11月 19

第978話【横浜の分水嶺】

都市部ではあまり<分水嶺>という表現を使いません。都市化された市街地にかつて流れていた(流れている)小河川が埋もれてしまう(暗渠化)ことが多いからです。襞のような丘陵地を多く持つ横浜にはミニ分水嶺が多くあります。
今回は 横浜の分水嶺を紹介しましょう。

横浜市域周辺の水系

■横浜は大きく4つの水系で構成されています。
一級河川 鶴見川水系
二級河川 帷子川水系
二級河川 大岡川水系
二級河川 境川支流柏尾川水系
そのほか 入江川、滝の川、宮川、侍従川 等
水系に含まれる河川名のある支流も多くあります。
鶴見川の支流では 矢上川、早渕川、恩田川(奈良川)、鴨志田川 等

■分水嶺とは
隣り合った河川流域の境界線を分水界といいます。この分水界となっている山脈(丘陵)を分水嶺と呼びます。
水系全体を分ける大きな<分水嶺>から支流の小さな<分水嶺>まであります。
この分水嶺、横浜市内ではほとんど宅地化し暗渠化し姿を消したもの、中には大規模な造成が行われ、分水の役割すら失った空間も多くあります。
中でも
現在残されている稜線<分水嶺>を散策すると、そこが市境や区界であったりして様々な表情が見えてきます。

■分水嶺と行政界を分類してみました。
水系を区で分けてみると
●一級河川 鶴見川水系
 鶴見区・港北区・青葉区・緑区・神奈川区(一部)
●二級河川 帷子川水系
 西区・神奈川区(一部)・保土ケ谷区・旭区
●二級河川 大岡川水系
 中区・南区・港南区・磯子区
●二級河川 境川支流柏尾川水系
 戸塚区・港南区一部・栄区
●二級河川 境川支流水系
 瀬谷区・泉区
●侍従川・宮川水系
 金沢区
●滝の川
 神奈川区
●入江川
 神奈川区・鶴見区

■律令制で分けると
武蔵国(都筑郡・橘樹郡・久良岐郡)が
 鶴見川水系・帷子川水系・宮川侍従川水系
相模国(鎌倉郡)が 
 境川水系
で分けることができます。
それぞれの川は周辺の丘陵を水源に、支流がまとまりながら海へと注いでいます。

11月 14

第976話【横浜の道】横濱国道物語

横浜市内の国道を紹介しましょう。
国道とは「日本において国が建設・管理する道路の総称である。(wikipwdia)」
そもそも「国道」という言葉が初めて使われたのは、1876年(明治9年)に発せられた「太政官布告」によって、全国の道路を国道、県道、里道に定めたことに始まります。当時国道は、全て一等、二等、三等の三等級に分けられました。
起点は江戸時代以前からの五街道を受け継ぎ「日本橋」としました。
この時、一等国道とされたのが、東京と各開港場を結ぶ幹線道路で、最も近くにあった一等国道が横浜港につながる「一号線」でした。
道路の幅員にも規定があり一等国道は七間で約12.7m、二等は六間、三等は五間と設定されました。
その後、大きく道路の法律が変わったのが1918年(大正7年)に成立した新道路法です。この時から「国道に関する建設費および改修費は国が全額負担」となりましたが、軍事道路の用途が強く、軍の影響を強く受けました。
戦後になり新しく道路体系が決まり
「1高速自動車国道(高速道路) 2一般国道 3都道府県道 4市町村道」とに分かれます。
その昔、国道に一級、二級という区別があったことを記憶されている方も多いと思います。
1965年(昭和40年)に一級と二級の区別をなくし、一般国道として統合されましたが、一級・二級の呼び名はその後も一般生活では残りました。
昔の一級国道は(1号〜40号)
二級国道は(101号〜244号)と分けられていました。
ところが国道のわかりにくさは重複区間があったり、バイパスができたりと利用上は混乱するときがあります。
現在全国では459路線の国道が整備されています。
台帳上の一番長い国道が東京〜青森間をつなぐ国道4号で743.6km。
<台帳上>とは?実は最も長いのが国道58号で、
途中「海上国道」というフェリー航路が国道の一部として設定されているからです。国道58号は857.6kmあり、4号線より100m以上長くなっています。
では一番短い国道は?というと
国道174号線で神戸市中央区神戸港〜神戸市中央区を結ぶ187mという短さです。
これは最初に紹介した日本橋と開港した港を結ぶ一等国道のなごりです。
ということは当然、横浜にも港につながる一等国道があった!訳で、
それが国道133号線として現存しています。
この他港につながる国道を紹介しましょう。
東京港には国道130号
川崎港には国道132号
清水港には国道149号
名古屋港には国道154号
四日市港には国道164号
大阪港には国道172号
舞鶴港には国道177号
門司港には国道198号
明治以来の港があるのに国道に繋がっていないところもあります。
【横浜の国道】
現在横浜市内の国道は現在7ルート
東名高速道路 (高速自動車国道)
国道1号 (第二京浜)鶴見区尻手〜戸塚区東俣野
国道15号 (第一京浜)鶴見区市場〜神奈川区栄町
国道16号 西区桜木町〜西区桜木町
国道133号 中区海岸通〜中区桜木町
国道246号 青葉区新石川〜緑区長津田
国道357号 (東京湾岸道路)鶴見区扇島〜金沢区福浦
国道466号 (第三京浜)都筑区東山田〜神奈川区三ツ沢西町
国道468号 (首都圏中央連絡自動車道)※工事中
この7ルートの国道の中で、横浜らしい国道といえば、
 国道133号 中区海岸通〜中区桜木町
 前段で紹介しました<皇居と港をつなぐ道>として整備された「一等国道」筆頭が一号線に、日本橋から最初の国際港横浜に繋がった道の港接続部分が、国道整備上残されたという感じ。
【横浜の国道】133開港の道物語
つぎに
国道1号線と国道15号線の関係も不思議です。共に東海道の動脈道路として整備されたものですが、
国道1号線が<第二京浜国道>と呼ばれ
国道15号線が<第一京浜国道>と呼ばれています。
さらには
国道466号が<第三京浜国道>です。

