第867話 【明治の風景】横浜駅前公衆便所(加筆)
初代横浜駅が開業したのは1872年6月12日(明治5年5月7日)考えてみれば、開港以来十数年で産業革命の象徴を導入したことになる。
わが国の鉄道発祥の駅舎は新橋駅と共にアメリカ人建築家、R・P・ブリジェンスが設計した。
ここに横浜駅前、鉄道開業後の写真に写る<謎>の建物を発見?

明治25年に発行された絵地図にも駅前噴水の先、大岡川に面した場所に何か建造物がある。
私はこれは新しい「公衆便所」ではないかと推理した。
撮影時期は、初代横浜駅開業期から
1902年(明治35年)に初代大江橋が架替されるまでの間であることは間違いないだろう。
さらに絞りこめるか、果たして公衆便所なのか
資料を漁ってみた。
まず簡単に横浜公衆便所史から
開港後、欧米人が出会った日本の風習の中で、
庶民が平気でどこでも<立ちション>するという行為には閉口したという。
そこで外国人たちは<公衆便所>の設置を時の行政府に強く要望した。
早速動いたのが横浜町会所、現在の横浜商工会議所だった。
1871年(明治4年)11月に横浜町会所の費用で町内83カ所に小便所を設置。
掲示板を使って設置場所を掲示し
「右之通りに付旅人は別して心得居可申事也」と示した。
この小便所は四斗樽大の桶を地面を掘り下げて埋め込み、板囲いをした程度の簡単なものであったため臭いがきつく外国人にはかなり不評だったようだ。
「主要地区には瓶(かめ)を埋め込み、男女両用に供し、屋形式のやや完全なるものに改造するなど、統廃合の結果、多くは橋詰に設置する事となり、其の数も四十数箇所となった。」
これが写真にある初代横浜駅前広場、大江橋詰に設置された公衆便所ではないか?
<横浜駅前公衆便所>
確証は無いがその他にこの当たりに必要な<建築物>が考えつかない。邏卒所=交番も考えたが、川沿いに建てる必要があるのか?窓がない、川に向かって蓋らしき構造、などなど疑問が残る。
拡大してみると人影が見え”立ちション”に見えないこともない。
写真左側には「大江橋」が架かっている。下流右岸から「大江橋」を見ている。
反対側からの風景でも確認してみたい。
大江橋上流の右岸から「大江橋」を写している。
恐らくこの風景の方が新しいものだろう。電信柱が増えているのが判る。
ちょうど樹木が遮っていて、正確に確認することができないが、角度的には橋詰の<建造物>は無いように見える。
短期間で撤去された可能性もある。

1872年(明治5年)2月17日の横浜毎日新聞には
「仮名垣魯文、立ち小便で科料(とがりょう)とられる。仮名垣魯文、当港へ来たり、本町辺にて風と立小便為し、邏卒に見咎められ、科料申付けられし由、西洋膝栗毛の趣向を一寸実施に見せたるは面白し。」と時の有名人も”立ちション”で捕まったようだ。
(参考資料:荒井保男『日本近代医学の黎明 横浜医療事始め』2011 中央公論新社)
※番外編
偶然の一致?


大江橋近くに2016年までなかなか良いデザインの公衆便所があったが、廃止されてしまった。
位置的にも古地図の位置と合っている(若干大江橋寄りではあるが)!んだけどな。
さらに追いかけてみるか?
