11月 15

第926話【絵葉書の風景】橋の袂の少女(改筆)

戦前の絵葉書が多彩・多用な画像メディアとして活躍していた事はブログ内でも何回かお伝えしているところです。
さらに付け加えると、
時折 絵心というか<写真心>を感じる絵葉書に出会います。風景撮影だけではなく、そこに<アクセント>を意図的に付け加えることがあったのではないか?

この絵葉書は、

横浜関内と関外を結ぶ有名な「吉田橋」の風景です。

<橋の袂>に一人の少女が登場しています。
構図の特徴は、
吉田橋の風景に一人の少女が登場している点でしょう。
この少女
たまたま居合わせたのか、
関係者の子女であったのかわかりませんが、
意図的に構図として少女の居る「吉田橋」を撮影したことは間違いないでしょう。
手彩色のため、着物の色ピンク色になっています。
実際は確かではありませんが、なかなか存在感があります。
この少女の姿で、この橋に物語が生まれそうです。
冒頭で紹介した絵葉書のように
全国の観光絵葉書でも<傘をさす女性>とかアクセントを加えた風景が使われています。
この風景も 同じ感覚かもしれません。
もう一枚、同じ頃の吉田橋絵葉書と比較してみます。
ヒントはありますが
時代の絞込に苦労します。路面電車の軌道や看板がヒントとなります。
「ライオン」の看板は架橋時の風景にもその後の路面電車開通後にも登場しますが、この少女の風景では「ライオン」の看板はよくわかりません。
「活動 横浜館」の看板は確認できます。
もう一点、電柱でも違いがありますが、これだけで撮影時期の前後を判断するのは難しそうです。

少女の絵葉書でも橋上を見ると<電車>や<人力車>が走っています。
吉田橋の奥に見える「活動 横浜館」は
1911年(明治44年)勧工場跡に開館した「横浜館」だろうと思われます。
ここ「横浜館」は市内で最も古い映画館で1929年(昭和4年)に廃業しました。
「吉田橋」架橋時には式典が行われ多くの見学者が訪れました。

年譜にしてみました。
1859年(安政6年)
居留地と関外を繋ぐ仮橋を設置し
1862年(文久2年)
木造の本橋
1869年(明治2年)
錬鉄製の無橋脚トラス橋(リチャード・ブラントン設計)
そして
1910年(明治40年)5月
架替工事着工。
1911年(明治44年)3月21日
吉田橋工事のため橋の上下の派大岡川が閉鎖されました。
10月7日
派大岡川の通水開始。国産の「吉田橋」架替工事が完成します。
同年 11月1日 竣工、渡り初め式が行われます。
渡り初めの他、吉田橋開通式典が行われ、多くの人が集まりました。
記念絵葉書も発売されたようです。
同年 勧工場跡に「横浜館」開館。
1912年(明治45年)
路面電車の軌道が敷設され関東大震災までこの橋を路面電車が往来します。
少女の絵葉書の撮影時期は、
横浜館があり橋上に電車が走っていますから
1912年(明治45年)以降だろうと思われます。
電柱で見ると
1912年(明治45年)にはあった「電信柱」が
この少女の絵葉書では確認がとれません。
明らかに電柱の位置か構造が変わったことが分かります。
この辺の 電話事情がわかると 時代の絞込がさらにできるかもしれません。
本日は この程度の読み解きで 失礼します。

11月 13

第923話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆2

前回、有栖川宮威仁親王が横浜港鉄桟橋を利用する記念絵葉書の画像を読み解いてみました。
第922話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆

第922話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆


追加の資料を探していたところ、面白いことがわかってきました。
前回 結論は誤りでもう少し詳しい洋行記録が分かりました。
有栖川宮威仁親王は渡欧を4回経験しています。
第一回 ■英国留学(年月不明)
1883年(明治16年)6月 留学から帰国
第二回
1889年(明治22年)2月16日
■海軍事視察として欧州へ
1890年(23年)4月10日 帰朝
第三回
1897年(明治30年)4月22日
■英皇即位60年祝典のため渡英

1904年(明治37年)6月28日
海軍大将に
第四回
1905年(明治38年)4月1日
 ■独逸皇太子結婚式参列のため渡欧
同年8月26日欧州から帰朝
(大須賀 和美 資料)

前回の記述が間違っていたようです。おそらくこの絵葉書の光景は
第四回目、独逸皇太子結婚式参列のため渡欧し帰朝時の大桟橋だと思われます。夏の終わりですが、服装はかなり厚着に感じます。
ただ、拡大してみると
一部薄着も見られるので 暑い中多くの群衆はしっかり服を着ていることがわかります。

