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第993話【一枚の絵葉書】根岸療養院

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根岸療養院
前回は中村石川にあった「横浜市中央教材園」の絵葉書から導き出された風景を紹介しました。今回も前回と同様の「一枚の絵葉書」から横浜史の一風景を読み解いていきたいと思います。
この【一枚の絵葉書】シリーズは、手元の絵葉書から、そこに写し出されている風景を読み解きながら関連情報を探っていきます。
基本読み物としては鬱陶しくなってしまいますが、ご辛抱ください。
1000話までこんな感じです。
前回は 第992話 リケ児育成のために(修正追記)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12622
今回の一枚は「根岸療養院(山海館)」
第一印象はタイトル通り根岸の病院か結核療養施設の風景のようです。
Google検索でいくつか関連データが見つかりました。
「中区史」の地域編のなかで明治期の根岸開発の模様を伝えた記事がヒットしました。
中区史根岸療養院記述
「さらに四十五年七月には五坪(一六、五平方メートル)の家屋を改造した病室を持った根岸療養院が二、一四九番地に建てられたことである。」とあり<所在地>と<設立年>が判明しました。 1912年(明治45年)開設
場所は根岸村2,149番地
これをヒントに開設場所を地図で探ってみました。
手元にある地図では明治45年(大正元年)近くのものが無く、少し時間の経った大正12年、震災前発行の地図から「根岸療養院」の場所を探してみました。
大正12年4月根岸
遡って明治14年の迅速図、昭和に入った根岸周辺地図でもあたってみました。
明治14年根岸
昭和4年根岸
本牧・根岸は戦後海岸線が埋め立てによって大きく変貌しましたが、当時の「根岸療養院」からは眼下に海が広がっていた事でしょう。 ではこの療養院はいつまで存続したのか?Google検索から
大正12年の関東大震災における「横浜・神奈川での救援・救済対応」という震災資料がヒット。
「神奈川県庁は、9月2日、桜木町の海外渡航検査所に救護(治療)本部を置き、傷病者の治療を開始した。3日、同所に県庁仮事務所を置き、高島町の社会館内に傷病者の収容所を設けた。社会館は県庁が震災の2年前に開設した労働者のための宿泊施設である。既に述べたように、同日、衛生課長の下に救護(救療)、衛生材料調達、死体処理などの係を設けて衛生課職員を配置した。医師、看護婦は、横浜市の十全病院、根岸療養院より借り入れ、また、臨時の募集を行って不足を補い、救護本部や社会館内の収容所に配置した。」(中略)「根岸療養院は個人の経営する結核患者の療養所だったが、震災以後、結核患者を郷里に戻し、9月8日から30日までの間、一般傷病者の収容を行った。受診患者数(延べ)は入院1,803人、外来4,299人であった(『神奈川県震災衛生誌』)。10月以後、日本赤十字社に療養院の建物と器具、職員が無料で提供されて、同神奈川県支部の臨時根岸病院となった。
と記載されていました。日本赤十字社と関係があったことが伺えます。
日赤の資料も探ってみると
1924年(大正13年)結核専門の療養施設である根岸療院を開設。とありました。これだけでは根岸療院=「根岸療養院」なのかまだ確定しませんが、この「日赤根岸療院」が源流となったのが昭和21年に改称された「横浜赤十字病院」です。
そして現在の「横浜市立みなと赤十字病院」につながります。
横浜市立図書館のオープンデータに
1917年(大正6年)発行の横浜社会辞彙という当時の紳士録に近い資料がありその中に「根岸療養院」について記載された概要を下記にまとめました。横浜社会辞彙「根岸療養院」項目に院長の名がありませんでしたが、個人名から創設者が<大村民蔵>ということがわかりました。 院長 大村民蔵
根岸2194番地
電話2411番
敷地 2500坪 全9棟 延べ床 525坪
 個人病室 30室
 共同使用病室 8室
全体で凡そ100名の患者を収容。
1912年(明治45年)7月18日 根岸に開設
1913年(大正2年)7月春心館を建築
1915年(大正4年)7月山海館(2階建て)
8月 静温館
10月 浴室等完成
日運館・赤心館
(庭園)松林・梅林・菊園・ダリア
この時点で、図書館DBで他の資料が無いか確認した所
創設者である大村民蔵氏の資料(自伝)がありましたので 創設者大村氏を追いかけてみました。
膨大な自叙伝ですのでプロフィールの一部分だけ紹介します。 大村民蔵
山口県防府市 出身
1869年(明治2年)11月22日
大村茂兵衛の四男として生まれ
17歳のときに故郷から横須賀に移り、役場に勤めた後、鉄道局駅吏として横浜駅(現桜木町駅)に勤務しますが、初心を貫き東京に出て「済生学舎」に学び医師資格を目指します。
1897年(明治30年)12月医術開業試験に合格し医師の道を歩み東京荏原(品川)の病院に勤務します。
※「済生学舎」1876年(明治9年)長谷川泰により設立された医師を目指すための医師免許専門の学校でした。
 野口英世・吉岡弥生・荻野吟子らがここで学び、医師の道をめざしました。
1898年(明治31年)に佐野常民より「日本赤十字社社員」の辞令を受け、これが現在に続く横浜との因縁の一つとなります。
横浜との関係は、東京時代に警視庁警察医務の嘱託となったことで
1900年(明治33年)に神奈川県監獄医務所長の辞令を受け根岸にある監獄署官舎に引っ越したことに始まります。
翌年34年には現職のまま研鑽のため北里柴三郎に就き伝染病学を学ぶことになり、これがキッカケで北里人脈が広がります。
1902年(明治35年)に根岸町871番に診療所を開き亡くなるまで横浜市内で医師として活躍することに。
1924年(大正13年)3月31日
「根岸療養院を、日本赤十字社神奈川支部に結核予防と治療を継続する条件にて譲渡し、根岸療院と改名す。
→ここで前述の 根岸療院=「根岸療養院」 が確定しました。
大村民蔵氏はその後も日赤と深く関わることになり、戦後は地域の医者として94歳まで診療に携わり
1969年(昭和44年)12月101歳で亡くなります。 根岸療養院を支えた多くの医師の中でも初期の二人。
医学博士 守屋 伍造
医学博士 古賀玄三郎

