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第884話【今日の横浜】4月2日リベンジ横浜!

 万治2年2月11日(1659年4月2日)
横浜の原点となった「吉田新田」の第二回鍬入れ(再開)の日です。 旧暦では2月11日ですが、ここではネタ用に西暦を使わせていただきます。
実は 吉田新田干拓計画はさかのぼるところ
1656年9月5日
明暦2年7月17日に江戸の吉田勘兵衛が江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得て、入海の新田づくり鍬入れ式を行います。
ところが
1657年6月21日
明暦3年5月10日に新田工事の最中、13日まで大雨が降り続き
6月24日に潮除堤が崩壊し干拓工事事態が中止に追い込まれます。
これに屈すること無く、吉田勘兵衛は新田開発再開を決意、
万治2年2月11日(1659年4月2日)に
再開の鍬入れが行われました。この再開の決意がなければ現在の横浜はどうなっていたのでしょうか?
様々な想像ができます・
ただ、大岡川の隣を流れる帷子川に見られるように 大岡川河口もしばらくして複数の干拓事業が行われたでしょう。地権者が増えることによって このエリアの発展がスムースに進んだか? その後も沼地のままになったかもしれません。  今年は、「吉田新田完成350年」にあたります。
一人の事業者によっていち早くこの一帯が整備された意義は大きいのでないでしょうか。
吉田新田事業「土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島」から持ってきたそうです。

(吉田新田前史)
今から約350年以前の横浜エリアは、山手から砂嘴が突き出し、その内側には大岡川の河口から釣鐘形をした深い入り海が広がっていました。
このくちばしのような<砂嘴>の突先に 弁天様が祀られ
洲干弁天と称しました。 1170年代、12世紀の治承年間 源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝えられています。以降、850年近く経ちます。
■枕詞を疑え!!
少々余談となりますが、横浜史の枕詞(まくらことば)に
「入江の砂州上の寒村であった横浜村の更に先端にあり」
「戸数約100戸の半農半漁の寒村・横浜村(今の関内地区)」
と決まってペリー来航以前を<寒村>をしますが、
私は違和感を感じます。ここが<寒村>とするなら 日本中の豊かな村とはどんな村なのか?問いたい!
国語辞典にも「かん‐そん【寒村】 の意味 貧しい村。さびれた村。」
「洲干弁天社は開港前から景勝地として知られ、開港後は開港場の中心をなす横浜町の入口に位置することから、横浜名所の一つとなり、茶屋などが集まった。(開港資料館)」
と近年 横浜村周辺の表現が変わりつつあります。
→横浜村風光明媚論は追って書きます。

<簡単横浜の新田史>
1640年代(慶安年間)には元町1丁目の増徳院が別当となります。
1656年(明暦2年)吉田勘兵衛、江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得ます。
1656年(9月5日)(明暦2年7月17日)吉田新田 鍬入れ式が行われます。
1657年(6月21日))明暦3年5月10日)から13日(6月24日)まで大雨で潮除堤が崩壊
★1659年4月2日(万治2年2月11日)
吉田新田 工事を開始 土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島から
1667年(寛文7年)吉田新田 完成
1669年(寛文9年)功績を称え新田名を吉田新田と改称
1674年(延宝2年)公式の検地、新田村となった。
1707年(宝永4年)宝永大地震の49日後に、富士山が中腹から大噴火
1761年(宝暦11年)検地を受け宝暦新田(大新田)<干拓洲>となる。
1779年(安永8年)検地を受け尾張屋新田<2町7反>となる。
1780年(安永9年11月)検地を受け安永新田<干拓洲>となる。
1817年(文化14年)検地を受け藤江新田となる。
1818年(文化15年)「横浜新田」の名が初見(完成は?)。
1830年(天保年間)程ヶ谷宿の豪商 平沼家と岡野家が大規模な埋め立てを開始。
1833年(天保4年)岡野新田鍬入れ
1839年(天保10年)検地を受け岡野新田となる。
1845年(弘化2年9月)検地を受け弘化新田となる。
1853年(嘉永6年)「太田屋新田」完成。
1854年 3月8日(嘉永7年)アメリカ海軍提督ペリーが黒船を率いて日本へ2度目の来航をし、横浜村へ上陸する。
1859年11月10日(安政6年)太田屋新田沼地を埋め立てて港崎町を起立し、港崎遊郭開業。
1859年6月2日(安政6年)横浜港が開港する。久良岐郡横浜村が「横浜町」と改称。運上所周辺には駒形町が、太田屋新田の横浜町隣接地には太田町
1864年(元治元年11月)野毛山下海岸を埋立て石炭倉庫6棟竣工。
1864年(元治元年)さらに検地を受け岡野新田拡大。
1867年(慶応3年)慶応の大火事の復興工事、町は和風から洋風への建て替えが始まり、石造りの洋風2階建ての「神奈川奉行所」完成。それを期に「横浜役所」へ名称変更。馬車道が開通する。
1868年8月(慶応4年)横浜町と太田町をあわせて二地区(上町・下町)に分け、5名の名主が担当した。
1869年(明治2年)洲干弁天社が移転。
1869年(明治2年3月)花咲町6丁目の内田清七、福島長兵衛ら県より請負い吉田橋北詰より野毛浦までの埋立てに着手。
1870年(明治3年)町屋の整った地域に長者町・福富町の二町が起立。
1871年7月(明治4年)横浜町と太田町の区域に正式に町名を付ける。本町・南仲通・北仲通・弁天通・元浜町・海岸通・堺町・太田町・小宝町・相生町・高砂町・住吉町・常盤町・尾上町・真砂町・港町・駒形町・羽衣町
1871年8月(明治4年)横浜関内各町を五区に分け、各々1名の名主が担当する。
1872年11月28日(明治5年)横浜役所は「横浜税関」へ名称変更。
1873年(明治6年)南一ツ目にあった遊水池(沼地)埋め立て、寿町ほか7か町が起立(埋地7か町)。
1873年5月1日(明治6年)神奈川県を20区に分け、区下に複数の番組を編成。横浜町は第1区1番組に編入される。
1873年5月1日(明治6年)平沼新田のうち、横浜道沿いの町屋が形成されていた箇所に平沼町が起立する。大区小区制により神奈川県第1大区3小区に属した。
1874年6月14日(明治7年)大区小区制に伴い、第1大区1小区に編入される。この頃伊勢佐木町ほか数町が起立
1876年(明治9年)洋式の公園「横浜公園」が開園。
1878年(明治11年)郡区町村編制法により以前の新田村が復活し、久良岐郡平沼新田、橘樹郡岡野新田に戻るが、平沼町は横浜区に編入された。(久良岐郡より独立)
1878年11月21日(明治11年)郡区町村編制法に基づき、横浜区となる。(久良岐郡から分離)
1878年7月(明治11年)市街地化した南三ツ目・北四ツ目までが横浜区に編入
1880年(明治13年)南三ツ目に高島町遊廓が移転
1889年(明治22年)市制町村制が施行され、平沼新田は久良岐郡戸太村に、岡野新田は橘樹郡保土ヶ谷村に、平沼町は横浜市にそれぞれ編入される。
1889年(4月1日)明治22年 市制施行により関内全域が横浜市となる。久良岐郡吉田新田から久良岐郡戸太村大字吉田新田となる。
1894年(明治27年)横浜港鉄桟橋(現:大さん橋)が完成する。
1895年(7月1日)明治28年 町制施行により久良岐郡戸太町大字吉田新田に。
1901年(明治34年)戸太町(戸太村が町制を施行)と保土ケ谷町の一部が横浜市に編入され、西平沼町と岡野町が置かれる。
1901年4月1日(明治34年)横浜市に編入。大字吉田新田の地に南吉田町を起立。全域が市街地となる。
■ざくっと一覧にして
関内外エリアがあらためて 埋立ての町=運河の町であることがわかります。
No.701 運河の街誕生(序章)