威仁親王には明治期の近代化に寄与した様々なエピソードが残されています。
その一つが自動車の普及と国産化です。
渡欧中に威仁親王は欧州の三台自動車を購入し輸入手続きを採り国内に持ち込みます。
その内のフランス製「ダラック号」が故障し修理を<東京自動車製作所>に依頼したことがきっかけで国産車製造が行われることになります。
この<東京自動車製作所>前身は双輪商会といって
1897(明治30年)
京橋区木挽町4丁目で自転車輸入販売業を始めます。
1902年(明治35年)
ロシア公使館員からフランス製グラジェーターを譲り受けたのをきっかけに自動車輸入販売を計画しオートモビル商会を設立します。(日本人最初のオーナードライバーといわれています)
1903年(明治36年)
渡米し米国からエンジンを輸入
1905(明治38年)に乗合自動車をつくり
「日本で初めての国産乗合いバスとして運行。エンジンはアメリカ製の18馬力、運行区画は西区横川町から安佐北区可部までの約14,5キロ。ボディは総ケヤキづくりで重量は1トン、12人乗りで車掌付きでした。」
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1111417104550/index.html
これがオートモビル商会初の自動車製造となります。
ただ 売れず資金難に陥りますが、
1907年(明治40年)に
有栖川宮威仁親王から注文を受け、「国産吉田式自動車」」(通称タクリー号)を製造します。
ここで<絵葉書>の有栖川宮威仁親王が登場します。
1908年(明治41年)8月1日
吉田式3台は有栖川宮威仁親王の所有するフランス製ダラックを先頭に、英国製ハンバー、イタリア製フィアット、ドイツ製メルセデス、アメリカ製フォード、フランス製クレメントなどと一緒に甲州街道を立川まで遠乗りに参加
「国産吉田式自動車」」(通称タクリー号)は、欧米の名車に劣らぬ走行に成功します。
ガタクリ走るから「タクリー号」という悪い俗称がつきましたが、性能は高かったようです。
この明治期に画期的な国産車を製造した人物<東京自動車製作所>オーナーが
「吉田真太郎」

吉田真太郎

横浜とも浅からぬ因縁のある人でした。
1877年(明治10年)東京市芝区芝公園7号地に生まれた吉田真太郎
前述しましたが
1897(明治30年)京橋区木挽町4丁目で自転車輸入販売業を始めます。
自転車輸入販売は順調で、横浜の石川商会と<ライバル会社>として競争するまでに成長します。
No.213 7月31日 (火)金日本、銀日本

No.213 7月31日 (火)金日本、銀日本


この吉田真太郎の父が吉田寅松
当時日本有数の土木会社「吉田組」を一代で築き全国の土木事業を手がけます。
一説では 横浜関内外に架かる「吉田橋」を寄付したという資料もあります。(ウラトリ中)
吉田寅松が横浜の大事業に登場するのが
「堀割川工事」です。
第921話【堀と掘】掘って割、堀となる

