7月 8

【よこはま時の風景】

風景というと、辞書的には<見える様>といった説明になりますが、もう少し心象的な意味合いでつかわれることが多くなりました。文字通り「心象風景」は有様を想像する作業です。
サウンドスケープ(音の風景)は、しっかり研究領域として広がりを見せています。

今回はちょっと「時間」、時の風景に分け入ってみましょう。
私達は 近年<時>を見て確認することが多くなりました。
あるローカル線の際に住む友人は、引っ越してきた当初は雑音だった列車の通過音が今は時計代わりになっている、と語っていましたが、時を表す音は減ってきているようです。
ラジオの時報も一昔ほど有用ではないかもしれません。
見る<時>が増えましたが、公園や床屋、街なかにあった「公衆時計」は激減しています。
時の風景にも時代を感じることができます。

公衆時計

<時の時代風景>
横浜はいち早く開港によって居留地が登場しました。隣接して日本人の街が作られ、諸外国との取引や、港に降り立つ人々向けのビジネスが<おそらく>見様見真似、試行錯誤の中で始まります。
居留地で日本人が遭遇した数々のカルチャーギャップの中で、
「時」に関してはどうだったのだろう?と簡単ですが資料を探ってみました。
まず暦の違いが日本人と外国人との間で早急に確認し合う必要がありました。商売に暦は必須条件です。荷物の調達から流通、納品等のカレンダーは当然必要になってきます。
江戸の暦は明治5年12月2日まで使われ(西暦1872年12月31日)次の日が明治6年1月1日((西暦1873年1月1日)と揃いますが、旧暦としては一ヶ月消えてしまったことになります。
一説によれば、国家予算逼迫で、年度予算を一ヶ月切り詰める効果も狙っていたとか。
幕末の文書ではしっかり旧暦西暦を併記したものもあり、しっかり併用していたことが伺えます。
暦同様、日常の時間も江戸と近代では異なりました。
落語の<時そば>にも登場する江戸の時間は、欧米とは異なり、夜明けから日没までを均等割(単位は一刻)していくという一見面倒な方法(不定時法)を使っていました。
昼の長い夏と、夜の長い冬とでは<一刻(いっとき)>が異なったのです。
でも農業や外の仕事としては実に理にかなっていて、明るい内に働くという大原則で生活リズムが決まっていました。
ところが欧米各国は太陽暦の基で一日を均等割する<定時法>を用いていましたので、開港場となった横浜はおそらくいち早くこの時間を取り入れたに違いありません。
幕末から日本を訪れた外国人の日誌などにも詳細な欧米時間で記載されていて、時間のギャップに関して記述しているものは私が調べた限りですが、見当たりませんでした。
面会時間などはどうやって調整したのか?詳しく記述された資料が欲しいです。

今でこそ、スマホや腕時計で、またテレビやラジオで時刻を手軽に知ることができます。
19世紀、時計はとても高級で、一般生活では使うことが難しかった。
では人々はどうして時刻を知ったのか?
日本では、江戸期から時の鐘といって、城、役所、寺などを使って鐘を鳴らすことで一般生活の時を知らせていました。この習慣は、開港後も明治時代でも使われていました。
明治に始まった廃仏毀釈の嵐の中で、寺は消えたが鐘だけ残ったというお寺の話も全国に数多く残っています。

街の人々は、新しい時刻制度となっても 耳で聞いてそれなりに慣れ、対応していったのではないでしょうか。

明治に入って、国の制度が大きく変わり、社会生活も変化を余儀なくされていきました。
明治時代の「時の風景」は、
 見る時間と聞く時間に変化が起こります。
 横浜を中心に「時の風景」を探してみました。

□時の鐘
 仕組みは江戸期と同じで 和梵鐘を撞くことで音を出し時を知らせました。
 音は広域に時を知らせることができますから、開港場には町会所や野毛に報時用の鐘が用意されました。恐らく、山手に多かった教会群からもチャペルの鐘が定時に聞こえたのではないでしょうか。
 開港記念会館の時の鐘だった和梵鐘に関しては関連ブログ(下記リンク)でも触れていますが、調査レポートとしてもまとめているところです。

□時計台
 明治に入って新しく生活に登場した<時間>です。<塔>に時計を設置した洋館が建つようになります。横浜ではブリジエンス設計の町会所にスイス製の時計が設置されました。
その後、弁天通りには「河北時計店」が自社ビルに時計塔を設置し地域のランドマークとなります。

□報時球
 時刻を知らせる<球>が横浜にはありました。これは国内で横浜と神戸だけに設置され、見て確認できる時刻でした。
 横浜では、海岸通りの<仏蘭西波止場>の位置にあり、港湾内の船に独特の方法で時刻を知らせました。港付近ではこの報時球の塔がひときわ目立つランドマークとなっていました。

関連ブログ
「時」の風景(更新)

【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?

4月 29

【ミニミニ今日の横浜】3月19日

この【ミニミニ今日の横浜】はこれまで数年間集めてきた資料や年表から簡単にその日その日の出来事を紹介してきました。大体が過去の調査資料の範囲内で<料理>していましたが、
今回は ちょっと違うぞ! ちょっと待て!もっと調べたい。
という私にとってはかなりエアポケットに落ち込んだ感じたっぷりテーマです。
まず、19日テーマのブログは以前
No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=538
「慶応4(1868)年のこの日、明治政府が幕府から接収した神奈川奉行所を横浜裁判所に改めた。この横浜裁判所は、裁判だけではなく一般行政も行う現在の県庁に相当するものであることから、神奈川県庁ではこの日を「立庁記念日」としている。」
神奈川県庁の「立庁記念日」を紹介しました。

では 今回の3月19日テーマは
「横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図」から始まります。
「時」の風景(更新)
横浜の時報について紹介しました。
明治になり変わった新しい時刻、定時法(24時間を均等に分ける)をどうやって知ったのか?

