8月 28

1914年(大正3年)7月12日 京急富岡駅

1914年(大正3年)の今日
横浜貿易新報社選(神奈川県内の)「新避暑地十二勝」が発表されました。
横浜貿易新報社は神奈川新聞社の前身で、1890年に創刊された老舗新聞社です。横浜貿易新報社は、新聞紙上で読者の投票によって選ぶ県下の「発見開拓すべき」「新避暑地」12ヵ所の選定を企画します。
総得票数27,261票を集め1位に輝いたのは鎌倉市今泉にある今泉不動(称名寺)です。大正初期、神奈川県内の「発見開拓すべき」観光スポットに見事輝きます。避暑という条件もついていますので、<涼しさ>も優先されたのでしょう。
http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kids/jh/kjh_sa13.html
現在の横浜市域でも三ヶ所選ばれています。
2位:愛川村半原
現在も「発見開拓すべき」「新避暑地」に入るかも知れません。
3位:北足柄村平山
現在の南足柄市北部にあたります。
4位:大澤村神澤江岸
現在の相模原市緑区
5位:三崎町
現在の三浦市南西部
6位:金澤富岡海岸
7位:本牧三ノ谷
8位:龍口寺円遊地
現在の藤沢市片瀬あたり
9位:長井海岸
現在の横須賀市長井周辺
10位:茅ヶ崎海岸
茅ヶ崎市の海岸線のどのあたりかは?
11位:相模河畔田名
かつて大山道の宿場として栄え、明治期から昭和初期には「水郷田名」と呼ばれて歓楽街として賑わったそうです。
12位:磯子海岸

◆横浜市内の十二勝その1
(6位:金澤富岡海岸)

富岡付近
富岡付近

現在の横浜市金沢区富岡にあたります。
この「新避暑地十二勝」に選ばれた1914年(大正3年)当時はまだ、久良岐郡金沢村でした。
light富岡海荘図巻富岡海荘図巻(元はカラー)
富岡に別荘を持った三条実美が、明治22(1889)年に日本画家の荒木寛畝に描かせたものです。
横浜市に1936年(昭和11年)10月に編入され<磯子区>の一部となります。

<紹介文>
●復活せる富岡
避暑地の元祖/横電の延長近し
公園地の計画/魚欄に飛び上がる
横浜電車の八幡橋終点から乗合馬車に乗って30分も揺られて行くと金沢村富岡に達する。※1
富岡は東南に東京湾を抱き西北に丘陵を負ひ房総半島と相対してゐる。
海岸でありながら水のいいといふことは確かに此土地の誇のーであらう。
飲料水の如きは各戸に掘抜井を設け地下600尺以上の深所から噴出させるので非常に純潔な冷い水を得ることが出来る。※2
富岡は明治の初年頃には盛んに外国人が暑を避けに赴いた所で、我国海水浴の元祖は実に此の地を措いて他には無いのである。※3
然るに其後東海道に鉄道が敷設さるるやうになってからは避暑の客を大磯、鎌倉等に取られるので此地は漸漸忘れられて行ってしまったのである。
然るに土地の青年会員及び其他の有志は近く横浜電車線路の富岡へ延長さるるのを幸ひとし今次の当選を機として富岡海水浴の復活を思立ち一致協力して大に奔走し同所鎮守八幡宮の後丘なる八幡山の社地一町歩の荊棘(けいきょく)を拓いて公園となすべく目下盛に作業中である。
旅館には金波楼といふのがある。

11220935_1016008985109872_7851265712634385856_n海寶楼の広告

<若干解説>
紹介文には興味深い記述がいくつかあります。
※1「横浜電車の八幡橋終点」
「横浜電車(現在の横浜市電)」が八幡橋まで開通し順次海岸線を杉田方向に延伸する予定の時期にあたります。
ところが、「横浜電車」は延伸することが出来ず、途中杉田まで延伸されたのが昭和2年、「横浜市電」となった後しばらくかかりました。
その先の延伸予定もありましたが、市電の代わりに湘南電気鉄道(現在の京浜急行)が昭和5年に開通し、夏季のみ海水浴客専用仮駅が開設、翌年の昭和6年7月10日に正式な駅に昇格します。当時の駅名は「湘南富岡駅」で、戦後「京浜富岡駅」→「京急富岡駅」となり現在に至ります。
昭和5年に開設された「湘南富岡駅」は当初<木造の無人駅>だったそうです。まだ、鉄道のない頃、東京 牛込 若松町にいた、日本画家<川合玉堂>が別荘を構えその屋敷が残っていましたが、2013年(平成25年)漏電火災により焼失しました。
現在敷地内は一部一般公開されています。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kanazawa/kusei/kikaku/gyokudo/
富岡近辺は川合玉堂が別邸としていた他、伊藤博文、三条実美、直木三十五など多くの人に愛されました。
No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=378
No.451 芸術は短く貧乏は長し
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=108
No.230 8月17日 (金)孫文上陸(加筆修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=377

※2「海岸でありながら水のいいといふこと」
リゾート地として<おいしい水>が出ることは重要です。
※3
「富岡は明治の初年頃には盛んに外国人が暑を避けに赴いた所で、我国海水浴の元祖は実に此の地を措いて他には無いのである。」
この地にはヘボンが訪れ、海水浴場として推薦しています。このことから<我国海水浴の元祖>と呼ばれていました。富岡神社脇に記念碑が建っています。
現在はわが国初!海水浴場として全国何ヶ所かが<元祖>を表明しています。残念ながら富岡はそれ以降ということで<元祖>競争からは外れています。

(過去の7月12日ブログ)
No.194 7月12日(木)ソシアルビジネスの鏡
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=413
一行の出会いでした。膨大な年表に朝田又七という名を見かけました。

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2月 5

【横浜雑学録】昭和21年地形図の謎(改訂版プラス)

