【吉田町物語】吉田町清水組










2018年の暮は横浜市内で歴史的事件が起こりました。
日産ゴーン事件です。
各メディアは、横浜駅近くにある日産グローバル本社前に集まり周辺は騒然としました。
そもそも、日産自動車は横浜生まれの代表的自動車メーカーですが、長らく東京に本社を移していました。
ようやく創業の地へ戻った矢先の事件です。
横浜の自動車史に関して調べてみました。
横浜はご存知、開港の舞台です。多くの欧米文化がいち早く到着した場所でもあります。福沢諭吉がオランダ語から英語に転換を決意したのが横浜での体験というエピソードは有名です。
資料を探してみると国産自動車の歴史にも横浜が多く関わっているようです。面白いエピソードも多くありますが、ここではアウトラインを追いかけます。
欧州で自動車が誕生したのは1769年(明和6年)江戸時代中期、産業革命の中からフランスで馬車に代わる蒸気自動車が発明されたことに始まります。
産業革命は動力革命と言い換えることができるでしょう。
蒸気、電気、ガソリンが動力技術として開発され、周辺技術と応用技術が集約していきました。
例えば
電池が1777年、
モーターが1823年に発明され実用化に向け開発競争がヨーロッパで始まりました。現在主流となっている内燃レシプロエンジン開発は当初難航し、ガソリンエンジンの自動車が誕生したのは1885~1886年ごろといわれています。
ちょうどこの頃に、自動車産業の開拓者であるダイムラー、そしてベンツが登場しました。
自動車は総合技術力の結晶です。時代の最先端技術がそこに組み込まれていると言っても過言ではありません。
自動車が新しい技術を求め、
新しい技術が自動車を革新していったのです。
1900年代二十世紀初頭は、まだ蒸気自動車が主流でした。しかし量産という課題がたちはだかり多くの技術者が様々なプロトタイプ開発に向け邁進する時代でした。
必要は発明の<母>です。自動車産業を飛躍的に躍進させたのが広大なアメリカ大陸でした。広大な国土を持つアメリカにとって馬車に代わる移動手段が求められ新たな自動車開発が急速に始まっていました。
自動車は欧州生まれ、米国育ちで発展してきました。
産業革命による<エンジン>の成果はまず船舶に活用され、航海能力が飛躍的に伸びることで欧米各国は極東への進出を強める要因になっていきます。
日本は1859年に開港することで、欧米文明が怒涛のごとく押し寄せ、近代化の十字架を背負うことになります。
明治に入り
自動車が我が国に輸入されたのは20世紀直前の1890年から1900年ごろと思われます。外国商社の拠点となった横浜や神戸で本国の成果を持ち込むために数台を輸入したが始まりで一般的認知はまだまだでした。
一般国民が外国の自動車というものを知ったのは<博覧会>でした。
1903年(明治36年)に大阪で開催された「第5回内国勧業博覧会参考館(外国館)」で8台の輸入自動車が展示され話題となりました。
ここで少し内国勧業博覧会について触れておきます。
[内国博覧会]
「国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目育成を目的」とした展示会で5回開催。
第1回内国勧業博覧会 1877(明治10)年 東京
※ウィーン万国博覧会を参考に、初代内務卿大久保利通が推し進めたもので、その後の博覧会の原型となっていきます。
第2回内国勧業博覧会 1881(明治14)年 東京
※出品数は第1回の4倍、所管も内務省単独から大蔵省も関わるようになります。
前回と同様の出品を禁じことで、新製品、新技術の展示が増え成功の要因の一つとなりました。
第3回内国勧業博覧会 1890(明治23)年 東京
※外国人を積極的に招致する方針が立てられましたが、ごく少数しか来日しなかったようです。
一方、民間出品は前回の約4倍に膨れ上がり多くの出品がありましたが不景気なども重なり、大量に売れ残りが生じました。
※<勧工場>第一回内国勧業博覧会開催を契機に登場した都市部の名産品店のことです。
博覧会で人気だった商品、売れ残った商品などが販売され、百貨店の原型ともなっていきます。
勧工場は百貨店の発展・充実で次第に魅力を失い、この頃から下り坂となっていきます。
【芋づる横浜物語】縁は異なもの味なもの3
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5826
第4回内国勧業博覧会 1895(明治28)年 京都
※東京遷都に苦渋を感じていた京都政財界念願の開催です。
※前年に設立された日本初の京都電気鉄道が京都市内を走行。
※この内国勧業博覧会では浅沼藤吉(浅沼商会)、杉浦六右衛門(のちの「コニカ」)、山田与七(現「古河電気工業」)ら、今に続く企業の創始者達が出展を契機に次世代の技術をリードしていきます。
博覧会期間中に終わった日清戦争の勝利が、殖産興業を目指した日本に一つの自信をもたらしたことと、外国技術の導入の重要性を体験的に学んだことで、政府は勧業博覧会の重要性を再認識するようになります。
もう一つ特筆すべきことは、
エネルギー革命でした。勧業博覧会の展示館が<石炭>から<電気>へ転換しエネルギー転換を実証しました。
(内国勧業博覧会から万国博へ)
