今日は前段の長かった【芋づる横浜物語】の続きを紹介します。
群馬県前橋の老舗「たむらや」さんは明治23年に横浜で創業し、群馬で明治45年に開業した味噌蔵です。
「明治23年、たむらやの創始者 高橋助次郎は神奈川県横浜にて代々の網元として漁業を営むかたわら食料品や薪、炭などを販売する個人商店として創業しました。
明治43年、助次郎は群馬県で開催された「一府十四県連合共進会」出席のため前橋市を訪れた際、その風土、気候、気風に強い感銘を受け、二年後の明治45年、時化(しけ)で全ての持ち船を失ったのを機に新しい事業を始める地として前橋を選び、佃煮、惣菜の販売を始めました。」
江戸時代後期から明治にかけて横浜近郊は漁業が盛んな地域で、さかんに輸出も行われていました。例えば、屏風ヶ浦沖の「煎海鼠(いりこ)」は中国(清)向けに加工され日本重要な輸出産品の一つでした。
「たむらや」創始者 高橋助次郎氏も近海漁業を営み、網元として江戸や神奈川湊に魚をおさめていたのかもしれません。
この「たむらや」さんが群馬県前橋市で第二の創業を始めるに至ったキッカケの一つが「一府十四県連合共進会」です。
この「共進会」は横浜市にも関係の深い明治期のイベントでした。
(内国勧業博覧会)
明治期から大正にかけて様々な分野の産業を奨励するために博覧会や共進会などが多数開催されました。
大規模な産業振興イベントが「内国勧業博覧会」です。
1877年(明治10年)8月21日〜11月30日
第一回内国勧業博覧会 東京上野公園(454,168人)
1881年(明治14年)3月1日〜6月30日
第二回内国勧業博覧会 東京上野公園(823,094人)
1880年(明治23年)4月1日〜7月31日
第三回内国勧業博覧会 東京上野公園(1,023,693人)
1885年(明治28年)4月1日〜7月31日
第四回内国勧業博覧会 京都市岡崎公園(1,136,695人)
1893年(明治36年)3月1日〜7月31日
第五回内国勧業博覧会 大阪市天王寺今宮(4,350,693人)
第一回から第四回まで出品した山田与七
横浜の有名自転車店も出品しています。
横浜の梶野甚之助は第三回から最後の五回まで出品
第四回では有功賞を受賞します。
(共進会)
内国勧業博覧会に対して
共進会は、日本の産業振興を図るため、産物や製品を集めて展覧し、その優劣を品評する会のことです。明治初年代より各地で開催され分野によっては現在も行われています。
お茶、生糸、製糖、綿花、穀物や蚕種、牛や豚等の原材料農産物や窯業、織物、農機具、織機などの工業製品が展示品評されました。
「製茶共進会」
「窯業品共進会」
「観古美術会」
「絵画共進会」
「畜産共進会」等々
(道府県連合共進会)
内国勧業博覧会と一分野の共進会の間の規模で地域産業振興を主軸においたものが「道府県連合共進会」です。
複数の道府県が連合して共進会を開催しました。
この「道府県連合共進会」は始まった当初はその都度複数の道府県が集まり開催する形で、開催地域や開催道府県に偏りがでてきました。
(共進会の整理統合)
道府県連合共進会規則(農商務省令第3号)が
1910年(明治43年)3月25日に公布されます。
全国でランダムに開催されていた「道府県が連合して産業に関する共進会」を主務大臣の許可制にし交通整理をはかります。
この規則の概要は、
①道府県の連合区域は6道府県以上15道府県以下とする(第3条)
②5年目以後でなければ同種の物品について連合共進会は原則として開催できない(第5条)
③主務大臣は審査長、審査官および審査員を命じ、優等と認めるものに褒賞を授与する。ただし、審査員に関する旅費は連合府県の負担とする(第7条)
④褒賞を1等から4等までの4種とする(第8条)
⑤主務大臣は出品と同種の産業に関して功労顕著と認める者に対し、その人の存亡にかかわらず功労賞杯を授与する(第9条)など
この年
1910年(明治43年)9月17日から二ヶ月間
群馬県で「一府十四県連合共進会」が前橋で開催されます。「たむらや」創始者 高橋助次郎氏が横浜から海産物を出品します。
入場者は延べ113万人を越える大盛況の「共進会」として成功を収めます。
単純計算でも一日2万人が訪れた計算になります。
この時に、高橋助次郎氏は上州の人情に触れ二年後にこの地を漬け物の専門店として開業する事を決断したのでしょう。
(横浜市勧業共進会開催)
共進会は横浜でも何回か開催されますが、大規模な勧業共進会を1913年(大正2年)に企画します。
1913年(大正2年)10月1日から11月19日までの50日間、(現在の)横浜市南区で「神奈川県横浜市勧業共進会」(全国輸出貿易品神奈川県生産品勧業共進会)を開催し入場者は62万人に及びますが、前述の群馬県「一府十四県連合共進会」の半分しか入場者がありませんでした。
この「神奈川県横浜市勧業共進会」は企画段階では「全国輸出貿易品神奈川県生産品勧業共進会」となっていましたが途中から「神奈川県横浜市勧業共進会」と規模が縮小したようです。
当時の新聞「時事新報」にはこの「神奈川県横浜市勧業共進会」の酷評記事が出てきます。
この時期は、日露戦争後の経済不況もありスポンサー不足もありましたが、最大の原因は翌年の1914年(大正3年)3月から四ヶ月間の予定で準備が進められていた「東京大正博覧会」に競合したためです。
「神奈川県横浜市勧業共進会」を酷評した時事新報は「東京大正博覧会」を絶賛します。
「東台の桜花は未だ多く朱唇を破らざるも大正新政の万歳を祝福せんとする同胞六千万の至誠は茲に大正博覧会の開催となりて所謂人工の極致を尽し物質的文明の精華を示せり(中略)
名は大正博覧会と称するも其実は明治時代に於ける科学的進歩と、従って起る物質的文明とを紀念するものと見るを得べし即ち大正博覧会は明治より大正に移る過渡期に際し一は過去に於ける明治文明の赫灼たる大功績を語り一は洋々たる未来に向て向上発展せんとする大正の首途を紀念するものというべきなり」(時事新報)
入場者は四ヶ月間で746万人、一日あたり6万人平均の大盛況となります。
※大正期に入り、日本経済は紡績・繊維依存からの脱却を目指しはじめた時期にあたり、横浜も産業の転換を求められた結果ともいえるでしょう。
それでも、この「共進会」の開催は地元にとって 印象深く地域活性化に繋がります。
1928年(昭和3年)9月1日に
(中区)蒔田町・南吉田町の一部から「神奈川県横浜市勧業共進会」の名をとって「共進町(きょうしんちょう)」が新設され記憶に留められることになりました。このエリアはその後「南区」となり現在は横浜市南区共進町です。