第864話 野毛界隈入門その1
(プロローグ)
「野毛界隈入門」と題したのは私が<野毛界隈>について入門、体験の記録である。
この野毛の街を語るにはかなり勇気がいる。
この界隈を愛し、この界隈を語ったら止まらない大先輩から若手論客諸氏が手ぐね引いて構えておられるからだ。
私も野毛の近くに暮らし始めて十五年を越え、ぼちぼちこの街のことを調べてみようと思い立ったが大変な作業であることに気がついた。実に奥が深い。
野毛に関しては数多くの研究資料、エッセイが残されている。これらの諸先輩の資料を読み解く作業も楽しい。野毛といえば夜のイメージが強いが近くに暮らすこともあり昼間の野毛散策も多い。坂が多く年寄りには難儀するが、時折街並みの合間から見える野毛の街並みも面白い。夜の野毛はかつてノンベイだった頃の記憶がたくさん残っている。
呑みに行く<野毛界隈>には漠然と宮川町や日ノ出町も含まれていたので、ここでも野毛界隈として広く日ノ出町、宮川町、花咲町をベースに紅葉ヶ丘、宮崎町、老松町も含まれるていることをご了解いただきたい。
界隈は界隈であって、行政区分ではなく、時に範囲が自在に伸縮するところが<界隈性>なのだと思う。
<野毛連山>
野毛界隈は川と海に面し、背後に野毛連山を配する町である。堅く言えば丘の範疇だが、野毛界隈には地名にも野毛山・掃部山・伊勢山(これは皇大神宮の関係だが)・御所山・久保山といった名が残っている。
この山々の連なりを<野毛連山>と仮に命名すると
大岡川を挟んで左岸の野毛連山が、右岸には山手連山が迫っている入江に<吉田新田>が生まれ、居留地が誕生した位置関係が見えてくる。
野毛村から野毛連山を越えると、また深い入江があった。帷子川の入江である。
横道にそれるが、帷子川の入江の向こうにも丘が広がり、海に迫る幸ヶ谷公園から高島山・高島台(高島嘉右衛門)から台町・浅間台とこちらも帷子川の入江を囲むように丘が迫っている。
東海道は江戸日本橋を出発して平らな街道の旅をし、最初の山坂が神奈川宿を過ぎたあたりから始まる。保土ケ谷を過ぎると国境に<権太坂>が待ち受けていた。
明治期にはちょいワルおやじたちが7人東京から横浜・金沢まで観梅(杉田)を兼ねて自転車ツーリングに出かけたという記録がある。このルートも保土ケ谷から山を越え(たぶん引いて越えた)井土ヶ谷にでて杉田に向かったのだろう。
No.53 2月22日 アーティストツーリング
俳人正岡子規に至っては
親友の秋山真之と無謀な徒歩旅行に出かける。酔った勢いで着の身着のまま何の準備も無く「鎌倉に行こう」と下駄履きで出発、へばりながらも戸塚手前でギブアップ。東神奈川まで這々の体で戻り電車で東京に帰ることになる。
No.253 9月9日(日)子規、権太坂リターン
<野毛を横浜の中心に>
横浜開港場という立地は、江戸から見てダブルリバー、神奈川宿から3つの山を越えて行くことになる。その中でも一際厳しい<野毛連山>を開港時には突貫工事で真っ直ぐな道を開くことになった。横浜道である。
この野毛連山の頂きに横浜の新しい中心都市を置くことを目論んだ人物がいる。
震災後、横浜の復興計画を立案した牧彦七という人物だ。
牧彦七は「雷親父」「ライオン」とあだ名された土木のスペシャリストで、関東大震災後、上司の後藤新平から誘われ都市計画局長として帝都復興事業に尽力した。
中でもダイナミックな5億円規模の横浜・震災復興都市計画案(通称・牧案)は関係者を驚かせた。
現在のように、東海道本線の「横浜駅」界隈と開港の町JR根岸線「関内駅」界隈(開港場であり関内外エリア)の分断を結ぶ必要性を感じ中間に街を開こう!と考えた。
この計画は見事に地元の反対から夢物語に終わったが、実現していたらこの街はどうなっていったか?創造すると実に面白い。
第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い
京浜急行神奈川駅は京急線の中で一番“狭い”ホームのある駅です。(感覚です。実際測っていません)
開業は1905年(明治38年)12月24日、歴史ある駅です。
今日は駅そのもののエピソードは別の機会に譲ります。
神奈川駅のある一帯は明治期に鉄道を敷設する際、丘陵の一角を大きく削りました。
