横浜絵葉書」カテゴリーアーカイブ

第993話【一枚の絵葉書】根岸療養院

Published / by tadkawakita / Leave a Comment
根岸療養院
前回は中村石川にあった「横浜市中央教材園」の絵葉書から導き出された風景を紹介しました。今回も前回と同様の「一枚の絵葉書」から横浜史の一風景を読み解いていきたいと思います。
この【一枚の絵葉書】シリーズは、手元の絵葉書から、そこに写し出されている風景を読み解きながら関連情報を探っていきます。
基本読み物としては鬱陶しくなってしまいますが、ご辛抱ください。
1000話までこんな感じです。
前回は 第992話 リケ児育成のために(修正追記)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12622
今回の一枚は「根岸療養院(山海館)」
第一印象はタイトル通り根岸の病院か結核療養施設の風景のようです。
Google検索でいくつか関連データが見つかりました。
「中区史」の地域編のなかで明治期の根岸開発の模様を伝えた記事がヒットしました。
中区史根岸療養院記述
「さらに四十五年七月には五坪(一六、五平方メートル)の家屋を改造した病室を持った根岸療養院が二、一四九番地に建てられたことである。」とあり<所在地>と<設立年>が判明しました。 1912年(明治45年)開設
場所は根岸村2,149番地
これをヒントに開設場所を地図で探ってみました。
手元にある地図では明治45年(大正元年)近くのものが無く、少し時間の経った大正12年、震災前発行の地図から「根岸療養院」の場所を探してみました。
大正12年4月根岸
遡って明治14年の迅速図、昭和に入った根岸周辺地図でもあたってみました。
明治14年根岸
昭和4年根岸
本牧・根岸は戦後海岸線が埋め立てによって大きく変貌しましたが、当時の「根岸療養院」からは眼下に海が広がっていた事でしょう。 ではこの療養院はいつまで存続したのか?Google検索から
大正12年の関東大震災における「横浜・神奈川での救援・救済対応」という震災資料がヒット。
「神奈川県庁は、9月2日、桜木町の海外渡航検査所に救護(治療)本部を置き、傷病者の治療を開始した。3日、同所に県庁仮事務所を置き、高島町の社会館内に傷病者の収容所を設けた。社会館は県庁が震災の2年前に開設した労働者のための宿泊施設である。既に述べたように、同日、衛生課長の下に救護(救療)、衛生材料調達、死体処理などの係を設けて衛生課職員を配置した。医師、看護婦は、横浜市の十全病院、根岸療養院より借り入れ、また、臨時の募集を行って不足を補い、救護本部や社会館内の収容所に配置した。」(中略)「根岸療養院は個人の経営する結核患者の療養所だったが、震災以後、結核患者を郷里に戻し、9月8日から30日までの間、一般傷病者の収容を行った。受診患者数(延べ)は入院1,803人、外来4,299人であった(『神奈川県震災衛生誌』)。10月以後、日本赤十字社に療養院の建物と器具、職員が無料で提供されて、同神奈川県支部の臨時根岸病院となった。
と記載されていました。日本赤十字社と関係があったことが伺えます。
日赤の資料も探ってみると
1924年(大正13年)結核専門の療養施設である根岸療院を開設。とありました。これだけでは根岸療院=「根岸療養院」なのかまだ確定しませんが、この「日赤根岸療院」が源流となったのが昭和21年に改称された「横浜赤十字病院」です。
そして現在の「横浜市立みなと赤十字病院」につながります。
横浜市立図書館のオープンデータに
1917年(大正6年)発行の横浜社会辞彙という当時の紳士録に近い資料がありその中に「根岸療養院」について記載された概要を下記にまとめました。横浜社会辞彙「根岸療養院」項目に院長の名がありませんでしたが、個人名から創設者が<大村民蔵>ということがわかりました。 院長 大村民蔵
根岸2194番地
電話2411番
敷地 2500坪 全9棟 延べ床 525坪
 個人病室 30室
 共同使用病室 8室
全体で凡そ100名の患者を収容。
1912年(明治45年)7月18日 根岸に開設
1913年(大正2年)7月春心館を建築
1915年(大正4年)7月山海館(2階建て)
8月 静温館
10月 浴室等完成
日運館・赤心館
(庭園)松林・梅林・菊園・ダリア
この時点で、図書館DBで他の資料が無いか確認した所
創設者である大村民蔵氏の資料(自伝)がありましたので 創設者大村氏を追いかけてみました。
膨大な自叙伝ですのでプロフィールの一部分だけ紹介します。 大村民蔵
山口県防府市 出身
1869年(明治2年)11月22日
大村茂兵衛の四男として生まれ
17歳のときに故郷から横須賀に移り、役場に勤めた後、鉄道局駅吏として横浜駅(現桜木町駅)に勤務しますが、初心を貫き東京に出て「済生学舎」に学び医師資格を目指します。
1897年(明治30年)12月医術開業試験に合格し医師の道を歩み東京荏原(品川)の病院に勤務します。
※「済生学舎」1876年(明治9年)長谷川泰により設立された医師を目指すための医師免許専門の学校でした。
 野口英世・吉岡弥生・荻野吟子らがここで学び、医師の道をめざしました。
1898年(明治31年)に佐野常民より「日本赤十字社社員」の辞令を受け、これが現在に続く横浜との因縁の一つとなります。
横浜との関係は、東京時代に警視庁警察医務の嘱託となったことで
1900年(明治33年)に神奈川県監獄医務所長の辞令を受け根岸にある監獄署官舎に引っ越したことに始まります。
翌年34年には現職のまま研鑽のため北里柴三郎に就き伝染病学を学ぶことになり、これがキッカケで北里人脈が広がります。
1902年(明治35年)に根岸町871番に診療所を開き亡くなるまで横浜市内で医師として活躍することに。
1924年(大正13年)3月31日
「根岸療養院を、日本赤十字社神奈川支部に結核予防と治療を継続する条件にて譲渡し、根岸療院と改名す。
→ここで前述の 根岸療院=「根岸療養院」 が確定しました。
大村民蔵氏はその後も日赤と深く関わることになり、戦後は地域の医者として94歳まで診療に携わり
1969年(昭和44年)12月101歳で亡くなります。 根岸療養院を支えた多くの医師の中でも初期の二人。
医学博士 守屋 伍造
医学博士 古賀玄三郎