2019年正月、加筆修正しました。
ブログ作成をきっかけに<横浜関係の資料>を収集するようになりました。
主な歴史資料としては古書・絵葉書そして地図です。その中で、現在手元に横浜エリアの地形図が何枚かあります。
改めて 整理してみると些細なことですが 気がついたことがありますので紹介しておきます

(地形図5万分1 昭和21年発行「横濱」)
昭和21年発行の5万分1
図域名:「横濱」を複数枚入手しました。
一見して全て同じ地形図ですがよくよく見ると 中に表記の異なるものがあるからです。
昭和21年、日本は敗戦後の占領体制の時代です。特に横浜はGHQの重要施設があったこともあり、変化の真っ只中にありました。
この年に発行された地形図、
「発行年月」はまったく同じで<発行日>と<価格>、<内容>が微妙に異なるものが見つかりました。
「国土地理院」のデータによると
5万分1図名:「横浜よこはま」の昭和21年版については下記の情報があります。国土地理院「横浜」一覧リストでは
※昭和7年測量二修正版が昭和21年8月31日に発行。
ところが現物では「昭和7年測量二修正版昭和21年発行」でありながら
内容の異なるものが5種類もありました。

3円50銭
内務省地理調査所3円50銭
8月30日10円
地理調査所8月30日発行10円
8月30日15円
地理調査所8月30日15円

大きくは8月30日地理調査所発行のものと8月31日内務省地理調査所発行のものに分かれます。
さらに異なった価格設定が行われています。
◎その1

昭和21年8月30日発行 「地理調査所」版 定価10円と15円
◎その2
昭和21年8月31日発行 「内務省地理調査所」版 定価2円と3円50銭
◎その3
昭和21年8月31日発行 「地理調査所」版 3円50銭
地図右肩にある区分指定や凡例にも違いがあるようなので比較してみました。

<発行所>
発行所は
「内務省地理調査所」「地理調査所」の二種類
「内務省地理調査所」は終戦2週間後の
1945年(昭和20年)9月1日付けで文民組織である内務省地理調査所が新たに発足し、
1948年(昭和23年)1月1日に建設院(建設省)地理調査所となり
1960年(昭和35年)7月1日に国土地理院となります。
<発行日>
発行の月日は 8月30日と8月31日の二種類あります。冒頭でも紹介したように
国土地理院データでは昭和7年測量二修正版昭和21年8月31日発行のみとなっています。
<頒布価格>
定価2円・3円50銭・10円・15円
改訂版が発行された昭和26年版までの5年間に組織や経済環境が急激に変化していることがこのデータからも読み取ることができます。
物価推移から調べてみると
昭和21年から昭和26年までの間に
(山手線初乗り)
20銭→50銭→3円→5円→10円
(鉛筆1本)
50銭→2円→5円→10円
(白米<農政米>価格)
36円→150円→357円→405円→445円→620円
1946年(昭和21年)2月に新円切替が行われました。
右肩境界確定 右肩境界未確定<区分>
神奈川県武蔵国・相模国
鶴見区・神奈川区の境界未定
地図本体の中身に違い! は?
鶴見区と神奈川区は1927年(昭和2年)10月1日に区制施行により横浜市に編入されますが、昭和期に急速に拡大した埋立て地の境界が未確定の時期の原図を使ったものだと推測できます。境界

この地図の元となったのが
<昭和7年測量二修正版>とあります。
以降発行された
昭和21年まで戦争直前から戦中を経て、戦後最初の発行となったものが今回謎多き地形図です。
この昭和21年版、内容は昭和7年時点のままの部分が多数あります。細部まで確認していませんが、顕著な例は鉄道路線の延伸時期です。
神中鉄道神中鉄道が横浜駅まで乗り入れていませんので1933年(昭和8年)以前、
湘南電気鉄道と京浜電気鉄道の<連結前>の図であることも昭和初期の時点ということが推測できます。

東京急行東横線
東京急行東横線
西区・中区 分区
西区・中区
東京横浜電鉄
東京横浜電鉄
湘南電気鉄道
湘南電気鉄道
京浜急行 南区
京浜急行 南区

 その他は?
根気強くエリアをチェックしますか    。

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9月 22

【閑話休題】私のお気に入り風景

横浜は広い!

とかく開港場にこのブログも偏りがちですが、横浜市域は面積437.4 平方キロメートル、18の区があり370万人の人口を有する大都市です。
この世界最大級のCityの魅力はなんでしょうか?
最上段に振りかざし 議論するにはこのスペースでは少なすぎますが、ポイントだけ指摘しておきましょう。
lig_P603昇竜橋0224
良く比較される神戸市と比べるとどちらが広いと思いますか?
神戸市の面積は544.56平方キロメートルです。横浜市より少し広い街です。
横浜同様 市域を拡大させながら大きくなりました。
明治22年4月1日→21.28平方キロメートル
明治29年4月1日→37.02平方キロメートル
大正9年4月1日→63.58平方キロメートル
昭和4年4月1日→83.06平方キロメートル
昭和16年7月1日→115.05平方キロメートル
昭和22年3月1日→390.50平方キロメートル
昭和25年4月1日→404.66平方キロメートル
昭和25年10月10日→420.64平方キロメートル
昭和26年7月1日→479.88平方キロメートル
昭和30年10月15日→492.60平方キロメートル
昭和33年2月1日→529.58平方キロメートル
平成4年1月1日→544.56平方キロメートル
一方、横浜市も
何回かの市域拡大を重ねて現在に至っています。
【番外編】市域拡大は元気なうちに!? 
No.141 5月20日 もしかしたら菊名区?

