第925話【横浜風景】金沢百景
金沢区は魅惑的な区で、様々な角度から紹介しています。
横浜18区の中でもじっくり書いたものが多いかもしれません。
<カウントしてませんが>
リンクをまとめました。
第923話【横浜市境】 市境の深ーい溝
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10931
No.136 5月15日 フルライン金沢区
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=479
横浜市金沢区は1948年(昭和23年)5月15日に磯子区から分区し創設しました。
No.269 9月25日(火)河口に架かる橋
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=334
1964年(昭和39年)9月25日の今日、埋立てによって整備された河口に架かる八景橋が完成しました。
2月20日 海の公園計画発表
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=570
2月22日 アーティストツーリング
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=568
2月27日 政治家が辞めるとき
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=563
No.124 5月3日 料亭にて超機密書類盗まれる
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=492
憲法記念日に因んで
伊藤博文らが金沢八景の料亭東屋で「明治憲法」草案を練ったという話
第829話 1936年(昭和11年)
6月23日日本製鋼横浜製作所JSW
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7780
「日本製鋼横浜製作所JSW」が金沢町泥亀に竣工・操業開始した日です。
1914年(大正3年)7月12日 京急富岡駅
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7816
横浜貿易新報社選(神奈川県内の)「新避暑地十二勝」が発表されました。
No.230 8月17日 (金)孫文上陸(加筆修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=377
No.451 芸術は短く貧乏は長し
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=108
No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=378
No.282 10月8日 (月)幕府東玄関を支えた寺
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=318
リンクが多くなりましたので
野島に関しては別に紹介します。
第924話【市境を歩く】 市境の深ーい溝(修正)
この話題は以前フェイスブックで取り上げたものを
このブログ用に加筆修正しました。
1988年(昭和63年)2月19日
「戦前に臨時飛行場として造成された埋立地“夏島”の帰属をめぐる横浜・横須賀両市間の紛争が40年ぶりに決着し、横須賀市に帰属することとなった。」
という記事を発見。改めて考えてみると
つい最近(昭和63年)まで市境が確定せず
帰属争議が横浜市・横須賀市間で行われてきたという事実に驚きます。
現在の市境は

今年2017年横浜市域の<境目>をほぼ確認してきました。
川崎市境から初めて東京町田、大和、藤沢、鎌倉、横須賀と歩いてきました。
横浜市金沢区野島町と横須賀市夏島町でフィニッシュ!
野島を横須賀側から眺めながら「鷹取川」河口域から護岸に沿って歩くと日本でも“珍しい”岸下の<市境>になります。“珍しい”岸下の<市境>
これは私の素人調査ですが入江や運河の行政界は ざくっと調べた限り戦後の境界設定にこのようなぎりぎり設定はあまり考えられません。
そもそもこの<夏島問題>戦前からありましたので、
<歴史的経緯>を紐解いてみる必要があります。
岸下の<市境>なので横須賀市域の陸上の岸壁真下は<横浜市>になるため、当然<横浜市港湾局><環境創造局>管轄域となります。この際どい横浜市域に<干潟>があり、少し葦が自生しています。※漁港区域の管轄は<環境創造局>とご指摘いただきました。
今回、ここに葦がしっかり育つようにしようという活動のお手伝いをしつつ<市境>を越え確認してきました。
このエリアは干潟となっていて豊富な野鳥の飛来する空間にもなっています。
ところがご存知、干潟の葦原はゴミの<フィルター化>して大量のゴミが漂着しています。こればっかりはしっかり人の手でゴミを除去する必要があるからです。
ところが、掃除をスルためには横須賀市域から<欄干>を乗り越え横浜市域に下ります。そこで集めたゴミは横浜市指定の袋を使い、横須賀市域に上げ、横浜市のゴミとして金沢区のゴミ処理場に持ち込みます。横浜市内で生じたゴミは横須賀市を通過しないと処理できない空間でした。
『野島運河』は横浜市・横須賀市の大切な海洋資源であることを再確認しておきましょう。
(夏島問題)
名前の通り、「夏島」はかつて島でした。ただ、金沢区南部は明治期以前から現在までにかなり海岸線が変化した地域です。ここに「夏島」だけではなく「野島」の存在も面白い歴史的経緯を持っています。
夏島ですが
戦前、軍の飛行場拡張のため夏島周辺を埋立てた場所の帰属が横須賀市なのか、横浜市なのか、両市が争った!という事件です。(戦前は横須賀市?)