 ともに伝染病研究所で所長だった北里柴三郎の門下生でここ「根岸療養院」との関わりだけでもさらに深い物語が登場します。
志賀潔、浅川範彦、そして守屋 伍造の三名が部長として片腕となり、ここに助手として入所したのが野口英世でした。
■古賀玄三郎は
1879年(明治12年)10月20日生まれ〜1920年(大正9年)
佐賀県三養基郡里村(現:鳥栖市)出身。
1899年(明治32年)長崎第五高等学校医学部卒
上京し、東京市築地林病院(築地五丁目)医員となる
1901年(明治34年)岩手県盛岡市立盛岡病院外科部長。
1910年(明治43年)京都帝国大学医学部に入学、特発脱疽の研究(「チアノクプロール」(シアン化銅剤)の開発)、治療法で博士号。
→当時古賀玄三郎博士によって開発された注射液「チアノクプロール」を1915年(大正4年)7月15日に初めて試みたのが有島安子で作家有島武郎の妻だという記載資料がありました。ここでも横浜と繋がります。
1920年(大正9年)
10月17日大連市(中国東北部)で開催された満州結核予防会 発足にあたり記念講演後、
10月18日大連駅で倒れ、21日に亡くなります(41歳)。
大村民蔵氏は師の北里柴三郎はもとより、福沢諭吉とも関係があったようです。
中でも北里柴三郎は1927年(昭和2年)横浜の絹織物商・椎野正兵衛商店の長女・婦美子と再婚しています。
成功名鑑飯島栄太郎
追いかければキリがないくらい様々なつながりが出てきますが
ここでは最後に 横浜の財界人であった飯島栄太郎氏を紹介しておきます。
「横濱成功名誉鑑」にも登場する飯島栄太郎は境町(現日本大通り)「近栄洋物店」のオーナーとして、創業者であった飯島栄助を継ぎ家業の外国人向けの雑貨店を発展させます。創業者の栄助は近江彦根の出身、幕末期京阪、江戸(東京)を放浪の末、明治3年に元町で業を起こし成功します。明治9年に境町2丁目に移転、西洋雑貨取引で財を成し、
明治31年 息子飯島栄太郎に譲り、栄助は予てより取得していた根岸の別荘に<隠居>
明治38年12月に亡くなります。
飯島栄太郎は、家業の雑貨商だけではな無く、アメリカに留学または滞在し、日本に帰国したのち政界・経済界で活躍した人々が集まり、交友を深め便益をはかることを目的に、明治31(1898)年に設立された米友協会の会員として活躍します。
微妙な日米関係となった白船来航時には、国を挙げて米国艦隊を迎える中、大谷嘉兵衛、野村洋三、浅野総一郎や左右田金作とともに歓迎の晩餐会を開催、日米関係の融和に努めました。
【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7201
彼の表した『米国渡航案内』は明治期の渡米ガイドとして大ベストセラーとなります。
 さらには飯島栄太郎の妻・飯島かね子もまた津田梅子に学び「帝國婦人技藝協會」を創立した傑女でした。 またまた遠回りになりましたが、
飯島栄太郎の父、「近栄洋物店」の創設者 栄助が隠居した根岸の別荘が栄助死後、空き家になっていた関係から
友人だった 大村民蔵のサナトリウム計画に協力し、別荘と敷地を譲渡することになりました。 ネット検索の過程で
「根岸小学校は全国でも最も早い時期に学校医の制度を導入したことで知られる。校医は日赤の実質的創設者でこの地で長年結核の治療にあたった大村民蔵氏」とあり、検証してみました。
学校医は明治期から法律的に導入されている制度で
「1894(明治27)年5月に東京市麹町区,同年7月に神戸市内の小学校に学校医が置かれたのが日本における学校医の始まり」であり、大村民蔵氏が根岸小学校の校医を拝命したのが1903年(明治36年)のことでした。また日赤の実質的創設者というのもおそらく間違いです。
「根岸療養院」は神奈川県内の日赤病院草分け的存在といえるでしょう。
という感じですか。
後から発見した別の全景がわかる根岸療養院はがき。
一枚の絵葉書の風景から様々な関係が見えてきました。
大村民蔵は近くにあった「根岸競馬場」とも関係があり、競馬に関するエピソードも満載です。
まだまだ人・場所・出来事との興味ある繋がりがありますが、
今回はここまでにしておきます。

第979話 横浜と自動車

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2018年の暮は横浜市内で歴史的事件が起こりました。
日産ゴーン事件です。
各メディアは、横浜駅近くにある日産グローバル本社前に集まり周辺は騒然としました。
そもそも、日産自動車は横浜生まれの代表的自動車メーカーですが、長らく東京に本社を移していました。
ようやく創業の地へ戻った矢先の事件です。

横浜の自動車史に関して調べてみました。
横浜はご存知、開港の舞台です。多くの欧米文化がいち早く到着した場所でもあります。福沢諭吉がオランダ語から英語に転換を決意したのが横浜での体験というエピソードは有名です。
資料を探してみると国産自動車の歴史にも横浜が多く関わっているようです。面白いエピソードも多くありますが、ここではアウトラインを追いかけます。

欧州で自動車が誕生したのは1769年(明和6年)江戸時代中期、産業革命の中からフランスで馬車に代わる蒸気自動車が発明されたことに始まります。
産業革命は動力革命と言い換えることができるでしょう。
蒸気、電気、ガソリンが動力技術として開発され、周辺技術と応用技術が集約していきました。
例えば
電池が1777年、
モーターが1823年に発明され実用化に向け開発競争がヨーロッパで始まりました。現在主流となっている内燃レシプロエンジン開発は当初難航し、ガソリンエンジンの自動車が誕生したのは1885~1886年ごろといわれています。
ちょうどこの頃に、自動車産業の開拓者であるダイムラー、そしてベンツが登場しました。

自動車は総合技術力の結晶です。時代の最先端技術がそこに組み込まれていると言っても過言ではありません。
自動車が新しい技術を求め、
新しい技術が自動車を革新していったのです。

1900年代二十世紀初頭は、まだ蒸気自動車が主流でした。しかし量産という課題がたちはだかり多くの技術者が様々なプロトタイプ開発に向け邁進する時代でした。
必要は発明の<母>です。自動車産業を飛躍的に躍進させたのが広大なアメリカ大陸でした。広大な国土を持つアメリカにとって馬車に代わる移動手段が求められ新たな自動車開発が急速に始まっていました。
自動車は欧州生まれ、米国育ちで発展してきました。
産業革命による<エンジン>の成果はまず船舶に活用され、航海能力が飛躍的に伸びることで欧米各国は極東への進出を強める要因になっていきます。
日本は1859年に開港することで、欧米文明が怒涛のごとく押し寄せ、近代化の十字架を背負うことになります。
明治に入り
自動車が我が国に輸入されたのは20世紀直前の1890年から1900年ごろと思われます。外国商社の拠点となった横浜や神戸で本国の成果を持ち込むために数台を輸入したが始まりで一般的認知はまだまだでした。
一般国民が外国の自動車というものを知ったのは<博覧会>でした。
1903年(明治36年)に大阪で開催された「第5回内国勧業博覧会参考館(外国館)」で8台の輸入自動車が展示され話題となりました。


ここで少し内国勧業博覧会について触れておきます。
[内国博覧会]
「国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目育成を目的」とした展示会で5回開催。
第1回内国勧業博覧会 1877(明治10)年 東京
 ※ウィーン万国博覧会を参考に、初代内務卿大久保利通が推し進めたもので、その後の博覧会の原型となっていきます。
第2回内国勧業博覧会 1881(明治14)年 東京
 ※出品数は第1回の4倍、所管も内務省単独から大蔵省も関わるようになります。
 前回と同様の出品を禁じことで、新製品、新技術の展示が増え成功の要因の一つとなりました。
第3回内国勧業博覧会 1890(明治23)年 東京
 ※外国人を積極的に招致する方針が立てられましたが、ごく少数しか来日しなかったようです。
 一方、民間出品は前回の約4倍に膨れ上がり多くの出品がありましたが不景気なども重なり、大量に売れ残りが生じました。
 ※<勧工場>第一回内国勧業博覧会開催を契機に登場した都市部の名産品店のことです。
 博覧会で人気だった商品、売れ残った商品などが販売され、百貨店の原型ともなっていきます。
 勧工場は百貨店の発展・充実で次第に魅力を失い、この頃から下り坂となっていきます。
【芋づる横浜物語】縁は異なもの味なもの3
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5826

第4回内国勧業博覧会 1895(明治28)年 京都
 ※東京遷都に苦渋を感じていた京都政財界念願の開催です。  
 ※前年に設立された日本初の京都電気鉄道が京都市内を走行。
 ※この内国勧業博覧会では浅沼藤吉(浅沼商会)、杉浦六右衛門(のちの「コニカ」)、山田与七(現「古河電気工業」)ら、今に続く企業の創始者達が出展を契機に次世代の技術をリードしていきます。
博覧会期間中に終わった日清戦争の勝利が、殖産興業を目指した日本に一つの自信をもたらしたことと、外国技術の導入の重要性を体験的に学んだことで、政府は勧業博覧会の重要性を再認識するようになります。