その時 港では<報時球信号>を使い、市中は時の知らせ(時鐘のゴーン)で時間を知り居留地では本町通りの角に建った<横浜町会所>の「時計台」とそこに備えられた<梵鐘>の音で時間を知らせました。
という話です。
この横浜町会所の梵鐘について調べる際
「横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図」が当然 往時の姿として登場します。
この「時計台神奈川県全図」の作者<歌川国鶴>が今日のテーマです。
前置きが 長くなりました。
1878年(明治11年)の今日3月19日
江戸時代後期に活躍した浮世絵師<歌川国鶴>が横浜関外最初の町「吉田町」で亡くなります。73歳でした。彼は文化4年江戸築地に生まれ二代目歌川豊国に学びます。本名 和田 安五郎、「一寿斎」「一雄斎」などと号し晩年の安政6年(1859年)頃、横浜に居を移し絵草紙屋を開業、横浜絵・役者絵を得意として多くの作品を残します。
彼の作品は、1879年(明治12年)6月に来日したグラント元大統領が持ち帰った日本土産の中に何点か含まれていて、現在はホワイトハウスヒストリカル協会に所蔵されています。
No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=357
No.248 9月4日(火)坂の上の星条旗(後)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=356
No.248-2 9月3日 坂の上の星条旗 改題
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=84

このように 彼の作品に関わるテーマを追いかけていましたが、
「歌川国鶴」なる横浜浮世絵師は 全くノーチェックでした。
実は「歌川国鶴」から始まるドラマは この先からに面白い展開が待ち受けます。絵師、歌川国鶴には二代目を継いだ息子の歌川国鶴(嘉永5年(1852年)〜1919年(大正8年)2月4日)と娘のムラさんがいました。
歌川國鶴作「横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図」は初代と二代目歌川国鶴が共に絵草紙屋を経営していた時期ですので共作かもしれません。

歌川國鶴二代目を継いだ息子、そして彼に西洋の絵心を紹介した人物が娘<ムラ>の夫N.P.キングドンです。
初代「歌川国鶴」の娘ムラの夫N.P.キングドン氏の足跡を探るとこれまた横浜には欠かせない人物であることが分かります。
彼の物語に関しては 近々もう少し資料を読んでから紹介します。
今日はここまで。

 
 

Category: 【資料編】, 明治期, 横浜絵葉書 | 【ミニミニ今日の横浜】3月19日 はコメントを受け付けていません
11月 30

【大岡川運河物語】日ノ出川運河

かつて大岡川運河群の背骨に当たる「吉田川・新吉田川」現在は大通り公園と呼ばれています。
現在、そのなごりとしてこの通りの関内駅寄りに「日ノ出川公園」があります。
日ノ出運河は全長約600mで、運河時代 吉田川と中村川に繋がっていました。

完成したのは1873年(明治6年)、横浜に鉄道が敷設され急速に開港以来、次の発展が始まった時期にあたります。開港場(関内)の誕生により後背地としての関外(吉田新田域)にまで住宅地・商業地が拡大していく真っ只中に誕生しました。
開港後急速に発展した時期、開港場と周辺の集落を繋ぐのは、
南に「堀川筋」に架かる橋があり、北に「新生横浜駅」と大岡川、西は「吉田橋」を渡り横浜道につながる吉田町・野毛町ルート、そして西へまっすぐ伸びる現在の「伊勢佐木」常清寺ルートでした。


開港場の賑わいを支えるには、一つ大きな障害がありました。「南一つ目沼」の存在です。
元々、ここは「北一つ目沼」と共に1667年(寛文7年)に完成した吉田新田の水田の塩抜き用湖沼でした。古文書には<悪水池>と記されていたものもありますが、水田を生かす重要な役割を担っていました。

この「一つ目沼」の役割について簡単に紹介しておきましょう。
江戸期に入ると、新田開発が急速に増え日本の農業は田畑への肥料の投下(施肥)が盛んに行われるようになります。当時の水田はこの施肥による汚水処理も重要な作業でした。ここ大岡川下流の「吉田新田」は海に面し、田んぼの真水を維持すために上流から肥料の成分を多く含んだ水を排水用に貯めなければなりませんでした。河口部だったことで、海水の干満差を利用するためには、一度貯めておく必要があったのです。
海に面した水田の維持は大変だったに違いありません。
幕末に近づいた頃はすでに「北一つ目沼」は常清寺を中心に宅地化されていました。開港後は一時期遊郭にもなり吉田町、吉田橋と続く要衝の地でした、一方の「南一つ目沼」は灌漑用水路(中川)からの汚水を貯める悪臭のする沼のままでした。
明治に入りさらに関内外の整備の動きが加速しました。
1870年(明治3年)には根岸湾と中村川を繋ぐ「堀割川」計画が始まり、かつて中川と呼ばれていた新田中央を流れる灌漑用水路を活かした運河を整備し直結する計画も始まります。
南一つ目沼を宅地に変えろ!
埋立に必要な土は堀割川開削時の土を活かしました。そして誕生したのが「日ノ出川」水路です。南一つ目沼埋立時の水抜き用水路も兼ねて残されたものでしょう。
埋め立てられた日ノ出川両側は七つの町が作られ「埋地七ケ町」と呼ばれました。町には運河を利用した開港場に必要な回漕店、石材店、木材店の他多くの店が出店しました。宅地としても賑わい、豪邸も建てられました。