結果 長い協議を経て
夏島一体の埋立地は横須賀市ということに決着したということです。
問題となった軍航空施設の埋立て地は面積45万坪にも及び、その74%(約33万坪)が戦後<地方公共団体>に属さない所属未定地であったところから係争となりました。こんなこともあることにも驚きました。
前述の通り、
このエリア、幕末から明治の頃、「野島」と「夏島」の間は広い海で、干潮時には広大な干潟になる自然豊かな場所でした。
この干潟を明治時代あたりに海軍航空隊の飛行場を整備するため埋立を進めます。夏島にあった小さな山を削り、その土砂で南側の追浜との間を埋め立ててしまいます。
戦争が終わりますが、この海軍の追浜埋立地は皮肉にもそのまま米軍の管理下に入り基地として使用されます。
接収解除後、日産自動車の追浜工場敷地となり現在に至ります。日産追浜はテストコースもあり、一時期新車スクープ事件も起こったり日産にとっても重要な工場の一つです。
戦後の地図を調べてみると 驚き
横浜市域が夏島の中に引かれているではありませんか。
地図制作会社は 何を基準に作図したのでしょうか?
行政の懐事情で言えば、
大企業がそこに進出しているわけですから税金が違ってくるため、自治体はある意味必死だったのでしょう。
和解と合意の内容に関しては調べていませんので不明ですが、
横浜市民的には 入るべき<税>を横浜市は諦めたのは市民の利益を失う行為!!
ですね。
※一方、野島はかつて島ではありませんでした。このあたりも知りたいところです。
※注力散漫でした。港湾区域図をしっかり見ませんでした。
第923話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆2
前回、有栖川宮威仁親王が横浜港鉄桟橋を利用する記念絵葉書の画像を読み解いてみましたが時期を特定することができませんでした。
第922話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆
追加の資料を探していたところ、面白いことがわかってきました。
前回より詳しい洋行記録が分かってきました。
有栖川宮威仁親王は渡欧を4回経験しています。
第一回
■英国留学(年月不明)
1883年(明治16年)6月 留学から帰国
第二回
1889年(明治22年)2月16日
■海軍事視察として欧州へ
1890年(23年)4月10日 帰朝
第三回
1897年(明治30年)4月22日
■英皇即位60年祝典のため渡英
1904年(明治37年)6月28日
海軍大将に昇進。
第四回
1905年(明治38年)4月1日
■独逸皇太子結婚式参列のため渡欧
同年8月26日欧州から帰朝
(大須賀 和美 資料)
前回の記述は間違っていたようです。おそらくこの絵葉書の光景は第四回目、1905年(明治38年)4月1日〜同年8月26日
独逸皇太子結婚式参列のため渡欧し帰朝時の大桟橋だと思われます。
夏の終わりですが、服装はかなり厚着に感じます。
ただ、拡大してみると一部薄着も見られるので 暑い中多くの群衆はしっかり服を着て参加していることがわかります。
威仁親王には明治期の近代化に寄与した様々なエピソードが残されています。
その一つが<自動車の普及と国産化>です。
渡欧中に威仁親王は欧州の三台自動車を購入し輸入手続きを採り国内に持ち込み国内を走ります。
その内の一台、フランス製「ダラック号」が故障し
修理を<東京自動車製作所>に依頼したことがきっかけで国産車製造が行われることになります。
この<東京自動車製作所>
前身は双輪商会といって
1897(明治30年)
京橋区木挽町4丁目で自転車輸入販売業を始めます。
1902年(明治35年)
ロシア公使館員からフランス製グラジェーターを譲り受けたのをきっかけに自動車輸入販売を計画しオートモビル商会を設立します。(日本人最初のオーナードライバーといわれています)
1903年(明治36年)
渡米し米国からエンジンを輸入
1905(明治38年)に乗合自動車をつくり
