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第980話【横浜の隅っこ話】東名横浜町田インター バス停

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東名横浜インターバス停

東名高速道路横浜町田インターと国道16号線が交わるところにポツーンとバス停があります。神奈中「南01」系統で、「若葉台中央〜南町田駅」を結ぶ短い路線です。
この路線
2018年(平成30年)11月現在 一日 しかも休日昼頃に1便だけ運行している不思議な路線です。俗に言う路線維持赤字路線かもしれません。東名インターとバス停に関して古い資料を少し探ってみました。
<東名横浜町田インター>
元々バス停名は写真の通り「東名横浜インター」でしたが登録バス停名は表題の通り
「東名横浜町田インター」と改名されています。東名高速を使った高速バスのバス路線がありインター出口に高速バスの「東名横浜」停留所があり、ここから在来の連絡路線が「若葉台中央〜南町田駅」南01系統です。

2017年春
1日1便

2015年(平成27年)では平日1本、土曜1本、休日1本の計3本運行を確認できました。
2016年(平成28年)では平日1本、休日1本の2本に。
そして現在は 休日の1本のみとなっています。廃線直前の路線ですが、路線を維持する理由があると思われますが、不明です。
このバス停
横浜市緑区長津田と東京都町田市鶴間の境目に位置しています。

国交省DBより

横濱界隈ブログですので
「東名横浜町田インターバス停(東名横浜インター)」の位置は横浜市内か東京都町田市内かという疑問を調べてみました。
[結論]横浜市緑区長津田 国道16号線保土ヶ谷バイパス上り線
 横浜市内の一日一便路線であることがわかりました。これで他にもあるのか、俄然調べてみたくなりましたが歩いて偶然発見していく方法で他の極少路線と出会うことが愉しみです。

営業中の中華飯店「東名台」駐車場に車は無かった

このバス停を含め近辺の歴史も調べてみました。
この路線が誕生した背景には東名高速道路の開通があります。
東名高速道路横浜町田ICが1968年(昭和43年)4月25日に開通します。
翌年、高速道路を使った
東名ハイウェイバスが運用開始し、「東名横浜」バス停が設置されますが、周辺にアクセス手段が全く無く、バス連絡を必要としたのではないか、と推察できます。

ここは最寄り駅「南町田駅」まで約1kmです。途中厚木街道「東名入口」交差点にもバス停が無く”不便さ”は拭えません。一方、1979年(昭和54年)に分譲が始まった若葉台団地は始発本数の多いターミナル機能を持ったところです。若葉台中央乗換で横浜線「十日市場」、相鉄線「三ツ境」に出ることが可能ですが、ハイウェイバス開業から10年の時間差があり、また乗換の不便さが残ります。なぜ若葉台経由路線が組めなかったのか不思議ではあります。
東名ハイウェイバス「東名横浜」バス停は1999年(平成11年)に廃止されます。
廃止された要因は横浜インターの恒常的渋滞と最寄り駅へのアクセスの悪さと思われますが、逆によくぞ99年まで継続したとも言えるでしょう。

東名ハイウェイバスが運用時には、古い航空写真・明細地図等から「待合室」があったようです。
バス停周辺は近郊農業の耕作地とインター名物のラブホが林立し、工場・倉庫がある程度です。
未完成の環状4号線、保土ヶ谷バイパスの立体化の遅れなどが重なり、インターチェンジ機能がフルに発揮できなかったこともこのエリアが孤立化してしまった要因といえるでしょう。
現在保土ヶ谷バイパスの二期立体化も進み、瀬谷の米軍用地返却で環状4号線も潤滑化され、今後10年で予測すると大きな変化が起こる可能性がでてきました。

環状4号線
周辺に広がる耕作地

<関連史>
■大和バイパス
1968年(昭和43年)3月 開通。4月25日運用開始。
東名高速道路との接続幹線道路、国道16号のバイパス道路として大和市つきみ野から上川井ICが開通。
1968年(昭和43年)4月1日
田園都市線 「長津田駅〜「つくし野駅」延伸開業。
1969年(昭和44年)6月10日
東名ハイウェイバス「東名横浜」バス停供用開始。同時に東名江田バス停も供用開始。
■保土ヶ谷バイパス
1970年(昭和45年)着工
1974年(昭和49年)9月 
狩場IC〜上川井IC間が全面4車線開通
1976年(昭和51年)10月15日
東急田園都市線「南町田駅」開業
1979年(昭和54年)
県営「若葉台団地」分譲開始。計画当初「市営地下鉄」計画があった。
1997年(平成9年)
横浜町田立体完成供用および下川井I.C~上川井I.C間6車線化供用
4月1日 新設の横浜青葉インターチェンジとの区別のため横浜町田インターチェンジと改称
1990年代 間05系統 鶴間駅東口 → 東名横浜インター → 鶴間駅東口 廃止
1999年(平成11年)1月31日
東名ハイウェイバス「東名横浜」バス停廃止
2015年(平成27年)
環状4号線、公田交差点から南河内交差点までの4車線化が完了し、整備地区全線で4車線化供用開始。
2016年(平成28年)3月
環状4号線未整備区間(上瀬谷地区)が開通。