大正期頃の日ノ出川風景

掲載の風景は、日ノ出川扇町付近の風景です。川岸に石材店があり、和船には木材が積まれているのが判ります。ただ前述のように日ノ出川は運河というよりも周辺の宅地排水路の役割のほうが大きかったのではないでしょうか。早くから川の汚れに対する苦情もお多かったようです。
日ノ出川は川幅が狭く、水深も浅かったことから、 大型船の航行には適していなかったため、明治期から両岸の町内が日ノ出川によって分断されていた<寿町・松影町・吉浜町・扇町・翁町・不老町・長者町等>の住民からは埋立要求が出ていました。
一方で両岸を活かして営む薪炭商・製材商・材木商・造船鉄工商・青物商らは生活を脅かされることから<埋立には反対>の声が出ていた結果、対立の構造が生まれてしまいました。

戦前、昭和初期の日ノ出川付近 正面に寿小学校

横浜一帯が焼土となってしまった関東大震災後の1924年(大正13年)
復興計画の一貫として政府復興局は、山下公園・野毛山公園・神奈川公園の公園整備とともに、日ノ出川を埋め立てて<公園化>する案が検討されましたが、埋立反対派の事業者たちは市議会に存続・改修を求める要求を出し、可決され埋立計画は幻のものとなってしまいました。
ほとんど艀船も入れなくなっていた日ノ出川は、浚渫もできず、埋立もできないまま結局戦後まで残される形となります。
さらに追い打ちをかけるように横浜空襲で周辺は焼け野原となり、日ノ出川は残骸・瓦礫の投棄処分が繰り返され、川の体を失っていきました。
戦後は長者町通りを境に東側が占領軍に接収され、その間は抜本的な都市改造は休止じょうたいでした。本格的に日ノ出川埋立計画が始まったのは接収が解除された1953年(昭和28年)のことです。

終戦直後の関外埋地七ケ町付近

関連ブログ
【大岡川運河物語】埋地七ケ町その1

10月 19

【絵葉書の風景】横濱山手英国病院

<ちょっと具合悪そう>
「横濱山手英国病院
 English Hospital Bluff Yokohama.」

撮影場所:横浜市中区山手
撮影時期:明治末期か?
横濱絵葉書コレクターの世界では人気の一枚らしい。
確認できる最古?クラスのブラフ積み擁壁とガス灯が写っているからだそうです。
偶然手に入れたものですが、この絵葉書の風景、拡大してみると人物が尋常じゃななそう。
まず絵解きをする前に
横濱山手英国病院(イギリス海軍病院)は、横浜山手居留地(ブラフ)161番に1868年頃完成しました。
横浜が開港しました!
外国人が来ました!って話なんですが、当時の状況はそんなに甘いもんやおまへん。
当時の二大強国<英・仏>は居留地の自国民を守るために、軍隊を常駐させます。現在のふらんす山と港のみえる丘公園あたりが英仏の駐屯地でした。
そこに、様々な自国民のための施設を建設します。これは戦後の進駐軍と似ています。
(ここは病院前)
一台の人力車、二人の和服の女性。
よく見ると、女性の一人は”具合悪そう”に見えませんか?
人力車の車夫も心配そうに二人を眺めています。
付き添いの女性は<傘>を持っています。
雨か雪でも降りそうな空模様、
背景の<桜花>から季節は春先でしょうか?
勝手に物語を想像すると
急に具合が悪くなった日本人女性が、「そうだ丘の上にエゲレス病院がある」というわけで付き添いを伴って人力車で駆けつけたところ
<断られた>
<利用するかどうか逡巡><重い病気を告げられた>
どれででも良いのですが この女性は確かに尋常ではなさそうです。
撮影者はこの女性と人力車を”意図”して絵にしたのか?
いろいろ想像力を掻き立てる風景です。
(ブラフ積み)
直方体の石材を縦横交互に並べ、端面が1つおきに出るように積む技法を、当時の山手近郊の<ブラフ(崖)>に因んで「ブラフ積み」と後から呼んだものです。
煉瓦積みの技法に「フランドル積み」または「フランス積み」と呼ばれるものがあります。この手法が「ブラフ積み」として擁壁に応用された限定的なもので貴重な近代遺産です。
少し長いですが
「横浜には数多くの歴史的建造物、遺構があることは周知の事実である。特に山手などは外国人居留地があった時代が色濃く残っている。「ブラフ積」という洋風石垣も、その中のひとつである。「ブラフ積」とは、1867年に第一回山手地所の競売によって外国人の住宅地として開放され、細かく入り込んだ斜面に宅地が造成された過程で生じた多くの崖の土留めのことを言う。千葉の房州石を棒状の直方体に加工し、長手面(横)と小口面(縦)を交互に並べたもので、従来の「野面積」とは異なる積み方は当時としては大変画期的であった。もともと「ブラフ(Bruff)」とは、海岸や谷間の「絶壁・断崖」を意味し、当時本牧や山手に多く見られた切り立った崖を「ブラフ」と呼んでいた(幕末、日本来航時に横浜周辺を測量したペリーは、本牧十二天《現在の本牧市民公園》のオレンジ色の崖をその色から『マンダリン・ブラフ』と呼んでいた)ことから、居留地によって生まれた洋風技術と言える。また、縦に積むことで、崖に深く入り込むようになっているため、耐震性にも優れ、関東大震災でほとんど崩壊せず現存している場所が多いことを考えてもそれが実証済みだと言えよう。(横浜経済新聞2007-10-03)」
「横濱山手英国病院」は1867年以降山手地区の洋館群が競って建設される中、1868年に完成したものです。
参考に、山手を下り元町にあった薬師堂の雁木と擁壁も紹介しておきましょう。
一枚の絵葉書、いろいろなところに注目すると面白いですね。
9月 16

