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第886話【横浜の記念式典】復興記念横浜大博覧会

■復興記念横浜大博覧会

◎開催期間:
1935年(昭和10年)3月26日から5月24日
◎開催会場:
山下公園を含む山下町一帯(約10万平方メートル)
◎開催内容:
「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。(乃村工芸)」
◎来場者数:
のべ3,299,000人
二ヶ月で約330万人が入場という記録がありますが、「山下公園一帯」に60日、一日あたり5万人以上の入場者があったということです。あくまで平均です。
新聞記事を探って、一日の入場者の動きを追いかけてみました。
3月26日(水)から5月24日(金)という曜日は土日を加味していませんね。
3月26日(水)から3月31日(日)62,340人
4月7日(日) 一日入場者65,000人
4月14日(日) 一日入場者75,043人
4月21日(日) 一日入場者78,000人
〜4月23日(火) 累計75万人を突破
〜4月29日(月) 昭和天皇誕生日(天長節)に累計100万人達成
5月1日(水) 一日入場者118,500人
5月2日(木) 一日入場者3万余人
5月5日(日) 一日入場者20万人突破
累計1,423,527人に。
5月7日(火) 午後一時延べ入場者150万人達成
5月19日(水) 一日入場者30万人
累計2,279,377人
最終結果
5月24日(金)
累計3,299,000人となっています。
実に残り5日間で100万人が入場ということですから、驚きです。
横濱市も予想を超える入場者に驚きを隠せない様子が報道資料からも読み取れます。

ここに300万人が!(現在の山下公園) 山下公園図

◎関連ブログ

【記念式典】横浜、金のシャチホコ

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント
(復興記念)
一概に比較できませんが、1923年(大正12年)に起こった関東大震災から12年後にこの「復興記念横浜大博覧会」が行われましたが、
<震災復復興宣言>は
震災後7年目、亡くなられた方に対し七回忌に間に合わせたのか判りませんが、
内務省と東京府、東京市は1930年(昭和5年)3月に終結宣言します。
横浜市は復興記念の日を4月23日と宣言し「復興記念祭」を開催しました。
この時、昭和天皇からは
「お祭り騒ぎにならぬやう」と釘を刺されたそうです。
横濱では市役所、公立学校を休みとし、横浜公園他で式典が行われました。
2017年
東北の復興宣言は何時になるのでしょうか。

■まだまだ読み込んでいない興味ある資料があります。
横浜で開催された戦前最大級の<博覧会>ここで実施された<関連事業><関連イベント>を通して、四年後にこの国が開戦に至る歴史の<隘路>の断片が見えてくるように思います。
このテーマさらに追いかけます。

第885話【横浜の橋】都ぞ春

開港時から明治期にかけて、横浜開港場界隈に架かる<橋>数数あるなか
知名度なら「吉田橋(派大岡川)」でしょう。
明治初期、開港場付近の橋といえば?
辨天橋・大江橋・前田橋・西之橋・谷戸橋・湊橋・豊国橋 他
居留地と外を結ぶ<関門橋>があり、多くが現存しています。
中でも吉田橋は、関内外を結ぶ橋として一際注目されてきました。
横浜の重要な道を繋ぐという視点で<橋>を眺めてみると
「都橋」が横浜発展の要となっていたことに気がつきます。
「都橋」は
1872年(明治5年)7月
「野毛町一丁目往還北側茅屋を毀ち、道路を改修し、野毛橋を毀ち、更に北方へ凡そ三間位置を換へ、橋台を築造し、無杭木橋に改造し、都橋と改称す同月野毛橋の古材を太田村に移し、以て栄橋を架す。」
開港時「野毛橋」と称していました。
東海道から帷子川の越え、野毛坂を越え「野毛村」と突貫工事で切り開いた開港の道(横浜道)は「野毛橋」で大岡川を越え吉田橋関門へとつながる重要な橋の一つでした。
この「野毛橋」の架かる一帯の整備が行われ、
道路を改修、新しい橋に架け替えられます。
この時に、名称を「都橋(みやこはし)」と一新するのですが、
なぜ「みやこはし」となったのか?
オツな話が伝えられています。
古今和歌集56番
「見わたせば
柳桜をこきまぜて
都ぞ春の錦なりける」素性法師
“ここから眺めてみると、
柳の緑と桜の色とが混ざり合って、
都が春の錦のようであることよ”
といった美しい春の風景を詠っています。
見渡せばとあるので 何処か高いところから見下して詠ったものですので
野毛に置き換えれば<野毛山>からの眺めと重ねたのかもしれません。
実は
「見わたせば柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」の
歌中にある<柳><錦>から
都橋下流の大岡川と派大岡川、桜川と川の十字路となっていたところに
「柳橋」と「錦橋」が架かっています。 この2つの橋と桜川をかけて
ちょうどよい歌を引用し「都」橋と名付けたそうです。