南01系統 車内は私一人でした。

横浜と【路上観察】

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路上には街の生き様が凝縮している。
路上に凝縮されている「しるし」は、その街の個性を如実に表している。
つまり
路上観察は、街のリアリティを確認する作業である。
残骸、残滓「何かが取り除かれた後に残っているもの」と表現すればネガティブだが、名残とすれば趣が変わる。
路上の残滓は、街の個性、アートになる。
トマソンはまさに残滓、
マンホールも都市生活から隠した痕跡という位置づけも可能だろう。
モジャ壁、落書きはもちろん、暗渠や商店街に漂う湿度はライブなインスタレーションなのだ。

これは 何?から始まる路上観察

私が横浜の路上観察に関心を持ったのはいつ頃だろうか?
1990年代、横浜都民から横浜市民に意識が変化した時が一つの転機となったことは確かだ。
あることがキッカケで横浜市内をいろいろ歩くことになった。最初は目的地にばかり意識が向いていた。
たまたま瀬谷区役所に行くことになり、地図を開き場所を確認する。
瀬谷区役所、最寄り駅は相鉄線(瀬谷)かと思いきや、(三ツ境)駅で降りそこから南側の厚木街道に沿って歩くと「瀬谷区総合庁舎入口」の信号を左折するとまもなくだ。
当時、18の区役所中、中区役所は当時珍しかった<屋上庭園>利用者だったので、残りの17をほぼ初めて訪れることになった。
なにか目的の無い限り、市内区役所を巡るなど1990年代稀な<市民>だったに違いない。

瀬谷区役所(総合庁舎)
横浜市瀬谷区二ツ橋町190
私が訪れた時には昭和46年5月竣工に竣工した旧庁舎で、現在は平成24年に新しい庁舎となって消防署等を含めた<総合庁舎>となっている。
残念ながら当時、携帯も無く所用で出かけた先を写真を撮ることも無かったので記憶を頼るしかないが、
18区それぞれに個性があった。
東京都のような特別区ではないので、区は市の出先機能が大きく、区議会があるわけではない。ところが、区役所は実に個性的だった。恐らく、区役所設置の歴史に起因してるのかもしれない。
13青葉区役所
8旭区役所
17泉区役所
9磯子区役所
2神奈川区役所
10金沢区役所
6港南区役所
11港北区役所
16栄区役所
18瀬谷区役所
14都筑区役所
1鶴見区役所
15戸塚区役所
4中区役所
3西区役所
7保土ケ谷区役所
12緑区役所
5南区役所

この区一覧はアイウエオ順になっている。
頭に付く数字は、市役所の区順である。これは区の誕生に起因している順なのだが、いつも<瀬谷区>が最後となってしまうので、瀬谷区民には少々気の毒な順である。
市には
「区の設置並びに区の事務所の位置、名称及び所管区域を定める条例」というのがあって
これが面白いというか これが条例(法律)なんだな。

各区役所はそれぞれの区域を所管とする って感じでは済まないのかな


話が本題から逸れているが、
短期間に区役所庁舎を訪れる仕事の関係ではじめての18区<庁舎>体験をした。
分区で できたてホヤホヤの青葉・都筑区役所。
庁舎立替で新しかった泉区役所、泥亀の地名に「どろがめ」と読んでしまった金沢区役所
瀬谷同様に、保土ケ谷区役所の最寄り駅は「保土ヶ谷駅」では無く、相鉄線の星川の駅前にある。
最寄り駅が離れている代表は西区役所
駅から区役所に辿り着く道筋も区ごとで風景が異なり、面白い。

本郷台駅から栄区役所への、いたち川沿いの道。
今は中村川沿いに移転したがかつて大岡川沿いにあった南区役所
最初は<駅直結>だった港南区役所
行くたびに迷うというか裏道を抜ける感覚の中山駅から緑区役所への道。
近年、区役所も駅チカでないと駄目らしい。戸塚区役所も駅前に移動した。
西区役所は横浜駅ビルに入らないのか?と考えてしまう。

コーンアート
モジャ壁

これらの道筋を歩く度に、道端が気になり始めた。
まず足元だった。
マンホールとの出会いだ。

市境の雨枡
石が歴史を刻む


次に舗装ブロック、商店街の佇まい、古い住宅街の「大谷石」「房州石」
ブロック塀のスカシ、街路樹の足元、奥が深い境界標、標識、意味不明の看板、高低差、電柱考古学、バス停歴史学、
刹那の風景、暗渠、隙間植物、壁文様
と関心領域が広がっていくうちに
目的の無い街歩きが30年も経ってしまった。
最近は徒党まで組み街を徘徊している。

電柱も奥深い
洗わない、捨てない
そりゃ 掘っちゃいけないね。
舗装のスキマが文様に。
コイはモノ、野鳥は生物?

第973話 【駅から路上観察】京急神奈川駅から白楽まで。

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今回の狙いは、私が世話人をしている「横浜路上観察学会」の例会レポートをアップします。基本参加時のリアリティを大切にしているのであまりレポート系はしないようにしていますが、街を紹介する良い情報源でもありますので
いくつか紹介していくことにしました。
□2018年10月に開催しました京急神奈川駅から白楽ルートから

今回のルート図

谷戸にひだ状に広がる横浜の典型的な稜線越えを楽しみます。横浜の地形は、俯瞰してみると鶴見エリアを除き、多くが襞のような凸凹の連続、小河川が葉脈のようになっているのが判ります。この葉脈の一つの<稜線>を歩きました。

