Facebookブログ アーカイブ用に転載します。画像等は追々追加します。
1874年(明治7年)の今日 星亨が第4代目の横浜税関長に就任した日です。
星は「高島学校」で英学を学び英語教師となるが陸奥宗光の推挙で明治政府に入り税関長となります。
あだ名は『押し通る(おしとおる)』と呼ばれた豪腕無双”で「明治の傑物」と評されました。その星を「押し」たる所以のエピソードが「女王事件」です。
税関長に就任早々英国のクイーン“Her Majesty”を「女王」と訳し、当時のイギリス公使パークスが激怒し「女皇」と訳せ!と抗議しましたが、星は自説を一歩も譲りませんでした。パークスは訴訟を起こし日本政府側は2円の罰金を科し横浜税関長の職務を解任することで問題解決を図ります。これが「女王事件」です。
この事件がきっかけかどうかは明確ではありませんが、星は税関長を辞任した後、大蔵省に戻りますが、まもなく英国に留学することを決意します。敵陣に乗り込むって感んじですね。
英国では難関のバリスター資格(Barrister=at=Law)「法廷弁護士資格」を取得し帰国します。帰国後、司法省附属代言人(弁護士)となります。
その後明治23年衆議院議員に当選し明治25年には衆議院議長。
29年に米国駐在特命全権公使、同33年に逓信大臣を歴任します、
明治34年の6月21日、東京市議会議長在任中に、東京市役所内で伊庭想太郎(いば・そうたろう、心形刀流剣術第十代宗家)に暗殺されてしまいます。
1月19日をテーマにした時、私の過去ブログがすぐに蘇ってきます。
恐らく700話書いてきたブログ中 アクセス数の多かったのが五島慶太をテーマにした
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢
1日1話を始めた最初の頃のもので、
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)
実は五島慶太が昭和28年1月19日付で
「城西南地区開発趣意書」という神奈川西部及び中部を含む開発計画ビジョンを提示します。
http://ja.wikisource.org/wiki/城西南地区開発趣意書
このエリアに関心のある方は ぜひこの「城西南地区開発趣意書」よ読まれることをお勧めします。
その他の1月19日
1920年(大正9年)の今日
横浜高等工業学校が市内 大岡町字中町・久能下(現在の横浜市南区大岡)に設置されました。この横浜高等工業学校は、1949年(昭和24年)5月31日に新制大学制度施行にともない「横浜国立大学工学部」となります。
この場所は現在 市営地下鉄「弘明寺駅」出口、鎌倉街道沿いにある「横浜国立大学教育人間科学部附属横浜中学校」が設置されています。
記念碑が校門脇に建っています。