8月 14

第907話 九隻のペリー艦隊

ここに「横濱村辺之図」という江戸末期に描かれた絵図があります。
横浜の歴史を大きく変えた米国ペリー艦隊が横浜沖に集結している様子を描いたものです。
さて?
この絵図の描いた時期はいつごろか?最初にペリーが江戸湾に現れたのが
1853(嘉永六)年のことです。この時は、四隻の黒船で現れました。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」
という狂歌が有名ですが、作られたのは明治以降ではないか?というのが現在の定説のようです。
絵図に戻ります。この絵図には 黒船が8隻描かれています。
すると、時は1854(嘉永七)年、暮れには元号が変わり安政となった
この年に再び来航した時のペリー艦隊の様子を描いたものという可能性が出てきました。
実はペリー艦隊は、時差で日本を目指しました。
ペリー艦隊来航の様子を順を追って整理してみます。
まず、
2月11日(一月十四日)に一隻の輸送艦「サザンプトン」(帆船)が浦賀沖に現れます。
二日後
2月13日(旧暦は省略)に旗艦「サスケハナ」号以下<蒸気外輪船>が帆船を曳航するかたちで六隻江戸湾浦賀沖に到着します。
「ミシシッピ」(蒸気外輪船)
「ポーハタン」(蒸気外輪船)
「マセドニアン」(帆船)
「ヴァンダリア」(帆船)
「レキシントン」(帆走補給艦)
2月24日 艦隊は神奈川沖に停泊することになります。
これで 合計七隻が横浜沖に集結します。
細かいことですが旗艦がここで「サスケハナ」から「ポーハタン」に変わります。
さらに約一週間後
3月4日に「サラトガ」(帆船)が合流し、
3月19日「サプライ」その名の通り帆走補給艦が合流して
合計九隻とあいなります。
幕府は驚きます。予定より半年早い不意打ちに近いペリー再来訪だったからです。
前年の1853年に初めてペリーが四隻の黒船で現れたのに対し、
今度は九隻ですから倍以上の陣容で来航したことになります。
なかなかの威圧です。交渉は双方冷静に厳しく行われます。
ところが!この絵図には
艦艇が八隻しか見当たらない!

順を追うと
ペリー艦隊九隻目の帆走補給艦「サプライ」が到着していない!
ということになります。
この絵図が正確であれば
1854年3月4日以降、19日までの二週間に観測された図?
さらに描かれている絵をじっくり見ると
蒸気外輪フリゲート艦が3隻描かれています。
旗艦「サスケハナ」「ミシシッピ」「ポーハタン」
正確ですね。
かなり信用できる絵図ということでしょうか。
ということは
第一陣が来航し、最後の一隻が到着する間に日米交渉の場(応接所)が設営されている間、艦上で厳しい交渉に入ったあたりをこの絵図が描いているということになります。
その後、九隻のペリー艦隊の下で日米交渉が行われますが、
途中の3月24日には
蒸気外輪フリゲート艦「サスケハナ」号が香港に戻ります。
日米和親条約が幕府の応接所で無事締結されたのが
1854年3月31日(嘉永七年三月三日)です。
この日黒船は横濱沖に八隻停泊していたことになりますが
蒸気船は二隻、帆船が六隻という陣容でしたので
【結論】この絵図は、
1854年3月4日以降、19日までの二週間に観測されたと推理するのが妥当かと思われます。
締結後ペリー艦隊全艦は
1854年4月10日(嘉永七年三月十三日)
横濱沖を出発し、最初に幕府が拒んだ江戸湾奥まで艦隊を進め、羽田沖あたりまで侵攻(測量を兼ね)しますがこの辺りでUターンします。
幕府はかなり焦ったと思います。ペリーがUターンした理由は記録に残されていませんが
羽田沖は海苔の養殖棚が多く養殖の杭を江戸湾の防護杭とペリーは勘違いしたようです。
その後、一行は伊豆下田に本拠地を移し
日米関係に新しい時代が訪れます。
些細な史実ですが 解き明かす面白さを感じた一枚の絵図でした。

(関連ブログ)
No.412 多吉郎、横浜に死す。

6月 25

第831話 1950年(昭和25年)6月25日朝鮮戦争勃発

1950年(昭和25年)6月25日の今日
「朝鮮動乱が勃発する。この戦争はわが国経済に多大な「特需」をもたらした(横浜商工会議所百年史)」
「朝鮮戦争勃発。(横浜市史)」
Wikipediaでは
「朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、1950年6月25日-1953年7月27日休戦)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境線と化していた38度線を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争。」
です。
朝鮮戦争は市内中心部が米軍により接収されていた横浜にとって大きな影響を与えました。そこには<光と影>があり、占領下の日本<横浜>の現実が鮮明になった戦争でもありました。

関内エリアは大半が占領地でした11666056_1007196312657806_2158586649515523571_n 横浜にとってこの戦争による最初の影響は横浜に司令部のあった「米国第八軍司令部」が韓国に移動します。在韓米軍は編成替えを行い極東を統括していた第八軍司令官ウォルトン・H・ウォーカー中将が朝鮮派遣アメリカ地上軍司令官に就任。
第八軍は横浜から大邱(テグ)へ司令部を移すことになります。

11377094_1007194569324647_2128983487843944639_n 11391788_1007194509324653_7381001016816611094_n大邱市内
この第八軍は現在もソウル特別市竜山(ヨンサン)基地に司令部があります。
第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)6月10日にロバート・アイケルバーガー中将の指揮下に編成された部隊でダウンフォール作戦の相模湾(茅ヶ崎)上陸作戦を行う予定でした。10933703_1007194792657958_6417406341188521689_n このダウンフォール作戦の本土上陸作戦が実施される前に日本が降伏したことにより、第八軍は終戦後司令部を横浜市(横浜税関本庁舎)に設置し東日本(実質日本全体)の占領任務に就きます。
No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=363

No.252 9月8日(土)横浜終戦直後その3
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=352

この第八軍は横浜を中心に様々な施設を接収していました。戦後接収時代を知る世代の方々は、市内のいたるところに「第八軍マーク」を見た記憶があるそうです。
第八軍マーク1795513_1007192579324846_1617232656768115400_n1896973_1007192605991510_2705981110115481566_n 10660179_1007192665991504_6360759367323415246_n
朝鮮戦争、朝鮮を舞台にした米ソの代理戦争となり日本は「国連軍」の支援という立場でこの戦争に関わることになります。横浜は「朝鮮戦争勃発にともなって横浜は国連軍の兵站基地となった。(高村直助「都市横浜の半世紀」)」ことだけでなく、過剰なレッドパージも行われ、他方 広範囲で公職追放されていた戦前の要職者の追放解除も行われることになります。
その後 1951年(昭和26年)9月8日 サンフランシスコ講和条約が結ばれ、ようやく国権を回復することになります。
No.246 9月2日(日)90年後の横浜(加筆修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=358

No.177 6月25日(月) 出られない出口
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=431
「海芝浦」の話です。