神奈川駅を挟んで両側が繋がっていました。東京に向かって右側(東側)の駅際にある小高い丘が「幸ケ谷公園(権現山)」、反対側の西側が高島台にあたります。
今日は横浜の歴史を一気に戦国時代へと時間を戻しましょう。
時は16世紀初め、永正7年(1510年)7月19日の今日は、9日間も壮絶な権現山(ごんげんやま)の戦いが終わった日です。
「権現山の戦い」とは、上杉連合軍がここ権現山を居城とした上田勢と支援した北条氏を破った戦いです。
江戸時代に本格的に整備された東海道ですが、それ以前から東海道は太田道灌の開いた江戸と西国を結ぶ重要な道でした。東京駅から東海道線に乗ると品川近辺の御殿山を過ぎると、平坦な道が続きます。
神奈川県に入り最初の丘陵がここ<神奈川>です。
中世から、権現山は街道の要衝にあたり、戦略的に重要な場所でした。
当時武蔵の国一帯は上杉一族の勢力下にありました。その南端にあたる城が権現山城で扇谷上杉朝良家臣<上田蔵人政盛>が城主として一帯を治めていました。ここに、波乱が起こります。伊豆にあった北条早雲が、鎌倉まで勢力を伸ばし、さらには武蔵の国へと侵攻します。
この時、早雲は権現山城主であった上田 政盛に、上杉傘下から我が北条の仲間になれというメッセージに呼応し兵を挙げます。
この権現山の戦いに関しては上田 政盛が早雲の策略に乗って主君<上杉>を“裏切る”といった表現が多いようです。
「伊勢宗瑞(北条早雲)の調略に応じて相模国境に近い武蔵国権現山城で挙兵した。」
「まず扇谷上杉朝良の家臣・上田政盛を寝返らせ、修築したばかりの相模国<ママ>権現山城に据えた。」(文中相模国→武蔵国)
「早雲は永正4年(1507)、越後の守護代長尾為景(ながおためかげ、1489〜1543・上杉謙信の父)と守護上杉房能の戦いに乗じて、扇谷上杉氏家臣の権現山城主上田政盛(うえだまさもり、生没不詳)を寝返らせます。」
資料を読むと事態はそれほど単純では無く、関東上杉家の<内紛>が<上杉家>に反旗を翻す要因と考えるのが妥当と思われます。元々、権現山城主 上田政盛は扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家臣でした。ところが、同じ上杉家の<山内上杉家>によって領地だった神奈川湊を奪われてしまいます。ここに<山内上杉家>に対する反感(恨み)が生まれ、新たなる勢力となってきた北条早雲に与します。
ただ悲劇なのは、この反旗によって仲違いした扇谷上杉家の上杉朝良と山内上杉家の上杉憲房が連合で上田政盛の挙兵した権現山城を圧倒的陣容で包囲し壮絶な戦いが行われ、早雲の援軍が到着する前に陥落します。
※一説では上田政盛は生き残り、後に扇谷上杉家家臣として復活したという説もあります。
この権現山の戦いをキッカケに関東全域をめぐって伊勢氏(後の北条氏)と上杉氏との同盟関係が完全に破綻、戦国時代の覇権争いが激化していくことになります。
(神奈川台場)
この権現山の戦いの舞台となった場所は現在幸ヶ谷公園となっています。ただ戦いのあった当時よりかなり<低く>なっています。
ペリー来航後、急遽神奈川台場を構築するにあたり、埋立て用の土砂がこの権現山の山頂部分を削って使用されたため低くなり<台形>に変わっています。
※余談
この権現山の戦い、2万の上杉勢に対し2000の将兵で迎え撃った上田政盛陣営は圧倒的大軍の前に惨敗しますが、そこに
「19日上杉勢がなだれのごとく城内に乱入した時、城中より「我こそ神奈河の住人間宮の某」と叫びつつ上杉に突入した勇ましい武士がいた。神奈河(今は神奈川と書く)住民間宮とは信冬もしくは子の彦四郎信盛と伝えられている。」
この間宮は討ち死にせず戦のあと笹下に居を構え、北条政権下磯子一帯の領主となります。この間宮家が杉田家となり産業の少ないこの地で梅林などの殖産に務めました。
No.201 7月19日(木)港を感じる絶景ポイント
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=406
横浜港のある東京湾は、船舶の航行が集中するポイントにあたります。
船舶通航信号所として
1986年(昭和61年)7月19日(金)「横浜港シンボルタワー」が完成しました。
第849話 横浜・新橋、横浜が先?
