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第949話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」2

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前回、
五雲亭貞秀が描いた代表作の一つ「横浜鉄橋之図」から野毛近辺をクローズアップして風景を読み解いてみました。今回も引き続き、「横浜鉄橋之図」鉄の橋の下を通過する荷物満載の船と横浜製鉄所、魚市場あたりを眺めてみることにします。
横浜が開港して、外国人の居留地と日本人街が形成されます。治水以上の理由と居留地を出島化する目的で中村川から湾に向けてまっすぐ「堀川」が掘削されます。
四方を囲まれた「開港場」は、幾つかの橋で結ばれます。その代表となったのが、「横浜鉄橋之図」に描かれた鉄の橋「吉田橋」です。
開港時に突貫工事で東海道筋「芝生村」から帷子川河口を越え野毛坂を越え野毛村、子之神社脇を抜けて大岡川に架かる「野毛橋」を渡り吉田町に至り、関内と呼ばれた開港場への橋が「吉田橋」です。開港時に架けられたこの橋は1869年(明治2年)10月に灯台技師R・H・ブラントンの設計によって鉄の橋に生まれ変わり、関内外の名所となります。
この吉田橋は日本初の長さ24m、幅6mの無橋脚鉄製トラス橋でした。一時期日本初の鉄の橋と表現されましたが現在は長崎に次ぐ二番目の橋となっています。
構造としては初の下路ダブルワーレントラス桁となっています。
【横浜の橋】№3 横浜を語るなら吉田橋を知れ

【横浜の橋】№3 横浜を語るなら吉田橋を知れ

(水運船)
「横浜鉄橋」の下を一隻の水運船が通過しようとしています。吉田橋の下を通り、何か石のような荷物を積み石川町方面に船を進めていますが、積荷はなんでしょうか?
石?
この船が進む先には、横浜製鉄所がありますから、推測ですが「木炭」か「石炭」だと想像します。幕末には石炭がすでに生産されていますので、横浜港に係留された船から運び出されたものかもしれません。
木炭、鉄鉱石かもしれません。原材料が川を使って運ばれている興味深い光景です。

<横浜製鉄所>
No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語

No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語(一部加筆修正)


No.236 8月23日(木)帰浜した鉄工所

No.236 8月23日(木)帰浜した鉄工所


(橋上の人々)
吉田橋の袂から橋上まで様々な人々が描かれています。

第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」

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・横浜絵の誕生
開港後、初代イギリス公使オールコック(Rutherford Alcock)が「人の住まぬ湾のはしの沼沢から、魔法使いの杖によって、日本人商人たちが住む雑踏する街ができた」「魔法使いの杖 の一振りによって茸の生えた一寒村が一瞬にして国際港と化してしまった」
と表現した横浜は徳川幕府末期に花開いた<経済・外交特区>として誕生しました。
横浜開港の表現を”一寒村”とする<元凶>の一人がcolonialismの真っ只中に生きたオールコックですが、確かに居留地には外国人が次々と移り住み、多くの商館やホテルといった洋館が日本人の手によって建てられていきます。
この時の様子が克明に描かれたのが「横浜絵」です。この横浜絵は当時を知る資料価値としても注目されています。
・横浜浮世絵
No.401 短くも美しく

No.401 短くも美しく


外国人の風俗をモチーフとして制作され短期間に売り出された横浜浮世絵(横浜絵)はおよそ八百数十点にも及びます。

中でも私は五雲亭貞秀 作「横浜鉄橋之図」が好きです。

「横浜鉄橋之図」

■五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」(大判横6枚)
横浜絵の第一人者である五雲亭貞秀は精密で鳥瞰式の一覧図を多く描いています。下総国布佐(現千葉県我孫子市)に生まれた貞秀は初代歌川国貞の門人として錦絵を学び五雲亭、玉蘭斎の画号で多数の作品を残しました。
「貞秀の作品は他の作者にくらべて写実的であるといわれ、歴史資料としての価値も高いといわれています。(開港資料館)」
この「横浜鉄橋之図」は横浜開港のシンボルの一つで1869年(明治2年)に燈台技師ブラントンの設計によって完成した「鉄橋」と呼ばれた吉田橋を描いたものです。
この作品は翌年の明治に入って間もない1870年(明治3年)に描かれました。
開港から11年目という短時間にこれだけ整った風景が誕生し維持された当時の人々の英知に感動すら覚えます。

■甍の波
五雲亭貞秀の洋館の描写も秀逸ですが
私は日本人街の描写が好きです。珍しい洋館やメインモチーフの「鉄橋」はデフォルメしたとしても、見慣れた日本人の住宅風景は素直に描写していると感じます。
「野毛橋(都橋)」は前回のブログで紹介しました。
第947話【横浜の橋】リユース都橋(みやこばし)

第947話【横浜の橋】リユース都橋(みやこばし)