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3月 8

【ミニミニ今日の横浜】3月5日

タイムリーなネタから

1854年(嘉永7年3月5日)
「吉田松陰、海外渡航を狙って保土ケ谷宿にくる。」
数え年・25歳の時のことです。

ペリーが来航した際、一年後の再来を予告し去りますが、
半年も早くペリーは
1854年2月13日(嘉永7年1月16日)
琉球を経由して再び浦賀に来航し幕府を慌てさせます。その後も次々と艦船が江戸湾に入港、
3月19日(嘉永7年2月21日)
最終的に総勢9隻のペリー艦隊が江戸湾に集結します。
この時 ペリーに直接会う!と決めた人物が吉田松蔭です。足軽の金子重之輔と二人で、まず東海道の「保土ケ谷宿」に入り、そこから横濱に入ります。(おそらく 保土ケ谷道から戸部に出た?)
light_吉田松陰 ところが横濱では沖のペリー艦隊に近づくことが実行できず失敗。
ペリーが下田に移動したことを知り、伊豆に向かった松蔭らは海岸につないであった漁民の小舟を盗み艦船に向かい旗艦ポーハタン号に乗船、渡航を直訴しますが拒否され、断念。幕府の命で萩の野山獄に幽囚されることになります。下田踏海事件というそうです。
これを美談とするのか、愚行とするのか? 意見が別れるところです。
日米ワシン

No.65 3月5日 サルビアホール一周年(改訂)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=554
今日は 短く 失礼します。

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7月 29

横浜史最大級のミステリー?

このブログのネタは歴史的転換期となった横濱開港あたりがどうしても多くなってしまいます。今回も幕末ネタでご勘弁ください。

ただ、私の筆力を除けば“横浜最大級”のミステリーであることは間違いありません。
lig_中居屋重兵衛碑横浜市中区の関内にある“桜通”にひっそりとある記念碑が建っています。
「生糸貿易商 中居屋重兵衛店跡」
中居屋重兵衛(なかいやじゅうべえ)
Wikiでは
http://ja.wikipedia.org/wiki/中居屋重兵衛
「中居屋 重兵衛(なかいや じゅうべえ、文政3年3月(1820年)〜文久元年8月2日(1861年9月6日))は、江戸時代の豪商・蘭学者。火薬の研究者としても知られる。中居屋は屋号で、本名は黒岩撰之助(くろいわ せんのすけ)。」
記述内容も少なく、断片的に史実を表記しているだけで、中々彼の人生は見えにくいようです。
1859年(安政6年4月)に文献に登場した中居屋 重兵衛は、他の群馬商人と共に本町通近辺に生糸関係の店を開きますが、lig_役宅39lig_安政六年中居屋店位置2年後の19611861年(文久元年8月)に店で起こった火事以降、突如姿を消します。
失踪の理由には諸説ありますが、
たった2年の間に開港場で三井の商店を遥かに上回る豪勢な銅御殿の店構えとなり、当時の原善三郎もその他の生糸商も少なからず中居屋 重兵衛の供給する上質な生糸・絹の恩恵を被っていたはずです。
ところが、記録から消えてしまいます。同時代の商人たちの記録にもまるで「箝口令」が敷かれたようです。

lig_201312絵はがき017
<文久二年発行「開港見聞誌」玉蘭斎 貞秀>

たった2年の期間に
いくら一攫千金の商いを求めた“山師”的な商人が全国から横浜に押寄せたとしても、成功の絶頂期になんらかの大きな力が働いたとしか考えにくいために
“陰謀”“暗殺”といった話が中居屋 重兵衛の周辺につきまとったまま時間が流れてしまいました。中でも井伊直弼暗殺の陰の立役者という説は荒唐無稽とは言えかなりの説得力があります。小説としてはすばらしいネタです。
とにかく信憑性のある資料が少ない点も彼を謎の人物にしてしまう大きな理由の一つです。
※実際の中居屋商店は、重兵衛失踪後も細々と続き、1870年(明治3年)に店を閉じたという資料が見つかっているそうです。
lig_P1060002.jpg中居屋 重兵衛に関する研究資料を幾つか読むとそこに意外な側面が見えてきます。
まず中居屋 重兵衛は武器商人であったことは間違いないようです。
上野国吾妻郡中居村、現在の群馬県吾妻郡嬬恋村三原から江戸に出るころ中居屋 重兵衛こと本名 黒岩撰之助は郷里群馬か江戸のどちらかで火薬の製造法をマスターします。
中居屋研究の第一人者である萩原進氏は「炎の生糸商 中居屋重兵衛」(有隣新書)で、大胆にも郷里を訪れた佐久間象山に「群馬」で火薬製造法を学んだ説を採っています。藩の命令で中居屋=黒岩家が火薬製造法を学んだと思われる資料もあり、この辺の歴史的判断は難しいところです。

中居屋 重兵衛が最も才能を現したのが「生糸ビジネス」です。
開港場に江戸を中心に商人が集まりますが、ビジネスコミュニケーションが殆どできない状況下、“一体 何が売れるのか?何を仕入れることができるのか?”殆ど手探り状態で開港場の西半分にニワカ仕立ての商店を建て、手持ちの商品を並べ始めた中でいち早く「これは絹・生糸製品だ!」と確信し
生産現場をおさえ、品質管理を行い一気に開港場への物流を確保した(数少ない)一人だったようです。
居留地でのビジネスは、商店を構えて小売りするのではなく、居留地の外国商館のまとめ買いに対応する“仲買”的な役割が莫大な利益を開港場商人にもたらしました。
居留地の日本人商人たちは“走り屋”と呼ばれ、居留地外国商館のニーズとオファーにいち早く応えることが成功への近道でした。
重兵衛にはその才があったということでしょう。そこには幕府の“掟”破りもじさない強引さもあり、また政商として派手に動き回ることで幕府を含め“敵”も多くなることは当然の結果かもしれません。

「中居屋 重兵衛とらい」小林茂信 皓星社(現在絶版)では、
群馬の生家黒岩家では古くから「ハンセン氏病」=「ハンセン病」を治療する家であり、黒岩撰之助=中居屋 重兵衛もまた、ハンセン病治療の「生き神様」と呼ばれた人物としました。ところが、歴史に残っている癩治療史には一切残っていないというミステリーを解き明かそうと試みた資料です。商人としての中居屋 重兵衛に歴史的資料が皆無でしたが、ハンセン病の専門医でもある小林茂信氏の資料には、傍証が数多く挙げられています。
ところが、この小林説の元となった「中山文庫(資料)」に疑問を持ち、<真贋>追求していったプロセスを描いたのが
「真贋ー中居屋重兵衛のまぼろし」(1998年・松本健一著 原本1993年新潮社刊)です。
著者 松本健一は2014年(平成26年11月27日)
に亡くなった日本近代史・精神史を追求した人物で実際に「中山文庫」の出所先を追います。結論は<贋作>の積み重ねから作られたフィクションと結論づけます。
中居屋がこのハンセン病治療の「生き神様」でなくとも分かる範囲だけでこの時代のパイオニアであったことは間違いありません。

