4月 13

【吉田町物語】吉田町清水組

現在、吉田町に拠点を構える最も古い企業は、都橋のたもとに事業所を持つ清水建設横浜支店です。
左側 都橋袂、清水建設横浜支店
現在スーパーゼネコン※と呼ばれている5社の中で、特に「清水建設」と「鹿島建設」は開港場を舞台に横浜普請で飛躍した会社です。
※清水建設、鹿島建設、大成建設、大林組、竹中工務店
清水組は安政の大獄の始まった1858年(安政5年)
時の大老、井伊直弼から「外国奉行所」など幕府施設建設を請け負うことで横浜開港場との関わりが始まります。
1859年(安政6年)
清水組を興した初代喜助が死去し養子の清七が2代清水喜助となった年、
「横浜坂下町」に店宅を新築し、横浜へ進出します。(清水建設社史)
この開港場の拠点「坂下町」、磯子ではありません。現在の「日本大通」と「横浜公園」が接するあたりと推定できます。
清水組は「神奈川戸部村外国奉行所、石崎関門ならびに番所および野毛坂陣屋前役宅を施工」する事業に関わります。神奈川戸部村外国奉行所はおそらく現在の紅葉ヶ丘神奈川奉行所、石崎関門・番所はわかりません。
野毛坂陣屋前役宅も現在の宮崎町近辺でしょうか?調査中です。
清水組は神奈川役所定式普請兼入札引受人となるなど、事業は順調に拡大していきます。
ところが、
1866年11月26日(慶応2年10月20日)午前9時頃に港崎遊郭の西方向、現在の尾上町一丁目付近から出火し開港場の大半が消失した<慶応の大火>で「横浜坂下町店宅」も類焼し、失ってしまいます。
(写真資料)
清水喜助は吉田町に家屋を新築し移転します。この場所で釘や鉄物商のほか材木商も兼業し事業を拡大していきます。
当時、木造家屋の密集する日本の都市は、火災に弱く何度かの大火災に悩まされます。
移転した吉田町店も火災にあいまたまた類焼のため宮川町へ移ることになります。
その間、時代は明治となり、開港場は居留地と商人の大都市に変貌し始めます。
喜助は吉田町に戻ることを決意し、
1874年(明治7年)吉田町に洋風3階建の店宅を新築し、宮川町から復帰します。
大岡川下流から都橋を望む。
大岡川、都橋下流側 右岸に清水組
1881年(明治14年)に横浜店は清水満之助が経営
 神田新石町店は清水武治が経営する東京・横浜分業体制を採ります。
1883年(明治16年)には横浜吉田町宅を本店とし、日本橋本石町居宅が支店となりますが、
1887年(明治20年)満之助が35の若さで死去、残された8歳の長男が四代満之助襲名しますが、三代目満之助の遺言により経営の神様と呼ばれた”渋沢栄一”を相談役(〜1916年)に迎え経営危機を乗り越えます。
1892年(明治25年)9月に日本橋本石町店を本店、横浜店を支店に改め、拠点を東京に移します。
1895年(明治28年)東京・横浜両店を合併し、清水組が一本化。
清水組を創業した清水嘉助は、越中小羽(現・富山県富山市小羽)出身で、故郷富山で大工の修行をして、日光東照宮の修理に関わったことをキッカケに江戸に出て神田の地で創業します。江戸城西の丸修復で建設業の基盤を築きます。
富山(越中)人脈は、
1838年(天保9年)11月25日 安田善次郎 富山市で出生(安田財閥の祖)
1848年(嘉永元年)4月13日 浅野総一郎 氷見市で出生(浅野財閥の祖)
1881年(明治14年)大谷米太郎が小矢部市で出生(大谷重工業、ホテルニューオータニ創業者)
1885年(明治18年)正力松太郎 正力松太郎が射水市(大門町)で生れる(読売新聞中興の祖)
安田、浅野も横浜・川崎を舞台に一代を築いた越中人です。
どこかで、つながりがあったと思います。機会があれば、横浜の越中人脈も探ってみたいと思います。
成人した四代目清水満之助は
1915年(大正4年)8月10日竣工、二代目横浜駅建設を手掛けます。煉瓦造2階、平面形状は不等辺三角形。階上に待合室、改札口がある荘厳な駅舎となります。
<横浜の清水>作品を抜粋します。
◯谷戸橋(堀川)1880年(明治13年)
◯横浜税関(関内)1885年(明治18年)12月
◯横浜水道開設事業 三井用水取水所の内 用水取入口、貯水池、濾水池1887(明治20)年9月
◯第一銀行1911年(明治44年)6月
★二代目横浜停車場1915年(大正4年)6月
★横浜市開港記念会館(旧開港記念横浜会館)1918年(大正7年)
 平成の修復も清水建設。
◯ホテル、ニューグランド1927年(昭和2年)新築 設計渡邊仁
1933年、1958年、1964年 増築
2016年 耐震改修
◯味の素横浜工場サイロ竣工(昭和30年)9月
◯横浜マリンタワー1961年(昭和36年)1月
◯石川島播磨重工業横浜第2工場建造ドック及び修理ドック
 1965年(昭和40年)3月<建造ドック>
 1966年(昭和41年)8月<修理ドック>
◯横浜スタジアム1978年(昭和53年)3月
◯県立神奈川近代文学館1984年(昭和59年)3月
◯横浜地下鉄1号線 吉田町工区1986年(昭和61年)3月
◯関内ホール(横浜市市民文化会館)1986年(昭和61年)
◯新横浜プリンスホテル1992年(平成4年)2月
◯横浜・八景島シーパラダイス デザインシステム(清家清)
 <建築部分>1993年(平成5年)5月
 <土木部分>1994年(平成6年)3月
◯横浜ランドマークタワー1993年(平成5年)6月
◯横浜銀行本店1993年(平成5年)7月
◯飯田家長屋門 保全1996年(平成8年)3月
◯日石横浜ビル1997年(平成9年)6月
◯Foresight21(関東学院大学1号)2001年(平成13年)3月
◯慶應義塾大学日吉新研究室棟(来往舎)2002年(平成14年)1月
◯横浜港大さん橋国際客船ターミナル(第一工区)2002年(平成14年)11月
◯今井川地下調節池2004年(平成16年)3月
◯横浜市立みなと赤十字病院2003年(平成15年)12月
◯日産自動車グローバル本社2009年(平成21年)4月
◯富士ゼロックスR&Dスクエア2010年(平成22年)3月
◯アニヴェルセルみなとみらい横浜2013年(平成25年)11月
◯横浜グランゲート2020年(令和2年)
4月 1