□◇第一京浜国道15号
この京浜国道、
最も海岸線を走っている<第一京浜国道>国道15号線は俗称「いちこく」と呼ばれていて、
東京から横浜駅までは ほぼ箱根駅伝のコースです。
日本橋を起点に、横浜市内の神奈川区栄町で国道1号(青木通交差点)と結合します。総延長は29.6キロメートル (km)
で、本来は明治時代の「1號國道」にあたります。
本来の「東海道」がこの国道15号線です。
ところが、この規格では交通量の増大に全く対応できなかったことと、
明治大正期に(現在もよくある?)起こった省庁間の摩擦で、第一京浜国道は道路として機能不全に陥ります。例えば<電柱問題>が生じ、道路機能をアップすることができなくなります。電柱問題は、現在当たり前のように道路に林立する<電柱>を埋設し地下化する計画は明治・大正から立案されていました。欧米に学べ!で電柱は学ばなかった訳です。
さらに関東大震災があり、道路設計は旧道改善が難しくなります。
そこで内務省は首都機能の改善案として新規格の道路計画を組みます。

◇◇第二京浜物語国道1号線
新たに第二京浜国道=国道1号線が誕生します。
この国道も「にこく」と呼ばれていましたが今はどうでしょう?
正確には 品川区西五反田から横浜市神奈川区青木町までが<第二京浜>だそうです。
この第二京浜は震災復興として始まり、1930年(昭和15年)に行われる予定だった幻のオリンピックのマラソンコースにも設定されます。東京からのコース折返し地点ランドマークに<アーチ橋 響橋>が作られたという話は有名です。
かなり直線的に(無理やり?)作られたことが地図を見ても、実際に走っても実感できます。鶴見あたりの道は、鶴見の丘と海岸部を分断しているのが良くわかります。
(第687話)オリンピックと横浜
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5872

「夜霧の第二国道」1957年(昭和32年)フランク永井
横浜を多く舞台にした脚本家、山崎巖 脚本。
「心と肉体の旅の舛田利雄が監督し、「夜の牙」の岩佐一泉が撮影した短い歌謡ドラマだったが、横浜の風景がふんだんに出てくきます。
キャストは小林旭、岡田眞澄、香月美奈子 他。
この曲は 作詞 宮川哲夫 作曲 吉田正

◇◇第三京浜
国道466号と国道番号としてはかなり後になった「第三京浜」ですが
いちこく・にこく に対して さんこくとは呼びません。そもそも国道として規格外だったことと有料道路であったことから県道として整備され後に国道となりました。
建設当時、入口近くの野毛に暮らしていた私の周辺でも「吉田ワンマン道路計画の一つだ!」などと揶揄されたようですが、日本で初めての「6車線の自動車専用道路」は、当時画期的な高規格道路で、現在も快適な走行が可能な首都圏のバイパスとなっています。
横浜新道と首都高速に繋がっていますが、混んでいる時などレーン選択は初めての人にはちょっと<酷>かもしれません。
一方、一般道から第三京浜に入るルートもコツが必要なので、昔のままの規格の厳しさを感じます。