横浜の魅力は この437.4 平方キロメートルのエリアに都市の要素が多彩に凝縮されている点にあると思います。
軸は開港場にありますが、多彩な都市生活がこの街を重層的に形作っています。
俗な表現をすれば、
歴史も農業も漁業も重工業から最先端技術まで、
そして未来都市まで、
ほどほどの距離感のなかに繋がっている。
悪く言えば「箱庭的」「総花的」な街ともいえるかもしれません。
また、見事なまでの尾根筋が織りなす“谷戸”の街、この起伏が横浜の風景の原点でしょう。丘と坂が連なる分水嶺を歩くと“丘の横浜”が見えます。
この街の普通の風景を今日は幾つか紹介します。
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9月 22

【閑話休題】横浜の風景、ここはどこでしょう?

今日は、場所当てクイズです。
かなり解りにくい風景です。でもヒントはちゃんと隠れていますよ。
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写真No.1<ノーヒントです。気がつくとかなり目立ってます>
lig_霧のMM4
写真No.2<ノーヒントです。どこかというより、何か見えないものありませんか?>
lig_ここはどこだ90121
写真No.3<京急のある駅です>
lig_ここはどこだ70077
写真No.4<バードウォッチング用の覗き穴です>
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写真No.5<最近デビューした古民家です>
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写真No.6<鉄系なら おわかりですね>
lig_ここはどこだ10538
写真No.7<ノーヒントです>
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写真No.8<これもノーヒントです。>
lig_ここはどこだ9516
写真No.9<ノーヒントです。>
lig_ここはどこだ4337
写真No.10<一瞬 ルーブル?ってわけないか>
lig_ここはどこだ3992
写真No.11<下流に向かって撮影しています>
lig_ここはどこだ2859
写真No.12<ノーヒントです。>
lig_ここはどこだ1907
写真No.13<ノーヒントです。>
lig_ここはどこだ1723
写真No.14<ちょっと解りにくいかもしれません。遠景に閉鎖されたシアターが見えます>
lig_ここはどこだ0806
写真No.15<右上の建物がヒントです>
lig_ここはどこだ693
写真No.16<画像に施設名が見えます。お気に入りの設計です>
lig_ここはどこだ677
写真No.17<この撮影場所はもう無くなってしまいましたがどの辺か?わかりますか>
lig_ここはどこだ602
写真No.18<花見の名所です>
lig_ここはどこだ0575
写真No.19<ノーヒントですが、かなりの繁華街です。>
lig_ここはどこだ161
写真No.20<ノーヒントです。>
lig_ここはどこだ0004
写真No.21<海岸に近い、元同潤会があったあたりの公園です>
lig_ここはどこだ06
写真No.22<ノーヒントです。>
lig_ここはどこだ0010
写真No.23<江戸時代に橋があった場所ですって>
lig_ここはどこだ30
写真No.24<ノーヒントです。駅まえです。>
(写真差し替え中)
写真No.25<タイルに特徴があります。県庁ではありません。公園です>
lig_ここはどこだ77
写真No.26<橋の無い親柱だけの風景>
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写真No.27<ここがわかったらかなりの橋マニア>
ligここどこ762
写真No.28<プレートがヒントです>
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11月 27

No.473 横浜市かねさわ区独立

地域のアイデンティティが戦後半世紀を過ぎるあたりから強く意識されはじめました。横浜の地域コミュニティ単位を歴史的に眺めてみると、
独立性の高い“地域愛”のあるゾーンが多いことに気がつきます。
まあ、横浜が“寄り合い所帯”的な市域拡大を遂げてきた自治単位なので、多彩多様性があるといえばありますが、開港場周辺と周辺隣接地域とは色合いの違いもあるようです。

(金沢区独立)
ちょっと刺激的な言葉ですが、歴史を知り地域を歩いてみると
あながち空想領域では無いなと感じる昨日今日です。
まずは妄想から。ある日、ニュースで

「横浜市南部に位置する「かなざわ区」が本日、市として独立する申立書を総務省に提出しました。「金沢(かなざわ)市」はすでに石川県に存在するので、古来「かねさわ」と呼ばれていた経緯もあり、市の名称は「神奈川県かねさわ市」と決定しました。当初、鎌倉市との合併も議論に上り、鎌倉の市民団体と「かねさわ市実現協議会」との話し合いももたれましたが、最終的に「かねさわ市」として独立することで住民の意思が一致しました。」「かねさわ市実現協議会」会長のKさんは横浜市金沢区は、1936年(昭和11年)横浜市に編入され、磯子区の一部となりましたが、中世以来武蔵国と相模国の国境で明治以降は神奈川県・六浦県・韮山県など県が入り乱れ地元のコミュニティに関係なく線が引かれていた経緯があります。(中略)六浦の皆さんには「かねさわ村」となった明治以来、「むつうら」は六浦としてしっかり残すべきだという思いもあり、今回の「かねさわ市」命名についても「金沢六浦市」「六浦市」といった意見も多く出ていました。富岡も古くから金沢文化圏でもあり議論も出ましたが「金沢区」がなんとか「かねさわ」にまとまってほっとしているところです。」

(断裂の思い)
金沢区エリアは、
中世には鎌倉幕府経済圏の中心地(湊)として栄え、
江戸時代は江戸湾の要衝地浦賀と東海道を結ぶ
「浦賀道」が通る静かな農・魚村でした。

幕末以降このエリアは(横須賀製鉄所の発展の影響など)
地形・帰属を含め烈しい変化が起こります。
まず明治初期の地形図をご覧ください。

明治の頃の地形図から現在の金沢エリアを想像することはかなり困難な作業になります。単に埋め立てされてきた地形ではないことが判ります。%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%83%e3%83%88-2016-10-25-7-27-04

その昔、野島は陸続きだったのです。

廃藩置県
韮山県を知っていますか?
駿河国、相模国、武蔵国、甲斐国内の幕府領・旗本領および伊豆国一円(伊豆諸島も含む)を管轄する広大な県でした。
金沢区地域は短い期間でしたが「韮山県」時代がありました。泥亀・町屋・洲崎・野島・芝の村域は幕末に江川太郎左衛門(韮山)の支配下となり明治初年そのまま「韮山県」となります。
一方、宿村・寺前・寺分・平分 他は六浦藩からそのまま六浦県となり、その後神奈川県に編入されます。