第921話【堀と掘】掘って割、堀となる


ここに繋がります。
どう繋がったのかは長くなりますので次回に。

11月 11

第922話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆

この絵葉書、まだ結論が出ていませんが謎解きしてみます。
タイトルは
「有栖川大将宮殿下同妃殿下横浜桟橋御上陸之光景」
タイトル最後の方は 推測です。
撮影場所は「横浜桟橋」
写っている中心人物が
有栖川宮威仁親王と妃殿下
先導するヒゲの人物は?
大臣クラスと思われます。大隈重信かなと推理しましたが、結論時代が合いませんでした。
素人ですがわかる範囲で読み解いてみます。
「有栖川大将宮」
写真の人物は戦前明治以降の皇族有栖川家で大将となった二人が該当します。
■有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)
1877年(明治10年)10月10日 陸軍大将となります。
熾仁親王は1895年(明治28年)1月15日に亡くなりますので
大将として写真に写る期間は1877年(明治10年)から1895年(明治28年)
■熾仁親王の弟が
有栖川宮威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう)
イケメン皇族!と言われています。
1862年2月11日(文久2年1月13日)〜1913年(大正2年)7月5日
威仁親王は
1904年(明治37年)に海軍大将昇進します。日露戦争終了の年です。
撮影の舞台となった「鉄桟橋」は
1894年(明治27年)に完成しますので、
撮影年はこの年以降となります。
兄の熾仁親王は1895年(明治28年)に亡くなりましたので
鉄桟橋竣工ギリギリで該当します。
弟の威仁親王は1913年(大正2年)に亡くなりますので
海軍大臣となった1904年(明治37年)に海軍大将となりますので
1904年(明治37年)〜1913年(大正2年)の線が可能性として高いようです。
「鉄桟橋」は国際港として竣工しますので、主人公のご夫妻は外国からの帰国模様でしょうか?
鉄桟橋には多くの群衆がご夫妻を取り巻いています。桟橋上にはほとんど建造物が見られません。かなり初期の「鉄桟橋」だと言えるでしょう。
有栖川宮威仁親王と妃の二人は精力的に海外を視察します。妃は加賀金沢藩主前田慶寧の娘で慰子(やすこ)で
1880年(明治13年)に威仁親王妃となります。
前田慰子は結婚前前田藩の時代から外国人教師から英語やフランス語をしっかり習っていて流暢に会話ができ、
夫である威仁親王も英文で日記を書く、国際派でした。二人は欧米視察を強く希望し、明治天皇に反対されながらも自費で欧州への旅を実行します。
シルクロードの最果て、ほとんど知られていなかった<極東>の国を欧米各国の皇帝や政府高官にしっかり知らしめた<最初の成功した皇室外交>はこの威仁親王夫妻によってもたらせました。
最初の洋行は
1889年(明治22年)2月16日横浜発の僅か3,500トンクラス客船に乗り、米国を皮切りに、欧州を巡ります。サンフランシスコから大陸を横断し大西洋を渡り,仏・露・スペイン・オランダ・デンマーク・スェーデン・ベルギー・英・独・伊など10ヶ国を巡ります。
威仁親王は訪問先の海軍の実情を的確に調査し1890年(明治23年)4月に横浜港に帰港する予定を変更し神戸に帰港します。※この時タイミングよく観艦式が神戸沖で開催予定だったので、変更したそうです。
そろそろ画像の時期を絞り込んでみたいと思います。
1907年(明治40年)
嘉仁親王(後の大正天皇)が大韓帝国を訪れます。この時に同行したのが威仁親王夫婦でした。
親王夫婦はその後、休む間もなく欧州に向かいます。
おそらく、この絵葉書は 欧州からの長旅から帰国した時の<光景>だったのではないでしょうか。

この1907年洋行は少し確証が持てないため 再調査します。次回に。

それにしても すごい群衆です。特別にガードしている感じでもありません。

11月 9

第920話【市電ニュース】市電域と市電ニュース

1930年(昭和5年)の暮、横浜市が震災復興に一つのメドがついた頃
市電社内刷りPRとして「市電ニュース」が発行されました。
ちょうどこの頃、横浜市内の市電網が最も精力的に整備され、市域トラフィックの軸となっていきます。
当然ですが元気な商店街はこの時期に拡張された市電域と重ねることができます。
六角橋商店街・洪福寺松原商店街・弘明寺商店街・杉田商店街・横浜橋商店街・浜マーケット・かつての生麦魚河岸通り・藤棚商店街 他
横浜の都市形成を考える上で 市電域の研究は必須です。
と宣言しつつ 途中までですが 下記のシリーズも継続していきます。

【横浜市電域考】1路面電車の時代

【横浜市電域考】1路面電車の時代


【横浜市電域考】2創業期の時代 

【横浜市電域考】2創業期の時代


【横浜市電域考】3震災を乗越えて

【横浜市電域考】3震災を乗越えて


【横浜市電域考】4市電域の終着駅 生麦

【横浜市電域考】4市電域の終着駅 生麦


【横浜市電域考】5市電域の終着駅 六角橋

【横浜市電域考】5市電域の終着駅 六角橋

【市電ニュースの風景】第一号その1

【市電ニュースの風景】第一号その1


【市電ニュースの風景】第一号その2

【市電ニュースの風景】第一号その2


【市電ニュースの風景】1931年  №17

【市電ニュースの風景】1931年  №17


【市電ニュースの風景】1931年 №18

【市電ニュースの風景】1931年 №18


【市電ニュースの風景】1931年 №19

【市電ニュースの風景】1931年 №19


【市電ニュースの風景】1931年 №20

【市電ニュースの風景】1931年 №20


【市電ニュースの風景】1931年 №21

【市電ニュースの風景】1931年 №21

それぞれの写真キャプション未整備です。(ハガキ、写真は個人蔵)