◇◇国道16号線
この路線は、起点も終点も横浜市西区という珍しい国道です。
物語満載の国道です。第977話【横浜の道】国道16号線で紹介します。

◇◇国道246号線
「二四六」の響きに甘酸っぱい懐かしさを感じる方は「バブル世代」かもしれません。
現在の40代後半でギリギリ、80年代後半の馬鹿騒ぎな時代を経験しているのではないでしょうか。
TBSのドラマで注目された246エリアは東京から川崎・横浜でした。この延長線に「にこたま」が登場した時代です。
でも横浜エリアの246は、決して自慢できる道路だとは思えません。完全に地域を分断し、南北のアクセスが難しく、二四六川が流れている感じです。縦に16号、横に246・東名
道路という視点では、地域を分けてしまう<壁>となってしまっていることは否めません。

◇◇国道357号・国道468号
国道357号(東京湾岸道路)
計画線上では 鶴見区扇島〜金沢区福浦を結んでいます。
ここは八景島のど真ん中でストップ。この先横須賀まで延伸予定が止まったままです。
国道468号 (首都圏中央連絡自動車道)※工事中
現在大船駅周辺で大工事中。この5年で最も変化する道路でしょう。
横浜横須賀道路「釜利谷インター」から栄区を縦断、大船から国道1号線に合流する計画です。
かなり前からの計画が今になって動き出した。少子化による交通量減少の中でも工事は黙々と続いています。

11月 14

第977話【横浜の道】国道16号線

国道16号は現在、起点:西区桜木町〜終点:西区桜木町という珍しい道路です。
歴史は新しく1963年(昭和38年)4月1日に幾つかの路線が統一されて16号となりました。
横浜界隈的に起点から16号を辿ります。
ルート16は
帷子川支流「石崎川」近く、元「桜川」のあった場所を起点に初めて鉄道が始まった初代横浜駅・新橋間の鉄道路線に沿って大江橋へ続きます。

二代目横浜駅。ちょうど市電のあたりが16号線起点
現在の桜木町付近
16号線起点・終点付近
初代横浜駅、現桜木町駅。興産館(現ぴおシティ)あたりの16号線。

<大江橋> 横浜市内では珍しい人名の橋です。(大江卓)
関内大通と交わる尾上町の交差点を右折、羽衣橋を渡ると旧吉田新田の背骨、中央部を吉野町まで。このルートは関東大震災まで狭い道でしたが、吉田川沿いを通っていた市電のルート変更を行い、広い道路として新規整備されました。
吉野町の交差点を左に。
中村川の「睦橋」を越え、堀割川に沿って磯子方面に。

尾上町交差点付近で16号線は大きく曲がります。

<八幡橋>際を右折し横須賀方面に曲がります。
ここから16号線は旧海岸線でした。
磯子駅を通過し、新杉田駅を過ぎると内陸部に入り込み、富岡からほぼ京浜急行線と並行して金沢文庫まで走ります。泥亀あたりで少し京急と分かれ、また金沢八景で並走します。京急と国道16号線は馬堀海岸までほぼ並走しています。
その後16号線は国道の中でも数少ない海の国道を経て、房総半島に上陸し千葉県を縦断、埼玉県、東京都下八王子からかつて絹の街道として盛んな往来があった八王子街道となった横浜市旭区に入ります。保土ヶ谷バイパスと旧道に分かれ、旧道はほぼ「帷子川」の沿って横浜中心部に入り、終点に向かいます。

(歴史)
横浜に海軍鎮守府(東海鎮守府)が1876年(明治9年)に短期間ですが設置されます。
1884年(明治17年) 12月15日、東海鎮守府は横須賀に移転「横須賀鎮守府」となります。この時から横浜と横須賀との道路整備が行われ、1887年(明治20年)に鎮守府に至る国道として「国道45号線」となりました。

戦後の
1952年(昭和27年)12月4日に施行された新道路法に基づく路線指定でこの区間が「一級国道16号」に指定されます。これが国道16号のはじまりです。
その後、延長を重ね、他の国道を取りまとめ環状線となって現在にいたります。

旭区から終点に至る16号線は、江戸時代から八王子街道として開け、保土ケ谷区と西区の区境(洪福寺松原商店街はずれ)に東海道と八王子街道(旧道)の<追分>があります。この主要街道は神奈川往還とも呼ばれ、保土ケ谷宿への重要街道でした。幕末からは繊維(絹)街道として遠くは山梨商人の道として賑わいました。