【大岡川の橋】吉浜橋付近

橫濱絵葉書吉浜橋大正初期ごろの風景と思われる。派大岡川吉浜橋近くで釣りを楽しむ子どもたち。
私の関心は右の釣りをする子どもたちより少し大人の人物二名。
荷物を背負う男性と、性別は不確かだが恐らく女性と思われる人物が写り込んでいる。そしてその人物は何か手持ちの荷物でカメラ目線では顔を隠しているようにも見える。日差しを避けているのか、写りたくないのか。
子どもたちに視点を移すと、5人の子どもたちの内、釣りは2名。
帽子を被る者2名。手彩色のため服の色彩はヒントにならない。
一番左の子供は 履いていた下駄を脱いでいる。
 明治に始まった写真絵葉書の構図は大正・昭和に入るとカメラマンの意思、センスが感じられるようになる。人物も敢えて<配し>構成する意図があるようだ。 吉浜橋
1898年(明治31年) 鉄の橋に架替 設計は野口嘉茂
派大岡川南東に位置し、橫濱製鉄所※への連絡橋の役割を担った。
仕様:橋長27間2分(約49.1m) 橋幅4間2分(約7.3m) 横浜製鉄所
1865年(慶応元年八月二四日)1865年10月13日 竣工
4月 20

【一枚の絵葉書から】野毛山の桜

昔の絵葉書に写し出されている風景から時々意外なことがわかることがあります。
ここに紹介する絵葉書は大正初期に写されたものだろうなと推理していますが、
そのほかのことは、桜が咲いているので春四月ごろかな? 程度で
手彩色の<桜>色にそのままスルーしてしまいました。
もう少し詳細に見てみることにします。
左下に映る天秤棒を担ぐ男性の荷物はなんだろう?と拡大してみると、
向かって左側の籠には<筍>が積まれ、
右側には青物野菜と芋のような塊の山を確認することができました。
桜と筍といえば
「桜前線」を追うこと約1週間から10日後に、南鹿児島あたりから始まり、九州・四国・近畿・関東、そして例年は四月末には北限の東北南部へと北上。
孟宗のたけのこの採り頃というか食べ頃まさに「旬」が北上します。「たけのこ前線」というらしいですが、竹篇に旬が<たけのこ>だから、昔も花より食い気の方が優先したのかなと余分なことも考えてしまいます。
野毛山あたりは 豪商の別邸が立ち並んでいましたので、天秤棒の彼はこの長い坂を登ってでも売れたのでしょう。
次に、
彼の後ろには、子守をする<少女>の姿が数人見えます。
児童労働としての子守が日常的に存在しました。戦前のそれも大正以前の風景には、この<子守するこども>が良く写っています。
子守が労働であった時代です。
現代の<ベビーシッター>とは異なる、10歳前後の幼い少女が労働として<子供を子守すること>が江戸時代から普通に行われてきた習慣が明治・大正期まで盛んだったようです。
さて 天秤棒の右側には何が積まれていたのでしょうか?知りたいところです。 「子守という仕事」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9207
12月 19

【大岡川運河物語】水運の町、石川町

大岡川運河群は1970年代まで日常の風景だったが、多くが消えた。

大岡川運河群図昭和3年

だが、いわゆる吉田新田域が運河の街だった記憶はまだ残されている。
その記憶・残照をたどりながら運河にまつわる物語を書き残しておく。

■中村川運河
JR根岸線「石川町駅」が開通したのは1964年(昭和39年)5月19日のことだった。この年は東京オリンピックが日本で初めて開催された年だった。戦後日本が特に首都圏が工事の粉塵に紛れ、工事車が土砂を跳ね上げていた時代である。
桜木町は旧橫濱駅時代に開業した歴史ある駅にも関わらず、東海道筋から離れていたためおざなりにされていた。地元は路線の延伸を戦前から願っていたが中々実現しなかった。
60年代に入り延伸工事が始まった。派大岡川の上に橋脚が建ち、関内駅を川の上に開設。そのまま直進し山手丘陵の土手っ腹にトンネルを開け「石川町駅」が開設した。
駅名の石川町は石川村に由来し古くからあるが「石川」の名はしばらく消えていた。石川村は海岸に面した漁業、農業、林業を営む小村だったが古くからその名を見ることができる。

IR石川町駅

<石川>
石川の名で有名なのは「石川県」。加賀の国にある手取川の古名である「石川」に由来するが、この「石川町」は武蔵国久良岐郡石川村に因んでいる。何故「石川」となったのか?詳細を追いかけていないが、湧き水が多く岩(石)の間から出たからではと想像している。
漁村として栄えるためには、真水が必須だ。海水では人は暮らしていけない。
石川町近辺を調べてみると、湧水地が数多く見つかる。開港以降は横浜港への船舶給水地として事業も起こっている。
このように古くからあった岩の間の湧水地が<水の豊富な村>として石川の名となったのではないだろうか。 <吉田新田>
石川村は江戸中期に大きく変わる。江戸の材木商だった吉田勘兵衛が幕府の新田奨励施策により、大岡川河口の深い入海の干拓事業に着手。1667年(寛文7年)に11年かけた吉田新田が完成。吉田新田の完成で、石川村は本牧や横浜村とかつて対岸だった<戸部村、野毛村>と密接になった。
石川村は漁村ではなくなる。その後、石川村の経営がどのように行われたのか不勉強だが、新田の幹線道となった「八丁畷」現在の長者町通りの完成によって、交通往来が大きく変わったことは確かだ。
現在は、車橋を渡ると打越の切通しを抜け山元町、根岸へとつながるが、近世、近代は車橋を渡ると石川中村になり一旦下流に向かい地蔵坂が「本牧」と「横浜村」に出る分岐路だった。