「日本で初めての国産乗合いバスとして運行。エンジンはアメリカ製の18馬力、運行区画は西区横川町から安佐北区可部までの約14,5キロ。ボディは総ケヤキづくりで重量は1トン、12人乗りで車掌付きでした。」
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1111417104550/index.html
これがオートモビル商会初の自動車製造となります。
ただ 売れず資金難に陥りますが、
1907年(明治40年)に
有栖川宮威仁親王から注文を受け、
「国産吉田式自動車」」(通称タクリー号)を製造します。
ここで<絵葉書>の有栖川宮威仁親王が登場します。
1908年(明治41年)8月1日
吉田式3台は有栖川宮威仁親王の所有するフランス製ダラックを先頭に、英国製ハンバー、イタリア製フィアット、ドイツ製メルセデス、アメリカ製フォード、フランス製クレメントなどと一緒に甲州街道を立川まで遠乗りに参加
「国産吉田式自動車」」(通称タクリー号)は、欧米の名車に劣らぬ走行に成功します。
ガタクリ走るから「タクリー号」という悪い俗称がつきましたが、性能は高かったようです。
この明治期に画期的な国産車を製造した人物が
<東京自動車製作所>オーナー吉田真太郎で、技術者の内山駒之助です。

横浜とも因縁のある人物でした。
1877年(明治10年)東京市芝区芝公園7号地に生まれた吉田真太郎
前述しましたが
1897(明治30年)京橋区木挽町4丁目で自転車輸入販売業を始めます。
自転車輸入販売は順調で、横浜の石川商会と<ライバル会社>として競争するまでに成長します。
No.213 7月31日 (火)金日本、銀日本
この吉田真太郎の父が吉田寅松、
当時日本有数の土木会社「吉田組」を一代で築き全国の土木事業を手がけます。
一説では 横浜関内外に架かる「吉田橋」を寄付したという資料もあります。(ウラトリ中)
吉田寅松が横浜の大事業に登場するのが「堀割川工事」です。
第921話【堀と掘】掘って割、堀となる
ここに繋がります。
どう繋がったのかは長くなりますので次回に。
第922話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆
この絵葉書、まだ結論が出ていませんが謎解きしてみます。
タイトルは
「有栖川大将宮殿下同妃殿下横浜桟橋御上陸之光景」
タイトル最後の方は 判読不能で推測しました。
撮影場所はおそらく「横浜桟橋(鉄桟橋)」でしょう。
中心に写っている人物が”有栖川宮威仁親王と妃殿下”
先導するヒゲの人物はだれでしょうか?
大臣クラスと思われます。大隈重信かなと推理しましたが、どうやら時代が合いません。
素人ですがわかる範囲で読み解いてみます。
「有栖川大将宮」
写真の中心人物有栖川大将宮に該当する人物は戦前明治以降の皇族の中で二人います。
■有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)
1877年(明治10年)10月10日 陸軍大将となります。
熾仁親王は1895年(明治28年)1月15日に亡くなりますので
大将として写真に写っている期間は1877年(明治10年)から1895年(明治28年)となります。
■熾仁親王の弟が有栖川宮威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう)
イケメン皇族!と言われています。
1862年2月11日(文久2年1月13日)〜1913年(大正2年)7月5日
威仁親王は
1904年(明治37年)に海軍大将昇進します。日露戦争終了の年です。
●撮影時期
舞台となった「鉄桟橋」は1894年(明治27年)に完成しますので、
撮影年はこの年以降となります。兄の熾仁親王は1895年(明治28年)に亡くなりましたので
鉄桟橋竣工後ギリギリで該当しますが、ご高齢です。
弟の威仁親王は1913年(大正2年)に亡くなり、