もう一つ特筆すべきことは、
 エネルギー革命でした。勧業博覧会の展示館が<石炭>から<電気>へ転換しエネルギー転換を実証しました。

(内国勧業博覧会から万国博へ)
そもそも、日本は幕末から欧米の「万国博」と出会い、カルチャーショックを受けたところから近代化が始まっています。明治以降、国家主導で外国人を雇い、欧米を学ぶ人材を育てるところから始めた日本の近代化はある意味成功しました。一方で、ダイレクトに諸外国製品と出会う場は限られていました。
殖産興業の高まりで、政府内部でも国際博覧会開催を検討するようになり、<万国博>開催の建議が行われます。
第5回内国勧業博覧会 1903(明治36)年 大阪
 ※国内企業が着実に成長し、関西経済の復活もあり、外国企業の招聘を行うことに。
 内国勧業博覧会、建前は「国内の産業発展を促進」ですが、外国商社専用の「参考館」を設け募集をかけたところ予想を遥かに上回り最大の内国勧業博覧会となります。
この時、
 開発最前線の自動車が、展示品の目玉としてデモンストレーションが行われました。
ちょうど
1908年(明治41年)に登場したアメリカのT型フォードによって始まった「自動車量産革命」前夜のことです。
この第5回内国勧業博覧会では、検討中の万博を意識して開設した「参考館」に諸外国の製品を陳列し、イギリス、ドイツ、アメリカ、フランス、ロシアなど十数か国が出品するだけでは足りなくなり、単独館まで登場します。
<アメリカ製自動車8台>の展示・デモは入場者に強烈なインパクトを与えたそうです。

ここに横浜の外国商社が自動車を出展します。
横浜山下町「ブルウル兄弟商会」からトレド号(二人乗蒸気自動車)
アンドリュース・アンド・ジョージ商会からはハンバー自動車が出品されます。

ブルウル兄弟商会(Bruhl Brothers Co)はフランス人ダビット・ブルウルが創立した米国の貿易会社で、1888年(明治21年)頃居留地24番に創業(その後61番・22番)。神戸にも開設し1903年(明治36年)まで営業の記録が残っています。
ブルウル兄弟商会の自動車に関しては
1901年(明治34年)3月26日付「二六新報」でナイアガラ号を輸入し、車が日本到着したことが報告されています。
「The Niagara Steam Automobile has now arrived and we shall be pleased to
have it examined by all Automobiling. On view in Yokohama at No.22.」
一方のアンドリュース・アンド・ジョージ商会は
ブルウル兄弟商会よりも積極的に自動車デモを行います。内国勧業博覧会参考館前でボン(H.Bon) という技師が実際に車を運転し人気を博したそうです。
アンドリュース・アンド・ジョージ商会は1911年(明治44年)7月7日にボッシュの日本における第1号代理店となり、ボッシュ日本進出の基盤として活躍します。

その後、自動車業界はアメリカで起こったT型フォードを契機に<アメ車>が国内を席巻する時期が続きます。
横浜と自動車は明治期から深い関係にあります。
大正期に始まる横浜と自動車の関係は
第923話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆2
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10924
第930話石油を巡る点と線
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11073
横浜製自動車 雑話(改訂)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7846
【ミニミニ今日の横浜】3月3日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6947
横浜市神奈川区子安にアジア初の「日本フォード」製造工場が開設

横浜と自動車産業は現在も深い関係にあります。

第971話 白秋・白雨・柊二

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今回は横浜との細い線を結びながら、一人の詩人を追いかけます。
北原白秋。
戦前の詩歌界を代表する北原白秋は母の実家である熊本県玉名郡に生まれ、江戸時代から続く柳川の商家で育ちました。
彼が作った多くの詩の一編は今でも多くの人の記憶に刻まれています。
神奈川の地にも暮らし、小田原・三崎での創作活動では精力的に作品を残しています。
北原白秋はその57年の人生に幾つかの転機を迎えますが
最初の転機は、青年期の多感な時期に一人の親友を失ったことでした。
白秋。
”白”に込めた仲間の一人に「白雨」と名乗った友人中島鎮夫がいました。19歳の時、中島白雨は自ら命を絶ちます。
以来、北原は”白秋”と亡くなるまでまで名乗り数多くの作品を残しました。
彼の最初の転機とも言える中島白雨の死について
詩集「思ひ出」の一節で鮮烈な詩を詠っています。
20歳前の少年の<激しい悲しみ>が込められた詩です。
長くなりますが、紹介します。
●「たんぽぽ」
「わが友は自刄したり、彼の血に染みたる亡骸はその場所より靜かに釣臺(つりだい)に載せられて、彼の家へかへりぬ。附き添ふもの一兩名、痛ましき夕日のなかにわれらはただたんぽぽの穗の毛を踏みゆきぬ。友、年十九、名は中島鎭夫。」

あかき血しほはたんぽぽの
ゆめの逕(こみち)にしたたるや、
君がかなしき釣臺(つりだい)は
ひとり入日にゆられゆく…………

あかき血しほはたんぽぽの
黄なる蕾(つぼみ)を染めてゆく、
君がかなしき傷口(きずぐち)に
春のにほひも沁み入らむ…………

あかき血しほはたんぽぽの
晝のつかれに觸(ふれ)てゆく、
ふはふはと飛ぶたんぽぽの
圓い穗の毛に、そよかぜに…………

あかき血しほはたんぽぽに、
けふの入日(いりひ)もたんぽぽに、
絶えて聲なき釣臺の
かげも、靈(たましひ)もたんぽぽに。

あかき血しほはたんぽぽの
野邊をこまかに顫(ふる)へゆく。
半ばくづれし、なほ小さき、
おもひおもひのそのゆめに。

あかき血しほはたんぽぽの
かげのしめりにちりてゆく、
君がかなしき傷口に
蟲の鳴く音も消え入らむ…………

あかき血しほはたんぽぽの
けふのなごりにしたたるや、
君がかなしき釣臺は
ひとり入日にゆられゆく…………

親友、中島鎭夫は何故自殺したのか。
秀才中島鎭夫は、早くからロシア文学に関心を抱き、独学でロシア語を学んでいました。この時期、皮肉にも日露戦争勃発と重なり、中島には事実無根の”ロシアスパイ容疑”がかけられます。しかも通報者は学び舎の教師だったそうです。
1904年(明治37年)白秋は故郷を捨て上京します。

北原白秋に関して私は、有名な詩歌をいくつか知る程度でした。横浜との関連も殆ど無いと思っていましたが、彼をさらに知るようになったのは白秋の門下生であり横浜に暮らした歌人、宮柊二(みや しゅうじ)との接点からでした。
No.33 2月2日 歌人が見上げた鶴見の空
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=590

横浜市鶴見区鶴見で暮らした宮柊二は、大正元年、新潟県魚沼の書店主の子として生まれ、白秋のように20歳で家業を捨て東京中野に移り、職を転々とします。
縁あって1935年(昭和10年)に白秋の秘書となります。目を患った晩年の白秋の口述筆記を担当するようになりますが、まもなく白秋の元を去り、川崎の大手鉄鋼会社「富士製鋼所(のちの日本製鉄)」に勤めることになります。
そして結婚を期に、鶴見に居を構え保土ケ谷疎開、召集を含め17年間を横浜で過ごします。出征し、会社員として働きながら歌人としての活動を続け、最終的には歌人として独立し労働者の視点で多くの詩を残しました。

では
北原白秋と横浜の接点といえば?
神奈川県の三崎、小田原での暮らしが彼の歌人生活で良く知られたことですが、横浜との接点はあるのだろうか?
と白秋の生き様を追ってみると、意外な横浜での接点がありました。
前置きが長くなりましたが、
今回は北原白秋と横浜の細くも劇的な接点を紹介、
する前に、白秋の人生はジェットコースターのような激変の連続、極貧と名声の中で数十回にも及ぶ<引っ越し>生活を送りました。
結婚は三度、都度相手の女性も彼にとって大きな転機となっています。
年譜をさらっと眺め、最初に気がついた「横浜」は
大正14年に横浜港から樺太・北海道に視察旅行へでかけたという記述です。
北原白秋のエッセイ「フレップ・トリップ」から
〈フレップ〉はコケモモ、ツルコケモモ、〈トリップ〉はエゾクロウスゴ
『(1925年(大正14年)8月)当の七日の正午には、私は桜木町から税関の岸壁を目ざして駛っている自動車の中に、隣国の王やアルスの弟や友人たちに押っ取り巻かれて嬉々としている私自身を見出した。それから高麗丸の食堂ではそろって麦酒(ビール)の乾杯をした。一同で選挙した団長が日露役の志士沖禎介(おきていすけ)の親父さんで、一等船客の中には京大教授の博士もいれば、木下杢太郎(きのしたもくたろう)の岳父(しゅうと)さんもいる。』
ここに登場する沖禎介は下記の番外編で紹介しています。
番外編【絵葉書の風景】ハルピンの沖禎介
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9546
彼の横浜時代は資料がありませんが、興味がある人物の一人です。