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

番外編ですが
掘割川の話です。ちょっと力作(自分的には)
No.437 横浜ドラゴンズ、吉田さんに斬られる!

第870話 横浜絵葉書の風景<年賀葉書>

2016年12月
年も押し迫ってきました。
年賀状の準備の季節です。 今回紹介する<絵葉書>は年賀状です。
発行年は 1915年(大正4年)
絵柄は この年の干支にちなんでウサギ達が楽隊を編成
大八車に農産物と果物を積んで賑やかに行進する絵柄です。
発信者は
「堀田忠次郎」「堀田隆治」の二名連名。
両名は
「開港五十年紀念横浜成功名誉鑑」に登場しています。 これを含めたいくつかの資料よれば、
慶応3年横浜萬代町に三忠合名会社を設立、ジャガイモ、玉ねぎ、蜜感、農産物、海産物を主に輸出入する会社として登場、一時代を築きます。
この年、1915年(大正4年)の年賀状にはもう一つ意味があったようです。
政界進出の準備だったのでしょうか
9月25日に行われた神奈川県議会議員選挙に
政友会から立候補、262票(次点)で落選しています。
落選で懲りたのか政界への立候補はこれだけのようです。
この時、政友会としてトップ当選は「新井清太郎」で352票でした。
現在の市役所前に「(株)新井清太郎商店」ビルが建っています。
貿易商”横浜三忠商店”を継承した企業が現在も事業を営んでいます。
株式会社 三忠
http://www.sanchu.co.jp/enterprise_domain/history.html

<年賀状>
年末に出し、正月にまとめて配達される年賀状
古くは江戸期に街道の整備がすすみ「飛脚」制度が充実する中、豊かになった町民・商人の間で「年賀の書状」のやりとりが新年に行われました。
今日のように<正月>に集中して賀状のやりとりが行われるようになったのは明治の郵便制度が整備されてからのことです。
<はがき>の登場によって、手軽に多くの人にメッセージを送ることができるようになり、爆発的に<年賀はがき>として利用されるようになります。
この現象は現在の<物流業界>の様相と似ていて、
年末数日に年賀を目的とした郵便の取扱量が急増・集中し流通がパンクします。
そこで制度として<年賀郵便>のルールを決めます。
ようは1月1日の消印に日本人はこだわったのです。郵便のルールは投函されたら順次配達していきますから、人々は消印付く年末ギリギリを狙った訳です。
1899年(明治32年)に
年賀郵便だけ 暫定的に普通郵便と分離します。
1906(明治39)年
そして、年賀特別郵便規則が公布され正式に法制化され現在に至ります。
翌年の
1907年(明治40年)から
「年賀」であることを表記すれば、郵便ポストへの投函も可能となります。
2017年は
年賀状制度110年目を迎えることになります。

第841話 1926年(大正15年)7月6日田中光荘死す!

1926年(大正15年)7月6日
「田中光荘が没した。(62歳)横浜新聞販売界に20余年尽力した(横浜歴史年表)」
今日はこの記事から、横浜・新聞というキーワードを追いかけてみます。
残念ながら「田中光荘」なる人物の資料は見つからずこの記事に関してはコメントできません。
新聞と横浜について少し紹介します。
横浜では明治初期、日本で最初の日本語による日刊新聞が発刊されました。
遡ること開港直後から居留地の外国人によって様々な<ニュース>が発行されるようになります。手書きの新聞から始まり、木版による新聞となりますが、発行時期の特定は不明のようです。
初期の内容は居留地の貿易関係者が顧客に対して情報を送るという形で発行されました。「サーキュラー(商館新聞)」「トレード・サーキュラー」
その後、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が1861年(文久元年)英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊した記録が残っているそうです。その後、岸田吟香の協力を受けて「海外新聞」という定期刊を発行しました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/浜田彦蔵
国内の各藩が手書きで情報をまとめたものを<新聞>とするかどうかは議論の分かれるところです。また江戸時代には日本が誇る<瓦版>もすでに存在していましたから、開港後“欧風伝聞紙”newspaperを新聞紙としたあたりからが「新聞」というようです。
まず最初に印刷物として新聞を発行したのは外国人でした。
日本で最初の日刊新聞となった「デイリー・ジャパン・ヘラルド」の他「エクスプレス」「ジャパン・タイムス」「ジャパン・ガゼット」「ジャパン・メイル」などが発刊されました。
幕末慶応年間に日本語の新聞らしき発行物が発行されるようになります。前述のジョセフ・ヒコによる「海外新聞(慶応元年)」『萬国新聞(慶応3年」「横浜新報もしほ草(慶応4年)」そして明治に入り
1871年1月28日(明治3年12月8日)
横浜活版舎、「横浜毎日新聞」を発刊に至ります。この「横浜毎日新聞」に関わった人脈だけで“横浜のドラマ”となるようなキーマン達が関わっています。


https://ja.wikipedia.org/wiki/横浜毎日新聞
神奈川県令(県知事)・井関盛艮
印刷業者の本木昌造・陽其二
初代主筆を務めた妻木頼矩
島田三郎
仮名垣魯文
沼間守一
石橋湛山

(横浜新報もしほ草)
『横浜新報もしほ草』は米国人ヴァン・リード(Eugene M. Van Reed)と日本人岸田吟香(ぎんこう)により慶応四年(1868年)に横浜の外国人居留地で発行された定期刊行物です。毎号六枚で構成され、表紙には黄色の和紙が使用され記事のほとんどを岸田吟香が執筆しましたが、<岸田>は外国人発行の影に隠れ名前は記載されていません。

おそらく、居留地の<治外法権>を利用し、当時厳しかった言論統制をかわしたものと思われます。かなり人気メディアとなり第四十二篇まで発行されました。
神奈川大学のアーカイブで内容を画像で閲覧できます。(モノクロです)
http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/handle/10487/4462

