4月 29

【ミニミニ今日の横浜】3月19日

この【ミニミニ今日の横浜】はこれまで数年間集めてきた資料や年表から簡単にその日その日の出来事を紹介してきました。大体が過去の調査資料の範囲内で<料理>していましたが、
今回は ちょっと違うぞ! ちょっと待て!もっと調べたい。
という私にとってはかなりエアポケットに落ち込んだ感じたっぷりテーマです。
まず、19日テーマのブログは以前
No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=538
「慶応4(1868)年のこの日、明治政府が幕府から接収した神奈川奉行所を横浜裁判所に改めた。この横浜裁判所は、裁判だけではなく一般行政も行う現在の県庁に相当するものであることから、神奈川県庁ではこの日を「立庁記念日」としている。」
神奈川県庁の「立庁記念日」を紹介しました。

では 今回の3月19日テーマは
「横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図」から始まります。
「時」の風景(更新)
横浜の時報について紹介しました。
明治になり変わった新しい時刻、定時法(24時間を均等に分ける)をどうやって知ったのか?

その時 港では<報時球信号>を使い、市中は時の知らせ(時鐘のゴーン)で時間を知り居留地では本町通りの角に建った<横浜町会所>の「時計台」とそこに備えられた<梵鐘>の音で時間を知らせました。
という話です。
この横浜町会所の梵鐘について調べる際
「横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図」が当然 往時の姿として登場します。
この「時計台神奈川県全図」の作者<歌川国鶴>が今日のテーマです。
前置きが 長くなりました。
1878年(明治11年)の今日3月19日
江戸時代後期に活躍した浮世絵師<歌川国鶴>が横浜関外最初の町「吉田町」で亡くなります。73歳でした。彼は文化4年江戸築地に生まれ二代目歌川豊国に学びます。本名 和田 安五郎、「一寿斎」「一雄斎」などと号し晩年の安政6年(1859年)頃、横浜に居を移し絵草紙屋を開業、横浜絵・役者絵を得意として多くの作品を残します。
彼の作品は、1879年(明治12年)6月に来日したグラント元大統領が持ち帰った日本土産の中に何点か含まれていて、現在はホワイトハウスヒストリカル協会に所蔵されています。
No.247 9月3日(月)坂の上の星条旗(前)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=357
No.248 9月4日(火)坂の上の星条旗(後)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=356
No.248-2 9月3日 坂の上の星条旗 改題
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=84

このように 彼の作品に関わるテーマを追いかけていましたが、
「歌川国鶴」なる横浜浮世絵師は 全くノーチェックでした。
実は「歌川国鶴」から始まるドラマは この先からに面白い展開が待ち受けます。絵師、歌川国鶴には二代目を継いだ息子の歌川国鶴(嘉永5年(1852年)〜1919年(大正8年)2月4日)と娘のムラさんがいました。
歌川國鶴作「横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図」は初代と二代目歌川国鶴が共に絵草紙屋を経営していた時期ですので共作かもしれません。

歌川國鶴二代目を継いだ息子、そして彼に西洋の絵心を紹介した人物が娘<ムラ>の夫N.P.キングドンです。
初代「歌川国鶴」の娘ムラの夫N.P.キングドン氏の足跡を探るとこれまた横浜には欠かせない人物であることが分かります。
彼の物語に関しては 近々もう少し資料を読んでから紹介します。
今日はここまで。

 
 

Category: 【資料編】, 明治期, 横浜絵葉書 | 【ミニミニ今日の横浜】3月19日 はコメントを受け付けていません
4月 13

【大岡川運河物語】埋地七ケ町その1

運河時代の地図をベースに中村川と日ノ出川、吉田川と派大岡川に囲まれた一帯を最も占める町内をまとめて「埋地七ケ町」と呼んでいます。
字のごとく、埋め立てられ宅地となった当時の松影町、寿町、扇町、翁町、不老町、万代町、蓬來町を指します。

埋地七ケ町付近

現在はさらに広く長者町に沿った山吹町・富士見町・山田町・三吉町・干歳町の各町までを含めたエリアを「埋地地区連合町内会」と呼んでいます。
中でも元々の「埋地七ケ町」一帯は近年<また大きく>変わろうとしています。
<また大きく>と表現したのは
この一帯が江戸時代から現在まで関内外の中でも特に激しい変化の歴史を歩んできたからです。
この激変「埋地七ケ町」の歴史を紐解くには
まず江戸時代の吉田新田開発時代から始めることにしましょう。