日本鉄道事始め、この辺に詳しい方には当たり前のことですが
日本最初の駅「横浜」「新橋」は全く同じファサード(顔)を持っていました。


設計は共にアメリカ人建築家リチャード・ブリジェンス、設計者が同じなんだから同じでもおかしく無いけれども、普通<格>をつけてしまうのが近代日本の定番。ところが「横浜」「新橋」は本当にうりふたつ。
横浜駅には<噴水><ガス灯>が写っています。
鉄道の歴史をざくっと
1872年6月12日(明治5年(旧暦)5月7日)
「横浜」「品川」間の鉄道路線が開通し、横浜駅(初代)が開業。
品川駅は「木造平屋2棟、現在の位置よりやや横浜方、海に面したのどかな駅」だったそうです。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/Shinagawa_Station_in_early_Meiji_era.jpg
1872年10月14日(明治5年9月12日)
四ヶ月後に「横浜駅」と「新橋駅」が開業。初日は式典と明治天皇御座乗特別列車の運行のみで営業は翌日からなので営業は1872年10月15日ってことです。
この間を<仮営業>と呼んでいますが、個人的には前述の1872年6月12日からしっかり<営業>しているのでこの日を鉄道の発祥の日にして欲しいところです。
さらに!さらに ここがポイント!
手元の資料だけですが
リチャード・ブリジェンス設計の「横浜駅舎」「新橋駅舎」
1872年6月12日開業が「横浜駅舎」
1872年10月14日開業が「新橋駅舎」
ってことは リチャード・ブリジェンス設計の横浜駅は新橋(汐留)より古い、最初ってことですね。
まあ どうでもいいことですが この辺はっきりしておきたいところです。

第845話 横浜駅「京急西口通路」完成
私は都度、目標を決めて達成する“横浜コンプリート”を楽しんでいます。
その達成メニューの一つが<市内の鉄道全駅に降り立つ>ことです。 横浜市内には135の駅があり、21の路線、8つの会社(市営含む)があります。市内全駅踏破は最初から意図したわけではありません。90年代の後半に仕事で市内18の区役所を訪問する機会があり、鉄道機関を使ったことがキッカケです。
<無人駅>から9路線が乗り入れる<大ターミナル>までそれぞれの駅に不思議な味わいがあります。
135の駅に降り立った後は、それぞれの駅の<歴史>というと大げさですが、生い立ちに関心が出てきました。
駅を語りだすと「横浜駅」だけでも話題が尽きません。
いずれ市内全駅の紹介をしたいので、今日の横浜駅はゴクゴク手短なブログとします。
1987年(昭和62年)7月10日の今日
横浜駅「京急西口通路」(地下)が完成という記事を発見。
「京急西口通路」って 何処かご存知ですか?