 ともに伝染病研究所で所長だった北里柴三郎の門下生でここ「根岸療養院」との関わりだけでもさらに深い物語が登場します。
志賀潔、浅川範彦、そして守屋 伍造の三名が部長として片腕となり、ここに助手として入所したのが野口英世でした。
■古賀玄三郎は
1879年(明治12年)10月20日生まれ〜1920年(大正9年)
佐賀県三養基郡里村(現:鳥栖市)出身。
1899年(明治32年)長崎第五高等学校医学部卒
上京し、東京市築地林病院(築地五丁目)医員となる
1901年(明治34年)岩手県盛岡市立盛岡病院外科部長。
1910年(明治43年)京都帝国大学医学部に入学、特発脱疽の研究(「チアノクプロール」(シアン化銅剤)の開発)、治療法で博士号。
→当時古賀玄三郎博士によって開発された注射液「チアノクプロール」を1915年(大正4年)7月15日に初めて試みたのが有島安子で作家有島武郎の妻だという記載資料がありました。ここでも横浜と繋がります。
1920年(大正9年)
10月17日大連市(中国東北部)で開催された満州結核予防会 発足にあたり記念講演後、
10月18日大連駅で倒れ、21日に亡くなります(41歳)。
大村民蔵氏は師の北里柴三郎はもとより、福沢諭吉とも関係があったようです。
中でも北里柴三郎は1927年(昭和2年)横浜の絹織物商・椎野正兵衛商店の長女・婦美子と再婚しています。
成功名鑑飯島栄太郎
追いかければキリがないくらい様々なつながりが出てきますが
ここでは最後に 横浜の財界人であった飯島栄太郎氏を紹介しておきます。
「横濱成功名誉鑑」にも登場する飯島栄太郎は境町(現日本大通り)「近栄洋物店」のオーナーとして、創業者であった飯島栄助を継ぎ家業の外国人向けの雑貨店を発展させます。創業者の栄助は近江彦根の出身、幕末期京阪、江戸(東京)を放浪の末、明治3年に元町で業を起こし成功します。明治9年に境町2丁目に移転、西洋雑貨取引で財を成し、
明治31年 息子飯島栄太郎に譲り、栄助は予てより取得していた根岸の別荘に<隠居>
明治38年12月に亡くなります。
飯島栄太郎は、家業の雑貨商だけではな無く、アメリカに留学または滞在し、日本に帰国したのち政界・経済界で活躍した人々が集まり、交友を深め便益をはかることを目的に、明治31(1898)年に設立された米友協会の会員として活躍します。
微妙な日米関係となった白船来航時には、国を挙げて米国艦隊を迎える中、大谷嘉兵衛、野村洋三、浅野総一郎や左右田金作とともに歓迎の晩餐会を開催、日米関係の融和に努めました。
【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7201
彼の表した『米国渡航案内』は明治期の渡米ガイドとして大ベストセラーとなります。
 さらには飯島栄太郎の妻・飯島かね子もまた津田梅子に学び「帝國婦人技藝協會」を創立した傑女でした。 またまた遠回りになりましたが、
飯島栄太郎の父、「近栄洋物店」の創設者 栄助が隠居した根岸の別荘が栄助死後、空き家になっていた関係から
友人だった 大村民蔵のサナトリウム計画に協力し、別荘と敷地を譲渡することになりました。 ネット検索の過程で
「根岸小学校は全国でも最も早い時期に学校医の制度を導入したことで知られる。校医は日赤の実質的創設者でこの地で長年結核の治療にあたった大村民蔵氏」とあり、検証してみました。
学校医は明治期から法律的に導入されている制度で
「1894(明治27)年5月に東京市麹町区,同年7月に神戸市内の小学校に学校医が置かれたのが日本における学校医の始まり」であり、大村民蔵氏が根岸小学校の校医を拝命したのが1903年(明治36年)のことでした。また日赤の実質的創設者というのもおそらく間違いです。
「根岸療養院」は神奈川県内の日赤病院草分け的存在といえるでしょう。
という感じですか。
後から発見した別の全景がわかる根岸療養院はがき。
一枚の絵葉書の風景から様々な関係が見えてきました。
大村民蔵は近くにあった「根岸競馬場」とも関係があり、競馬に関するエピソードも満載です。
まだまだ人・場所・出来事との興味ある繋がりがありますが、
今回はここまでにしておきます。

第992話 リケ児育成のために(修正追記)

Published / by tadkawakita / Leave a Comment
<絵葉書の風景>
一枚の絵葉書風景を読み解きます。
タイトルは「横浜市中央教材園」です。
高台にあるこの施設はタイトルが示すとおり「中央教材園」の温室と関連施設と思われます。
設置されている場所は現在の「石川小学校」の隣接地で、敷地内の北側に位置した場所に「温室」と「植物栽培用の耕地」がありその一部です。
写真の右端に見える大きな建物は、天正5年(1577)に創建した「玉泉寺」と思われます。
当初明治五年に開山した浄光寺と判断しましたが、ご指摘を受け当時の地図と角度を合わせ、異なることを確認しました。
石川小の前を通る坂は坂は「遊行寺坂」と呼ばれこの近くに生まれた作家の吉川英治も歩いた坂です。
遠景は中村町一・二丁目が眼下に見え、遠くには関外(吉田新田)エリアが広がっているのがわかります。隣接する浄光寺は時宗総本山「遊行寺」 藤沢清浄光寺と同じ<時宗>のお寺です。