11月 6

第915話 【海岸通の風景】クラブ・ホテル

かつて、幕末から明治にかけて居留地には外国人経営によるホテルが数多く誕生しては消えて行きました。その中で、明治・大正時代の開港場を代表するホテルが幾つかありましたが、その一つがクラブ・ホテルです。1884年(明治17年)1月11日にそれまであった「横浜ユナイテッド・クラブ」を改造し海岸通、居留地5番Bに「クラブ・ホテル」が開業します。
この年
横浜(第一次市域拡大前)の人口は男性が27,440人、女性が27,039人、合計54,479人
戸数は21,164戸でしたが、国際港として落ち着きを見せてきた横浜港界隈はいわゆる定住人口以上の旅行客や仕事でこの地は賑わっていたようです。
(水と火)
この年に限らず、幕末から明治にかけて、にわかづくりの横浜は<水と火>という皮肉な弱点を持っていました。急激に人口が増えた開港場、いわゆる関内の水不足は深刻で、新鮮な水を供給できない宿泊施設も多く、水道施設の完成が待たれていました。
野毛山から市内に給水が始まったのは、1887年(明治二十年)で市制が始まる直前のことでした。
一方、火といえば火事のことで、明治期の関内は頻繁に起こる火事との戦いでもありました。
居留地のホテル経営、実力に加え<火事に遭わない>運も必要でした。
手元の横浜市年表の明治時代を見るだけでも火災記事は頻出します。
クラブ・ホテルが開業した1884年(明治17年)には
伊勢佐木町1丁目から出火、790戸を焼失する大火事が起こり、後述のように火事との戦いがホテルの運命を変えていきます。
1889年(明治22年)にクラブ・ホテルは法人化され経営者と支配人が区別されるようになります。初年度クラブ・ホテルは大きな収益を上げ、居留地40番に「アネックス」、東京築地に「ホテル・メトロポール」を出すなど、経営は絶好調だったようです。
ところが、1899年(明治32年)に隣接する「横浜ユナイテッド・クラブ」の台所から出火、火は消し止められたものの消火等で客室の改修を余儀なくされます。
1907年(明治40年)には
ボイラー室から出火、一部が焼失します。
さらには
1909年(明治42年)12月26日にストーブから出火しホテルの殆どが焼失、消火による浸水で殆どホテルの機能を失います。
それでも又再建されますが 次第に集客力を失い
1917年(大正6年)に解散します。ちょうど2017年から100年前の出来事でした。

10月 25

第913話【時代判断の決め手】

昔の風景写真に出会ったとき、いつごろの時代なのか気になります。

展示会や、資料には推定年代が示されていることも多いので史料として役立ちます。
一方で、年代の分からない風景に出会うと、これまた別の意味で興味が湧いてきます。
「この風景は何時だろう?」
時代判断の決め手について紹介しましょう。
時代のランドマークが判るエリアはそれが基準となります。
戦前昭和期の関内エリアは「三塔」が鍵となります。
古い順に
今年150年を迎えた開港記念会館(ジャックの塔)、
1917年(大正6年)に竣工しますが震災で全焼し
1927年(昭和2年)に再建されます。
帝冠式の厳かな佇まいの神奈川県庁「キングの塔」が
1928年(昭和3年)10月31日に竣工します。
そして最後に1934年(昭和9年)3月竣工した
横浜税関の現 本関庁舎(クイーンの塔)を合わせて三塔と呼びます。
港に入ると横浜港にこの3つの塔がシンボルとして見えたそうです。この三塔によって微妙に時期がことなりますので
昭和2・3・9年で順を追うことができます。
今回紹介します風景は
この三塔の時差から税関(クイーンの塔)が見えないようです。
そこから昭和3年〜昭和8年ごろと時期が絞りこむことができます。
横浜関内外の風景は、
関東大震災で建物が大きく変わります。
そして戦災(横浜大空襲)と接収時代を経て
高度成長期となり、オリンピックの頃には人口爆発真っ只中で
横浜は都市基盤整備に日々追われることとなります。
大正から昭和にかけて、震災の被害は大きかったけれど復興に努力する短い時代が横浜にとっては数少ない良き時代だったのかもしれません。

8月 7

【ミニミニ観光横浜】掃部山そうぶやま

今日は掃部山の話です。
掃部山は(かもんやま)と読みます。初めて出会う方には難読地名の一つです。
まず読めません。どう読んでもそうぶやまですよね。
ここは明治期に鉄道省の土地で、後に民間の管理を経て市の公園となりました。

桜の名所としても有名です。この掃部山の名は幕末の歴史を大きく変えた井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)の「掃部」から採ったものです。ここには現在、井伊直弼の銅像が建ち、一角には関東最古の能楽堂が移築されています。

衣冠束帯をつけて正装した男の像が何故ここに建っているのでしょうか?