【吉田町物語】KEY木村商店

開港場の誕生によって、吉田町界隈のにぎわいは自然に生まれました。
開港直前に横浜道が貫通し、開港場を目指した多くの人々は、関内を目前にして一休みしたり、身支度を整えたりしたのかもしれません。開港から10年という激動の時を経て、時代が明治となり、野毛浦地先を埋め立てたところに鉄道が敷設されたことで吉田町はさらに賑わいを見せていきます。
明治から大正にかけて
この短くも活気あふれた<吉田町>界隈を経て大きく育っていった企業群があります。
吉田町と関係の深い大手企業といえば、
清水組(清水建設)
キーコーヒー

二社をあげることができます。 今回は、木村商会、後のキーコーヒーを紹介します。
【キーコーヒー株式会社】
年商:640億円(2020年3月)
従業員:1,176 名(連結) / 824 名(単独)
東京証券取引所1部に上場しているコーヒー業界国内最大手です。
本社所在地:東京都港区西新橋二丁目
<沿革>
1920年(大正9年)伝説の珈琲店カフエ・パウリスタ横浜店に勤めていた木村文次が各国産コーヒー焙煎加工卸および食料品の販売を、創業の地横浜市中区福富町で「木村商店」を開業します。
木村の勤めていた伝説の「カフエ・パウリスタ」は当時盛んに行われた移民と大きく関わっていました。日本人のブラジル移民をいち早く手がけた”水野龍”が、現在で言うところのアンテナショップ的なブラジル・サンパウロ州政府庁専属ブラジル珈琲発売所「カフェーパウリスタ」を設立し、ブラジル移民の経済支援として日本へのコーヒー輸出振興事業を起こします。
「カフエ・パウリスタ」は東京を中心に出店され、日本にカフェ文化を伝える重要な役割を担いました。
https://www.paulista.co.jp/paulista/
ここでコーヒー文化と出会った木村文次「木村商店」は福富町から、相生町次いで住吉町へと店を移転し事業を拡大していきます。社史によると開業の翌年、最初のヒット商品となる「コーヒーシロップ」の製造・販売を開始します。
ワインの普及と同様、<辛口>文化の無かった日本では甘い飲料が好みとなったので、コーヒーもブラックではなく<甘味>を加えることで広がっていった歴史があります。
1922年(大正11年)に木村文次は結婚。遠縁の柴田家に婿入し、柴田文次と改名し新婚生活をスタートしますが
1923年(大正12年)9月1日の関東大地震で被災し、妻子を含め親類縁者を失ってしまいました。
文次は傷心の中でも諦めることなく
9月10日に店を<吉田町>に移転して再起、復活を図ります。移転先は具体的にわかりませんが、
1930年(昭和5年)の資料には「木村コーヒー店」※吉田町58とありますので、位置は図の位置と思われます。
※1928年(昭和3年)屋号を『木村商店』から『木村コーヒー店』へと改称。
出典:キーコーヒー
明治14年ごろの吉田町
横浜工場が竣工。コーヒー、ココア、紅茶の缶詰物、コーヒーシロップ、清涼飲料の製造を開始し、「コーヒーは、日本人の新しい食生活と文化を開く鍵だ。」と考え、現在につながる<KEY>のロゴを制作。
1946年(昭和21年)本社機能を横浜から、東京支店(東京都港区芝田村町四丁目8番地)へ移すまで横浜吉田町が「木村コーヒー店」本店でした。
正面写真が無かったので遠景ですみません
その後、横浜本社だった拠点は横浜支社となり、場所も防火帯建築として健在の神奈川県吉田町第二共同ビルの一角に近年までありましたが、現在は撤退してしまいました。桜木町駅前、ぴおシティに輝いていた広告も幕を降ろしてしまいました。
横浜生まれ、吉田町で育ったキーコーヒー本社が再び横浜に戻ってくることを夢見て 簡単ですが紹介を終わります。
2月 12

【閑話休題】

第990話 近代・ミシン・横浜
を三回に分けて書きましたが、結果消化不良になってしまいました。
この事件は、偶然書店で購入した「ミシンと日本の近代」の中で横浜中央店を舞台にした労働争議の模様が実に詳しく書かれていたので、簡単に紹介してみようと思い立ちました。
「シンガーミシン争議」は横浜市史に書かれていたので概要は知っていましたが、
歴史や市場背景に関しては追いかけていませんでした。
なぜ”ミシン”で乱闘事件が起こったのか?
詳しくは「ミシンと日本の近代」を!
「ミシンと日本の近代」
ミシンは日本の近代化を考える上でとても興味深い道具です。欧米より日本の近代化におけるミシンの存在は大きいでしょう。<和服>から<洋服>へ そして近代軍隊への転換にミシンは重要な役割を担ってきました。
確かに軍服という近代の象徴はうなづけます。ここに日清・日露戦争による未亡人・女性の自立があったり、女性の総合教育の機能を担ってきた背景があります。
一方で企業のグローバリズム化による初期資本主義の弊害をここにみることができます。 横浜を素材に日本の近代化(異文化の受容)を考えてみたい。
これが現在の私のテーマです。
異なったこと、違うモノを受け入れる際の「受容と拒否」が近代化の日常でした。異なったことを<新しいこと>に置き換え、新しいことは<良いこと>という物語を維持しながら、日本は比較的スムースに近代化の道筋を歩んできたように思います。
開港開国以降、明治維新を経て、日本の近代化はある意味”節操の無い”程の積極的受容を試みます。歴史家の中では「不平等条約」を撤廃するための受容だった、と分析している方もおります。
異文化導入をテコに、武士政権から天皇を軸にした立憲君主的な政治構造への変革を遂げるには近代化の需要は必須だったのかもしれません。
日本人はアジアの中で早く近代化の道を歩み始めます。時期的にも 受容の速度としても早かったことは事実です。 横浜の明治から大正期の人通りから 横浜でも圧倒的に女性は和服だということが分かります。
当時の服装を絵葉書から眺めてみます。
伊勢佐木、花見煎餅、玩具の満利屋、ガス灯が見える。人々はほぼ和装。自転車も普及。
伊勢佐木町界隈の風景。ハットをかぶる男性、傘をさす和装女性、和装の従業員、自転車に乗る白服男子
野毛の風景。車夫以外は和装。右側は最近閉店した醍醐三河屋茶店
大正末期の風景、母親は和装、子供は洋服(制服か)
明治期の子供たち。
大正初期の風俗絵。尻にひかれている子供を背負う洋服の夫と和装の女性。
2月 8