横浜の水系

出発駅は京急「神奈川駅」です。
神奈川駅は、京急全駅中、最も乗降客数の少ない駅で2017年統計では一日あたりの乗降客数が4,637人、お隣「横浜駅」が堂々の第一位で323,668人規模ですので
神奈川駅は70分の一の規模です。距離も近くすぐに<廃止・合理化>対象駅ですが、それでも駅を統廃合しないのは、この駅が京急にとっても、東海道の歴史を語る上でも重要な<鉄道遺産>だからでしょう。

その証として神奈川駅の外観はなかなかの風情です。
早速
神奈川駅前で路上観察的不思議発見???
沿線上 最下位の乗降客数にもかかわらず、しかも時代が電話ボクス廃止傾向の中、駅前には公衆電話ボックスがなんとWで設置。共に現役です。

さあ、ここから丘陵を越えてみましょう。
“小河川”は丘陵地から小さなわき水などが集まり少しずつ水量を増やしながら川に成長していきます。都市化された小河川はかつての<林>を失い、宅地化されることで水量を一気に減らします。横浜のように水源地から河口までが短い河川は、雨が降ると暴れるきまぐれ河川が集中しています。
小暗渠も集中しているので 観察場所としては魅力たっぷりです。
「神奈川駅」から東海道本線を越える「青木橋」を渡ります。
そこには、幕末にアメリカ領事館があった青木山「本覚寺」があります。この青木山一帯は高台を表す”台町”と呼ばれ、かつては神奈川湊を見下ろす景勝地として高島嘉右衛門の邸宅があったことでも有名です。
この丘の下をトンネルで東京急行電鉄「東横線」が走っていましたが、地下化にともない使われなくなった<トンネル>を活かした「フラワー緑道」として遊歩道になっています。
ここでは音の響きが心地よいです。

フラワー緑道

(滝の川)
神奈川区には「滝の川」という準用河川があります。現在は東海道線の橋脚より下流部分しか見えませんが、かつてはこの地域の重要な産業河川でした。河口域は中世から重要港であった「神奈川湊」となり、水運は勿論、大きな漁業拠点でした。江戸時代は「滝の川」河口東海道の「神奈川宿」であり、幕末期には開港を求められた湊です。
地形図を眺めると一目瞭然ですが、
今回のコース
栗田谷・旭ケ丘・二本榎・斎藤分・中丸・六角橋エリアは、大きく二つに別れた「滝の川」の分水嶺であることが判ります。
仮に北滝の川(六角橋方向)と南滝の川(三ツ沢方向)と分けておきます。
この二つの流れは、東神奈川スケートリンクあたりで合流します。ここにはかつて「境橋」が架かっていました。橋の名残が残されています。

二つの滝の川が合流する境橋
境橋から上流が暗渠化。右が六角橋方向、左は三ツ沢方向へ

南滝の川<暗渠>道路です。川の雰囲気が残されています。
ここから丘陵を登っていきます。
横浜市立栗田谷中学校が右手上に見えてきます。
壁際に穴を埋めた痕跡が。レンガや大理石も混じっています。震災時の瓦礫を埋めたのでしょうか?
栗田谷中学校は1949年(昭和24年)にこの場所に移転したようです。

希望橋橋脚

(希望橋 橋脚)
栗田谷中学校は 道路を挟んで校庭があったので生徒たちの安全を考えて谷間部分に橋を架けました。希望橋と呼ばれ、つい最近までありましたが、耐震構造上の理由からか、廃止され、橋脚のみ残っています。
路上考古学的にはとても興味ある残骸です。
(通信用鋼管柱)
電柱と聞くと一般的にコンクリート製のものが思い浮かびますが、地域によっては金属製の電柱もよく見かけるようになりました。道路が狭かったり、傾斜地には最近良く使われるようになっています。電柱を<路上観察>するだけでも色々発見があります。
ほとんど無くなったクラシックタイプの<木製電柱>も探しどころです。

金属製の軽量電柱

(昭和の香り)
路地裏を歩いていると、昭和に出会います。戦後横浜が急膨張した時期に、住宅街や商店街が数多く完成しました。この急膨張時代の名残が、路地裏に残っています。
神奈川区は戦前戦後を通して住宅街として成長してきた街なので、一軒一軒の住宅の佇まいを観察するだけでも、戦後個人住宅史を垣間見ることができます。
(ノラ)
野良猫の生態も地域特性を表しています。賛成反対いろいろあるでしょうが、この地域ではノラがのんびり過ごしていて、ビクついていません。地域に馴染んでいる証拠です。

(善龍寺)
宿遠山善龍寺、この地域に古くからある浄土真宗のお寺。元々は真言宗でしたが、建長5年(1253年)に浄土真宗寺院として中興されました。
新編武蔵風土記稿では
「斉藤分にあり。浄土真宗西本願寺の末寺なり。宿遠山と号す。開山のこと詳ならず。古は真言宗なりと云。本堂七間に六間半、巽向なり、本尊阿弥陀を安ず。木の立像にして長二尺五寸なり。
鐘楼、門を入て右にあり。鐘に正徳年中の銘文あり。」
この浄土真宗寺院として再興した人物が<斎藤兼実>という人物で、この斎藤さんの<知行地>を 斎藤さんの”分”ですという地名が現在でも残っているという説があり、もう一方で斎藤式部入道なる武士がこの地を治めたところから斎藤分となった!