六浦プライドは江戸から現在まで静かに地域に根ざしています。
幕末から1878年(明治11年)久良岐郡にまとまりかけますが
磯子区に編入される1936年(昭和11年)まで
(明治22年)「六浦荘村」と「金沢村」の二つの地域は分かれることになります。
旧浦賀道を歩いていると、町の“頑固さ”に出会います。

この地域の歴史をひも解いてみると
鎌倉時代以来形成されてきた生活文化圏が
幕末から シャッフル状態になり 明治・大正・昭和を通して
開港場に翻弄され
地域開発に断裂してきた姿をかいま見ることができます。
ここにきて
「金沢八景 再開発」も始まりました。
 六浦の丘の上からの金沢風景もすてきです。

平潟湾を囲み、海と丘の町 かなざわは
景観を維持しつつ住まいやすさの追求が
どう地域の“プライド”につながるのか?
見守っていきたいエリアの一つです。

8月 26

No.465 三島と横浜、その縁を探る

2013年(平成25年)8月
猛暑日に縁あって三島市の中央部に源流を持ち
中心部を流れる「源兵衛川」下りを楽しみました。
静岡県東部に位置する三島市と約100Km離れた
横浜市のつながりを少し探ってみました。

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「源兵衛川」
三島駅前にある「楽寿園」小浜池を水源として、三島市中心部を抜け最下流に位置する「温水池」までの約1.5キロ続く清流です。

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住宅地、商業地の合間を縫うように流れる「源兵衛川」は、かつて“お金以外は全て捨てられていた”と言われた“どぶ川”の汚名を持つ川でした。この川に自生していた「梅花藻」も絶滅していました。

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開花する梅花藻

今から四半世紀前に多くの市民と専門家の手によって再生活動が始まり
現在は 多くの市民が「源兵衛川」の恵みを楽しむ市民憩いの清流となっています。

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今では「梅花藻」をはじめカワセミも観察できる大切な自然空間となっています。
http://www.kouenguide.com/search/water/genpei/
http://www2.tokai.or.jp/younet24310/repo9-1.html

(CFS)
Customer(顧客)
First(第一)
Store(店舗)
この言葉を社名に抱える株式会社CFSコーポレーションは、現在イオングループに属する年商1,000億円を越える中堅のドラッグストアチェーンです。
マツモトキヨシホールディングスの4,300億円には及びませんが、静岡・神奈川を中心に300店舗を展開しています。
私たちは
「ハックドラック」「ハックキミサワ」の名の方が有名になっています。

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CFS=HACは
横浜市港北区新横浜2-3-19に本部があり
三島市広小路町13-4に本店がある

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「横浜」と「三島」を繋ぐ企業です。
1923年(大正12年)7月
 石田初太郎が、個人営業の工業薬品等の小売店を横浜市南区横浜橋通商店街にて「イシダ」を創業します。
一方
1926年(大正15年)9月
 君澤安が、個人営業の薬局を静岡県三島市広小路町にて創業します。
 キミサワの名は、創業者の名であり、創業地の君澤郡の地名に由来します。
  近くには君澤山浄土宗蓮馨寺があります。

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(合併)
この「株式会社クスリのイシダ」と「株式会社キミサワ」が
1993年(平成5年)8月21日に合併、株式会社ハックキミサワに商号変更します。
その後、HACとなり
2003年(平成15年)8月21日に株式会社ハックキミサワから株式会社CFSコーポレーションに商号変更となりました。
近くにある「ハック」が横浜と三島を舞台に展開する企業だと知っていましたか?
イオングループ傘下に入るに至っては 紆余曲折ありましたが、ここでは触れません。

(いっずっぱこ)
三島駅から温泉地「修善寺」まで、
三島市民の足であり観光の重要な路線となっている
「伊豆箱根鉄道駿豆線」が走っています。

「伊豆箱根鉄道駿豆線」は
1893年(明治26年)9月30日豆相電気鉄道株式会社として創業された120年の歴史をもつ鉄道会社です。
一方、小田原駅と南足柄市の大雄山駅とを結ぶ大雄山線も同じ伊豆箱根鉄道の路線です。
「伊豆箱根鉄道駿豆線」は利用者からは「いずっぱこ」という愛称で呼ばれています。
はて?
この「伊豆箱根鉄道駿豆線」が横浜とどうつながる?
確かに修善寺と横浜を直結する「JR踊り子号」が2本走っています。
それだけではありません。
「伊豆箱根鉄道駿豆線」の歴史に横浜は重要な舞台となりました。
設立発起人
豆相電気鉄道株式会社設立の立役者となったのが
甲州商人“雨宮 敬次郎”でした。
雨宮 敬次郎(あまみやけいじろう)

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「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれ、波瀾万丈の商人人生を歩みましたが、投資家であると同時に全国の鉄道開業に参画していきます。
軽便鉄道の雨宮とも呼ばれました。
雨宮のビジネスの出発点は横浜でした。ワンマンでインフラビジネスに進出した点は政商“高島嘉右衛門”と共通点が多くありますが
分岐点は高島と同じ「鉄道事業」でした。

甲斐国山梨郡牛奥村に生まれた雨宮 敬次郎は地元で一財産築き
1870年(明治3年)から1872年(明治5年)頃に横浜でビジネスを始めますが
生糸相場・洋銀相場で大失敗しスッテンテンになります。
1876年(明治9年)から1877年(明治10年)
アメリカ、ヨーロッパを外遊し、鉄道、製鉄、水道等のインフラビジネスの重要性を感じます。
製粉事業に成功し現在の「日本製粉株式会社」の基盤を作ります。

