量が増え冊子体の時刻表が必要となってきました。
1872年(明治5年)10月14日(旧暦9月12日)に鉄道運行が正式開業してから
『時刻表及賃金表』が本町六丁目の横浜活版社から発行されます。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/kids/bunmeikaika/d3_01.html
※横浜活版社に関しては調査中です。
 横浜の活版史として 別途紹介します
 「横浜毎日新聞」も横浜活版社から発刊されました。

『時刻表及賃金表』これが日本初の市販時刻表といわれています。
そして、運行ダイヤの最新情報を提供する定期刊行物として
月刊時刻表が1894年(明治27年)10月5日に発刊されます。
手塚猛昌が経営する庚寅(かのえとら)新誌社が刊行した「汽車汽船旅行案内」です。
この時刻表は福澤諭吉がイギリスの時刻表を元にし編纂させ、手塚猛昌が発行したものです。発車時刻や運賃のほか、紀行文等も掲載されていたそうです。
編集した手塚猛昌(てづかたけまさ)は
長州が生んだ“日本時刻表の父”と呼ばれています。
因みに
日本交通公社の時刻表は、
1925年(大正14年)4月に創刊されました。

●1896年(明治29年)の今日
「東海道鉄道工事ならびに停車場位置に関する陳情書を提出する。」
これもかなり深い鉄道ネタです。
1881年(明治14年)5月7日に新橋駅〜横浜駅間の複線化が完了します。
1887年(明治20年)7月11日に横浜駅(初代)〜国府津駅間が延伸開業しますが、その間の駅は程ヶ谷駅(現在の保土ヶ谷駅)・戸塚駅・藤沢駅・平塚駅・大磯駅・国府津駅で
ほぼ現在の駅に近いものです。
1896年(明治29年)の今日出された陳情書は
神奈川駅〜程ヶ谷駅間の変則ルートを直線化する計画が出され
軍用短絡線を陸軍省から譲り受けることが決まったことに関するものだと推察できます。
二年後の1898年(明治31年)神奈川駅〜程ヶ谷駅間の短絡線が開業し、東海道本線となります。この時期に横浜〜茅ヶ崎駅間が複線化されます。
※逆に神奈川駅〜横浜駅間、程ヶ谷駅〜横浜駅間が支線扱いとなります。
→このあたりも 一度整理して 紹介したいと思っていますが
 簡略マップ作成の時間と気力が中々できないので 保留中です。

●1967年(昭和42年)の今日
横浜市議会「全員協議会は派大岡川等河川の埋め立てについて審議」
この話しは、かなり面白い(個人的に)ネタであること、
派大岡川を語ると吉田川も語る必要がある。
当然大岡川を含めた
横浜運河物語に発展していきます。
さらには市営地下鉄、首都高速、根岸線まで絡んできます。

→とういうことで現在傍系資料やら 現地調査やら進行中です。
 今月中に一定レベルでまとめ 紹介したいと考えています。


●1892年(明治25年)の今日
横浜市立本郷小学校
横浜市栄区中野町16番地の1
1892年(明治25年)10月5日の今日
鎌倉郡本郷村立尋常高等本郷小学校が創立しました。 
開港時の児童数は269名でした。
昭和14年4月1日本郷村が横浜市に編入され戸塚区になったことに伴い横浜市本郷尋常高等小学校と改称します。 児童783名
明治20年代の創設は 新しい方?
横浜には結構歴史ある小学校が多いのです。

No.144 5月23日 教育熱は時代を超えて

●1907年(明治40年)の今日
早稲田大学野球部は横浜居留地の外国人チームと東京新宿の戸塚(安倍)球場で試合を行い12-1で勝利しました。

これだけでは【横浜】とあまり関係無し????
さらに調べると翌週にも試合があり今度は横浜で
 10月12日に横浜居留地の外国人チームと戦い
  3−2でまたまた早稲田が勝利します。
実は 早稲田大学野球部は、この年以外にも
  多数横浜の外国人チームと試合を行っていることが
  判明。
→1904年(明治37年)
7月2日
 横浜居留地外国人チームと戦い28対3で勝利(横浜公園)
4月28日
 米国艦船ウィスコンシンチームと戦い7-1で敗北します。
5月25日
 さらに米国艦船ウィスコンシンチームと戦い8-7で敗北します。
10月14日
 横浜居留地外国人チームと横浜公園球技場で戦い3-2で敗北します。
日程不明
 横浜居留地外国人チーム戦9対6にて快勝。
 横浜居留地外国人のアマチュアチームと戦い12-2で勝利します。
 対米艦チームと戦い5-2で敗北します。