多くの群馬商人の中で飛び抜けて行動力と商才に優れた中居屋 重兵衛は、「絹の道」によって群馬と横浜を繋ぎました。高島嘉右衛門同様、政商のイメージで評価が低くなっているかもしれませんが、高嶋・中居屋 この二人抜きに横浜開港場の歴史は語ることができません。
今後の研究に期待したいところです。

No.302 10月28日(日)全ての道は横浜に 

中居屋重兵衛の墓
lig_中居屋重兵衛群馬碑嬬恋村三原
県指定史跡 1956年(昭和31年)6月20日

7月 29

大さん橋誕生、港の核芯(戦前編)

2014年(平成26年)は大さん橋誕生120年の年にあたります。
巷では100年、100周年を祝いますが暦では120年という年回りにも意味があります。

大さん橋誕生120年にあたり横浜開港の軸となった「波止場」の歴史を簡単に追っていくことにします。
th_大桟橋5367 (波止場) 街の形成には“芯”が必要です。
歴史は城から育った城下町、寺社の門前に広がった町、街道の宿場町というように街は芯があれば大きくなってきた街を類型化しています。
横浜はこの点、港が“芯”となった都市といえるでしょう。
th_PB137732.jpg 改めて 世界最大級のCITY 横浜とは?考えてみましょう。
政治学者で歴史家でもある 原武史は 民都「大阪」帝都「東京」と定義し 歴史学者 石井孝は「港都 横浜」としました。 この「港都 横浜」の核であり芯となった桟橋の歴史を調べてみると意外な側面が見えてきました。
波止場=桟橋の無い港町は存在しません。 桟橋は港の必須施設です。

(開港の歴史)
横浜が開港するきっかけとなったのが有名なペリー率いる“黒船”来航です。“蒸気船四杯飲んで夜も眠れぬ”大騒ぎとなります。その後、国内ではすったもんだしながら開国を決め、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に再来日したペリーと日米和親条約を締結することになります。
th_201312絵はがき011 この日本最初の外交条約が締結された場所は?
当時の地名で「武蔵国久良岐郡横浜村字駒形」現在の“開港広場”あたりです。この開港広場(幕府応接所)の先に、その後“開港波止場=桟橋”が作られることになるとは誰も予測していなかったでしょう。
→神奈川湊を国際港にすると列強に約束してしまいます。
th_PB137744.jpg (神奈川から横浜)
時の徳川幕府は、「横浜は神奈川の一部だ!」と主張して
1859年(安政6年)横浜村が開港場となります。
th_開港場幕府は旧来の石組み工法で“ペリー来航の応接所”となった“元浜”先に
二本の小さな波止場を造営
「横浜桟橋」が誕生することになります。一応「西波止場」「東波止場」と命名し、船着き場程度の「波止場」が誕生しますが、北向きの波止場には強い北風が吹くと波を被り全く係留することができない最悪の桟橋だったようで、開港場を利用する諸外国からはクレームの嵐となります。
そこで、1867年(慶応3年)に波止場の改築が行われ、波受け用に湾曲するように突堤が曲げられ、これが後に“象の鼻”と呼ばれるようになりしばらくはなんとか利用されますが、
th_波止場変遷図 大きな船は接岸できず 沖に停泊し小舟を使って桟橋まで人や荷物を運ぶという実に非効率<粗末>な「港」でした。
→居留地の居心地は意外に評判が良かったので、神奈川湊開港派や江戸開港派も次第に横浜を開港場として“公認”するようになりますが、
桟橋がね!なんとかならないか!
th_th_awa017.jpg (日本人も怒り心頭)
横浜港が「象の鼻」時代のエピソードが日記として残されています。
少々紹介しておきます。
明治政府の法務官僚となり活躍した“尾崎三良”(おざき さぶろう)の日記に
「我官憲の不常識なるに大いに不平なり。其他目につくもの聞くもの未開不文明なのには大いに失望せり。」とあります。
 何を怒っているかといえば
怒りをぶつけた先は「横浜港」の入国手続きを行っていた「税関官吏」に対してでした。
時は1873年(明治6年)10月17日(金)まだまだ「象の鼻桟橋」時代です。
ことの顛末は英国公使「寺島宗則」と当時英国留学生だった尾崎三良が寺島に随行してイギリスのP&O社汽船で帰国した際、横浜港でのハプニングです。
帰国した母国の“入国審査”が遅れ横浜港内からなかなか上陸できず待ちぼうけになったことに尾崎は怒ったのです。 冒頭に説明したように
関東地区唯一の国際港「横濱」でありながら、“象の鼻”とよばれた小さな桟橋しかなく、欧米の大型船を横付けすることもできず、乗客は沖で小舟に乗換え上陸しなければならず、しかも外国人は治外法権のため自在に下船していくが、当の自国民“日本人”は税関の検査が必要だという法律はすでにあり外国船利用の日本人に適応されます。
ところが 審査する税関職員が来ない!と“尾崎三良”(おざき さぶろう)君は怒ったのです。最終的な顛末は下記ブログをお読みください。
「番外編」10月17日こら!ちゃんと仕事せい!
ここで登場した寺島宗則(てらじまむねのり)がまた横浜と縁の深い人物なので、近々紹介したいと思います。 桟橋に話を戻します。
居留地の大きさの割に小さな桟橋はすぐに限界となり、
1872年(明治5年)には
入国管理部門の所管省庁大蔵省が「横浜港波止場建築」を上申し、燈台を作った「ブライトン」や、ガス灯の技術者であった「プレグラン」らが“築港計画”を提案しますが、意思決定できず実施するには至らず状況は変わらないまま時が流れてしまいます。
燈台を作った「ブライトン」に至っては、1874年(明治7年)に横浜築港計画書を完成させ、明治天皇が天覧しほぼ決定する段階までになりますが、工部省はブラントン計画の無期延期を伝える事態に至り1876年(明治9年)に任を解かれ帰国します。
th_201312絵はがき009 ブラントンアイデアは中々面白く興味深いものです。
ブラントン他「築港計画」挫折の背景には
政府の(絶対的)予算不足と
「明治6年の政変」
「明治10年の西南の役」
「明治14年の政変」他 次々と事件が起こり
不安定な政治体制により決断ができない状況にありました。
ようやく「港問題」に動きが出たのが
明治20年代に入ってからでした。
1888年(明治21年)に市制が敷かれ36都市の一つ「横浜市」が誕生。
1889年(明治22年)にようやく大日本帝國憲法が公布され
1890年(明治23年)11月29日に施行。
そして ようやく
1892年(明治25年)イギリス人技師 パーマー設計による「鉄桟橋」工事が始まります。
実はこの「鉄桟橋」建設費用、意外なところから捻出できることになります。
徳川幕府が幕末に支払った賠償金が戻ってきたのです。
アメリカ政府から“日本が幕末に支払った下関事件の賠償金78万5000ドル87セント”が南北戦争の“名将軍”後の大統領となったグラント将軍の尽力(他にもファクターはありましたが)で戻ることになったのです。
No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)

