第870話【絵葉書の風景】<年賀葉書>

2021年2月 一部更新しました。地図の追加、樺太関係の記事追加。内容の一部修正をしました。

2016年12月
年も押し迫ってきました。年賀状の準備の季節です。 今回紹介する<一枚の絵葉書>は年賀状です。
発行年は 宛名欄から 1915年(大正4年)
絵柄は この年の干支にちなんでウサギ達が楽隊を編成
大八車に農産物と果物を積んで賑やかに行進する絵柄です。
発信者は
「堀田忠次郎」「堀田隆治」の二名連名。
両名は
「開港五十年紀念横浜成功名誉鑑」に登場しています。 これを含めたいくつかの資料よれば、
慶応七年横浜萬代町一丁目七番に開業し明治23年に三忠合名会社となりました。ジャガイモ、玉ねぎ、蜜感、農産物、海産物を主に輸出入する会社として登場、一時代を築きます。
この年賀状は、「三忠合名会社」オリジナルの絵葉書で、取引先に送ったものと思われます。
明治25年「三忠合名会社」は北海道小樽にも支店を置き、北日本各地の物産を扱い中でも当時日本国領土だった南樺太との取引も多くあったようです。
この年、1915年(大正4年)の年賀状にはもう一つ意味があったようです。
政界進出の準備だったのでしょうか
9月25日に行われた神奈川県議会議員選挙に
政友会から立候補、262票(次点)で落選しています。
落選で懲りたのか政界への立候補はこれだけしか確認できませんでした。
この時、政友会としてトップ当選したのが「新井清太郎」で352票でした。
前市役所前に創業者の名を拝した「(株)新井清太郎商店」ビルが建っています。
「三忠合名会社」のその後は?ネットで確認した程度ですが、
貿易商”横浜三忠商店”を継承した企業が現在も東京で事業を営んでいます。
株式会社 三忠

<年賀状>
さて、今回のサブテーマである年賀状、年末に出し、正月にまとめて配達される予約配達システム。
古くは江戸期に街道の整備がすすみ「飛脚」制度が充実する中、豊かになった町民・商人の間で「年賀の書状」のやりとりが新年に行われていました。
今日のように<正月>に集中して賀状の配達が行われるようになったのは明治の郵便制度が整備されてからのことです。
<はがき>の登場によって、手軽に多くの人にメッセージを送ることができるようになり、爆発的に<年賀はがき>への利用が増えます。
結果
年末数日に年賀を目的とした郵便の取扱量が急増・集中し流通がパンクします。
そこで制度として<年賀郵便>のルールが決まりました。
基本は<1月1日>の到着に日本人はこだわったのです。郵便のルールは投函されたら順次配達していきますから、人々は元旦に届く年末ギリギリを狙った訳です。当然、配達が間に合わなくなってきます。
1899年(明治32年)に
年賀郵便だけ 暫定的に普通郵便と分離します。
1906(明治39)年
そして、「年賀特別郵便規則」が公布され正式に法制化され現在に至ります。それまで普通郵便は配達期日の指定をすることができなかった訳です。
翌年の
1907年(明治40年)から
「年賀」であることを表記すれば、郵便ポストへの投函も可能となり正月に届くことが制度化されます。
そして
2017年は
年賀状制度110年目を迎えることになりました。
年賀状は以前厳しい減少傾向にあり、正月の風物詩から消えることは無いと思いますが、残念な傾向です。

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