→1907(明治40年)の記録では
 9月28日 
 横浜居留地外国人チームと横浜で戦い10-2で敗北します。
 6月4日
 米国艦船メリーランドチームと戸塚球場で戦い5-2で敗北します。
 5月3日 
 横浜居留地外国人チームと戸塚球場で戦い12-2で勝利します。

No.467 なんでここにこんな?(戸塚編)

東海道(国道一号線)下り路線、戸塚から原宿交差点に向かう途中、
左手のマンションの脇に「記念碑」らしきものがあります。
昔からマイカー、バス(の方が良く見える!)で気になっていました。
先日 気がついてから三十数年目に確認してきました。

ちょうどこの記念碑のあるあたりは 東海道戸塚宿を過ぎた馬の背になっています。

事前に「Google」でこのあたりを確認してみようとしたら
ストリートビューで ちょうど 見えない!なんで追い越し車線から撮影するかなー。

ストリートビュー手前だと見えます。
近づくと車がじゃま!

やっぱり実地検分しか無い!
戸塚駅から藤沢駅行きのバスに乗って、
「西横浜国際総合病院前」で下車します。

戸塚方面バス停

ありました、ありました。
「お軽・勘平の碑」でした。しっかり囲みもあり、丁寧に作られていることがわかります。

「碑石の由緒」には昭和四十六年七月とありました。
文学博士 松本亀松氏による由緒が記されています。
「伝統芸能研究者。1901年10月27日〜1985年4月。東京生まれ。東京高等工業学校中退。日大教授。1960年「狂言六儀の研究」で日大文学博士。72年定年退任。演劇学会理事。」
碑が建立されてから半世紀近くなりますがメンテナンスも行き届いています。
「お軽・勘平」って?
歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」四段目、塩谷(えんや)判官の家臣早野勘平と腰元お軽が、お軽の所への道行の途中で
「鎌倉を出てやうやうと、ここは戸塚の山中、石高(いしだか)道で足は痛みはせぬかや」と勘平が優しくお軽に問うところに因んでいるらしい。
鎌倉から落ち行くお軽・勘平のふたりが桜と菜の花が咲き乱れる戸塚山中で見せる美しく華やかな所作事なんですが、なぜここなのかが明記されていません。
ここは「桜と菜の花が咲き乱れる戸塚山中」なんですかね。
昭和50年代の地図には「日本石油」のガソリンスタンドがありました。
現在はマンション(?→未確認)が建っていますが、ガソリンスタンドがあった頃からこの記念碑はありましたから、スタンド脇に記念碑が設置されたことになります。
さらに疑問なのが「東京急行電鉄」が記念碑の賛助社と記されている点です。

「お軽・勘平」は、創作です。
【仮名手本忠臣蔵】の『道行旅路の花聟』(みちゆき たびじの はなむこ)は本来のストーリーではなく、後から追加されたものです。
幕末以降、二段目や三段目などに挿入されてきましたが、最近では「判官切腹」の場と五段目「山崎街道」の場」の間に挿入されています。

語り出しが「落人と、見るかや野辺に若草の」と始まるので、通称『落人』(おちうど)といわれています。
http://www.youtube.com/watch?v=L2_26wsZ4_A
内容は「おかる」と「勘平」が駆け落ちを決意し、おかるの故郷山城国の山崎へと目指す途中、そのあとを追いかけてきた「鷺坂伴内」が二人にからむ場面です。色彩豊かな所作事で、軽やかな清元を聞きながら華やかな気分が人気定番となりました。
舞台は「一面の菜の花の春景色、遠くに富士が見える」見事なシーンが拡がります。
歌舞伎舞台では、舞台装置は“どうみても”平地ですね。

周辺に観光資源、無いことはないのですが 孤立感ヒシヒシ。何か関連で活かす方法ないでしょうかね。戸塚宿尾根歩きコースですか  ね。

【番外編】9月17日のある事件

●1946年(昭和21年)9月17日
横浜市戸塚区東俣野町である事件が起りました。
これは「別掲テーマ」で詳細をドラマ仕立てにしてみます!!!
と暦で語る今日の横浜【9月17日】で予告しましたので

ここにまとめてみました。出来は??