#大岡川の橋

第884話【今日の横浜】4月2日リベンジ横浜!

 万治2年2月11日(1659年4月2日)
横浜の原点となった「吉田新田」の第二回鍬入れ(再開)の日です。 旧暦では2月11日ですが、ここではネタ用に西暦を使わせていただきます。
実は 吉田新田干拓計画はさかのぼるところ
1656年9月5日
明暦2年7月17日に江戸の吉田勘兵衛が江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得て、入海の新田づくり鍬入れ式を行います。
ところが
1657年6月21日
明暦3年5月10日に新田工事の最中、13日まで大雨が降り続き
6月24日に潮除堤が崩壊し干拓工事事態が中止に追い込まれます。
これに屈すること無く、吉田勘兵衛は新田開発再開を決意、
万治2年2月11日(1659年4月2日)に
再開の鍬入れが行われました。この再開の決意がなければ現在の横浜はどうなっていたのでしょうか?
様々な想像ができます・
ただ、大岡川の隣を流れる帷子川に見られるように 大岡川河口もしばらくして複数の干拓事業が行われたでしょう。地権者が増えることによって このエリアの発展がスムースに進んだか? その後も沼地のままになったかもしれません。  今年は、「吉田新田完成350年」にあたります。
一人の事業者によっていち早くこの一帯が整備された意義は大きいのでないでしょうか。
吉田新田事業「土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島」から持ってきたそうです。

(吉田新田前史)
今から約350年以前の横浜エリアは、山手から砂嘴が突き出し、その内側には大岡川の河口から釣鐘形をした深い入り海が広がっていました。
このくちばしのような<砂嘴>の突先に 弁天様が祀られ
洲干弁天と称しました。 1170年代、12世紀の治承年間 源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝えられています。以降、850年近く経ちます。
■枕詞を疑え!!
少々余談となりますが、横浜史の枕詞(まくらことば)に
「入江の砂州上の寒村であった横浜村の更に先端にあり」
「戸数約100戸の半農半漁の寒村・横浜村(今の関内地区)」
と決まってペリー来航以前を<寒村>をしますが、
私は違和感を感じます。ここが<寒村>とするなら 日本中の豊かな村とはどんな村なのか?問いたい!
国語辞典にも「かん‐そん【寒村】 の意味 貧しい村。さびれた村。」
「洲干弁天社は開港前から景勝地として知られ、開港後は開港場の中心をなす横浜町の入口に位置することから、横浜名所の一つとなり、茶屋などが集まった。(開港資料館)」
と近年 横浜村周辺の表現が変わりつつあります。
→横浜村風光明媚論は追って書きます。