<入海から新田へ>
江戸時代の初め、この地域一帯は釣り鐘型(ワタシ的には烏帽子)をした入り海でした。長い戦国時代が終わり、戦う農民は帰農したり都市部(街道筋)に居を構えることで非生産人口が増え始め、食糧が不足気味になってきました。また、戦わない領主(大名)を米経済にしたこともあり幕府や全国の藩は耕地を増やす政策をとり、
当初は官製新田でしたが間に合わず、民間による新田開発も奨励することになります。
ちょうどこの頃、
摂津出身で江戸で木・石材商を営み、小さな新田開発も経験した吉田勘兵衛は、当時の<苗字帯刀を許される目標値>1,000石規模の新田開発に挑みます。
目標値の千石の米収量を得るには多大な資本力も必要ですが、技術・人手・周囲の村民の同意も必要となってきます。
恐らく吉田勘兵衛は関東一円を歩き、候補地を探し、大岡川河口に広がる深い入海に注目したのでしょう。
地理的には、東海道街道筋に沿って、帷子川の入り江、袖ヶ浦が広がっていましたのでここを開発する方が、保土ヶ谷宿や神奈川宿に近いため魅力的だったはずです。
ところが、勘兵衛はもう一つ南に流れる大岡川河口を選び、これが結果的に関内外という歴史的空間を生み出したのです。
この地の開発を決断した勘兵衛は資金調達と人材集めに動きました。
<新田時代>
吉田新田は、干拓事業によって誕生した水田地です。
稲作のための水田を造成するのが「干拓」で、灌漑用水の設計が鍵となります。
新田ブームの江戸前期、全国で干拓が行われますが、取水が成功の鍵でした。吉田新田のような河口部の海に面した水域を水田にするのは技術的にかなり困難が伴いました。理由は水田の最大の阻害要因が<塩分>だったからです。
吉田新田着工前、河口部分(現在の蒔田公園)や沿岸の太田村は塩田でした。干拓するには、塩を抜きながら水田を維持しなければなりません。
塩抜きしながら水田を維持できる!と勘兵衛は確信し、新田事業を決意します。
塩抜き等の技術的裏付けは誰が伝授したのか定かではありませんが、先達の成功例をしっかり活用し、塩水地域の水田干拓に挑みました。
事業は開始早々、水害で頓挫します。捲土重来、再トライし約十年の月日をかけて寛文7年完成(幕府認定)します。新田の幕府認定には時間がかかりますから実質土木事業は寛文5年ごろにはほぼ完了していたと推測できます。
それから約200年の間、完成した吉田新田によって、様々な副次効果が生まれます。
まず近隣の村々が繋がっていきます。深い入海時代では舟で往来していた対岸同士が徒歩で行き来できるようになります。特に「野毛」と「石川」の集落が<八丁畷>堤を使って往来が生まれたことは横浜村の発展にも寄与します。

この200年の新田時代を支えたのが<塩抜き>「南一つ目沼」と呼ばれた場所です。現在の「埋地七ケ町」の原点となる場所で、この池無くして吉田新田経営は成立しません。
地図上や文献では<悪水>沼とされているものもありますが、水田の塩抜きと施肥の残りを流しだす役割を担った、水田維持には欠かせない重要な沼でした。

南一ツ目沼

<開港と宅地化>
一般的な横浜史ではこの新田時代を簡略化し、吉田新田が完成、次に「ペリー来航」となってしまいます。この間の200年は都市横浜誕生の礎となり実り多き時間でもありました。
二世紀に渡る時間は、途中宝永の富士山噴火や上流からの流土によって次第に水田維持が困難になり幕末には次第に畑地化していきます。
そんな環境が変化する中、「開国」という一大事件がこの地に起こることになった訳です。
開港直前に、太田屋新田開発事業が完成(といっても半分沼地)し現在の関内エリアが出来上がっていたことも関内=開港場誕生に好条件でした。