玉泉寺と中村川
※大慈山瑠璃院玉泉寺
天正5年(1577)に創建
高野山真言宗
横浜市南区中村町1-6-1
関東大震災で全て消失。
昭和6年202坪の本堂が竣工。 写真に写っている本堂は昭和6年に竣工したものと思われます。
撮影時期が少し絞り込まれました。
[教育施設の基本]
絵葉書の「横浜市中央教材園」とは何なのか、少し資料を追いかけてみました。
一昔前まで、進学時には<理系><文系>という分岐点がありました。未だ色濃く文系・理系の区別がされていますが最近では統合型の教育もかなり導入されるようになってきました。
そもそも文理の分離!?
は高校あたりの<数学>との付き合い方で変わってきます。
数学に通じたリケ女がクローズアップされてこうネーミングされると理系が少し”近くなる”と感じるのは文系おじさん現象でしょうか。 冗談はともかく、教育、特に自然科学系には教室と教師だけではなく実験室や教材の準備他 様々な設備を必要とします。
戦前の初等教育でも自然科学系教育の設備投資は厳しかったのかもしれません。いつの時代も必要性を説いた先人が新しいジャンルを切り開いてきました。
下記の文面は大正15年に発表された「中央教材園の必要」と題されたものです。
ここでは
理系児童の育成プログラムとして教育用の植物教材を提供するための「植物園」開設が説かれています。 「市民をして特に自然科学の一般に習熟せしめようとするいわゆる自然研究の第一歩は小学校における博物教育の実績いかんにかかる。それにはまず生徒をして十分博物(ここでは特に植物に関する方法を指す)の知識を授ける手段として実物に日夕親しませる必要がある。このためには本来ならば各学校に植物園、植物見本園、栽培園のごときものを併置するのが最も有数であるが しかしこれはいうべくして行われる程度でない。殊に狭い都市の中には小学校の校庭を占めるさえかろうじてできるくらいなのにどうしてそれ以上贅沢な圃場までとることができよう。」ということで、各小学校に<教材>をおくるための施設「教材園」が必要だ!と説いています。
「この種の計画には相当広い面積を必要」
「相当経験のある技術者」を揃えれば各学校に必要な植物教材(苗木・種子・切り花)を配布できる。ということで、この資料には 小学校教材になりうる植物の一覧が紹介されています。一部を紹介しましょう。 リストでは「栽培容易」「栽培困難」に分類されていて、
パインアップル、マニラ麻、コーヒー、オリーブ、マングローブ、ユーカリ、やし 等
熱帯地域の植物もリスト化されていました。
そこで「温室」が必要となったのでしょう。
現在ではごく普通の「温室」(ビニルハウス)風景ですが、温室装置設置は戦前、丈夫なビニールなど無く板ガラス、強度を保つ枠など当時の最先端技術を必要としました。
横浜市は全国に先駆けて自然科学教育教材用の植物を育成する温室をここ「石川小学校」に隣接した高台の一角に「横浜市中央教材園」を昭和4年に開設します。
昭和7年ごろの石川小学校付近。教材園は南東に隣接したところに開園。
徹底調査していませんが、絵葉書に写された「横浜市中央教材園」は別の資料にも日本で唯一という表記があり、当時はかなり珍しかった施設と思われます。
この「横浜市中央教材園」
横浜市南区中村町1丁目66番地
に設置されていました。
中央教材園に関して簡潔にまとまった沿革が「横浜市学校沿革誌」にありましたので紹介します。
「石川小学校わきの山谷埋立地を昭和2年7月より整地開墾し、昭和4年4月27日、石川小学校の校舎落成式と同時に開園式を行い、1,250坪の教材園を開園した。
当時は植物教材の配布、温室による観察等に機能を発揮していたが、昭和19年8月以降は戦争が激しくなったので、農業指導所(経済局所管)になり、温室も取り払われて食料増産園となった。
昭和26年6月に至り再開されることになり、運営委員会も組織され温室も再建され、花壇、薬草園、蜜蜂園等も年を追って充実を重ねて観察用、研究用、又は教材の配布に活動している。
また、中央教材園の活動を地域的にたすけるため、大鳥小、鶴ヶ峰小、本郷小、金沢中、杉田小、潮田中、六角橋中、富士見台小、市立商業高、谷本中、谷本小に分園が置かれている。
連合協力園として間門小、根岸中、浜小、杉田小、文庫小、市沢小、新治小がある。
昭和50年2月、南区六ツ川所在の都市公園に設置を進めている「こども植物園(仮称)」内に移転した。(横浜市学校沿革誌)」
まとめると
 昭和2年に準備が始まり
 昭和3年に完成、翌年昭和4年新学期に隣接している石川小学校校舎新築と一緒に開園式を行い
 昭和19年に閉鎖
 戦後昭和26年に再開され昭和50年に南区六ツ川「こども植物園」内に移転
戦後の復活した後の施設レイアウトです。地図にあわせて北を上に向け画像を回転させました。
昭和27年ごろ、教材園の表記は無く更地のようにも見えます。
[設置目的]
 当時の教育課長であった中川直亮の話によると
 「理科教育の基本である観察・実験・実習・直感の育成過程において、
 教材はできるだけ実物を見せなければならない。」

 ※特に都市部の教育には本物が求められる。
 「直接実物に接しさせることによって、自然の理をわきまえ、自然の美を感得することになる。」
  と語っています。
[運 営]
 そこで、この「横浜市中央教材園」が 市内初等教育における
理科学習教材供給センターとしての役割を担いました。
当時の記録では、季節季節の植物教材がまとめて栽培され、市内各校の自転車・リヤカー等を使って配布し、配布した植物の栽培育成方法を技術指導に赴いていたそうです。
開園から2年たった昭和6年にはさらに規模を拡大し、六角橋に分園(専用農園)を開き、養蚕実験も開始します。養蚕に必要な桑葉は小机から運んだそうです。
見学に来た子どもたちの人気は養蚕風景・バナナ・パイナップルなどの熱帯植物だったそうです。
養蚕風景。本文とは直接関係がありません。
戦後、教材園を見学する子どもたち。
「横浜市中央教材園」
基本的に北斜面という恵まれない条件でした。植物育成には南斜面が必要ですがなぜここに「教材園」設置が決まったのか、これに関する資料には出会っていません。
理由を考えた時、この中央教材園が設置された石川小学校の歴史が古く、学校経営とも深く関係があったと想像しています。
<石川小学校>
1872年(明治5年)「養賢学舎」として「玉泉寺」境内に設立した古い歴史を持っています。明治33年には児童数約1,300人を抱え、学区は石川町、石川仲町、中村町でした。
植物園は独立組織でしたが温室管理には学校の協力が欠かせません。当時の校長であった荒波階三以下教師陣による積極的姿勢が関係していたかもしれません。校長を勤めた荒波階三は平沼小学校の訓導(教諭)から大正13年11月に就任、新校舎造営に関わり昭和3年10月の新校舎落成後、平沼小学校長に転任しています。その後「青木国民学校長」を戦後まで勤め昭和21年の三ツ沢小学校への統合を終え退職しています。
もう一つ、ここに温室のある植物園が設置された理由と思われる要素がありました。
この石川小学校近くには明治期から国際的な植物ビジネスを手がけてきた「横浜植木」があります。
横浜植木
https://www.yokohamaueki.co.jp
明治期に創業、いち早く世界の植物サンプルを集め、米国にも支店を出すなど、当時の日本園芸、植木業界のリーディングカンパニーとしての業績を今に残しています。間接的かもしれませんが、横浜植木の技術的支援を受けた可能性は高いと思います。 [その後]
横浜市こども植物園
■沿革
・横浜市こども植物園の前身は昭和30年に世界的な植物遺伝学者、木原均博士が財団法人木原生物学研究所を、京都市郊外の物集女(もずめ)から移転してきたところから始まる。
横浜市はその一部を昭和45年3月、公園用地として買収し、当初は横浜市教育委員会が、児童、生徒の理科学習や教職員の野外研修所「子供自然教育園」として使用し、その後、教育委員会の中央教材園分園として活用していた。昭和49年に教育委員会から緑政局へ管理移転されて、公園整備工事に着工し、昭和51年度都市緑化植物園として都市計画決定を得て整備を続けた。
昭和54年6月23日国際児童年を記念し、世界で唯一、「こども」と名のつく植物園として開園した。
目的
 ①横浜市こども植物園は、一般の都市公園とは異なり、植物を題材とした自然史博物館的施設として、多くの種類の植物を収集・保存、育成・展示し、利用者に観賞してもらうことを目的としている。
 ②植物をとおして、自然に親しむことにより、子供が植物に関する知識を深め、緑を守り・育てる心を育むことを目的としている。
 ③機能的には植物研究型やレクレーション型の植物園ではなく、主に子供を対象に普及啓発的活動をとおして教育する指導型の植物園である。
[概要]
果物園(木原博士のコレクションが元になっている200年以上存続した品種の保全接ぎ木等)
花木園(教材園の頃からあった樹木を中心に、生活や文化との関わりの深い代表的な種で、話題性のあるものを選んで植栽している)
薬草(身近な薬草をはじめ、染料、香料、工芸、油料植物等、生活に利用する植物や、役立つ植物を植栽展示)
生垣園(生垣として用いられる代表的樹種28種をあつめ、植栽展示)
シダ園(日陰地を利用し、約50種を植栽展示)
タケ園(生活に深い関わりのあるタケの仲間をタケ、ササ、バンブー類に大きく3つに分類し、30種を植栽展示)
その他:市内に自生する野草約150種を使って、ロックガーデン風展示。市内の海岸から平地・山地まで自生する野草という観点で植栽している。
温室群・管理圃場・実習圃場・池(水生植物見本園)
現時点ではここまで、
なにか新資料に出会ったら、さらに追いかけてみたいと思います。 石川小学校
http://www.edu.city.yokohama.jp/sch/es/ishikawa/ No.225 8月12日 (日)太夫 打越に死す
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=382