というなかなかの時代(中世)を実感できる場所です。(それぞれ根拠不詳)
この善龍寺には「五代目一龍斎貞丈」の墓碑があります。講談と横浜の関係を知る上でも重要な人物です。
(神奈川大学付近)
少し歩くと、神奈川大学キャンパスが見えてきます。ここは隠れ通学路(東神奈川駅)らしく学生が多く歩いています。
神奈川大学と付近に関しては 色々面白いネタがあり、別テーマで紹介したいところです。
ちょっと飛ばして、
一山越えて、
「北滝の川」に出ます。ここからは細いけれども実に暗渠らしい遊歩道が、六角橋商店街の裏まで続きます。途中、暗渠ならではの階段、マンホール、壁があるので、路上観察的には発見の多い場所です。
さて、終着点六角橋に到着しました。
ここまでの行程で約4キロくらいでした。

六角橋周辺は路上観察の宝庫。路上博物館ともいえる空間です。
変な発見がたくさんあります。
スタート時のツイン公衆電話が なんと!ゴールの六角橋にも。
ここではボックスではなく、据置型でした。まだまだ需要があるんですね。

路上観察を始めると
普段は見逃しているものが<見えてくる>
路上が気になって気になって仕方なくなります。
くれぐれも事故のないように!
今回はこれでおしまい。

第942話【謎解き】吉田橋広場

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今年は馬車道150年です。
1867年(慶応3年)に「吉田橋」から関内を通り抜ける広い道路が整備されたことに因みます。
この「吉田橋」から続く<広い通り>は地元の人たちに通称「馬車道」と呼ばれるようになり、その後区画整理を経て現在の「馬車道通り商店街」となりました。 この吉田橋を渡ると伊勢佐木町の繁華街が日枝神社近くまで続きます。
もう一つ
「吉田橋」袂から斜めに「吉田町商店街」が野毛へと続きます。 この吉田橋際に立ってみると、馬車道側に不思議な空間があります。
かつて
「丸井横浜関内店馬車道館」があった場所でした。 1980年(昭和55年)に開店
2000年(平成12年)に閉店しその後高層マンションとなっています。
当時、この広い空間は丸井馬車道の敷地だと思っていましたが、その後丸井が撤退しマンションが建つ計画が公表された時に、この空間が公共の土地であることがわかりちょっと驚いた記憶があります。

一方、伊勢佐木口側は昔、馬車道側より広く長い広場(広い空間)がありましたが今は無くなってしまいました。この広い空間には一時期運河沿いに「警察署」が建ちその後デパートが伊勢佐木のシンボルとなった時代があります。この<不自然な>広場は共に、関内に街路が整備された頃から他の道路とは異なり、誕生しました。なぜ?ここに広場のような空間が存在したのでしょうか?
私の結論から先に紹介します。
吉田橋<関門>あたりはかつて関内外の主要関門であったため、交通量が多く関門周辺に<滞留空間>が自然と出来上がったのだと推理しました。

場所を馬車道側に戻します。
この空間について資料を調べるキッカケとなったのは一枚の写真でした。
最初に紹介しましたように、馬車道側に明治期から現在まで不思議な広場が存在していたことは、過去の風景写真によって明らかです。明治期の地図でも明確にこの空間が示されています。慣れとは恐ろしいもので、何度となく見ていたはずの<この空間>の不自然さに全く気が付かなかったのです。

偶然入手したこの一枚の写真、裏面のメモから1953年(昭和28年)頃に撮影されたと思われます。
街路樹のエッジに白い像が建っています。ロダンの考える人をイメージさせる腕を曲げ顎を支えているかのようなポーズです。
戦前の風景には見当たりません。
終戦直後の米軍進駐時の写真にもありませんでした。
戦後復興期に短期間設置されたようです。
何故短期間かというと、1958年(昭和33年)5月8日の写真にはこの白い像が別のものに変わっていたからです。この年、開港百年祭が行われ、その時の様子が広瀬始親(ひろせもとちか)氏が記録していた写真集に収められていました。ここにはトーテムポールようなものが設置されています。
再度、白い像のある写真を拡大してみると背後に石燈籠のようなものも二基設置されています。
馬車道の老舗で伺っても記憶に無いとのこと。
まだ この謎は解けていません。

第938話【2017・年末ネタ】

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毎年12月師走ともなると、交響曲第九の公演とドラマ忠臣蔵が定番行事でしたが、近年時代劇不振で、再放送ばかりのようです。
「交響曲第九の公演」
「忠臣蔵=赤穂事件」
共に 横浜とも関係があるので年末ネタとして紹介しておきましょう。
「交響曲第九の公演」
https://www.youtube.com/watch?v=F0j2gPgRc1s