古来から横浜村として漁業と嘴状の陸地での農業で生業を営んできた村民は、開港の舞台となり、外国人の街を作るということで転地、転居を命じられます。これが元村のちの元町となっていきます。
堀川を開削し出島状態となった関内だけでは日に日に拡大する貿易を支えることは困難で、当然住宅地が運河を越えた関外に拡大して行くことになります。
さらに時代は明治になり、外国からは居留地を含む開港場一帯の抜本的整備が求められます。そこで明治政府(神奈川県)は、対策の一つとして大岡川の分水路を計画します。
堀割川計画です。
根岸湾と横浜港を運河でバイパスとして繋ぐことで、小型船では厳しかった本牧沖往来を加速化する目的として堀割川運河を目論みます。そのためには、山手からつながる稲荷山、弥八ケ谷戸の丘陵を切り開くという当時はかなり無理のある事業だったため、工事に応札する事業者が現れませんでした。
結果、吉田新田を200年守ってきた「吉田家」に半ば強制のように事業命令が下ります。
この堀割川開削物語は難工事で事業史としてまた悲劇の小説にも残されています。
堀割川開削の狙いは運河開削以外にもう一つあり、開削土砂を使って関内居留地に隣接した「南一ツ目沼」を埋立てて宅地化することでした。
1870年(明治3年)に始まり埋立事業が完成したのは1873年(明治6年)のことです。
これによって、
「埋地七ケ町」と「日ノ出川」が誕生することになります。
「南一ツ目沼」によって吉田新田が維持され、吉田新田によって関内の拡大が可能となり、有数の貿易港へと発展していきます。
→埋地七ケ町その2へ

関連ブログ
【大岡川運河物語】日ノ出川運河

2月 23

【開港の風景】野っ原編3

横浜村を更地にして、日本人街を造成、外国人を受け入れるまでの姿、
区史、市史、明治期の開港モノなどを目下整理中で苦闘しています。
なので、ちょっと時間をワープします。
日本人として開港直後の様子を表した文献で代表的なものは「福翁自伝」だと思います。
この作品は福沢諭吉が1898年(明治31年)7月1日から1899年(明治32年)2月16日までの七ヶ月間で計67回にわたって「時事新報」に掲載したもので大変人気記事でした。
1899年(明治32年)6月15日には単行本が刊行され、今日口実筆記自伝文学の最高峰と言われています。この軽妙洒脱な文体で開港当時の様子が語られています。
少々長い引用ととなりますが勘弁ください。


英学発心
ソコデ以(もっ)て蘭学社会の相場は大抵分て先(ま)ず安心ではあったが、扨(さて)又此処に大(だい)不安心な事が生じて来た。私が江戸に来たその翌年、即(すなわち)安政六年、五国条約と云うものが発布になったので、横浜は正(まさ)しく開けた計(ばか)りの処、ソコデ私は横浜に見物に行った。
その時の横浜と云うものは外国人がチラホラ来て居るだけで、堀立小屋見たような家が諸方にチョイ/\出来て、外国人が其処に住んで店を出して居る。
其処へ行て見た所が一寸とも言葉が通じない。此方の云うことも分わからなければ、彼方の云うことも勿論分らない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙も分らぬ。何を見ても私の知って居る文字と云うものはない。英語だか仏語だか一向計らない。
居留地をブラ/\歩く中うちに独逸(ドイツ)人でキニツフルと云う商人の店に打当(ぶちあた)った。その商人は独逸人でこそあれ蘭語蘭文が分る。此方(こっち)の言葉はロクに分らないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずると云うので、ソコで色々な話をしたり、一寸(ちょい)と買物をしたりして江戸に帰かえって来た。
御苦労な話で、ソレも屋敷に門限があるので、前の晩の十二時から行てその晩の十二時に帰たから、丁度一昼夜歩いて居た訳わけだ。
小石川に通う
横浜から帰って、私は足の疲れではない、実に落胆して仕舞った。是は/\どうも仕方がない、今まで数年の間あいだ、死物狂になって和蘭(オランダ)の書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今は何にもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、左(さりと)は誠に詰らぬ事をしたわいと、実に落胆して仕舞た。けれども決して落胆して居られる場合でない。彼処(あすこ)に行なわれて居る言葉、書いてある文字は、英語か仏語に相違ない。所で今世界に英語の普通に行れて居ると云いうことは予かねて知って居る。何でもあれは英語に違いない、今我国は条約を結んで開けかゝって居る、左(さすれ)ばこの後は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければ迚とても何にも通ずることが出来ない、この後は英語を読むより外に仕方しかたがないと、横浜から帰た翌日だ、一度は落胆したが同時に又新に志を発して、夫から以来は一切万事英語と覚悟を極きめて、扨(さて)その英語を学ぶと云うことに就ついて如何どうして宜(いい)か取付端(とりつきは)がない。