そして新聞に関しては関内日本大通際に「日本新聞博物館」(2000年10月オープン)があることも忘れてはいけません。

※外観写真省略します。
http://newspark.jp/newspark/
実は 日本最初の「新聞博物館」は熊本にあります。
熊本市 中央区世安町172
http://kumanichi.com/museum/

(長ズボン)
新聞博物館のある「横浜情報文化センター」の裏手?に
新聞少年の像が建っていることをご存知ですか?
地味な像ですので見逃してしまいそうですが、この「新聞少年像」は<路上観察学>的(個人的?)に関心があります。
それは何かといいますと 長ズボンなんです。全国にある新聞少年の像の多くが<半ズボン>なのに対して 横浜は長ズボンです。“おそらく”全国に2箇所しか無い?(徹底して調べていません)貴重な像ではないでしょうか。
と大げさすぎますが、ブログに取り上げました。
個人的には長ズボンの経緯も調べてみたいテーマです。

No.157 6月5日(火) 半ズボンより長ズボンでしょ!
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=456

(神奈川新聞)
最後に、地元の新聞も応援しましょう。最近話題となった沖縄から北海道まで全国ほぼ都道府県におおよそ一紙ローカル新聞が発行されています。
http://www.kanaloco.jp

(過去の7月6日ブログ)
No.188 7月6日(金) 深夜のコンテンツチャレンジ
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=419
2008年(平成20年)7月6日(日)の今日、
「独立U局」の一つテレビ神奈川の深夜23:30〜24:00枠で
新しい角度の番組に挑戦しました。

第830話  6月24日は美空ひばり命日

1989年(平成元年)6月24日の
美空ひばりが亡くなった日です。light美空ひばり像
彼女は 我が国女性として初めて国民栄誉賞を贈られました。
No4 1月4日(水) 昭和の歌姫
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=619

ちょっと一覧化してみました。題して
【横浜と美空ひばりの歌】
※関係あるんだろうな? レベルのリストです。
抜けもあるかもしれませんのでご了承ください。
気楽に始めましたが 結構時間がかかってしまいました。
◎1949年(昭和24年)
「河童ブギウギ」松竹「踊る龍宮城」挿入歌

※竜宮城→浦島伝説からムリムリ
◎1949年(昭和24年)
「悲しき口笛」作詞:藤浦 洸 作曲:万城目 正
◎1954年(昭和29年)
「ひばりのマドロスさん」作詞:石本 美由起 作曲・編曲:上原 げんと

※石本 美由起さんは横浜の方で、横浜をイメージする作詞も多い方です。

神奈川区の歌も作詞されています。ちなみに歌は 由紀さおりさん。
◎1955年(昭和30年)
「あの日の船はもう来ない」作詞:西沢 爽 作曲・編曲:上原 げんと
◎1956年(昭和31年)
「港は別れてゆくところ」作詞:西沢 爽 作曲:船村 徹
◎1956年(昭和31年)
「君はマドロス海つばめ」作詞:石本 美由起 作曲・編曲:上原 げんと
◎1957年(昭和32年)
「みなと踊り」作詞:星野哲郎(補作詩石本美由起)作曲:船村 徹
※横浜市/産経時事新聞社選定「横浜の歌」

◎1957年(昭和32年)
「浜っ子マドロス」作詞:星野哲郎(補作詩石本美由起)作曲:船村 徹
※横浜市/産経時事新聞社選定「横浜の歌」
→この産経時事新聞社選定「横浜の歌」は未確認です。追って調べてみます。
◎1957年(昭和32年)
「港町さようなら」作詞:水島 哲 作曲:万城目正 編曲:若木みのる◎1958年(昭和33年)

「ご機嫌ようマドロスさん」作詞:西沢 爽 作曲:船村 徹
◎1958年(昭和33年)
「白いランチで十四ノット」作詞:石本美由起 作曲:万城目 正
◎1958年(昭和33年)
「風に唄えば」作詞:石本美由起 作曲:万城目 正(B面)
◎1960年(昭和35年)
「アロハの港」作詞:三木嘉平 作曲:古賀政男
◎1960年(昭和35年)
「ひばりの船長さん」作詞:石本美由起 作曲・編曲:船村 徹
◎1960年(昭和35年)
「哀愁波止場」作詞:星野 哲郎 作曲・編曲:船村 徹
◎1960年(昭和35年)
「初恋マドロス」作詞:西沢 爽 作曲:遠藤 実
◎1960年(昭和36年)
「ヨコハマ物語」作詞:西沢 爽 作曲:遠藤 実
◎1963年(昭和38年)
「港は涙のすてどころ」作詞:石本美由起 作曲・編曲:上原げんと
※ジャケットは柳沢良平?
◎1964年(昭和39年)
「港は心のふるさと」作詞:三浦康照 作曲:船村 徹
◎1964年(昭和39年)
「お久し振りネマドロスさん」作詞:三浦康照 作曲:船村 徹
◎1967年(昭和42年)
「あの人の…」作詞・永六輔 作曲・中村八大
これは注目です。
美空ひばり オフィシャルウェブサイトには見当たりませんでした。
探し方が悪いのかもしれません。
https://www.youtube.com/watch?v=uxbmVCAuOAM
ユーチューブは 著作権上 削除される可能性が高いので
確認したい方は 早めに!!!

※追って調べました。

 アルバム「歌は我が命~美空ひばり芸能生活20周年記念」に収録。

 シングルでは発売されていません。残念です。
◎1967年(昭和42年)
「港のむせび泣き」作詞:三浦 康照 作曲:山本 丈晴
◎1969年(昭和44年)
「星くずの港」作詞:吉岡 治 作曲:下川博省 編曲:河村 利夫
◎1970年(昭和45年)
「港が見える丘」アルバム
◎1972年(昭和47年)
「ひばり仁義」作詞:石本 美由起 作曲:市川 昭介
◎1977年(昭和52年)
「港町十三番地」作詞:石本 美由起 作曲・編曲:上原 げんと
◎1986年(昭和52年)
「恋港」作詞:志賀 貢 作曲:岡 千秋 編曲:斉藤 恒夫
◎1999年(平成11年)
「元禄港歌」作詞:秋元 松代 作曲:猪俣 公章
※1905年録音

No.176 6月24日(日) 関内の粋といやーー、ね。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=432
関内を代表する割烹料亭「千登世」が
1881年(明治14年)6月24日(金)の今日、
住吉町6丁目79番地に開業しました。

第823話 1889年(明治22年)6月18日増田知

1889年(明治22年)6月18日の今日
初代横浜市長に増田知(ますだ さとし)が就任しました。
Wikipediaにもほとんど情報が無いし、さらっと参考情報位の扱いにしておこうかな?
と思いつつも調べ始めたら