ベートーベン作曲の有名な交響曲で、ご当地ドイツのライプツィヒで年末大晦日公演が1918年に名門オーケストラであるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって始まります。日本では戦前に公演は行われますが、年末恒例となったのは戦後のことです。戦前のエピソードとしては
1918年(大正7年)6月1日
日本で最初に「第九」が演奏されたのが徳島県の鳴門市(当時は板東町)で、ここにあったドイツ兵の俘虜(捕虜)収容所でのことでした。当時は第一次世界大戦の真っ最中で、連合国側として参戦していた日本とは敵国でした。(第一次世界大戦〜1918年11月11日終戦)
時は流れ、戦後まもなくの
1947年(昭和22年)12月
日本交響楽団(現NHK交響楽団)がレオニード・クロイツァー指揮で9、10、13日の3夜第9の演奏会を開催して多くの観客を集めたのがキッカケといわれています。
その後、
1950年(昭和25年)12月17日
アマチュア・オーケストラとして本邦初めてこの第九を公演したのが横浜交響楽団でした。場所は横浜公園脇にあった「フライヤージム」です。その後、横浜交響楽団の年末恒例演奏会の目玉となりました。
ちなみに、日本交響楽団は1947年(昭和22年)単発公演で
初めて年末恒例としたのは横浜交響楽団???(裏とってません)かもしれません。
「忠臣蔵=赤穂事件」
冒頭にも書きましたが、年の瀬は「忠臣蔵」という時代がありました。
歴史学的には「赤穂事件」として、
五万石の大名がお家断絶、身は切腹、城は公収、数千に及ぶ家臣とその家族を路頭に迷った事件です。
江戸時代、18世紀初頭の元禄年間に播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩(ながのり)が江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央(よしひさ)に対し<傷害事件>を起こしたというものです。
主君浅野内匠頭長矩は切腹、その後この事件に端を発し家臣の大石内蔵助良雄以下47人が長期計画を練り最終的に
元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜
本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央をはじめ、小林央通、鳥居正次、清水義久らを殺害します。
何が原因だったのか、その後どのように仇討ち計画が組まれたのか?
史実としては不明な点が多かったが故に、後世の作家たちが様々な物語を構築して、幕末から現在に至るまで<国民的ドラマ?>となりました。
「忠臣蔵」で一躍悪役となったのが吉良上野介義央です。
(吉良家)
吉良家は足利氏の一族で、後北条氏とも姻戚関係にあります。
足利義氏(足利家3代目当主)の三人の息子がそれぞれの道を歩みます。
泰氏(三男ですが本妻の子)→足利家→足利尊氏
義継(長男)→奥州吉良氏→蒔田吉良氏
長氏(次男)→西条吉良氏→上野介・今川家
長男であった義継の流れが奥州吉良家として関東で勢力を伸ばし、中世後期の室町時代応永年間(1394〜1427)に武蔵世田谷(東京都)に本拠を置き南は蒔田(横浜市南区)に居城を持つようになります。この城は発掘調査や歴史資料が少なく、いわば”まぼろしの城”とも言われていますが、明治以降あまり周辺環境が変わっていない往時の地形をおぼろげながら感じ取ることができます。

戦前の蒔田城周辺

蒔田の居城は吉良頼康によって築城され
「蒔田御所」と呼ばれるほどその威光を示しました。
現在は「青山学院横浜英和中学校高等学校」の敷地となっています。
1880年(明治13年) ブリテン女学校として設立
1886年(明治19年) 横浜英和女学校に改称
1916年(大正5年) 横浜英和女学校が現在地に移転
1939年(昭和14年) 成美学園に名称変更
1996年(平成8年) 横浜英和学院に改称
2016年(平成28年) 青山学院横浜英和中学校高等学校に改称
校庭から当時のツボの欠片が出土し学内に展示されているそうです。(見ていません)
その後の吉良家
1590年(天正18年)豊臣秀吉が小田原征伐を行い北条一族の居城、小田原城が落城します。これによって北条氏は滅ぶことになります。これにともない蒔田城も廃城になって静かに明治まで眠っていました。
吉良家はその後、徳川家の家臣となり明治期まで続きます。歴史の表舞台にはあまり登場しませんが、横浜と世田谷を、中世と現在を結ぶ歴史の貴重な<糸口>です。

No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー

No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー


1950年(昭和25年)12月17日
横浜交響楽団がベートーベンの第九演奏会を開催します。

(図版は追って追記します)

第937話【市境を歩く】川崎市境0その2

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■今回は川崎・横浜市境パート2
かつての日本橋を起点に横浜港に至る国道一号線、現在の国道15号線を越え
いよいいよ「京浜運河」に入ります。国道15号線の市境には、恐らく大正時代に改修された時に建てられた<東海道>の道標がひっそり建っています。国道を越え、平安町(横浜側)と池田町(川崎側)を進み、市境にある京町小学校脇から南下、このあたりはかつて大きな船溜まりがあり、「京浜運河」として日本鋼管他近隣の産業運搬船が利用していました。
現在、河口域の白石橋まで暗渠化しなごりは<電信柱>に残されています。
京浜運河の歴史は古く、
1910年(明治43年)に京浜運河の発起人会が作られ
1917年(大正6年)に京浜運河株式会社が設立されます。
代表は川崎の工業化を推進した浅野総一朗で、周辺埋立に伴う河川や工場用水の排水路及び運搬水路として整備されました。 排水路でもあったため周辺の海苔養殖事業者からは湾岸汚染を抗議する運動も起こりましたが1936年(昭和11年)に「京浜運河」埋立計画が発表されるなか、
内陸部の京浜運河は暗渠化し、
現在は、遊歩道(京町緑地)として整備されています。
途中には横浜市と川崎市が共同で設置した市境モニュメントがあります。
かつて運河だった遊歩道(京町緑道)の両側は工場が密集していましたが、移転・廃業等の跡地は大型のマンションとなり、住宅地へと変貌し続けているようです。
京浜運河は、途中大東町から横浜市側になり末広橋近くで開渠化し旭運河となります。
高速道路「横羽線」と下を走る「産業道路」の通るあたりには
「汐入」「寛政」「新田」といった江戸時代の海岸線を想像させる名前が残っています。
横浜市鶴見区寛政町の寛政は江戸時代の寛政年間に湾岸干拓が完成し年貢を収めることができたことからこの名が付いたといいます。
川崎市川崎区田辺新田は
田辺家により天保年間に開拓が行われ、このエリアのあざなとなり現在の地名になった場所です。市境の橋は白石橋。
市境に架かる「白石橋」から海へ続く「境運河」の先は大工場地帯となっています。市境のゴールは湾岸沖です。この先簡単に市境は歩くことができませんので
市境歩きはこれにて終了。