干拓前深い入海

<地蔵坂>
地形図で石川村付近を俯瞰すると、地蔵坂が本牧へと続く要路であることが分かる。近世に交通量が増え、道を拡張する工事の際に土の中から地蔵が掘り出され坂の名が地蔵坂となったと伝わっている。現在は関東大震災でこの地蔵尊も崩れてしまったが、戦後地元の有志によって亀の橋袂に新たに地蔵尊を建立された。この地蔵尊は入海に身投げした女人伝説による<濡れ地蔵>の異名もあるが、伝説となるこの地の役割を示した結果だろう。

地蔵坂地形図

<水運の町>
石川町がかつて水運の要の地であったと聞くと驚く人が大半かもしれない。
石川町に関する歴史資料を調べ始めると、この街の川岸がかつて水運の要であった片鱗を感じとることができる。
ここに示す西ノ橋から中村川上流方向の風景、一見亀ノ橋と判断しがちだが西ノ橋左岸際から亀ノ橋を見ることはできない。ではこの橋は?ということになる。実はこの橋の存在から様々な謎解きが生まれ出た。
「謎の橋」戦後の資料では「赤橋」と呼ばれていたことが判る。

明治から昭和にかけ、この位置に架けられては消えた「橋」の存在を確認することができる。中村川対岸吉浜町には幕末から明治期には「横濱製鉄所」があり、大正期からは戦後まで掖済会病院が開業していた(現在は山田町)。
この謎の橋は派大岡川のある運河時代だからこそ利用度が高かった。
絵葉書を拡大するとここに、川岸の荷捌き場が写っている。

中区史に
「中村川の川沿い石川町から中村町方面にかけては、港や埋地方面に働く人々が多く居住地とした、石川町一帯は人口が増え町が大きくなり、そこには規模は小さいが、多種類の日常生活を売る商売が発生していった。このことは外国人を相手として商売する元町とは対照的であった。すでに石川は明治六年には街並みがととのった所として、石川町と命名されていたが、こうして町が充実していった」
「中村川や堀川などの川は、港から直接内陸に物資を運ぶことができ、埋地の問屋筋へ、さらには八幡橋方面へと」 石川町と千葉県富津市の港と定期航路があった昭和まで記録も残っている。

<亀の橋 下流に船着き場を確認できる>
かつてこの船に乗って多くの女性行商が行李を担ぎ石川町に降り立った。中にはこの地に生活拠点を求めた方もいる。石川町と房総千葉とのつながりも深いものがある。
このように、石川町は運河を巡り関内外から房総千葉まで水運というキーワードのエピソードが誕生した町だ。
近い将来、この石川町に動力船が使える桟橋ができると聞く。
江戸期から続いた水運の町の復活となるのか?変わりゆく石川町に注目したい。