3月 30

第952話 吉田町通物語

昭和の記憶に開港の時代が刻み込まれている瞬間に出会う。吉田町では、店の名に<土手>をツケて呼んでいたと聞いて久しぶりに痺れた。
これこそ昭和に伝わっていた開港の記憶だ!
吉田町の大店(おおだな)だった「武蔵屋呉服店」は当時「土手のむさしや」と呼んでいたと伊勢佐木に店を移した「むさしや」の津田さんに伺った。
吉田町の店は皆<土手の〜>と呼んだとのことだが、最初は運河側の店のことだったかもしれないが、これは宿題としよう。
なぜ<土手の〜>と呼ばれていたか、ここには若干説明が必要だろう。
とにかく昔の記憶が生きていたことが素晴らしい。
結論から言えば
「吉田町は土手沿いに生まれ育った町である。」
江戸時代初期1667年に干拓事業が完成し、1669年には幕府より吉田新田の名が認められたことに始まる新田の歴史は、それまで深い入海だったこの地域の交流を深める道の誕生でもあった。半農半漁の野毛村、太田村と対岸の石川中村は、この吉田新田に橋が架かることで往来が盛んになった。
最も頻繁に利用されたのが現在の「長者橋」と「車橋」ルートで、野毛村と石川村は隣村となっていく。この人の流れは2つの村を繋ぐ現在の長者町1丁目から9丁目という町名にも現れている。
江戸時代、この道を通り石川村に出て横浜村に入り風光明媚な洲干弁天詣もさかんに行われたと想像できる。 ここに転機が訪れた。外国船から多くの異国人が降り立ち、横浜村の外れで外交交渉が行われ、この地が開港場となる。
1858年(安政5年)に日米修好通商条約が調印され、幕府は神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定め開国へと一気に舵をきることになる。
横浜は神奈川の一部なり!
と主張はしたが、東海道神奈川宿から横浜への交通は非常に不便であったことは紛れもない事実だった。そこで幕府は、東海道から開港場までの道を普請することを決める。芝生村(現在の西区浅間町)から開港予定地まで直線で繋ぐにはいくつかの架橋と峠の開削が必要だった。
工期3ヶ月の突貫工事で、架橋材は欄干に杉、杭には松を使用し人海戦術で「横浜道」が開港日直前に完成する。
・新田間橋、平沼橋(現・元平沼橋)、石崎橋(現・敷島橋)
・野毛の切通し
・野毛橋(現・都橋)、太田橋(現・吉田橋)
こうして横浜道の完成は開港の1日前だった。
実はこの工事、ピンはねで間に合わなくなり保土ケ谷宿本陣苅部家に泣きついてなんとか完成したというおまけまでついている。
この「横浜道」の完成によって、まず漁村野毛村が開港の街に変身する。
1859年(安政6年)6月4日だから開港後すぐに神奈川奉行所<奉行役所>が戸部村宮ヶ崎(西区紅葉ヶ丘、現・神奈川県立青少年センターあたり)に開設する。
太田村(現在の日ノ出町)には陣屋(警備本部)ができ野毛は役人と武士が通ういわば官庁街になった。
No.438 神奈川奉行入門

No.438 神奈川奉行入門


開港し道はできたが、開港場となる横浜村にはヒト・モノ・カネが大きく動く町普請が必要となる。
特に町普請には人と部材が集められる。
大きな荷物は船便で、小物は東海道から「横浜道」を使って開港場に搬入された。
前置きが長くなったが
この横浜開港場の町普請の要衝にあったエリアが「吉田町」だった。
当初、野毛から「野毛橋」を渡り吉田新田の端の石垣突堤堤(土手)脇道を使って「太田橋(吉田橋)」へと人とモノが流れた。
横浜にいち早く登場した商店街が「吉田町」だったと私は考える。
■幕末・明治初期の吉田町ビジネス
※資料で確認できた範囲での一覧です。
安政五年 清水組支店(清水喜助)建設業→現存
安政六年 飯田屋商店 米穀酒類販売
文久年間 小泉商店(遠州屋) 鰹節乾物
慶応二年 田中屋 茶小売業・両替業→現存
慶応三年 油屋小林商店 砂糖卸小売業
明治元年 武蔵屋 下駄小売
明治二年 武蔵屋呉服店 呉服商→移転現存
明治二年 大野屋 足袋販売
明治三年 駿河屋 新古衣類
明治三年 遠州屋(雪吹啓次郎) 新古衣類
明治四年 満利屋 人形・玩具→移転現存
明治四年 清水商店 乾物米穀問屋
明治初期 徳島屋呉服商 呉服商
明治六年 濱田屋呉服店 呉服太物卸小売
明治六年 萬屋石油米穀商 米穀油類卸小売
明治七年 伊勢屋金物店 金物販売
明治九年 山田時計店 時計金属美術商
一覧を見れば明らかなように
吉田町に拠点を構えて大成功したのが「清水組」現在の清水建設である。

<川の奥白い社屋が清水組。左手が柳橋、右側が現在の桜木町に位置する>
人が通れば商いが生まれる。現在も吉田町に店を持つ「田中商店」は幕末、この地でお茶を飲ませる商いを始め成功する。
新田が開港場のバックヤードとして変化する中、干拓地(新田)の整備が行われ、運河の町が登場する。
関内と関外を分ける運河、派大岡川と堀川の護岸整備が進み、土手の吉田町裏に柳町が誕生し、対岸には湊町が整備される。