開港時に突貫工事で完成した「横浜道」で一躍脚光を浴びた野毛橋は関内外発展により架替てその名を「都橋」と改名します。
木製の太鼓橋だった明治3年「野毛橋」の様子をこの横浜絵で知ることができます。
今回、
この作品を拡大してそこに描かれた当時の風景を少し読み解いてみたいと思います。
気になった「野毛橋」あたりをクローズアップしてみました。

野毛橋あたり

・吉田橋と野毛あたり
吉田町と野毛橋の付近の絵図には
太鼓橋を渡る二頭だての馬車と
すれ違う人力車
魚を天秤棒で運ぶ魚屋らしい姿が描かれています。

吉田町の通りには
女性と子供が不思議な乗り物に載ってる姿が描かれています。
「駕籠」の一種でしょうか、運び辛そうです。
後ろからは馬上のお付きが従っているようにも見えます。そのすぐ横に洋犬が一匹描かれていますが、この一行が連れている犬と思われます。

また
この様子を二階から興味深く眺めている物見遊山風の人物も描かれています。
もう少し引いて見てみます。
野毛橋より下流左岸には米が積まれている店舗とさらに下流には「渡船役所」が描かれています。川沿いに柳や松、桜の木樹があり、荷物を積んだ船が何艘か見えます。大岡川を使った水運の賑わいが感じられます。一方 野毛橋を越え野毛の町に入ると子ノ神社の鳥居があり神社を回り込むように道が野毛山の方向に向かっています。

他の資料からも「野毛橋(都橋)」を見てみましょう。

都橋

鉄道敷地埋立前夜

この「横浜鉄橋之図」の野毛浦近辺に戻ります。ここは明治4年に始まるまさに横浜駅開業前夜の風景です。
「馬車道」「姥が岩」の文字も読むことができます。
鉄道前夜、鉄の橋近辺の読み解きは別の機会に譲ることにしましょう。

第946話【横浜史の節目】後半

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1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で横浜市域は多くの人命、財産を失います。
実質、東京より被災度が大きかった横浜は、帝都東京を復興するという最優先の下
独自の震災復興を目指さなければなりませんでした。
多くの企業が横浜を去り、港都の機能が麻痺、蚕・絹を中心とした貿易産業は壊滅状態となります。
横浜は元々
幕末、江戸開港を避けた結果として、<港都横浜>が誕生します。
関東大震災が起こる頃、横浜は現在の10分の一にも満たない<小横浜>でした。
1901年
第1次市域拡張 面積24.80km2
1911年
第2次市域拡張 面積36.71km2
1927年
第3次市域拡張 面積133.88km2
廃墟からの脱却を復興だけではなく
<発展><産業転換>という新しいベクトルで推進したのが
【最強の市長】有吉 忠一でした。
湾岸の埋立、港湾機能の高度化、産業誘致を推進し
<大横浜>を目指しました。
※市域拡大
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?

【番外編】市域拡大は元気なうちに!?(加筆)

第940話【最強の市長】有吉 忠一

第940話【最強の市長】有吉 忠一

1923年から戦後まで横浜は波状的な破壊・復興を繰り返しました。
震災後の横浜は横浜大空襲でまたまた壊滅。
終戦、当時沖縄を除き、日本最大の<占領・接収>時代を迎えます。
※関東大震災
No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

※横浜の空襲
「写真でみる横浜大空襲」web版
http://www.city.yokohama.lg.jp/somu/org/gyosei/sisi/web-air-raid/

※占領下の横浜
第905話 【占領下の空】

第905話 【占領下の空】

長い占領・接収時代が続きます。
戦後接収解除と人口急増が重なり、横浜は爆発的に拡大する<東京>のベッドタウン化していきます。
■1968年(昭和43年)
人口200万人都市となります。この年、ブルーライトヨコハマ、伊勢佐木町ブルースという空前の大ヒット曲が生まれ、横浜市の大PRとなりさらに人口が急増します。
1968年をテーマに
No.422 【舞台としての横浜】妙蓮寺と野毛

No.422 【舞台としての横浜】妙蓮寺と野毛


■市電の時代の終わり
1966年(昭和41年)に生麦線、中央市場線を廃止したのを皮切りに廃止路線が増えて行きます。
1972年(昭和47年)市電とトロリーバスが全廃されその姿を消しました。
同時期、関内外の運河が消えてゆきます。
■1980年代、横浜は政治の嵐
No.357「今保守を問う」

No.357「今保守を問う」加筆版


■1989年バブル崩壊前夜のお祭り
No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催


■1996年防災ボランティア元年
No.237 8月24日(金) 防災は体で覚える!

No.237 8月24日(金) 防災は体で覚える!


No.126 5月5日 私がこどもの国を選んだ訳

No.126 5月5日 私がこどもの国を選んだ訳


■2002年はワールドカップサッカー
No.161 6月9日(土)  日本、ロシアに勝利!

No.161 6月9日(土)  日本、ロシアに勝利!