(以下若干想像が一部含まれています)
事件は、ある少女が藤沢市鵠沼海岸にある乃木高等女学校から校名を変更したばかりの湘南白百合高等女学校から帰宅途中に起ります。
住友財閥16代当主、住友吉左衛門(住友 友成)家の長女で、
白百合高女6年のK子さん(当時12歳)が、何者かに誘拐されます。

当時、住友家は1939年(昭和14年)横浜市戸塚区東俣野町に建てた「東京別邸」に暮らしていました。
※湘南白百合学園
http://www.shonan-shirayuri.ac.jp/about/

残念なことに、「旧住友家俣野別邸」は国の重要文化財に指定されていましたが、横浜市が整備中の2009年(平成21年)3月15日未明、不審火による火災で全焼し、「重要文化財」の指定を返上し、別の計画で再建が進められています。
再整備が完了し、現在は一般開放しています。
俣野別邸庭園

石積みにも迫力があります

ここからの富士山の眺めが絶景で、眼下に境川と田園風景が広がり晴れた日には丹沢山系、箱根、そして富士山が一望できる場所です。
現在でこそ、藤沢バイパスが走り便利になりましたが、当時は周囲にほとんど住宅も無く、山岳リゾートの感すら漂う林間地でした。

東俣野陸橋の奥が別邸正門

■旧住友家俣野別邸(きゅうすみともけまたのべってい)

1939年に住友財閥の創業者一族である住友家が建築させた和洋折衷の住宅である。現存しない。旧住友家俣野別邸は、1939年(昭和14年)に当時の住友家当主であった16代住友吉左衞門が発注した住宅で、住友家の東京本宅の別邸として現在の神奈川県横浜市戸塚区東俣野町の丘陵地に建築された。設計者は佐藤秀三であった。

基本的には当時の大財閥一家が生活するために、使用人の居住区も備えた大規模な西洋風建築であるが、設計に際し北欧の伝統的な建築様式である柱や梁を露出させる様式を基本としながらも、屋根に日本瓦をのせるなどの伝統的な和風様式も取り入れている。建物はY字形で、昭和時代初期に流行したモダニズムの影響を受けており、和洋と現代建築が融合し折衷した建築物であった。1998年ごろまでは住友家に縁の者が生活していたが、2000年に相続税として国に物納され、政府に所有権が移った。※現在無償で貸し付けを受けて横浜市が管理2004年7月に国の重要文化財に指定され、保存と一般公開に向けて2008年(平成20年)1月から修復工事が進められていたが、2009年(平成21年)3月15日に焼失した。

(事件)
1946年(昭和21年)9月17日午後、
「警察の者ですが、お父さんのことで重大事件がおきたので、あなたにお尋ねしたいことがあります」
と一人の男に声をかけられます。声をかけたのは東京生まれの鉄道機関助手だった樋口芳男でした。
樋口には誘拐の前歴があります。
戦中の1944年(昭和19年)にも女子学習院付属初等科5年生だった松平子爵令嬢(当時12歳)に「お父さんに渡す大切なお金を渡すから一緒に来てください」と声をかけ誘拐し都内を連れ回しますが、数日後に逮捕されます。
彼は戦時強制猥褻罪で刑務所に拘置、「3日間連れて歩いただけ」と主張しますが取り調べで厳しい拷問を受けるなど、警察に反感を持つようになります。
※誘拐犯罪そのものは許されない犯罪ですが、犯人樋口芳男に関してはネット上で誘拐暴行の常習犯としてデータがコピペされ流布されていますが、真偽が不明です。要人誘拐ありながら軽い罪状からも安直に信じることはできません。

樋口は半年間に及び取り調べを受け、懲役3年の実刑判決を受けます。
八王子の少年刑務所に収監されますが「過酷な刑を受ける言われはない」と終戦目前の7月30日に看守の目を盗んで脱走します。終戦の混乱期だったため、各地を転々とすることが出来、終戦と共に偽名を使い自由な生活を送ります。
樋口芳男にとって少女誘拐は“営利”としてではなく、小さい頃からの女性へのコンプレックスの顕われとして常習化します。
戦争の終わった1946年(昭和21年)3月、日本女子大の付属に通う日本帝国工業専務の長女Kさんを誘拐し、連れ歩きます。兄妹と名乗って安宿を転々としますが、
被害者の少女も決して恐怖や不快な感情は持つことはありませんでした。彼女自身から進んで食料を調達したり、逃亡生活を続けますが定職に就ける訳も無く資金が枯渇します。そこで少女Kさんは意外な行動に出ます。
母親のもとに、Kさんからお金を無心する手紙を書きます。娘の消息を知った家族は驚き、警察は“受取り指定”の築地本願寺周辺に張り込みをします。
約束の時間に金を受け取りに現れたのは、なんと被害者であるはずのKさんだったのです。母親の合図で、刑事が走り寄って犯人に手錠をかける手筈となっていましたが、母親は合図も忘れ犯人を逃してしまいます。