柳町・湊町

さらには野毛浦地先に鉄道用地が内田清七によって埋め立てられ、桜木川・大岡川・派大岡川が交わる運河の十字路が誕生する。後に吉田町となる柳町はその名の通り、運河岸に柳木が植えられ、船着き場も作られ荷揚げ場として昭和まで使われることになる。 <昭和20年代の吉田町派大岡川岸。貸しボート店が賑わっていた>
吉田町の<土手>には吉田新田の土手と同時に岸辺・船便が活用された運河の街という2つの意味合いがこめられているのだろう。

第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」

第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」


第949話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」2

第949話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」2

3月 5

第950話 【大岡川】千秋橋の謎

今回は謎のみで<解いていません>
(大岡川運河群の誕生)
大岡川下流域はかつて大きな入海で、江戸期に吉田新田が干拓で誕生します。この吉田新田の誕生によって「大岡川」「中村川」「派大岡川」が誕生します。
この時点では、新田の中央に灌漑用水路として「中川」がありました。川というより田畑に水を供給した用水路であったと思われます。

開港後に都市化が急速に進み、郊外化が進み吉田新田が徐々に市街化されていきます。
開港によって吉田新田に最初に誕生した街(ストリート)は現在の「吉田町」通りです。※
開港直後はまだまだ沼や灌漑用の小河川が多く住宅地としてはいろいろ不便な点が多かったようですが吉田町は新田の堤に沿って「吉田橋」へと続く道として発展していきます。
第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」

第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」


幕末10年が過ぎ明治に入ってから横浜は日々大きく変化していく街でした。
吉田新田が都市化される中で、真ん中にあった<中川(灌漑用水路)>が「吉田川」「新吉田川」に変身し、派川として「富士見川(後に埋立)」「日ノ出川」「新富士見川(富士見川)」「堀川」「派大岡川」など運河群が整備されていきます。
川には橋が架けられ
運河とともに「橋」も横浜の重要な交通の要所となっていきました。

<千秋橋>
今日のテーマ「千秋橋」がなぜ謎なのか?
明治30年ごろまで「千秋橋」は無く、土手となっていたようです。
堀割川から新田に入り「新吉田川」「吉田川」となり「派大岡川」に合流するのですが、吉田川は上流が「新吉田川」下流を「吉田川」と呼んで<新>と<旧>とに分かれていた時期がありました。
ではどこから「吉田川」なのかというと「千秋橋」あたりです。
「千秋橋から蓬莱橋までの400mが「吉田川」で、」という資料もあるように、
吉田川があって、そこに新吉田川が繋がった訳ですが
土手の部分が、長者町にあたります。
下記は明治14年測量の横浜を細かく描いた地図です。

明治14年測量図より

地図では石川町車橋から野毛側長者橋に続く「長者町四丁目」と「長者町五丁目」が途中堤で繋がっていることがわかります。
長者町は関内外の数ある町内の中で<珍しい町域>を持っています。
長者町は吉田新田域を唯一横断している<町>です。
その距離約1kmで『横浜沿革誌』によれば1870年(明治3年)6月頃に長者町の地名が付けられたとあります。
この長者町のど真ん中が「千秋橋」にあたりますが、
そもそも橋では無かったようです。
もう一つの地図も紹介します。

明治25年横浜真景一覧図絵

明治25年に描かれた「横浜真景一覧図絵」のクローズアップです。
この地図にも「千秋橋」は無く、堤が示されています。
長者町が繋がっていることと、この地図から
明治初期の一定期間ここには橋が無く、陸続きだったことがわかります。
その後、運河整備のために下流の「吉田川」
堤を挟んで上流の「新吉田川」がつながり、
そこに架かった橋が「千秋橋」ということになります。
取り合えず 手元の資料だけでの推理ですのでご了承下さい。
※吉田町は1862年(元治元年)に、元町とともに関外で初めてできた街である
『吉田町の研究』p11。

2月 24

第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」

・横浜絵の誕生
開港後、初代イギリス公使オールコック(Rutherford Alcock)が「人の住まぬ湾のはしの沼沢から、魔法使いの杖によって、日本人商人たちが住む雑踏する街ができた」「魔法使いの杖 の一振りによって茸の生えた一寒村が一瞬にして国際港と化してしまった」
と表現した横浜は徳川幕府末期に花開いた<経済・外交特区>として誕生しました。
横浜開港の表現を”一寒村”とする<元凶>の一人がcolonialismの真っ只中に生きたオールコックですが、確かに居留地には外国人が次々と移り住み、多くの商館やホテルといった洋館が日本人の手によって建てられていきます。
この時の様子が克明に描かれたのが「横浜絵」です。この横浜絵は当時を知る資料価値としても注目されています。
・横浜浮世絵
No.401 短くも美しく