4月 13

【吉田町物語】吉田町清水組

現在、吉田町に拠点を構える最も古い企業は、都橋のたもとに事業所を持つ清水建設横浜支店です。
左側 都橋袂、清水建設横浜支店
現在スーパーゼネコン※と呼ばれている5社の中で、特に「清水建設」と「鹿島建設」は開港場を舞台に横浜普請で飛躍した会社です。
※清水建設、鹿島建設、大成建設、大林組、竹中工務店
清水組は安政の大獄の始まった1858年(安政5年)
時の大老、井伊直弼から「外国奉行所」など幕府施設建設を請け負うことで横浜開港場との関わりが始まります。
1859年(安政6年)
清水組を興した初代喜助が死去し養子の清七が2代清水喜助となった年、
「横浜坂下町」に店宅を新築し、横浜へ進出します。(清水建設社史)
この開港場の拠点「坂下町」、磯子ではありません。現在の「日本大通」と「横浜公園」が接するあたりと推定できます。
清水組は「神奈川戸部村外国奉行所、石崎関門ならびに番所および野毛坂陣屋前役宅を施工」する事業に関わります。神奈川戸部村外国奉行所はおそらく現在の紅葉ヶ丘神奈川奉行所、石崎関門・番所はわかりません。
野毛坂陣屋前役宅も現在の宮崎町近辺でしょうか?調査中です。
清水組は神奈川役所定式普請兼入札引受人となるなど、事業は順調に拡大していきます。
ところが、
1866年11月26日(慶応2年10月20日)午前9時頃に港崎遊郭の西方向、現在の尾上町一丁目付近から出火し開港場の大半が消失した<慶応の大火>で「横浜坂下町店宅」も類焼し、失ってしまいます。
(写真資料)
清水喜助は吉田町に家屋を新築し移転します。この場所で釘や鉄物商のほか材木商も兼業し事業を拡大していきます。
当時、木造家屋の密集する日本の都市は、火災に弱く何度かの大火災に悩まされます。
移転した吉田町店も火災にあいまたまた類焼のため宮川町へ移ることになります。
その間、時代は明治となり、開港場は居留地と商人の大都市に変貌し始めます。
喜助は吉田町に戻ることを決意し、
1874年(明治7年)吉田町に洋風3階建の店宅を新築し、宮川町から復帰します。
大岡川下流から都橋を望む。
大岡川、都橋下流側 右岸に清水組
1881年(明治14年)に横浜店は清水満之助が経営
 神田新石町店は清水武治が経営する東京・横浜分業体制を採ります。
1883年(明治16年)には横浜吉田町宅を本店とし、日本橋本石町居宅が支店となりますが、
1887年(明治20年)満之助が35の若さで死去、残された8歳の長男が四代満之助襲名しますが、三代目満之助の遺言により経営の神様と呼ばれた”渋沢栄一”を相談役(〜1916年)に迎え経営危機を乗り越えます。
1892年(明治25年)9月に日本橋本石町店を本店、横浜店を支店に改め、拠点を東京に移します。
1895年(明治28年)東京・横浜両店を合併し、清水組が一本化。
清水組を創業した清水嘉助は、越中小羽(現・富山県富山市小羽)出身で、故郷富山で大工の修行をして、日光東照宮の修理に関わったことをキッカケに江戸に出て神田の地で創業します。江戸城西の丸修復で建設業の基盤を築きます。
富山(越中)人脈は、
1838年(天保9年)11月25日 安田善次郎 富山市で出生(安田財閥の祖)
1848年(嘉永元年)4月13日 浅野総一郎 氷見市で出生(浅野財閥の祖)
1881年(明治14年)大谷米太郎が小矢部市で出生(大谷重工業、ホテルニューオータニ創業者)
1885年(明治18年)正力松太郎 正力松太郎が射水市(大門町)で生れる(読売新聞中興の祖)
安田、浅野も横浜・川崎を舞台に一代を築いた越中人です。
どこかで、つながりがあったと思います。機会があれば、横浜の越中人脈も探ってみたいと思います。
成人した四代目清水満之助は
1915年(大正4年)8月10日竣工、二代目横浜駅建設を手掛けます。煉瓦造2階、平面形状は不等辺三角形。階上に待合室、改札口がある荘厳な駅舎となります。
<横浜の清水>作品を抜粋します。
◯谷戸橋(堀川)1880年(明治13年)
◯横浜税関(関内)1885年(明治18年)12月
◯横浜水道開設事業 三井用水取水所の内 用水取入口、貯水池、濾水池1887(明治20)年9月
◯第一銀行1911年(明治44年)6月
★二代目横浜停車場1915年(大正4年)6月
★横浜市開港記念会館(旧開港記念横浜会館)1918年(大正7年)
 平成の修復も清水建設。
◯ホテル、ニューグランド1927年(昭和2年)新築 設計渡邊仁
1933年、1958年、1964年 増築
2016年 耐震改修
◯味の素横浜工場サイロ竣工(昭和30年)9月
◯横浜マリンタワー1961年(昭和36年)1月
◯石川島播磨重工業横浜第2工場建造ドック及び修理ドック
 1965年(昭和40年)3月<建造ドック>
 1966年(昭和41年)8月<修理ドック>
◯横浜スタジアム1978年(昭和53年)3月
◯県立神奈川近代文学館1984年(昭和59年)3月
◯横浜地下鉄1号線 吉田町工区1986年(昭和61年)3月
◯関内ホール(横浜市市民文化会館)1986年(昭和61年)
◯新横浜プリンスホテル1992年(平成4年)2月
◯横浜・八景島シーパラダイス デザインシステム(清家清)
 <建築部分>1993年(平成5年)5月
 <土木部分>1994年(平成6年)3月
◯横浜ランドマークタワー1993年(平成5年)6月
◯横浜銀行本店1993年(平成5年)7月
◯飯田家長屋門 保全1996年(平成8年)3月
◯日石横浜ビル1997年(平成9年)6月
◯Foresight21(関東学院大学1号)2001年(平成13年)3月
◯慶應義塾大学日吉新研究室棟(来往舎)2002年(平成14年)1月
◯横浜港大さん橋国際客船ターミナル(第一工区)2002年(平成14年)11月
◯今井川地下調節池2004年(平成16年)3月
◯横浜市立みなと赤十字病院2003年(平成15年)12月
◯日産自動車グローバル本社2009年(平成21年)4月
◯富士ゼロックスR&Dスクエア2010年(平成22年)3月
◯アニヴェルセルみなとみらい横浜2013年(平成25年)11月
◯横浜グランゲート2020年(令和2年)
7月 3

第994話【一枚の絵葉書】橋に書かれたアルファベット

#前田橋 #堀川 #絵葉書
近年、絵葉書が風景史料として注目されています。そこに写された風景が、発行者の意図を越えて、新しい発見があるからです。 ここに描かれている風景は 堀川に架かる三代目「前田橋」の関内側から撮影されたものです。
投函されたのは1905年(明治38年)日露戦争末期、東京の軍兵舎から日頃世話になっている郷里の友人及び家族に送られたものと推察しました。
日露戦争は奇跡的に勝利したものの戦費枯渇の中、両国は収束点を求めつつ、水面下で外交交渉が進められているころです。
時代背景はさて置き、この絵葉書を拡大してみると、橋のたもとのところに<英字>で何か書かれていることに気が付きました。上流側には前田橋の銘板のヨコに「C HAL…」と書かれています。
一方下流側には 人物がかぶって一部しか見えませんが、メッセージが書かれています。この時期はまだ手彩色の時代ですので、色彩が正しく当時の色合いを表現しているかどうか不確かですが、文字に関しては地となるモノクロ写真に写り込んでいたものでしょう。
欧文表記ですので、外国人向けのメッセージと思われます。もしこれが広告としたら驚きです。橋を使った広告が明治期普通に展開していたということです。
前田橋は、居留地を出島化するために堀川が開削され1860年(万延元年)に架橋されました。明治維新後の1871年(明治4年)、居留地からの要求に応じて拡幅工事を行うことに伴い、新しく架橋(二代目)されました。さらに1890年(明治23年)に鉄の橋(三代目)に架け替えられます。
この絵葉書に映っている前田橋はこの三代目鉄の橋です。
その後関東大震災で消失し、震災復興橋(四代目)として新しく架けられ、1983年(昭和58年)に五代目が架けられました。
前田橋の歴史 とりまとめ
<初代>
1860年(万延元年) 堀川開削と同時に谷戸橋、西之橋併せて三つの橋を架橋。
<2代目>
1871年(明治4年)
明治14年迅速図
※1889年(明治22年)に電話の一般供用開始
 上掲風景は元町にまだ電柱が無かった時代のものです。
 2代目前田橋の欄干は写真の通りだったと推測できます。
<3代目>
1890年(明治23年)
前田橋の上にケーブルが架かっています。元町の電信ニーズが高まった証ではないでしょうか。 ***関東大震災で崩落***
<4代目>
1927年(昭和2年)8月5日震災復興橋として竣工
幅 6.00m
長さ34.2m
※肘木式鋼板桁橋
4代目の写真を探しているところです。
<5代目>
1983年(昭和58年)架替
幅 13.8m
長さ30.9m
上記写真にある橋の両岸には手のこんだレリーフがはめ込まれています。絵柄は謎の<珍獣>です。さてそれは何か?実際に行かれてはどうでしょう。 (結論)タイトルに掲げた「前田橋」のアルファベットは何も謎解きできていません。今後の謎解きテーマに加えることにします。しばしご容赦ください。
3月 18