※日本製粉株式会社
日清製粉に次いで日本国内シェア2位
横浜工場 横浜市神奈川区千若町2丁目1

軽井沢の開発事業でこの地に植林をし軽井沢の森林を作ったことはあまり知られていません。
(鉄道経営)
雨宮が関わった鉄道事業をざくっと紹介します。
●中央本線の前身となる甲武鉄道
●現在の西武国分寺線となった川越鉄道
●北海道炭礦鉄道の取締役
●大師電気鉄道の発起人→大師鉄道は
 現在の京浜急行です。
●東京市街鉄道の会長
●1905年(明治38年)には
 江ノ島電鉄社長に就任しました。
●横浜線にも関係があります。
No.69 3月9日 事業失敗鐵道、横浜線物語

てなちょっとこじつけっぽいネタでしたが
三島は素敵な街でした。

8月 18

No.464 昭和5年頃の横浜

よく歴史書や教科書では、時代区分をします。
横浜史を区分する際、
最大の分岐点が「開港場」ができる幕末期です。
開港から一世紀半の歴史で、
横浜は幾つもの試練の時期がありました。
横浜近代史の中で、今回は震災復興期の昭和初期に注目してみました。

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復興ビジョンが絵はがきになっています。

中でも昭和3年から5年頃の横浜の姿をざくっと追ってみます。
※詳細もいずれまとめて発表する機会があると思います。

(鉄道の時代)
横浜の鉄道網が充実したのが昭和期です。
神中鉄道、東横線、京浜電気鉄道、湘南電気鉄道
そして横浜市電がレール網を最も充実させた時代です。

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1926年(大正15年)
 東京横浜電鉄が丸子多摩川駅(現・多摩川駅)〜神奈川駅間を開業します。
 神中鉄道が星川駅(現上星川駅)〜厚木駅間を開業します。
 鶴見臨港鉄道が浜川崎駅 – 弁天橋駅間を開業します。
昭和に入り
1927年(昭和2年)
 神中鉄道が北程ヶ谷駅(現・星川駅)まで延伸します。
 市電浅間町車庫開設。
1928年(昭和3年)
 東横線が神奈川駅〜高島駅(後の高島町駅)間を開業します。
 ※神奈川駅が横浜駅として移転します。 
 鶴見臨港鉄道が浜川崎駅〜扇町駅間を開業します。
 市営バスが開業します。(生麦車庫・麦田車庫完成)
1929年(昭和4年)
 神中鉄道が北程ヶ谷駅(現・星川駅)から西横浜駅まで延伸します。
1930年(昭和5年)
 京浜電気鉄道が高輪駅〜横浜駅間を開業します。
 ※「京浜電気鉄道 横浜駅は、現在の臨海セミナー等予備校が並ぶあたりです)
 一方、
 湘南電気鉄道が黄金町駅〜浦賀駅間、金沢八景駅〜湘南逗子駅間で営業を開始します。
 鶴見臨港鉄道も全線電化し、鶴見仮停車場〜弁天橋駅間を延伸開業します。
1931年(昭和6年)
 神中鉄道が西横浜駅〜平沼橋駅間を開業し
 湘南電気鉄道も桜木町接続を目指し日ノ出町駅まで延伸しますが、
 京浜電気鉄道がゲージの違いを乗り越え
  日ノ出町駅まで延伸された湘南電気鉄道と接続します。
1933年(昭和8年)12月27日にようやく神中鉄道が横浜駅に乗り入れます。
◇市電の時代
ここでは詳細を掲示しませんが、昭和初期に市電網の大半が開業します。横浜市内のアクセス網が一気に整備されます。
ちょうどこの頃、横浜市は周辺町村を合併し市域も一気に拡大します。
1927年(昭和2年)第3次市域拡張

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 ■久良岐郡
 屏風浦村、大岡川村、日下村
 ■橘樹郡
 鶴見町、城郷村、大綱村、旭村、保土ケ谷町
 ■都筑郡西谷村を編入します。
 ※区制が施行され
  市域が5区に分けられます。
  横浜最初の5区が誕生します。
   ※鶴見区、神奈川区、中区、保土ケ谷区、磯子区
1936年(昭和11年)第4次市域拡張
1937年(昭和12年)第5次市域拡張
1939年(昭和14年)第6次市域拡張

(復興事業)
震災復興でインフラが整備されていくに伴い 民間のビル建設ラッシュが起ります。住宅政策では「同潤会アパート」が作られていきます。
 例えば 1930年(昭和5年)の建造物は
都南ビル(旧都南貯蓄銀行本店)(静岡中央銀行)
No.352 12月17日(月)市民の財布を守った都南
ジャパンエキスプレスビル
同潤会アパート 多数
No.376 1月10日(木)中島敦のいた街

横浜競馬場一等観覧席遺構
インペリアルビル
No11 1月11日(水) KAAT開場

綜通横浜ビル
横浜地方裁判所・簡易裁判所
No.50 2月19日 横浜地裁で注目の公判

ベーリックホール
No.167 6月15日(金) 自然、単純、直裁、正直、経済的

東(あずま)隧道
松屋横浜支店
No.30 1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
※氷川丸もこの年に横浜船渠株式会社で竣工しました。
1930年(昭和5年)は震災復興事業の一つ「公園整備計画」の「神奈川公園」と「神奈川会館」の開園式が行われた年です。
 No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶

(御大典記念)
昭和天皇の即位の礼・大嘗祭が1928年(昭和3年)11月6日に行われました。昭和天皇即位を祝い、全国で様々な形で祝賀が行われます。
その一環として記念碑、記念造営が行われます。横浜市内にも多くの御大典記念に関係する記念碑等が残されています。
■芝生浅間神社では、1928年(昭和3年)御大典記念事業として社殿が御造営されます。
■横浜市立市場小学校では1928年(昭和3年)御大典記念として校旗を作成します。
■伊勢山皇大神宮の太鼓場(?)は1928年(昭和3年)に御大典記念として建設されます。