No.401 短くも美しく


外国人の風俗をモチーフとして制作され短期間に売り出された横浜浮世絵(横浜絵)はおよそ八百数十点にも及びます。

中でも私は五雲亭貞秀 作「横浜鉄橋之図」が好きです。

「横浜鉄橋之図」

■五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」(大判横6枚)
横浜絵の第一人者である五雲亭貞秀は精密で鳥瞰式の一覧図を多く描いています。下総国布佐(現千葉県我孫子市)に生まれた貞秀は初代歌川国貞の門人として錦絵を学び五雲亭、玉蘭斎の画号で多数の作品を残しました。
「貞秀の作品は他の作者にくらべて写実的であるといわれ、歴史資料としての価値も高いといわれています。(開港資料館)」
この「横浜鉄橋之図」は横浜開港のシンボルの一つで1869年(明治2年)に燈台技師ブラントンの設計によって完成した「鉄橋」と呼ばれた吉田橋を描いたものです。
この作品は翌年の明治に入って間もない1870年(明治3年)に描かれました。
開港から11年目という短時間にこれだけ整った風景が誕生し維持された当時の人々の英知に感動すら覚えます。

■甍の波
五雲亭貞秀の洋館の描写も秀逸ですが
私は日本人街の描写が好きです。珍しい洋館やメインモチーフの「鉄橋」はデフォルメしたとしても、見慣れた日本人の住宅風景は素直に描写していると感じます。
「野毛橋(都橋)」は前回のブログで紹介しました。
第947話【横浜の橋】リユース都橋(みやこばし)

第947話【横浜の橋】リユース都橋(みやこばし)


開港時に突貫工事で完成した「横浜道」で一躍脚光を浴びた野毛橋は関内外発展により架替てその名を「都橋」と改名します。
木製の太鼓橋だった明治3年「野毛橋」の様子をこの横浜絵で知ることができます。
今回、
この作品を拡大してそこに描かれた当時の風景を少し読み解いてみたいと思います。
気になった「野毛橋」あたりをクローズアップしてみました。

野毛橋あたり

・吉田橋と野毛あたり
吉田町と野毛橋の付近の絵図には
太鼓橋を渡る二頭だての馬車と
すれ違う人力車
魚を天秤棒で運ぶ魚屋らしい姿が描かれています。

吉田町の通りには
女性と子供が不思議な乗り物に載ってる姿が描かれています。
「駕籠」の一種でしょうか、運び辛そうです。
後ろからは馬上のお付きが従っているようにも見えます。そのすぐ横に洋犬が一匹描かれていますが、この一行が連れている犬と思われます。

また
この様子を二階から興味深く眺めている物見遊山風の人物も描かれています。
もう少し引いて見てみます。
野毛橋より下流左岸には米が積まれている店舗とさらに下流には「渡船役所」が描かれています。川沿いに柳や松、桜の木樹があり、荷物を積んだ船が何艘か見えます。大岡川を使った水運の賑わいが感じられます。一方 野毛橋を越え野毛の町に入ると子ノ神社の鳥居があり神社を回り込むように道が野毛山の方向に向かっています。

他の資料からも「野毛橋(都橋)」を見てみましょう。

都橋

鉄道敷地埋立前夜

この「横浜鉄橋之図」の野毛浦近辺に戻ります。ここは明治4年に始まるまさに横浜駅開業前夜の風景です。
「馬車道」「姥が岩」の文字も読むことができます。
鉄道前夜、鉄の橋近辺の読み解きは別の機会に譲ることにしましょう。

2月 3

第947話【横浜の橋】リユース都橋(みやこばし)

※なんとサボりにサボって2018年初ブログです。まずは慣らし運転で。

大岡川の橋を良く渡ります。
中でも「都橋」を渡ることが一番多く、好きな橋でもあります。橋には<蒲の穂>をモチーフにしたレリーフが飾られています。親柱の電灯にも重厚感があります。時折カモメが止まっている風景は港街を感じさせます。
「都橋」これまでもこのブログで何回か書いています。まずはこれらをちょっとまとめてみました。
No.425 川の交差点、都橋界隈

No.425 川の交差点、都橋界隈


【番外編】 1月29日謎解き都橋

【番外編】 1月29日謎解き都橋

都橋は鉄道が初めて開通した1872年(明治5年)に「野毛橋」から改名した橋です。
野毛橋は幕末に「横濱道」が突貫工事で開通したことによって一躍重要な橋となりました。

「野毛町一丁目往還北側茅屋を毀ち、道路を改修し、野毛橋を毀ち、更に北方へ凡そ三間位置を換へ、橋台を築造し、無杭木橋に改造し、都橋と改称す同月野毛橋の古材を太田村に移し、以て栄橋を架す。」