<簡単横浜の新田史>
1640年代(慶安年間)には元町1丁目の増徳院が別当となります。
1656年(明暦2年)吉田勘兵衛、江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得ます。
1656年(9月5日)(明暦2年7月17日)吉田新田 鍬入れ式が行われます。
1657年(6月21日))明暦3年5月10日)から13日(6月24日)まで大雨で潮除堤が崩壊
★1659年4月2日(万治2年2月11日)
吉田新田 工事を開始 土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島から
1667年(寛文7年)吉田新田 完成
1669年(寛文9年)功績を称え新田名を吉田新田と改称
1674年(延宝2年)公式の検地、新田村となった。
1707年(宝永4年)宝永大地震の49日後に、富士山が中腹から大噴火
1761年(宝暦11年)検地を受け宝暦新田(大新田)<干拓洲>となる。
1779年(安永8年)検地を受け尾張屋新田<2町7反>となる。
1780年(安永9年11月)検地を受け安永新田<干拓洲>となる。
1817年(文化14年)検地を受け藤江新田となる。
1818年(文化15年)「横浜新田」の名が初見(完成は?)。
1830年(天保年間)程ヶ谷宿の豪商 平沼家と岡野家が大規模な埋め立てを開始。
1833年(天保4年)岡野新田鍬入れ
1839年(天保10年)検地を受け岡野新田となる。
1845年(弘化2年9月)検地を受け弘化新田となる。
1853年(嘉永6年)「太田屋新田」完成。
1854年 3月8日(嘉永7年)アメリカ海軍提督ペリーが黒船を率いて日本へ2度目の来航をし、横浜村へ上陸する。
1859年11月10日(安政6年)太田屋新田沼地を埋め立てて港崎町を起立し、港崎遊郭開業。
1859年6月2日(安政6年)横浜港が開港する。久良岐郡横浜村が「横浜町」と改称。運上所周辺には駒形町が、太田屋新田の横浜町隣接地には太田町
1864年(元治元年11月)野毛山下海岸を埋立て石炭倉庫6棟竣工。
1864年(元治元年)さらに検地を受け岡野新田拡大。
1867年(慶応3年)慶応の大火事の復興工事、町は和風から洋風への建て替えが始まり、石造りの洋風2階建ての「神奈川奉行所」完成。それを期に「横浜役所」へ名称変更。馬車道が開通する。
1868年8月(慶応4年)横浜町と太田町をあわせて二地区(上町・下町)に分け、5名の名主が担当した。
1869年(明治2年)洲干弁天社が移転。
1869年(明治2年3月)花咲町6丁目の内田清七、福島長兵衛ら県より請負い吉田橋北詰より野毛浦までの埋立てに着手。
1870年(明治3年)町屋の整った地域に長者町・福富町の二町が起立。
1871年7月(明治4年)横浜町と太田町の区域に正式に町名を付ける。本町・南仲通・北仲通・弁天通・元浜町・海岸通・堺町・太田町・小宝町・相生町・高砂町・住吉町・常盤町・尾上町・真砂町・港町・駒形町・羽衣町
1871年8月(明治4年)横浜関内各町を五区に分け、各々1名の名主が担当する。
1872年11月28日(明治5年)横浜役所は「横浜税関」へ名称変更。
1873年(明治6年)南一ツ目にあった遊水池(沼地)埋め立て、寿町ほか7か町が起立(埋地7か町)。
1873年5月1日(明治6年)神奈川県を20区に分け、区下に複数の番組を編成。横浜町は第1区1番組に編入される。
1873年5月1日(明治6年)平沼新田のうち、横浜道沿いの町屋が形成されていた箇所に平沼町が起立する。大区小区制により神奈川県第1大区3小区に属した。
1874年6月14日(明治7年)大区小区制に伴い、第1大区1小区に編入される。この頃伊勢佐木町ほか数町が起立
1876年(明治9年)洋式の公園「横浜公園」が開園。
1878年(明治11年)郡区町村編制法により以前の新田村が復活し、久良岐郡平沼新田、橘樹郡岡野新田に戻るが、平沼町は横浜区に編入された。(久良岐郡より独立)
1878年11月21日(明治11年)郡区町村編制法に基づき、横浜区となる。(久良岐郡から分離)
1878年7月(明治11年)市街地化した南三ツ目・北四ツ目までが横浜区に編入
1880年(明治13年)南三ツ目に高島町遊廓が移転
1889年(明治22年)市制町村制が施行され、平沼新田は久良岐郡戸太村に、岡野新田は橘樹郡保土ヶ谷村に、平沼町は横浜市にそれぞれ編入される。
1889年(4月1日)明治22年 市制施行により関内全域が横浜市となる。久良岐郡吉田新田から久良岐郡戸太村大字吉田新田となる。
1894年(明治27年)横浜港鉄桟橋(現:大さん橋)が完成する。
1895年(7月1日)明治28年 町制施行により久良岐郡戸太町大字吉田新田に。
1901年(明治34年)戸太町(戸太村が町制を施行)と保土ケ谷町の一部が横浜市に編入され、西平沼町と岡野町が置かれる。
1901年4月1日(明治34年)横浜市に編入。大字吉田新田の地に南吉田町を起立。全域が市街地となる。
■ざくっと一覧にして
関内外エリアがあらためて 埋立ての町=運河の町であることがわかります。
No.701 運河の街誕生(序章)

