今日は障がい者教育の先駆者達の話しです。
1889年(明治22年)9月26日の今日、
アメリカ人社会事業家Charotte. P. Draper夫人が
現在の横浜市南区中村町に民家を借り“盲人福音会”を設立しました。
青山墓地に眠るドレイパーファミリー |
シャロッテ・P・ドレーパー(Draper, Charlotte Prinkney )女史は、
1881年(明治14年)に宣教師の夫とともに先に来日します。
先に宣教師として横浜で活動している息子夫婦を追ってアメリカから来日したのです。シャロッテは1889年(明治22年)に異国の地で夫ギデオン・ドレーパーを失いますが、彼女は一転日本の地で“社会事業家”として自分の生きる道を切り開きます。
明治時代、女性によるソシアルビジネスを一から始めた彼女は、当時殆ど関心のなかった障がい者支援(盲人教育)の道を切り開きます。
その第一歩が、
1889年(明治22年)9月26日現在の南区中村町の民家を借り、身寄りの無い盲人を三名引き取り教育環境を整えた「盲人福祉会」設立でした。
全くノウハウ、経験値ゼロからの事業でした。
数年後、宣教師の息子夫婦の北海道転勤の都合で、ドレーパーファミリーは北海道函館に移り住みます。
シャロッテは、この地函館でも横浜の経験値を活かし函館訓盲会の創立を息子の妻マイラと一緒に進めます。彼女はこの地、函館で亡くなりますがマイラが義母の志を引き継ぎます。函館から最初の地 横浜に戻ると立ち消えになっていた「横浜盲人福祉会」を再建し軌道に乗せます。
この横浜盲人会が、現在の“社会福祉法人 横浜訓盲院”の前身となります。
■社会福祉法人 横浜訓盲院
http://kunmou.jp
(父と息子は宣教師)
母と義理の娘は社会事業家として二代にわたり横浜で盲人教育に尽します。
宗教の力を超えた人間愛といえるでしょう。
http://www.ii-idea.com
(今 これら明治の外国人の墓所が危機に陥っています)
(訓盲院の歴史)
盲人を学校として教育するしくみづくりは
1875年(明治8年)5月東京でイギリス人医師宣教師と日本人によって訓盲院「楽喜会」設立が最初です。
1878年(明治11年)5月には、京都で日本人の手で「盲唖院」が設立されます。
1886年(明治19年)には新潟県高田町で「訓盲談話会(高田盲学校の前身)」が発足します。
そして1889年(明治22年)に「盲人福祉会」が創設されます。
実は、シャロッテ女史が「盲人福祉会」を創設する二年前の1887年(明治20年)、
一人の日本人眼科医が個人的に横浜で盲人教育を始めていました。
医師の名は浅水進太郎(十明)、眼科医ヘボンと教育者バラの影響を受けた彼は1882年に関内“尾上町”で眼科医を開業、87年に野毛に移転すると同時に職を失った元鍼灸術師の盲人に“医学”を講義します。
その後、この医学指導が発展し盲人の職業的な自立に対する支援の「鍼治揉按医術講習学校」の看板を掲げるようになります。これが後に、“横浜市立盲学校”となっていきます。
シャロッテ女史の「盲人福祉会」が0からの自立支援、
浅水進太郎の鍼治揉按医術講習学校」は職業訓練の役割を担っていたようです。
震災や戦災で風景を失った横浜ですが、
明治の息吹を現在まで大切にしている先取の精神は
これからも大事にしていきたいものです。
最後に
盲人の社会生活、コミュニケーションに欠かせない「点字」の
豆知識を
点字表記は身近なところにありますが、必要としないと見過ごしてしまいます。日本語の点字が導入されたのは1890年です。
現在は6点点字と呼ばれ、横2点縦3点の計6個の点の組み合わせでカナ、数字他を表します。
早速点字で文章を作ってみました。
最後に、点字ブロックの上に自転車やモノを置くのは止めましょう!
大変危険な行為です。