日別アーカイブ: 2015/04/14

【今日の横浜】1月23日横浜輸出洋傘工業組合設立

1931年(昭和6年)の今日
横浜歴史年表に「横浜輸出洋傘工業組合が設立」されたとありました。
明治以降、和洋が区別された生活が多くあります。
和洋食、和服(和裁)、洋服(洋裁)、洋学に対しては国学としました。
洋食・洋裁は現在も残っていますが洋傘とはほとんど言いません。
完全に和傘が淘汰された結果です。
戦前の風景をみると 和傘あり、洋傘あり。
女性の服はなかなか洋風になりませんでしたが、洋傘はいち早く女性の間に普及していきました。
普及とは不思議な現象ですね。

洋傘のことを一昔前まで、こうもり傘と言いました。
語源は多説あり、開いた形がコウモリの飛ぶ姿に似ているので,明治初年にこの名がついたという説、「傘をかぶる」が「こうむる」からコウモリ説。
最も有力なのがペリーが来航した際、持ち込んだ洋傘を「その姿、蝙蝠(こうもり)のように見ゆ」と比喩したことから始まったという説です。
明治末に出版された「明治事物起原」では
万延元年にアメリカに渡った咸臨丸の提督木村摂津守(きむらせっつのかみ)が米国で一本の黒い傘を購入し帰国した際、外で使っては攘夷浪人に狙われるから屋敷の中でばかり使ったのが洋傘の使い始めと記録されています。

優れた和傘文化のあった日本ですが、最初は輸入商品でした。まもなく洋傘を作り始め、安さと職人の技術力で、瞬く間に洋傘は<輸出商品>の花形となります。特に東京横浜で多く作られましたが、関東大震災で洋傘製造は関西に移行します。
昭和に入り、産業も次第に復興し横浜の傘職人さん達が、材料の調達や外国のニーズに対応するため輸出組合を設立することになったようです。
(1月23日関連ブログ)
No.23 1月23日 大正の正義

【今日の横浜2015】1月22日

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1987年(昭和62年)の今日
財団法人「横浜博覧会協会」が発足し第1回理事会が開催されました。
開催後については下記のブログで紹介しています。
No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催

No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催

ここでは少し「横浜博覧会YES89」前史を紹介しておきましょう。
開催の契機
横浜で博覧会開催の構想が生まれる契機となったのが1981年(昭和56年)に当時の細郷道一市長が掲げた「よこはま21世紀プラン」でした。
「市制 100周年を記念する国際的な行事等について検討する」と具体的に目標が掲げられたことがスタートラインとなります。
1983年(昭和58年)11月8日「みなとみらい21」起工式
調査・検討が重ねられた結果
1984年(昭和59年)市長は
「昭和64年の市政100周年記念事業は、国際文化都市横浜のイメージアップ、文化的な都市環境づくりとなるものを行う。構想づくりに際しては民間組織や有識者を含めた検討組織を設けて、大いに民間の知恵を活用していく」と市会で大枠を示します。今でこそ<民間の知恵を活用>するのは常識“常態化”していますが、これまでとは一歩踏み込んだフレームといえるでしょう。
1985年(昭和60年)
「横浜市制100周年記念事業基本構想検討委員会」 設置
「横浜・丘と海の祭り」100人委員会 設置(会長 牧野昇<三菱総合研究所会長>)
11月20日実行計画案提出
「みなとみらい21地区で世界的スケールのビッグイベントを〜市民参加型の新しい博覧会を開催」と提案します。
1986年(昭和61年)
提案を具体化するために市長を会長とする
「横浜・丘と海の祭り協会」が設立され開催準備が具体化されるようになりました。
そして
1987年(昭和62年)
「横浜・丘と海の祭り協会」を財団法人化し財団法人「横浜博覧会協会」が発足します。
会長には経団連生え抜きの花村仁八郎副会長が、副会長には高木文雄株式会社横浜みなとみらい21社長が選出されました。
略称をYES’89とすることや、会期、テーマ「宇宙と子供たち」などを決定し、首都圏に残された<空間=みなとみらい21>を使った壮大な博覧会計画が始まります。

※この時、実質横浜博覧会を仕切った高木文雄は、傍系から大蔵省事務次官(1974年6月26日〜1975年7月8日)となった異色官僚で、その後1976年(昭和51年)3月に第8代総裁に就任し国鉄再建に辣腕を振るいます。
彼もエピソードの多い 90年代の横浜を語る上で欠かせない人物です。

(1月22日関連ブログ)
No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って(加筆)

No.22 1月22日 大谷嘉兵衛を追って(加筆)