第990話 近代・ミシン・横浜(3)

シンガーミシン騒動 in Yokohama
神奈川県警史には「戦時体制下の警察ー特異事件ー」に一項目立てて記述しています。
五.シンガーミシンの乱闘事件
神奈川県警史
ここでは4pを使って<乱闘事件>の概要を警察視点で説明しています。 また
横浜市史でも「労働者状態と労働運動」の項で
「シンガーミシン争議」
 として6pにも及ぶボリュームを使って触れています。
「横浜を舞台に、外資系企業で「民族意識に燃えた特異な」労働争議が発生した。」 横浜市史でも神奈川県警史でも<特異>であるとしています。
この「シンガーミシン争議」は、それまでの資本家(企業側)と労働者対立である労働争議とは異なる事件でした。 事の発端は
1932年(昭和7年)8月にシンガーミシン神戸支店に勤める従業員がシンガーミシン本社に向けて待遇改善を求めたことに始まりますが、
ここに至る背景には日米の企業の経営方式の違いや
シンガーミシン労使関係のこじれが積み重なっていました。
まず時代背景ですが
1901年(明治34年)まさに20世紀、日本に進出したシンガー社は同時に世界市場を席巻、「世界初の成功した多国籍企業」(ハーバードビジネスレポート(2003年))と呼ばれたグローバル企業の騎手でした。
20世紀前半が複製、大量生産、均一化の時代の始まりでした。工場・学校・映画などが時代を大きく変え始めます。
特に大量生産を具現化したのが<machine>でした。
しかも<服製造>という日常を席巻したのが<ミシン>でした。 1929年(昭和4年)10月にアメリカ合衆国で起き世界中を巻き込んでいった<世界恐慌>の影響が遅れて日本にも及び、昭和恐慌と呼ばれた不景気に陥ったことで販売不振に陥ったことも労働問題を悪化させました。 米国有数のグローバル企業シンガー社は
日本に進出した1896年の前、
1890年には 「SINGER brand reaches 90% market share globally.」と自社サイトでも告知しているようにほぼ市場を独占していました。
本社をニューヨークに置き、資本金十四億円、
明治38年に起こった<日露戦争>当時の日本の国家予算
一般会計が4億2000万円。
軍事費が7億3000万円、あわせて11億5000千万円より大きい資本金を保有していました。
神戸に日本総支部(現地本社)を置き、横浜、大阪、神戸、京城に中央支店と呼ばれる地位拠点を設けました。各中央支店には代表として本社社員(外国人)が就き、事務員(有給社員)と歩合給の販売員が雇われていました。
販売社員は全て固定給なしの歩合給で、
しかも入社に際し200円という大金を保証金として会社に納め、信用保険に強制加入、さらに国税10円以上を納める人物二名の保証人まで求められたという始末です。 販売組織は中央支店の下に各分店(販売店)を置き、
分店(販売店)は顧客に一台250円で販売し一年12ヶ月月賦で販売、毎月集金人が回収する方法を採っていました。
販売員は現金入金額の歩合で給与が支払われましたので、月賦回収が遅れると賃金も遅れ、回収不可能となった場合、退職の場合には<保証金><保証人>から回収という方法が採られました。
さらに昭和恐慌が起こったこと、この明治期に採用した特殊の雇用関係は日本が<働き方>の変革を進める中も変わらぬまま継続され続けます。
ここに販売員の不満が爆発することになった訳です。
従業員は交渉を求め、米国本社は一切の要求をはねつけます。経営者側は従業員を甘く観ていたようです。実力行使に出た従業員に対して米国から極東支配人リチャード・マクリアリーがホテルニューグランドに拠点を置き、強行な姿勢を貫きます。
「要求は全て拒絶」しこれをキッカケに従業員の結束が固められ
最終的に横浜を舞台に大乱闘事件が起こり外交問題にまで発展します。
会社側は信興団という暴力団を雇入れ、争議団体を威圧、それまで比較的左翼労働者組織に加盟しなかった争議団は組合を結成、総同盟に加入するという全面対決の様相となります。
1933年(昭和8年)1月18日争議団体のリーダー山本東作の下で実力行使を決定。
朝10時半に150名を集めさらに他の支店からも横浜公園に集合し
花園橋脇にあった横浜中央店に<薪>を手にして乱入。
中央店の位置はこのあたり?(未確認)
会社側は信興団が30名待ち構え、
ここに仁義なき大乱闘が始まります。重傷者1名、負傷者27名が出て店内はほぼ破壊されました。
事件は、
加賀町警察による争議団側の幹部175名逮捕で終局します。内、48名が起訴されますが、事件の内容としては実に寛大な措置となりました。
その後も警察が双方の間に入り、横浜商工会議所とともに調停に乗り出し争議団は一部の要求を実現しただけで渋々和解に応じます。
『全従業員をニグロ視する謬見を止めよ!』
『ヤンキー資本家』
途中で離脱した日本人従業員には
『日本人ながらも唐化している、米国のスパイ』といった発言もみられ、
新聞も警察もやや労働者側寄りになりという日本の戦前労働争議としてはナショナリズム(反米)と資本主義、社会主義が入り混じり不思議な事件として結末を迎えます。
結果、
米国大使(ジョセフ・グルー)、米国国務長官までがこの事件に言及し事態の回復を求めますが、時は日米対立、開戦へと向かうことになります。
多くの従業員が職場を離れ、国内企業に移動しシンガー社は殆どシェアを失います。
戦争を経て戦後の日本ミシンメーカー発展の大原動力となり、戦後のミシンブームを支えることになります。シンガー社は戦後販売組織を回復しますが、殆どシェアを回復することはできませんでした。 昭和7年ごろの日本政府は
~1932年(昭和7年)5月26日まで
犬養 毅(政友会)内閣 5・15事件のため首相暗殺のため総辞職し
1932年(昭和7年)5月26日~
斎藤 実(海軍)内閣が成立1934年(昭和9年)7月8日まで
当時の
駐日米国大使は
 戦後「本当の意味の知日家で、『真の日本の友』であった」と吉田茂が評したジョセフ・グルー(Joseph Clark Grew、1880年5月27日〜1965年5月25日)
1932年(昭和7年)2月19日(任命)〜
1941年(昭和16年)12月8日 太平洋戦争開戦時の大使 うまくまとまっていませんが参考資料が多く出されています。
日本労働史の視点からも実に興味深い事件です。 □追記
シンガーミシンの負の面ばかり紹介しましたが、
前回の章で洋裁学校の誕生を年表に記しました。
「シンガーミシン裁縫女学院」が東京、大阪、横浜等に開校され
日本の洋裁学校の草分け的存在となります。
ここから文化服装学院、杉野ドレメ、横浜洋裁専門女学院=岩崎学園
 他全国に広がりました。
2月 5