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

番外編ですが
掘割川の話です。ちょっと力作(自分的には)
No.437 横浜ドラゴンズ、吉田さんに斬られる!

第881話【時折今日の横浜】3月30日4mの背伸び

1934年(昭和9年)3月30日
「横浜税関庁舎(クイーンの塔)竣工(横浜税関百二十年史)」
横浜三塔の一つで三塔の内で、昭和に竣工したのがクイーンと呼ばれる「横浜税関」です。設計は<横浜税関>によると
「吉武東里氏(国会議事堂も設計)と伝えられているが、詳細は不明」としています。
その他の資料の多くは「吉武東里設計、戸田組施工」と表記しています。
何故?本元とデータが違うのか 良く判りません。
(4mの背伸び)
三代目横浜税関建設にはエピソードが残されています。
「関東大震災(大正12年)で税関庁舎も倒壊。その後、財政窮乏の続いた時代に、税関の仕事は平屋のバラック建で行われていた。そんな折り、時の大蔵大臣高橋是清が「失業者救済のため土木事業を起こすべき…」との発言。
1932年(昭和7年)第22代税関長に就任した金子隆三は、この意を受け
失業者救済をかねて三代目税関庁舎(現庁舎)建設に着手し、急ピッチで建設が進められます。
この時に、横浜港界隈には“神奈川県庁(高さ49m)”と“横浜開港記念会館(高さ36m)”という当時の高層建築物が2つランドマークとなっていました。
塔の高さ47mの税関庁舎の当初の設計図を見た金子税関長は「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき…」と言及。設計図が書き直され、当初より4m高い現庁舎“横浜税関(高さ51m)”が完成したそうです。」

だからですかね、たしかに 少し首長に見えます。
竣工データは
SRC造、地上5階+塔屋。敷地面積が6,875m2、延床面積が12,184m2です。

(簡単な横濱税関史)
安政元年、米国との間に「日米和親条約」が結ばれます。
安政五年に「安政五カ国条約」が締結されこの条約ににもとづき、日本(徳川政府)は
1859年(安政六年六月)
開港し関税と外交事務をあつかう部署「神奈川運上所」を設置します。
場所は、現在の神奈川県庁本館のある場所で記念碑が建っています。
1866年(慶応二年)の大火で焼失
1867年(慶応三年三月)再建
18871年(明治4年)組織変更に伴い「神奈川運上所」を「横浜運上所」に改称。
※歴史のif
神奈川県は横浜県となったかもしれませんね。
No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日

その後、
1872年(明治5年)11月
「横浜役所」における「運上所」を「税関」と統一し関東大震災前までは、日本大通りが横浜港とつながる現在の象の「鼻パーク一角」にありました。
1885年(明治18年)11月
二代目税関庁舎竣工。清水満之助の請負といわれています。<中央に塔を配した煉瓦造2階建ての2代目庁舎><冬の横浜税関>

関東大震災ですべて倒壊、

倒壊した横浜税関

1934年(昭和9年)3月30日
横浜税関現本関庁舎(クイーンの塔)が竣工します。

竣工間もない横浜税関

占領中新港橋から税関

1945年(昭和20年)8月30日
横浜税関本庁舎は接収されアメリカ陸軍第8軍司令部が置かれました。一時期、税関長室をマッカーサーが使用していたこともあるそうです。
税関業務は、仮庁舎で行われ
1953年(昭和28年)11月にようやく接収解除となり 現在の場所に戻ります。