この旅行は、鉄道省が主催したもので、沖禎介の父親「沖荘蔵」氏を観光団長に選び、約二週間の旅でした。
戦前の国際港といえば、東日本は横浜でしたので、多くの渡航者が横浜港を訪れています。ワタシ的には弱い横浜ネタでした。
今回「評伝 北原白秋(薮田義雄)」に目を通す中、
横浜が登場する
「所謂 「桐の花事件」の真相」という謎めいたタイトルの中で触れています。
次回に紹介します。

第962話 8月2日(木)

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1930年(昭和5年)8月2日(土)の今日、
午前9時半、横浜港に日本郵船の北大西洋航路定期船「龍田丸」が桑港(サンフランシスコ)から入港しました。

龍田丸

この年の春4月25日に初就航した「龍田丸」は浅間丸姉妹船として三菱造船で建造。隔週運行し、米国サンフランシスコからロスアンジェルス・ハワイを経由し、横浜・神戸そして上海・香港を結ぶ花形航路でした。

横浜4号岸壁龍田丸

No.39 2月8日 龍田丸をめぐる2つの物語

No.39 2月8日 龍田丸をめぐる2つの物語


この日到着した「龍田丸」に83歳になる日本を代表する実業家が乗り合わせていました。
浅野総一郎。
このブログでも様々なテーマに登場する、近代横浜経済を語る上で重要な人物です。
意外に、浅野自身に関しては殆ど触れることは無く、彼のビジネス展開を紹介する程度でした。
といって浅野総一郎をガチンコで紹介しようとすると
それだけで 数十回のボリュームを必要とするほど、マルチスーパー実業家です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/浅野総一郎
アウトラインはウィキペディアでごめんなさい。
彼の業績をザクッと絞ると
安田財閥と関係が深く
基本は「セメント」
知る人ぞ知る現在も浅野セメント(現在は太平洋セメント)
浅野製鉄→日本鋼管株式会社(現:JFEスチール)

浅野製鉄所

浅野造船

浅野ドック跡地

東洋汽船
※日本郵船に挑戦し、孤軍奮闘、最終的に客船部門は日本郵船に。貨物部門は残り戦後まで続きます。
東亜建設工業
https://www.toa-const.co.jp/company/introduction/asano/
沖電気工業 →意外でしょう?
関東運輸株式会社
浅野物産株式会社(現在は 丸紅や株式会社NIPPOなどに分社)
この他にも鉄道関係にも深く関わり
青梅鉄道、五日市鉄道、南武鉄道
そして 教育機関として「浅野学園」
といった企業群を挙げるだけでも、浅野財閥と呼ばれた理由がわかります。
しかもこれらの企業群を一代で築いたのですから、すごい人物でありすごい時代でした。これ以外に
浅野総一郎の果たした最大の功績は
横浜港整備と京浜埋立事業の立役者であったと思います。

浅野総一郎が安田善三郎と出会い、渋沢栄一に信頼された”大風呂敷”は
横浜港の整備される前、
東京と横浜をつなぐエリアを整備し運河機能を活かした一大インフラ計画をいち早く考え、夢を実現、実際に成功させたことでしょう。
とにかく横浜は開港したまでは良かったのですが、その後の横浜港はとにかく使い勝手が悪く、幕末の海運事情はあっという間に過去のものとなってしまったため近代港湾施設整備が急務でした。19世紀末から20世紀は
世界が産業革命以降の技術革新の荒波に揉まれていた時代でした。

大消費地「東京」へスムースに荷が運べない。
湾岸は多摩川の土砂が蓄積しペリーが測量で確認した通り、遠浅で海運には向きませんでした。鉄道など陸路の整備もままならない中、横浜から東京までの回漕費は、ロンドンより横浜までの運賃とほぼ同額という実に非効率の時代がしばらく続いたのです。当時の神奈川県に話を持ち込んでもなかなか埒が明かず、最終的には自分で資本を集めて事業化してしまったのが浅野総一郎でした。
話を1930年(昭和5年)8月2日に戻します。
この日、浅野総一郎の帰国は大きく新聞紙上にも取り上げられました。

新聞記事

「若返った浅野翁」
「十億外資借入旅から帰国」
若返ったのはそのファッションでした。真っ赤なネクタイを締めた姿が、83歳の日本人には見えなかったのでしょう。また十億外資借入旅とは、震災で打撃を受けまた昭和に入り恐慌が起こるなど、経済状況が厳しい中、80歳を過ぎた浅野総一郎は、事業発展のために
「セメントを輸出するために、今年はアメリカとイギリス、ドイツに支店を作るぞ。世界恐慌といってもいつまでも続くとは思えない。それにアメリカ政府は景気対策として、公共事業を始めるだろう。セメント需要は一段と高まるだろう。不況のときこそチャンスだ。」
「安田さんが亡くなったから、俺はこれからは海外から資金を借りて仕事をする」とぶち上げ、昭和5年5月18日にシベリア大陸経由で欧米視察(資金調達)の旅に出ます。ところが、ドイツで体調異変に気が付き、食道がんの可能性があると診断されます。ドイツでは友人の野村大使らの歓迎を受けますが、旅半ばで急遽日本へ帰ることを決断、アメリカ経由で
8月2日のこの日横浜に帰ってきたのです。帰国後すぐに診察、結果は食道がん。
その後 大磯に戻り療養しますが11月19日
83年の波乱に満ちた生涯を遂げました。
今日はここまで。
浅野総一郎と築港の父パーマーの話も紹介しておきたいところですが、別の機会にしておきます。

第940話【最強の市長】有吉 忠一

Published / by tadkawakita / 第940話【最強の市長】有吉 忠一 への1件のコメント

現在、横浜市長は
第32代、20人目の林文子氏が就任しています。(2009年(平成21年)8月30日〜)
戦前は13代まで官選市長が市政を担当しました。
戦後は選挙で選ばれています。
戦前戦後を通じて 任期満了か、途中辞任によって市長交替となりました。
例外は在任中に亡くなれた市長が2名
16代「平沼亮三」氏と24代「細郷道一」氏でした。
(最強の市長は誰か?)
最強という表現が適切かどうかわかりませんが
ここに紹介する第10代横浜市長「有吉忠一」は横浜市政史に残る
“最強”の市長といえるでしょう。
歴代市長を評価するには様々な視点から市政の結果を分析していかなければなりません。政策実行力・問題解決力・政治的決断力 他いろいろ指標がありますが
有吉忠一は
「数多くの業績を残した昭和初期の「不世出」の市長」と言われています。
“「不世出」の市長”というのは中々の評価ですね。
横浜市史上最大級の難問、震災復興に取り組んだ不屈の市長です。
ここに当時の有吉市長を知ることができる一枚の写真があります。
たまたま海外の写真オークションで手に入れたものです。

生糸検査所の有吉忠一と秩父宮

生糸検査所屋上から「横浜復興」を秩父宮に説明する有吉市長

1927年(昭和2年)6月2日(開港記念日)
この日、関東大震災から5年
<復興>を市内外に宣言する重要なセレモニーとして「大横浜建設記念式」を開催しました。式典には秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)を迎え、望月圭介逓信大臣を始め、1,557人もの市内外の名士が集まり盛大に挙行されました。
秩父宮は式典に参列する前、市長有吉忠一により復興状況の説明を受けます。
写真はこの時の一コマです。

(関東大震災)

震災被災(焼失)エリア

(震災復興)