第990話 近代・ミシン・横浜(2)

シンガー日本市場を席巻
戦後生まれの人には<ミシン>といえばシンガー以外にジャノメ・ブラザー(安井兄弟社)・ジャガー(丸善ミシン)といった国内メーカーが登場しますが、戦前は圧倒的にシンガーでした。 幕末、横浜に初めて上陸したミシン=sewing machineは
明治期に認知されるようになり、洋服を製造する産業機械として輸入されました。
和服から洋服への転換が必要であった<軍><警官><鉄道員><郵便夫>他公務員の制服製造への導入を皮切りにミシンは日本全国に普及していきます。
キャッチアップが得意な日本人は、輸入されたミシンを元に国産化に挑戦しますが、20世紀に日本上陸を果たしたシンガーによる内製化した大量生産体制の前にほぼ独占状態を許します。
シンガーミシンの成功は後の自動車産業とほぼ同じ歴史を歩みました。フォードはシンガーの成功例に多くのことを学んだかどうかは不明ですが、
シンガーミシンの企業戦略の特徴は
本体機械と部品規格化し内製化を進め、訪問による月賦販売や操作指導(学校開設)といった総合的な販売システムであったことです。
一時期は、日本全国ミシンはシンガー!という時代を築きますが、昭和初期に起こった横浜を舞台にした一大争議と戦争というタイミングから一気に日本市場から消滅し、戦後もシェアを取り戻すことができませんでした。
簡単にシンガーミシン史をベースに洋服と日本におけるミシン普及の足跡を追ってみましょう。 <>は日本国内関係
1851年(嘉永4年)創業者アイザック・メリット・シンガーが(I.M.Singer & Co.)を創立。
 第1号実用ミシンの特許取得。
1853年(嘉永6年)シンガーミシン1号機が100ドルで発売される。
1855年(安政2年)パリ万国博覧会で最優秀賞を受賞。
1856年(安政3年)個人向け月賦購入制度、分割払い販売等を考案。
1858年(安政5年)年間売り上げが3000台達成。
1863年(文久3年)所持特許数が22に登る。シンガー裁縫機械会社として資本資産550,000ドルを超え初代社長はインスリー・ホッパー就任。
<日本国内では、横浜居留地97番にピアソン婦人がドレスメーカーを開店、ヒュースケンがミシンを輸入し横浜の商館で展示する、日本人がミシンを購入>
<山岸民次郎横浜山下町舶来屋「オランダ屋」に住み込み>
1865年(慶応元年)Singer Manufacturing Company に改称。
1866年(慶應2年)<セールス・フレーザー商会(洋服店)開業→翌年閉店し道具一切を佐藤与次郎に譲渡>
1867年(慶応3年)スコットランドのグラスゴーでミシン海外製造開始。
<片山淳之介「西洋衣食住」の中で背広を紹介>
<この頃の洋服製造技術は横浜居留地に集中、東京には洋服店が殆ど見当たりませんでした>
1871年(明治4年)<茅場町に「柳屋」開店>
1872年(明治5年)<明治天皇が初めて西洋式スーツを着用して公の場に登場>
 <慶應義塾衣服仕立局を開設、ミシン2台購入>
1877年(明治10年)<西南戦争に伴い軍服大量生産のためミシン導入>
1883年(明治16年)シンガー生産拠点英国に拡大。
 クライドバンク市に週に10,000台生産可能な巨大製造工場設立。
1884年(明治17年)半期販売数、横浜490台、長崎90台、兵庫55台(635台)
1887年(明治20年)<この頃から足袋縫製にミシンが導入される>
1889年(明治22年)初の電動式ミシンを発売。
1890年(明治23年)シンガー東京有楽町に本部を設立。(1900年説もあり)
<5月10日嘉仁親王(大正天皇)、九条節子(さだこ)と結婚。>
<陸軍被服本廠 設置>

1901年(明治34年)横浜・神戸「中央店」を軸にシンガー全国販売体制を短期間に整備。
1903年(明治36年)首位だったドイツ製を抜き首位に。農商務省を辞して秦敏之入社。
1904年(明治37年)ミシン裁縫女学院 神田区表神保町一番地に設立の記事あり。 1905年(明治38年)<第26代大統領セオドア・ルーズベルトの長女アリス・ロングワース・ルーズベルト(21歳)がアジア歴訪で来日。昭憲皇后に面会した際皇后から「アメリカのミシンが欲しい」とリクエストがあった>

1906年(明治39年)”シンガーミシン裁縫女学院”を東京・有楽町に開校(設立願受理)。極東支配人は秦敏之で校長は妻の秦利舞子(はたりんこ)。その後、大阪、横浜他各地にも裁縫女学院を開校。
1907年(明治40年)3月 269名在籍。4人でミシン1台という学習環境。秋には定員1,000人へ。生徒20人に13台程度の環境とある。
1908年(明治41年)<名古屋で安井商会=ブラザー設立>
1910年(明治43年)”シンガーミシン裁縫女学院”閉鎖。
1912年(大正元年)”シンガー裁縫刺繍院”開設。
1913年(大正2年)シンガー世界販売数250万台を突破。
1914年(大正3年)第一次世界大戦の影響でドイツ製ミシンからシンガー全盛期に。
1916年(大正5年)”シンガー裁縫院”に名称変更。
1918年(大正7年)大阪神戸横浜に中央店、全国に30監督所、600店の支店。
1919年(大正8年)<並木婦人子供服裁縫教授所、開校>
1921年(大正10年)<パイン裁縫機械製作所=ジャノメ、設立>
1922年(大正11年)<並木婦人子供服裁縫教授所、文化裁縫学院→文化学園>
1926年(大正15年)<杉野芳子「ドレスメーカー・スクール」開校>
1927年(昭和2年)<横浜洋裁専門女学院=岩崎学園 創設>
1929年(昭和4年)ミシン輸入が最高潮に年間61,144台に達する。
 国内シェア95%に達する。
1932年(昭和7年)※シンガー労働争議 横浜が最も最大の闘争舞台に。
1934年(昭和9年)<パインミシン、中野工場敷地内に日本洋裁学校開校>
1938年(昭和13年)<東京重機製造工場=JUKI、発足>
1939年(昭和14年)アメリカが対外物資輸出を禁止しミシンが含まれる。
ミシンと日本の近代
<参考文献>
参考文献「ハマことば」
外国資本に対して史上最大の労働争議となった
※ 1932年(昭和7年)シンガーミシン騒動は
大正期から昭和にかけて起こった多くの労働争議とは異なった背景の中で、その後のミシン業界が大きく変化するキッカケになりました。
(つづく)
2月 5