後半はリンクばかりになってしまいました。

第945話【横浜史の節目】

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来年は明治維新150年にあたります。
横浜は開港159年。吉田新田完成351年。2018年を迎えるにあたり 平成30年 そして平成31年には
日本近代史上、初の穏やかな平成の終わりを迎える年となります。
ということで

改元についてちょっと整理しようと思ったら
以外に 手こずりました。 改元は何時行われるのか?
1868年10月23日(慶応4年9月8日)
改元の詔書(年始めから遡って改元)
「慶応四年を改めて明治元年と為す」
制度上は慶応四年は存在しないことになります。
1912年(明治45年)(大正元年)7月30日 大正改元の詔書
※改元の詔書には「明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト為ス」
即日改元となりました。
1926年(大正15年)12月25日 昭和と改元。
※明治以降 改元に関して改正がないので
同日改元となり12月25日が昭和元年。
1926年(大正15年)12月26日に改元したという記述も散見しますが、根拠?は不明です。
1989年〔昭和64年〕1月7日
翌日から平成と改元と発表。
1989年(平成元年)1月8日から
 2019年(平成31年)4月30日まで平成時代。
2019年5月1日が改元 ということになりました。
※平成元年は日本史上初めて、遡及がない改元が行われ、
平成は近代史上初めて生前改元が行われることになりました。
余談が長くなりました。
横浜の歴史、時代の変わり目を私流に<超簡単まとめ>しました。
★古代、
横浜市域の多くが海でした。貝塚が今や横浜の丘の上、三沢にありました。
No.212 7月30日 (月)ある“日本人”の学究心

No.212 7月30日 (月)ある“日本人”の学究心

927年(延長5年)
市域内に点在する「杉山神社」が、式内社とされました。
杉山神社は
横浜、鶴見川流域に多く点在し、帷子川、今井川流域にも建立されている全国でのこの一体にしか無い神社です。
杉山神社一覧

杉山神社一覧


暴れ川<鶴見川・帷子川>流域が安定してきた証として神社建立となったと思われます。

★中世
三浦氏の一族平子氏、榛谷氏、稲毛氏など有力な豪族による安定した時代に多くの寺社が横浜市域に誕生します。
1275年頃
北条実時が武蔵国久良岐郡六浦荘金沢(金沢区)に金沢文庫と称名寺を建立。
※※暦で語る今日の横浜【9月22日】

暦で語る今日の横浜【9月22日】


16世紀 横浜は後北条氏の領地となりました。
1590年(天正18年)後北条氏が、豊臣秀吉に攻められて滅亡。

★近世
徳川家康が江戸入りその後江戸幕府が成立。
横浜市域は明治まで徳川氏の領地となりました。
1721年(享保6年)金沢に六浦藩米倉氏1万2,000石の陣屋が置かれ
市内唯一の大名領となりました。
この間、徳川幕府の安定した政権の下で、
農業が飛躍的に進歩し、
併せて築城技術が干拓・治水技術に移転することで大干拓時代が到来し
食料の生産量が飛躍的に伸びます。
まさに、現在の横浜の基礎となった「吉田新田」は大干拓時代の
1667年(寛文7年)に完成します。
この干拓事業の成功が、横浜の発展を支える重要な条件となります。
※wikipediaの「横浜の歴史」では吉田新田完成が記載されていないのが残念です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/横浜市の歴史

横浜歴史上三大エポック!
最初は「吉田新田」完成です。

★幕末
横浜市域最大の事件、ペリー来航と横浜での交渉、そして横浜開港という一大事件が起こります。あまりに有名ですので詳細はカットします。
開港場ができ、居留地が生まれ、外国人はもとより日本各地から人材が集まります。
これによって
日本最大の国際交易港がこつ然!と登場。

★近代
意外と知られていませんが横浜は明治に入り<海軍の街>になります。
北仲の燈台局に隣接して東海鎮守府が設置され、艦隊の後方を統轄する機関となります。

東海鎮守府

その後、すぐに横須賀に移転しましたが、
戦前、横浜は海軍観艦式の開催母港として重要な役割を担います。
<大観艦式>は横浜の一大観光資源として重要なコンテンツでした。
第859話【絵葉書の風景】観艦式に見る日本の歴史

第859話【絵葉書の風景】観艦式に見る日本の歴史

戦前観艦式資料

戦前観艦式資料

【横浜側面史】 観艦式

【横浜側面史】 観艦式

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント

■1871年4月20日(明治4年3月1日)
東京・京都・大阪に郵便役所(現在の郵便局)を設置し最初の郵便切手が発行されました。
※郵便は開港後すぐに<領事館郵便>として日本(横浜)から各国に書簡が送付されましたが外国郵便局はこれ以前に居留地内に設置。■1909年(明治42年)
開港50周年記念 市章・市歌制定