No.248 9月4日(火)坂の上の星条旗(後)

No.248-2 9月3日 坂の上の星条旗 改題
※この巨額の賠償金が
徳川幕府の決定的な弱体化の原因となる皮肉1889年(明治22年)当時の外務大臣大隈重信はこの返還された資金で横浜港整備“近代桟橋”の造営に踏み切ります。
そして 2年の工期を経て
1894年(明治27年)3月に幅約19m、長さ約457mの当時としては最先端技術を導入した横濱“鉄桟橋”が<完成>します。
この時の設計・監督にあたったパーマーは明治期の“お雇い外国人”イギリス陸軍の工兵少将で、日本初の近代的水道である横浜水道を完成させた人物としても有名です。
実は、ヘンリー・スペンサー・パーマー(Henry Spencer Palmer)は鉄桟橋の竣工、完成を見ること無く1893年(明治26年)54歳で脳卒中のため亡くなります。
Civil engineerの精神を日本に伝えたパーマーの意志は現在も“横濱”に残っています。
No.121 4月30日  日本にCivil engineeringを伝えた英国人

(コードネームは?)
現在「大さん橋」と呼ばれている横浜港の“ヘソ”となる国際客船ターミナルは、1894年(明治27年)に完成以来、様々な「ニックネーム?」で呼ばれてきました。
鉄桟橋
税関桟橋
築港桟橋
横浜桟橋
横濱大桟橋
サウスピア(南桟橋
メリケン波止場
だいさんばし(新港埠頭の誕生)
横浜港の港湾機能が“大さん橋”だけで間に合うはずもなく、すぐにパンクしさらに船の接岸できる“埠頭”が必要になってきます。
そこで誕生したのが“新港埠頭”です。
“大さん橋”の横に、12の埠頭を持つ「新港埠頭」が明治末から大正にかけて完成し、貿易、旅客用の埠頭として昭和の時代まで大活躍します。
赤レンガ倉庫(赤レンガパーク)
JICA
ワールドポーターズ
カップヌードルミュージアム
コスモクロック
アニヴェルセル みなとみらい横浜
新港埠頭が実質交易の中心地になりますが、代表的な客船や、商船は大さん橋に停泊しました。(欧米船独占時代からの脱却)
貨客船(商船)の為に「大さん橋」が作られますが、日本と外国を結ぶ定期航路はほぼ米英が独占状態でした。
「大さん橋」利用第一船はイギリス船籍「グレナグル号」でした。
1885年(明治18年)に合併し誕生した日本郵船は、1901年(明治34年)に初めて税関桟橋を利用することができるようになります。
この時に着岸した商船が後のシアトル航路定期船となった
「加賀丸」です。
この「加賀丸」1909年(明治42年)9月12日に桜の苗木2000本(シドモア桜)を運びアメリカ国民が歓喜した文化交流船です。(艱難辛苦乗越えて)
20世紀に入り「大さん橋」は二期工事で工期5年、経費113,750円をかけ幅42.8mの突端に木造の“上屋”が造営されます。
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そこに 1923年(大正12年)の関東大震災が起こり機能不全に陥ります。
桟橋部は挫折、陥没、上屋消失 と記録が残っています。
応急処置を済ませ、二年後の1925年(大正15年)復興桟橋の竣工式も行われ、往時の賑わいを取り戻します。横浜市内全域での復興事業が進む中
1928年(昭和3年)には 二棟の上屋が完成します。
1936年(昭和11年)には第三期増築工事が完成し、「横浜大桟橋」が名実共に完成します。
1945年(昭和20年)第二次世界大戦末期、横浜大空襲により「大さん橋」は元より市街地の44%が焼失します。
戦後、進駐軍により「大さん橋」は接収され
「サウスピア(南桟橋)」と呼称が変更されます。市民は「大さん橋」完成以来メリケン波止場とも呼んでいたようですが、まさにアメリカ桟橋となってしまいました。→(大桟橋風景)

5月 7

No.443 岸辺のアル闘い

今日は、川崎が舞台です。
勿論横浜に深く関係のある話しです。
「有吉堤」と「アミガサ事件」を知っている横浜市民は
少ないのではないでしょうか?
隣接市川崎から横浜まで駆け抜けたアミガサ事件の人たちの足跡をトレースしてみます。今日は多摩川編。

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ガス橋

(川辺に生きる)
川は大地の恵みを下流へ
そして海に運ぶ役割を担っています。
人類は川辺に集落を作り暮らしを始めました。
一方で、川は人々に自然の力を見せつけてきました。
川辺の歴史は、水害との闘いの歴史でもあります。
江戸東京の城南、神奈川の北部を流れる多摩川の歴史から、大正初期に起った事件を紹介します。

武蔵国橘樹郡地図
武蔵国橘樹郡

(右岸と左岸)
多摩川は東京都と神奈川県の県境を流れる一級河川です。現在は穏やかな流れですが、昭和の時代まで水害の絶えない暴れ川でもありました。
※山田太一「岸辺のアルバム」
http://ja.wikipedia.org/wiki/岸辺のアルバム

江戸は川の街です。利根川と多摩川によって作られた平野に育った街です。
江戸時代に入り、多摩川の豊かな水源を利用した“灌漑用水路”の整備が始まり水稲生産農家が増加し江戸の近郊農業が飛躍的な発展を遂げます。
多摩川右岸(橘樹郡=神奈川)には「二ヶ領用水」、左岸(荏原郡=東京)には「六郷用水」が整備され広大な農地が誕生します。

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二ヶ領用水

豊かな水田は、川の氾濫と隣り合わせの危険も抱えていました。
何年かに一度起る大水害が川筋を変え、田畑を土砂で塗りつぶし再び田畑を整備するという繰り返しでした。
※余談ですが 私が生まれ育った世田谷区玉堤は「六郷用水」が流れていました。
 小学校の頃に 多摩川の水量が激減した時期があり 歩いて多摩川を渡った記憶があります。
江戸城に近い多摩川左岸は、江戸時代重点的に土手の整備が行われましたが、右岸の川崎側は整備が遅れました。
明治に入り、右岸と左岸の差は尚一層明確になっていきます。
川崎側の橘樹郡御幸村(川崎市幸区の全域 中原区一部)

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現在の地図でも蛇行が微妙ですね。

(繰返す水害)
現在の川崎市幸区一帯は水害の歴史と共にありました。
明治維新以降
 何度も請願書を県庁は勿論
 政府・貴衆両院に提出し
 同時に新堤築造を出願しますが
 行政府は動きません。
そこに歴史に残る大災害が起こります。
1907年(明治40年)豪雨による大洪水が全国的に発生
 多摩川も氾濫
1910年(明治43年)豪雨による大洪水が全国的に発生
 多摩川も氾濫
 この年の「臨時治水調査会」で
 多摩川は第2期河川に指定されます。
 これは事実上棚上げを意味しました。
1913年(大正2年)豪雨による大洪水が多摩川で発生
 御幸村他“右岸”流域の人々は治水の請願書を出しますが
 進展しません。
1914年(大正3年)ようやく神奈川県は“左岸”の東京都と協議に入ります。
 何故?東京都と協議が必要かというと 
 “左岸”地域は、“右岸”の堤防工事が進むと 左岸に被害が及ぶ“危険”があるというものでした。両方まとめて工事するには 予算が無い!
 では県費で築堤申請を国に出すと、左岸側の強い抵抗に合うという
 繰り返しでした。
 最終的に許可を出す「内務省」(戦前は公共事業も管轄していました)も
 申請を却下!します。