第991話 【横浜の階段】百段坂

Published / by tadkawakita / Leave a Comment
<階段>の視点で横浜を紹介します。
横浜の階段、第一弾は元町百段坂です。
ここは下記のブログで紹介しました。
【横浜の風景】元町百段坂を数えてみた!
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9211
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9901
今回は視点を変えて 私の手元にある資料から年代順に並べてみよう!
という単純テーマです。(少々手抜きですが)
元町百段は
明治初期の百段坂。電柱がありません。
上の写真を拡大
初代木製の前田橋、人家の壁の<シミ>が良くわかります。
「厳島神社の末社で、かつては旧横浜村の海辺にあった浅間神社は、1859年の横浜港開港後の開港場整備に伴い住民が元町に移った1860年(万延元年)に、山手の丘の上に移された。その際に、運上所御用船の船頭である勘次郎が、元町の前田橋の先から浅間神社にまっすぐ登る石段を寄進した。石段は101段あったことから、「百段坂」や「元町百段」と呼ばれ親しまれた。丘の上には浅間神社の祠のほか、港を一望できる見晴台や茶屋が設けられ、多くの日本人や居留外国人が訪れた。
1923年9月1日に発生した関東大震災で石段は崩落し、丘の下の数十軒の家屋を押しつぶし多くの犠牲者を出した。その後石段が再建されることはなかった。元町百段を偲ぶものとして、1987年に浅間神社跡に元町百段公園が開園。1991年に元町商店街に完成した商業ビルは「百段館」と名付けられた。」

(Wikipedia)
「この地は、横浜の開港時から大正期にかけて、浅間山の見晴台と呼ばれ、たいへん眺望のよいところでした。右の写真は、当時前田橋から「元町の百段」を撮影した貴重なものです。元町二丁目から急な石段が百一段あったのですが、市民は「百段」と呼んで親しんだものです。この場所には、元町の鎮守厳島神社の末社の「浅間神社」が祭られ、小さな茶屋があり、外人の観光客もよくここを訪れています。浅間神社は、もと横浜村にありましたが、万延元年(一八六〇年)に横浜の村人が元町へ立ち退いたとき、いっしょに移されました。昔は、ここから港の出船入船や関内地区が手に取るように見え、遠く神奈川宿の旅篭や茶屋までが見渡せました。この公園は、関東大震災で崩れて、今はない「百段」の歴史をここにとどめるように造られたものです。」

百段坂 碑文
碑文に使われている横浜絵葉書
百段坂から開港場を眺めた風景
「浅間坂の所謂百一段は、坂上の雨森家と共に有名なものであったが、地所約三十坪諸共顚落して、その眞下の二丁目百九十七番地より三丁目百三十二番地までの数十軒の家屋が埋没され、全滅に近き程度の死者を出した」 (横浜震災誌)
百段坂下に電力用の柱が建てられた頃。
上より少し後の百段坂。電力利用加入者が増えています。
電信用の柱が建ち、碍子数が30数えることができます。
文面に明治38年7月21日とあります。服装から季節感もほぼ一致しているようです。
電信用架線が橋を越え、中華街側に伸びています。大正初期と推定できます。
電信柱から伸びる専用架線
ではコレクションの範囲内ですが、年代順に並べてみました。年代推定の根拠は<電柱>です。
ミニネタ番外編】横浜電信柱探索(加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5311 現在、元町百段の面影を探すことはできません。この場所を写した風景写真(絵葉書等)はかなりの数ありますので、当時の観光名所としても人気のある場所であったことは間違いないようです。

【閑話休題】

Published / by tadkawakita / Leave a Comment
第990話 近代・ミシン・横浜
を三回に分けて書きましたが、結果消化不良になってしまいました。
この事件は、偶然書店で購入した「ミシンと日本の近代」の中で横浜中央店を舞台にした労働争議の模様が実に詳しく書かれていたので、簡単に紹介してみようと思い立ちました。
「シンガーミシン争議」は横浜市史に書かれていたので概要は知っていましたが、
歴史や市場背景に関しては追いかけていませんでした。
なぜ”ミシン”で乱闘事件が起こったのか?
詳しくは「ミシンと日本の近代」を!
「ミシンと日本の近代」
ミシンは日本の近代化を考える上でとても興味深い道具です。欧米より日本の近代化におけるミシンの存在は大きいでしょう。<和服>から<洋服>へ そして近代軍隊への転換にミシンは重要な役割を担ってきました。
確かに軍服という近代の象徴はうなづけます。ここに日清・日露戦争による未亡人・女性の自立があったり、女性の総合教育の機能を担ってきた背景があります。
一方で企業のグローバリズム化による初期資本主義の弊害をここにみることができます。 横浜を素材に日本の近代化(異文化の受容)を考えてみたい。
これが現在の私のテーマです。
異なったこと、違うモノを受け入れる際の「受容と拒否」が近代化の日常でした。異なったことを<新しいこと>に置き換え、新しいことは<良いこと>という物語を維持しながら、日本は比較的スムースに近代化の道筋を歩んできたように思います。
開港開国以降、明治維新を経て、日本の近代化はある意味”節操の無い”程の積極的受容を試みます。歴史家の中では「不平等条約」を撤廃するための受容だった、と分析している方もおります。
異文化導入をテコに、武士政権から天皇を軸にした立憲君主的な政治構造への変革を遂げるには近代化の需要は必須だったのかもしれません。
日本人はアジアの中で早く近代化の道を歩み始めます。時期的にも 受容の速度としても早かったことは事実です。 横浜の明治から大正期の人通りから 横浜でも圧倒的に女性は和服だということが分かります。
当時の服装を絵葉書から眺めてみます。
伊勢佐木、花見煎餅、玩具の満利屋、ガス灯が見える。人々はほぼ和装。自転車も普及。
伊勢佐木町界隈の風景。ハットをかぶる男性、傘をさす和装女性、和装の従業員、自転車に乗る白服男子
野毛の風景。車夫以外は和装。右側は最近閉店した醍醐三河屋茶店
大正末期の風景、母親は和装、子供は洋服(制服か)
明治期の子供たち。
大正初期の風俗絵。尻にひかれている子供を背負う洋服の夫と和装の女性。