(観艦式)
横浜港で昭和に入り集中的に「観艦式」が開催されます。
No.285 10月11日(木)武装セル芸術
日本の観艦式は明治元年に始まり戦前は18回実施されました。
第一回は大阪天保山沖で行われ、以降“横浜沖”が最も多く9回、次いで6回“神戸沖”で実施されました。
昭和期になり観艦式は6回、内4回が横浜沖で実施されます。

1927年(昭和2年)10月30日、横浜沖。
1928年(昭和3年)12月4日、横浜沖。
1930年(昭和5年)10月26日、神戸沖。
1933年(昭和8年)8月25日、横浜沖。
1936年(昭和11年)10月29日、神戸沖
1940年(昭和15年)10月11日、横浜沖。


(磯子八幡神社)
1930年(昭和5年)磯子八幡橋近くにある「八幡神社」にある御大典記念碑が建立されます。


御大典記念
正三位 勲二等 有吉忠一
この記念碑は、碑の上部に鉄の玉が飾られています。

文献や近所の方の話しでは
“昭和の代になり、5年6月には、御大典記念碑が建ちました”。
“漁師の人たちが奉納した大きなブイ(浮標)が石塔の上にのせられています”
「機雷の外側という話もあります」
ここに名が出ている有吉忠一氏はちょうどこの記念碑が作られる直前の1930年(昭和5年)4月11日に市長として貴族院議員に勅撰されます。
その祝いも兼ねたのでしょう。
裏側にはこの記念碑建立に関わった方々の名が掘られています。
禅馬鉄工所、當所 伊達鉄鋼所
おそらく この鉄球を作った所と推理すると
「機雷」ではなく「ブイ」が妥当なのではないでしょうか。
あくまで推論ですが
 観艦式には 数多くの「ブイ」が必要とされるので、その製造を地元の鉄工所が請け負い、その御礼も含めここに奉納したのではないでしょうか。

(この時代)
昭和初期の横浜は、震災から立ち上がりつつある中
昭和恐慌、急激な円安デフレのまっただ中にありました。
復興資金として借り受けた米国債の支払いに苦慮します。
こんな時に
1929年(昭和4年)8月19日
飛行船ツェッペリン伯爵号が 急遽計画を変更して
横浜上空に現れます。

かたくなに進路変更を拒んだ「ツェッペリン伯爵号」がなぜ?
横浜を上空から視察したのか?世界の(特に米国の)メディアを乗せたこの
飛行船の目的は 何だったのでしょう。
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命

7月 31

No.459 夏休み特集横浜鉄道ネタです?!

日本初の鉄道は横浜(現桜木町)から汐留(現品川)まで
全営業距離29.0kmから始まりました。
このブログで きちっと“はじめて鉄道”ネタ紹介していませんでした。
今日は 横浜はじめて鉄道ネタをちょっと紹介します。

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■初めての鉄道!開業日は6月?10月?
「鉄道記念日」は10月14日
1872年10月14日(明治5年9月12日)新橋駅〜横浜駅間開通
に因んでいます。
ところが
実際に開業したのは 4ヶ月前の
1872年6月12日(水)(旧暦明治5年5月7日)です。
仮運転???でも無かったのですが 記念日を開業日にしなかった
珍しい例の一つかもしれません。
このへんの事情は少し下記で紹介!
No.164 6月12日(火) JR JR

開業早々に“駅売り”を始めたのは スコットランド人のジョン・レディ・ブラックだそうです。

■開業時の運賃は?
上等が1円12銭5厘
中等が75銭
下等が37銭5厘でした。
※下等運賃の37銭5厘は当時の米1斗(約15kg)と同じ金額(鉄道歴史展示室資料)
(Wiki)では「下等運賃でも米が5升半(約10kg)買えるほど高額なものであった」とありますから少し異なります。
(朝日新聞資料では)明治5年白米10kgで36銭とあります。
まあ高額であることは間違いありません。
※開業前に値下げ!
1872年4月12日(明治5年3月5日)開業2ヶ月前に
品川駅〜横浜駅間の運賃を
「上等1円50銭、中等1円、下等50銭」と決定しますが、
最終的に「新橋駅〜横浜駅間」が
上等1円12銭5厘、中等75銭、下等37銭5厘ですから
値下げされたことになります。

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■鉄道開業のお初は横浜ですが
「新橋駅〜横浜駅間」開業後、
全国で創業ラッシュとなります。
特に手軽な路面電気鉄道は明治期に
ざくっと数えて約50社も開業します。

横浜では「横浜電気鉄道」(後の市電)が明治37年7月15日に
神奈川〜大江橋間の運転を開始します。
「神奈川駅」は現在の青木橋
「大江橋駅」は桜木町駅前です。
第2期線として
 「大江橋」〜「西の橋」現在の元町入口近辺が着工されます。
最終的に
明治45年までに
横浜電気鉄道網は「税関線・住吉町線・本牧線・羽衣町線・滝頭線」等が開通します。
※横浜電気鉄道はその後大正10年4月に横浜市営となります。
 市営になり、昭和に入り黄金の市電時代が始まります。

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明治期の横浜電気鉄道網(推測)

■その他の鉄道は
 上記紹介の「新橋駅〜横浜駅」開業後
 ●1887年(明治20年)
 国鉄横浜駅〜程ヶ谷駅〜国府津駅間が延伸開業(横浜駅でスイッチバック)。
 ●1905年(明治38年)
 私鉄では京浜電気鉄道(後の京浜急行)が
 品川(現・北品川)〜神奈川間開通します。
 ●1908年(明治41年)
 東神奈川駅〜八王子駅間(現在の横浜線)が開業します。

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(大正・昭和初期)

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戦前期、横浜の鉄道網は神中鉄道(相鉄線)と湘南電気鉄道と京浜電気鉄道が
日ノ出町でジョイントされ、京浜急行として横浜エリアを縦断します。

No.88 3月28日 京浜湘南電鉄連結地点
現在の鶴見線も昭和初期に整備されます。

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今日は紹介できませんが、昭和初期鶴見線ができる頃 川崎に一大計画があったんですね!!後日お楽しみに!!