そもそも、日本は幕末から欧米の「万国博」と出会い、カルチャーショックを受けたところから近代化が始まっています。明治以降、国家主導で外国人を雇い、欧米を学ぶ人材を育てるところから始めた日本の近代化はある意味成功しました。一方で、ダイレクトに諸外国製品と出会う場は限られていました。
殖産興業の高まりで、政府内部でも国際博覧会開催を検討するようになり、<万国博>開催の建議が行われます。
第5回内国勧業博覧会 1903(明治36)年 大阪
※国内企業が着実に成長し、関西経済の復活もあり、外国企業の招聘を行うことに。
内国勧業博覧会、建前は「国内の産業発展を促進」ですが、外国商社専用の「参考館」を設け募集をかけたところ予想を遥かに上回り最大の内国勧業博覧会となります。
この時、
開発最前線の自動車が、展示品の目玉としてデモンストレーションが行われました。
ちょうど
1908年(明治41年)に登場したアメリカのT型フォードによって始まった「自動車量産革命」前夜のことです。
この第5回内国勧業博覧会では、検討中の万博を意識して開設した「参考館」に諸外国の製品を陳列し、イギリス、ドイツ、アメリカ、フランス、ロシアなど十数か国が出品するだけでは足りなくなり、単独館まで登場します。
<アメリカ製自動車8台>の展示・デモは入場者に強烈なインパクトを与えたそうです。
ここに横浜の外国商社が自動車を出展します。
横浜山下町「ブルウル兄弟商会」からトレド号(二人乗蒸気自動車)
アンドリュース・アンド・ジョージ商会からはハンバー自動車が出品されます。
ブルウル兄弟商会(Bruhl Brothers Co)はフランス人ダビット・ブルウルが創立した米国の貿易会社で、1888年(明治21年)頃居留地24番に創業(その後61番・22番)。神戸にも開設し1903年(明治36年)まで営業の記録が残っています。
ブルウル兄弟商会の自動車に関しては
1901年(明治34年)3月26日付「二六新報」でナイアガラ号を輸入し、車が日本到着したことが報告されています。
「The Niagara Steam Automobile has now arrived and we shall be pleased to
have it examined by all Automobiling. On view in Yokohama at No.22.」
一方のアンドリュース・アンド・ジョージ商会は
ブルウル兄弟商会よりも積極的に自動車デモを行います。内国勧業博覧会参考館前でボン(H.Bon) という技師が実際に車を運転し人気を博したそうです。
アンドリュース・アンド・ジョージ商会は1911年(明治44年)7月7日にボッシュの日本における第1号代理店となり、ボッシュ日本進出の基盤として活躍します。
その後、自動車業界はアメリカで起こったT型フォードを契機に<アメ車>が国内を席巻する時期が続きます。
横浜と自動車は明治期から深い関係にあります。
大正期に始まる横浜と自動車の関係は
第923話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆2
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10924
第930話石油を巡る点と線
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11073
横浜製自動車 雑話(改訂)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7846
【ミニミニ今日の横浜】3月3日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6947
横浜市神奈川区子安にアジア初の「日本フォード」製造工場が開設
横浜と自動車産業は現在も深い関係にあります。
1930年(昭和5年)8月2日(土)の今日、
午前9時半、横浜港に日本郵船の北大西洋航路定期船「龍田丸」が桑港(サンフランシスコ)から入港しました。
この年の春4月25日に初就航した「龍田丸」は浅間丸姉妹船として三菱造船で建造。隔週運行し、米国サンフランシスコからロスアンジェルス・ハワイを経由し、横浜・神戸そして上海・香港を結ぶ花形航路でした。
この日到着した「龍田丸」に83歳になる日本を代表する実業家が乗り合わせていました。
浅野総一郎。
このブログでも様々なテーマに登場する、近代横浜経済を語る上で重要な人物です。
意外に、浅野自身に関しては殆ど触れることは無く、彼のビジネス展開を紹介する程度でした。
といって浅野総一郎をガチンコで紹介しようとすると
それだけで 数十回のボリュームを必要とするほど、マルチスーパー実業家です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/浅野総一郎
アウトラインはウィキペディアでごめんなさい。
彼の業績をザクッと絞ると
安田財閥と関係が深く
基本は「セメント」
知る人ぞ知る現在も浅野セメント(現在は太平洋セメント)
浅野製鉄→日本鋼管株式会社(現:JFEスチール)
浅野造船
東洋汽船
※日本郵船に挑戦し、孤軍奮闘、最終的に客船部門は日本郵船に。貨物部門は残り戦後まで続きます。
東亜建設工業
https://www.toa-const.co.jp/company/introduction/asano/
沖電気工業 →意外でしょう?