1904年(明治37年)に海軍大臣、海軍大将となります。
結果、威仁親王夫妻は
1904年(明治37年)〜1913年(大正2年)の間に鉄桟橋を利用した線が可能性として高いようです。
「鉄桟橋」は国際港として竣工しますので、
威仁親王夫妻は外国からの帰国模様と思われます。
鉄桟橋には多くの群衆が夫妻を取り巻いています。桟橋上にはほとんど建造物が見られませんので初期の「鉄桟橋」だと言えるでしょう。
威仁親王夫妻の洋行。
有栖川宮威仁親王と妃の二人は精力的に海外を視察しています。
妃は加賀金沢藩主前田慶寧の娘で慰子(やすこ)で
1880年(明治13年)に威仁親王妃となりました。
前田慰子は外国人教師から英語やフランス語をしっかり学び、流暢に会話ができる才女でした。
夫となった威仁親王も国際派で英文で日記を書くほどの語学力をもっていました。二人は早くから欧米視察を強く希望し、渡航に消極的だった明治天皇に反対されながらも自費で欧州への旅を実行します。
シルクロードの最果ての国、ほとんど知られていなかった<極東>の国を欧米各国の皇帝や政府高官を始め国民にしっかり知らしめた
”最初の成功した皇室外交”となりました。
威仁親王 最初の洋行は
1889年(明治22年)2月16日
横浜発の僅か3,500tクラスの客船に乗り、米国を皮切りに、欧州を巡りました。サンフランシスコから大陸を横断し大西洋を渡り,仏・露・スペイン・オランダ・デンマーク・スェーデン・ベルギー・英・独・伊など10ヶ国を巡ります。
威仁親王は訪問先の海軍の実情を的確に調査し
1890年(明治23年)4月に横浜港に帰港する予定を変更し神戸に帰港します。
※この時タイミングよく観艦式が神戸沖で開催予定だったので、変更したそうです。
この桟橋風景には該当しません。
そろそろ画像の時期を絞り込んでみたいと思います。1907年(明治40年)
嘉仁親王(後の大正天皇)は大韓帝国を訪れます。この時に同行したのが威仁親王夫婦でした。親王夫婦はその後、休む間もなく欧州に向かいます。 おそらく、この絵葉書は 欧州からの長旅から帰国した時の<光景>だったのではないでしょうか。
この1907年洋行は少し確証が持てないため 再調査することします。
次回に。
それにしても すごい群衆です。特別にガードしている感じでもありません。
第921話【堀と掘】掘って割、堀となる
横浜市南区東南部と磯子区東部にわたり、
明治7年(1874年)
大岡川の支流中村川分水路として開削されたのが「ほりわり川」です。
この「ほりわり川」の表記が統一されていないのかあくまで誤記なのか。
堀割川
掘割川
「堀」「掘」の二種類が様々な場所で見受けられます。
ここでは「堀割川」を採ることにします。
テレビ番組でも 時折テロップに「掘割川」が使われることもあります。
「堀割川(ほりわりがわ)は、神奈川県横浜市を流れ根岸湾に注ぐ流域全長2700mの二級河川。大岡川の分流である。明治時代に作られた人工河川で、横浜港発展に大きな役割を果たした。
※1870年、横浜港と根岸湾とを結ぶ水運と、吉田新田埋立用土砂確保のため、当時の神奈川県知事の井関盛艮が工事請負人を募った。吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫がこれに応じ、今の中村橋付近の丘陵を切り下げ、中村川から根岸湾まで運河を開削。その土砂で、当時の「一つ目沼」、のちに根岸線と横浜駅根岸道路の間の吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町となる湿地帯の埋立を行った。滝頭波止場(現在は動物検疫所となっている)が大波で破損するなどしたものの、1874年に完成した。2010年度には土木学会選奨土木遺産に認定された。(wikipedia)」
横浜市の資料、国交省の資料には「堀割川」とあり、常識的にはこの表記が正しい。
ただなぜ<てへん掘割川>が未だ使われているのでしょうか?