それから半年後の9月17日に樋口芳男は、あらたに少女誘拐を企て今回の事件が起ります。
この誘拐事件ははじめ脅迫状や身代金の要求がなく犯人の目的がわからなかったため戦後初の公開捜査となります。
逃亡の足跡を追います。
9月17日
学校の近くの江ノ島から横須賀へ行き、千葉県津田沼に泊ります。

 翌日18日には千葉県の稲毛に宿泊します。
19日に上野発直江津行きの夜行列車に乗り車中で泊ります。
20日には篠ノ井経由で松本に到着しますが公開捜査のため山奥に逃走しようと考えます。
21日中央線で名古屋へ向かいます。
22日名古屋に着き中津川へ向かいますが、
公開捜査で木曽の山奥に逃げこもうとしますが途中で列車に乗りこんできた老婆に通報され
23日朝、岐阜県恵那郡付知町の宿泊先で逮捕され、事件は収束します。
この時も、被害者であった少女住友K子さんは、樋口にほとんど警戒心を持たず、新聞記者の取材に

『あの人(犯人の事)と、千葉で映画をみた。とても楽しかったわ。映画を見たのは、生まれて初めてで・・・ あの人が、「あなたは、命を狙われている。わたしが守ります。」と 言われ、その言葉を信じていたわ。 それに、あの人が わたしの兄で・・名前は本多良男。 わたしは、あの人の妹で・・一緒にいて 本当のお兄さんの様に 思えてきの。千葉では、お化粧品 一式を買ってくれた。 名古屋ではスカート。わたしが退屈すると お人形さんを 作ってくれたり、とても優しくしてくれて 淋しいなんて 思わなかったわ。あの人が そんな悪い人とは思えない。』

と答えますが、
記事の内容は「ただもう怖くて、一刻も早くお家に帰りたくて・・・」
と変更されました。

事件後、住友家には5通の脅迫状が届きました。
全て公開捜査情報を悪用した別人によるいたずらでした。

事件解決の翌日の9月24日、GHQは財閥解体の具体方針を発表し三大財閥(三井、三菱、住友)の所有する証券類を持株会社整理委員会へ移管するよう命じます。

しかし、当時の住友吉左衛門(住友 友成)は住友財閥における住友家、特に15代目吉左衛門友純以降の「君臨すれども統治せず」の立場をとっていたため、終戦直後すでに関係会社の役職を辞任し一切の役職に就くことはありませんでした。
住友 友成は歌人としても秀作を多く作り
「泉幸吉」としても有名です。歌集に『樅木立』(私家版、1973)があります。
「泉幸吉」の名は、住友家の屋号「泉屋」に由来するそうです。

この東俣野別邸公園近くには運動施設の充実した「東俣野中央公園」があり、ここからの富士山、丹沢山系、境川流域風景は絶景です。

公園から旧横浜ドリームランドが見えます。(望遠)
テニスコート、運動場、野球場

※交通手段
 「別邸」は戸塚駅前(バスセンター)から藤沢行き「鉄砲宿」下車5分
 「中央公園」は同じく「諏訪神社前」下車5分

No.461 北海道=横浜を結ぶ点と線

北海道と横浜を結ぶ点と線、
幾つかご紹介しましょう。
北海道(ほっかい・どう)と使っていますが
他の都府県とは少し使われ方が違いますね。
「北海道」は「東京」「大阪」「神奈川」といったように略して表現することがありません。
「北海道」は「ほっかい」と「どう」ではなく
「ほっかいどう」と、一体となって歴史を歩んできました。

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(北海道)
明治2年8月15日が北海道の記念日です。
1869年6月27日(明治2年5月18日)戊辰戦争の最後の戦場ととなった“箱館”の戦争が終結します。この箱館戦争の影に「咸臨丸」の悲劇があり
横浜・静岡そして函館を結ぶ物語を紹介しました。

No.262 9月18日 (火)咸臨丸の真実!

1869年9月20日(明治2年8月15日)
 明治新政府は太政官布告によって蝦夷地に「北海道」の名前を与えます。
 また北蝦夷地を「樺太」と改名します。
命名に際しては六つのネーミング案が提案されます。
 1 日高見
 2 北加伊
 3 海北
 4 海島
 5 東北
 6 千島
この中から  2の「北加伊(ほっかい)」をベースに
律令制の五幾七道(東海道、東北道、北陸道、山陰道、山陽道、西海道、南海道)にのっとり「北海道」の字をあてて採用されました。
「北海道」は、「道」と一体として現在まで使用されています。