第993話【一枚の絵葉書】根岸療養院

根岸療養院
前回は中村石川にあった「横浜市中央教材園」の絵葉書から導き出された風景を紹介しました。今回も前回と同様の「一枚の絵葉書」から横浜史の一風景を読み解いていきたいと思います。
この【一枚の絵葉書】シリーズは、手元の絵葉書から、そこに写し出されている風景を読み解きながら関連情報を探っていきます。
基本読み物としては鬱陶しくなってしまいますが、ご辛抱ください。
1000話までこんな感じです。
前回は 第992話 リケ児育成のために(修正追記)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12622
今回の一枚は「根岸療養院(山海館)」
第一印象はタイトル通り根岸の病院か結核療養施設の風景のようです。
Google検索でいくつか関連データが見つかりました。
「中区史」の地域編のなかで明治期の根岸開発の模様を伝えた記事がヒットしました。
中区史根岸療養院記述
「さらに四十五年七月には五坪(一六、五平方メートル)の家屋を改造した病室を持った根岸療養院が二、一四九番地に建てられたことである。」とあり<所在地>と<設立年>が判明しました。 1912年(明治45年)開設
場所は根岸村2,149番地
これをヒントに開設場所を地図で探ってみました。
手元にある地図では明治45年(大正元年)近くのものが無く、少し時間の経った大正12年、震災前発行の地図から「根岸療養院」の場所を探してみました。
大正12年4月根岸
遡って明治14年の迅速図、昭和に入った根岸周辺地図でもあたってみました。
明治14年根岸
昭和4年根岸
本牧・根岸は戦後海岸線が埋め立てによって大きく変貌しましたが、当時の「根岸療養院」からは眼下に海が広がっていた事でしょう。 ではこの療養院はいつまで存続したのか?Google検索から
大正12年の関東大震災における「横浜・神奈川での救援・救済対応」という震災資料がヒット。
「神奈川県庁は、9月2日、桜木町の海外渡航検査所に救護(治療)本部を置き、傷病者の治療を開始した。3日、同所に県庁仮事務所を置き、高島町の社会館内に傷病者の収容所を設けた。社会館は県庁が震災の2年前に開設した労働者のための宿泊施設である。既に述べたように、同日、衛生課長の下に救護(救療)、衛生材料調達、死体処理などの係を設けて衛生課職員を配置した。医師、看護婦は、横浜市の十全病院、根岸療養院より借り入れ、また、臨時の募集を行って不足を補い、救護本部や社会館内の収容所に配置した。」(中略)「根岸療養院は個人の経営する結核患者の療養所だったが、震災以後、結核患者を郷里に戻し、9月8日から30日までの間、一般傷病者の収容を行った。受診患者数(延べ)は入院1,803人、外来4,299人であった(『神奈川県震災衛生誌』)。10月以後、日本赤十字社に療養院の建物と器具、職員が無料で提供されて、同神奈川県支部の臨時根岸病院となった。
と記載されていました。日本赤十字社と関係があったことが伺えます。
日赤の資料も探ってみると
1924年(大正13年)結核専門の療養施設である根岸療院を開設。とありました。これだけでは根岸療院=「根岸療養院」なのかまだ確定しませんが、この「日赤根岸療院」が源流となったのが昭和21年に改称された「横浜赤十字病院」です。
そして現在の「横浜市立みなと赤十字病院」につながります。
横浜市立図書館のオープンデータに
1917年(大正6年)発行の横浜社会辞彙という当時の紳士録に近い資料がありその中に「根岸療養院」について記載された概要を下記にまとめました。横浜社会辞彙「根岸療養院」項目に院長の名がありませんでしたが、個人名から創設者が<大村民蔵>ということがわかりました。 院長 大村民蔵
根岸2194番地
電話2411番
敷地 2500坪 全9棟 延べ床 525坪
 個人病室 30室
 共同使用病室 8室
全体で凡そ100名の患者を収容。
1912年(明治45年)7月18日 根岸に開設
1913年(大正2年)7月春心館を建築
1915年(大正4年)7月山海館(2階建て)
8月 静温館
10月 浴室等完成
日運館・赤心館
(庭園)松林・梅林・菊園・ダリア
この時点で、図書館DBで他の資料が無いか確認した所
創設者である大村民蔵氏の資料(自伝)がありましたので 創設者大村氏を追いかけてみました。
膨大な自叙伝ですのでプロフィールの一部分だけ紹介します。 大村民蔵
山口県防府市 出身
1869年(明治2年)11月22日
大村茂兵衛の四男として生まれ
17歳のときに故郷から横須賀に移り、役場に勤めた後、鉄道局駅吏として横浜駅(現桜木町駅)に勤務しますが、初心を貫き東京に出て「済生学舎」に学び医師資格を目指します。
1897年(明治30年)12月医術開業試験に合格し医師の道を歩み東京荏原(品川)の病院に勤務します。
※「済生学舎」1876年(明治9年)長谷川泰により設立された医師を目指すための医師免許専門の学校でした。
 野口英世・吉岡弥生・荻野吟子らがここで学び、医師の道をめざしました。
1898年(明治31年)に佐野常民より「日本赤十字社社員」の辞令を受け、これが現在に続く横浜との因縁の一つとなります。
横浜との関係は、東京時代に警視庁警察医務の嘱託となったことで
1900年(明治33年)に神奈川県監獄医務所長の辞令を受け根岸にある監獄署官舎に引っ越したことに始まります。
翌年34年には現職のまま研鑽のため北里柴三郎に就き伝染病学を学ぶことになり、これがキッカケで北里人脈が広がります。
1902年(明治35年)に根岸町871番に診療所を開き亡くなるまで横浜市内で医師として活躍することに。
1924年(大正13年)3月31日
「根岸療養院を、日本赤十字社神奈川支部に結核予防と治療を継続する条件にて譲渡し、根岸療院と改名す。
→ここで前述の 根岸療院=「根岸療養院」 が確定しました。
大村民蔵氏はその後も日赤と深く関わることになり、戦後は地域の医者として94歳まで診療に携わり
1969年(昭和44年)12月101歳で亡くなります。 根岸療養院を支えた多くの医師の中でも初期の二人。
医学博士 守屋 伍造
医学博士 古賀玄三郎