「開国の恩人」としてすんなり顕彰されたからではありません。現在掃部山に建つ「井伊直弼像」は二代目で戦後に復活したものです。

井伊直弼、日本近代史を学ぶ時必ず登場する彦根藩主であり時の大老は、その評価が未だ大きく分かれます。

彼をテーマにしたブログも幾つか書きました。

No.193 7月11日(水) Hi Come on!

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=414

No.■180 6月28日 横浜能楽堂、その点と線

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=428

No.96 4月5日 開港ではありません開国百年祭

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=521

ここで改めて 掃部山に建つ「井伊直弼像」を通して、横浜を舞台にした歴史の謎について少し紹介しましょう。

■1884年(明治17年)3月22日
「東京・横浜の紳商60人、佐野茂で会合、野毛山に井伊直弼 記念碑建設を決定しました。(横浜近代史総合年表)」
とあるように、井伊直弼の顕彰碑を建てようという活動は明治10年代から彼の故郷「彦根」から起こります。

明治維新後の日本国内における井伊直弼の評価は、散々なものでした。
井伊大老が指示した「安政の大獄」により弾圧された各藩の要人・知識人の多くが新政府の幹部となったからです。幕末明治に活躍した明治維新の要人は薩長土肥と呼ばれた倒幕派の若き<革命家>達も含まれていました。
実は<日本の近代化>を最初に支えた官僚の多くは旧徳川幕府の優秀な幕臣達でした。
倒幕派の若き<革命家>達は清濁合わせながら、露骨な藩閥政治も行い、都合の良い朝令暮改も繰り返しながら近代国家づくりに奔走したのです。

その明治政府をけん引するリーダー(革命家)達にとって井伊直弼は<大獄>の恨みある憎き江戸政治の象徴となっていきます。一方、藩閥政治に不満を持つ人達には 開港を英断した井伊直弼をヒーローとして再評価する動きが活発化します。

明治政府内部でも様々な派閥争いが起こります。
新政府最大の危機が「明治十年の西南戦争」という近代最大で最後の内乱が起こります。
その後大隈重信を巡って「明治十四年の政変」が起こり、福沢諭吉を含め啓蒙派の言論人が政治の場から去っていきます。
官僚機構を整備する中、省庁間の利権争いも重なり、明治国家が少しずつ歪な権力構造のまま膨らみ此の歪みが日本の政治を停滞させていきます。

横浜を例に取れば、横浜港築港計画ではイギリスをバックにした「大蔵省」とオランダを支持する「内務省」の軋轢があったように、井伊直弼を巡る顕彰碑建立では「内務省」と反内務省との対立も鮮明になります。

ここに掃部山の井伊直弼像のたどった運命を少し長くなりますが年表にしておきます。

(井伊直弼碑から像へ)

■1860年(安政7年)3月24日
三月三日桜田門外の変

■1881年(明治14年)11月
有志 井伊直弼像、在東京建碑委員を選定

■1882年(明治15年)7月
建碑位置、横浜戸部不動山案を提案したが否決、東京案となる。

同年10月
上野東照宮境内案 申請。11月に内務省内否決、不許可に。

■1883年(明治16年)11月
横浜戸部不動山鉄道局所有地の払下げを願い出る。

■1884年(明治17年)1月
地所開墾に着手。

同年3月22日
東京・横浜の紳商60人、佐野茂で会合、野毛山に井伊直弼 記念碑建設を決定

■1886年(明治19年)3月27日
豪徳寺で二十七回忌が行われる(26日〜28日)

■1888年(明治21年)3月20日
島田三郎<開国始末>(付録 井伊掃部頭直弼伝)