7月 26

No.458 相摸のもののふは杉田を目指す?

今日は 横浜市磯子区南部に位置する“杉田”エリアを紹介します。
現在の杉田エリアは、京浜急行「杉田」駅とJR根岸線「新杉田」を結ぶ「ぷらむろーど」を中心に商店街が拡がっています。歴史ある時代で表情が変化した
時をさかのぼれば 広大な歴史の舞台「杉田」が浮かびあがってきます。
調べれば調べる程、面白い杉田です。

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杉田妙法寺の蓮(今が見頃です)

(東西南北)
■東は海。
 かつては船で杉田観光に!
■西は笹下川(ささげがわ 大岡川の支流)流域
 鎌倉武士の城があった“金沢道”周辺は面白い!

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■南は金沢区富岡に隣接する起伏のある丘陵地
 梅で有名な杉田の梅林は富岡との境あたりに群生?
■北は中原(屏風ヶ浦)あたり
 現在の「杉田エリア」明治期、久良岐郡屏風ヶ浦村の一部でした。
 杉田の名は 江戸時代から梅の名所で有名でした。

(意外な?因縁)
杉田(すぎた)といえば?昔を良く知る人は「梅」と答えます。
商店街も「ぷらむろーど」ショッピングビル名も「プララ」と名付けられています。
「梅林小学校」「杉田梅林トンネル公園」といった名称もあります。
かつて広大な「梅林」が杉田にはありました。
「梅林小学校」絶景ポイントでもあります。

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梅林小学校近くの眺望
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この杉田梅林を創り上げたのがこの地の領主「間宮信繁」という人物です。
天正年間頃16世紀後半の時代です。杉田という土地柄は、起伏が多いため稲作に向いた田畑に恵まれませんでした。漁業が中心の貧しい寒村でしたが
この地を治めた間宮信繁が地域の産業として梅の植林を奨めます。小田原の曾我梅林に習ったといわれています。
梅を地域産業として鎌倉時代から梅を育ててきた曽我に習い、「杉田梅」は小田原から移植したのではなく、逆に今 磯子で失われた「杉田梅」が小田原に残っている状況です。

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曾我梅林2013
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曾我梅林と冨士

数十年後には見事な梅林が育ち、年ごとに梅林が拡がっていきました。
最盛期には三万六千本にも達したそうです。
江戸初期は梅の実が農民を助け、
江戸後期から明治期には「梅の花の名所」として観光地となります。
多くの文人墨客もこの「杉田梅林」を愛でます。
「我等が郷土神奈川県下には由来天恵的に名勝或は史蹟の地として指を屈するの 地洵に多く,従って之れ等各勝地に遊杖せる古今の俳人墨客の数も相当多く,又 それらの人々に依って残された吟詠も決して少なくありません。今茲に編する杉 田金澤両地の内,杉田は往古より杉田梅林として其名高く例へば吟江の 吉野の みか梅の杉田もこれはこれはの句の如く,又「杉田の梅林に遊びて」と題書せる 抱一上人の これはこれはこゝをや梅の吉野山の句の如き,ともに花の吉野と梅 の杉田を対立させてゐるあたり全く梅花の名所として立派に立証し得る事が出来 うると存じます。又金澤は金澤八景として天下に其の名高く,其の昔兼好法師は 此の地の佳景を愛して住み,画聖巨勢金岡は此の地の妙景に絶倒して筆を松に擲 つたと云ふ事であります。又心越禅師は勝景西湖に似たる故を以て,八勝の詩を 賦し,尭恵法師は神異絶妙と,唱へて居ります程の勝れた地区であります。」
(飯田九一「杉田金澤古今俳句集」)

吉野のみか梅の杉田もこれはこれは 夏目吟江
「間宮信繁」の菩提寺杉田妙法寺には
 この地を訪れた俳人の句碑が残されています。
 門をくぐると直ぐに句碑に出会います。
さびしさは星をのこせるしぐれかな  飛鳥田 麗無公

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「また寒き 月のひかりや 梅の花」     松竹庵 梅月

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「簾越し居るこゝろして梅のもと」  内野 月朶(げつだ)

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■牛頭山妙法寺(ぎゅうとうさん みょうほうじ)
1352年(文和元年)創建。2月〜3月上旬には、名木「照水梅(しだれうめ)」をはじめ多くの梅の木が咲きほこります。

(スパイも医者も登場)
杉田に梅林を奨励した間宮?
この名から連想する教科書に出てくる人物といえば
間宮林蔵という“冒険家=隠密”でしょうか?
彼は杉田の間宮氏と遠縁にあたります。

「間宮 林蔵(まみや りんぞう、安永9年(1780年)〜天保15年2月26日(1844年4月13日))は江戸時代後期の隠密、探検家である。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。名は倫宗(ともむね)。農民出身であり、幕府隠密をつとめた役人であった。」(Wikipedia)
常陸国筑波郡上平柳村出身で、先祖は後北条氏に仕えた宇多源氏佐々木氏の流れを持つ間宮家の一族で武士から帰農した人物です。
杉田村で間宮から杉田姓を名のった一族の親戚にあたります。

間宮氏の一部は杉田に暮らし
「杉田姓」を名乗った一族がいました。
間宮一族は 近江佐々木氏にルーツがあり遠くは近江の出身です。
鎌倉時代、相摸のもののふの一族として歴史に登場します。
北条氏に仕え、笹下エリアに山城と陣屋を建て 杉田・笹下・田中他 一帯を治めます。
その後 北条氏滅亡で間宮氏は
杉田間宮氏、氷取沢間宮氏、三ツ沢、鶴見、房総下総、三浦、川崎、静岡 等に分かれて居を移していきます。
一方、初期に杉田村に生まれた遠縁の間宮長安という人物が
間宮姓から杉田に氏を変え暮らします。
この杉田氏の子孫が福井若狭藩(酒井家)の藩医となり幕末期江戸で活躍します。
ここに登場したのが