第936話【市境を歩く】川崎市境0

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街には国境ほどではありませんが行政の境界があります。
地域民にとって境界は別段関係ありませんが時にこの境界が市民生活に影響してきます。
街は何故ここに境界を設定したのか、
謎解きをしながら市境を歩くと、横浜が見えてきます!
市境の基本はおおよそ地勢の影響を受けています。
・川筋
(主に境川あたり)
・尾根筋
(北部と南部)
※隣接自治体は
川崎市・東京都町田市・大和市・藤沢市・鎌倉市・逗子市・横須賀市

■今回は川崎・横浜市境
スタートは尻手駅です。

尻手駅

尻手

ここから川崎市境を湾岸まで南下します。
横浜と隣接する自治体は川崎市です。
ちょっと余談から、
市境際のJR南武線「尻手」駅は川崎市で、
お隣の「矢向」駅は横浜市に位置しています。
横浜市域に南武線の駅があることちょっと意外ですね。
■拡張競争
横浜市と川崎市の<領土獲得>はドラマのような歴史があります。
元々、明治期までは広く橘樹郡でした。その後川崎市と横浜市が拡大するにつれて周辺村域を合併し市域拡大を繰り返し最終的には二分します。
今回歩くのは
橘樹郡田島村→1927年(昭和2年)4月1日に川崎市
橘樹郡町田村(潮田町)→1927年(昭和2年)4月1日に横浜市
この境です。
前述の通り、JR南武線「尻手駅」は横浜市に食い込むように<川崎市>です。
資料を精査していないので憶測の域をでませんが、
南武線尻手駅の開業は
1927年(昭和2年)3月9日で、
同年の
1927年(昭和2年)4月1日に市境が確定します。

昭和18年尻手駅界隈

駅をめぐってもやり取りがあったとしても不思議ではないでしょう。
鉄道は地域にとっても重要なインフラですので、駅際の<境>を正確に線引していくなかで、我が市に駅を!という作用もあったと思います。
尻手駅の<尻手>の名も
橘樹郡鶴見町大字市場字尻手の”尻手”から採っていますので、横浜市に編入された市場村・矢向村の字名でした。<尻手>命名にも当時はいろいろあったのかもしれません。
<市境>も<いさかい>のネタであることは間違いありません。
川崎市とは大騒動になった日吉村顛末もありました。
No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発

No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発


尻手あたりから、海岸にかけてかつて<用水路>だったので、正確には川筋境に市境が生まれたといえるでしょう。古い地図では尻手駅脇に川筋があり最終的には京浜運河に流れ込んでいた(いる?)ようです。(上図)
尻手近辺にはいたるところに水路や池、沼地を確認することができます。
今回の市境旅もある意味
<暗渠旅>といえるでしょう。
尻手駅界隈は東西で表情が変わります。東側は川崎市幸区、駅前の西口通り東方向に900mで、川崎駅に出ます。川崎駅西口は東芝などの企業が集中するエリアでしたが、西口ラゾーナなどが登場し一気に商業集積地に変貌しました。
一方、西エリアは南武線に並行してJR貨物線(現在横須賀線)と鶴見川があり、住宅地と中小事業所が密集する地域です。
南武線(本線・支線)に沿って流れていた用水路に沿って市域となっています。
南武線本線と支線、東海道本線の挟まれた三角地帯には
川崎市堤根処理センター(川崎市堤根処理センター発電所)があり、ゴミ焼却エネルギーの再利用が図られています。予熱は隣接する「ヨネッティー堤根」に供給されています。市境はJR東海道(並木踏切)を越えます。用水路は全て暗渠化していて、一部名残が残っているだけです。さらに南下し京浜急行を越えるあたりで少し市境が複雑に変化します。京急の踏切近辺には横浜市と川崎市、両市境を示す道標が設置されています。

横浜市側

川崎市側

一本で両市を示している珍しいの道標の一つです。
市境は第一京浜、国道15号線に向かいます。
第937話【市境を歩く】川崎市境0その2
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11168
につづく

第925話【横浜風景】金沢百景

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金沢区は魅惑的な区で、様々な角度から紹介しています。
横浜18区の中でもじっくり書いたものが多いかもしれません。
<カウントしてませんが>
リンクをまとめました。
第923話【横浜市境】 市境の深ーい溝
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10931

No.136 5月15日 フルライン金沢区
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=479
横浜市金沢区は1948年(昭和23年)5月15日に磯子区から分区し創設しました。

No.269 9月25日(火)河口に架かる橋
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=334
1964年(昭和39年)9月25日の今日、埋立てによって整備された河口に架かる八景橋が完成しました。

2月20日 海の公園計画発表
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=570

2月22日 アーティストツーリング
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=568

2月27日 政治家が辞めるとき
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=563

No.124 5月3日 料亭にて超機密書類盗まれる
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=492
憲法記念日に因んで
伊藤博文らが金沢八景の料亭東屋で「明治憲法」草案を練ったという話