■1891年(明治24年)
「大老銅像建碑委員会」発足

■1893年(明治26年)
旧臣の集まりが「旧談会」を発足

同年8月
神奈川県知事 遺勲碑建設に関し内務省に問合せた結果、井上馨大臣拒否。

■1899年(明治32年)5月19日
「日比谷公園内に直弼顕彰碑計画を立てる」が内務省(西郷従道)から却下

■1907年(明治40年)2月
遺勲碑から銅像に変更し戸部山に建設を決定。設計に着手。

■1909年(明治42年)6月
銅像竣工。開講五十周年式典挙行。

同年7月1日
神奈川県知事、横浜市に銅像除幕式中止を申し入れ、中止延期。

同年7月11日
除幕式強行。大隈重信、英国総領事ら出席他600人。

■1910年(明治43年)
彦根に井伊直弼像を建立

■1914年(大正3年)11月7日
横浜の掃部山公園として開園。
※土地・銅像は一旦井伊家に寄贈され、整備後横浜市に寄付(8月)

■1916年(大正5年)7月
「井伊直弼朝臣頌徳会」発足

同年11月
「井伊直弼朝臣頌徳会」「旧談会」が「無根水会(むねみ)」となる。
※無根水は直弼の茶号。

■1917年(大正6年)
大正天皇、彦根行幸の際 直弼像には訪れず。

■1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で銅像上部が回転、転倒せず。公園は被災者の避難所に。

■1935年(昭和10年)3月2日
「天照義団掃部頭銅像の首を狙う」が未遂。
※横浜の右翼団体

■1940年(昭和15年)4月10日
「井伊直弼朝臣顕彰会」横浜で開催。

■1943年(昭和18年)6月16日
銅鉄押収「応召」となる。

■1954年(昭和29年)5月20日
二代目井伊直弼像 竣工。

同年6月2日
開港百年祭に際し二代目井伊直弼像 除幕式。

■1958年(昭和33年)5月10日
開港百年祭実行員会、開港功労者31人を顕彰。井伊直弼も

■1968年(昭和43年)9月29日
「開港の恩人井伊大老を偲ぶ110年祭」掃部山公園で開催

■1989年(平成元年)
YES89掃部山公園再整備

■2014年(平成26年)
区制70周年と掃部山公園開園100周年、掃部山公園再整備

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7月 13

第899話【謎の風景】1910年(明治43年)3月

今日紹介する<風景>は、未解決の一枚です。
ここは何処でしょうか?
手がかりは多いのですが確定できていません。分からないままご紹介します。
謎の風景を特定するのは楽しい作業です。
一つのヒントであっけなく解けてしまうこともあれば判りそうで全く判らないものもあります。
今回は謎の風景を読み解けるだけ解いていきたいと思います。
(風景を読む)
まず最大の読み解きポイントが<木柱>です。
「明治四十三年三月 横濱市役所」
最も具体的なヒントとなっています。
横浜の 明治43年、1910年3月はどんな時期だったか?
明治末期で、20世紀に入り横浜の都市整備本格的にが始まったころです。

1903年(明治36年)10月8日 合名会社明治屋設立(代表社員米井源治郎)
1904年(明治37年)2月10日 日露戦争(〜05年9月5日)
3月9日 横浜鉄道株式会社設立
7月15日 横浜電気鉄道開通(神奈川-大江橋間)。
10月 「実業之横濱」創刊1905年(明治38年)
10月23日 横浜沖で凱旋観艦式、行幸。
1906年(明治39年)5月 三渓園 開園
9月 横浜製糖株式会社創立。
10月 帝国肥料株式会社創立(本社 横浜)。
12月 「横濱貿易新報」発刊(貿易新報を改題)
※「実業之横濱」と「横濱貿易新報」 横浜メディアの誕生
1907年(明治40年)1月 横浜生命保険株式会社創立。
1908年(明治41年)3月18日 朝日新聞社主催の世界一周会に参加の57人(婦人3人)横浜を出帆。
この女性の一人が横浜の野村みち(38歳)です。
9月23日 横浜鉄道(東神奈川ー八王子間)開通。
白船艦隊来港
【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗
1909年(明治42年)7月1日 横浜で「開港50年祭」挙行。
 7月11日 政府関係者の反対を押し切り横浜掃部山で井伊直弼の銅像、除幕式。