単純に 変換ミス。もう一つ、掘割川派の立場であえて主張するなら
掘るのは<てへん>で掘った結果が<つちへん堀>となります。
掘って運河(堀)を作った結果を<掘割川>の方が理にかなっている!と言えないこともないでしょう。かなりの屁理屈ですが。
「堀割川」
<名称>をきっかけに堀割川のこと少し突っ込んで調べてみました。まだ、資料を読んでいる最中!なので保留ですが、横浜を考える上でいろいろなことを学んでいるところです。堀割川は、民間の手で近代に誕生した大岡川の運河の一つです。
横浜市内7水系28河川の一つ「大岡川」に含まれます。
明治3年に県が公募し吉田家を中心とする民間資本が名乗り出て途中米国資本が入り明治7年に完成しました。
堀割川は吉田新田大岡川の家族で、ここに<家>の浮沈をかけて挑んだ吉田家の努力があり、当時不平等条約の下で居留地から国家ビジネスをしかける外国資本、国家財政破綻寸前、明治六年政変前後の日替わり政府の姿勢、
横浜を舞台にした江戸から明治への近代化とは何だったのかを問う象徴的な出来事です。開港によって、開港以降の<輝かしき>発展史だけではない史実があったこと、
ここに登場する、今殆ど評価されていない人たち、史実が少し見えてきました。
来年は改めて「堀割川」両岸を歩きながら明治・大正・昭和、そして平成を見つめてみたいと思います。
第920話【市電ニュース】市電域と市電ニュース
1930年(昭和5年)の暮、横浜市が震災復興に一つのメドがついた頃
市電社内刷りPRとして「市電ニュース」が発行されました。
ちょうどこの頃、横浜市内の市電網が最も精力的に整備され、市域トラフィックの軸となっていきます。
当然ですが元気な商店街はこの時期に拡張された市電域と重ねることができます。
六角橋商店街・洪福寺松原商店街・弘明寺商店街・杉田商店街・横浜橋商店街・浜マーケット・かつての生麦魚河岸通り・藤棚商店街 他
横浜の都市形成を考える上で 市電域の研究は必須です。
と宣言しつつ 途中までですが 下記のシリーズも継続していきます。
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それぞれの写真キャプション未整備です。(ハガキ、写真は個人蔵)
第919話【横浜の小さな橋】大清水橋(滝ノ川)
滝ノ川に架かる「大清水橋」
かな表記は「だいしみずばし」だが市の橋梁台帳では「おおしみずはし」となっている。読みが全く異なるもの珍しい。理由は近所に60年暮らす方に聞いても解らなかったが、その方は「おおしみずばし」だと思っていたようだ。
滝の川だと神奈川区、滝ノ川は境川の小派川となる。「滝ノ川」の名は神奈川東京に多くあり、小さいが時に滝のように流れるからかもしれない。
横浜市戸塚区小雀町付近(公文学園)あたりを源に横浜市と鎌倉市の境付近を沿うように流れ、藤沢市に入り、藤沢宿近くで境川に流れ込む。普段は殆ど水量の少ない川だが、一旦雨が降ると一気に水量が増し、両脇の畑が浸水することもあるという。
長さと幅がほぼ同じくらいなので橋面は四角い感じがする。記憶違いかもしれないが、
かつてこの橋の近くを横浜ドリームランド線(モノレール)が走っていたころ、車両が交差するポイント近くを流れる小さな川の記憶が残っている。
少し小高い尾根筋のような<国道1号線>と横浜市水道局小雀浄水場のある丘に挟まれた谷戸が滝ノ川。現在も川沿いには畑が多く残っている。実はこの「大清水橋」はかつて神奈川有数の渋滞交差点「原宿」の迂回路として使っていた個人的に懐かしい橋だった。今冷静に地図を眺めるとやたら遠回りで、少しは時間短縮に役立ったのかドウか実に怪しい抜け道だ。でも渋滞で頻繁にアクセルとブレーキを踏むより<走る>ことでストレスレスだったのかもしれない。
ただ少し小高いところから<冬場に限るが>見る富士はなかなかである。
第918話【横浜の企業】索引編
これまでのブログが殆ど整理されていないこと、気にはなっていましたが、
気になり始めた時にすでに500話を越え、諦めました。
できる範囲で 索引的なものも作りました。(自分の確認用!)