同年1914年(大正3年)の8月9月に、再び大洪水が起ります。
 
明治に入っても
 一般市民のデモや抗議のための集団行動は禁止されていました。

(決起)
地域住民はついに実力行使を決定します。
御幸村など4村の住民数百人の一団が早期築堤を求め県庁に陳情行動に出ます。
9月15日(火)
 小倉・鹿島田・町田・江ヶ崎・北加瀬など関係地域の代表が集まります。
 関係村民が大挙して神奈川県庁に迫る以外方法がないという結論に達します。
 ●9月16日(水)午前2時に出発する事
 ●服装は羽織を使わず、
  草鞋を履き目印としてアミガサを冠る事
 ●県庁への進路は各字(あざ)の随意とすれども
  成るべく警官の目を避けて目的地に達するようにする事
を決定し 散会します。

9月16日(水)未明
各村の陳情部隊は、月明かりを頼りに県庁に向かって出発します。
「九月十六日午前一時八幡社ニ集合スル」

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※現在 川崎市平間にある「八幡神社」境内にプレートがあります。

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住民はアミガサをそれぞれに着用し結集します。

「二時十分鹿島田を経て小倉に至り,更に同志九十人と会す.末吉橋に至るや濁流滔々と渦を巻き,川口は溢れて渡る事を得ない.止むを得ず鶴見橋に迂回せんとしたが,此処は警官防備線の中心地なるを以て果して成功するかは疑はしい.種々協議の末,一同生命を賭しても此の末吉橋を渡らん事に決着した.
 其処で一同衣服を頭に結び付けて胸に達する濁流を押切り,親子兄弟互に助け合ひ相励しつゝ進み,幾度か濁流に押流されんとしては踏みしめ踏みしめ,漸くにして彼岸に達する事を得た.半月雲間に現れ,必死の一行を照らすに其の凄惨なる状態,叫び合ひ嶋咽する声と共に此世のものとも思はれなかつた.
 渡るに要せし時間約一時間半,先着順に仕度を整へて飯田道横町を過るに前後の間隔次第に拡がり,終に互に見失つて了つた.此時引返して来た鹿島田部隊五十余名は飯田橋横丁に於て同志二十余名が警戒の巡査に捕はれたる事を報じたのである.此処に於て又も進路を協議して居るうちに三百名の同勢が程ケ谷方面に向ひつゝある事を知らす者があり,之に勢を得て進み漸く迫付く事を得た.
 今や同勢五百有余,群がる警官も物かはと,或は神奈川台下,或は平治の鉄道踏切と到る所警官の垣を突破して潮の如く県庁に殺到した.」

すごい表現ですね。
これは川崎市御幸尋常高等小学校発行の資料の一文です。
このルートを歩いてきました。

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二日に分けています
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古市場商店街で発酵食品の専門店「片山本店」発見
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鹿島田は新川崎と相乗効果で大変貌
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アミガサチームは恐らくこの「杉山神社」に参ったことでしょう
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末吉橋から鶴見川を

飯田道横町を過るに前後の間隔次第に拡がり,終に互に見失つて了つた.此時引返して来た鹿島田部隊五十余名は飯田橋横丁に於て同志二十余名が警戒の巡査に捕はれたる事を報じた」

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飯田町は神奈川区の滝野川流域の町です。飯田橋は未確認
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この事態に終止符を打った人物が
アミガサ事件後に就任した県知事(後の横浜市長)
有吉 忠一でした。
彼は 就任二ヶ月で“築堤”を決断します。
内務省の反対を押し切った築堤は現在も「有吉堤」として残っています。

No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?
(余談)

アミガサ事件に決起した「八幡神社」前を通る県道111号線は
多摩川を渡る際「ガス橋」で東京と結ばれます。

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1936年(昭和11年)東京ガスが鶴見製造所で製造したガスを東京に供給するために作られました。
このガス橋近くに多摩川を挟んで互いに水害から逃れるために、反目し合った悲しい歴史があるのも皮肉な巡り合わせといえます。
現在のガス橋は、1960年(昭和35年)に車両用の橋梁として新設されたものです。かながわの橋100選にも選ばれています。

 
4月 12

【番外編】善悪の彼岸

歴史上の人物評価は難しいものがあります。
歴史の多くが“勝者”の描いた史実を重ね合わせた結果です。
近年、敗者の歴史と言う視点で新資料を元に新しい人物像が描かれています。
横浜を舞台にした人物像にも評価の分かれる人が
意外と多いことに気がつきました。
特に
明治維新前後に登場する多くの重要人物は歴史的政変に関わっているため、評価は立場によって大きく変わってきます。
徳川政権から明治政権に劇的な政権交代の狭間で、歴史に埋もれてしまったり善悪の評価が二分されてきた時代です。


横浜に関係が深く評価が分かれた人物として良く知られている人物は
「井伊直弼」でしょう。
安政の大獄で多くの要人を処刑、処分等を行い「桜田門」で元水戸浪士達に暗殺されました。
薩長出身者には“親の敵”、水戸徳川家には攘夷破りで“目の敵”
明治維新後も井伊直弼支持者と薩長明治政府派とは反目し合います。
その象徴が「掃部山の井伊直弼像」です。
井伊に関しては別のコーナーで一部紹介していますが、
より鮮明に 横浜の直弼騒動を追いかけていますのでまとまり次第紹介します。


「幕末悲運の人びと」で石井孝さんは四人の悲運な人物を紹介しています。
■岩瀬忠震
■孝明天皇
■徳川慶喜
■小栗忠順
中でも「岩瀬忠震」「小栗忠順」は特に横浜と深く関わる人物です。
目下「小栗上野介忠順」に挑戦しています。
小栗忠順は実に興味深いキャラの持ち主です。


まとまり次第 紹介します。

(新田義貞)
突然時代は14世紀に遡ります。


偶然目に止まった本から 鎌倉武将「新田義貞」に関心が湧いてきました。
鎌倉 稲村ケ崎で剣を差し出したパフォーマンスで有名です。


群馬県人には郷里の英雄「歴史に名高い新田義貞」とうたわれています。
上野国新田荘に拠点を持つ関東の御家人で
鎌倉幕府倒幕で「かまくら攻め」のため
南下し 鎌倉道を経由し稲村ケ崎まで一機に攻めくだります。
このとき 横浜市域を通り
「瀬谷」にその足跡をみることが出来ます。
その後、最終的に 福井県(越前国)で最後を遂げます。
評価の分かれる「新田義貞」に関しても
目下 実際に鎌倉道散策中です。