第989話【運河物語】派大岡川

Published / by tadkawakita / Leave a Comment
横浜の運河を追いかけています。
今回は「派大岡川運河」です。
大岡川と中村川を結び、吉田新田誕生と同時に誕生し昭和48年に消えた運河です。
明治45年関内地図
吉田新田図(幕末)
上図は、幕末開港直前の吉田新田付近です。横浜村がペリーとの交渉場所となり、その後開港場がここに誕生します。太田屋新田ができるまで、「派大岡川」ではなく中村川河口の入江でした。それが、開港場となり治水と居留地出島化の役目をもって中村川が山手に沿って延長開削され「堀川」運河が登場します。
これによって、本来なら埋め立ててしまったほうが交通上は大変便利ですが、出島条件の方が優先され、また、当時の水運は物流に欠かせませんでした。
「派大岡川」として水路、運河は温存されることになります。
大岡川下流域運河群の中で、意外に思われるかもしれませんが、過去の橋の長さの記録や写真などから「派大岡川」が最も川幅があったことが判ります。(後述) [橋梁群]
派大岡川には最大時で7つの橋が架かっていました。
明治45年西ノ橋付近横浜電気鉄道予定線
0:<謎の橋>明治45年の地図に掲載。横浜製鉄所のあった倉庫群につながる軌道鉄道が西ノ橋近くの<派大岡川>に設置される予定でしたが、計画で終わります。 1:吉浜橋※
 吉浜町と小田原町を結ぶ橋です。
 関外エリアにあった石炭倉庫(幕末に横浜製鉄所→石川島播磨)に渡る橋でした。
吉浜橋から横浜電気鉄道
派大岡川と吉浜橋
2:花園橋
 薩摩町通りと扇町通りを結ぶ橋です。
 この橋の親柱は現在港中学校校門移設されています。
花園橋親柱
3:港橋※
 関内駅脇に架かっていた港橋通りと不老町を結ぶ橋です。
 派大岡川に架かっていた橋の片辺の欄干が唯一残っています。
市役所と派大岡川
派大岡川港橋
4:豊国橋
 港町と蓬莱町を結ぶ橋です。明治30年に弓形をした三連ピントラス橋が架かっていました。
 豊国橋横に吉田川運河が合流し蓬莱橋が架かっていました。 5:羽衣橋※
 震災後に架橋されたもので現在は羽衣架道橋として国道16号線の橋梁として使用されています。
  6:吉田橋※
 吉田橋は関連記事を多く書いています。
 第942話【謎解き】吉田橋広場
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11269
 【横浜の橋】№3 横浜を語るなら吉田橋を知れ
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8106
 No.698 【横浜 橋物語】幻の橋?、吉田橋。
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6265
 【絵葉書が語る横浜】 吉田橋脇
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5814
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5816
 【しりとり横浜巡り】6月10日(火)吉田橋
 http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=4934
7:柳橋
 かつて大岡川の十字路があった場所です。港町六丁目と柳町を繋ぐ橋です。橋近くの岸には<柳>が多くあったようです。現在はちょうど橋のあたりが横断歩道となっています。
大岡川十字路付近(柳橋・都橋)
[消えた運河]
現在、派大岡川は首都高速道路用地となって運河は完全に消えてしまいました。
1960年代には国鉄根岸線が延伸し派大岡川に橋脚が埋め込まれ、運河の上に関内駅が開設され、市役所と横浜球場の玄関として多くの乗降客で賑わっています。現在も根岸線高架部分は<高架橋>ではなく<橋梁>のプレートが残っています。
間もなく市役所移転で、関内駅の様子も大きく変わっていくでしょう。
※印は現在なんらかの形で痕跡が残っている橋梁(横断道)です。
この中で、最も知名度がある橋は「吉田橋」ですが残念ながら昔の姿からは想像もできません。 [舞台]
派大岡川が舞台となった映画の一つが「わが恋の旅路」です。劇場公開1961年(昭和36年)5月16日で、監督 篠田正浩、曽野綾子の「わが恋の墓標」を元に寺山修司と篠田が脚本化した恋愛映画です。キャストは岩下志麻、川津祐介、月丘夢路 他
1960年から61年にロケを行っているので、派大岡川に根岸線の橋脚工事が始まっていたり、港橋、吉田橋、吉浜橋にある横浜中央病院、吉田町商店街の川沿い風景がたっぷり出てきます。
主役の二人が出会う派大岡川岸の喫茶店や、大岡川を使った運河生活の風景が登場します。
第900話【舞台としての横浜】わが恋の旅路
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10161 [運河幅]
派大岡川の特徴の一つに、広い川幅があります。
大岡川運河群の中でも最大級の幅でした。運河群の川幅はどのように推定したかといえば、昔の橋梁スペックから推定してみました。
吉田橋:40.22m
吉浜橋:46.7m
柳 橋:51.5m
豊国橋:42.75m
このデータから 派大岡川の川幅は40mくらいとしました。吉田橋は橋脚部分がせり出しているために短い構造のため、他の橋より短くなっていると思われます。
終戦時焼け跡
以上のように、派大岡川は開港場が発展する時代から今日まで、関内外の重要な運河でした。今は消えてしまった橋梁のなごりを探しながら当時の姿を想像するのも楽しいものです。