横浜市歌

■1928年(昭和3年)11月10日
横浜市営バス開業

市営バス50周年乗車券

横浜史上、3つ目の節目は
1923年(大正12年)に起こった関東大震災です

昭和以降の横浜は次回に

第942話【謎解き】吉田橋広場

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今年は馬車道150年です。
1867年(慶応3年)に「吉田橋」から関内を通り抜ける広い道路が整備されたことに因みます。
この「吉田橋」から続く<広い通り>は地元の人たちに通称「馬車道」と呼ばれるようになり、その後区画整理を経て現在の「馬車道通り商店街」となりました。 この吉田橋を渡ると伊勢佐木町の繁華街が日枝神社近くまで続きます。
もう一つ
「吉田橋」袂から斜めに「吉田町商店街」が野毛へと続きます。 この吉田橋際に立ってみると、馬車道側に不思議な空間があります。
かつて
「丸井横浜関内店馬車道館」があった場所でした。 1980年(昭和55年)に開店
2000年(平成12年)に閉店しその後高層マンションとなっています。
当時、この広い空間は丸井馬車道の敷地だと思っていましたが、その後丸井が撤退しマンションが建つ計画が公表された時に、この空間が公共の土地であることがわかりちょっと驚いた記憶があります。

一方、伊勢佐木口側は昔、馬車道側より広く長い広場(広い空間)がありましたが今は無くなってしまいました。この広い空間には一時期運河沿いに「警察署」が建ちその後デパートが伊勢佐木のシンボルとなった時代があります。この<不自然な>広場は共に、関内に街路が整備された頃から他の道路とは異なり、誕生しました。なぜ?ここに広場のような空間が存在したのでしょうか?
私の結論から先に紹介します。
吉田橋<関門>あたりはかつて関内外の主要関門であったため、交通量が多く関門周辺に<滞留空間>が自然と出来上がったのだと推理しました。

場所を馬車道側に戻します。
この空間について資料を調べるキッカケとなったのは一枚の写真でした。
最初に紹介しましたように、馬車道側に明治期から現在まで不思議な広場が存在していたことは、過去の風景写真によって明らかです。明治期の地図でも明確にこの空間が示されています。慣れとは恐ろしいもので、何度となく見ていたはずの<この空間>の不自然さに全く気が付かなかったのです。

偶然入手したこの一枚の写真、裏面のメモから1953年(昭和28年)頃に撮影されたと思われます。
街路樹のエッジに白い像が建っています。ロダンの考える人をイメージさせる腕を曲げ顎を支えているかのようなポーズです。
戦前の風景には見当たりません。
終戦直後の米軍進駐時の写真にもありませんでした。
戦後復興期に短期間設置されたようです。
何故短期間かというと、1958年(昭和33年)5月8日の写真にはこの白い像が別のものに変わっていたからです。この年、開港百年祭が行われ、その時の様子が広瀬始親(ひろせもとちか)氏が記録していた写真集に収められていました。ここにはトーテムポールようなものが設置されています。
再度、白い像のある写真を拡大してみると背後に石燈籠のようなものも二基設置されています。
馬車道の老舗で伺っても記憶に無いとのこと。
まだ この謎は解けていません。

第940話【最強の市長】有吉 忠一

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現在、横浜市長は
第32代、20人目の林文子氏が就任しています。(2009年(平成21年)8月30日〜)
戦前は13代まで官選市長が市政を担当しました。
戦後は選挙で選ばれています。
戦前戦後を通じて 任期満了か、途中辞任によって市長交替となりました。
例外は在任中に亡くなれた市長が2名
16代「平沼亮三」氏と24代「細郷道一」氏でした。
(最強の市長は誰か?)
最強という表現が適切かどうかわかりませんが
ここに紹介する第10代横浜市長「有吉忠一」は横浜市政史に残る
“最強”の市長といえるでしょう。
歴代市長を評価するには様々な視点から市政の結果を分析していかなければなりません。政策実行力・問題解決力・政治的決断力 他いろいろ指標がありますが
有吉忠一は
「数多くの業績を残した昭和初期の「不世出」の市長」と言われています。
“「不世出」の市長”というのは中々の評価ですね。
横浜市史上最大級の難問、震災復興に取り組んだ不屈の市長です。
ここに当時の有吉市長を知ることができる一枚の写真があります。
たまたま海外の写真オークションで手に入れたものです。

生糸検査所の有吉忠一と秩父宮

生糸検査所屋上から「横浜復興」を秩父宮に説明する有吉市長

1927年(昭和2年)6月2日(開港記念日)
この日、関東大震災から5年
<復興>を市内外に宣言する重要なセレモニーとして「大横浜建設記念式」を開催しました。式典には秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)を迎え、望月圭介逓信大臣を始め、1,557人もの市内外の名士が集まり盛大に挙行されました。
秩父宮は式典に参列する前、市長有吉忠一により復興状況の説明を受けます。
写真はこの時の一コマです。

(関東大震災)

震災被災(焼失)エリア

(震災復興)