関東運輸株式会社
浅野物産株式会社(現在は 丸紅や株式会社NIPPOなどに分社)
この他にも鉄道関係にも深く関わり
青梅鉄道、五日市鉄道、南武鉄道
そして 教育機関として「浅野学園」
といった企業群を挙げるだけでも、浅野財閥と呼ばれた理由がわかります。
しかもこれらの企業群を一代で築いたのですから、すごい人物でありすごい時代でした。これ以外に
浅野総一郎の果たした最大の功績は
横浜港整備と京浜埋立事業の立役者であったと思います。
浅野総一郎が安田善三郎と出会い、渋沢栄一に信頼された”大風呂敷”は
横浜港の整備される前、
東京と横浜をつなぐエリアを整備し運河機能を活かした一大インフラ計画をいち早く考え、夢を実現、実際に成功させたことでしょう。
とにかく横浜は開港したまでは良かったのですが、その後の横浜港はとにかく使い勝手が悪く、幕末の海運事情はあっという間に過去のものとなってしまったため近代港湾施設整備が急務でした。19世紀末から20世紀は
世界が産業革命以降の技術革新の荒波に揉まれていた時代でした。
大消費地「東京」へスムースに荷が運べない。
湾岸は多摩川の土砂が蓄積しペリーが測量で確認した通り、遠浅で海運には向きませんでした。鉄道など陸路の整備もままならない中、横浜から東京までの回漕費は、ロンドンより横浜までの運賃とほぼ同額という実に非効率の時代がしばらく続いたのです。当時の神奈川県に話を持ち込んでもなかなか埒が明かず、最終的には自分で資本を集めて事業化してしまったのが浅野総一郎でした。
話を1930年(昭和5年)8月2日に戻します。
この日、浅野総一郎の帰国は大きく新聞紙上にも取り上げられました。
「若返った浅野翁」
「十億外資借入旅から帰国」
若返ったのはそのファッションでした。真っ赤なネクタイを締めた姿が、83歳の日本人には見えなかったのでしょう。また十億外資借入旅とは、震災で打撃を受けまた昭和に入り恐慌が起こるなど、経済状況が厳しい中、80歳を過ぎた浅野総一郎は、事業発展のために
「セメントを輸出するために、今年はアメリカとイギリス、ドイツに支店を作るぞ。世界恐慌といってもいつまでも続くとは思えない。それにアメリカ政府は景気対策として、公共事業を始めるだろう。セメント需要は一段と高まるだろう。不況のときこそチャンスだ。」
「安田さんが亡くなったから、俺はこれからは海外から資金を借りて仕事をする」とぶち上げ、昭和5年5月18日にシベリア大陸経由で欧米視察(資金調達)の旅に出ます。ところが、ドイツで体調異変に気が付き、食道がんの可能性があると診断されます。ドイツでは友人の野村大使らの歓迎を受けますが、旅半ばで急遽日本へ帰ることを決断、アメリカ経由で
8月2日のこの日横浜に帰ってきたのです。帰国後すぐに診察、結果は食道がん。
その後 大磯に戻り療養しますが11月19日
83年の波乱に満ちた生涯を遂げました。
今日はここまで。
浅野総一郎と築港の父パーマーの話も紹介しておきたいところですが、別の機会にしておきます。
この画像は、伊勢佐木から山手方向を撮影したものです。
撮影時期を推理してみます。
風景の左に横浜市役所が見えます。
歴代の歴史から画像にある市役所は
二代目市庁舎(1911年~1923年)と思われます。
(三つの橋)
市役所の横を流れる派大岡川に架かる
トラス橋の「港橋」と
アーチ橋の「花園橋」、
桁(ガーター)橋の「吉浜橋」が見えます。
代表的橋の構造が三種類見える風景も中々ありませんね。
ちょっと見えにくいですが。
山手の建造物群はまだ本腰をいれて時代別の整理をしていません。いずれやらなければならない課題の一つです。
もう一つ大きなヒントが写っています。
画像の下ギリギリに有隣堂のロゴ看板が見えます。
伊勢佐木にある老舗書店有隣堂本店は「第四有隣堂」として1909年(明治42年)12月13日に創業します。
No.348 12月13日(木)いっさつの本があれば
創業時は木造2階建ての店舗で、
1920年(大正9年)に株式会社となり、これをキッカケに間口5間・奥行15間の3階建店舗を新築します。
ここに写っている社屋は 2階建てなのか三階建てなのか?
このロゴは何時から使われているのか?
このあたりが判ればもう少し絞り込みができるかもしれません。
当時の横浜情報として「横濱貿易新報」の大正9年12月17日付け記事に
歳末お歳暮特集が組まれていて、市内のお店紹介記事が掲載されています。
ここに大正9年に完成した有隣堂の紹介記事が写真入りで紹介されていました。
写真外観を確認すると、(画像では見難い)風景写真に写り込んでいる有隣堂と同じだろうと判断できます。
この風景写真は1920年(大正9年)12月から
1923年(大正12年)8月までの間に撮影されたものだろうと思われます。