埋立と護岸整備が進み、
幕末期に架けられた野毛橋の位置より三間(約5m)上流に都橋が架替えられます。当時の絵地図から類推すると、当初は子の神社脇を通り野毛橋へと繋がっていた<横浜道>が整備され道筋変更に伴い橋の位置も変わったようです。
(再生)
野毛橋の部材を再活用し上流の栄橋を架けたとあります。
リユースですね。
1882年(明治15年)に都橋は木橋から鉄橋に代わり、関東大震災で被災、しばらく暫定の木橋が架けられていましたが、1928年(昭和3年)7月に震災復興橋として生まれ変わります。この時に中村川に架かっていた「共進橋」の親柱を再活用され完成しました。 橋梁部材は、江戸期<木製の時代>から今日の鉄骨の時代まで時折条件次第で再利用されてきました。大岡川下流域では、西之橋が浦舟水道橋として再生されました。新山下の「霞橋」も部分的リユースです。
(都ぞ春)
都橋の「都」は、9世紀後半に古今和歌集で素性法師が詠んだ「見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」に因んでいます。すでに大岡川本支流に架かっていた「柳橋」「櫻橋」を元に鉄道用地埋立で作られた櫻木川(櫻川)に架かる「錦橋」と共にこの句が当てられたと思われます。
第885話【横浜の橋】都ぞ春

第885話【横浜の橋】都ぞ春

12月 22

第944話 中世の横浜(2)

歴史上横浜市域における<いくさ>はあまり多くなかったようです。
中世期に 幾つか横浜の戦いがありました。
横浜の中世史に関心のある方に横浜の<戦場>は?
と質問すると、
多くの方が挙げるのが、緑区の「小机城」
神奈川区の「権現山」です。
さらに
御家人畠山重忠の終焉の地「鶴ケ峰古戦場(旭区)」を中世の<戦場>とする資料もあります。
これらの<いくさ>は室町幕府の権力が完全に失墜した乱世を背景に起こったものです。
舞台としては600年あまりの長い中世末期、応仁の乱以降に始まった「戦国時代」でした。
平安時代が保元の乱・平治の乱で終わりを告げ、東西に分かれ源氏と平家の勢力闘争が起こります。もののふの登場です。
西の京都は平家、平清盛が太政大臣となり実権を握りますが、東国の源氏が反転し、平家が壇ノ浦で破れ鎌倉時代となります。
海の平家が陸の源氏に、舟の平家が馬の源氏に負けたという表現もできるでしょう。
このころの横浜市域でのできごとは
伊豆から逃げる源氏の反転の舞台となりました。
幾つかの劇的な<いくさ>を経て、鎌倉に幕府が開かれ横浜市域には<かまくら道>が整備されます。
源(みなもと)から北条に政権が移るも鎌倉の地は京都から離れた政治の中心地を維持することになります。初代執権北条時政による北条氏体制を決定づける<いくさ>といっても<謀略>ですが、
1205年(元久2年6月22日)畠山重忠の乱が起こります。
武蔵国二俣川、現在の旭区鶴ケ峰あたりです。
この近くには畠山重忠が戦って敗れた北条氏の一万騎兵に因んだ「万騎が原」の地名も残っています。
※畠山重忠は「坂東武士の鑑」と呼ばれ源頼朝の信頼が厚かった御家人の一人で、埼玉県に居館等があったことで埼玉の偉人の一人をなっています。
1333年(元弘3・正慶2)新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼし、南北朝分裂を経て足利尊氏により室町幕府が始まります。
この足利政権末期に各地で武士たちの群雄割拠が始まり、戦国時代へと時代は変わっていきます。小机の戦いはその前哨戦とでもいえるでしょう。
(小机の戦い)
謎多き応仁の乱が収束に向かった
1478年(文明10年)太田道灌(おおた・どうかん)がお家騒動、家督争いにより起こった長尾景春の乱を最終的に小机城攻めによって落城させた戦いを「小机の戦い」といいます。ことの発端は家督争いですが、長尾景春も太田道灌もこれまでにない新しい知略による<いくさ>を展開した武将で、両者の戦いは南関東全域を舞台に歴史的な戦いとして注目に値します。
中世の戦いの特徴の一つに、お家騒動、嫉妬、恨み等、怨恨?に起因するものが多く起こります。前述の畠山重忠の乱もそうです。
“武士道”にはほど遠い?お家騒動連発の時代です。その結果が戦国時代、下克上へとなっていきます。

この小机城、
鶴見川を防衛の要素に取り入れた城です。後北条氏が縄張りを整備し標高42m(比高22m)の根小屋風・連郭式平山城です。
道灌は、この小机城を攻めるため鶴見川を挟む対岸に、亀之甲山(かめのこやま)城を築き拠点として持久戦を用い
2月6日から攻め4月11日にようやく落城させます。