第990話 近代・ミシン・横浜(1)

日本の近代化は同時に始まった訳ではありません。
新しい制度、道具、技術、言葉、人物…
様々な要素が時期をずらしながら重なる中で、
人々は受容と反発を繰り返し近代化は進行してきました。
日本の近代化は<開国>によって幕が上がります。
近代化の端緒が開かれたのは
圧倒的な西欧技術でした。
例えば、鉄道に代表される蒸気機関。
そのエネルギーは日本人が経験したことのないパワーでした。
一方で生活習慣では永々と続けてきた日常が変化し始めます。
服装を例にとれば和服生活に洋服が入り込むこととなりますが、多くの欧米化の中でも洋服の習慣化にはかなりの時間がかかりました。
特に一般女性の洋装への道は時間を要しましたが、現在でも<洋>服と呼ぶ数少ない欧化の象徴です。
この洋装化の基軸となったのがsewing machineです。
一般的には<ミシン>と呼ばれています。
ミシンは裁縫の機械化をもたらしましたが、果たした役割は縫製という機能に留まりませんでした。
カール・マルクスはミシンを「決定的に革命的な機械」と呼び、軍隊という近代の暴力装置を支えたのもミシンです。日本でのミシン導入の強い動機は<軍服>縫製用です。
このミシン=sewing machineと縁の深い横浜を舞台にミシンと近代化を紹介しましょう。
横濱村辺之図
横濱村辺之図
日本に初めてミシンが上陸したのは1854年(嘉永7年)2月、横浜です。
この時、ペリーは蒸気船・鉄道・電信機といった機器のほか、同時代の米国最先端技術を黒船に載せて横浜の応接場に持ち込みます。
少々長くなりますが、ペリー贈答リストの一部を紹介します。
リストを眺めるだけでも驚きを隠せません。
・蒸気機関車ミニチュア(1/4サイズ、炭水車・車両・線路つき)1台
・電信機2セット(電池、電線4.8km、絶縁体つき)
・フランシス製 救命ボート
・銅製寄せ波船(サーフボート)
 →ハワイ文化
・農機具一揃
・自然科学に関する本
・法律や政治に関する本
・農業や工学に関する本
・合衆国沿岸の海図集
・銀蓋付き化粧箱
・緋羅紗やベルベットなどの布地
・合衆国標準の秤・分銅・樽・巻き尺など測定具一式
・マデイラ酒、ウィスキー、シャンペン他高級酒
・上等の茶3箱(高級紅茶か)
・合衆国の州地図と石版画
・望遠鏡(脚一式)
・鉄板ストーブ
・上等香水各種
・火薬
・ライフル、マスケット銃、剣、カービン銃、ピストル
・ニューヨーク州立図書館と郵便局目録
・南京錠(鍵)付き郵便袋
→郵便制度の道具
・花の刺繍入りドレス
・金メッキの化粧用品箱
・香水詰め合わせ 6ダース
・動物図鑑
・米墨戦争に関する書籍と絵画
・柱時計
・ストーブ
・茶器
 その他 そして贈答目録には含まれていませんがこの時に
ウィラー&ウィルソン社のsewing machineが含まれていました。
ミシンがペリーの正式な贈答目録に無かった理由は不明ですが、
米国内でも登場(製造)したての<新製品>であったためではないでしょうか。
ペリーによるミシンを受け取ったのは徳川13代将軍家定の妻<篤姫>ではないかと推測されています。
理由は、開港後の1862年(文久2年)に天璋院(篤姫)から献上のsewing machineの返礼をウィラー&ウィルソン社に送付していたからです。
この時期
1850年代から1900年にかけての半世紀は縫製機械の革新期にあたります。生産国のアメリカ企業は国内はもとより外国向けに市場拡大を狙っていました。また需要拡大の背景には軍の近代化がありました。一般兵士の急増に対し”軍服調達”が急務だったからです。
革新期にあったミシンを使った縫製技術は日本を含め、欧米で同時代的に普及していきます。 もう一つ。
1860年(万延元年)に米国に渡った遣米使節団(木村提督・勝艦長)の通訳として咸臨丸に乗船した中浜万次郎(ジョン万次郎)も米国から<寫眞機>と<ミシン>を持ち帰っています。 咸臨丸
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=184 近代化を迎えた日本では、まず居留地でミシンを使う外国人が登場します。幕府開成所の教官であった遠藤 辰三郎は横浜居留地の外国人から「西洋新式縫製機械(ミシン)」の使い方を学び国内に広めようとした人物です。機械はあれど、使い方が解らなかったという訳です。
「西洋新式縫物器機伝習並に仕立物之事、右器機はシウインマシネと名づく精巧簡便の品にて近来舶来ありと雖も用法いまだ世に弘らず依て去年官命をを蒙り、横浜に於て外国人より教授を受け、尚又海内利益の為に伝習相始め候間、望の御方は開成所へ御尋なさるべく候、付ては伝習の序、何にても註文次第廉価にて仕立物致すべく候、依て此段布告に及ぶものなり。慶応四年二月開成所に於て遠藤辰三郎(明治文化史)」
幕末から明治にかけて、輸入ミシンの多くはドイツ製でした。
ドイツ人のアープルヒは幕末に自国製ミシンを輸入し横浜で販売を開始します。
西南戦争・日清戦争を契機に各国のミシンが軍事用として多く輸入されます。ドイツ製ミシンがを始め欧米製も輸入され市場を競い合います。
この頃
1850年(安政6年)ドイツ系ユダヤ人のアイザック・メリット・シンガーが移住先の米国で現在とほぼ同じ構造のミシンを発明しミシン市場に革命が起こります。
その後、製造システム、販売システムの革新で
ピーク時には世界のミシン市場の80%を独占した<シンガーミシン>時代が日本にも圧倒的な販売力とともに上陸することになります。
(つづく)
11月 29

第979話 横浜と自動車

2018年の暮は横浜市内で歴史的事件が起こりました。
日産ゴーン事件です。
各メディアは、横浜駅近くにある日産グローバル本社前に集まり周辺は騒然としました。
そもそも、日産自動車は横浜生まれの代表的自動車メーカーですが、長らく東京に本社を移していました。
ようやく創業の地へ戻った矢先の事件です。