秩父宮視察が行われた生糸検査所

震災復興のシンボルとなった商工奨励館

有吉忠一の簡単な経歴を紹介しましょう。
1873年(明治6年)
京都府生まれ。
第三高等中学校、帝国大学法科大学法律学科(現在の東京大学)
1896年(明治29年)
内務省入省。
1897年(明治30年)
島根県 参事官
兵庫県 参事官
1901年(明治34年)
内務省 参事官
1908年(明治41年)3月
第11代 千葉県知事 就任。
知事時代、千葉県営軽便鉄道(後の東武野田線の一部)の開通を手がける。
1910年(明治43年)6月14日
韓国統監府総務長官 就任。
朝鮮総督府総務部長官。(〜1911年(明治44年)3月13日)
1911年(明治44年)3月13日
第13代 宮崎県知事 就任。
知事時代 宮崎県営鉄道を建設。飫肥線の敷設、日本初の学究的発掘調査となった西都原古墳群の発掘調査を行う。
1915年(大正4年)
第九代 神奈川県知事 就任。
自治時代 多摩川の改修を指示し川崎市中原区に「有吉堤」の地名が残る。
関東学院の開設に助力。
同年11月10日
大礼記念章
1919年(大正8年)4月18日
第15代 第15代兵庫県知事 就任。
1918年(大正7年)6月29日
勲二等瑞宝章
1922年(大正11年)6月16日 退任
1922年(大正11年)6月12日 ※
「朝鮮総督府政務総監」に就任(〜1924年7月4日)。
※知事退任日と総監就任日に重なりがありますが 資料のママ掲載します。

有吉は軍事権を除く行政・立法・司法の実務を統括し、在任中、朝鮮総督府の日本人高級官僚、特に「生え抜き官僚」との軋轢に加え、関東大震災時の“朝鮮人虐殺”に反発する朝鮮での暴動等の真ただ中でかなり苦労します。

1924年(大正13年)7月4日
その任を解かれ東京に戻ります。
1925年(大正14年)5月7日
第10代横浜市長に就任。
※推薦者 原富太郎、中村房次郎、井坂孝ら
1930年(昭和5年)2月10日
正式に辞意を表明します。
「予算案さえつくれば、その決定は予算を実行する後任市長と市会の自由裁量によるべき…」との一言を残し、
同年4月 貴族院議員 勅選。
1930年(昭和6年)2月26日
昭和6年度の予算が成立する前に辞職。
1933年(昭和8年)
第7代 横浜商工会議所会頭。(〜1942年(昭和17年))

■有吉忠一の横浜
米貨公債で<震災復興資金>を集め、早期復興に努め 大きな成果をあげました。
「大横浜建設」の三大方針
・横浜港拡張
・市営埋立(臨海工業地帯の建設)
・市域拡張
生糸貿易に大きく依存してきた横浜市の体質を脱却して工業化を推進するために臨海部に大規模な工業地帯を建設し企業を誘致し港湾機能を拡充。
広大な後背地の確保(市域拡大)
市長時代から退任後
横浜商工会議所会頭時代精力的に臨んだのが
「東京湾拡張問題」=東京港開港要求でした。
横浜にとって東京開港は死活問題。東京にとっても東京開港を渇望していました。この問題はすでに明治期からくすぶっていた課題で 震災後は政財界を巻き込んでの大問題になっていました。
有吉は横浜・神奈川の意見を取りまとめ東京と横浜との軋轢解消を推進しました。
首都圏の港湾経済を考える上で、都市間で争っている時代ではない!
という視点から 国と東京市との合意を求め奔走します。
最終的には横浜復興で独自に米貨公債により調達した復興資金の残債半分を国に肩代わりしてもらう代わりに東京開港を制限付きで認めるという結論をまとめます。
「(横浜復興に借りた米貨公債を政府に肩代わり叶えば)東京の希望に反対しない事になった、併し満支関係の船は兎に角、英米の大船は東京には寄港出来ぬ、東京港は水深二十五尺、六七千噸級内せいぜい一万噸級を限定とする実情である、夫はさてをき横浜市民も此解決で初めて積極的に振興の業にあたる事が出来るようになったのである、之は昭和十五年の事であるが、この時市税総額八百七十万円で、市の公債費は総額八百九十万円、市税の全額を挙げても尚ほかつ足らぬという窮境であったのである(中略)ああこれで横浜市民のために、震災のあとかたづけが出来たと、肩の荷をおろした感で、大変本懐に思った事である。(有吉忠一 経歴抄)」
◯有吉忠一関係ブログ
■震災復興 横浜拡大
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命

No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命


1929年(昭和4年)8月19日に飛行船ツェッペリン伯爵号は
何故 急遽計画を変更して横浜上空に現れたのか!
第818話【横浜2345】大横浜の時代

第818話【横浜2345】大横浜の時代 


No.464 昭和5年頃の横浜

No.464 昭和5年頃の横浜


No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド

No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド


No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

■市長エピソード
No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更

No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更


No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?

No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?


■県知事時代
No.445 「有吉堤」

No.445 「有吉堤」(加筆修正)


No.443 岸辺のアル闘い

No.443 岸辺のアル闘い

第931話【横浜の風景】伊勢佐木から山手

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この画像は、伊勢佐木から山手方向を撮影したものです。
撮影時期を推理してみます。
風景の左に横浜市役所が見えます。
歴代の歴史から画像にある市役所は
二代目市庁舎(1911年~1923年)と思われます。
(三つの橋)
市役所の横を流れる派大岡川に架かる
トラス橋の「港橋」と
アーチ橋の「花園橋」、
桁(ガーター)橋の「吉浜橋」が見えます。
代表的橋の構造が三種類見える風景も中々ありませんね。
ちょっと見えにくいですが。


山手の建造物群はまだ本腰をいれて時代別の整理をしていません。いずれやらなければならない課題の一つです。
もう一つ大きなヒントが写っています。
画像の下ギリギリに有隣堂のロゴ看板が見えます。
伊勢佐木にある老舗書店有隣堂本店は「第四有隣堂」として1909年(明治42年)12月13日に創業します。
No.348 12月13日(木)いっさつの本があれば

No.348 12月13日(木)いっさつの本があれば


創業時は木造2階建ての店舗で、
1920年(大正9年)に株式会社となり、これをキッカケに間口5間・奥行15間の3階建店舗を新築します。
ここに写っている社屋は 2階建てなのか三階建てなのか?
このロゴは何時から使われているのか?
このあたりが判ればもう少し絞り込みができるかもしれません。
当時の横浜情報として「横濱貿易新報」の大正9年12月17日付け記事に
歳末お歳暮特集が組まれていて、市内のお店紹介記事が掲載されています。
ここに大正9年に完成した有隣堂の紹介記事が写真入りで紹介されていました。

写真外観を確認すると、(画像では見難い)風景写真に写り込んでいる有隣堂と同じだろうと判断できます。
この風景写真は1920年(大正9年)12月から
1923年(大正12年)8月までの間に撮影されたものだろうと思われます。

第930話石油を巡る点と線

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1,000話までカウントダウン70の節目なのでちょっと頑張ってみました。
帷子川河口域を調べている過程で、明治38年発行の地図を改めて見直していたらそれまで全く意識していなかった情報が目に飛び込んできました。帷子川 石油パイプライン万里橋近くから「石油タンク鉄管」が海にまっすぐ伸びています。
明治38年の時点で、破線なので予定線かもしれませんが、横浜港内に石油パイプラインがあった?ことを再確認した次第です。
このパイプの使用者は?周辺を確認してみると高島嘉右衛門が造成した鉄道道にあたる「高島町四丁目」に「横浜瓦斯製造所」がありその奥には現在の平沼一丁目に「浅野石油槽場」が記載されています。
この場所は、戦前いち早くメジャー二社の石油会社が進出しましたが、浅野グループがいち早くこのあたりに石油関連施設を設置していたようです。資料を探してみたところ、
1892年(明治25年)
11月浅野総一郎、浅野石油部を設置、ロシア石油販売を開始
帷子川河口域の歴史を石油。製造業関係を中心に調べてみました。
1893年(明治26年)
5月ニューヨーク・スタンダード石油、横浜に日本支店を開設
 10月浅野総一郎、横浜に油槽所完成