<やめられない> <とまらない>そして<まとまらない>
ということで今日は初代横浜市長 増田知を紹介します。

「コピー70枚、本数冊、定期刊行物1冊」

「コピー70枚、本数冊、定期刊行物1冊」

1889年(明治22年)4月1日から日本全国で市政が始まり
順次大都市が<市>となっていきます。

1889年(明治22年)4月時点で全国31都市が市政導入。
人口規模の順でいくと
■大阪市 大阪府 人口476,271人
大阪府下4区を大阪市とし市制施行
市制特例により市長を置かず、大阪府知事が市長職務を行う。
■京都市 京都府 人口279,792人
上京区・下京区を京都市に。
市制特例により市長は置かず、市長職務は府知事が行う。
■神戸市 兵庫県 人口135,639人
神戸区が荒田・葺合両村を合併し神戸市となる。
■横浜市 神奈川県 人口121,985人
横浜区を横浜市に。
■金沢市 石川県 人口94,257人
金沢区534町を金沢市に。
■仙台市 宮城県 90,231
仙台区をは仙台市に。

人口第1位の東京市は特別で政府直轄行政都市の色合いが濃く
市政導入は1889年(明治22年)5月1日
他の<市政>より1ヶ月後に旧15区の区域が東京市となる。

※当時人口規模人口162,767人 第4位の名古屋市は遅れて
1889年(明治22年)10月1日に市政を導入。
横浜は上記のように4月1日「横浜区」から「横浜市」となります。1907488_1003471319696972_5670303358035532338_n 当時の市域面積は、横浜港周辺の5.4平方kmと小さな市域でした。
市政導入で まず市議会議員選挙が行われます。
ところが この議員選挙とその後の<市長推薦>がオオモメにモメたことが資料から伝わってきました。

その当事者が初代横浜市長増田知(ますだ さとし)です。
当時の市長の任期は6年でまず市会が市長候補を3名推薦します。
これを県知事が受けて国に上奏。
内務大臣が市会の推薦した3名の候補者の中から<上奏裁可>を請い「選任」するという形式をとっていました。

※明治憲法下では天皇に官吏任命権(憲法第十条)があり、これを内務大臣が補弼したため、実質内務大臣が任命しました。しかも一応本命が示され、通常なら<本命>が なるのが ならなかった。

市会オオモメの元は、市制となる前に起こった「共有物事件」です。
初代横浜市長 増田知(ますだ さとし)を語るにはこのオオモメ騒動「共有物事件」を理解しないとできません。
横浜開港史上長らく「地主派」と「商人派」という横浜独特の地域を真っ二つに割る派閥が形成されていました。

※超簡単に「共有物事件」を説明すると、貿易商人たちが居留地時代から歩合金で作ってきた<地域の共有物>は誰のものか?
 市域を構成する町の代表グループ(地主派)と、貿易商グループ(商人派)が真っ向から対立し裁判にまで至った事件です。現在のように法整備が整っていない地方行政のスタートラインだったこともあり、解釈と思惑が入り乱れ横浜を真っ二つに割りました。

 裁判結果は「共有物のすべては横浜市の財産である」となりますが そのままで収まらないのが世の常。

近代民主主義の試行錯誤期ともいえるでしょう。

この横浜政界に四分五裂の抗争がはじまります。一部はそのなごりを引きずり<戦後まで>続いていきます。
なので ここでは「地主派」と「商人派」の闘争史はパスします。
シンプルに初代横浜市長の紹介だけにし、闘争史は別途じっくり行きます!
初代市長に推薦された3名は
茂木保平(商人派)
平沼専蔵(商人派)
増田 知(地主派)
ここで増田知は市会の本命ではありませんでした。

ところが、県知事、内務大臣の裁可の時点で地主派の「増田知」となります。
→この背景説明が一筋縄ではいかない。
(日本初の辞任)

市会の主流ではない初代横浜市長が就任したため、議会は紛糾、
就任して8ヶ月後
1890年(明治23年)2月15日には辞任するという事態に陥ります。

(増田知)
歴代市長の中で最も在任期間が短く、しかも日本で初めて辞職した市長が増田知です。

増田知のプロフィールを紹介しておきましょう。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/document/picture/12_05.html
天保14年9月 下野国都賀郡壬生藩(栃木)士族の子として生まれます。
幕末の壬生藩は新政府側か徳川側か藩内は二分して大混乱の末、新政府側になるという事態の中、優秀だった増田は明治4年の廃藩置県まで権大参事(副知事)を担当します。
その後名古屋県、白川県、熊本県、神奈川県、群馬県、内務省と地方官僚を歴任します。
1886年(明治19年9月)に神奈川県役人から横浜区長と橘樹郡長を兼務します。
初の横浜議会の推薦を受けます。※ただし 上記の通り本命ではありませんでした。
1889年(明治22年)6月18日に初代横浜市長となり
1890年(明治23年)2月15日に議会混乱を受け辞任。
その後
富山県参事官、内務省、伏木測候所所長、南多摩郡役所郡長を歴任し明治44年3月6日に亡くなります。
生涯 地方官僚として生きた人物です。
市会多数派の意向と異なった派閥の初代市長は辞任に追い込まれます。
その後の歴代市長は、このような食い違いは起こらず、市会での決定が市長となるスタイルが戦後まで続きます。ただ、時を経るに従って中央とのパイプを重視する市長が推挙される<現実>を市会が学んでいったことも歴史の一断片といえるでしょう。

このような事態最近もある話です。

議会と首長 ねじれ自治体。そして一時期のねじれ国会といわれますが

<ねじれ>というと何かおかしい感じがします。
決しておかしい訳ではなくこれが民主主義ですよね。ねじれるから<一色>にしろ!というのは筋が違うのですが、政治主張になってしまう未熟な政治闘争ですね。
(過去の6月18日ブログ)
No.170 6月18日(月) 大荷物「リゾート21」の旅
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=438
1986年(昭和61年)6月18日(水)の今日、東急田園都市線開通20周年記念イベントの一貫として「リゾート21」が横浜市内を走りました。

横浜オリジナル<ミリオンダラー>

横浜グランドホテル支配人、ルイス・エッピンガーは二つの横浜カクテルを発案したことでその名を今に残している。
その名はバンブーミリオンダラー
標準的なレシピは
(バンブー)
ドライ・シェリー : ドライ・ベルモット = 2:1
オレンジ・ビターズ = 1dash
(ミリオンダラー)
ドライ・ジン:40ml
パイナップルジュース:15ml
スイート・ベルモット(ドライ・ベルモット):10ml
レモンジュース:10ml
グレナデン・シロップ:1tsp
卵白:1/2個
<スライスしたパイナップルを飾る>
※ベルモット:フレーバードワイン
イタリア発祥のスイート・ベルモット
フランス発祥のドライ・ベルモットとがある。