戦後も評価の分かれた人物の一人に
神奈川県知事「内山岩太郎」がいます。
横浜市と神奈川県の仲の悪さ?の原点となった
戦後自治体の制度設計を巡って激しい論争を行います。
少し紹介しましたが
No.399 神奈川都構想で抗争
彼についても目下 下調べ中ですが 中々面白い!
ということで これも時期をみて紹介します。

No.350 12月15日(土)横須賀上陸、横浜で開化。

No.324 11月19日(月)広田弘毅に和平を進言した男像
※もっと、改めて 評価していく人物も多いようです。

今日は 今関心のあるテーマの紹介のみとします。

2月 18

No.408 古代横浜の七年戦争

ブログ再開に際し 時代をさかのぼり
昔々の横浜に起った七年戦争を紹介しましょう。
時は、534年(安閑天皇元年)ごろ
当時横浜一帯は「笠原直 使主(かさはらのあたい おみ)」という豪族が支配していました。もう少し広い範囲で説明しましょう。
武蔵国(むさしのくに)の話ですから、現在の埼玉全域・東京・川崎・横浜という広大な地域を舞台にした物語です。

日本書紀

この笠原家に身内争いが起ります。
親戚(同族)の笠原小杵(おき)(おきね)が国造(くに の みやつこ)という地方を治める官職を巡って内乱を起こします。
戦いは七年経っても決着がつきません。
「小杵」は現在の群馬県地域の豪族だった上毛野君(かみつけののきみ)小熊(おくま)に助力を求め形勢逆転を図ります。あくまで記録上の表現ですが、
「小杵」は“性格が激しく人にさからい、高慢で素直でなかった”そうです。
一方で「笠原直 使主」はこれに気づき、このままでは負けると京都に逃げ出し朝廷に助けを求めます。
朝廷は実情を聞き、「使主」を国造として認定し「小杵」に対する征伐軍を出した結果、大和政権と全面戦争を避けたい小熊が軍を引いたことで「使主」は国造職を維持します。
無事自国の領地を取り戻した
『「使主」はかしこまり喜び黙し得ず、帝のために横渟(よこね)・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くるす)の四ヵ所の屯倉を設け献上した。』
※屯倉(みやけ)とは、大和政権の支配制度の一つ。全国に設置した直轄地を表す語でもあり、のちの地方行政組織の先駆けとも考えられる。
これが534年(安閑天皇元年)ごろだと「日本書紀」に書かれています。
この横渟(よこね)・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くるす)の四ヵ所
横渟(よこね)は現在の
埼玉県比企郡吉見町(和名抄の武蔵国横見郡)あたりと推測されています。
そして、神奈川の
橘花(たちばな)、現在の川崎市から横浜市東北部で、平安時代の百科事典「和名類聚抄」に示す武蔵国橘樹郡あたり。橘花が橘樹に変化したのでしょう。

和名類聚抄

多氷(おおひ)は多末(たま)の間違いで「和名類聚抄」の武蔵国久良(久良岐)郡大井郷か東京都下多摩地域あたり
倉樔(くるす)
横浜市南部で「和名類聚抄」の武蔵国久良(久良岐)郡にあたるだろうと推測されています。
横浜は、武藏の国と相摸の国の境目あたりに位置していたんですね。
それから1世紀、戦国時代に笠原家の名が相模の戦国大名北条家の家臣として登場し活躍します。

駒沢大学ライブラリーより

「笠原信為(かさはら のぶため)」
武蔵国橘樹郡小机城城代で、墓所は雲松院(横浜市港北区小机町)にありますが、
この笠原家が古代の笠原と関係があるかどうかは 判っていません。

12月 31

No.366 12月31日(月)パトリとネイション

なんとか最終章に入ります。
366話目の「2012年暦で綴る今日の横浜」です。
長い間おつきあいありがとうございました。
今日は特にある年の12月31日の話しでは無く、明治以来横浜港を始め、神戸や長崎の港から旅だった「日系移民」の話を紹介しておきます。

(洋上のハッピーニューイヤー)
年表を眺めていたら、明治以来昭和までの長い期間に
横浜からカナダ、アメリカ、ブラジルなどに向け多くの移民船が出港しています。
中でも12月29日頃から31日までの年末に
多くの移民船が横浜を出港した記述がある事が気になっていました。

異国で生きる事を決意した日本人は、どんな思いで洋上の新年を迎えたのでしょうか?
思いを馳せるとそこには悲しくも逞しい日系移民の姿が重なってきます。

(移民の歴史を知ること)
日本から100万人を越える移民が海を渡りました。
移民に関する資料を「海外移住資料館」で観ることが出来ます。
横浜の新港埠頭に「海外移住資料館」があることをご存知ですか?

まだの方は一度ゆっくり見学される事をおすすめします。
http://www.jomm.jp
「日本人の海外移住は、1866年に海外渡航禁止令が解かれてから、すでに100年以上の歴史があります。ハワイ王国における砂糖きびプランテーションへの就労に始まって、アメリカ、カナダといった北米への移住、そしてその後1899年にはペルー、1908年にはブラジルへと日本人が渡ります。そして、1924年にアメリカで日本人の入国が禁止されると、大きな流れが北米から南米へと移っていきます。その結果、第二次世界大戦前には約77万人、大戦後には約26万人が移住しています。
その一方で、ここ十数年、かつて日本人が移住した国々から、とくに南米から、日系人とその家族をあわせて約30万人の人たちが就労や勉学の目的で来日しています。こうした経緯から、日本人の海外移住の歴史、そして移住者とその子孫である日系人について、広く一般の方々(とくに若い人たち)に理解を深めてもらうことを目的として、海外移住資料館が開設されることになりました。」

(日本の移民は横浜に始まります)
移民全般については、かなりのボリュームになるので、ここでは日本の移民元年、まさに明治元年にハワイに横浜港から船出した「元年者」と呼ばれた最初のハワイ移民を簡単に紹介しておきます。