秩父宮視察が行われた生糸検査所

震災復興のシンボルとなった商工奨励館

有吉忠一の簡単な経歴を紹介しましょう。
1873年(明治6年)
京都府生まれ。
第三高等中学校、帝国大学法科大学法律学科(現在の東京大学)
1896年(明治29年)
内務省入省。
1897年(明治30年)
島根県 参事官
兵庫県 参事官
1901年(明治34年)
内務省 参事官
1908年(明治41年)3月
第11代 千葉県知事 就任。
知事時代、千葉県営軽便鉄道(後の東武野田線の一部)の開通を手がける。
1910年(明治43年)6月14日
韓国統監府総務長官 就任。
朝鮮総督府総務部長官。(〜1911年(明治44年)3月13日)
1911年(明治44年)3月13日
第13代 宮崎県知事 就任。
知事時代 宮崎県営鉄道を建設。飫肥線の敷設、日本初の学究的発掘調査となった西都原古墳群の発掘調査を行う。
1915年(大正4年)
第九代 神奈川県知事 就任。
自治時代 多摩川の改修を指示し川崎市中原区に「有吉堤」の地名が残る。
関東学院の開設に助力。
同年11月10日
大礼記念章
1919年(大正8年)4月18日
第15代 第15代兵庫県知事 就任。
1918年(大正7年)6月29日
勲二等瑞宝章
1922年(大正11年)6月16日 退任
1922年(大正11年)6月12日 ※
「朝鮮総督府政務総監」に就任(〜1924年7月4日)。
※知事退任日と総監就任日に重なりがありますが 資料のママ掲載します。

有吉は軍事権を除く行政・立法・司法の実務を統括し、在任中、朝鮮総督府の日本人高級官僚、特に「生え抜き官僚」との軋轢に加え、関東大震災時の“朝鮮人虐殺”に反発する朝鮮での暴動等の真ただ中でかなり苦労します。

1924年(大正13年)7月4日
その任を解かれ東京に戻ります。
1925年(大正14年)5月7日
第10代横浜市長に就任。
※推薦者 原富太郎、中村房次郎、井坂孝ら
1930年(昭和5年)2月10日
正式に辞意を表明します。
「予算案さえつくれば、その決定は予算を実行する後任市長と市会の自由裁量によるべき…」との一言を残し、
同年4月 貴族院議員 勅選。
1930年(昭和6年)2月26日
昭和6年度の予算が成立する前に辞職。
1933年(昭和8年)
第7代 横浜商工会議所会頭。(〜1942年(昭和17年))

■有吉忠一の横浜
米貨公債で<震災復興資金>を集め、早期復興に努め 大きな成果をあげました。
「大横浜建設」の三大方針
・横浜港拡張
・市営埋立(臨海工業地帯の建設)
・市域拡張
生糸貿易に大きく依存してきた横浜市の体質を脱却して工業化を推進するために臨海部に大規模な工業地帯を建設し企業を誘致し港湾機能を拡充。
広大な後背地の確保(市域拡大)
市長時代から退任後
横浜商工会議所会頭時代精力的に臨んだのが
「東京湾拡張問題」=東京港開港要求でした。
横浜にとって東京開港は死活問題。東京にとっても東京開港を渇望していました。この問題はすでに明治期からくすぶっていた課題で 震災後は政財界を巻き込んでの大問題になっていました。
有吉は横浜・神奈川の意見を取りまとめ東京と横浜との軋轢解消を推進しました。
首都圏の港湾経済を考える上で、都市間で争っている時代ではない!
という視点から 国と東京市との合意を求め奔走します。
最終的には横浜復興で独自に米貨公債により調達した復興資金の残債半分を国に肩代わりしてもらう代わりに東京開港を制限付きで認めるという結論をまとめます。
「(横浜復興に借りた米貨公債を政府に肩代わり叶えば)東京の希望に反対しない事になった、併し満支関係の船は兎に角、英米の大船は東京には寄港出来ぬ、東京港は水深二十五尺、六七千噸級内せいぜい一万噸級を限定とする実情である、夫はさてをき横浜市民も此解決で初めて積極的に振興の業にあたる事が出来るようになったのである、之は昭和十五年の事であるが、この時市税総額八百七十万円で、市の公債費は総額八百九十万円、市税の全額を挙げても尚ほかつ足らぬという窮境であったのである(中略)ああこれで横浜市民のために、震災のあとかたづけが出来たと、肩の荷をおろした感で、大変本懐に思った事である。(有吉忠一 経歴抄)」
◯有吉忠一関係ブログ
■震災復興 横浜拡大
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命

No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命


1929年(昭和4年)8月19日に飛行船ツェッペリン伯爵号は
何故 急遽計画を変更して横浜上空に現れたのか!
第818話【横浜2345】大横浜の時代

第818話【横浜2345】大横浜の時代 


No.464 昭和5年頃の横浜

No.464 昭和5年頃の横浜


No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド

No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド


No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

■市長エピソード
No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更

No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更


No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?