京浜急行のホームと<西口・相鉄線方面>を結ぶ連絡地下通路です。
恐らく乗換に利用する人以外この地下通路は知られていない“迷路”ではないでしょうか。
“迷路”とはいささか失礼な表現かもしれません。
かつて横浜駅は、東西を繋ぐ自由通路が限られていて大変不便でした。(現在もわかりにくい)
横浜駅は、jRを囲むように東に京浜急行、西に相模鉄道、地下に東急・みなとみらい線(かつては西側)が乗り入れています。相模鉄道線から京急に、東急線から京浜急行への乗り換えは<至難の技?>でした。(現在もかなり大変です)1974年(昭和49年)
上図は1979年発行の横浜駅近辺マップ
1980年(昭和56年)11月20日に東西自由通路が全面開通し連絡こ線橋が撤去されます。
私はこの京急こ線橋を利用していなかったので殆ど記憶がありません。
東京寄りの今も残されている<跨線橋>は頻繁に利用していました。
「京急西口通路」を示すマップは無いか?
1996年の駅周辺詳細図に点線で示してありました。この「京急西口通路」は<横浜駅みなみ通路>が完成した現在も一部がそのまま活用されています。
それにしても、横浜駅は工事していない時期があったのでしょうか?と言いたくなるくらい工事中駅です。
今日はさらっと小さなネタで失礼します。
(過去の7月10日ブログ)
No.192 7月10日(火)もう一つの大岡川
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=415
都市には必ず川の歴史があり氾濫と治水の歴史でもあります。
1976年(昭和51年)7月10日(土)の今日は、大岡川治水工事の一貫として着工した「大岡川分水路」(全長3,640m)の部分通水(笹下川から根岸湾まで)を開始した日です。
第820話 1998年(平成10年)6月15日Yカード新設
ちょっとなつかしい姿から

1998年(平成10年)6月15日
「地下鉄バス共通カード500円Yカード新設」(横浜市営交通八十年史)
廃止が2010年(平成22年)7月31日ですから12年の活躍、短かったのか長かったのか。
停止後、払い戻し期限は平成27年7月31日まででした!
そういえば交通系の磁気カードはいろいろ出ました。 パスネット
オレンジカード
バス共通カード
マリンカード
Yカード
ファミリー環境一日乗車券※(現役)
一日乗車券※(現役)
(Yカード)
Yカードは「横浜市営地下鉄」と「横浜市営バス」のみで使用できるプリペイドカードです。
500円券と1,000円券と3,000円券がありました。
(マリンカード)
マリンカードも横浜市交通局が発行した磁気式のプリペイドカードです。
横浜市営地下鉄及び横浜市営バスを始め周辺地域の一部バス事業者で共通に使用できました。
※マリンカード及びYカードは、平成22年7月31日をもってすべてのサービスを終了
※払戻しは、平成27年7月31日で終了。
※バス共通カードの払戻も平成27年7月31日まで。
◎一日乗車券
最近は 一日乗車券を常備。市内全域の総てのバスルート(現在は市営バス)に乗る!ことに挑戦中、というほどがむしゃらではありませんが機会を見て、数回バスに乗る用事の時には この一日乗車券を駆使しています。
(過去の6月15日ブログから)
No.167 6月15日(金) 自然、単純、直裁、正直、経済的
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=443
1960年(昭和35年)6月15日(水)、元町公園の一角に移築された
エリスマン邸の開館式が行われました。
【横浜の橋】№11宮崎の橋(帷子川)
橋には色々種類がある。
一般的なイメージは河川に架かる道路の橋、 人専用なら人道橋、 鉄道橋梁、 そして鉄道を跨ぐ跨線橋、や道路を跨ぐ跨道橋(陸橋)などがある。 このような色々な道路がほぼ一箇所に集中している場所がある。<だからなに?>
なんだが、高速道路などが絡む場所では珍しいことではない。
ただ小さな川の小さな橋のあるところで<橋Gallery化>しているのは結構珍しい。
「宮崎橋」「宮崎橋人道橋」「宮崎跨線橋」「第三帷子川橋梁」(+地下道)が本日の紹介する橋だ。場所は横浜市保土ケ谷区仏向町、相鉄線和田町と上星川駅の中間にあたる。
位置を帷子川を中心にして説明する。