第880話【絵葉書の風景】横濱乗物図鑑

車馬交通の最も頻繁なる桜木町通り

私のお気に入りの絵葉書の一枚です。
改めて見直すとこの<風景>少々 不自然さを禁じ得ない。
撮影を意図して、当時の乗物すべてをここに集めて撮影したとしか思えない構図となっています。
市内の乗物を一同に並べ 一斉に走らせ カメラマンはシャッターを切った!
という感じがしてならない。

(画像右から)歩道に女性が歩き
袋をいっぱい積んだ馬車と車夫
後続の馬車
人力車多数の自転車
高架に電車
自動車
市電(307番)上り線
横切る自転車荷車、大八車を引く人
空のものから満載まで多様な荷車が道路を走っている姿が捉えられています。
■撮影時期
大正13年〜昭和初期あたり
時刻は 午後3時50分あたり
■画像左のマールの建築は「神奈川県農工銀行」
明治31年〜昭和19年まで営業

昭和4年

「農工銀行(のうこうぎんこう)とは、日本全国各地に戦前に存在した、特殊銀行の一つ。」で戦後勧業銀行に吸収されました。
まるで 横濱乗物図鑑のような風景です。
空に航空機が舞えば パーフェクト、とまでは望むまい。

第879話【時折今日の横浜】3月27日日米接続

1901年(明治34年)の今日
「太平洋電線敷設に関する建議書を提出する。(横浜商工会議所百年史)」

日米の通信(太平洋の電線敷設)は、明治初期からの懸案事項でした。
日本における国際通信の歴史は意外に古く
1870年(明治3年)10月
日本政府はデンマークの電気通信事業会社「大北電信会社(グレート・ノーザン・テレグラフ株式会社)」に免許状を発行し、
1871年(明治4年)8月に事業が始まります。
まず長崎と上海が海底ケーブルで結ばれ、通信ビジネスが始まりますが、当時最も貿易量が多かった日米間の通信は中国から欧州経由で国際電報によって行わなければなりませんでした。
日米直結の太平洋ケーブル計画は、通信が欧州からアジアに開通した明治初期からの念願で、特に国内最大の対米貿易都市横浜にとって「太平洋ケーブル敷設」は悲願でもありました。
実はデンマークの電気通信事業会社「大北電信会社(グレート・ノーザン・テレグラフ株式会社)」が日本に通信ケーブルの陸揚げ申請をした時期に米国も日本政府に対し通信ケーブルの陸揚げ申請が出されています。
何故米国の通信事業が実現しなかったのか?
最初の申請がワシントンと函館等を結ぶものだったため<明治政府>は、横浜・長崎以外の接続(陸揚)を認めませんでした。
<明治政府の反応は江戸時代と変わらない発想ですが、米国もなぜ弱気の北米経由だったのか?>
日米間のケーブル通信が実現にはその後 かなりの時間を必要としました。
(日米接近)
日本の経済界にとって、特に横浜経済界にとって日米のダイレクトな通信回線設置は悲願でした。
1881年(明治14年)
日本国最初の外国首脳訪日となったハワイ王カラカウア王一行の正確な到着時間も(欧州経由)電信で伝えられ日本政府は歓迎の準備ができ、来日したハワイ国王とも太平洋通信計画が話し合われたそうです。
No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/03/34.html

(大谷嘉兵衛の奮闘)
1899年(明治32年)
横浜商工会議所会頭 大谷嘉兵衛は米国フィラデルフィアで開催された
第一回国際商業会議所会議に出席、日本代表として米国に建議書を渡します。
この建議書は、国際商業会議において<決議>され米国政府、米国議会に提出され、日米通信の機運が高まります。米国では1901年までの二年間で約18の太平洋通信の議案が提出されますが、ことごとく意見対立で廃案となってしまい実現することはありませんでした。

<アジア特に日本は欧米間と比べ空白地帯でした>
その後、米国政府の決定を見ぬまま 補助金無しでハワイ〜マニラまで
民間資本によって<ケーブル敷設事業>を開始します。
1903年(明治36年)
太平洋通信回線がサンフランシスコ〜ハワイ〜マニラまでが開通。
その後マニラ〜グアム〜父島間の回線とを繋ぎ
1906年(明治39年)8月1日
最終的に
太平洋が通信線で繋がることになります。
No.26 1月26日 横浜東京間電信通信ビジネス開始
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/01/126.html
(大正のロッキード事件)
大正時代には一通の電信が大問題となった「大正のロッキード事件」が起こります。
「シーメンス事件」です。
この事件も横浜が舞台でした。
No.23 1月23日 大正の正義
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/01/123.html

※絵葉書画像「日米海底電信直通紀年」
1906年(明治39年)8月1日の記念スタンプ

No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/01/122.html
No.345 12月10日(月)Tea or Coffee?