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一度は歴史教科書で聞いたことのある「杉田玄白」です。
杉田玄白(1733年〜1817年)
間宮林蔵(1780年〜1844年)
少し前後しますが 
二人はほぼ同時代を生きた人物で共に杉田に縁のある人物です。

(杉田のヘソ)
江戸時代まで、杉田・屏風ヶ浦のヘソは笹下にありました。明治初期には現在の「横浜刑務所」あたりに久良岐郡役場と村役場がありました。
その後、堀割川流域の発展に伴い市電の開通などもあり磯子・屏風ヶ浦・杉田地域は海岸線が発展していきます。
 市電の終着「杉田駅」ができることで、海岸線に近い杉田は大きく発展していきます。その後に、湘南電気鉄道(後の京浜急行)「杉田駅」が開通します。
湘南電気鉄道の当初の計画では
「屏風ヶ浦駅」が最初に開設する予定でしたが、地元の猛反対に遭い「杉田」が先に開設されます。(よくある歴史の皮肉ですね)

ここで
少しヘソが変わります。
市電「杉田駅」から「聖天橋駅」周辺に繁華街の中心が移り、市電廃止でバス中心となると「京急杉田」を軸に街が拡大していきます。

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上大岡からの旧道に沿って開通した“湘南電気鉄道”は昭和初期、日の出町で京浜電気鉄道とつながり、一気に首都圏の重要な動脈となっていきます。
一方、戦後になり念願の桜木町から先に伸びる「根岸線」が開通すると
第一段階で「磯子駅」が開設し駅前が変わります。
その後「大船駅」全通に伴い「新杉田駅」が開設され、「杉田駅・新杉田駅」界隈には独特の賑わいが生まれます。
平成に入り、
シーサイドラインの開通等で、杉田のヘソは少し「新杉田」寄りにシフトしましたが、まだまだ京急杉田周辺のデープさは残っています。

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※余談
 京急杉田駅横には「お稲荷さん」があります。

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 この杉田駅稲荷?(というのか不明ですが)には
 秘話が隠されているのをご存知ですか?
 この秘話は 別のところで紹介することにしましょう。
今日はちょっと長くなりました。おつきあいありがとうございます。

No.42 2月11日 観梅シーズン到来

6月 20

No.451 芸術は短く貧乏は長し

文学賞といえば
「芥川賞」「直木賞」が有名です。
芥川賞は“芥川龍之介”に因んだ賞です。
では?直木賞は?

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作家であり脚本、映画監督までこなした「直木三十五」に因んだ賞です。
この直木三十五なる人物は
横浜と深く関係があります。
今日は文学賞の名となった
「直木三十五」と横浜について紹介しましょう。

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「直木三十五」
(なおき さんじゅうご)
直木三十五賞(通称「直木賞」)はエンターテインメント系の作品に与えられます。
http://www.bunshun.co.jp/award/naoki/
直木三十五は
1891年(明治24年)2月12日、現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれました。
本名は植村宗一で、苗字の植村の「植」の字を分解して「直木」とし、名の部分は年齢を元に直木三十一(31歳のとき)からスタート、
三十五で改名することを止めました。
彼は1934年(昭和9年)2月24日、
四十三歳で亡くなっていますから“初志貫徹”していれば
「直木四十三」となったでしょう。

放蕩作家 直木三十五)
大正の末から昭和の初めにかけ文壇、映画界で活躍しますが
相当の放蕩作家でした。
(戦前は放蕩作家多いですね。ある意味良い時代だったのかもしれません)
43歳で亡くなった翌年の1935年(昭和10年)
友人だった文藝春秋社長・菊池寛により直木賞が設置され現在まで多くの作家の目標となっています。
彼の代表作となったのは「南国太平記」という作品で、
幕末薩摩藩のお家騒動を取材した新聞小説で不動の位置を築きます。
時代小説では多くの秀作を残しています。

一方で、事業癖というか稀代の浪費家でもありました。
京都で映画制作に手を出し失敗。出版社も幾つか創設し失敗します。

1933年(昭和8年)春、これまでずっと借家住まいだった直木三十五は、横浜金澤の富岡を訪れ、この地が気に入ります。
一説によると、この地金澤を舞台にした江戸時代の武士、豊島刑部明重を執筆するためだったとも言われていますが、国税庁に半旗を翻し納税を拒否していた“直木”が一生で唯一、自身で設計し家を建てることを決意します。

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関東学院大学による復元調査

場所は慶珊寺の裏山の一角。
境内に家を建てたいと住職佐伯隆瑞に申し入れ、結局寺の北側後方の高台、当時畑だった千三百三十五坪を借り受けることになります。

新居は昭和8年の暮れに完成し、東京から引越します。
ところが彼は、余りの静けさに堪えられないとか、
自分の設計した家の使い勝手が悪いとか 言われるように
ほどなく
文芸春秋の一室に、逃げるように帰り 自宅を放棄します。
体調もかなり悪化していたのでしょう。
家屋の完成間もない翌年1934年(昭和9年)2月24日、帝国大学付属病院にて、持病の脊髄カリエスが悪化して亡くなります。
墓は 自宅近くの 富岡山長昌寺にあります。

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この使い勝手の悪い 直木邸は彼の死後、家族と知人が暮らしていましたが
 売りに出すことになります。
戦時中に購入したのが「橋本 東」という方で、
冗談で「疎開用に」と言ったことから 偶然購入するはめになります。
“買うには買ったが…”
あまりにも不便で使い勝手が悪いので一部を改装します。
しかし、殆ど住むこともなく 最後は老朽化のために取り壊されてしまい、現在は空き地となっています。
この元「直木三十五邸」入口に
横浜ペンクラブの方々と大佛次郎氏が中心となって

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 彼の記念碑が建っています。
「芸術は短く貧乏は長し」