【レシピ2】
ビーフィータージン:45ml
チンザノベルモット ロッソ:15ml
パイナップルジュース:15ml
グレナデンシロップ:1tsp
卵白:1個分

バンブーに関しては、当時ニューヨークで大ヒットした「アドニス」をエッピンガーがアレンジした<姉妹カクテル>だ。adonispgm このバンブー誕生に関しては推論だけ簡単に記しておく。
カクテルうんちく界では 日本らしさを表すために<バンブー=竹>としたとある。
私は<竹>そのものの話題性に着目した。
同時期 <発明王エジソンが電球フィラメントに日本の竹を短期間だが使用した>背景があるからではないか?
と推理している。
また竹の物語とアドニスの物語にも一捻りありそうだとも考えている。

さて本日の主題、ミリオンダラー
ルイス・エッピンガーはミリオンダラーレシピをどのような背景でイメージしたのか?
ジンとベルモットが基本になっているので<マティーニ>のアレンジカクテルと言っても良いかもしれない。
ミリオンダラー最大の特徴は パイナップル及びパイナップルジュースだ。
このパイナップルはアメリカの誕生期に重要な意味を持っていたフルーツである。
「植民地時代のアメリカではパイナップルはとても珍しい果物だったため、特別なお客様のいるテーブルに置くのは最上級のおもてなし」というエピソードも残っている。このスタイルはその後のゴールドラッシュに酔った49年組(フォーティナイナーズ)によって開拓された<西海岸>のホテルでもおもてなしのシンボルとしてパイナップルが使われたに違いない!この時エッピンガーは18歳だった。彼がどのような仕事に就いていたかどうか不明だが、ドイツ系アメリカ人だった彼らの多くは<金鉱探し>のバックヤードで雑貨商や食品、酒の販売を営んだ。ドイツ系移民の一人リーバイ・ストラウスが金鉱で働く人々の愚痴話からあの<ブルージーンズ>を商品化したことは有名だ。
贅沢=成功の象徴だったパイナップルはコロンブスがアメリカ大陸から持ち帰り、めずらしさと栽培の難しさから当時「王の果実」とも言われた。パイナップルに<ミリオンダラー>一攫千金の夢をエッピンガーは重ね合わせたのかもしれない。

「原産地はブラジル、パラナ川とパラグアイ川の流域地方であり、この地でトゥピ語族のグアラニー語を用いる先住民により、果物として栽培化されたものである。15世紀末、ヨーロッパ人が新大陸へ到達した時は、既に新世界の各地に伝播、栽培されていた。 クリストファー・コロンブスの第2次探検隊が1493年11月4日、西インド諸島のグアドループ島で発見してからは急速に他の大陸に伝わった。 1513年には早くもスペインにもたらされ、次いで当時発見されたインド航路に乗り、たちまちアフリカ、アジアの熱帯地方へ伝わった。当時海外の布教に力を注いでいたイエズス会の修道士たちは、この新しい果物を、時のインド皇帝アクバルへの貢物として贈ったと伝えられる。 次いでフィリピンへは1558年、ジャワでは1599年に伝わり広く普及して行った。そして1605年にはマカオに伝わり、福建を経て、1650年ごろ台湾に導入された。日本には1830年東京の小笠原諸島・父島に初めて植えられたが、1845年にオランダ船が長崎へもたらした記録もある。(whikipwdia)」

ここからも判るように、20世紀初頭には東南アジアと交易が盛んになっていた日本でもパイナップルを入手できたようだ。
インド洋から東南アジアの海洋覇権を握っていた英国と、太平洋の覇権を握ろうとしていた米国の衝点となっていた日本=横浜には多くの一攫千金の夢を持った商人が集まってきていたのだろう。
1889年(明治22年)に新生会社組織に生まれ変わったヨコハマグランド・ホテルのスタッフとして着任したルイス・エッピンガーはこの時すでに58歳だった。(支配人に就任したのは60歳)
この年、英国人技師パーマーによる築港計画が着工する。この時の神奈川県横浜築港担当が30代の若き三橋信方(後の横浜市長)だった。
新しい国際港の時代到来に備え、グランドホテルは海軍省の招きで来日していたフランス人建築家サルダに新館(別館)設計を依頼する。これによってヨコハマグランド・ホテルは客室は100を超え、300人収容の食堂、ビリヤード室、バーが整備された。lightimg147THE GRAND HOTELlightグランドホテルダイニング light絵葉書グランドホテルサービス 恐らく新館竣工期にオリジナルカクテル「バンブー」「ミリオンダラー」のどちらかまたは両方がお披露目されたのではないだろうか。
この時期、京都岩清水で採取されエジソンの白熱電球に採用された日本の竹は1894年(明治27年)まで輸出されていたので、<バンブー>が当時の話題に上がっていたに違いない。
また1894年(明治27年)に完成した「鉄桟橋」を含めた横浜築港財源が米国より返還された賠償金であったことも、狭い居留地では大きな話題となっていただろう。アメリカ人エッピンガーにとっても誇りに思っていた出来事だったに違いない。
日露戦争が始まった翌年の1905年(明治38年)、
74歳になった彼は、ホテルマネジメントの最前線から退き、マネージング・ディレクターとなり後任の支配人H.E.マンワリング(Manwaring)を母国アメリカから招聘する。
1906年(明治39年)に新しい支配人が着任した後の1908年(明治41年)6月14日
ルイス・エッピンガーはその生涯を終え、外国人墓地に眠る。
このニュースはすぐさま彼の出身地サンフランシスコに伝えられ、新聞にも訃報が掲載された。77年の生涯、後半の約20年を日本で過ごしたことになる。lightスクリーンショット 2014-08-11 11.34.39 関東大震災で焼失するまで横浜のフラッグシップホテルだったヨコハマグランド・ホテル。そこに関わった二人の支配人ルイス・エッピンガーとH.E.マンワリングは共にサンフランシスコと深い関係にあった。
1871年(明治4年)に横浜港を旅だった岩倉使節団が最初に訪れた外国、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコで宿泊したホテルがミリオンダラーホテル「グランド・ホテル」であった。lightGrand_Hotel_725 オーナーはこの街で大富豪となったチャップマンこと「ウィリアム・チャップマン・ラルソン」というオハイオ州生まれのアメリカンドリームを実現させた男だった。岩倉使節団一行を自宅のゲストハウスに招いた様子が「米欧回覧実記(久米邦武)」にも記されている。
もしかするとミリオンダラーはサンフランシスコグランドホテルにあやかったものとも推理できる。このテーマは今後も追いかけて行きたい。