No.345 12月10日(月)Tea or Coffee?


No.112 4月21日 濱にお茶は欠かせない
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/04/421_21.html
日清戦争後、日本国内でも大北電信会社に依存する状態を懸念する動きがでてきます。
政府レベルとは違う民間の視点でも日米通信の実現を強く希望したのが横浜でした。

第878話【時折今日の横浜】3月26日

三渓園
1954年(昭和29年)の今日
現在、多くの市民に愛されている三渓園が“市民公園”として開園しました。
桜の季節に合わせての開園でしょう。
本牧にある三渓園は、横浜を代表する実業家であった原富太郎(原 三渓)が明治時代に作った自宅を兼ねた庭園です。
1906年(明治39年)5月1日には自宅でありながらその多くを市民に公開、戦前の横浜名所として賑わいました。
彼は多くの芸術家を支援、当時の鈍翁(益田孝)と並ぶ日本美術コレクターでもありました。
横浜が歩んだ悲劇の歴史を三渓園も受け、関東大震災と横浜大空襲で多くの建造物と美術品を失い戦後、原コレクションも散逸してしいます。
オーナーであった原家は、苦渋の売却を決意しますが開発事業者ではなく横浜市に活用を委ねます。三渓園の保全に積極的だった平沼亮三が横浜市長に当選したことで、三渓園の財団化が積極的に進められます。
1953年(昭和28年)に「財団法人三溪園保勝会」が設立され、本格的な再整備が始まり、1954年(昭和29年)の今日 開園し現在に至ります。
三渓園をめぐる関連ブログ
No.280 10月6日(土)天心と三渓

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No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け

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【横浜 三溪園】
www.sankeien.or.jp/
「三溪園は、横浜市中区にある庭園。17.5haの敷地に17棟の日本建築が配置されている。実業家で茶人の原富太郎によって1906年に造園され、現在は公益財団法人三溪園保勝会が運営している。名称の三溪園は原の号である三溪から。2006年11月17日に国の名勝に指定された。」