横浜の自動車史に関して調べてみました。
横浜はご存知、開港の舞台です。多くの欧米文化がいち早く到着した場所でもあります。福沢諭吉がオランダ語から英語に転換を決意したのが横浜での体験というエピソードは有名です。
資料を探してみると国産自動車の歴史にも横浜が多く関わっているようです。面白いエピソードも多くありますが、ここではアウトラインを追いかけます。

欧州で自動車が誕生したのは1769年(明和6年)江戸時代中期、産業革命の中からフランスで馬車に代わる蒸気自動車が発明されたことに始まります。
産業革命は動力革命と言い換えることができるでしょう。
蒸気、電気、ガソリンが動力技術として開発され、周辺技術と応用技術が集約していきました。
例えば
電池が1777年、
モーターが1823年に発明され実用化に向け開発競争がヨーロッパで始まりました。現在主流となっている内燃レシプロエンジン開発は当初難航し、ガソリンエンジンの自動車が誕生したのは1885~1886年ごろといわれています。
ちょうどこの頃に、自動車産業の開拓者であるダイムラー、そしてベンツが登場しました。

自動車は総合技術力の結晶です。時代の最先端技術がそこに組み込まれていると言っても過言ではありません。
自動車が新しい技術を求め、
新しい技術が自動車を革新していったのです。

1900年代二十世紀初頭は、まだ蒸気自動車が主流でした。しかし量産という課題がたちはだかり多くの技術者が様々なプロトタイプ開発に向け邁進する時代でした。
必要は発明の<母>です。自動車産業を飛躍的に躍進させたのが広大なアメリカ大陸でした。広大な国土を持つアメリカにとって馬車に代わる移動手段が求められ新たな自動車開発が急速に始まっていました。
自動車は欧州生まれ、米国育ちで発展してきました。
産業革命による<エンジン>の成果はまず船舶に活用され、航海能力が飛躍的に伸びることで欧米各国は極東への進出を強める要因になっていきます。
日本は1859年に開港することで、欧米文明が怒涛のごとく押し寄せ、近代化の十字架を背負うことになります。
明治に入り
自動車が我が国に輸入されたのは20世紀直前の1890年から1900年ごろと思われます。外国商社の拠点となった横浜や神戸で本国の成果を持ち込むために数台を輸入したが始まりで一般的認知はまだまだでした。
一般国民が外国の自動車というものを知ったのは<博覧会>でした。
1903年(明治36年)に大阪で開催された「第5回内国勧業博覧会参考館(外国館)」で8台の輸入自動車が展示され話題となりました。


ここで少し内国勧業博覧会について触れておきます。
[内国博覧会]
「国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目育成を目的」とした展示会で5回開催。
第1回内国勧業博覧会 1877(明治10)年 東京
 ※ウィーン万国博覧会を参考に、初代内務卿大久保利通が推し進めたもので、その後の博覧会の原型となっていきます。
第2回内国勧業博覧会 1881(明治14)年 東京
 ※出品数は第1回の4倍、所管も内務省単独から大蔵省も関わるようになります。
 前回と同様の出品を禁じことで、新製品、新技術の展示が増え成功の要因の一つとなりました。
第3回内国勧業博覧会 1890(明治23)年 東京
 ※外国人を積極的に招致する方針が立てられましたが、ごく少数しか来日しなかったようです。
 一方、民間出品は前回の約4倍に膨れ上がり多くの出品がありましたが不景気なども重なり、大量に売れ残りが生じました。
 ※<勧工場>第一回内国勧業博覧会開催を契機に登場した都市部の名産品店のことです。
 博覧会で人気だった商品、売れ残った商品などが販売され、百貨店の原型ともなっていきます。
 勧工場は百貨店の発展・充実で次第に魅力を失い、この頃から下り坂となっていきます。
【芋づる横浜物語】縁は異なもの味なもの3
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5826

第4回内国勧業博覧会 1895(明治28)年 京都
 ※東京遷都に苦渋を感じていた京都政財界念願の開催です。  
 ※前年に設立された日本初の京都電気鉄道が京都市内を走行。
 ※この内国勧業博覧会では浅沼藤吉(浅沼商会)、杉浦六右衛門(のちの「コニカ」)、山田与七(現「古河電気工業」)ら、今に続く企業の創始者達が出展を契機に次世代の技術をリードしていきます。
博覧会期間中に終わった日清戦争の勝利が、殖産興業を目指した日本に一つの自信をもたらしたことと、外国技術の導入の重要性を体験的に学んだことで、政府は勧業博覧会の重要性を再認識するようになります。

もう一つ特筆すべきことは、
 エネルギー革命でした。勧業博覧会の展示館が<石炭>から<電気>へ転換しエネルギー転換を実証しました。

(内国勧業博覧会から万国博へ)
そもそも、日本は幕末から欧米の「万国博」と出会い、カルチャーショックを受けたところから近代化が始まっています。明治以降、国家主導で外国人を雇い、欧米を学ぶ人材を育てるところから始めた日本の近代化はある意味成功しました。一方で、ダイレクトに諸外国製品と出会う場は限られていました。
殖産興業の高まりで、政府内部でも国際博覧会開催を検討するようになり、<万国博>開催の建議が行われます。
第5回内国勧業博覧会 1903(明治36)年 大阪
 ※国内企業が着実に成長し、関西経済の復活もあり、外国企業の招聘を行うことに。
 内国勧業博覧会、建前は「国内の産業発展を促進」ですが、外国商社専用の「参考館」を設け募集をかけたところ予想を遥かに上回り最大の内国勧業博覧会となります。
この時、
 開発最前線の自動車が、展示品の目玉としてデモンストレーションが行われました。
ちょうど
1908年(明治41年)に登場したアメリカのT型フォードによって始まった「自動車量産革命」前夜のことです。
この第5回内国勧業博覧会では、検討中の万博を意識して開設した「参考館」に諸外国の製品を陳列し、イギリス、ドイツ、アメリカ、フランス、ロシアなど十数か国が出品するだけでは足りなくなり、単独館まで登場します。
<アメリカ製自動車8台>の展示・デモは入場者に強烈なインパクトを与えたそうです。

ここに横浜の外国商社が自動車を出展します。
横浜山下町「ブルウル兄弟商会」からトレド号(二人乗蒸気自動車)
アンドリュース・アンド・ジョージ商会からはハンバー自動車が出品されます。