1月31日 朝吹英二

横浜に関係のある一人の人物を紹介します。
1918年(大正7年)の今日、実業家の朝吹英二が71歳の生涯を終えました。
「朝吹 英二(あさぶき えいじ、嘉永2年2月18日(1849年3月12日)〜大正7年(1918年)1月31日)は、日本の実業家。幼名は萬吉、鐵之助。」(wikipedia)
このwikipediaでは彼の紹介に「横浜」の項目はありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/朝吹英二
彼は幕末に生まれ、明治・大正期に実業家として活躍します。
若い頃のエピソードとしては、尊皇攘夷思想だった朝吹は同郷の開明派「福沢諭吉」を暗殺しようと企てますが失敗しこれをキッカケに慶應義塾に学び、福沢の元で働くようになったそうです。実業家として頭角を現し三菱商会から三井に転じ、「三井の四天王」の一人と呼ばれるほど<三井>の重鎮として活躍します。
1880年(明治13年)7月20日から業務を開始した「貿易商会」横浜支店の責任者として朝吹英二は横浜を舞台に活動します。
この「貿易商会」は、社長が丸善の創業者である早矢仕有的で朝吹は役員として横浜支店を任されます。「貿易商会」は本店を東京に置き、横浜の本町四丁目に支店を開設します。取り扱った業務内容は生糸の輸出・茶・煙草・雑貨・米などの輸出と鉱物・皮革類・魚類等の輸入等でした。
「貿易商会」にとって「横浜支店」は特別な存在でした。
資本金二十万円の内、十五万円が「横浜支店」の事業資金として振り分けられ、主に<生糸の輸出>を専門とし支配人として朝吹英二が着任しました。
いわば特別プロジェクトの性格を帯びた「横浜支店」でした。
この「横浜支店」設立の背景は、単にビジネスチャンスというだけではなく、当時の横浜を舞台に行われていた貿易の<問題>がありました。

日本は開港後欧米列強と結んだ不平等交易条約(修好通商条約)の影響で、貿易を管理・統制することがほとんど不可能な状態にありました。
明治初期の貿易は殆ど外国(欧米)の商社が独占していました。
1867年(明治10年)の輸出額の94%、輸入額の95%を外国商社が独占。
しかも、居留地の外国商館は<悪辣な手段>を使い、差別的で一方的な交易で暴利を上げていました。特に横浜を舞台にした生糸交易は取扱額も大きく日本経済の要でもあったため<フェアトレード>は日本経済界・政府の重要な課題でした。
「貿易商会」横浜支店設立には、貿易のバランスを回復する(自主貿易の確立する)ことも大きな目的でした。「貿易商会」の設立趣意書の一部を商会します。
「我国人ハ在港ノ外人二依頼シテ貿易ノ事ヲ行ヒ既二幾分ノ国損ヲ致シ、又其物品ノ代価ヲ受授スルニ当テ為替ノ事ヲモ彼ノ「パンク」二任スルガ故二、輸出入ノ景況二従テ為替ノ相庭(相場)ヲ昂低スルモ、全ク彼レノ意中二存シテ、内国ノ商人ハ恰モ其制御ヲ仰キ、昂低共二常二彼レニ便利ニシテ、我二不便利ナラザルハナシ、金権ノ主客、処ヲ異二スルモノト云う可シ」

結果は残念ながら 1876年(明治19年)倒産、失敗に終わります。
朝吹英二は生糸直輸出事業の大損失を一身に背負って日本一の借金王と呼ばれたりしました。「貿易商会」に限らず、多くの日本企業が不平等交易に立ち向かい、粘りつよく条約改正に至るまで要求と実践を繰り返していきます。
明治以降、日本の急速な経済発展と表現されますが外国商社との条件闘争と試行錯誤を繰り返していきます。

横浜で大失敗した朝吹英二は、その責任をとって放浪生活に入ります。
そんな朝吹英二がある時、かつての知り合いだった第3代日本銀行総裁 川田小一郎を訪ねます。川田は朝吹に自分の給料袋をそのまま渡し、再起を支援。
これがキッカケとなって朝吹は経済界に復帰、当時危機に瀕していた鐘淵紡績の立て直しに貢献します。
その後、三井財閥の基盤確立に尽力するとともに日本経済界の重鎮として多くの足跡を残します。
「生涯
豊前国(現在の大分県)中津藩宮園村(現在の大分県中津市耶馬溪町大字宮園)の大庄屋の跡取として生まれた。
日田の咸宜園や中津の渡邊塾・白石塾に学ぶ。尊皇攘夷思想に染まり、維新後の明治3年(1870年)、開明派の福澤諭吉暗殺を企てるが、転向し福澤とその甥 中上川彦次郎の庇護を受け、彦次郎の妹と結婚する。慶應義塾に学び、明治11年(1878年)、三菱商会に入社。明治13年(1880年)、貿易商会に入って取締役となる。
また、大隈重信に近い政商となり、三井財閥に転じて、明治25年(1892年)に鐘ヶ淵紡績専務、明治27年(1894年)に三井工業部専務理事に就任。明治34年(1901年)、中上川が死去すると、益田孝により中上川の工業化路線は一旦は止まったが、それでも明治35年(1902年)に三井管理部専務理事に就任し、王子製紙会社では役員を務めて会長となり、また、芝浦製作所、堺セルロイドなど王子と共に業績不振とされたこれら企業の建て直しを担当することとなった。このように三井系諸会社の重職を歴任し、「三井の四天王」の一人と言われた。
中上川の後任の最有力候補であり、かつ慶應閥の筆頭とも目されていた朝吹だったが、上述のように、後見の中上川の死去にともない、益田が三井財閥の実権の座を握ることとなり、明治40年(1907年)には、益田が引退に際して團琢磨を推挙したため、退任を余儀なくされることとなった。
江戸時代において悪人とされていた石田三成の顕彰事業にも熱心で、歴史学者渡辺世祐に委嘱して『稿本石田三成』を書かせ、その墳墓発掘にも力を尽くした。」