1910年(明治43年)3月19日 野毛3丁目から出火。630戸焼失。
この時期の横浜は第一次市域拡張(1901年)から第二次市域拡張(1911年)の間にあたります。
(同時期の風景と比較)
■派大岡川
下記の絵葉書は1910年の風景です。
この絵葉書は指路教会が見えることから派大岡川河畔、吉田橋上伊勢佐木寄りから大岡川方向、宛名面のタイムスタンプが1910年(明治43年)です。
画像はそれ以前の発行と推理できますが、発行年は不明。
指路教会は1892年(明治25年)ヘボンの尽力により建てられたものなので、少し時期は絞りこめます。さらに左奥に小さく写る橋は柳橋で、1905年(明治38年)の地図によると柳橋たもとに横須賀行きの船着き場がありました。
当時使われていた船の大きさから<派大岡川>のスケールが良く判ります。
■橋
不明風景に戻ります。
川には木製の橋が架かっています。 橋脚は四基、構造は在来工法による湾曲した桁橋。川幅は写り込んでいる人物から推測すると14〜15mあるでしょうか、横浜市内ではかなり大きい川です。
画面左側の川岸は広い道となっていて材木店が建ち並んでいます。
岸側が電信柱、陸側が電力柱のようです。
一方対岸、画面右側には<板塀>が張り巡らされ木造三階建て・煉瓦の洋館が建ち並んでいます。両岸の風景が明確に異なっている点もこの風景の特色です。
1910年頃の市域範囲からこの川は「大岡川」であろうことは推理できます。
中でも川幅から「派大岡川」の風景と推理できそうですが確証がありません。
継続調査していきます。

7月 2

第898話 【横浜・大正という時代】その2 大正時代

横浜の歴史にかるーく関心を持って10年、資料を調べ始めて5年。
腰を据えなければ!と思って3年になりますが 0からの学びは広すぎますね。
ということで
歴史の初学者として先生に<ご指導>をお願いしているのですが、
「あなたは初学者ではない。社会経験は歴史学に必須条件です。もうすでにこの条件はクリアしている」と息子のような歳の師に慰められています。
なぜ歴史学に<社会経験>が必要なのか おいおい紹介していきますが
今日は 横浜史を学ぶにあたって 時代区分が大切ですよ!!という話。
歴史書、歴史の教科書に目を通すと、時代区分がされています。
●●時代という区分です。今回も【横浜・大正という時代】としました。
一般的な歴史区分を大事にしながらも
自分なりの歴史区分を考えなさい!ということです。
テーマによっても歴史区分が変わってくるからです。
(一般的な区分)
・暦で分ける
19世紀から20世紀にかけてとか
大正から昭和にかけてとか
1930年代とか
※時系列比較するときに便利です。

・事件で分ける
戦間期(第一次と第二次世界大戦の間)
戦前・戦中・戦後(第二次世界大戦を指すことが多い)
革命以前以後とか震災前後 事件後、
※時代を変えた事件を軸に歴史を区分することは<事件>を捉える上で大切です。

(横浜を区分する)
横浜を考える上で、開港は外せません。特に開港の舞台となったことも大きいでしょう。
横浜史を<事件前後>二つに分けるとしたら?異論なく開港でしょう。
次に、私は「関東大震災」が横浜に与えた様々なインパクトは大きい要素だと考えています。
震災前後で横浜の人々の生活は大きく変わりました。災害の内容も東京や神奈川近郊とも異なる部分があり、横浜としての被災前後の政治・経済・社会はその後の横浜復興計画・都市間競争を踏まえながら変化していきます。
※東日本大震災も 震災前後として歴史を捉える時期が来るでしょう。
というところで、横浜史を学びながら<時代区分>を考える中、

(横浜・大正という時代)
ようやく本題に入ってきました。横浜を元号区分で俯瞰すると
大正時代は濃い時代です。
1912年(大正元年)〜1926年(大正15年)の15年間を大正時代と呼びます。
この間、1923年(大正12年)に起こった関東大震災は大転換期でもありました。
日本史において 大正時代の重要事項は
<大正デモクラシー>
<第一次世界大戦>
<ロシア革命>
<関東大震災>
横浜は被災地
などが代表的事件とされます。
横浜でも上記の歴史的要因の影響を大きく受けますが、特徴ある横浜での重要項目を列挙しました。

■横浜大正期(明治末期以降)の重要事項
横浜の大正期は近代化に伴う都市整備が始まった時期にあたります。
●都市計画の始まり
→小横浜から大横濱への計画が立案されます
1919年(大正8年)久保田周政(きよちか)市長は市区改正局と慈救課を設置し、都市計画と社会福祉を設置
1920年(大正9年)市区改正局→都市計画局 慈救課→社会課
横浜市の都市計画が本格的に検討されたのが大正初めのことでしたが、計画半ばで大震災が起こり挫折、0からの復興計画が始まります。→有吉忠一の横浜復興