【関連年表】を作りました。
1884年(明治17年)
山田与七、高島町に山田電線製造所を創業
→「山田電線製造所」が後の古河電工、横浜ゴムとなっていきます。
1888年(明治21年)
 6月19日 横浜のジャーデン・マセソン商会、ロシア灯油を初輸入
山田又七、山本油坑舎を設立、新潟県東山油田浦瀬で試掘
高島町遊郭が真金町、永楽町へ。
→「山田電線製造所」の山田与七と日本の石油パイオニアである山田又七は名前が似ていますが、接点は見当たりません。
1889年(明治22年)
4月16日東京ー浜松間開通
6月16日横須賀線開業
7月1日東京ー神戸全通。
小倉常吉は後に小倉石油となる小倉油店を開業。
1891年(明治24年)
横浜船渠工場操業開始。
浅野総一郎、サミュエル商会とロシア灯油の販売契約締結
1892年(明治25年)
6月山田又七ら、石油会社を設立(宝田石油の前身、新潟県古志郡比礼で試掘)
11月浅野総一郎、浅野石油部を設置、ロシア石油販売を開始
1893年(明治26年)
山田又七、「宝田石油株式会社」設立(新潟県長岡:東山油田)。翌年から米国製掘削機を用いて機械掘り採油を開始.。後に他社を次々と買収して日本石油会社と並ぶ本邦二大石油会社のひとつとなる。
 5月ニューヨーク・スタンダード石油、横浜に日本支店を開設
 10月浅野総一郎、横浜に油槽所完成
1894年(明治27年)
 3月21日ニューヨーク・スタンダード(ソコニー)、横浜に支店を開設。
8月日清戦争勃発(〜28年)
12月東海道、軍用線3.5km(神奈川〜保土ケ谷)ショートカット線開通。
1895年(明治28年)
内海(通称・平沼)の埋立開始。
1896年(明治29年)
山田電線製造所、横浜電線株式会社とし平沼に工場を建てる。
No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=488
帷子川、大岡川流域に染物工場、ハンカチのふちどり工場発展、製糸工場群生。
6月29日西平沼町に横浜電線製造KK設立。
1897年(明治30年)
サミュエルは横濱元町に「シェル運輸交易会社」を設立。
 湘南海岸で自ら「貝(シェル)」を拾った日々の原点に戻って、「シェル」と称したという。
1898年(明治31年)
浅野石油部、日本初の鉄製タンク車で石油輸送
1899年(明治32年)
平沼短縮線を一般客線とする。
1900年(明治33年)
4月11日日本のサミュエル商会は、石油部門を分離独立することとし、
 横浜に「ライジングサン石油株式会社」を設立(資本金25万円 本店・横浜市山下町)。
1901年(明治34年)
平沼駅開業。
2月ロシアに宣戦布告(日露戦争勃発)
1905年(明治38年)
7月19日平沼亮三の母千代子、出征兵士の歓送でホームと列車の間に落ち死亡。
9月大倉喜八郎・浅野総一郎ら、南北石油を設立。
12月京浜電気鉄道 川ー神奈川開通。
1907年(明治40年)
4月国産ガソリン自動車第1号製作(タクリー号)
第923話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆2
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10924
 9月南北石油、保土ヶ谷製油所完成
 スタンダード石油が神奈川油糟所を開設。
スタンダード石油と三明商店の間に初めて代理店契約が結ばれた。(小嶌 正稔)
その後、全国の商店と代理店契約を結んでいく。東京神田美土代町大家商店。神戸松村石油。
 南北石油(株)保土ヶ谷製油所(神奈川県・保土ヶ谷、原油処理能力3,000バレル/日)がカリフォルニア原油を初輸入。
麒麟麦酒創業。
1908年(明治41年)
平沼の漁民、原油もれに抗議。
1914年(大正3年)
埋立完成、南幸町・北幸町と命名される。
1917年(大正6年)
日本は世界第8位の石油産出国という統計が発表される
1922年(大正11年)
小倉、横浜に原油貯油所完成。

震災前の平沼周辺

1923年(大正12年)
関東大震災によりスタンダード石油油槽所が倒壊。大火災により、周辺住民により再建反対運動が起きる。
1924年(大正13年)
日本石油、鶴見製油所(神奈川県橘樹郡安善町)を建設。
1925年(大正14年)
 2月資本金400万円で「日本フォード社」が横浜市緑町4番地に設立
 3月3日アジア初の「日本フォード」製造工場が横浜市神奈川区子安に開設。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6947
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7846
1927年(昭和2年)
日本ゼネラルモータース設立
以上大正時代までの関連年表を整理しただけで、
横浜と石油の関係が浮かび上がってきました。

第923話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆2

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前回、有栖川宮威仁親王が横浜港鉄桟橋を利用する記念絵葉書の画像を読み解いてみましたが時期を特定することができませんでした。
第922話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆

第922話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆


追加の資料を探していたところ、面白いことがわかってきました。
前回より詳しい洋行記録が分かってきました。
有栖川宮威仁親王は渡欧を4回経験しています。
第一回
■英国留学(年月不明)

1883年(明治16年)6月 留学から帰国
第二回
1889年(明治22年)2月16日
■海軍事視察として欧州へ
1890年(23年)4月10日 帰朝
第三回
1897年(明治30年)4月22日
■英皇即位60年祝典のため渡英

1904年(明治37年)6月28日
海軍大将に昇進。
第四回
1905年(明治38年)4月1日
■独逸皇太子結婚式参列のため渡欧
同年8月26日欧州から帰朝
(大須賀 和美 資料)

前回の記述は間違っていたようです。おそらくこの絵葉書の光景は第四回目、1905年(明治38年)4月1日〜同年8月26日
独逸皇太子結婚式参列のため渡欧し帰朝時の大桟橋
だと思われます。
夏の終わりですが、服装はかなり厚着に感じます。
ただ、拡大してみると一部薄着も見られるので 暑い中多くの群衆はしっかり服を着て参加していることがわかります。

威仁親王には明治期の近代化に寄与した様々なエピソードが残されています。
その一つが<自動車の普及と国産化>です。
渡欧中に威仁親王は欧州の三台自動車を購入し輸入手続きを採り国内に持ち込み国内を走ります。
その内の一台、フランス製「ダラック号」が故障し
修理を<東京自動車製作所>に依頼したことがきっかけで国産車製造が行われることになります。
この<東京自動車製作所>
前身は双輪商会といって
1897(明治30年)
京橋区木挽町4丁目で自転車輸入販売業を始めます。
1902年(明治35年)
ロシア公使館員からフランス製グラジェーターを譲り受けたのをきっかけに自動車輸入販売を計画しオートモビル商会を設立します。(日本人最初のオーナードライバーといわれています)
1903年(明治36年)
渡米し米国からエンジンを輸入
1905(明治38年)に乗合自動車をつくり
「日本で初めての国産乗合いバスとして運行。エンジンはアメリカ製の18馬力、運行区画は西区横川町から安佐北区可部までの約14,5キロ。ボディは総ケヤキづくりで重量は1トン、12人乗りで車掌付きでした。」
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1111417104550/index.html
これがオートモビル商会初の自動車製造となります。
ただ 売れず資金難に陥りますが、
1907年(明治40年)に
有栖川宮威仁親王から注文を受け、
「国産吉田式自動車」」(通称タクリー号)を製造します。
ここで<絵葉書>の有栖川宮威仁親王が登場します。
1908年(明治41年)8月1日
吉田式3台は有栖川宮威仁親王の所有するフランス製ダラックを先頭に、英国製ハンバー、イタリア製フィアット、ドイツ製メルセデス、アメリカ製フォード、フランス製クレメントなどと一緒に甲州街道を立川まで遠乗りに参加
「国産吉田式自動車」」(通称タクリー号)は、欧米の名車に劣らぬ走行に成功します。
ガタクリ走るから「タクリー号」という悪い俗称がつきましたが、性能は高かったようです。
この明治期に画期的な国産車を製造した人物が
<東京自動車製作所>オーナー吉田真太郎で、技術者の内山駒之助です。