No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?


■県知事時代
No.445 「有吉堤」

No.445 「有吉堤」


No.443 岸辺のアル闘い

No.443 岸辺のアル闘い

第939話【番外編】横浜のクリスマス

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以前、”クリスマスツリー”の歴史に関して少し調べたことがあります。
日本でクリスマスツリーが飾られたのはいつ頃か?
調べると意外に難しく、ネット上の出典なしネタが多くあり、本腰を入れて出典を調べる必要に迫られましたが、諦めました(笑)。
簡単にまとめると
クリスマスツリーのルーツは諸説ありドイツから始まったのが有力でした。

1.ボニファチウス説
「8世紀のドイツ、樫の木を崇拝する人たちが子どもを生け贄に捧げていました。ドイツの使徒と呼ばれた聖ボニファチウスはこの風習を止めさせるためにオークを切り倒すとき、奇跡が起こりキリスト教の神の力が彼らの神よりも強力であることを示してイエスキリストこそ真の神であることを説いたことに由来。
2.三位一体=三角=樅の木
キリストの三位一体の象徴
3.ユール原型説
北欧に住んでいた古代ゲルマン民族の「ユール」という冬至の祭で使われていた樅の木
は冬でも葉が枯れない生命の象徴。
4.「旧約聖書」の創世記の舞台劇
「中世のドイツでは、イヴに教会の前でキリスト降誕祭の序幕として、楽園におけるアダムとイヴの堕罪の物語を演じる神秘劇が行われていた。」
この<禁断の果実>がなる木を舞台に立てたことに由来。

キリスト教伝来の頃はおそらくツリーは無く江戸時代には長崎の出島ではオランダ商人によって密かに「唐人冬至」を模した「阿蘭陀冬至」としてクリスマスを祝ったそうです。 
時代を近代からとすると幾つか文献がでてきました。
(ドイツ流)
1860年に通商条約締結のために来日していたプロイセン王国使節であったオイレンブルク一行が公館で飾った記録が残っています。

オイレンブルク一行

残念ながら横浜ではなく江戸の赤羽根のプロイセン王国公館でのことでした。
「随員の中の二、三人のクリスマスの準備を依頼した。何よりもクリスマスツリーを立てることが先決だったが、日本で木を一本切り倒すのはいつでも難しいことであった。しかも本当の樅の木は江戸にめったにない。それでも木はぜひとも必要である。(中略)ついに馬にまたがり、何マイルも先まで乗り回してありとあらゆる植木屋を探してやっとすばらしい一本をみつけてきたのである。」
これからが大変だったようで、準備の様子も細かく描写されていますが略します。
「準備そのものがまるで祝典だった。五人の水兵がそのために働いた。(略)すばらしいクリスマスツリーは天井まで届くほどで、オレンジや梨がたくさんそれにぶるさがっていた。」
※冬に梨がたくさんあった?のはいささか疑問ですが
当時、クリスマスツリーで飾り、抽選会などを行いお菓子を振る舞うドイツ流スタイルはゲストとして招かれた英国の将軍ホープ・グラント、領事オールコック、駐日アメリカ総領事館のヒュースケン他のゲスト達も驚きの様子が記されていました。
「オイレンブルク一日本遠征記」より
では、日本人によってクリスマスパーティが行われたのは何時ごろかというと、
1874年(明治7年)に実業家の原胤昭(たねあき)が築地にあったカロザースの妻ジュリアの女学校で開かれたクリスマスパーティーで日本最初のサンタクロースが登場、飾ったのが最初と言われています。
横浜が舞台となったクリスマスツリーの登場は、
1886(明治19)年12月7日
現在クリスマスツリーの日となっている12月7日のこの日
明治屋が横浜で外国人船員向けにお店でクリスマスツリーを飾りつけたそうです。
この日が1886年が日本初の「クリスマスツリー」だ とする説もあるようです。

本町通り明治屋

1900年(明治33年)に明治屋が東京銀座に進出すると、銀座のお店でもクリスマス飾りが広く行われるようになり、広く商店などのデコレーションに繋がったようです。
少し遡ると
1868年(慶応4年)に出された運上所の取り決めの中で、
開港場の休日が、4月7日、5月15日、7月7日、7月15日、8月1日、9月9日の他に、西暦の日曜日そして クリスマスの日が設定されました。
1879年(明治12年)12月には
海岸教会で日本人初のクリスマスの儀式が行われたという記録が横浜市史稿にあり、いち早く教会が建てられた横浜でも”クリスマスミサ”が積極的に行われたようです。
さらに横浜歴史年表でひろった<クリスマス>
1951年(昭和26年)12月19日
日米合同でクリスマス・デコレーションのコンクールを開催する。
1970年(昭和45年)12月23日
横浜公園体育館で市民クリスマスフォークダンス開催。

No.413 あるドイツ人の見た横浜

No.413 あるドイツ人の見た横浜


【番外編】今日はクリスマスツリーの日?