2017115時点 更新していきます。
麒麟麦酒株式会社
新横浜ラーメン博物館
(株)緑山スタジオ・シティ(MSC)
自転車製造業 梶野仁之助 他
古河電線の前身、中島 久万吉他
No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王(加筆修正)
古河電線
横浜エレベータ株式会社
中区伊勢佐木町に第四有隣堂が創業
●三越→株式会社三越伊勢丹ホールディングス
●大丸→J.フロントリテイリンググループ
●伊勢丹→株式会社三越伊勢丹ホールディングス
●岡田屋(現横浜岡田屋)
●ピアゴイセザキ店
横濱デパート物語(MATSUYA編)
日本郵船
フォード
海岸通りのホテル群
東急ホテル
第829話 1936年(昭和11年)6月23日日本製鋼横浜製作所JSW
日本ピチュマルス株式会社
第916話【横浜点と線】カーティスという人間
1,000話に向けてエンジン掛けて
新しい発見はありませんが、調査資料の整理を兼ねて紹介します。
ハムとカーティス
今や有名なのであらためて紹介でもありませんが、
横浜市戸塚区で「鎌倉ハム」が誕生したという<トリビア>があります。戸塚エリアがかつて<鎌倉郡戸塚村>だった時代にハム生産が始まったことから”鎌倉ハム”ブランドが誕生しました。
ところがこの「鎌倉ハム」をめぐる諸説は、かなり複雑で真相は未だ<藪>の中といえる部分があり、ことは鎌倉(戸塚)だけにとどまらずブランドを巡るレシピ騒動も加わって複雑怪奇なものなってしまいました。
「横浜もののはじめ考(第三版)」でも諸説を示すだけで解明には至っていません。
戸塚区史では「鎌倉ハムの誕生」を第五章第一節を使って解説しています。
前述の「もののはじめ」その他の資料と併せてアウトラインを紹介しましょう。
ハム製造は戸塚地域で近代産業移入のトップを切り、始まりました。
欧米の香りがするハム製造、「鎌倉ハム」誕生は
「カーティスなる英国人が戸塚でホテルを経営し同時に養豚場を開設してハムやベーコンを製造販売したことに始まります。」
伝聞によると<カーティスは製造方法を門外不出、誰にも教えることをしなかったそうです>その後、ある理由※で複数の日本人が門外不出のレシピを継承して現在に至っています。
※火災の恩義説、レシピ漏洩説など
日本初のハムづくりかどうかに関しては諸説ありますが食肉としてのハム量産化は<鎌倉ハム>が日本初で間違い無さそうです。幕末から明治にかけて、初めて<トライ>した事例は数々あり、そこで<元祖騒動>が起こります。横浜の<もの・ことのはじめ>は開港場に於いて事業化の草分けとして存在価値があるのではないでしょうか。
東海道戸塚宿は、江戸時代街道の宿場町として賑わいました。
開港後、幕末から明治初頭にかけて外国人の行動が制限されるなかでも、西へ十里の範囲での休憩点として、また解除後も箱根や富士山詣での中継地点として<戸塚宿>は外国人の利用度が高い街に変身していきます。
ハム製造のウィリアム・カーティスと関係のあった同じ英国のコブ商会、
幕末、慶応三年(1867)には乗合馬車の営業を始め、横浜〜江戸築地間を2時間ほどで結びます。その後、外国人の行動が自由になった明治に入りコブ商会は横浜〜小田原(箱根)ルートも開拓します。多くの外国人が東海道線では直接箱根に行くことができなかった(国府津・御殿場経由)ため、面倒のない馬車を利用したそうです。この事業にカーティスも関係し彼の拠点だった戸塚宿はちょうど良い宿泊(中継)ポイントと考えたのでしょう。
wikipwdiaでは
「鎌倉ハム(かまくらはむ)は食肉加工品であるハムのブランドの一つ。複数の業者が製造販売しており、「日本ハム」や「伊藤ハム」、「プリマハム」のような一企業に属する単独銘柄ではない。
1874年(明治7年)、イギリス人技師ウィリアム・カーティスが神奈川県鎌倉郡で畜産業を始め、横浜で外国人相手に販売を行う。1876年(明治10年)上柏尾村の戸塚街道に面した場所に観光ホテル「白馬亭」を開業。敷地内でハム・ソーセージや牛乳、バター、ケチャップなどの製造を行い、主に横浜居留地の外国人向けに販売した。」