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この地図解説は次号で詳しく

(冒険家の北国)
江戸時代、正確な形で蝦夷地の地図を測量し制作した人物といえば

「伊能忠敬」と「間宮林蔵」ですね。
間宮林蔵は1799年(寛政11年)幕府の命で蝦夷地に20年以上滞在し、
蝦夷地、千島、樺太の測量にあたります。 
最大の成果は、1809年(文化6年)に間宮海峡を発見したことです。
何故か?
 ロシアの南下に対し領土の保全に苦慮、躍起になっていた幕府にとって蝦夷の地がロシアと陸続きではないことが判ったことが重要な国土防衛情報となったからです。
同時期、オランダ出島経由で日本に入ったシーボルトも
北方に地勢に重大な関心をよせていました。
シーボルトは林蔵の樺太の地図を複製し、海外に持ち出し林蔵の樺太の地図(複製)が世界地図にのるようになります。結果
アイヌ、和人の生活用具など、文化遺産、蠣崎波饗の夷酋列像の絵など収集した北海道の文化資産の存在や、間宮林蔵 本人の名が世界に知られることになります。
No.458 相摸のもののふは杉田を目指す?

※間宮林蔵は終生 独身だったと伝えられていましたが
 1813年(文化10年)上川のタナシ(現・当麻スカイパーク付近)でアイヌ女性アシメノコを見そめ、翌年の文化11年に娘ニヌシマツが生れます。
子孫の(間見谷 喜昭)さん(72歳)が平成14年、林蔵の五代目に当ることがわかったそうです。

No.212 7月30日 (月)ある“日本人”の学究心

スコットランド人の医師Neil Gordon Munro(ニール・ゴードン・マンロー)は、横浜三ツ沢貝塚研究で本格的な発掘調査をした人物ですが
1933年北海道に渡り、平取町二風谷(にぶたに)にマンロー邸を建てて医療活動を行いながらアイヌ文化を研究し保存に尽力します。
アイヌ民具などのコレクションの他、イオマンテ(熊祭り、1931年製作)などの記録映像を残したことは貴重な資料となっています。

さて、横浜と北海道の点と線
これは イントロに過ぎません。

さらにつづく 北海道と横浜を繋ぐ点と線は 次回に

No.458 相摸のもののふは杉田を目指す?

今日は 横浜市磯子区南部に位置する“杉田”エリアを紹介します。
現在の杉田エリアは、京浜急行「杉田」駅とJR根岸線「新杉田」を結ぶ「ぷらむろーど」を中心に商店街が拡がっています。歴史ある時代で表情が変化した
時をさかのぼれば 広大な歴史の舞台「杉田」が浮かびあがってきます。
調べれば調べる程、面白い杉田です。

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杉田妙法寺の蓮(今が見頃です)

(東西南北)
■東は海。
 かつては船で杉田観光に!
■西は笹下川(ささげがわ 大岡川の支流)流域
 鎌倉武士の城があった“金沢道”周辺は面白い!

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■南は金沢区富岡に隣接する起伏のある丘陵地
 梅で有名な杉田の梅林は富岡との境あたりに群生?
■北は中原(屏風ヶ浦)あたり
 現在の「杉田エリア」明治期、久良岐郡屏風ヶ浦村の一部でした。
 杉田の名は 江戸時代から梅の名所で有名でした。

(意外な?因縁)
杉田(すぎた)といえば?昔を良く知る人は「梅」と答えます。
商店街も「ぷらむろーど」ショッピングビル名も「プララ」と名付けられています。
「梅林小学校」「杉田梅林トンネル公園」といった名称もあります。
かつて広大な「梅林」が杉田にはありました。
「梅林小学校」絶景ポイントでもあります。

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梅林小学校近くの眺望
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この杉田梅林を創り上げたのがこの地の領主「間宮信繁」という人物です。
天正年間頃16世紀後半の時代です。杉田という土地柄は、起伏が多いため稲作に向いた田畑に恵まれませんでした。漁業が中心の貧しい寒村でしたが
この地を治めた間宮信繁が地域の産業として梅の植林を奨めます。小田原の曾我梅林に習ったといわれています。
梅を地域産業として鎌倉時代から梅を育ててきた曽我に習い、「杉田梅」は小田原から移植したのではなく、逆に今 磯子で失われた「杉田梅」が小田原に残っている状況です。

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曾我梅林2013
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曾我梅林と冨士