帷子川左岸に国道16号線が平行して走り、すぐに丘陵が迫っている。一方右岸は旧道とわずかだが平地が続き、このあたりは野毛山から続く水道道の役割も果たしている明治からの道だ。 国道16号には「宮崎橋入口」という交差点名が掲示されている。すぐ横にあるバス停名は「保土ケ谷中学校前」そこにはサブタイトルとして「仏向杉山社入口」とある。 歴史に準ずると、鎌倉街道から川を渡る神社への橋があり、相鉄線の橋が架かり、橋の架け替えに伴い人道橋ができ、その後しばらくしてから大規模な跨線橋と歩行者用の相鉄線を潜る地下道が完成し念願の渋滞解消が実現した。
この宮崎橋近辺は帷子川と相鉄線の和田町一号踏切があり昔から大渋滞の場所だった。 私は地元民ではなく車での通過客だったので地元にとっては迷惑千万の一台だったかもしれないが、とにかくこの辺りは渋滞が激しくイライラした記憶がある。
国道1号線から16号に合流する車両と、帷子川左岸から右岸エリアに向かう車がぶつかり合うポイントで、相鉄線の開かずの踏切が加わり身動きできないほどの渋滞地となっていた。 ここに帷子川と相鉄線と小さな道路をまとめて越える<跨線橋>を作る計画が持ち上がったが、予定地には仏向杉山社があり大変だったようだ。
冒頭にも<橋Gallery化>と表現したように、この辺りはとにかく構造が複雑になっている。
苦肉の策で現状となった?のかどうかは判らないが、かなりの強引な跨線橋作りであったことは現地を見れば明らかなので橋梁や道路設計に関心のある人は見学の価値あり??かも。
(歴史資産だらけ)
□和田村道橋改修碑 国道16号線は近世の重要な海道<八王子街道>をほぼトレースしている。古道時代は曲がりくねっていた箇所を地元の村民達が改修し、街道が次第に整備されていく。その改修碑が16号に沿ってひっそり建っている。
『村地先の難路を、江戸の住人桜井茂左衛門が資金を提供し、村民および隣村川島村民の協力を得て改修し、あわせて道筋に橋を架けて往来の難儀を救いました。本碑は、この工事の由来を記したものです。碑高は103cm、碑幅34.5cm、碑厚21cm。建立は元文2年(1737)11月。道筋改修の経緯を知る上で貴重な碑です。』
□仏向町の石塔(仏向杉山社跡)
ちょうど宮崎跨線橋が帷子川右岸側に降りるあたりにはかつて丑寅の方位に向かう「仏向町杉山社」があったがこの跨線橋工事のために遷座することになった。 平成5年8月のことだ。 その神社跡地の角が交差点となり敷地の一部が仏向町町内会の「ふれあい広場」となっている。
この角に三つの「石塔」が設置されている。 三つの石塔は神社跡地に残った(残した?)もので
(1)「観音庚申塔」
寛保2年(1742)11月造立。庚申信仰の石仏で舟形をしているのが特徴。
(2)「斎上地神塔」
文化9年(1812)8月造立。角塔浮彫形
(3)「出羽三山供養塔」
安政2年(1855)8月造立。
□正福院
かつての「宮崎橋」を渡り、まず杉山社が右手にあり、少し軸がずれ寺への参道が続く。
参道を進み、山門をくぐると 正面に樹齢300年と言われている二本の大銀杏の木が高々とそびえている。曹洞宗仏向山「正福院」だ。
『新編武蔵風土記稿』によると、
「出家の身は他に志願なし、唯、常に仏に向かうこそ桑門の本意とするところなれば、寺の山号およびその村里にも『仏向』の二字をもって名付け賜るべしとの願いにより、かく名付けられしとぞ」 と仏向の名について記されている。
□「宮崎跨線橋」
1993年(平成5年)に杉山社が遷座されてから6年、 1999年(平成11年)3月にようやく立体交差化「宮崎跨線橋」が完成する。 その後、どの程度混雑が緩和されたかは定かではないが、2016年に現地に立った時にはあまり渋滞は感じなかった。 この事業には踏切解消の目的もあり、歩行者用の「地下道」も新設、跨線橋の周囲が親水ゾーンとして整備されたが現在はシャッタアウトされた状態になっている。 実に勿体無い。
C58汽車道を走る
1980年(昭和55年)6月13日〜15日の三日間
「横浜港開港120周年・横浜商工会議所創立100周年記念」イベントにC58が走りました。その頃はまだ横濱に暮らしていなかったので写真も当時の雰囲気もわかりませんがネット上でも熱烈な写真記事が掲載されています。
山口線から横浜にC58を運び 汽車道を東横浜駅から山下埠頭駅まで走行!!