吉田真太郎

横浜とも因縁のある人物でした。
1877年(明治10年)東京市芝区芝公園7号地に生まれた吉田真太郎
前述しましたが
1897(明治30年)京橋区木挽町4丁目で自転車輸入販売業を始めます。
自転車輸入販売は順調で、横浜の石川商会と<ライバル会社>として競争するまでに成長します。
No.213 7月31日 (火)金日本、銀日本

No.213 7月31日 (火)金日本、銀日本


この吉田真太郎の父が吉田寅松
当時日本有数の土木会社「吉田組」を一代で築き全国の土木事業を手がけます。
一説では 横浜関内外に架かる「吉田橋」を寄付したという資料もあります。(ウラトリ中)
吉田寅松が横浜の大事業に登場するのが「堀割川工事」です。
第921話【堀と掘】掘って割、堀となる

第921話【堀と掘】掘って割、堀となる


ここに繋がります。
どう繋がったのかは長くなりますので次回に。

【ミニミニ観光横浜】掃部山そうぶやま

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今日は掃部山の話です。
掃部山は(かもんやま)と読みます。初めて出会う方には難読地名の一つです。
まず読めません。どう読んでもそうぶやまですよね。
ここは明治期に鉄道省の土地で、後に民間の管理を経て市の公園となりました。

桜の名所としても有名です。この掃部山の名は幕末の歴史を大きく変えた井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)の「掃部」から採ったものです。ここには現在、井伊直弼の銅像が建ち、一角には関東最古の能楽堂が移築されています。

衣冠束帯をつけて正装した男の像が何故ここに建っているのでしょうか?

「開国の恩人」としてすんなり顕彰されたからではありません。現在掃部山に建つ「井伊直弼像」は二代目で戦後に復活したものです。

井伊直弼、日本近代史を学ぶ時必ず登場する彦根藩主であり時の大老は、その評価が未だ大きく分かれます。

彼をテーマにしたブログも幾つか書きました。

No.193 7月11日(水) Hi Come on!

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=414

No.■180 6月28日 横浜能楽堂、その点と線

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=428

No.96 4月5日 開港ではありません開国百年祭

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=521

ここで改めて 掃部山に建つ「井伊直弼像」を通して、横浜を舞台にした歴史の謎について少し紹介しましょう。

■1884年(明治17年)3月22日
「東京・横浜の紳商60人、佐野茂で会合、野毛山に井伊直弼 記念碑建設を決定しました。(横浜近代史総合年表)」
とあるように、井伊直弼の顕彰碑を建てようという活動は明治10年代から彼の故郷「彦根」から起こります。

明治維新後の日本国内における井伊直弼の評価は、散々なものでした。
井伊大老が指示した「安政の大獄」により弾圧された各藩の要人・知識人の多くが新政府の幹部となったからです。幕末明治に活躍した明治維新の要人は薩長土肥と呼ばれた倒幕派の若き<革命家>達も含まれていました。
実は<日本の近代化>を最初に支えた官僚の多くは旧徳川幕府の優秀な幕臣達でした。
倒幕派の若き<革命家>達は清濁合わせながら、露骨な藩閥政治も行い、都合の良い朝令暮改も繰り返しながら近代国家づくりに奔走したのです。

その明治政府をけん引するリーダー(革命家)達にとって井伊直弼は<大獄>の恨みある憎き江戸政治の象徴となっていきます。一方、藩閥政治に不満を持つ人達には 開港を英断した井伊直弼をヒーローとして再評価する動きが活発化します。

明治政府内部でも様々な派閥争いが起こります。
新政府最大の危機が「明治十年の西南戦争」という近代最大で最後の内乱が起こります。
その後大隈重信を巡って「明治十四年の政変」が起こり、福沢諭吉を含め啓蒙派の言論人が政治の場から去っていきます。
官僚機構を整備する中、省庁間の利権争いも重なり、明治国家が少しずつ歪な権力構造のまま膨らみ此の歪みが日本の政治を停滞させていきます。

横浜を例に取れば、横浜港築港計画ではイギリスをバックにした「大蔵省」とオランダを支持する「内務省」の軋轢があったように、井伊直弼を巡る顕彰碑建立では「内務省」と反内務省との対立も鮮明になります。

ここに掃部山の井伊直弼像のたどった運命を少し長くなりますが年表にしておきます。

(井伊直弼碑から像へ)

■1860年(安政7年)3月24日
三月三日桜田門外の変

■1881年(明治14年)11月
有志 井伊直弼像、在東京建碑委員を選定

■1882年(明治15年)7月
建碑位置、横浜戸部不動山案を提案したが否決、東京案となる。

同年10月
上野東照宮境内案 申請。11月に内務省内否決、不許可に。

■1883年(明治16年)11月
横浜戸部不動山鉄道局所有地の払下げを願い出る。

■1884年(明治17年)1月
地所開墾に着手。

同年3月22日
東京・横浜の紳商60人、佐野茂で会合、野毛山に井伊直弼 記念碑建設を決定

■1886年(明治19年)3月27日
豪徳寺で二十七回忌が行われる(26日〜28日)

■1888年(明治21年)3月20日
島田三郎<開国始末>(付録 井伊掃部頭直弼伝)

■1891年(明治24年)
「大老銅像建碑委員会」発足

■1893年(明治26年)
旧臣の集まりが「旧談会」を発足

同年8月
神奈川県知事 遺勲碑建設に関し内務省に問合せた結果、井上馨大臣拒否。

■1899年(明治32年)5月19日
「日比谷公園内に直弼顕彰碑計画を立てる」が内務省(西郷従道)から却下

■1907年(明治40年)2月
遺勲碑から銅像に変更し戸部山に建設を決定。設計に着手。

■1909年(明治42年)6月
銅像竣工。開講五十周年式典挙行。

同年7月1日
神奈川県知事、横浜市に銅像除幕式中止を申し入れ、中止延期。

同年7月11日
除幕式強行。大隈重信、英国総領事ら出席他600人。

■1910年(明治43年)
彦根に井伊直弼像を建立

■1914年(大正3年)11月7日
横浜の掃部山公園として開園。
※土地・銅像は一旦井伊家に寄贈され、整備後横浜市に寄付(8月)

■1916年(大正5年)7月
「井伊直弼朝臣頌徳会」発足

同年11月
「井伊直弼朝臣頌徳会」「旧談会」が「無根水会(むねみ)」となる。
※無根水は直弼の茶号。

■1917年(大正6年)
大正天皇、彦根行幸の際 直弼像には訪れず。

■1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で銅像上部が回転、転倒せず。公園は被災者の避難所に。

■1935年(昭和10年)3月2日
「天照義団掃部頭銅像の首を狙う」が未遂。
※横浜の右翼団体

■1940年(昭和15年)4月10日
「井伊直弼朝臣顕彰会」横浜で開催。

■1943年(昭和18年)6月16日
銅鉄押収「応召」となる。

■1954年(昭和29年)5月20日
二代目井伊直弼像 竣工。

同年6月2日
開港百年祭に際し二代目井伊直弼像 除幕式。

■1958年(昭和33年)5月10日
開港百年祭実行員会、開港功労者31人を顕彰。井伊直弼も

■1968年(昭和43年)9月29日
「開港の恩人井伊大老を偲ぶ110年祭」掃部山公園で開催

■1989年(平成元年)
YES89掃部山公園再整備

■2014年(平成26年)
区制70周年と掃部山公園開園100周年、掃部山公園再整備

第897話 藤田雄蔵をめぐる物語

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2015年11月5日Facebook掲載より転載・加筆・修正しました。
東京高円寺の古書店で一枚の絵葉書を購入しました。