■横浜市の大正期三大公営事業<水道><瓦斯><電気>
現在電気と瓦斯は民営事業となっていますが、横浜市は全国でもいち早く<瓦斯>を公営化、さらには電気鉄道も公営化します。
共に横浜の実業家高島嘉右衛門・安田善次郎らの事業を横浜市が引き継ぐことになります。
●横浜市内の水道第二次拡張工事期
→明治期に水源を山梨に求め、多摩川での水源紛争を避けた先見性のある横浜市でしたが
都市の急膨張は想定外でした。拡張に伴い、市民の飲料水の確保と何回も横浜を揺るがしたペスト・コレラ対策のための上下水道整備も急務となっていました。
No.217 8月4日 (土)わがひのもとの虎列刺との戦い

No.89 3月29日 ペスト第一号もYOKOHAMA

●瓦斯エネルギーの転換期
市営瓦斯事業の整備
平沼瓦斯製造所(横浜市西区西平沼町 5-55)が1908年(明治41年)に完成、
現在相鉄線・東海道線沿線の平沼にある<ガスタンク>は明治に完成。大正時代の瓦斯供給を担います。
第二次世界大戦中に現在の東京瓦斯と新しい瓦斯会社を設立し
1944年(昭和19年)に瓦斯局が廃止されました。(市史Ⅱ)
平沼の瓦斯工場稼働により高島嘉右衛門に始まった<花咲町瓦斯工場>が配給所になります。→現在の中区本町小学校
●市電網の拡充
1921年(大正10年)に横浜市は経営難の「横浜電気鉄道」を620万円で買収し市営化を図ります。
市営化により第一期の設備投資が行われますが、関東大震災により設備の大半を失ってしまいます。事業としては初期設備投資と復興事業の二重負債を負うことになり、市電網の拡充に遅れが生じたことは否めません。

■民間経済の発展と挫折
●横浜開港五十年祭の開催
1909年(明治42年)に横浜は一つの節目を迎えます。
市を挙げて「開港五十周年」の式典を行います。ここにはもう一つの「開港五十周年」がありました。
明治期の薩長藩閥政治に不満を持つ人達と旧徳川家に関わってきた人達の動きの一つが「井伊直弼像」建立の動きでした。
開港の地、横浜で開港記念日に藩主井伊直弼の像を建立する計画が旧彦根藩士を中心に持ち上がります。詳しくは別な機会に紹介しますが、
政府(薩長出身)の大反対を受け開港記念日の除幕式は断念しますが、遅れて盛大に挙行されます。何故?横浜の地で「井伊直弼像」は建立できたのか?
横浜の大正時代を考える一つの出来事でしょう。
●民間の物流インフラの整備
横浜鉄道、横浜倉庫 他
→1905年(明治38年)
私鉄では京浜電気鉄道(後の京浜急行)が
品川(現・北品川)〜神奈川間開通します。
→1906年(明治39年)
横浜倉庫 横浜鉄道の姉妹会社として設立
→1908年(明治41年)
東神奈川駅〜八王子駅間(現在の横浜線)横浜鉄道が開業します。

●太平洋電信網の完成
横浜商工会議所(特に生糸商)が切望の日米電信網が完成します。
1906年(明治39年)8月1日
太平洋が通信線で繋がる。
第879話【時折今日の横浜】3月27日日米接続

No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って(加筆)
●工業化
京浜エリアの工業化 横浜は繊維貿易を基盤にした経済都市からの脱皮、
重工業都市への転換を図るため大正期から湾岸の埋立が急加速していきます。

6月 30

第896話【横浜の河川】大岡川物語(2)

(戦前の風景)
■大岡川に関係する戦前風景をピックアップしました。
横浜市内を流れる水系は 流域面積でランキングすると
大岡川は第四位です。

第一位は 一級河川 鶴見川水系 流域面積 235 km²(東京都含む)

第二位 二級河川 境川水系 柏尾川 流域面積 約84 km² ※境川は流域面積 210.69 km²

第三位 二級河川 帷子川水系 流域面積 57.9 km²

第四位 二級河川 大岡川水系 流域面積 35.6 km²
■今回、戦前の横浜市内を流れる<川の風景>を探そうとしました。
最も手軽に河川の風景が記録されている媒体は<絵葉書>でした。といっても
戦前の絵葉書には<大岡川下流域の風景>ばかりが圧倒的に記録されています。
理由は大岡川下流域が開港場として衆人の注目場所となったからでしょう。


■大岡川関連マイブログリンク
No.435 【横浜の河川】大岡川物語(1)
番外編「大岡川運河論」
第860話 RE name Yokohama 大岡川