日系移民マップ

幕末、ペリーの開港要求が日本開国政策への転換点となります。
1866年(慶應2年)に海外渡航禁止令が解かれます。
諸外国とは、外交上の開国を安政五カ国条約によって約束しますが日本人が外国へ行く事はこの海外渡航禁止令が活きていました。
このときに、日本人の労働力に着眼したオランダ系アメリカ人がいました。ユージン・ヴァン・リード(Eugene Miller Van Reed, 1835年5月17日〜1873年2月2日)です。ハワイにいたリードは、ホノルルで開国した日本に通訳官として向かう浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)に出会います。ここで、ハワイ王国(当時ハワイは事実上米国の支配下にありましたが、一応独立国)外相ワイリーから、リードの日本情報に対し、日本人のハワイ向け労働者を集める事は可能かどうか打診されます。
リードは早速 ジョセフ・ヒコに随行し、1859年(安政6年)7月に神奈川に設立された米国総領事館の書記生として入国します。
日本の開国情報をリサーチしたあと、一旦ハワイに戻り外相ワイリーから外交官の資格を得て再来日します。
1865年4月に横浜(神奈川)にあった米国領事館の一角をハワイ王国領事館として、リードは総領事となりハワイ王国との国交締結交渉を行いますが失敗します。国交が成立しなければ領事の意味は無くなりますので、彼はそのまま横浜に滞在し貿易商を開業、東北地方諸藩との取引を行います。その間も、幕府と外交交渉を継続し、1868年(慶應4年)日本人のハワイ移住に関する許可を獲得します。
1868年といえば明治維新、徳川幕府が崩壊した年です。幕府も瓦解寸前の無責任な認可?になるかもしれません。リードは、政権交代後の明治政府横浜裁判所に4月19日、募集した移民に対する旅券下付を総領事の資格で申請を行います。
これに対して神奈川裁判所は日本とハワイに国交がないことを理由に彼の総領事としての資格を否認します。(これは正しい処置)
更に王政復古後の江戸幕府の許可であることを理由に許可自体も無効とします。
これに対して彼は無効処分の取り消しか賠償金4,000ドルを要求し、時間稼ぎをします。リードはすでに日本での移民リクルーティングを済ませていて、6日後に英国船に141名の日本人を乗せて移民を強行します。
この日本最初の移民、後に国の政権交代の隙間で翻弄された彼らを「元年者」と呼びますが、
横浜を舞台に これを契機(既成事実)に日系アメリカ移民が始まります。
1871年8月19日(明治4年7月4日)に日本とハワイ王国の国交が正式に結ばれますが、どさくさに紛れてハワイに日本人を送ったリードの外交資格が問題点としてとり挙げられ外交資格を剥奪されます。
その後、アメリカ公使チャールズ・デロングの仲介により、日本政府はリードのハワイ領事視覚を承認した経緯があります。
リードに関しては、高橋是清の米国留学を斡旋した際に学費を着服してしまうとか、岸田吟香の新聞『もしほ草』創刊を支援したりとか面白い人物である事は間違いありません。

No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に

No.24 1月24日 西へ新たなフロンティアへ

最後に、何故ハワイ王国は日本人労働者を必要としたのでしょうか?
最大の理由は、
30万人いたハワイ人口が、カリフォルニアに起ったゴールドラッシュで流出しハワイの砂糖産業が危機的労働力不足に陥っていたからです。
※アメリカ本国では、黒人奴隷に代る労働力を中国に求めました。(苦力の歴史)

ハワイの元年者達の行く末は?
元年者達は、夢多きホノルルまでの航海は順調でした。
しかし、農場に入植後、東北出身が多かった移民たちは不慣れな気候の下での過酷な労働と、当時ハワイに起ったインフレ物価高による生活の困窮に苦しみます。
1868年12月に移民団の元締であった牧野富三郎らが日本政府に救出を求める嘆願書を寄せる事態に至ります。
明治政府は民部省監督正薩摩出身の“上野景範”を使節としてハワイに派遣します。上野景範は、幕末薩摩藩で奄美大島の製糖工場建設に携わったアイルランド人建築技術者・トーマス・ウォートルスの通訳を務めた経験もあり製糖工場には詳しかったようです。
特命全権公使としてハワイに赴いた上野景範ら一行は、サンフランシスコ経由で1869年12月27日(明治2年11月25日)ハワイに到着し、ハワイ外相ハリスと交渉を行います。
1870年1月11日(明治2年12月10日)帰国希望者40人の帰国、残留者も契約期間が経過したときにはハワイ政府の費用で日本に送り届けることなどを合意し、募集を行ったハワイ国駐日総領事・ヴァン・リードの罷免を確約させます。
1870年3月7日移民40人とハワイで生まれた子ども1人計41人が横浜に到着し、遅れて3月26日上野景範自身も別便で横浜に帰着します。

このような事態は その後も多くの日系移民に起ります。
日系人排斥、日本語教育禁止等の悲しい迫害を受けながらも
日系移民は時代を生き抜きます。
決してバラ色ではない移民という選択。
それでも多くの日本人が この『国』を離れようとしたのは何故でしょうか?
そして、敗戦後、そして311では
いち早く支援に立ち上がった日系人が多くいたことも 私たちに パトリとネイションの在り方を考えさせられる歴史の事実です。

12月 22

No.357「今保守を問う」加筆版

今年も残り10日となりました。
今日はこの場を借りて改めて大平正芳を紹介します。1937年(昭和12年)に横浜税務署長の辞令を受け、横浜市に赴任しました。
「No.189 7月7日(日) ぼくは日本人を信じます」から転用加筆しました。

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大平正芳、私が尊敬する数少ない政治家の一人です。
地味ですが、することはしてきた“良質な保守本流を代表する最後の総理”(※1)と評されました。

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※1「歴代総理大臣の通信簿」八幡和郎 PHP
保守とはタカ派のことではありません。保守は現実主義的改革派であって、理想主義的改革派(革新)とは一線を引きます。現状を維持しつつも将来への変革を積極的に受け入れていくことが保守本流です。ここでは保守論を論じる場ではないので保守とはに関しては別の機会に譲ることにします。

(共にハマに暮らす)
大平正芳、福田赳夫
二人の首相経験者は共に、横浜税務署長を歴任するという共通点がありました。
※当時「横浜税務署」は野毛、現在の「にぎわい座」にありました。
当時、歴代横浜税務署長は、辞令が出るとまず税務署にほど近い紅葉坂の官舎に仮住まいし、その後一軒家を借りるのが“お決まり”だったようです。
上級官僚は各地の税務署長を1年程度勤め全国を数カ所歴任し本省に戻りますが、横浜税務署長だった福田赳夫は(本省の疑獄事件で)幸運にも1934年(昭和9年)4月〜7月の短期間で本庁に戻ります。

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福田赳夫の短い官舎時代の印象は「横浜の野毛山のてっぺん、とても良いところに立派な横浜税務署長の官舎があった。行って泊まったが、夜になると南京虫が出てくる。」ということで三泊だけして早々に磯子の間坂(まさか)に引越ます。

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一方 5歳年下の大平正芳は、福田署長から3年後横浜税務署長に赴任し同じく「紅葉山の官舎」に引っ越してきます。
彼の場合は磯子区字浜1,666の借家に転居するまで少し時間がありました。夫婦で野毛界隈を散歩したひと時があったのではないでしょうか。
磯子時代の話しが残っています。

「長男正樹は、昭和十三年二月六日、横浜の磯子で生れた。
当時私は横浜税務署長で、横浜市磯子区の芦名橋で小さい借家住いをしておった。それはすぐ隣の杉山さんの持家で、磯子の浜から一町ほど離れたところにあり、横浜から金沢に通ずる街道を右にちょっとはいった、どこか磯の香のする閑静な住居であった。私と妻は、生れて間もない長男を
抱いて、磯子の浜辺を偕楽園の方向によく散歩したものであった。
当時の横浜は、関東大震災の傷跡が未だに残っており経済的には相当疲弊しており、従って担税力も乏しかった。外国貿易の主導権は当時すでに日本橋や丸之内に移り、横浜は主体性を失った中継貿易港に転落しつつあった。当時横浜には半井知事、青木市長、高橋税関長がおられた。この三人の先輩は定期的に私を昼食に招いてくれたりして、何くれとなく指導して下さった。また市井の人々には、いわゆる「浜っ子」という特有の気質があって、コスモポリタン的な東京人とはちがって、何となく親しみやすかった。私もだんだん横浜に惹かれるようになり、その後東京の大蔵本省に勤務するようになってからも、横浜の本牧に自宅を構えて、三年ほど厄介になったものである。」