権現山の戦いは
第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い

第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い

第911話 中世の横浜を理解する(1)

第911話 中世の横浜を理解する(1)

12月 20

第943話【今無い風景を読む】汽車道と北仲通の壁模様

1997年(平成9年)に開通した汽車道(開港の道)を渡る折、

開通直後の汽車道

桜木町駅から日本丸の脇に立つと、いつも気なる風景がありました。
帝蚕倉庫の壁に設置されていた「Panasonic」の光学ディスクをモチーフにした広告です。
それ以上にこの壁に這うツタの葉が描く<模様>に釘付けとなったことを記憶しています。
この風景、一服の絵画に見えませんか?
森の中に一軒の家が建ち、冬には枯れ、秋には色づき四季の変化もありました。
私が汽車道を良く渡るようになったのは2000年頃からです。それから17年、汽車道の木々も成長し、何と言っても周辺の景色が大きく変わっていきました。
汽車道、運河パーク内を通るこの道はその名の通り、明治以来汽車が通る鉄道線でした。1989年(平成元年)に横浜博覧会で使用されたのを最後に廃線となり、閉鎖されていましたが、再整備が決まり山手まで繋がる<開港の道>の入口です。この道は
桜木町から明治期に整備された「新港埠頭」現在の象の鼻パーク、大さん橋、山下公園、そして山手ふらんす山を経由する遊歩道です。
撮影の頃、新港埠頭近辺には大きな商業施設、横浜ワールドポーターズがありませんので、1990年代の風景です。 1980年代、1990年代、2000年代、2010年代
このエリアは 10年単位で大きく変貌してきました。
横浜市内で今、
最も変化し続けている空間といえるでしょう。

12月 14

第942話【謎解き】吉田橋広場

今年は馬車道150年です。
1867年(慶応3年)に「吉田橋」から関内を通り抜ける広い道路が整備されたことに因みます。
この「吉田橋」から続く<広い通り>は地元の人たちに通称「馬車道」と呼ばれるようになり、その後区画整理を経て現在の「馬車道通り商店街」となりました。 この吉田橋を渡ると伊勢佐木町の繁華街が日枝神社近くまで続きます。
もう一つ
「吉田橋」袂から斜めに「吉田町商店街」が野毛へと続きます。 この吉田橋際に立ってみると、馬車道側に不思議な空間があります。
かつて
「丸井横浜関内店馬車道館」があった場所でした。 1980年(昭和55年)に開店
2000年(平成12年)に閉店しその後高層マンションとなっています。
当時、この広い空間は丸井馬車道の敷地だと思っていましたが、その後丸井が撤退しマンションが建つ計画が公表された時に、この空間が公共の土地であることがわかりちょっと驚いた記憶があります。

一方、伊勢佐木口側は昔、馬車道側より広く長い広場(広い空間)がありましたが今は無くなってしまいました。この広い空間には一時期運河沿いに「警察署」が建ちその後デパートが伊勢佐木のシンボルとなった時代があります。この<不自然な>広場は共に、関内に街路が整備された頃から他の道路とは異なり、誕生しました。なぜ?ここに広場のような空間が存在したのでしょうか?
私の結論から先に紹介します。
吉田橋<関門>あたりはかつて関内外の主要関門であったため、交通量が多く関門周辺に<滞留空間>が自然と出来上がったのだと推理しました。

場所を馬車道側に戻します。
この空間について資料を調べるキッカケとなったのは一枚の写真でした。
最初に紹介しましたように、馬車道側に明治期から現在まで不思議な広場が存在していたことは、過去の風景写真によって明らかです。明治期の地図でも明確にこの空間が示されています。慣れとは恐ろしいもので、何度となく見ていたはずの<この空間>の不自然さに全く気が付かなかったのです。

偶然入手したこの一枚の写真、裏面のメモから1953年(昭和28年)頃に撮影されたと思われます。
街路樹のエッジに白い像が建っています。ロダンの考える人をイメージさせる腕を曲げ顎を支えているかのようなポーズです。
戦前の風景には見当たりません。
終戦直後の米軍進駐時の写真にもありませんでした。
戦後復興期に短期間設置されたようです。
何故短期間かというと、1958年(昭和33年)5月8日の写真にはこの白い像が別のものに変わっていたからです。この年、開港百年祭が行われ、その時の様子が広瀬始親(ひろせもとちか)氏が記録していた写真集に収められていました。ここにはトーテムポールようなものが設置されています。
再度、白い像のある写真を拡大してみると背後に石燈籠のようなものも二基設置されています。
馬車道の老舗で伺っても記憶に無いとのこと。
まだ この謎は解けていません。