引用ここまで
この文章には幾つか当時の横浜風景に関して興味深い点が書かれています。
例えば
「その時の横浜と云うものは外国人がチラホラ来て居るだけで、堀立小屋見たような家が諸方にチョイ/\出来て、外国人が其処に住んで店を出して居る。」
まず、時期的にはかなり開港初期だと想像できます。
気になるのは
開港場には野原(のっぱら)が広がりそこに外国人が出店している様を日本人の福沢が「堀立小屋」だと描写している点です。レンガ作り、コロニアル洋式の建物に慣れている諸外国人が<うさぎ小屋>とでも表現するなら判ります。
横浜開港地には恐らく日本人の大工が<とりあえず>人が暮らせる程度の住宅を建てたのでしょう。都市の風景としては非常に貧弱さが感じられたのかもしれません。
とりあえず仮住まいのような家屋で
そこに不満はあったけれども商売優先で外国人側も我慢して出店したということでしょうか。

福翁自伝 福沢諭吉著作集 第12巻 慶應義塾大学出版会2003

次に気になったのが
「居留地をブラ/\歩く中うちに独逸(ドイツ)人でキニツフルと云う商人の店に打当(ぶちあた)った。その商人は独逸人でこそあれ蘭語蘭文が分る。」
福沢が大変な思いをして学んだ外国語は阿蘭陀語でした。ところがそこにはイギリス人やアメリカ人の店が多く、ようやく言葉(オランダ語)の通じる外国人に出会った。
ところが彼はドイツ人だったという点です。
この二点を軸に次回居留地最初の商館を開設したあるドイツ人について少し展開してみたいと思います。
一つ前【開港の風景】野っ原編2へ
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=13389

【開港の風景】野っ原編1へ
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=13387

2月 23

【開港の風景】野っ原編2

前回ようやく開港の舞台となった横浜村の一角の話に入るところまで来ました。
開港直前の横浜村から開港場が作られていく<様>をいろいろな資料から描いていこうと考え、進めてきました。
ところがどっこい、さらっとサマライズできなくなってしまいました。
ここに2点の画像を紹介し、少しお時間をいただきます。

一点目は
樋畑翁輔「ペリー献上電信機実験当時の写生画」


 ペリーが再来航し、横浜村で外交交渉を行った最終段階で、
ペリーが用意してきた当時の最先端技術を日本側に紹介します。

樋畑翁輔「ペリー献上電信機実験当時の写生画」

皇帝(将軍)宛:
4分の1縮小蒸気車模型とレール、電信機と長さ3マイルの電線及びガタパーチャ電線、銅製フランシス救命艇、銅製ボート、農業器具、オーデュボン鳥類図鑑、ニューヨーク州博物誌、議会年報、ニューヨーク州法典、ニューヨーク州議会誌、灯台報告書、バンクロフト米国史、農業指導書、米国沿海測量図、モリス工学書、銀装飾衣料箱、8ヤード大幅高級深紅色羅紗、8ヤード大幅深紅色ベルベット、米国標準ヤード尺、同ガロン枡、同ブッシェル枡、同天秤と分銅、マデイラ・ワイン、ウィスキー、シャンペン・シェリー酒・マラシーノ酒、茶、州地図とリソグラフ、スタンド付き望遠鏡、鉄板製ストーブ、香水類、ホール・ライフル銃、メイナード・マスケット銃、騎兵刀、砲手刀、カービン銃、陸軍ピストル、ニューヨーク州立図書館・郵便局カタログ、錠付き郵便袋。

御台様宛:
花模様刺繍ドレス、金色化粧箱、香水類。
 ※sewing machine(ミシン)

林大学頭宛:
オーデュボン獣類図鑑、4ヤード大幅高級深紅色羅紗、時計、ストーブ、ライフル銃、陶製茶器セット、6連発ピストルと火薬、香水類、ウィスキー、刀剣、茶、シャンペン。

伊勢守宛:
銅製救命ボート、ケンドール著述のメキシコ戦争とリップリー著述のメキシコ戦争史、シャンペン、茶、ウィスキー、時計、ストーブ、ライフル銃、刀剣、6連発ピストルと火薬、香水類、4ヤード大幅高級深紅色羅紗。