(関連ブログ)
No.31 1月31日 さよなら路線廃止に沢山のファン

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No.704 《横浜本》「幕末日本探訪記」

横浜に関係する書籍から外国人が記録した“ある日の横浜を知る一冊”を紹介しましょう。
タイトルは「幕末日本探訪記」
light_201501060026この本は世界的プラントハンター ロバート・フォーチュン(Robert Fortune)の日本探訪記の訳本です。彼は、1812年9月16日(文化9年)スコットランドに生まれ、エディンバラ王立植物園で園芸を修めた後、ロンドン園芸協会で温室を担当していました。比較的貧しい家に育った彼にとって、ロンドン園芸協会の職はかなり恵まれたものでしたが、彼の非凡な才能は30歳を過ぎて大きく開花します。
1840年代、フォーチュンが30代の頃、英国の富裕層は限りなき欲望の果てに新しいお茶の贅
を求めていました。“新種のお茶”であれば貴族たちは目の色を変え欲しがる贅沢品となっていました。当時、英国から独立したばかりの“アメリカ”でもお茶の人気は高まるばかり、このお茶ブームが後に開国する日本(横浜)を左右する貿易品となります。
<新しいお茶がほしい!>
大英帝国の東アジア貿易を担っていた「東インド会社」からフォーチュンは中国の<お茶の木>ハントを依頼されます。輸入しないで自国生産するためでした。
背景にはアヘン戦争(1840年〜1842年)があります。この忌まわしき戦争の要因は、大英帝国による茶、陶磁器、絹等の輸入超過解消でした。欲しいものを入手する代わりに<インド産麻薬>を中国に売ることで帳尻を合わせようとしたのです。→三角貿易
アヘン戦争終結後の<南京条約>によって無理やりこじ開けられた中国は外国人(英国人)の国国内往来が自由になります。これをきっかけに彼は中国に派遣されることになります。お茶を輸入するより自国の植民地で作るためのプラントハントでした。
中国に派遣されたロバート・フォーチュンは<郷に従う>優れた才能がありました。中国語を素早く習得し、中国人の服装で茶の産地をくまなく調査し多くの品種を(プラントハント)採取しインドに移植するというミッションを見事にこなします。
中国からインドに移植された<お茶>で現在も世界のお茶市場で人気ブランドとなっているのがダージリンです。このダージリンの登場で中国茶の人気が急落し、お茶市場は中国からインドに移ります。
<新しい花を求めて>
お茶だけではなく珍しい花、新しい花の品種も欧州市場で人気でした。菊、蘭、ユリなど東洋を代表する観賞植物を英国にもたらしたのもフォーチュンでした。
Fortune’s Double Yellowというバラの品種をご存知ですか?
この品種は彼が発見したものです。
http://www.paulbardenroses.com/teas/fortunes.html
http://www.helpmefind.com/rose/l.php?l=2.2808
またFortunella japonica、和名をキンカン。
Fortunellaはプラントハンター「フォーチュン」がこの品種をヨーロッパに紹介したことで献名されました。
<開国とともに>
前置きが長くなりましたが、
世界的プラントハンター ロバート・フォーチュン(Robert Fortune)は、
1860年10月(万延元年)開国した日本を二度訪れています。このときの記録が「江戸と北京ー幕末日本探訪記」(A Narrative of a Journey to the Capitals of Japan and China)として発刊されます。当時、開港(開国)から明治初期には多くの外国人が訪日し<日本滞在記>を著していますが「江戸と北京ー幕末日本探訪記」は、プラントハンターという職業柄かなり異なった視点で<日本>を見つめている点が興味深いところです。

関連ブログ
No.470 パーセプションギャップを読む

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No.402 JIMAE TABI

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(日中比較)
この本はタイトル通り、「江戸と北京ー幕末日本探訪記」(A Narrative of a Journey to the Capitals of Japan and China)日本と中国を訪れた記録の全訳ですが“中国滞在記”の占める割合は少なく主に日本訪問記となっています。
フォーチュンは、日本を訪問する前の1840年代から50年代に中国を長期間中国に滞在していました。ちょうど列強が中国を舞台に植民地化を進めていた時期です。
フォーチュンにとっても外国との交易のなかった未知の国日本には特に別の感情が働いていたのかもしれませんが、この本の中では中国は簡潔に、日本は驚き“発見”のニュアンスが感じられます。

(フォーチュンの横浜)
簡単にフォーチュンの横浜記の一部を紹介しましょう。
フォーチュンは長崎に上陸した後、数日を過ごし「風光明媚の長崎に別れを告げて」「江戸に近い神奈川港に出発」します。
江戸湾を目指した多くの外国人が<富士山>に出会いこの美しさに様々な形容を残していますがフォーチュンは意外とさっぱりした「内陸50〜60マイルの地点にそびえ立つ富士山は、日本人にとって、無二の崇高な山である。山の北面は雲におおわれていたが、南側に鮮やかな緑の線が見えた」とそっけない表現でした。
フォーチュンの視点は、山よりも<森>にあり、森よりも<樹木>に向いていました。

■貿易港としての横浜
彼が横浜沖(神奈川沖)に到着したのは1860年10月30日(万延元年9月17日庚申丁未)です。彼は、日本政府と各国との攻防が修好通商貿易で明記された<神奈川湊>と開港場の<横浜>を往復しながら広く周辺地域にも足を伸ばします。
<横浜開港場>は開港直後に堀川が作られ出島のようになります。この出島を<囚人扱い>とする外国人も多かったようですが、彼は「われわれ外国人を攘夷党の危害から守ってくれる、何物にも勝る適切な計らいだったと言える。」と評価しています。
また神奈川湊ではなく横浜となった開港も
「もし神奈川に決定されたとなると、この海岸は港として不適切なので、天候の状態によって、船はしばしばはるか沖合に停泊しなければならないだろう、というのである。そこで概括すると、横浜は彼らの貿易に適した場所ということができる。言うまでもなく、彼らは日本に商売をするために来たのだから。」と現実的な評価を下しています。
開港後1年余しか時間が経っていない時点で、横浜開港場の位置づけを科学者(植物学者)の視点で冷静に分析しています。実際一時的にせよ“外国人商人”は開港場に居を構え、建前にこだわる“各国政府関係者”は神奈川宿と江戸に拠点を置いて活動していました。

1860年10月30日(万延元年9月17日)フォーチュン日本到着。
1861年7月5日(文久元年5月28日)第一次東禅寺事件<イギリス公使館襲撃>
1862年6月26日(文久2年5月29日)第二次東禅寺事件<イギリス公使館襲撃>
1862年9月14日(文久2年8月21日)生麦事件<イギリス人殺傷>
これら外国人殺傷事件が起こる前、日本滞在中のフォーチュンは「横浜」「神奈川」「江戸」「江戸近郊」「瀬戸内」「長崎」「湘南・鎌倉」と精力的に旅行し、プラントハントをしながらこの国を満喫します。
彼の記述から面白い事実も知ることが出来ました。
「開港場」から「神奈川」に移動する際、船を使っている記述がありました。当時重要な東海道都の連絡路であった<横浜道>を通行するだけではなかったことには少し驚きも感じました。
確かに、外交官たちは神奈川湊の寺に公館を設置していましたから、民間外国人の暮らす開港場と神奈川は移動が自由だったといっても不思議はないでしょう。

幕末明治期の外国人日本論には偏見も多く見られますが、フォーチュンの日本分析には「外国人襲撃事件」の起こる中でも冷静で的確な観察と分析が行われている点で興味ある一冊といえるでしょう。

「江戸と北京ー幕末日本探訪記」三宅馨 訳 講談社学術文庫

No.471 横浜・世田谷・彦根

私は特に“運命論者”ではありませんが、
巡り合わせの不思議さを感じることが時々あります。
今日はある偶然の一致を紹介しましょう。
2008年(平成20年)〜2010年(平成22年)横浜開港150年関連の仕事で彦根市に何度か出向くことになりました。

国宝 彦根城
ゆるキャラ人気のひこにゃん

それまで滋賀県長浜・大津は何度も訪れたことはありましたが、彦根は気になっていましたがスルーしました。
私は、東京都世田谷区世田谷に生まれました。
中学で引っ越すまで野毛町(これも因縁?)と上町に育ちました。
一時期過ごした世田谷の自宅近くは「ボロ市」で有名な通りがあり、玉電が走る下町風情の住宅地です。近くに「豪徳寺」という大きな寺があります。

この豪徳寺は「招き猫」で有名なところですが、その所以となった彦根井伊家の寺として有名です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/豪徳寺
寛永10年(1633年)近江彦根藩第2代藩主であった井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備したことから現在に至ります。
ここには、一部の彦根藩主の墓がありますが中でも第15代藩主だった井伊直弼の墓もあることで有名になりました。

井伊直弼の墓

自宅近くに掃部山公園があります。
掃部山は難読地名に入るでしょう。
「かもんやま」と読みます。
名前の由来は、井伊直弼(いいなおすけ)の官職名から来ています。

江戸時代には 様々な役職(官位)があり大名は○○守・頭(〜のかみ)と名乗りました。テレビドラマで有名な大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)は、町奉行として徳川吉宗の「享保の改革」を支援した大名で、越前=福井とは全く関係がありません。
井伊家は代々掃部頭(かもんのかみ)を名乗ったため、近江彦根藩の第15代藩主だった井伊直弼も“井伊掃部頭直弼”と名乗ります。幕末の徳川幕府の大老となった井伊直弼の公園がなぜ横浜市西区にあるのでしょうか?