数十年後には見事な梅林が育ち、年ごとに梅林が拡がっていきました。
最盛期には三万六千本にも達したそうです。
江戸初期は梅の実が農民を助け、
江戸後期から明治期には「梅の花の名所」として観光地となります。
多くの文人墨客もこの「杉田梅林」を愛でます。
「我等が郷土神奈川県下には由来天恵的に名勝或は史蹟の地として指を屈するの 地洵に多く,従って之れ等各勝地に遊杖せる古今の俳人墨客の数も相当多く,又 それらの人々に依って残された吟詠も決して少なくありません。今茲に編する杉 田金澤両地の内,杉田は往古より杉田梅林として其名高く例へば吟江の 吉野の みか梅の杉田もこれはこれはの句の如く,又「杉田の梅林に遊びて」と題書せる 抱一上人の これはこれはこゝをや梅の吉野山の句の如き,ともに花の吉野と梅 の杉田を対立させてゐるあたり全く梅花の名所として立派に立証し得る事が出来 うると存じます。又金澤は金澤八景として天下に其の名高く,其の昔兼好法師は 此の地の佳景を愛して住み,画聖巨勢金岡は此の地の妙景に絶倒して筆を松に擲 つたと云ふ事であります。又心越禅師は勝景西湖に似たる故を以て,八勝の詩を 賦し,尭恵法師は神異絶妙と,唱へて居ります程の勝れた地区であります。」
(飯田九一「杉田金澤古今俳句集」)

吉野のみか梅の杉田もこれはこれは 夏目吟江
「間宮信繁」の菩提寺杉田妙法寺には
 この地を訪れた俳人の句碑が残されています。
 門をくぐると直ぐに句碑に出会います。
さびしさは星をのこせるしぐれかな  飛鳥田 麗無公

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「また寒き 月のひかりや 梅の花」     松竹庵 梅月

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「簾越し居るこゝろして梅のもと」  内野 月朶(げつだ)

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■牛頭山妙法寺(ぎゅうとうさん みょうほうじ)
1352年(文和元年)創建。2月〜3月上旬には、名木「照水梅(しだれうめ)」をはじめ多くの梅の木が咲きほこります。

(スパイも医者も登場)
杉田に梅林を奨励した間宮?
この名から連想する教科書に出てくる人物といえば
間宮林蔵という“冒険家=隠密”でしょうか?
彼は杉田の間宮氏と遠縁にあたります。

「間宮 林蔵(まみや りんぞう、安永9年(1780年)〜天保15年2月26日(1844年4月13日))は江戸時代後期の隠密、探検家である。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。名は倫宗(ともむね)。農民出身であり、幕府隠密をつとめた役人であった。」(Wikipedia)
常陸国筑波郡上平柳村出身で、先祖は後北条氏に仕えた宇多源氏佐々木氏の流れを持つ間宮家の一族で武士から帰農した人物です。
杉田村で間宮から杉田姓を名のった一族の親戚にあたります。

間宮氏の一部は杉田に暮らし
「杉田姓」を名乗った一族がいました。
間宮一族は 近江佐々木氏にルーツがあり遠くは近江の出身です。
鎌倉時代、相摸のもののふの一族として歴史に登場します。
北条氏に仕え、笹下エリアに山城と陣屋を建て 杉田・笹下・田中他 一帯を治めます。
その後 北条氏滅亡で間宮氏は
杉田間宮氏、氷取沢間宮氏、三ツ沢、鶴見、房総下総、三浦、川崎、静岡 等に分かれて居を移していきます。
一方、初期に杉田村に生まれた遠縁の間宮長安という人物が
間宮姓から杉田に氏を変え暮らします。
この杉田氏の子孫が福井若狭藩(酒井家)の藩医となり幕末期江戸で活躍します。
ここに登場したのが

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一度は歴史教科書で聞いたことのある「杉田玄白」です。
杉田玄白(1733年〜1817年)
間宮林蔵(1780年〜1844年)
少し前後しますが 
二人はほぼ同時代を生きた人物で共に杉田に縁のある人物です。

(杉田のヘソ)
江戸時代まで、杉田・屏風ヶ浦のヘソは笹下にありました。明治初期には現在の「横浜刑務所」あたりに久良岐郡役場と村役場がありました。
その後、堀割川流域の発展に伴い市電の開通などもあり磯子・屏風ヶ浦・杉田地域は海岸線が発展していきます。
 市電の終着「杉田駅」ができることで、海岸線に近い杉田は大きく発展していきます。その後に、湘南電気鉄道(後の京浜急行)「杉田駅」が開通します。
湘南電気鉄道の当初の計画では
「屏風ヶ浦駅」が最初に開設する予定でしたが、地元の猛反対に遭い「杉田」が先に開設されます。(よくある歴史の皮肉ですね)