ブルウル兄弟商会(Bruhl Brothers Co)はフランス人ダビット・ブルウルが創立した米国の貿易会社で、1888年(明治21年)頃居留地24番に創業(その後61番・22番)。神戸にも開設し1903年(明治36年)まで営業の記録が残っています。
ブルウル兄弟商会の自動車に関しては
1901年(明治34年)3月26日付「二六新報」でナイアガラ号を輸入し、車が日本到着したことが報告されています。
「The Niagara Steam Automobile has now arrived and we shall be pleased to
have it examined by all Automobiling. On view in Yokohama at No.22.」
一方のアンドリュース・アンド・ジョージ商会は
ブルウル兄弟商会よりも積極的に自動車デモを行います。内国勧業博覧会参考館前でボン(H.Bon) という技師が実際に車を運転し人気を博したそうです。
アンドリュース・アンド・ジョージ商会は1911年(明治44年)7月7日にボッシュの日本における第1号代理店となり、ボッシュ日本進出の基盤として活躍します。

その後、自動車業界はアメリカで起こったT型フォードを契機に<アメ車>が国内を席巻する時期が続きます。
横浜と自動車は明治期から深い関係にあります。
大正期に始まる横浜と自動車の関係は
第923話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆2
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10924
第930話石油を巡る点と線
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11073
横浜製自動車 雑話(改訂)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7846
【ミニミニ今日の横浜】3月3日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6947
横浜市神奈川区子安にアジア初の「日本フォード」製造工場が開設

横浜と自動車産業は現在も深い関係にあります。

8月 2

第962話 8月2日(木)

1930年(昭和5年)8月2日(土)の今日、
午前9時半、横浜港に日本郵船の北大西洋航路定期船「龍田丸」が桑港(サンフランシスコ)から入港しました。

龍田丸

この年の春4月25日に初就航した「龍田丸」は浅間丸姉妹船として三菱造船で建造。隔週運行し、米国サンフランシスコからロスアンジェルス・ハワイを経由し、横浜・神戸そして上海・香港を結ぶ花形航路でした。

横浜4号岸壁龍田丸

No.39 2月8日 龍田丸をめぐる2つの物語

No.39 2月8日 龍田丸をめぐる2つの物語


この日到着した「龍田丸」に83歳になる日本を代表する実業家が乗り合わせていました。
浅野総一郎。
このブログでも様々なテーマに登場する、近代横浜経済を語る上で重要な人物です。
意外に、浅野自身に関しては殆ど触れることは無く、彼のビジネス展開を紹介する程度でした。
といって浅野総一郎をガチンコで紹介しようとすると
それだけで 数十回のボリュームを必要とするほど、マルチスーパー実業家です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/浅野総一郎
アウトラインはウィキペディアでごめんなさい。
彼の業績をザクッと絞ると
安田財閥と関係が深く
基本は「セメント」
知る人ぞ知る現在も浅野セメント(現在は太平洋セメント)
浅野製鉄→日本鋼管株式会社(現:JFEスチール)

浅野製鉄所

浅野造船

浅野ドック跡地

東洋汽船
※日本郵船に挑戦し、孤軍奮闘、最終的に客船部門は日本郵船に。貨物部門は残り戦後まで続きます。
東亜建設工業
https://www.toa-const.co.jp/company/introduction/asano/
沖電気工業 →意外でしょう?
関東運輸株式会社
浅野物産株式会社(現在は 丸紅や株式会社NIPPOなどに分社)
この他にも鉄道関係にも深く関わり
青梅鉄道、五日市鉄道、南武鉄道
そして 教育機関として「浅野学園」
といった企業群を挙げるだけでも、浅野財閥と呼ばれた理由がわかります。
しかもこれらの企業群を一代で築いたのですから、すごい人物でありすごい時代でした。これ以外に
浅野総一郎の果たした最大の功績は
横浜港整備と京浜埋立事業の立役者であったと思います。

浅野総一郎が安田善三郎と出会い、渋沢栄一に信頼された”大風呂敷”は
横浜港の整備される前、
東京と横浜をつなぐエリアを整備し運河機能を活かした一大インフラ計画をいち早く考え、夢を実現、実際に成功させたことでしょう。
とにかく横浜は開港したまでは良かったのですが、その後の横浜港はとにかく使い勝手が悪く、幕末の海運事情はあっという間に過去のものとなってしまったため近代港湾施設整備が急務でした。19世紀末から20世紀は
世界が産業革命以降の技術革新の荒波に揉まれていた時代でした。

大消費地「東京」へスムースに荷が運べない。
湾岸は多摩川の土砂が蓄積しペリーが測量で確認した通り、遠浅で海運には向きませんでした。鉄道など陸路の整備もままならない中、横浜から東京までの回漕費は、ロンドンより横浜までの運賃とほぼ同額という実に非効率の時代がしばらく続いたのです。当時の神奈川県に話を持ち込んでもなかなか埒が明かず、最終的には自分で資本を集めて事業化してしまったのが浅野総一郎でした。
話を1930年(昭和5年)8月2日に戻します。
この日、浅野総一郎の帰国は大きく新聞紙上にも取り上げられました。

新聞記事

「若返った浅野翁」
「十億外資借入旅から帰国」
若返ったのはそのファッションでした。真っ赤なネクタイを締めた姿が、83歳の日本人には見えなかったのでしょう。また十億外資借入旅とは、震災で打撃を受けまた昭和に入り恐慌が起こるなど、経済状況が厳しい中、80歳を過ぎた浅野総一郎は、事業発展のために
「セメントを輸出するために、今年はアメリカとイギリス、ドイツに支店を作るぞ。世界恐慌といってもいつまでも続くとは思えない。それにアメリカ政府は景気対策として、公共事業を始めるだろう。セメント需要は一段と高まるだろう。不況のときこそチャンスだ。」
「安田さんが亡くなったから、俺はこれからは海外から資金を借りて仕事をする」とぶち上げ、昭和5年5月18日にシベリア大陸経由で欧米視察(資金調達)の旅に出ます。ところが、ドイツで体調異変に気が付き、食道がんの可能性があると診断されます。ドイツでは友人の野村大使らの歓迎を受けますが、旅半ばで急遽日本へ帰ることを決断、アメリカ経由で
8月2日のこの日横浜に帰ってきたのです。帰国後すぐに診察、結果は食道がん。
その後 大磯に戻り療養しますが11月19日
83年の波乱に満ちた生涯を遂げました。
今日はここまで。
浅野総一郎と築港の父パーマーの話も紹介しておきたいところですが、別の機会にしておきます。