C58は過去に横浜機関区に所属していたことがあり久しぶりの里帰りとなりました。
このルートが現在「山下臨港線プロムナード」となって、歩行専用ルートとなっています。
使用車両はC58-1+スハ43系4両で、一日3往復
東横浜 山下埠頭 東横浜
09:57 → 10:09 10:30 → 10:42
12:30 → 12:42 13:00 → 13:12
14:30 → 14:42 15:02 → 15:14
<写真>
■横浜にC58が走った日。
http://rail.hobidas.com/blog/natori09/sp/archives/2008/05/c58.html
■横浜港開港120周年1980年6月13日
http://www.yokohama-album.jp/picture/detail/174/
http://www.yokohama-album.jp/picture/detail/175/
「山下臨港線プロムナード」
No.62 3月2日 みらいと歴史をつなぐ道
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=557
「開港の道」山下臨港線プロムナードの終着地点となっているのが
「港の見える丘公園」です。
No.129 5月8日 ヒット曲の公園
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=486
【市電ニュースの風景】1931年 №20
目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。1931年(昭和6年)5月
十四・五・六日 伊勢山皇大神宮大祭(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂下車)
十五日 『郵船』浅間丸入港(ホノルルより午前中四号岸壁へ)
十五日 弘法大師誕生会ならびに詠歌大会(電車及バス本町一丁目下車)
=午前十一時より本町開港記念会館にてー入場無料=
十五日より十八日まで
第四回掃部山バザー(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂又は雪見橋下車)
=マネキン劇場支那獅子舞其他余興沢山=
十六日 名古屋高商對横濱高商野球戦(午后三時横濱公園球場にて)
十六日 基督教婦人講演会 入場無料(午后二時尾上町指路教会にて)
十六・七日 神奈川金毘羅神社大祭(電車及バス 青木橋下車)
十六・七日 横濱専門学校記念祭(電車 六角橋終点より約四町)
=中等学校陸上競技会、音楽会、野球試合、提灯行列等ー入場無料=
18日シボレー大キャラバン隊(20数台)到着、元横濱駅裏広場で展覧
懸賞標語
「おつと危い左右(当選者 松本藤四郎君)」
※アラビア数字は別の年表から追記したものです。
[キーワード]
■伊勢山皇大神宮
横浜の総鎮守「関東のお伊勢さま」と呼ばれている伊勢山皇大神宮は、開港後現在の場所に遷座されてものです。現在の位置する場所からほど近い戸部村海岸伊勢の森の山上にあった神社を明治初年に国費を以て創建したもので、開港場の総鎮守として明治から今日まで多くの参拝者が訪れます。
No.691 【横浜神社めぐり1】伊勢山皇大神宮
■『郵船』浅間丸
「太平洋の女王」と呼ばれた浅間丸。主に横浜-ホノルル-サンフランシスコ航路に就航し多くの日本人と訪日外国人を運びました。
ロサンゼルスオリンピックに出場した西竹一男
ハリウッドスターのダグラス・フェアバンクス
ヘレン・ケラー
交換船・海軍徴用船となった後
1944年(昭和19年)2月24日に魚雷を受けて損傷しますが沈没は免れます。修復後マニラから高雄へ向けて航行中魚雷が命中し沈没。