これだけではありませんがとりあえず主なものを紹介しておきます。
このときに目の前で実験を行って日本側を驚かせたのが汽車と電信機でした。
掲載の画像は「ペリー献上電信機実験当時の写生画」はその時の様子を絵にしたものです。
横浜村の一帯を使って通信実験は海岸沿いに仮設された応接場と、そこから約1㎞内陸に位置した”中山吉左衛門”という名主の居宅のあいだで行われたと記録されています。
スケッチ図では
耕作地のあいだを縫うように電信柱が設置され海岸へと達しています。通信実験の両拠点を結ぶ電信線もしっかり描かれています。
電信ですので、電源はどうだったのか?
当時の電池をしっかり持ってきたようです。電解液を入れた瓶に銅板と亜鉛版を挿入し、異なる腐食の性質を使って+-両極に帯電させて電流を流すという電気分解の基本的な仕組みのものと判明しています。
絵には
左側隅中山家の屋敷のところに小倉藩、右側中央あぜ道に松代藩の記述があります。
沖にはペリー艦隊9隻の姿も確認できます。
写生図の上にコメント※が記されていますが、内容から作者の樋畑翁輔ではないことが分かります。恐らく彼の息子の樋畑雪湖ではないかと推測されていますが、確定しておりません。
※「嘉永七年二月(西暦一八五四年)横浜邑米国使節応接場ヨリ洲干弁天境内吉右衛門[ママ:筆者註]居宅間ニ電線ヲ架シ幕府ニ贈リタル二座ノ電信機ヲ据付実験シタル当時ノ写生図ナリ因ニ云フ応接所ハ今ノ税関附近ニシテ洲干弁天ノ位置ハ航路標識管理所ノ辺ナリト云フ」

開港直前の横浜村の様子

もう一点の絵図は、これとは異なる時期、もう少し前の橫濱村の様子を描いた幾つかの絵図をもとに作成したものです。ここから
横濱村の名主で素封家と称された中山家が確認できます。
「横濱成功名誉鑑」によれば開港当時弁天横に本宅があった中山沖右衛門は代々その名を継いでいて九代目は明治に入り実業界で活躍「元町貯蓄銀行」の頭取を努めます。

横濱成功名鑑 より

居留地整備に伴い本牧に移り、何代目か不明ですが、鉄道・切符研究ならびにコレクターとして有名だったそうです。市電研究の第一人者だった歯科医師の長谷川弘和さんはこの中山沖右衛門さんの影響を強く受けたと語っていらっしゃいます。

今回は少し横道に逸れました。追って 開港場ができていく様をレポートしたいと思います。(つづく)

2月 23

【開港の風景】前史編3

小説を書く人はすごいと改めて思う。資料から人の心情や行動を描きだす。
読みながら情景が浮かぶように工夫しようと思っている矢先から説明的になっている。一枚の地図にしてしまえば簡単だ!と思い始めてしまう。そういえば、三十年以上も前のことだ。地図を文章にするというトレーニングをしたことがある。
市街地図を頼りに、知らない町を図上で紹介していくという作業だった。何故始めたか、動機は覚えていないが、最初の地図は世田谷区だった記憶がある。
この作業は、すぐに挫折したが以来地図の見方が少し変わった。
■戸部村字野毛
江戸東海道四番目保土ヶ谷宿は帷子川と今井川の合流点にある。江戸期、この一帯は水運も盛んで、河口域に広がる入海一帯を”袖ヶ浦”と呼んでいた。
帷子川左岸から袖ヶ浦岸に東海道が延び神奈川に繋がる。

今井川が合流する右岸は入海に出ると戸部村の丘陵を懐き、越えるとそこは戸部村字野毛と呼ばれ小さな村落だった。江戸期までは、歴史に登場することも無く、大岡川の深い入海と江戸湾が交わる漁場で小規模な漁の村だった。
野毛の転機は、神奈川宿・保土ヶ谷宿の整備だった。
両宿の発展に伴い経済圏が拡大することで、周辺の村々には変化が生じた。さらに寛文七年、大岡川河口域に大型新田(吉田新田)が完成したことで、周辺の村には米経済が生まれた。
この頃からだろうか、野毛浦の風景を愛でる人達が現れた。