第988話【横浜真景一覧絵図比較】 その2

Published / by tadkawakita / Leave a Comment
明治期に発行された鳥瞰図マップの傑作「横浜真景一覧絵図」から当時の風景を比較します。
今回は建築物です。
明治25年版と35年版からトピックスを幾つか探し出しました。
明治25年版・明治35年版比較
[横浜税関]
この絵図の海岸中心部には桟橋(象の鼻)とそこに明治期の日本を支えた貿易を司る”税関”が鎮座しています。これが二代目横浜税関庁舎です。
当時の最先端建築物の代表格で
1885年(明治18年)11月に竣工、日本大通り正面に建ち、国家を支える威厳を表していました。
竣工間近の鉄桟橋と横浜税関
1923年(大正12年)の関東大震災で崩壊し、
新しい”税関”建設が計画され1934年(昭和9年)隣接地に「3代目横浜税関庁舎」が完成し現在に至っています。
<絵図>で描かれた税関庁舎は当時の横浜絵葉書の素材にも多く選ばれています。
絵葉書を参考に絵図を確認すると、中央に六角形の塔をもつ左右対称の煉瓦造り2階建て庁舎であることが判ります。
エピソード
税関は絵葉書で、良く観察すると左右対称ですが若干違いがあることが判ります。
おわかりですか?
左右の揃った切妻屋根に煙突が出ていますが、屋根の煙突本数が異なっています。
最初に出会った横浜税関絵葉書
最初に出会った横浜税関絵葉書 二代目横浜税関
その後入手した税関絵葉書を見て、何か不自然さを感じました。
<左右が逆>つまり<逆版>になっていることが判りました。
二代目横浜税関
二代目横浜税関(逆版)
どこで判ったのか?
 大正期まで電柱は、道路を挟んで電信用と電力用が別々でした。それぞれ電信柱(でんしんばしら)・電力柱(でんりょくちゅう)と呼びます。
二種類の絵葉書、電柱の位置が逆、
左右対称の建造物ですので、当時の原版はガラス乾板でしたので<逆版>がたまにあります。
問題は 二版の風景、どちらが正版かということです。
 文献写真等から判断すれば簡単!でも資料そのものが逆版であるという可能性も隠しきれません。この風景の左右を証明できる確証がないか? [逆版証明]
横浜税関風景写真、どちらが逆版なのか。
2つの左証が見つかりました。
・税関から横浜公園に続く”日本大通り”風景→電柱分類
・税関前のポスター→文字で判る
日本大通り風景。税関から横浜公園方向。向かって右側に電信、左が電力
税関前日露戦争勝利祝賀ポスター
ということで、正しい横浜税関の姿がわかりました。
※少々絵図からは逸れました。 [仏蘭西波止場]
現在の大桟橋に対し元町堀川寄りに小さな桟橋がありました。一般的には「仏蘭西波止場」と呼ばれました。
幕末明治期の<桟橋>名称も若干混乱の種です。
25年版では「西波止場」とあります。
35年版では「仏露西波止場」と表記、この仏露西 他でも見かけることがあります。
でも
“西波止場”は仏蘭西の西
“仏露西”は仏蘭西の誤植だと思います。
 深く追いかけません。追求は別の機会に。
英吉利波止場
[指路教会]
明治25年版と35年版にこそ時間経過が判る場所の一つを発見しました。尾上町通りにある指路教会です。
■指路教会は横浜居住地39番に設立され
1892年(明治25年)に現在の位置に移転しました。
明治25年版に描かれる時は、塗(ヌリ)で隠されていましたが
尾上町通、ヌリあり湊六丁目
明治35年尾上町通り、指路教会。横須賀航路出船所も確認
明治35年版では教会の姿が描かれています。
これが資料によると初代の教会で、関東大震災で倒壊し、その後再建されますが横浜大空襲で内部が消失し再度再建という歴史を刻んでいます。
この35年版に描かれている”指路教会”がどの程度正確なのか? 指路教会のHPに小さな写真が掲載されていました。
指路教会の写っている絵葉書を探してみました。尾上町通りの路面電車時代(横浜電気鉄道)の風景がありました。
横浜電気鉄道株式会社は
1904年(明治37年)から1921年( 大正10年)まで運行しその後、横浜市電気局(市電)となりました。
明治35年版と絵葉書、若干向きと構造が異なりますが、
塔と教会が判ります。
尾上町通と大江橋
尾上町通と大江橋
明治25年版では
 この場所がヌリで消されているようにも思えます。
 指路教会が建つ前の風景が書き込まれていましたが、その後教会建設が始まったために修正されたと解釈できないでしょうか。
日本人街と外国人街で異なる町並み
[絵図の町並み]
絵図には平屋と二階建ての建造物中心に町並みが描かれています。
二階建建造物などは、当時の様子をある程度反映していたと思われます。
外国人居留地では二階建て構造が多く
日本人街では平屋が多いことが見えてきます。
さらに軽量的に観察すると色々なことが見えてくるのではないでしょうか。
→(宿題です)

第987話【運河物語】桜川

Published / by tadkawakita / Leave a Comment
横浜の運河を追いかけています。
【真景絵図】シリーズの合間に運河を入れます。

今回は桜川運河です。
桜川は現在の横浜中心市街地を支えた運河群の一つで大岡川と帷子川を繋ぐ約2kmの運河でした。
1870年(明治3年)に誕生し翌1871年(明治4年)には「桜木川」と呼ばれましたがその後「桜川」となりました。この「桜川」、
河川史関係の資料では1954年(昭和29年)に消滅したことになっています。
開港資料館の<消滅した8つの運河>では桜川も消えた運河の一つとして紹介されています。
ただ”正確”には現在もしっかりと”桜川”は存在しています。(後述)
桜木川から桜川に名称変更された年代が特定できなかったのでここではすべて「桜川」と表現しておきます。
消えた部分の桜川は現在「新横浜通り」になり、地下には市営地下鉄が走っています。海側にはかつて造船所だった場所が「みなとみらいエリア」に変貌し、ここが運河であったことを全く感じることはありません。バス停や信号機、路地に一部名残を残すのみです。
旧桜川、紅葉橋付近
明治3年ごろ内田清七埋め立て用地
[桜川誕生]
桜川は、鉄道を敷設するために埋立工事を行った土地の”用水路”として誕生しました。
明治維新早々、横浜と新橋(汐留)の間に鉄道計画が持ち上がります。
品川から神奈川まではなんとか敷設できそうでしたが、問題は海や沼に敷設するという課題でした。
明治21年頃、鉄道用地
品川・新橋間には沼地が広がり
神奈川から開港場までは「帷子川」河口の入海・「野毛浦」の山が障害でした。
鉄道黎明期の歴史書では最大の難関だった帷子川河口域を埋め立てた高島嘉右衛門の功績が必ず採り上げられています。もう一人、現在の桜木町駅周辺の敷地を造成したのは内田清七という人物です。その名に因んで鉄道敷地の大半が「内田町」となっていました。しかし、彼の名は時間が流れるに従い消えつつあります。
残念なことです。
内田清七は、切り立った野毛浦沖を埋立てて広い鉄道用地を完成させます。この埋め立てた敷地と野毛の山からの排水路として運河を整備したのが「桜川」です。
横浜沿革誌明治3年5月