「航研機」絵葉書

購入価格は200円。
一機の航空機が写っている戦前の絵葉書です。
今日はここで入手した昭和15年のスタンプがある航空機の絵葉書から辿る旅を始めます。

■「航研機」
写真のようにも、絵画のようにも見えるこの航空機は東京帝国大学航空研究所が開発した新型航空機で「航研機」と呼ばれました。この「航研機」で「周回航続距離世界記録」を樹立した記念絵葉書として発行されたものです。
宛名面には
「航研長距離機川崎特殊型700馬力最大速度280粁/時
乗員3名記録飛行距離11,651粁011飛行時間62時間22分49秒」
スタンプは
昭和15年(1930年)2月11日となっています。
・「航研機」スペック
全幅:28.00m
全長:15.06m
全高:3.84m
エンジン:川崎特殊液冷 700ps/1800rpm 巡航速度240㎞/h(飛行高度1000m)
総重量:9000㎏(乗員3名、食料、装備、燃料、オイル含む)
機体は不時着した際発見しやすいよう両翼が赤く塗られていました。
■飛行記録
「周回航続距離世界記録」に挑戦したのは
1938年(昭和13年)5月15日
ルートは<木更津飛行場→銚子→大田→平塚→木更津飛行場>の左回り。
結果は2つの長距離飛行世界記録を樹立しました。
●周回航続距離記録
1周401.759㎞のコースを無着陸で29周、
62時間22分49秒の飛行時間で
周回航続距離10,651.011km
●1万kmコース上の最速記録
1万kmコース平均速度186.192km/時という記録を打ち立てました。
この記録は、
国際航空連盟(FIA)によって公式に認定された記録で日本航空史に輝く偉業といえるものでした。
■時代背景
「航研機」が開発された昭和初期の時代

1937年 蘆溝橋事件が起こり日中戦争が始まる。
1938年5月5日は「国家総動員法」施行

アジアでの軍事的衝突と国際的緊張が高まる中、
この世界記録樹立は<国威発揚>にはうってつけのものでしたが、開発記録を読むと「航研機」を開発した<東京帝国大学航空研究所>の航空機基礎研究部門は当時の政治要因の影響を色濃く受け、厳しい条件下で記録に挑戦しなければなりませんでした。
陸軍と海軍、帝大を監督する文部省など、縦割りの弊害が有ったと読み取れます。
※資料1 開発当事者のエピソード、若干疑問符もありますが、
限られた予算とスタッフで世界レベルを目指した実験機の詳細なドキュメントでした。

研究所スタッフは
「ただただ世界記録のために総てをそれに徹した機体」を開発することに重点を置き、航空機としては極めて運転しにくい構造設計が推進され、操縦席からの前方視界が殆ど無い!?航空機が誕生することになります。
残念ながら樹立された記録は翌年イタリアのサヴォイア・マルケッティ SM.75機によって破られてしまいます。
開発過程や記録挑戦までのエピソードからは実にワクワクする技術開発の現場が見えてきます。横浜ネタからさらに離れてしまいますので航研機ドラマに関しては略します。
※※資料1をお読みください。

■飛行士
記録を樹立した「航研機」
視野が側面にしか無く<横を見おろしながら位置を確認>しなければならない構造でした。飛行性能を追求したあまり操縦性が後回しになった中での記録樹立、この飛行の成功は飛行士にあったと言っても過言では無い!と思えてなりません。
この資料を読み解く中で私はこの実験機に関わる<人間像>に関心をいだきました。
航研機乗員は3人乗りで、飛行チームは陸軍航空技術研究所のパイロット2名と機関士1名で構成されました。
※国の支援が無かった状況ですが 海軍は非協力的で陸軍航空技術研究所とは交流・協力体制ができていたようです。このあたりは、軍の経費節減に伴う陸海軍、陸軍内部の抗争も関係していたのではないか?と推理しています。まだ推測の領域ですが軍関係資料から意外な真実が判ってくるかもしれません。

「航研機」スタッフ
操縦士:藤田雄蔵(陸軍少佐)
副操縦士:高橋福次郎(陸軍曹長)
機関士:関根近吉(帝大技手)

■藤田雄蔵
操縦士藤田雄蔵(陸軍少佐)の経歴を調べていたところ、
彼は (少なくとも)幼少期を横浜で過ごしていたことが判りました。
「本籍青森県。日本郵船社員・藤田未類二の長男として横浜で生まれる。横浜一中卒を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、砲兵少尉に任官し野戦重砲兵第2連隊付となる。(wikipedia)」
別の資料では
「藤田雄蔵少佐(1898-1939)は周回航続距離世界記録を樹立した航研機のパイロットとして知られる。日本郵船社員の藤田未類二を父に、清美を母として、弘前市小人町12で生まれた。まもなく父の勤務の関係で横浜に移ったが、横浜では、今東光、日出海の両親も父が日本郵船の社員、母が幼なじみということで親しくしていた。横浜一中(17期)から陸軍士官学校(33期)に進み、昭和9年から陸軍航空本部技術部付のテストパイロットになった。」
また
森川肇『空の英雄藤田雄藏中佐』清教社、昭和15年刊では若干記述が異なっています。引用します。
「藤田雄藏中佐は、明治三十一年二月十九日、青森県弘前市で孤々の声をあげた。が、生まれるとすぐに横浜市神奈川区松ヶ丘町十四番地の藤田類二氏の養子となって横浜市に移った。従って小学校は西戸部小学校に入学し、続いて大正元年横浜一中の第十七期生として入学した。
中佐の父君は雄藏氏の今日を見ずして、さきにこの世を去った。その後は、亡父の親友であった横浜一中の校長木村繁四郎氏が、中佐の親代わりをつとめ、中佐の母と共に、その大いなる成長をみつめて来た。」
養子と記述されたり
また、親の名が「藤田未類二」または「藤田類二」と異なった表記があります。
父親「藤田類二」の点に関しては
大正十三年の新聞記事に「藤田未類二」が登場していて実在することが確認できています。
従って(wikipedia)「藤田未類二」が正しいのでは?と思われます。
藤田未類二が住んでいたとされる横浜市神奈川区松ヶ丘町十四番地から西戸部小学校に通うのは現実的ではなく
父親の仕事の関係で横浜市中区戸部(当時)にあった「日本郵船」の社宅に暮らしていたのではないでしょうか?
此の時に、伊勢町で育って西戸部小学校に通った同い年の今東光、弟の今日出海と交友があったと推察できます。
No.86 3月26日 老松小学校の悪童


『空の英雄藤田雄藏中佐』清教社には 他にも幾つか<粉飾><誇張>が見られます。

当時世界記録に輝いた藤田は、
その後日中戦争に出征し、1939年2月中国大陸で戦死します。

<第一中学>現希望が丘高校に通うために毎日のように水道道を上り下りしていた少年藤田雄藏の姿を、この道に重ねながら
一枚の絵葉書から 新しいドラマに出会えたことを感謝します。

<余談>
この航研機の翼及び燃料タンク、車輪カバーを担当したのが山本峰雄で彼は日本自動車界の基礎を築いた人物として歴史に名を残しています。
http://www.yamafami.com/cm/

※名称変遷を繰り返した第一中学・1899年2月6日神奈川県中学校
・1900年4月1日神奈川県第一中学校
・1901年5月7日神奈川県立第一中学校
・1913年4月1日神奈川県立第一横浜中学校
・1923年4月1日神奈川県立横浜第一中学校
・1948年4月1日神奈川県立横浜第一高等学校
・1950年4月1日神奈川県立希望ヶ丘高等学校

参考資料
資料1「航研機」世界記録樹立への軌跡 富塚清 著 三樹書房
資料2「藤田雄藏中佐」森川 肇 著 清教社

関係ブログ
1937年4月9日
朝日新聞社の国産機「神風号」、ロンドンに到着。94時間17分56秒の国際新記録を達成。
航研機に関して
No.692 世界一周機「ニッポン」(号)