【番外編】今日はクリスマスツリーの日?


<クリスマス風景 クリッピング>

第937話【市境を歩く】川崎市境0その2

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■今回は川崎・横浜市境パート2
かつての日本橋を起点に横浜港に至る国道一号線、現在の国道15号線を越え
いよいいよ「京浜運河」に入ります。国道15号線の市境には、恐らく大正時代に改修された時に建てられた<東海道>の道標がひっそり建っています。国道を越え、平安町(横浜側)と池田町(川崎側)を進み、市境にある京町小学校脇から南下、このあたりはかつて大きな船溜まりがあり、「京浜運河」として日本鋼管他近隣の産業運搬船が利用していました。
現在、河口域の白石橋まで暗渠化しなごりは<電信柱>に残されています。
京浜運河の歴史は古く、
1910年(明治43年)に京浜運河の発起人会が作られ
1917年(大正6年)に京浜運河株式会社が設立されます。
代表は川崎の工業化を推進した浅野総一朗で、周辺埋立に伴う河川や工場用水の排水路及び運搬水路として整備されました。 排水路でもあったため周辺の海苔養殖事業者からは湾岸汚染を抗議する運動も起こりましたが1936年(昭和11年)に「京浜運河」埋立計画が発表されるなか、
内陸部の京浜運河は暗渠化し、
現在は、遊歩道(京町緑地)として整備されています。
途中には横浜市と川崎市が共同で設置した市境モニュメントがあります。
かつて運河だった遊歩道(京町緑道)の両側は工場が密集していましたが、移転・廃業等の跡地は大型のマンションとなり、住宅地へと変貌し続けているようです。
京浜運河は、途中大東町から横浜市側になり末広橋近くで開渠化し旭運河となります。
高速道路「横羽線」と下を走る「産業道路」の通るあたりには
「汐入」「寛政」「新田」といった江戸時代の海岸線を想像させる名前が残っています。
横浜市鶴見区寛政町の寛政は江戸時代の寛政年間に湾岸干拓が完成し年貢を収めることができたことからこの名が付いたといいます。
川崎市川崎区田辺新田は
田辺家により天保年間に開拓が行われ、このエリアのあざなとなり現在の地名になった場所です。市境の橋は白石橋。
市境に架かる「白石橋」から海へ続く「境運河」の先は大工場地帯となっています。市境のゴールは湾岸沖です。この先簡単に市境は歩くことができませんので
市境歩きはこれにて終了。

第934話 横浜を歩く点と線「居留地を見下ろす国」

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横浜の山手には、欧州の国名の付いた空間が多数あります。
フランス山(フランス領事館)
アメリカ山(米国公使館ゆかり?)
イギリス館(英国総領事公邸)
※「港の見える丘」一帯はイギリス山
イタリア山(イタリア領事館)
山手の各国の名に因んだエリアは実に見事だと思います。
ここにオランダとドイツ、さらにロシア・スイスなどがあれば完璧!?
山手で横浜開港史が語れます。
欧米各国とは初期に外交関係を結びます。
 ●日米修好通商条約 1858年7月29日(安政5年6月19日)
 ●日蘭通商修好条約 1858年8月18日(安政5年7月10日)
 ●日露修好通商条約 1858年8月19日(安政5年7月11日)
 ●日英修好通商条約 1858年8月26日(安政5年7月18日)
 ●日仏修好通商条約 1858年10月9日(安政5年9月3日)
この五カ国が通商条約を皮切りにその他の欧州やアジア各国と外交関係を樹立していきます。
開港のキッカケはアメリカでしたが、南北戦争という内政問題で一時期外交が手薄になり、英国がイニシアチブを握るようになります。欧州では、プロシア(ドイツ)、オーストリア、フランスを巻き込んだ緊迫した状態が続き、
1853年〜1856年 クリミア戦争
1861年〜1865年 南北戦争
1866年 普墺戦争(イタリア参戦)
1870年〜1871年 普仏戦争
1877年〜1878年 露土戦争
この間、英国は後にいわれたSplendid Isolation「栄光ある孤立」で大国間の摩擦を回避し中国・インドにおける権益を確保しながら帝国主義へとシフトしつつありました。
幕末から明治にかけて、日本には 世界情勢の縮図が展開されます。
例えば
築港・土木で オランダ(背後にプロシア)と英国がしのぎを削り
対立こそ表面化しませんが居留地での米英対立や
お雇い外国人による国内モジュール競争も熾烈になっていきます。
話を横浜山手に戻しましょう。
横浜開港を契機に列強の一つフランスは横浜居留地に住む自国民の保護と居留地の防衛を目的にイギリスより一年早く山手に軍隊駐屯を決定します。
1863年(文久3年)にフランス海兵隊が“山手186番”に駐屯を開始し軍兵舎を3棟建設します。これがフランスの横浜駐留のはじまりです。
その後、英国が山手山頂に大軍隊を駐留させます。
居留地の人口構成は、一般外国人より圧倒的に<駐留軍>の方が多かったのです。
英仏含めた外国軍が日本に駐留していたのは
1875年(明治8年)3月まで。
約12年間駐屯地として使用されてきました。
No.175 6月23日 フランス軍港があった丘