※『横濱沿革誌』
「明治三年(庚午)五月。吉田橋脇ヨリ入船町野毛浦迄埋立竣功、之ヲ新街道ト云。受負人真砂町(京屋)内田清七、入船町ヨリ野毛浦埋立地地固メノ為メ、葭簀張納涼茶屋、其他軽業・辻講釈、昔噺等ノ興行ヲ神奈川県裁判所二出願、許可ヲ得テ興行ス、而シテ其土地ノ潤沢景況ヲ輝サンガ為、烟火百数本、仕掛数個ヲ打揚ゲヲ出願シ、野毛浦海岸ニ於テ施行ヲ許サル、故二六月二十一日の夜、船数隻ヲ浮べ、鍵屋製ノ煙火百数本、仕掛数個ヲ打上ゲ、横浜川開キの創始ヲ催しシタリ、爾来、納涼遊歩者日々群ヲ成シ、麦湯店ノ流行殆ンド埋立地ノ過半ヲ占ムルニ至レリ」
この時に、”大江橋の橋台・柱石建設工事開始(内田清七請負)”も行い、大江橋竣工(明治5年)にも深く関わっています。
「京屋内田清七が請け負って埋め立てた所で、明治5年に内田町字1丁目から12丁目までを新設した。明治20年に内田町字3丁目から5丁目までの片側を長住町とし、内田町は字1丁目から8丁目までとなる。町名は埋立者の姓「内田」を採った。町は飛地状となっている。(中区)」
<余談>
この横浜沿革誌に書かれている内容は当時の土木事業を知る重要な鍵が隠されています。
“地固メノ為メ”にイベント(興行)を行い”土地ノ潤沢景況ヲ輝サンガ為”人よって土地を踏み固めるという手法を用いています。
地固メ手法は江戸期からさかんに行われ、戦前横浜川崎の海岸線埋立事業でも人を集めて踏み固めた記録が多く残っています。 [双十字路]
桜川には大きな特徴があります。
大岡川と帷子川を結ぶ運河で接続部が当初両方共”運河十字路”でした!
・大岡川十字水路
桜川・大岡川十字路
現在は桜川と派大岡川が埋め立てられています。 ・石崎川十字水路
石崎川・桜川十字水路
現在は桜川と石崎川下流が埋め立てられ、変則的に曲がり帷子川に繋がっています。
石崎川は大岡川支流の中村川のように、河口の無い川です。
(消えた石崎川河口)
冒頭に桜川は消滅していない!と紹介しました通り、桜川は現在も残されています。
平成8年桜川・石崎川
[因縁 横浜駅]
桜川大岡川口には初代横浜駅(現桜木町駅)があり、
初代横浜駅
桜川石崎川口には二代目横浜駅(現在遺構のみ)があります。
二代目横浜駅
[桜川の橋]
大岡川から桜川に架かっていた橋は
錦橋
緑橋
瓦斯橋
紅葉橋
雪見橋
花咲橋
このあたりから時代を経て変化します。
明治10年代は「大平橋」が架かっていて、石崎川に合流します。
その後、平沼新田造成が進み、
横浜駅が高島町に移設されることで石崎川の架橋状況が変わりました。
また地図で推理する限り、桜川が「二代目横浜駅」を避けるために流れを変え、より石崎川上流側に合流地点が移ります。
大平橋→戸部橋・櫻橋→石崎川に合流
石崎川に架かる橋
西平沼橋
梅香崎橋
石崎橋
<桜川合流>
高島橋
(富士見橋)埋立廃止
→<石崎川十字水路>が無くなります。
桜川の下流部が石崎川下流域になり
材木橋
(不明)浅山橋か?
<帷子川合流>
万里橋
築地橋
大正2年桜川
新横浜通り(桜川)
まだまだ桜川近辺の歴史も含めると色々な歴史ドラマが隠されています。
今回はこのくらいにしておきましょう。
桜川関連マイブログ
第873話 【絵葉書の風景】駅前劇場
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9465
※ちょっとお宝話 第977話【横浜の道】国道16号線
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12004
新横浜通り
第960話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第五話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11695
桜川B橋
第891話【横浜の橋】A B 橋
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9936

第985話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第六話

Published / by tadkawakita / Leave a Comment
今回から数回に分け、尾崎富五郎の描いた二版の鳥瞰図を元に(十年間の)変化を読み解くことにします。
この「横浜真景一覧絵図」徹底研究シリーズは今回で第6回目となります。
明治25年版
明治35年版
第1回から第5回までのシリーズで基本資料としたのが
「横浜真景一覧絵図」1892年(明治25年)版です。
第956話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第一話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11569
今回はこの25年版を改定した10年後の明治35年版を元に2つの絵図を比較し町の変化を観ることにします。
間違い探しみたいです
(開港場膨張)
25年版(1892年)から35年版(1902年)までの10年間は「横浜関内エリア」が大きく変化した時期にあたります。
特に変化したのが、湾岸部と大岡川の運河群です。
明治25年版
明治35年版
<湾岸部>日本波止場から
  大波止場(英吉利大波止場)まで
 海岸通り沿いにある製鉄所・日本郵船の本社先が埋立てられています。また、開港後暫定的に作られた突堤<象の鼻>から桟橋が伸びています。
25年版が出版されるころに桟橋計画が持ち上がりました。暫定桟橋計画も進められますが間に合わず本格的な港湾施設が必要となり<横浜港全体の築港計画>が計画されました。
すでに活躍していたオランダの技師提案と英国人技師提案が競う形になり最終的に英国人パーマーに依頼します。
象の鼻
波止場名が英吉利大波止場となっています
<大岡川運河>
 運河部を見ると、25年版(1892年)では富士見川(運河)が完成していますが、35年版(1902年)版は1896年(明治29年)に埋め立てられていたので図上からは消滅しています。
1872年(明治5年)〜1873年(明治6年)に日ノ出川が開削され、堀割川も完成しました。中村川・大岡川・吉田川に航路が開通し運河が水上交通として有効活用され始めた時期にあたります。
元来、関外を形成する吉田新田エリアは干拓によって開発された「田畑」でした。
農地から宅地へと変化する中で、関外エリアは市街化のために<下水問題>を含め多くの課題を解決していくインフラ整備が求められます。
上部の運河が日ノ出川、下の運河が富士見川。上下に流れるのが左:新吉田川 右:中村川
富士見川が無くなり土地区画整理が行われています
1886年(明治19年)富士見川開削完了
 ところが 排水状態が悪く、
1896年(明治29年)には埋め立てられ富士見川消滅。
 上流から整備が進んでいた「新吉田川」が完成。
1897年(明治30年)に(新)吉田川のバイパス運河「新富士見川」が完成。
ほぼ 大岡川運河群が整備完了。戦後まで関内外を支えてきた運河群が誕生します。 (過去【横浜真景一覧絵図】ブログ
第956話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第一話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11569
■都市鳥瞰図
第957話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第二話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11580
■大岡川弁天橋付近
第958話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第三話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11596
初代横浜駅前の様子
第959話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第四話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11607
「運河」の町横浜
第960話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第五話
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11695
横浜真景一覧絵図に見る「橋梁」 ■25年版(1892年)・35年版(1902年)比較
 35年版は25年版を基本にしています。作者の気になった部分のみ修正されています。船のカタチ、位置は全く変更されていないものも多くあります。
だからこそ 変更されている部分に着目してみる価値あり!
ということでザクっと比較てみました。
 道路の修正は入念に行われているようです。
<一目見ての大変化>
 海岸通り部分の埋立
 大桟橋の完成
 富士見川運河が消滅
ここまで今回紹介しました。

<部分変化>
 幻の石川町橋
 日ノ出川の橋梁
 中村川・日ノ出川・吉田川に船影
 千秋橋の登場
 長者・寿・永楽・千年・三吉周辺の区画整理
 真金遊郭の整備
 長島・若葉・末吉周辺の区画変化
 大岡川の黄金橋
 戸太村周辺の傾斜地が宅地化
 横須賀出船所
明治25年版 富士見川が描かれています
明治35年版 船が描かれています。千秋橋が完成しています。
次回から 変化した部分に少しこだわってみます。