■掃部山(かもんやま)
別の機会に詳しく紹介します。
■尾上町指路教会
指路教会は最初の横浜居住地39番から、現在地、太田町、住吉町を経て1892年(明治25年)再び現在地に戻り、ヘボンの尽力により赤レンガの教会堂が建てられました。初代指路教会は
設計:サルダ 1892年(明治25年)竣工
関東大震災で倒壊。現在の建物は大正15年竹中工務店の設計により再建されました。横浜市認定歴史的建造物です。
■神奈川金毘羅神社
大綱金刀比羅神社
「横浜の金刀比羅(こんぴら)さん、大神様の尊き御神徳を知る数多くの会社経営者を始め、船舶関係、農業関係、建築関係、医療関係、民衆に至るまで、十六神の大神様の御神徳を頂ける神社であります。」
旧東海道、神奈川宿台の坂に鎮座、街道の安泰と袖が浦神奈川港に出入りする船は海上安全を祈願した神社です。
■横濱専門学校
神奈川大学の前身の校名。(戦前の歩み)
1928年(昭和3年)
米田吉盛が横浜市中区桜木町に「横浜学院」を開設
現在の西区桜木町6丁目34番地にあった「桜木会館」の1階と2階を借り学校を開校。
同年12月
横浜学院、中区西戸部町富士塚に移転。1929年(昭和4年)
専門学校令により「横濱専門学校」(法学科、商業理財科)を開設
1930年(昭和5年)
六角橋校地(現在の横浜キャンパス(横浜市神奈川区六角橋)へ移転
1939年(昭和14年)
工学系の3学科(機械、電気、工業経営)を新設
1945年(昭和20年)
GHQによって一時的に六角橋校地が接収
大倉山の大倉精神文化研究所と三ツ沢の県立第二横浜中学校(現横浜翠嵐高校)にて授業を再開。
【閑話休題】私のお気に入り風景
横浜は広い!
この世界最大級のCityの魅力はなんでしょうか?
最上段に振りかざし 議論するにはこのスペースでは少なすぎますが、ポイントだけ指摘しておきましょう。

良く比較される神戸市と比べるとどちらが広いと思いますか?
神戸市の面積は544.56平方キロメートルです。横浜市より少し広い街です。
横浜同様 市域を拡大させながら大きくなりました。
明治22年4月1日→21.28平方キロメートル
明治29年4月1日→37.02平方キロメートル
大正9年4月1日→63.58平方キロメートル
昭和4年4月1日→83.06平方キロメートル
昭和16年7月1日→115.05平方キロメートル
昭和22年3月1日→390.50平方キロメートル
昭和25年4月1日→404.66平方キロメートル
昭和25年10月10日→420.64平方キロメートル
昭和26年7月1日→479.88平方キロメートル
昭和30年10月15日→492.60平方キロメートル
昭和33年2月1日→529.58平方キロメートル
平成4年1月1日→544.56平方キロメートル
一方、横浜市も
何回かの市域拡大を重ねて現在に至っています。
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?
No.141 5月20日 もしかしたら菊名区?
横浜の魅力は この437.4 平方キロメートルのエリアに都市の要素が多彩に凝縮されている点にあると思います。
軸は開港場にありますが、多彩な都市生活がこの街を重層的に形作っています。
俗な表現をすれば、
歴史も農業も漁業も重工業から最先端技術まで、
そして未来都市まで、
ほどほどの距離感のなかに繋がっている。
悪く言えば「箱庭的」「総花的」な街ともいえるかもしれません。
また、見事なまでの尾根筋が織りなす“谷戸”の街、この起伏が横浜の風景の原点でしょう。丘と坂が連なる分水嶺を歩くと“丘の横浜”が見えます。
この街の普通の風景を今日は幾つか紹介します。