ここで
少しヘソが変わります。
市電「杉田駅」から「聖天橋駅」周辺に繁華街の中心が移り、市電廃止でバス中心となると「京急杉田」を軸に街が拡大していきます。

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上大岡からの旧道に沿って開通した“湘南電気鉄道”は昭和初期、日の出町で京浜電気鉄道とつながり、一気に首都圏の重要な動脈となっていきます。
一方、戦後になり念願の桜木町から先に伸びる「根岸線」が開通すると
第一段階で「磯子駅」が開設し駅前が変わります。
その後「大船駅」全通に伴い「新杉田駅」が開設され、「杉田駅・新杉田駅」界隈には独特の賑わいが生まれます。
平成に入り、
シーサイドラインの開通等で、杉田のヘソは少し「新杉田」寄りにシフトしましたが、まだまだ京急杉田周辺のデープさは残っています。

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※余談
 京急杉田駅横には「お稲荷さん」があります。

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 この杉田駅稲荷?(というのか不明ですが)には
 秘話が隠されているのをご存知ですか?
 この秘話は 別のところで紹介することにしましょう。
今日はちょっと長くなりました。おつきあいありがとうございます。

No.42 2月11日 観梅シーズン到来

No.455 東海道の横浜を歩く

「横浜道」に引き続き横浜の街道「東海道」を紹介します。
東海道と言えば、江戸時代に整備された徳川幕藩体制を支えた物流を支えた主要街道の一つです。
横浜エリアの東海道を何回かに分けて歩いてみましたので
紹介します。

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【鶴見市場から生麦】

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横浜東海道の旅は「鶴見市場」からスタートします。
京急鶴見市場駅から北方向に商店街を抜けると「熊野神社」にぶつかります。

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鶴見熊野神社

横浜市鶴見区市場東中町9〜21
殺風景な境内のわりに派手なHPがあります。
●「横浜市立市場小学校発祥の址」の碑
●加舎白雄と大島蓼太の句碑(飯田九一 選と揮毫)
この「熊野神社」前の通りが旧東海道です。
No.264 9月20日(木)「鼾かく人を流罪す月今宵」

鶴見川橋を渡りますが、鶴見川に鶴見川橋の名からもこの街道の歴史を感じます。

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右手に「鶴見神社=杉山神社」があり街道の鎮守の役割をもっていることがわかります。
京急「鶴見駅」の線路下を(抜けられませんが)通り、
ベルロードつるみ・鶴見銀座商店街を抜けます。
鶴見線の架橋をくぐり
鉄道レトロの「国道駅」前から
生麦魚河岸通りを通ります。
【番外編】生麦、旧東海道を歩く

No.383 【生麦界隈】横浜史を生麦で体験

【子安から神奈川】

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国道15号線がほぼ東海道をトレースしています。
入江川派川(海岸線に平行している運河)
ここが子安から神奈川が最も昔のままの海岸線をイメージできます。

No.216 8月3日 (金)この道は金港に続く

東神奈川は横浜市内最初の宿場町です。
神奈川県内最大の宿場町でもありました。

神奈川宿に関しては
別にテーマを立て 紹介します。

【神奈川から保土ケ谷】

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横浜中心部に入ってきました。
東海道が 海に別れを告げ、内陸に入っていく分かれ目が
青木橋あたりです。
No.452 横浜道から開港当時を探る

No.453 「横浜道」を歩く (前編)

No.454 「横浜道」を歩く (後編)

鶴屋町から保土ケ谷までは 旧東海道の道筋が残っています。
八王子街道への別れ道「追分」を過ぎると
横浜賑わい商店街ベスト3に入る
洪福寺松原商店街です。
No.414 競争共栄商店街

ここまで渡ってきた川が
鶴見川
入江川
滝野川
そして
帷子川と今井川の合流地点が
相鉄線「天王町」駅前です。
東海道は今井川に沿って保土ケ谷宿に入ります。
JR保土ケ谷駅前を過ぎ、東海道・横須賀線の踏切を越えると
保土ケ谷宿 本陣跡に出ます。
この保土ケ谷宿からは 金澤古道が分岐しています。

【保土ケ谷から品濃町】

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横浜市内の東海道最大の難所です。
何度来てもこの坂の急傾斜前で躊躇します。

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急坂「権太坂」です。

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ここを越えると「境木」です。
武藏の国と相摸の国の国境(くにざかい)です。


No.253 9月9日(日)子規、権太坂リターン

No.339-2 12月4日(火)越すに越されぬ国境(くにざかい)

【番外編】 1月17日(木)横浜は坂ばかり
横浜は坂が多い街ですが、中でも権太坂は厳しい!!!

かつて栄えた!
境木商店街も火が消えつつありますが
ここは元気です。
創作和菓子処 栗山


ご当地もの たくさん買ってきました。


「男爵さま」が最新の作品だそうです。いけまっせ!