大平はその後、本牧に住まいを持ち本省に通った時代がありますが、さすがに本牧からの通勤は大変だったとみえ、東京に居を移します。
ここに登場する大平正芳の長男 正樹氏はその後26歳の若さで難病ベーチェット病で亡くなります。これは家族にとって大いなる悲しみとなりました。

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磯子区葦名橋付近 大平正芳が税務署長時代に暮らした町

(終生のライバル)
共に紅葉坂官舎暮らしの二人は総理大臣の席をめぐって戦後史に残る壮絶な権力闘争劇のライバルとなります。
有名な三角大福と称された政治闘争の末、共に首相となります。
田中 角栄→三木 武夫→福田 赳夫→大平 正芳

大平は福田赳夫の再出馬を抑えての総裁(首相)就任でした。
この時の(遺恨)なのか、第二次大平内閣成立時には大平派・田中派・中曽根派渡辺系・新自由クラブの推す大平正芳と福田派・三木派・中曽根派・中川グループが推す福田赳夫の一騎打ちとなります。
キャスティングボードを握ったのが「新自由クラブ」で、国会首班指名で138票対121票という僅差で大平が勝ちます。

大平関係書籍
大平関係書籍

この逆転ともいえる大平政権の誕生に自民党は分裂寸前まで敵対(怨念)関係になり、1980年(昭和55年)5月16日に社会党が提出した内閣不信任決議案に対し与党(福田派)の造反で可決し大平首相は衆議院を解散します。
この時の社会党委員長が、元横浜市長で磯子に生まれ育った飛鳥田一雄でした。

2月27日 政治家が辞めるとき

総選挙が公示された5月30日、
大平正芳は第一声を新宿街頭演説を終え、次の演説場所“横浜”に向かいます。
一通り演説を行いますが、すでに体調不良を訴えていた大平は横浜での街頭演説終了後、急遽 虎の門病院に緊急入院することになります。
一時期、回復しますが6月12日午前5時過ぎに容態が急変し死去します。皮肉にも
この時同時に実施された第36回衆議院議員総選挙と第12回参議院議員通常選挙で自由民主党は歴史的大勝利を手に入れることになります。

(彼が残した言葉)
「戦後の総決算」
(中曽根発言のように言われていますが、1971年9月に自民党研修会で大平が詳細に総決算論を講演しています)
「善政をするより悪政をしない」
「行政には、楕円形のように二つの中心があって、その二つの中心が均衡を保ちつつ緊張した関係にある場合に、その行政は立派な行政と言える。(中略)税務の仕事もそうであって、一方の中心は課税高権であり、他の中心は納税者である。権力万能の課税も、納税者に妥協しがちな課税も共にいけないので、何(いず)れにも傾かない中正の立場を貫く事が情理にかなった課税のやり方である」(「素顔の代議士」より)

※横浜税務署長時代の昭和13年新年拝賀式での挨拶。
「その役所に所属し、そこに生涯の浮沈と運命を託しているのは、その役所にいる役人衆であって、大臣ではない。主人公たる大臣は栄光をになって登場してくるが、やがてその役所を去って行く存在である。大臣は主人公たる虚名をもっているが、事実はその役所の仮客にすぎない」
「ぼくは日本人を信じます。また、そう信じる気持が唯一の支えです」

(日本にとっての80年代)
私は、ライフワークに近い「関心」事項として「戦後史の分岐点としての80年代」があります。
このテーマに行き着いたキッカケとなったのが

大平正芳による有識者による長期政策に関する政策研究会の設置です。
1979年に設置された9の研究会は、大平の急死によって依頼者を失いますが、この大平レポートは現在抱えている日本の様々な問題を分析し執念とも思える見事な報告書を主亡き後にまとめあげます。
第2次大平内閣の内閣官房長官、臨時代理となった伊東 正義にこの報告書を提出します。
この研究会に参加した実務官僚は200人を超え、官民あげて21世紀への日本のありかたを真剣に議論した“最後”のプロジェクトではないでしょうか。
この後、1980年代に日本は大きく変容します。
失われた(   )年は、今も続いています。
今こそ
多くの方にこの報告書を読まれる事をお勧めします。

大平内閣時代の 田園都市構想
大平内閣時代の
田園都市構想
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(大平研究会)
大平正芳の政策研究会
全9巻の報告書『大平総理の政策研究会報告書』を1980年に提出します。
1 文化の時代研究グループ(議長 山本七平山本書店主)
2 田園都市構想研究グループ(議長 梅棹忠夫国立民族学博物館長)
3 家庭基盤充実研究グループ(議長 伊藤善市東京女子大学教授)
4 環太平洋連帯研究グループ(議長 大来佐武郎(社)日本経済研究センター会長)
5 総合安全保障研究グループ(議長 猪木正道(財)平和・安全保障研究所理事長)
6 対外経済政策研究グループ(議長 内田忠夫東京大学教授)
7 文化の時代の経済運営研究グループ(議長 館龍一郎東京大学教授)
8 科学技術の史的展開研究グループ(議長 佐々學 国立公害研究所長)
9 多元化社会の生活関心研究グループ(議長 林知己夫統計数理研究所長)

家庭基盤充実研究)
中でも家庭基盤充実研究は 特筆に値します。30年前にここまで正確に現在の課題を抽出し、提言できたメンバーに敬意を表したい。

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「この報告書は、ぜひ全9 巻を通してお読みいただきたい。それは、30 年後、50 年後の地球社会が、日本が、あなたの住む地域社会が、さらに、あなた自身の家庭や生活が、どうなるのか、どうなるのが望ましいのか、そのために、今日から、この10 年間、20年間に、あなたを含めて、何をしなければならないのか、そういうことを、あなたに語りかけてくれるであろう。
 かつて大平総理が、尊敬し信頼してこの大作業を委ね、ともに語り合うことを喜びとしていたこの人々と、あなたも、この報告書を通じて、ゆっくりと語り合っていただきたい。
内閣官房内閣審議室分室・内閣総理大臣補佐官室」
政府関係の報告書とは思えない饒舌感、高揚感のあるこのメッセージに相応しい問題提起がここにあります。

(現在閲覧は図書館のみです→これこそデジタル化してほしい資料の一つです)

(余談)
国会で一時期大平派に属していた風変わりな議員がいました。
1971年の第9回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で初当選。直後に自由民主党(自民党)に入党した松岡 克由です。
別の名を「立川 談志」
彼の器には政治家という職は小さすぎたようです。