wikipwdiaでは1874年(明治7年)とありますが、
●カーティスがイギリス人技師と言う表現は正確ではありません。
また、戸塚での製造開始年代は1876年(明治9年)ごろが妥当のようです。
“観光ホテル「白馬亭」を開業”も疑問が残るところです。
1907年(明治40年)東京資本の「日本ハム製造㈱」が、
一方「鎌倉ハム製造会社」の名で別の東京資本の会社が設立されます。
そこに元々の戸塚村で製造しているメンバーが本家は我々だと主張し競合が始まり、結局新会社も元々から製造しているメンバーが後継を守り、現在に至っています。
ここで終わろうとしたところ、
別のテーマで「横浜居留地のホテル」について調べている中で、
1876年(明治9年)居留地61番に「カーティス・ホテル(Curtis’Hotel)」を開業、という資料が飛び込んできました。
カーティス(William Curtis)は1864年(元治元年)に来日、元々、P&O(Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)の客船係の経験を持っていた人物で、横浜でホテルビジネスを目指し到着早々居留地86番の「ロイヤルブリティッシュホテル」を譲り受け「コマーシャルホテル」としてオープンする際の経営者となったとありました。
明治期のホテル経営は実力(経営力)の他に<運>が必要でした。開港以降、多くの洋館、ホテルが登場しますが、没落のキッカケは火事でした。
1871年(明治4年)「コマーシャルホテル」も火災で焼失します。
ところが、カーティスが違ったのは、ホテル事業のスクラップ&ビルドの素早さ。「コマーシャルホテル」経営と並行して
1868年(明治元年)の夏には居留地81番に「インターナショナルホテル」を開業していて、火事で「コマーシャルホテル」を失いつつも立ち直る基盤を持っていました。
1874年(明治七年)6月末に「インターナショナルホテル」を売却、7月10日には居留地44番の「ジャパン・ホテル」を買収するなど投機ビジネスとしてホテル経営にあたったようです。
カーティスが戸塚に開業したホテル「白馬亭」は順調に業績を伸ばしますが、それまでに、横浜で手がけてきたホテルビジネスは
「コマーシャルホテル」
「インターナショナルホテル」
「ジャパンホテル」
「カーティスホテル」
「ザ・コマーシャル」
と複数に及びますが、どれも本腰を入れての経営ではなく、ホテルブームの横浜で投機目的だったようです。
前述の「コブ商会」にも参画し、戸塚宿では日本人の妻を持ち
1892年(明治二十五年)ごろには本町通りに戸塚の<肉>を出すレストランも出店します。彼カーティスのその後の足取りは不明ですが、恐らく戸塚の地で亡くなったのではないでしょうか。家族とともに海外へ出た!という説も考えられないこともありませんが、
ハム製造のレシピだけで簡単に事業化が進むことは難しく、短い期間ですが指導に当たったと考えたいところです。
後継者の日本人たちはそれぞれ明治二十年代から三十年代に肉加工業を始め独自のハムやソーセージづくりの道を歩み始めます。
戸塚には
他にも明治十年代に英国人のポーンスフォトが「シェイクスピア・イン」という簡易旅館を開業し、ここでもカーティス農場のハムが珍重されたと戸塚区史にも記述されていてここから西洋ハムが広まっていったことは間違いありません。
【番外編】戦後の横浜を読む(№917)
横浜の戦後も遠くなりつつあります。
占領時代は特に横浜の戦後を語る上で欠かせない時間です。関内外、周辺の工場や軍事施設が空襲を受け、捕虜収容所にも被害がありました。
第847話 1945年(昭和20年)7月13日「海芝浦駅」空爆
No.122 5月1日 ハイデルベルク・ヘンリーと呼ばれた男
ここに戦後横浜の断片を知るノンフィクション・エッセイを何冊か紹介します。
私が手に入れた範囲内のリストアップなのでまだまだ色々ありますが、中々読み応えのある内容です。