江戸名所図会を加工

切り立った野毛浦地先の海には穴の空いた岩(海食甌穴)があり、奇観、異観として訪れた人を楽しませた。別称「かめ穴、大釜、ポットホール」とも呼ばれる”穴岩”は世界各国で観光、信仰の場として点在している。
野毛浦tの穴岩は姥岩(うばいわ、うばがいわ)と呼ばれていたが何かの理由で穴が欠けてしまった。欠けた時期は不明だが、姥岩の名はそのまま明治まで残った。
うばがいわ、その由来は漢字の”穴”をゥとハと呼びウハ岩、ウバ岩と訛り「姥岩」の字をあてるようになったという説が有力だ。昔の人は言葉遊びが巧みだ。
明治初期、野毛浦地先に鉄道用地建設という降って湧いたよう計画がもたらされ、姥岩は消えた。
■袖ヶ浦北
開港直前に、東海道から最短で開港場に繋がる道が作られた。「横浜道」と呼ばれ、現在の浅間神社あたり、当時は芝生村と呼ばれた。神奈川宿から少し洲崎神社あたりを登りちょうど下ると芝生村となる。
ここから、中々干拓の進まなかった帷子川河口を横断する道を開こうとした。幕末、帷子川河口域はかつての水域は無く、沼地に近い状態になっていた。
ある資料には、1707年(宝永4年)に起こった富士山大噴火の火山灰が南関東に降り、村々は降灰に苦しんだ。幕府は(おそらく代官だろう)灰は田畑以外の土地に埋め、川には捨てないようにとお触れを出したが、誰も守らず皆川に灰を捨てた結果、河口に沈殿し沼地となってしまったというのだ。
これに関してはことの真偽は定かではないが、この宝永の富士山噴火の直前(49日前)、南関東に大地震が起こっている。村の人々にとって役人の指示など聞いている余裕は無かったに違いない。
この灰によって、岸辺では諍いが起こっていた。船着き場が機能しなくなったからだ。かつては、隣の吉田新田のように新田開発も始まったが、帷子川河口の干拓は中々進まなかった。岸から一気に水深が深くなったことと、東海道に沿った岸辺には既に経済圏が成立していたからだ。それが、富士山噴火でみるみるうちにその機能が失われていったのだから心中穏やかでは無かっただろう。
■袖ヶ浦開発
帷子川・今井川の河口域、芝生村と戸部村の間の入り江、袖ヶ浦は富士山噴火後年々土砂によって浅くなっていった。漁場や船着き場の機能を失い、浅瀬が登場した。干潟、寄洲が目立つようになり、岸辺から新田開発願いが出されるようになった。新田開発と言っても、塩抜きが難しく多くが新規土地造成に近いものだったに違いない。
帷子川河口直近、現在の南浅間町が宝暦年間にまず開発された。ここは川筋に近く塩抜きも容易かったのだろう。広さ一町五反五畝三歩(約15,402m2)が完成「大新田(宝暦新田)」と呼ばれたが、吉田新田の約35万坪(1,155,000m2)に比べたら、玄関先にも及ばない。
この大新田の名に因んだ小さな「大新田公園」が現在でも残っている。
続いて、安永新田、弘化新田、藤江新田と小規模開発が行われていった。
一方の袖ヶ浦南岸は戸部新田・尾張屋新田が開発されたが浅瀬が割れ石崎川が登場する。
最後のパーツとなる岡野新田・平沼新田はもう少し幕末まで時が流れてからの頃だ。
■袖ヶ浦南
このように、天変地異の影響で、帷子川河口は一八世紀に入って大きく表情を変える。
保土ヶ谷宿の賑わいは、戸部村を変えた。ヒンターランド、後背地となった戸部村はさらに丘を超えた野毛にまで経済波及効果が出始めた。
これは私の想像領域から出ていないが、袖ヶ浦南岸の戸部村は<水>に困っていたのではないかという仮説である。
一方野毛村は湧水に恵まれ、生活程度の真水は十分に確保できていたと思われる。戦後まで尾張屋橋交差点付近に「塩田」の地名が残っていたころからも、想像できる。
水を売り買いするほどでは無いにせよ、魚を加工するといった食品生産にも水は不可欠だったことから、野毛への需要が高まった背景には<水>もあったのではないだろうか。
保土ケ谷宿から南東へ、保土ケ谷道が現在も残っている。「保土ケ谷道」は途中伊勢山で開港時に完成した横浜道と合流、そのまま野毛に下り、大岡川を渡って吉田町へと続く幹線道路となった。

繰り返しになるが、野毛村は吉田新田の完成で、”終着点”から”通過点=中継点”に変化する。新田堤の上に整備された八丁畷が、かつて対岸だった石川の村々との交通を盛んにした。
代官も異なり、濱からの景色として確認しあっていた両村が深い絆に結ばれたのである。

2月 23

【横浜人物録】秋元不死男2

「海水浴とマジシャン」と題して俳人秋元不死男作品から横浜のある風景を読み解いていきます。
前回では、不動坂付近で行われていた四の日縁日の風景が描かれている句を紹介しました。
大正初期の亀の橋付近の風景です。
今回は、1938年(昭和13年)秋元が長く暮らした根岸海岸近くの本牧海岸の様子を詠んだ句から一枚の絵葉書を連想しました。