第829話 1936年(昭和11年)
6月23日日本製鋼横浜製作所JSW
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7780
「日本製鋼横浜製作所JSW」が金沢町泥亀に竣工・操業開始した日です。

1914年(大正3年)7月12日 京急富岡駅
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7816
横浜貿易新報社選(神奈川県内の)「新避暑地十二勝」が発表されました。

No.230 8月17日 (金)孫文上陸(加筆修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=377

No.451 芸術は短く貧乏は長し
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=108

No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=378

No.282 10月8日 (月)幕府東玄関を支えた寺
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=318

リンクが多くなりましたので
野島に関しては別に紹介します。

第924話【市境を歩く】 市境の深ーい溝(修正)

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この話題は以前フェイスブックで取り上げたものを
このブログ用に加筆修正しました。
1988年(昭和63年)2月19日
「戦前に臨時飛行場として造成された埋立地“夏島”の帰属をめぐる横浜・横須賀両市間の紛争が40年ぶりに決着し、横須賀市に帰属することとなった。」
という記事を発見。改めて考えてみると
つい最近(昭和63年)まで市境が確定せず
帰属争議が横浜市・横須賀市間で行われてきたという事実に驚きます。
現在の市境は

横浜・横須賀 市境(Google)

今年2017年横浜市域の<境目>をほぼ確認してきました。
川崎市境から初めて東京町田、大和、藤沢、鎌倉、横須賀と歩いてきました。
横浜市金沢区野島町と横須賀市夏島町でフィニッシュ!

野島を横須賀側から眺めながら「鷹取川」河口域から護岸に沿って歩くと日本でも“珍しい”岸下の<市境>になります。“珍しい”岸下の<市境>

これは私の素人調査ですが入江や運河の行政界は ざくっと調べた限り戦後の境界設定にこのようなぎりぎり設定はあまり考えられません。
そもそもこの<夏島問題>戦前からありましたので、
<歴史的経緯>を紐解いてみる必要があります。
岸下の<市境>なので横須賀市域の陸上の岸壁真下は<横浜市>になるため、当然<横浜市港湾局><環境創造局>管轄域となります。この際どい横浜市域に<干潟>があり、少し葦が自生しています。※漁港区域の管轄は<環境創造局>とご指摘いただきました。
今回、ここに葦がしっかり育つようにしようという活動のお手伝いをしつつ<市境>を越え確認してきました。
このエリアは干潟となっていて豊富な野鳥の飛来する空間にもなっています。
ところがご存知、干潟の葦原はゴミの<フィルター化>して大量のゴミが漂着しています。こればっかりはしっかり人の手でゴミを除去する必要があるからです。
ところが、掃除をスルためには横須賀市域から<欄干>を乗り越え横浜市域に下ります。そこで集めたゴミは横浜市指定の袋を使い、横須賀市域に上げ、横浜市のゴミとして金沢区のゴミ処理場に持ち込みます。横浜市内で生じたゴミは横須賀市を通過しないと処理できない空間でした。
『野島運河』は横浜市・横須賀市の大切な海洋資源であることを再確認しておきましょう。
(夏島問題)
名前の通り、「夏島」はかつて島でした。ただ、金沢区南部は明治期以前から現在までにかなり海岸線が変化した地域です。ここに「夏島」だけではなく「野島」の存在も面白い歴史的経緯を持っています。
夏島ですが
戦前、軍の飛行場拡張のため夏島周辺を埋立てた場所の帰属が横須賀市なのか、横浜市なのか、両市が争った!という事件です。(戦前は横須賀市?)

結果 長い協議を経て
夏島一体の埋立地は横須賀市ということに決着したということです。
問題となった軍航空施設の埋立て地は面積45万坪にも及び、その74%(約33万坪)が戦後<地方公共団体>に属さない所属未定地であったところから係争となりました。こんなこともあることにも驚きました。
前述の通り、
このエリア、幕末から明治の頃、「野島」と「夏島」の間は広い海で、干潮時には広大な干潟になる自然豊かな場所でした。
この干潟を明治時代あたりに海軍航空隊の飛行場を整備するため埋立を進めます。夏島にあった小さな山を削り、その土砂で南側の追浜との間を埋め立ててしまいます。
戦争が終わりますが、この海軍の追浜埋立地は皮肉にもそのまま米軍の管理下に入り基地として使用されます。
接収解除後、日産自動車の追浜工場敷地となり現在に至ります。日産追浜はテストコースもあり、一時期新車スクープ事件も起こったり日産にとっても重要な工場の一つです。
戦後の地図を調べてみると 驚き
横浜市域が夏島の中に引かれているではありませんか。

地図制作会社は 何を基準に作図したのでしょうか?
行政の懐事情で言えば、
大企業がそこに進出しているわけですから税金が違ってくるため、自治体はある意味必死だったのでしょう。
和解と合意の内容に関しては調べていませんので不明ですが、
横浜市民的には 入るべき<税>を横浜市は諦めたのは市民の利益を失う行為!!
ですね。
※一方、野島はかつて島ではありませんでした。このあたりも知りたいところです。
※注力散漫でした。港湾区域図をしっかり見ませんでした。

【番外編】戦後の横浜を読む(№917)