<三渓園の風景>

第877話【時折今日の横浜】3月25日

1929年(昭和4年)の今日
横浜市営交通八十年史の年表に
「神中鉄道と連絡運転開始(連絡駅は社線は西横浜駅、市電は水道道停車場)」

時代は、横浜市の関東大震災復興計画が仕上げの時期に来ている頃です。
横浜の街(関内外特に伊勢佐木あたり)にも“にぎわい”が戻りつつありました。
神奈川の鉄道関係者にとって、昭和初期は苦難と希望の時期に当たります。
この年表にあった「神中鉄道と市電の連絡運転開始」を元に、当時の「西横浜」停留所の意味を考えてみます。
<神中は程ケ谷を目指す>
神中鉄道、現在の相模鉄道にとって「西横浜」停留所開業は重要な意味がありました。神中鉄道は厚木から始まり、当初は国鉄「程ケ谷駅」近くで東海道線につなげる計画で延伸してきたからです。まだ、横浜駅が二代目(高島町)のころです。
1927年(昭和2年)5月に「北程ケ谷(現:星川)」停留所を開業し、さらに国鉄東海道線を目指します。この年、保土ケ谷エリアは念願の横浜市に編入「保土ケ谷区」となり区役所も国鉄保土ヶ谷駅近くに開設します。
いよいよ東海道線との接続を実現するため「西横浜」停留所までの延伸計画を進めますが、震災で甚大な被害を受けた二代目横浜駅が廃止、三代目(現在の場所)となり、東海道線も弓なりだった路線が平沼を抜けほぼ真っすぐ程ケ谷駅と結ぶ新線が1928年(昭和3年)に完成します。
そこで、市電網の充実を復興計画の一環として計画していた横浜市は、神中鉄道「西横浜」開業に伴い、接続駅「水道道」停車場を1929年(昭和4年)3月25日に開業します。
これによって、
関内に竣工した新県庁にもまた市役所にもアクセスが確保できることになります。
1929年(昭和4年)2月14日に開業したこの「西横浜」停留所と3月25日開業の市電「水道道」停車場の<乗り継ぎ接続>は重要なポイントでした。
以降、神中鉄道は計画線を変更し、新しい東海道線に沿って
新しい「横浜駅」を目指します。
(相模鉄道延伸)
現在の相模鉄道の前身神中鉄道、延伸史をまとめてみました。
[厚木]〜大正15年5月12日〜[二俣川]
[二俣川]〜大正15年12月1月〜[星川](現:上星川)
[星川]〜昭和2年5月31日〜[北程ケ谷](現:星川)
[北程ケ谷]〜昭和4年2月14日〜[西横浜]
[西横浜]〜昭和6年10月25日〜[平沼橋]
[平沼橋]〜昭和8年12月27>〜[横浜]
<相鉄の簡単な歴史>
http://sotetsu-kids.jp/sotetsu/rekishi.html

(その他の3月25日)
■1959年(昭和34年)3月25日
「大黒町埋立完工式〔1.33〕(横浜の埋立)」
「大黒町地先埋立工事竣工式(横浜市会の百年)
「大黒町埋立工事竣工式(横浜税関百二十年史)
■1981年(昭和56年)3月25日
「市が開発した水の缶詰発売(横浜市会の百年)」
水の缶詰・・現在も横浜市水道局各営業所で販売(350ml入り50円)しています。
この缶詰は5年間保存可能で、缶入りなので遮光されています。
透明のビニール袋等に入れておくと、保存中に飲み口がほこりなどで汚れることがありません。
http://www.city.yokohama.lg.jp/…/life-inf/mizu/hozonsui.html
応急給水拠点
水道水の缶詰は
横浜市が全国で初めて昭和48年水道水の缶詰に製造計画に着手し
「全国に先がけて、昭和52年に災害備蓄用の保存飲料水として「水の缶詰」を販売しています。(水道局)」
■1989年(平成元年)3月25日
市政100周年・開港130周年記念「横浜博覧会」開幕
<開催期間は1989年(平成元年)3月25日〜10月1日>
開会式は3月24日です。
横浜博覧会関係はこのブログでも3月24日で紹介しています。
No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催

No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催


No.191 7月9日(火) 宙に舞う話

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No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催


「横浜博覧会」開幕と一緒に横浜美術館も開館しています。

(3月25日関係ブログ)
No.85 3月25日 日本の運命を変えた男横浜に入港

No.85 3月25日 日本の運命を変えた男横浜に入港

第873話 【横濱絵葉書】駅前劇場

「横濱劇傷(場)
Yokoh Ma Tkoatrs Nera Yokohama Street.」
日本語も英語も怪しい! 誤植だらけ
たぶん
キャプションの誤植は多けれど!!!
Yokohama theater near Yokohama Station.
ではないかなと推理しました。
英文は「横浜駅近くの横浜劇場」としたかったのではないか?
謎解きしてみます。

戦前、さらに時代を遡り
関東大震災まで、横浜は日本有数の<劇場>が建ち並ぶ
賑わいの街でした。
劇場街の中心は<伊勢佐木町>でしたが
1915年(大正4年)8月15日に二代目横浜駅が高島町に開業します。この場所は 京浜電車、貨物用高架線、東海道線。そして市電が交錯する狭い空間でしたが、完成後駅前が少しづつ賑わっていきます。
その一つが<大劇場>の開業でした。
1920年(大正9年)9月11日
花咲町に歌舞伎などを行う総合劇場がオープンします。
二代目横浜駅から南へ約300mの<桜川>に面した場所だろうと思われます。東京と横浜の実業家達が出資し、劇場経営を松竹合名会社に任せます。
ところが
1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災で焼失しわずか3年弱でその姿を消すこととなります。
さらに時期を絞ってみます。
劇場前には「市川左團次」の役者のぼりが立っているのが判ります。
横浜劇場の演目記録から左団次を探すと
1921年(大正10年)6月初旬
大歌舞伎
市川左團次の「歌舞伎 義経千本桜」の興行がありますので、おそらく絵葉書の撮影時期はこの頃と推理できます。