 ともに伝染病研究所で所長だった北里柴三郎の門下生でここ「根岸療養院」との関わりだけでもさらに深い物語が登場します。
志賀潔、浅川範彦、そして守屋 伍造の三名が部長として片腕となり、ここに助手として入所したのが野口英世でした。
■古賀玄三郎は
1879年(明治12年)10月20日生まれ〜1920年(大正9年)
佐賀県三養基郡里村(現:鳥栖市)出身。
1899年(明治32年)長崎第五高等学校医学部卒
上京し、東京市築地林病院(築地五丁目)医員となる
1901年(明治34年)岩手県盛岡市立盛岡病院外科部長。
1910年(明治43年)京都帝国大学医学部に入学、特発脱疽の研究(「チアノクプロール」(シアン化銅剤)の開発)、治療法で博士号。
→当時古賀玄三郎博士によって開発された注射液「チアノクプロール」を1915年(大正4年)7月15日に初めて試みたのが有島安子で作家有島武郎の妻だという記載資料がありました。ここでも横浜と繋がります。
1920年(大正9年)
10月17日大連市(中国東北部)で開催された満州結核予防会 発足にあたり記念講演後、
10月18日大連駅で倒れ、21日に亡くなります(41歳)。
大村民蔵氏は師の北里柴三郎はもとより、福沢諭吉とも関係があったようです。
中でも北里柴三郎は1927年(昭和2年)横浜の絹織物商・椎野正兵衛商店の長女・婦美子と再婚しています。
成功名鑑飯島栄太郎
追いかければキリがないくらい様々なつながりが出てきますが
ここでは最後に 横浜の財界人であった飯島栄太郎氏を紹介しておきます。
「横濱成功名誉鑑」にも登場する飯島栄太郎は境町(現日本大通り)「近栄洋物店」のオーナーとして、創業者であった飯島栄助を継ぎ家業の外国人向けの雑貨店を発展させます。創業者の栄助は近江彦根の出身、幕末期京阪、江戸(東京)を放浪の末、明治3年に元町で業を起こし成功します。明治9年に境町2丁目に移転、西洋雑貨取引で財を成し、
明治31年 息子飯島栄太郎に譲り、栄助は予てより取得していた根岸の別荘に<隠居>
明治38年12月に亡くなります。
飯島栄太郎は、家業の雑貨商だけではな無く、アメリカに留学または滞在し、日本に帰国したのち政界・経済界で活躍した人々が集まり、交友を深め便益をはかることを目的に、明治31(1898)年に設立された米友協会の会員として活躍します。
微妙な日米関係となった白船来航時には、国を挙げて米国艦隊を迎える中、大谷嘉兵衛、野村洋三、浅野総一郎や左右田金作とともに歓迎の晩餐会を開催、日米関係の融和に努めました。
【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7201
彼の表した『米国渡航案内』は明治期の渡米ガイドとして大ベストセラーとなります。
 さらには飯島栄太郎の妻・飯島かね子もまた津田梅子に学び「帝國婦人技藝協會」を創立した傑女でした。 またまた遠回りになりましたが、
飯島栄太郎の父、「近栄洋物店」の創設者 栄助が隠居した根岸の別荘が栄助死後、空き家になっていた関係から
友人だった 大村民蔵のサナトリウム計画に協力し、別荘と敷地を譲渡することになりました。 ネット検索の過程で
「根岸小学校は全国でも最も早い時期に学校医の制度を導入したことで知られる。校医は日赤の実質的創設者でこの地で長年結核の治療にあたった大村民蔵氏」とあり、検証してみました。
学校医は明治期から法律的に導入されている制度で
「1894(明治27)年5月に東京市麹町区,同年7月に神戸市内の小学校に学校医が置かれたのが日本における学校医の始まり」であり、大村民蔵氏が根岸小学校の校医を拝命したのが1903年(明治36年)のことでした。また日赤の実質的創設者というのもおそらく間違いです。
「根岸療養院」は神奈川県内の日赤病院草分け的存在といえるでしょう。
という感じですか。
後から発見した別の全景がわかる根岸療養院はがき。
一枚の絵葉書の風景から様々な関係が見えてきました。
大村民蔵は近くにあった「根岸競馬場」とも関係があり、競馬に関するエピソードも満載です。
まだまだ人・場所・出来事との興味ある繋がりがありますが、
今回はここまでにしておきます。