「幕のひま奇術をとめが海にゐる」

この句は解説が無いと理解に苦しむ情景かもしれません。
<幕のあいだに奇術乙女が海にいました>といった意味で、
自解には
「海の家は景気を盛りあげるために芸人を呼んで海水浴客のご機嫌をうかがう。このときも奇術の一行がきて、あれこれと奇術をやってみせた。一行のなかに、お手玉をやる娘がいた。娘は幕の合間をみて海に入った。水着になった娘は、白粉をなまなましく胸まで塗っていた。」
これを読んで、なるほどと思いました。

戦前昭和期に流行ったレジャーが海水浴でした。湯治的な役割から海遊戯的なものに変化していきます。横浜の海岸線にも鶴見・本牧・磯子・金沢といった海水浴場は鉄道会社の重要な乗客増員装置でもありました。
戦前の観光絵葉書の分野で「海水浴」は非常に多く発行されています。

題名は「大磯海岸」発行時期は不明ですが、大正期と思われます。
海水浴の情景に、不思議な四名の家族らしい人物が写っています。海水浴客の一グループとも捉えることができますが、違和感があり気になっていました。
読み解きグループの集まりで、旅芸人ではないかという指摘がありましたが、確証がなくそのままにしておきました。
この俳句解説に”海の家は景気を盛りあげるために芸人を呼んで”とあったのは、当時の海水浴場の日常であったのではないか、と思い探してみると幾つか海水浴場に<演芸場>が併設されていたという資料もあったところから
 この大磯海岸の風景は、海水浴場の旅芸人達かもしれないという推理が高まってきまっした。

「鎌倉名勝 由比ヶ浜海水浴場」Bathing place of Yuigahama,Kamakura.
この風景は、昭和初期の由比ヶ浜海水浴場と推測できます。森永・明治の製菓会社の広告看板、中央奥には「南方飛行」の大きな看板が確認できます。この「南方飛行」が1937年(昭和12年)公開のフランス映画だとすると、この風景の撮影時期も絞り込むことができそうです。
こういった人気海水浴場はアミューズメントパークの位置づけで、様々な出店、演芸小屋もあったようです。

最後に秋元作品に戻ります。まだまだ紹介したい横浜の情景を詠んだ句が多くありますが、ネットでもかなり紹介されていますので参照してください。

秋元不死男句碑(大桟橋客船ターミナル)

◯北欧の船腹垂るる冬鴎
これは元々大桟橋客船ターミナルの待合室に1971年(昭和46年)4月設置されたものですが、現在は建替え時に移動しターミナル入り口の右側壁面の手前に設置されています。
ちょうど、この年11月には秋元不死男が横浜文化賞を受賞します。
Whirl winter-seagulls yonder
While rests a huge Nordic liner
With her impending wall of hull,at anchor.

英訳は清水信衛氏

受賞の3年前の1968年(昭和43年)には句集『万座』にて第2回蛇笏賞を受賞し海を離れて港北区下田町に転居します。終焉の地となったのは自宅からほど近い丘の上の川崎井田病院でした。
(おわり)
【横浜人物録】秋元不死男1

2月 23

【横浜人物録】秋元不死男1

秋元不死男、彼の名を知る人は限られていると思います。戦前から戦後にかけて活躍していた俳人です。人生の大半を横浜で過ごし、横浜の情景を詠んだ句も多く残されています。
彼に関しては、以前簡単なブログを書いています。
No.35 2月4日 秋元不死男逮捕、山手警察に勾留
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/24.html

現在1,000話を越えたこのブログの初期に書いたものです。毎日一話を一年間続けてみようと決め、35日目に選んだのが「秋元不死男逮捕、山手警察に勾留」の記事でした。
この頃、彼は東 京三(ひがし きょうぞう)と名乗っていました。不死男という勇ましい名に変えたのは戦後のことでした。秋元にとって戦場には行きませんでしたが、生死の境を乗り越えた安堵感が不死男の名に繋がったのかもしれません。

「自選自解秋元不死男句集」より

秋元不死男は、1901年(明治34年)11月3日に横浜市中区元町生まれました。父茂三郎は漆器輸出商を営み、長男は不死男が生まれた日に病没したと記録されています。このことも戦後の不死男の名に繋がっていると思います。
他に姉が一人、弟・妹が二人ずついました。ところが、不死男13歳のときに父が病気で亡くなります。おそらく生活はそれ以前から厳しくなっていたと想像できます。子どもたちは姉が奉公、末弟・末妹はそれぞれ他家に貰われ、秋元家は母と三人の子供が残りました。
以後母 寿は<和裁の賃仕事>や<夜店の行商>をして家計を支えたことが彼の作品に残されています。