11月 23

第933話 【横浜の企業】横浜のNPK

肥料工場は日本工業化の代表産業でした。
肥料の歴史は、農業の歴史でもあります。かつて人類は、移動する狩猟生活から定住する農業にシフトするキッカケを得ます。これによって農業生産による食料の安定確保が可能となりカロリー量の高い食物を生産することが可能となり人口が急増し人類の文明が一気に拡大します。
それが、農地の<地力>を維持させる肥料という知恵です。
焼畑農業、輪作等を生産力維持の手段としてきましたが、農業は積極的に肥料を使用することで、人類は生産力を爆発的に増加させることを学びます。
農耕型の生活様式は、山から栄養分を運ぶ河川周りに発展します。
特に平野の少ない日本の国土では、集約型農業であったこともあり氾濫する河川に加え肥料が重視されました。
特に平和な戦争のない時代が200年以上続いた江戸期から<肥料>は重要な商品ともなり市場を作り出していきます。
江戸の農業革命は肥料革命でもあったのです。
魚粕、菜種粕、人糞尿、骨粉などが肥料として活用されました。江戸期、貧乏長屋で家賃を滞納しても立ち退かなくて済んだのは、住民の人糞尿が高額で近郊農業の肥料として買い取られたからです。
そして近代は化成肥料の生産(工業化)をもたらしました。
化成肥料生産は19世紀の中ごろから20世紀初頭に始まり、農業生産に大きく貢献し国家政策にまでなります。戦前、満州の植生を剥ぎ取り無理やり大豆を生産し日本の重要な肥料供給地であったことは意外に知られていません。
肥料を分類すると無機質肥料(化学肥料)と有機質肥料に分かれます。
そして無機質肥料は単肥(チッソN、リン酸P、カリKのうち一つの成分を含んだ肥料)と複合肥料(チッソ、リン酸、カリのうち2成分以上を含んだ肥料)とに分かれます。
目下地球的規模で危機となってるのが安価だったリン酸の原材料の枯渇です。
 
農業とは何かを調べてみると
wikipediaに面白い定義が示されていました。
「農業は、土壌から栄養を吸って生育した植物を持ち去って利用する行為
土壌の栄養を追加することを追肥をいいます。
肥料の定義を示してみます。
「植物の栄養に供すること又は植物の栽培に資するため土壌に化学的変化をもたらすことを目的として土地に施される物及び植物の栄養に供することを目的として植物に施される物をいう」
人口あたりの農耕地面積が狭い日本にとって肥料生産は国力の基幹となった訳です。
 
舞台を横浜に移します。
明治以降、横浜が貿易中心から工業化へシフトする過程で、肥料関係の企業も存在感を示します。食油製造に使用する大豆の搾りかすは肥料の原材料となるため、関連企業が設立されました。
№0謎解き編 新旧玉手箱
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8086
昭和初期(戦前期)の京浜地域の地図を眺めてみると
肥料関係の工場、企業が点在しています。
 
◯大日本人造肥料株式会社
1887年( 明治20年)4月
 高峰譲吉、渋沢栄一、益田孝ら明治の先覚者により、わが国初の化学肥料製造会社である東京人造肥料会社として創業
1910年(明治43年) 7月
 大日本人造肥料株式会社に商号変更
1931年(昭和 6年) 2月
 大日本人造肥料株式会社肥料試験場(横浜市子安)が白岡に移転。
その後「日産化学工業株式会社」となります。
 
◯加里工業
 神奈川区恵比須町9・10
隣接して
◯全国購買組合聯合会
 肥料を含めた購買をまとめた協同組合の先駆けとして戦前の肥料飼料の購買に大きな影響をあたえました。
 
 食油産業も化成肥料の生産の一翼を担います。
◯鈴木商店
1922年(大正11年)
 4工場(大連・清水・鳴尾・横浜)を分離独立させ
  豊年製油(現・J-オイルミルズ)を設立します。
社の沿革には
 「大豆粕は肥料として一般農家に安く提供、食料増産、輸入肥料の代替という点で国家に大きく貢献した。」
 
◯帝国社農芸化学
 企業の詳細不明
◯有機肥料会社
 企業の詳細不明
 
横浜が誇る食油老舗「岩井の胡麻油」も1926年(大正15年)昭和初期に<製油肥料合名会社>となった時期がありました。
●岩井の胡麻油 沿革から
1893年(明治26年)
 横浜市神奈川区御殿町に搾油工場を設立
1900年(明治33年)
 横浜市神奈川区青木町に工場移転。岩井製油合資会社設立
1914年(大正3年)
 横浜市神奈川区星野町に大規模工場を設立
1921年(大正10年)
 家庭用化粧小缶を発売。大正博覧会で金賞受賞
1926年(大正15年)
 岩井製油肥料合名会社に社名変更
1947年(昭和22年)8月27日
 岩井製油株式会社設立
*****************************************
20180831修正加筆
11月 22

第931話【横浜の風景】伊勢佐木から山手

この画像は、伊勢佐木から山手方向を撮影したものです。
撮影時期を推理してみます。
風景の左に横浜市役所が見えます。
歴代の歴史から画像にある市役所は
二代目市庁舎(1911年~1923年)と思われます。
(三つの橋)
市役所の横を流れる派大岡川に架かる
トラス橋の「港橋」と
アーチ橋の「花園橋」、
桁(ガーター)橋の「吉浜橋」が見えます。
代表的橋の構造が三種類見える風景も中々ありませんね。
ちょっと見えにくいですが。


山手の建造物群はまだ本腰をいれて時代別の整理をしていません。いずれやらなければならない課題の一つです。
もう一つ大きなヒントが写っています。
画像の下ギリギリに有隣堂のロゴ看板が見えます。
伊勢佐木にある老舗書店有隣堂本店は「第四有隣堂」として1909年(明治42年)12月13日に創業します。
No.348 12月13日(木)いっさつの本があれば

No.348 12月13日(木)いっさつの本があれば


創業時は木造2階建ての店舗で、
1920年(大正9年)に株式会社となり、これをキッカケに間口5間・奥行15間の3階建店舗を新築します。
ここに写っている社屋は 2階建てなのか三階建てなのか?
このロゴは何時から使われているのか?
このあたりが判ればもう少し絞り込みができるかもしれません。
当時の横浜情報として「横濱貿易新報」の大正9年12月17日付け記事に
歳末お歳暮特集が組まれていて、市内のお店紹介記事が掲載されています。
ここに大正9年に完成した有隣堂の紹介記事が写真入りで紹介されていました。

写真外観を確認すると、(画像では見難い)風景写真に写り込んでいる有隣堂と同じだろうと判断できます。
この風景写真は1920年(大正9年)12月から
1923年(大正12年)8月までの間に撮影されたものだろうと思われます。