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横浜の戦後も遠くなりつつあります。
占領時代は特に横浜の戦後を語る上で欠かせない時間です。関内外、周辺の工場や軍事施設が空襲を受け、捕虜収容所にも被害がありました。
第847話 1945年(昭和20年)7月13日「海芝浦駅」空爆

No.122 5月1日 ハイデルベルク・ヘンリーと呼ばれた男

ここに戦後横浜の断片を知るノンフィクション・エッセイを何冊か紹介します。
私が手に入れた範囲内のリストアップなのでまだまだ色々ありますが、中々読み応えのある内容です。
下記の書籍、ほとんど絶版のようです。図書館か古書店で探して下さい。

●港の見える丘物語 マダム篠田の家
〜YOKOHAMA1945-50/赤塚 行雄/第三文明社
昭和後期から平成時代の評論家として文芸から漫画、犯罪などの社会風俗まで、多岐にわたり評論活動を行い大学でも教鞭をとった。昭和5年生まれ横浜出身。
GHQ横浜進駐時代の裏話が詳細に語られています。

港の見える丘物語

●馬頚楼雑記
〜グラスごしにみたヨコハマ(1984年)/牧野 イサオ/有隣堂
知る人ぞ知る関内にあったバーであり画廊だったホースネック(馬頚楼)のオーナーが残したスケッチや写真、メモ等をまとめたもの。場所は関内エリアですが、野毛の入口吉田町のことにも触れています。カウンター越しのクールさが当時を知る上で重みがあります。

馬頚楼雑記

●横浜ジャズ物語 「ちぐさ」の50年(1985年)
吉田衛/著 神奈川新聞社
野毛の戦後を知るにはまずこの一冊から。野毛論の基本教科書といっても良い一冊です。新聞社連載がキッカケとなったので、良く編集されています。

横浜ジャズ物語

●はだかのデラシネ
〜横浜・ドヤ街・生きざまの記録 (1983年)/中田 志郎/マルジュ社
私が寿ドヤ街のことを調べる時に最初に手にした一冊。野毛の戦後混乱期を「麻薬相談員」の立場で語った秀作。

はだかのデラシネ

DOYA!ことぶきの町は。
●『聞き書き横濱物語 Yokohama story 1945-1965』松葉好市/
小田豊二/ホーム社
松葉好市さんは最近亡くなられたと聞きます。昭和11年真金町遊郭生まれ、椎名巌さん(桂歌丸)と同級生。10代の多感な時期を猥雑だった繁華街に育ちます。野毛のキャバレー「チャイナタウン」の支配人としてこのエリアの生き証人として語ったことをまとめた力作。野毛形成史の価値ある一級資料。

聞き書き横濱物語

●野毛ストーリー 大谷一郎 著 神奈川サンケイ新聞社 1986年
野毛をネジロに飲みに返ってくる立場からこの街を描いたエッセイ。これも新聞連載から一冊の本になったもの。バブルが始まる直前の野毛が描かれています。巻頭の写真、文中に描かれた<挿絵>が当時の様子を知る良い資料となっています。

野毛ストーリー

●天使はブルースを歌う
〜横浜アウトサイド・ストーリー(1999年9月)/山崎 洋子/毎日新聞社
根岸線山手駅の裏側に広がる「根岸外国人墓地」にまつわる史実を追い求めた力作で、そのストーリー展開はまさにサスペンデッド。改めて戦後の横浜を考え直した一冊です。

天使はブルースを歌う

Google Kindle版があるのでタブレットをお持ちの方は手軽に読めます。

●やけあと闇市野毛の陽だまり
─新米警官がみた横浜野毛の人びと(2015年12月)/伊奈 正司、伊奈 正人/ハーベス社 ※販売中
昭和20年代、野毛の都橋交番に勤務していた著者が描いたスケッチとコメントを再編集したもの。野毛界隈を別の視点で描いているので興味深い。

やけあと闇市野毛の陽だまり

●横浜「チャブ屋」物語
〜日本のムーランルージュ(1995年3月)/重富 昭夫/センチュリー
少々時代は遡りますが、横浜の風俗史を知る貴重な一冊です。チャブ屋という名を酒豪の先輩から聞いたのは私が横浜で暮らし始めた1990年代始めの頃でした。

横浜「チャブ屋」物語

●消えた横浜娼婦たち
港のマリーの時代を巡って(2009年6月) 檀原照和/著 データハウス

消えた横浜娼婦たち

●寿町・風の痕跡 ドキュメント(1987年1月)
川原衛門/著 田畑書店

寿町・風の痕跡

●女赤ひげドヤ街に純情す 横浜・寿町診療所日記から(1991年7月)
佐伯輝子/著  一光社

女赤ひげドヤ街に純情す

●横浜ストリートライフ(1983年)  佐江衆一/著 新潮社
時代は発行年と同時代に起こった、「横浜浮浪者連続殺傷事件」を追いかけたノンフィクション。
No.43 2月12日 “浮浪者狩り”

横浜ストリートライフ

※平岡正明さん系!は別掲としました。

「ヨコハマB級譚『ハマ野毛』アンソロジー」
「ハマ野毛」(1から6)編集参加者多数
「野毛的 横浜文芸復興」
「長谷川伸はこう読め! メリケン波止場の沓掛時次郎」
「美空ひばり 歌は海を越えて」
「ヨコハマ浄夜」
「横浜中華街謎解き」
「横浜的 芸能都市創成論」