【今日の横浜2015】1月21日

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1922年(大正11年)1月21日
小倉石油店が横浜に原油貯油所を開設。現在もJX日鉱日石エネルギー横浜製造所として稼働しています。
現住所は横浜市神奈川区子安通三丁目です。
この「小倉石油店」は埼玉県深谷出身の小倉常吉が12歳の頃、日本橋の油問屋の枡屋・長谷部商店に奉公後、
1889年(明治22年)に独立して石油業を開き日本屈指の製油事業にまで育て上げました。
戦前戦後、日本の石油会社も<金融機関>同様に離合を重ね大手数社に絞られてきました。現在業界第1位の占有率を持つ「JX日鉱日石エネルギー」の前身だった<日本石油=日石>が戦前有数の石油精製事業者となる過程で、最大のエポックが
1921年(大正10年)10月1日新潟の「宝田石油」との合併でした。
宝田石油は新潟に操業した当時日本最大級の石油企業です。
この国内最大の合併が行われた翌年、小倉石油店が横浜に原油貯油所を開設します。生き残りをかけた事業拡張でしたが、
1941年(昭和16年)6月1日、日本石油と合併し「小倉石油横浜製油所」は「日本石油横浜製油所」となります。

(沿革)
1922年(大正11年)1月21日ー小倉石油店が横浜に原油貯油所を開設。
1925年(大正14年)4月10日ー小倉石油店が小倉石油株式会社に改組。
1929年(昭和4年)12月ー小倉石油横浜製油所として操業開始。
1941年(昭和16年)6月1日ー小倉石油と日本石油が合併、日本石油横浜製油所が発足。
1946年(昭和21年)11月30日ーGHQの指令により、石油精製を停止。
1951年(昭和26年)10月1日ー日本石油精製設立に伴い、同社横浜製油所となる。
1997年(平成9年)7月ー日本石油精製が日石三菱石油精製に社名変更。
2002年(平成14年)4月1日ー日石三菱精製が新日本石油精製に社名変更、同社の横浜製油所となる。
2008年(平成20年)4月1日ー横浜製造所に改称。
2010年(平成22年)7月1日ーJX日鉱日石エネルギー発足により、同社の横浜製造所となる。(wikipedia参考)

関連ブログ
No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者<岸田吟香>

No.21 1月21日 日中ビジネスに成功した先駆者(加筆文体変更)

1933年(昭和8年)の今日
鶴見ユタカ橋が開通しました。
この「鶴見ユタカ橋」は生麦のエピソードで紹介しています。
No.383 【生麦界隈】横浜史を生麦で体験

No.383 【生麦界隈】横浜史を生麦で体験

【今日の横浜2015】1月19日

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1874年(明治7年)の今日 星亨が第4代目の横浜税関長に就任した日です。
星は「高島学校」で英学を学び英語教師となるが陸奥宗光の推挙で明治政府に入り税関長となります。
あだ名は『押し通る(おしとおる)』と呼ばれた豪腕無双”で「明治の傑物」と評されました。その星を「押し」たる所以のエピソードが「女王事件」です。
税関長に就任早々英国のクイーン“Her Majesty”を「女王」と訳し、当時のイギリス公使パークスが激怒し「女皇」と訳せ!と抗議しましたが、星は自説を一歩も譲りませんでした。パークスは訴訟を起こし日本政府側は2円の罰金を科し横浜税関長の職務を解任することで問題解決を図ります。これが「女王事件」です。
この事件がきっかけかどうかは明確ではありませんが、星は税関長を辞任した後、大蔵省に戻りますが、まもなく英国に留学することを決意します。敵陣に乗り込むって感んじですね。
英国では難関のバリスター資格(Barrister=at=Law)「法廷弁護士資格」を取得し帰国します。帰国後、司法省附属代言人(弁護士)となります。
その後明治23年衆議院議員に当選し明治25年には衆議院議長。
29年に米国駐在特命全権公使、同33年に逓信大臣を歴任します、
明治34年の6月21日、東京市議会議長在任中に、東京市役所内で伊庭想太郎(いば・そうたろう、心形刀流剣術第十代宗家)に暗殺されてしまいます。

1月19日をテーマにした時、私の過去ブログがすぐに蘇ってきます。
恐らく700話書いてきたブログ中 アクセス数の多かったのが五島慶太をテーマにした
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢

No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢


1日1話を始めた最初の頃のもので、
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)

No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)

実は五島慶太が昭和28年1月19日付で
「城西南地区開発趣意書」という神奈川西部及び中部を含む開発計画ビジョンを提示します。
http://ja.wikisource.org/wiki/城西南地区開発趣意書
このエリアに関心のある方は ぜひこの「城西南地区開発趣意書」よ読まれることをお勧めします。

その他の1月19日
1920年(大正9年)の今日
横浜高等工業学校が市内 大岡町字中町・久能下(現在の横浜市南区大岡)に設置されました。この横浜高等工業学校は、1949年(昭和24年)5月31日に新制大学制度施行にともない「横浜国立大学工学部」となります。
この場所は現在 市営地下鉄「弘明寺駅」出口、鎌倉街道沿いにある「横浜国立大学教育人間科学部附属横浜中学校」が設置されています。
記念碑が校門脇に建っています。