彦根市に建つ井伊直弼像

この話は次回(No.472)で紹介します。

小さい頃遊んだ豪徳寺、平成の自宅近くにある掃部山公園
ともに井伊直弼つながりですが 自宅は引っ越し決めるときの理由には全く入っていませんでした。というよりまったく忘れ去られていた存在といったほうが正確でしょうか。
さらに一時期暮らした「世田谷区野毛」
現在の自宅近くにも「野毛」があり 縁とは不思議なものです。
→もう少し加えれば 現在の実家が茅ヶ崎で両親は福井県出身ですが、
 茅ヶ崎は「大岡越前守」の墓があるのです。
 父は引っ越してから知ったそうです。
しつこく、因縁はまだあります。
私の自宅近くに「日ノ出町」という街があり、京浜急行の駅近くには幕末期「陣屋」がありました。開港に際し関内の居留地警備のために幕府の命令で一時期福井藩が警備にあたっていました。ただ、この警備にあたっては一悶着ありました。

幕府は、横浜に居留地を開くにあたり警備を越前松平藩に命じますが、
このときの藩主“松平春嶽”は、命令をやんわりと拒否します。
これに激怒したのが 時の大老“井伊直弼”ですから 因縁ですね。
このことも含めて“安政の大獄”で春嶽は失脚、その後(しぶしぶ)越前松平藩は横浜警備に就くことになり、そこにスタッフとして赴任したのが岡倉 覚右衛門
岡倉天心の父親です。
歴史は史実の点と線を編むのが面白いところですね。

No.382 1月16日(水)横浜と福井

【番外編】富士山の美しさを世界に紹介した英国人

江戸末期、全国の諸大名以下多くの人々が“横濱”の動向に関心を抱いていました。幕府の手によって翻訳新聞・筆写新聞が制作され、また伝聞を記録に残し“国元”に伝えられました。
日本の近代ジャーナリズムの幕開けに大きな影響を及ぼします。
(この辺は 現在「メディア拠点横浜の興亡」としてまとめています)

この横浜発の外国情報は、多くの人々によって写本が作られ
「横濱新聞」「異国関係資料」として全国の要人に伝えられました。
この写しの中に幕末の外国人富士山登山の報告記録がありましたので【番外編】で紹介しましょう。

古文書初心者なので正確な訳はできませんが
英人冨士登山と題し 浅間神社の大宮司冨士亦八郎が
万延元(年)庚申8月2日に寺社奉行の松平伯耆の守に届け出た英国人の富士登山の行程についての書面の写しです。
これは
日本発の富士登山を行ったオールコック一行についての記事です。
No.158 6月6日(水) 休暇をとって日本支援!

簡単に紹介しましょう。
(富士登山) 

船旅で相模湾に入る頃、多くの人が富士山の絶景に遭遇します。さらに東京(江戸)湾に入り、横浜港に向け舵を切ると 天候の良い日には真正面に富士山を眺めることができます。登山が日常のレジャーだった欧米人にとって
「富士山」はぜひ登ってみたい“そこにある山”でした。
ドイツ人旅行家ケンペルも富士山に登りたかったのですが、信仰の場でもある富士山には幕府の許可が下りませんでした。
開国後も幕府は外国人の居住は認めましたが、日本国内旅行の自由に関することに関しては、明治初期まで認めていませんでした。
オールコックは、外交官特権として特別に旅行の自由を持っている存在だとして、幕府に富士登山を認めるよう要求を続けます。
ようやく
オールコックは、富士登山計画に反対していた幕府を説き伏せ、
万延元年7月(1860年9月)富士山へ向けて出発することになります。
旅には、オールコックを初めとする英国公使館職員ら8名のイギリス人に加え、幕府から派遣された“外国奉行役人や荷物を運ぶ人馬”が100名近く随行するというものものしいものでした。
そのため、オールコックが当初希望した静かな旅とは逆に
大行列となってしまいます。
当初オールコックの目的は、富士山に登ってみたいという英国人(エリート)の“登山願望”に加え、日英修好通商条約(1857年締結)にある内地旅行権の確認や江戸を離れた地方を視察するという政治的目的もあったようです。
オールコック一行は東海道を通り、小田原から、箱根の山中を抜け、吉原宿で台風をやり過ごした後、静岡県三島市大宮町を経て村山の興法寺に入ります。
箱根越えの際

「スイスを旅行した者には、オーベルラントのある部分、特にローテルブリュンネンへの下り坂を思い出させる個所が多かった。マツの木がいっぱい生えている高い山やみずみずしい緑色の渓谷とか屈折しながら下の野原に流れてゆく渓流などがよく似ている。だがそれは、主要な特徴の面ではあまり雄大ではない。ここには永久的な氷河や雪のマントをかぶったむき出しの岩や高峰はない。」

 日本に辛口のオールコックにしては少し褒め言葉が見られます。
翌朝、村山を出発し「中宮八幡堂」まで馬を利用しここからは荷物を預け、金剛杖を手に徒歩での登山に切り替えます。
その日は六合目(現在の七合目)まで登り、翌日無事頂上に到達します。山頂では事前に準備していた測量機器で標高・気圧など測量し、英国旗を掲げシャンパンで乾杯し登頂を祝ったそうです。
その後、「一ノ木戸」(標高2,160m付近)まで一気に下山し、
同所に一泊した後に村山を経て大宮町に戻ります。
一行が通過する東海道筋では、オールコックの富士登山が大変注目を集め、見物制止命令が出されるほどでした。

日本で最初に富士山登頂を実現し彼の記録から外国に富士山の存在が多く知られることにまります。
最初の登山者は英国公使オールコックですが、
アメリカ公使ハリスの通訳だったアムステルダム生まれのオランダ人ヒュースケン(1832年〜61年)もいち早く日記の中で富士山の美しさを記録しています。
残念ながらヒュースケンは、攘夷派の浪士に襲撃され命を落としてしまいます。