新製品を創る努力と工夫が大切ですね。
http://www.wagashi-kuriyama.co.jp

境木の峠を越えると
東戸塚に入ります。
この街は 1980年(昭和55年)10月1日に横須賀線の新駅が開業し
日立製作所関連企業、西武等による開発が行われ新しい街が生まれました。
※日本現役最古の鉄道トンネル「清水谷戸トンネル」は
 東戸塚駅と保土ケ谷駅間にあり東海道下りルート最初のトンネルです。

旧東海道には品濃一里塚跡を示す碑があります。

【品濃町から戸塚】

東戸塚から柏尾川支流に沿って旧東海道はつながっていきます。
戸塚ネタはこのブログでもかなり取上げています。
No.142 5月21日 戸塚は鎌倉?(加筆修正)

No.306 11月1日(木)戸塚駅東口小史

No.351 12月16日(日)戸塚踏切をなんとかしろ

No.48 2月17日 さよならYDL

この先、藤沢宿までの旧東海道は踏破していません。
湘南に抜ける時は、戸塚駅前から柏尾川にそって川ルート下りばかりで
実は もう一つの 山越えが 待っています。
「原宿」あたりのルートです。
この区間は 今年中に踏破する予定です。
※藤沢宿から平塚宿までは徒歩踏破しています。

No.454 「横浜道」を歩く (後編) 加筆修正

No.453に引き続いて現在の「横浜道」(後編)の紹介です。
後半は横浜道の難所となった「掃部山・野毛山」越えから
野毛の町にぐぐっと曲がり
そして大岡川を都橋で渡ると吉田町、吉田橋となります。
現在 最も開港場の歴史を庶民の視点から散策できるエリアです。

掃部山(かもんやま)の桜

この道行きは
人気の観光、賑わいゾーンで
案内情報も沢山紹介されています。
見どころは「掃部山」界隈です。

横浜能楽堂

ここでは少し違った視点で紹介しましょう。
(石積み博物館)
このエリアは「石積み」の野外博物館です。

野毛山の傾斜地に

フランス積み
ブラフ積み
古来の亀甲石積
布積み
乱積み
谷積み
等々 時代や環境に応じた石積みが発見できます。
(蕎麦街道)
横浜道にはそば屋が多い!!!!
平沼から日本蕎麦屋が10軒以上あります。
浅間下「横浜そば処 古登婦喜」
平沼「角平」

平沼「田中屋」

戸部「砂場」
戸部「松山そば店」

戸部「田中屋」

戸部「あんどうそば店」

※ちょっとルート外ですが花咲町 「太宗庵」

野毛町「中屋」
野毛町「東京庵」
吉田町「角清」
※八軒訪問。横浜道「蕎麦街道」って発想あると思います。

野毛山周辺はグルメスポット集中地区、しかも
小さい名店が点在しています。
例えば洋食!
紅葉坂周辺には「洋食屋きらく」(昔金港亭がありました)
青少年センターの「メルヘン」はあなどれません。
センターグリル、キムラの老舗も
レストランも新旧入り乱れて 話題の店が
ぎゅーーーーっと詰まっています。

No.371 1月5日(土)ノゲ的

No.424 琉球バル

No.323 11月18日(日)歓楽街の住まい方

No.61 3月1日 成田山横浜別院延命院復興

※野毛界隈は ここでは略します。
(吉田町)
さて 最後のルート「吉田町」に入ります。
No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん

鴎が舞う「都橋」を越えると
右側(南側)と左側(北側)が対照的な商店街が登場します。
吉田町の特徴は 左右非対称の商店街です。
通りとしての元気が出てきたのがここ十年のことです。
野毛とイセザキに挟まれて 静かに時が流れていましたが
再開発の計画が起る度に 街の活性化がロックされてきました。

この界隈も 情報が最近多く発信されています。
参考にされて 変わりつつある「吉田橋界隈」を
散策してみては如何でしょう。
新しいカテゴリーの飲食店が多く出店しています。
老舗中の老舗
肉の中川、鶏肉の梅や  は健在!

残念ながら閉店しましたね。

画廊も バーも
「Bar Noble」
横浜市中区吉田町2-7 VALS吉田町1F
http://noble-aqua.com

No.134 5月13日 必ず素晴らしい日の出が訪れる

最近は
うなぎの「八十八」が出店しました。

このエリアから 目が離せません。

※余談テーマ
 野毛の街をあるいていて
 「理美容店」の多いことに気がつきます。
 特に理容店で、値段もバラバラというところが
 ちょっと“おそろしい”
 今度数えてみますが ざくっと知っているだけで
 野毛界隈に 理容室が10軒は数えることができます。
No.457 ザンギリ野毛