第984話【一枚の絵葉書から】珈琲牛乳

Published / by tadkawakita / Leave a Comment
企業年賀はがき「横浜駅待合室ミルクスタンド」

これは昭和5年の年賀ハガキです。
横浜市中区紅葉ケ丘三号
学務部長殿
とあります。
ここに記された宛名の「学務部長」は
神奈川県学務部長 九鬼三郎と推測しましたが、確証ありません。
 戦前の学務部長は公立学校の事務方トップで、学校運営に関して県内の最高責任者として多くの管理監督を行っていたようです。
差出人が
横浜駅待合室 ミルクスタンドとなっています。
「迅速 安価な 御食事
 奉仕的な 栄養御飲物」
昭和初期の横浜駅待合室となれば、現在より重要施設で 学校関係者が利用することも多かったのかもしれません。
絵柄面から意外な情報がわかりましたので紹介しておきます。

三代目横浜駅東口

小唄 ハート節
萎縮 悲観を跳ねとばし
笑和 五歳の
春の駒 春の駒
オヤ 守山の
馬い うまゐゾ
ハート型
赤い戀路の ハート型
ハートだ ハートだ ハートだネ

日本一を目指すために富士山の絵柄をバックに 乳製品・飴類が並んでいます。
コンブ飴・ゴルフ(チョコか?)・守山キャラメル・珈琲牛乳・グリコ牛乳・アポロ・ Cherries MILK・Cherries CREAM(エバポレート ミルク=練乳)

平塚本社

ここに商品が並ぶメーカーは「守山」は現在もしっかり乳製品を製造販売している守山乳業株式会社でした。
本社は平塚市宮の前9‐32
沿革を戦前期だけ一覧化してみました。
1918年(大正7年)1月9日創立
 神奈川県中郡高部屋村日向にて「甲子(きのえね)商会製酪所」を創業 創業者 守山謙
1920年(大正9年)
 神奈川県平塚市に工場を新設(現本社、平塚工場地)
1923年(大正12年)4月20日
 日本で初めてのビン入り珈琲牛乳を東海道線国府津駅
 駅弁販売店・東華軒にて販売開始

この珈琲牛乳販売を開始した日を記念して、現在4月20日は「珈琲牛乳の日」となっています。
「創業者の守山謙が東京の商店にバターを納品しに出かけた際、住田商会・初代社長の住田多次郎さんが偶然同じ商店にコーヒーを売り込みに来ていました。住田社長はハワイへ移民しており、ハワイのコーヒー豆を東京の商社へ売り込みをしている最中でした。明治時代からコーヒーは飲まれていましたが、一般的にはあまりなじみのないもので、日本にコーヒーを広めようとする男と、乳製品を広めようとする男の運命的な出会いでした。
 住田社長は、ハワイではコーヒーにクリームを入れて飲むこともあると守山に教え、コーヒーを日本で広める方法を考えてほしいと、コーヒー豆を守山へ託しました。
 守山は早速家に持ち帰り、コーヒーにクリームの代わりに牛乳を混ぜてみました。コーヒーと牛乳が半々の割合になったとき、コーヒーの苦みと牛乳の甘さが程よくマッチし、いままでに飲んだことのないようなおいしい飲料が出来上がりました。さらに奥さんのアドバイスで砂糖を入れるとおいしさは増し、守山はコーヒー牛乳の商品化を計画することを決めました。」

(駅弁東華軒)
駅弁は駅単位に販売権が決まっていましたが現在はどうでしょうか。
東海道神奈川県内でいえば、
川崎駅・横浜駅・戸塚駅→崎陽軒
大船駅・藤沢駅・辻堂駅・茅ヶ崎駅・平塚駅→大船軒
大磯駅(昔)・二宮駅(なし)・国府津駅(外)・鴨宮駅(なし)・小田原駅〜熱海駅→東華軒
東華軒は1888年(明治21年)創業の東海道駅弁会社の中でも老舗中の老舗です。
本社は小田原ですが、駅弁の始まりは国府津駅でした。

少し横浜からは離れましたが 駅売りから発展したブランドの紹介でした。
本日は これまで。

第977話【横浜の道】国道16号線

Published / by tadkawakita / Leave a Comment

国道16号は現在、起点:西区桜木町〜終点:西区桜木町という珍しい道路です。
歴史は新しく1963年(昭和38年)4月1日に幾つかの路線が統一されて16号となりました。
横浜界隈的に起点から16号を辿ります。
ルート16は
帷子川支流「石崎川」近く、元「桜川」のあった場所を起点に初めて鉄道が始まった初代横浜駅・新橋間の鉄道路線に沿って大江橋へ続きます。

二代目横浜駅。ちょうど市電のあたりが16号線起点
現在の桜木町付近
16号線起点・終点付近
初代横浜駅、現桜木町駅。興産館(現ぴおシティ)あたりの16号線。

<大江橋> 横浜市内では珍しい人名の橋です。(大江卓)
関内大通と交わる尾上町の交差点を右折、羽衣橋を渡ると旧吉田新田の背骨、中央部を吉野町まで。このルートは関東大震災まで狭い道でしたが、吉田川沿いを通っていた市電のルート変更を行い、広い道路として新規整備されました。
吉野町の交差点を左に。
中村川の「睦橋」を越え、堀割川に沿って磯子方面に。

尾上町交差点付近で16号線は大きく曲がります。

<八幡橋>際を右折し横須賀方面に曲がります。
ここから16号線は旧海岸線でした。
磯子駅を通過し、新杉田駅を過ぎると内陸部に入り込み、富岡からほぼ京浜急行線と並行して金沢文庫まで走ります。泥亀あたりで少し京急と分かれ、また金沢八景で並走します。京急と国道16号線は馬堀海岸までほぼ並走しています。
その後16号線は国道の中でも数少ない海の国道を経て、房総半島に上陸し千葉県を縦断、埼玉県、東京都下八王子からかつて絹の街道として盛んな往来があった八王子街道となった横浜市旭区に入ります。保土ヶ谷バイパスと旧道に分かれ、旧道はほぼ「帷子川」の沿って横浜中心部に入り、終点に向かいます。

(歴史)
横浜に海軍鎮守府(東海鎮守府)が1876年(明治9年)に短期間ですが設置されます。
1884年(明治17年) 12月15日、東海鎮守府は横須賀に移転「横須賀鎮守府」となります。この時から横浜と横須賀との道路整備が行われ、1887年(明治20年)に鎮守府に至る国道として「国道45号線」となりました。

戦後の
1952年(昭和27年)12月4日に施行された新道路法に基づく路線指定でこの区間が「一級国道16号」に指定されます。これが国道16号のはじまりです。
その後、延長を重ね、他の国道を取りまとめ環状線となって現在にいたります。

旭区から終点に至る16号線は、江戸時代から八王子街道として開け、保土ケ谷区と西区の区境(洪福寺松原商店街はずれ)に東海道と八王子街道(旧道)の<追分>があります。この主要街道は神奈川往還とも呼ばれ、保土ケ谷宿への重要街道でした。幕末からは繊維(絹)街道として遠くは山梨商人の道として賑わいました。