今日は共進会を紹介した【芋づる横浜物語2】の続きを紹介します。
【芋づる横浜物語1】
【芋づる横浜物語2】
明治初期、文明開化を実感する空間がいろいろ登場します。野外では鉄道、馬車や人力車に洋風の服装の外国人が町を闊歩する姿が登場し、洋館が建ち並びました。
飲食店も江戸時代とは異なる洋風のシツラエが目立ってきます。そしてさらに一般庶民が文明開化を実感したのが「新しいスタイルのお店」の登場です。
その一つに「勧工場」(カンコウバ、カンコバとも)があります。「勧工場」とは大型の共同店舗のことで、1878年(明治11年)1月東京府営として麹町区永楽町辰ノ口に誕生しました。
「勧工場」誕生のイキサツは、東京府が上野で開催した第一回内国勧業博覧会で売れ残った商品をまとめて“在庫一生処分”するために繁華街の一角に“店舗”を開いたものです。
ところが 意外と好調に売り上げを伸ばし、流行の商品が購入できるということで、いわゆる「百貨店」の前身として全国各地に登場します。
1880年(明治13年)には公営から民営となり明治20年代から30年代に最盛期を迎えます。
地域によっては「勧業場」「勧商場」とも呼ばれました。
「勧工場(かんこうば)」の話題性は、
江戸時代のスタンダードモデルだった“座売り”に代っで
商品を並べて販売する“陳列販売”を採用。
同一価格で販売したことが商業革命を起こします。
現在では当たり前の土足で店舗内に自由に出入りすることも「勧工場」が先駆けでした。
(一世を風靡)
勧工場は流行の最先端ショップとして一世を風靡します。
その現れとして、明治・大正期の文学エッセイに勧工場が登場します。
夏目漱石は「門」で
「そう云う時には彼は急に思い出したように町へ出る。その上懐ふところに多少余裕でもあると、これで一つ豪遊でもしてみようかと考える事もある。けれども彼の淋しみは、彼を思い切った極端に駆かり去るほどに、強烈の程度なものでないから、彼がそこまで猛進する前に、それも馬鹿馬鹿しくなってやめてしまう。のみならず、こんな人の常態として、紙入の底が大抵の場合には、軽挙を戒る程度内に膨んでいるので、億劫な工夫を凝よりも、懐手をして、ぶらりと家うちへ帰る方が、つい楽になる。だから宗助の淋さびしみは単なる散歩か勧工場縦覧ぐらいなところで、次の日曜まではどうかこうか慰藉されるのである。」
と豪遊したいが見るだけしかできない“勧工場”を描いています。
この他 「虞美人草」「それから」等でも勧工場が登場します。
また 永井荷風は「あめりか物語」で Department storeを「勧工場」と訳した最初といわれています。
その他 高浜虚子、国木田独歩、尾崎紅葉 らがエッセイや日記に「勧工場」を描くほど当時の日常風景だったといえるでしょう。
勧工場出口になりぬ夏の月 籾山柑子(もみやま かんし)
勧工場目をひく物のかずかずを並べて見する故に喜ぶ 石川啄木(いしかわたくぼく)
新しきにほいなによりいとかなし勧工場のぞく五月のこころ 北原白秋
(横浜の勧工場)
島崎藤村の短編小説に横浜の勧工場が登場します。
「雑貨店」で「横浜 伊勢佐木町の繁華な通りにある高橋雑貨店は、正札付きの日用品を置き並べて、いっさい掛け値なしに売るという便利な店である。この店がかりは高橋となる前の店主の意匠で、以前にもかなり繁盛したものであったが、ふとしたことから貸金の抵当として日本橋富沢町にある木綿問屋の大将の手にはいった。それを高橋のだんなが引き受けて、新たに店開きをしたのである。(中略)この雑貨店は、言わば小さい勧工場のような見世がかりで、是程の人手があってもまだ不足を感じた位である。」と描きました。
作家 島崎藤村は実際に伊勢佐木にあった雑貨店「まからずや」を手伝っていた時期があり、前述の一文はその頃の体験をモチーフにしたものです。
横浜にも勧工場がありました。
『横浜沿革誌』の1882年(明治15年)2月の項で
伊勢佐木町一丁目に「帝国商品館」と向かい合う「横浜館」の二つの勧工場が登場します。また、「横浜繁盛記」(横浜新報社)1903年刊でも
1882年(明治15年)の春に劇場や勧工場、飲食店ができ、賑わい当時四軒の勧工場が伊勢佐木町にあったことを伝えています。
当時横浜最大の繁華街「伊勢佐木」を描いた“絵はがき”にも勧工場が描かれています。
<横浜市立図書館DBより>
※横浜市立中央図書館が販売している横浜絵葉書の復刻版に収録されています。
もう一枚著者所有の伊勢佐木町が描かれている絵葉書もこのブログを書くために資料を探している時に勧工場「帝国商品館」と「横浜館」が描かれていることが解りました。消印から明治43年以前の絵葉書です。
東京ビアホールを頼りに調べてみると
『横浜成功名誉鑑』に
「商品館楼上の東京ビヤホールは創立も古く可成りの繁栄だ」
から「東京ビアホール」の看板は「帝国商品館」であることが確認でき、横浜市立図書館「伊勢佐木町」とは反対側からの図であると思われます。
※余談 桜木町駅の「川村屋」の記事も載っています。
実際のイメージは
横浜市都筑区にある「横浜歴史博物館」常設展示場には明治期のコーナーで「横浜館」のファサードを復元しています。
※勧工場の誕生時期に関する諸データは多数ありますが「鈴木秀雄 勧工場と明治文化」が詳しく参考にしました。
(百貨店の原型)
「勧工場」は百貨店の原型となり、商業革命を起こします。
しかし、「勧工場」は消費者のニーズから次第にかけ離れ長く続きません。
1902年(明治35年)東京市の統計では
勧工場 27店
入居店数 2,149店
年間売上高 790,708円
この明治35年を境に年々勧工場は減少していきます。
明治35年 27店
明治36年 26店
明治40年 19店
明治44年 10店
大正3年 5店
(東京市統計)
明治32年に開業した「帝国博品館勧工場」が現在もその名を残しています。
銀座通り新橋寄りにある「銀座博品館」は1930年(昭和5年)に廃業した「帝国博品館勧工場」の名を1978年(昭和53年)に復活させたものです。
伊勢佐木の「横浜松坂屋 (ノザワ松坂屋)」閉店の後にオープンした「カトレヤプラザ伊勢佐木」はまさに平成の勧工場復活といえるかもしれません。頑張って欲しいものです。
伊勢佐木商店街もいずれ調べてみたい関心領域です。