8月 27

No.240 8月27日(月)横浜で重い!場所

車歩分離とグリーンマトリックス?
聞き慣れないことばかもしれません。
“まちづくり”に欠かせないキーワードの一つです。
その実践事例が横浜市都筑区に位置する「港北ニュータウン」です。
1974年(昭和49年)8月27日のこの日、建設省に提出されていた港北ニュータウン計画申請の事業認可が建設大臣から下り着工が始まりました。
計画発表から約10年目のことでした。E3-82-B9-E3-82-AF-E3-83-AA-E3-83-BC-E3-83-B3-E3-82-B7-E3-83-A7-E3-83-83-E3-83-88-2012-08-27-3.34.31(港北ニュータウン)
現在、都筑区内の丘陵地に広がる港北ニュータウンは、
市の中心部から北北西約12km、都心から南西25kmに位置します。

計画地の広さは約2,530haあり、1965年(昭和40年)2月25日に六大事業の一つとして発表されました。
No.58 2月27日(月)政治家が辞めるとき
元々、農地と林野に多数の地権者がおり、ニュータウンに必要な区画整理事業は成功しないだろうと予測する声も多かった計画でした。

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しかも手間と時間はかかるが住民側の意向を活かした「申出換地」という当時としては新しい手法で区画整理が実施されることになりました。
地権者と住民が参加する街づくりは、当時としては画期的な推進方法といえるでしょう。

東急の五島慶太も夢見た事業です。
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢

港北ニュータウンの特徴は「車歩分離」の徹底といえます。

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住宅地と車道の分離により歩行ゾーンを確保し開放感のある生活空間を実現しました。
中でも「グリーンマトリックスシステム」の採用で、既存の緑と公園緑地・緑地・せせらぎなどの緑を有効に“繋ぐ”連続的な緑地帯を確保(オープンスペース計画)し、さらに歴史的な遺産やもともとある水系なども、地区全体の空間構成に活かす街づくりの考え方です。

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この軸となっている緑道は、ニュータウン全体で五本、全長約14.5kmに及び日本一の長さを誇るといわれています。

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日本のニュータウン計画ってめちゃくちゃ多い
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本のニュータウン

中でも300haを超えるニュータウンは全国に約40数地区あります。その中で、港北ニュータウンは比較的後発の部類に入ります。
これが遅れた分過去の経験を踏まえた計画を多数取り入れていった結果、現在でも横浜市の人口増加、集中を一手に引き受けている人気住宅ゾーンです。

問題が無い訳ではありません。
他のニュータウン問題に比べ遅れて到来しつつある高齢化への対応、地域コミュニティ形成の難しさ、防犯、車歩分離の弊害等々、いろいろありますが市内では最も元気のあるエリアです。
港北ニュータウンの進化で
横浜市の人口重心調査の変化が起きています。

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横浜市の人口重心調査

※人口重心とは、人口の1人1人が同じ重さを持つと仮定して、その地域内の人口が、全体として平衡を保つことのできる点をいいます。経年的に地域の変化を評価する指針として活用することが出来ます。

例えば、今年の日本全体の人口重心は、311でおそらく大きく変化しています。
急激な変化は、社会にきしみをもたらします。
人は理由無く居住地を変えることは無いからです。
この先 横浜の 重心は どう変化していくのでしょうか?

1月 6

No.6 1月6日(金) 天然スケートリンク開場(修正、加筆)

2013年9月修正、加筆
1948年(昭和23年)のこの日、神奈川新聞に「大倉山天然スケート場開場」という記事が出ていました。
2012年冬、赤レンガ倉庫広場の「Art Rink × GROUND ANGEL in 横浜赤レンガ倉庫」も10年を迎え横浜の人気スポットとなりましたが、戦前から戦後にかけて人気の天然スケートリンクが大倉山にありました。

「大倉山天然スケート場」は1938年(昭和3年)に大曽根町(現大曽根台)の冨川善三さんが「氷場」の池をスケートリンクに変え営業を開始しました。氷を造るところを氷場(こおりば)といい、綱島、大倉山一帯は「氷場」が地場産業として盛んに造られます。
明治初期、横浜開港場では外国人が、ボストンや天津(てんしん)など外国からわざわざ氷を輸入していました。この状況を知った綱島の飯田広配(いいだひろとも)さんが外国人より製法を聞き、改良を加えて港北地域の特産品としたことが、この地域の「氷場」の始まりだそうです。
その副産物(ではありませんが)利用法としてスケート場が登場しました。スケート場は、天候に左右されましたが成功すると利益も莫大なものがありましたから、ハイリスクハイリターンの事業であったことは確かです。

この大倉山天然スケート場、
1935年(昭和10年)には、東急電鉄から千円という巨額の投資を受け、大少5つの池を300坪の大リンクに改装し一度に200人が滑走でき人気スポットとなったそうです。
リンクづくりは全て手作業で、厳寒の中激務だったそうですが製氷には電気を使用しなかったこともあり第二次世界大戦時も閉鎖されること無く、多くの市民の憩いの場としても利用されました。
オープン当初の滑走料金は1時間15銭でしたが
改装後の広告には
「都心から一番近い天然スケート場、リンク400坪、休憩室、更衣室の設備があり、1月上旬より2月下旬まで公開、入場料1時間25銭、貸スケート1時間20銭」(東急『沿線案内』)とあります。
当時の気象記録を見ると、昭和20年代に入ると一日の降雨量が増えています。
天然リンクには雨が一番大敵で雨が降ると営業に響きました。
オープンから約20年間、利用客促進のための東急の投資も功を奏しましたが
気象条件の悪化が主な原因で大倉山一帯のスケートリンクは昭和22年から25年頃に次々と幕を閉じることになります。
一方“天然氷づくり”は、スケートリンクより早く大正期までが最盛期で、昭和に入ると機械製氷に押され廃業していきます。
現在もその名残が残っているそうですが、実地確認はしていません。

スケートリンクと言えば、昭和40年代に箱根強羅の天然リンクにでかけた記憶があります。
スケートリンクといえが現在も現役で活躍する

「神奈川スケートリンク」が頑張っていますね。

神奈川スケートリンク
現在、日本で一番長寿営業のリンクです!」というキャッチフレーズが凄い!
2014年現在 改装のため休業中、代わりに
横浜市中区翁町2-9-10(旧 横浜総合高等学校 跡地)にリンクがオープンしています。
http://www.kanagawaskaterink.com/index.php

※老朽化のため建て替えられるそうです。工事期間中の営業は仮設リンクで対応し、来年12月には新スケート場が完成する予定です。