「横濱劇場」は、当初の目論見とは大きく異なり
交通事情も悪く(改善されず)経営不振に陥ります。
震災で焼失後、復活されることなく歴史から消えてゆきました。

横浜駅は、現在の桜木町に誕生し、二代目がこの絵葉書の劇場近く高島になりその後、現在の位置に移りました。
初代と三代目は華やかな歴史を刻んでいますが
8年の歴史を持った二代目の「横浜駅」は殆ど語られることはありません。

第871話 【絵葉書の風景】大山公爵夫人

神奈川高等女学校展覧会 松屋鶴屋の裾模様実演説明
正面 大山公爵夫人
来観者18,000人 昭和四年十一月二・三日
●撮影場所:松屋鶴屋
●撮影時期:1929年(昭和4年)11月2日〜3日
この絵葉書のように描かれた風景が明確に示されていることは珍しい。
絵葉書を<記録メディア>として利用した典型事例の一つといえるでしょう。
ここに登場する「神奈川高等女学校」
現在、沢渡にある神奈川学園高等学校の前身と考えられます。
昭和初期の<神奈川高等女学校>は少々紛らわしいので推定に苦労します。

<神奈川高等女学校>か<神奈川県高等女学校>か?
<神奈川高等女学校>は
1914年(大正3年)に「横浜実科女学校」として創設されます。
創設の地は南吉田にあった<リンネル工場>跡地の仮校舎だったそうです。
1915年(大正4年)に「横浜実科高等女学校」となり
1921年(大正10年)から「神奈川高等女学校」と改名します。
戦後の新学制で「神奈川高等学校」
その後「神奈川学園高等学校」として現在に至ります。
http://www.kanagawa-kgs.ac.jp
http://touyoko-ensen.com/syasen/kanagawa/ht-txt/kanagawa18.html
ここで勘違いし易いのが<神奈川県高等女学校>
1900年(明治33年)10月10日に創立。
翌年に神奈川県立高等女学校となり
1930年(昭和5年)4月1日には
「神奈川県立横浜第一高等女学校」となり「第一高女」と呼ばれました。
絵葉書発行の昭和四年の時点では
「神奈川高等女学校」(沢渡)
「神奈川県立高等女学校」(平沼)
の二校が近くにあり間違いやすかったと思います。
ちなみに平沼の第一高女は
1900年(明治33年)10月10日創立  神奈川県高等女学校
1901年(明治34年)5月7日  神奈川県立高等女学校
1930年(昭和5年)4月1日  神奈川県立横浜第一高等女学校
1948年(昭和23年)4月1日  神奈川県立横浜第一女子高等学校
1950年(昭和25年)4月1日  神奈川県立横浜平沼高等学校
もう一つ
似た女学校がありました。
程谷町立実科高等女学校
1926年(大正15年)11月30日認可
校名 程谷町立実科高等女学校
1927年(昭和2年5月)横浜市立実科高等女学校
1934年(昭和9年4月)横浜市立高等女学校
1945年(昭和20年4月)横浜市立第一高等女学校
1948年(昭和23年4月)横浜市立桜丘高等学校

(会場)松屋鶴屋      <昭和7年>
この神奈川高等女学校展覧会が開催された松屋鶴屋は
昭和4年時点で推測すると
伊勢佐木通り入口の「鶴屋(呉服店)」と思われます。
翌年の昭和五年に「松屋(呉服店)」に名称変更されました。
ここが現在の< MATSUYA GINZA>です。
No.30 1921年1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=593

横濱デパート物語(MATSUYA編)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5499
この絵葉書の主題にあたる
大山公爵夫人
私にとって 劇的出会いでした。
詳細は次回に!