No.175 6月23日 フランス軍港があった丘

No.94 4月3日 横浜弁天通1875年(大幅加筆)

No.94 4月3日 横浜弁天通1875年(大幅加筆)


(山手からの風景)

第933話 【横浜の企業】横浜のNPK

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肥料工場は日本工業化の代表産業でした。
肥料の歴史は、農業の歴史でもあります。かつて人類は、移動する狩猟生活から定住する農業にシフトするキッカケを得ます。これによって農業生産による食料の安定確保が可能となりカロリー量の高い食物を生産することが可能となりました。そのためには、農地の<地力>を維持させる知恵を得ました。
焼畑農業、輪作等を生産力維持の手段としてきましたが、農業は積極的に肥料を使用することで、生産力を爆発的に増加させることを学びます。
特に平野の少ない日本の国土では、集約型農業であったこともあり江戸時代から<肥料>は重要な商品となり市場を作り出しました。
江戸の農業革命は肥料革命でもあったのです。
魚粕、菜種粕、人糞尿、骨粉などが肥料として活用されました。江戸期、貧乏長屋で家賃を滞納しても立ち退かなくて済んだのは、住民の人糞尿が高額で近郊農業の肥料として買い取られたからです。
そして近代は化成肥料の生産(工業化)をもたらしました。化成肥料生産は19世紀の中ごろから20世紀初頭に始まり、農業生産に大きく貢献し国家政策にまでなります。
肥料を分類すると無機質肥料(化学肥料)と有機質肥料に分かれます。
そして無機質肥料は単肥(チッソN、リン酸P、カリKのうち一つの成分を含んだ肥料)と複合肥料(チッソ、リン酸、カリのうち2成分以上を含んだ肥料)とに分かれます。
目下地球的規模で危機となってるのが安価だったリン酸の原材料の枯渇です。
 
農業とは何かを調べてみると
wikipediaに面白い定義が示されていました。
「農業は、土壌から栄養を吸って生育した植物を持ち去って利用する行為」
土壌の栄養を追加することを追肥をいいます。
肥料の定義を示してみます。
「植物の栄養に供すること又は植物の栽培に資するため土壌に化学的変化をもたらすことを目的として土地に施される物及び植物の栄養に供することを目的として植物に施される物をいう」
人口あたりの農耕地面積が狭い日本にとって肥料生産は国力の基幹となった訳です。
 
舞台を横浜に移します。
明治以降、横浜が貿易中心から工業化へシフトする過程で、肥料関係の企業も存在感を示します。食油製造に使用する大豆の搾りかすは肥料の原材料となるため、関連企業が設立されました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8086
昭和初期(戦前期)の京浜地域の地図を眺めてみると
肥料関係の工場、企業が点在しています。
 
◯大日本人造肥料株式会社
1887年( 明治20年)4月
 高峰譲吉、渋沢栄一、益田孝ら明治の先覚者により、わが国初の化学肥料製造会社である東京人造肥料会社として創業
1910年(明治43年) 7月
 大日本人造肥料株式会社に商号変更
1931年(昭和 6年) 2月
 大日本人造肥料株式会社肥料試験場(横浜市子安)が白岡に移転。
その後「日産化学工業株式会社」となります。
 
◯加里工業
 神奈川区恵比須町9・10
隣接して
◯全国購買組合聯合会
 肥料を含めた購買をまとめた協同組合の先駆けとして戦前の肥料飼料の購買に大きな影響をあたえました。
 
 食油産業も化成肥料の生産の一翼を担います。
◯鈴木商店
1922年(大正11年)
 4工場(大連・清水・鳴尾・横浜)を分離独立させ
  豊年製油(現・J-オイルミルズ)を設立します。
社の沿革には
 「大豆粕は肥料として一般農家に安く提供、食料増産、輸入肥料の代替という点で国家に大きく貢献した。」
 
◯帝国社農芸化学
 企業の詳細不明
◯有機肥料会社
 企業の詳細不明
 
横浜が誇る食油老舗「岩井の胡麻油」も1926年(大正15年)昭和初期に<製油肥料合名会社>となった時期がありました。
●岩井の胡麻油 沿革から
1893年(明治26年)
 横浜市神奈川区御殿町に搾油工場を設立
1900年(明治33年)
 横浜市神奈川区青木町に工場移転。岩井製油合資会社設立
1914年(大正3年)
 横浜市神奈川区星野町に大規模工場を設立
1921年(大正10年)
 家庭用化粧小缶を発売。大正博覧会で金賞受賞
1926年(大正15年)
 岩井製油肥料合名会社に社名変更
1947年(昭和22年)8月27日
 岩井製油株式会社設立