下記の書籍、ほとんど絶版のようです。図書館か古書店で探して下さい。
●港の見える丘物語 マダム篠田の家
〜YOKOHAMA1945-50/赤塚 行雄/第三文明社
昭和後期から平成時代の評論家として文芸から漫画、犯罪などの社会風俗まで、多岐にわたり評論活動を行い大学でも教鞭をとった。昭和5年生まれ横浜出身。
GHQ横浜進駐時代の裏話が詳細に語られています。
●馬頚楼雑記
〜グラスごしにみたヨコハマ(1984年)/牧野 イサオ/有隣堂
知る人ぞ知る関内にあったバーであり画廊だったホースネック(馬頚楼)のオーナーが残したスケッチや写真、メモ等をまとめたもの。場所は関内エリアですが、野毛の入口吉田町のことにも触れています。カウンター越しのクールさが当時を知る上で重みがあります。
●横浜ジャズ物語 「ちぐさ」の50年(1985年)
吉田衛/著 神奈川新聞社
野毛の戦後を知るにはまずこの一冊から。野毛論の基本教科書といっても良い一冊です。新聞社連載がキッカケとなったので、良く編集されています。
●はだかのデラシネ
〜横浜・ドヤ街・生きざまの記録 (1983年)/中田 志郎/マルジュ社
私が寿ドヤ街のことを調べる時に最初に手にした一冊。野毛の戦後混乱期を「麻薬相談員」の立場で語った秀作。
DOYA!ことぶきの町は。
●『聞き書き横濱物語 Yokohama story 1945-1965』松葉好市/
小田豊二/ホーム社
松葉好市さんは最近亡くなられたと聞きます。昭和11年真金町遊郭生まれ、椎名巌さん(桂歌丸)と同級生。10代の多感な時期を猥雑だった繁華街に育ちます。野毛のキャバレー「チャイナタウン」の支配人としてこのエリアの生き証人として語ったことをまとめた力作。野毛形成史の価値ある一級資料。
●野毛ストーリー 大谷一郎 著 神奈川サンケイ新聞社 1986年
野毛をネジロに飲みに返ってくる立場からこの街を描いたエッセイ。これも新聞連載から一冊の本になったもの。バブルが始まる直前の野毛が描かれています。巻頭の写真、文中に描かれた<挿絵>が当時の様子を知る良い資料となっています。
●天使はブルースを歌う
〜横浜アウトサイド・ストーリー(1999年9月)/山崎 洋子/毎日新聞社
根岸線山手駅の裏側に広がる「根岸外国人墓地」にまつわる史実を追い求めた力作で、そのストーリー展開はまさにサスペンデッド。改めて戦後の横浜を考え直した一冊です。
Google Kindle版があるのでタブレットをお持ちの方は手軽に読めます。
●やけあと闇市野毛の陽だまり
─新米警官がみた横浜野毛の人びと(2015年12月)/伊奈 正司、伊奈 正人/ハーベス社 ※販売中
昭和20年代、野毛の都橋交番に勤務していた著者が描いたスケッチとコメントを再編集したもの。野毛界隈を別の視点で描いているので興味深い。
●横浜「チャブ屋」物語
〜日本のムーランルージュ(1995年3月)/重富 昭夫/センチュリー
少々時代は遡りますが、横浜の風俗史を知る貴重な一冊です。チャブ屋という名を酒豪の先輩から聞いたのは私が横浜で暮らし始めた1990年代始めの頃でした。
●消えた横浜娼婦たち
港のマリーの時代を巡って(2009年6月) 檀原照和/著 データハウス
●寿町・風の痕跡 ドキュメント(1987年1月)
川原衛門/著 田畑書店
●女赤ひげドヤ街に純情す 横浜・寿町診療所日記から(1991年7月)
佐伯輝子/著 一光社
●横浜ストリートライフ(1983年) 佐江衆一/著 新潮社
時代は発行年と同時代に起こった、「横浜浮浪者連続殺傷事件」を追いかけたノンフィクション。
No.43 2月12日 “浮浪者狩り”
※平岡正明さん系!は別掲としました。
「ヨコハマB級譚『ハマ野毛』アンソロジー」
「ハマ野毛」(1から6)編集参加者多数
「野毛的 横浜文芸復興」
「長谷川伸はこう読め! メリケン波止場の沓掛時次郎」
「美空ひばり 歌は海を越えて」
「ヨコハマ浄夜」
「横浜中華街謎解き」
「横浜的 芸能都市創成論」