秋元不死男句集カバー
『自選自解秋元不死男句集』には彼が生きた幼き時代と社会人時代の横浜風景が細かく詠まれていて思わず引き込まれてしまいました。横浜風景論としても素晴らしい資料です。

「横浜の石川町にあった地蔵の縁日は四の日。運河を背に夜店を張ると、舫っている艀からポン、ポンと鈍い音を立てて夜の時計が刻を告げて鳴り出す。」と自解した句が
「夜店寒く艀の時計河に鳴る」です。
この頃、秋元一家は元町を離れ吉浜町に移り、亀の橋を渡って中村川岸で屋台を出したのでしょう。近くには派大岡川、中村川の運河が流れ、多くの艀が川面を占領していた時代です。大正初期、石川町付近は横浜有数の繁華街でした。
石川町で発行されていた明治大学中川ゼミ編集の「石川町の史実」には
「当時の石川町3丁目(現在の2丁目)の河岸から地蔵坂の途中の蓮光寺あたりまでで賑やかな縁日の催しが行われた。大勢の人が集まり坂下の鶴屋呉服店周辺※①ではゴッタ返しであった。また夏の縁日には、金魚屋、風鈴屋、綿菓子屋、新粉細工屋、玩具店、べっこう菓子屋あるいはカルメ焼屋などが軒を連ねた。今ではほとんどみられなくなったアセチレンガス灯の火が、華やかに闇に浮いて見えた。」と町のかつての様子を伝えています。
この情景を不死男も詠っています。

2012年発行の石川町広報紙


※①鶴屋呉服店は当時横浜有数の呉服店で、その後伊勢佐木に移り東京松屋と合併し松屋呉服店、現在の銀座MATSUYAとなります。
『自選自解秋元不死男句集』の冒頭の句が
「寒や母地のアセチレン風に欷き」(さむやははちのあせちれんかぜになき)
「短日に早くもアセチレン灯をともすと、ひゅう、ひゅうと青い焔が鳴り出す。すすり泣くようなその音をきいていると寒さが骨を噛じりにくる。」と自解しています。

彼は震災の時に半年神戸に暮らし、横浜唐沢に戻りその後、結婚で一時期東京に居を移しますが、息子近史が喘息になり環境の良い根岸海岸に移りこの地に二十年近く暮らします。
この転地療養が良かったようで、長男近史は治癒し健康になったそうです。
秋元近史は明治大学を卒業後しばらくして草創期の日本テレビに入社し『シャボン玉ホリデー』などの演出を手がけたテレビマンとして活躍します。
ところが、父不死男の名とは逆に、1977年(昭和52年)父が病死後の1982年(昭和57年)に自殺を選んでしまいます。享年49歳でした。
(つづく)
参考資料:
『俳人・秋元不死男』庄中健吉 永田書房 昭和57年
『自選自解秋元不死男句集』秋元不死男 白凰社 昭和47年

11月 30

【大岡川運河物語】日ノ出川運河

かつて大岡川運河群の背骨に当たる「吉田川・新吉田川」現在は大通り公園と呼ばれています。
現在、そのなごりとしてこの通りの関内駅寄りに「日ノ出川公園」があります。
日ノ出運河は全長約600mで、運河時代 吉田川と中村川に繋がっていました。

完成したのは1873年(明治6年)、横浜に鉄道が敷設され急速に開港以来、次の発展が始まった時期にあたります。開港場(関内)の誕生により後背地としての関外(吉田新田域)にまで住宅地・商業地が拡大していく真っ只中に誕生しました。
開港後急速に発展した時期、開港場と周辺の集落を繋ぐのは、
南に「堀川筋」に架かる橋があり、北に「新生横浜駅」と大岡川、西は「吉田橋」を渡り横浜道につながる吉田町・野毛町ルート、そして西へまっすぐ伸びる現在の「伊勢佐木」常清寺ルートでした。


開港場の賑わいを支えるには、一つ大きな障害がありました。「南一つ目沼」の存在です。
元々、ここは「北一つ目沼」と共に1667年(寛文7年)に完成した吉田新田の水田の塩抜き用湖沼でした。古文書には<悪水池>と記されていたものもありますが、水田を生かす重要な役割を担っていました。

この「一つ目沼」の役割について簡単に紹介しておきましょう。
江戸期に入ると、新田開発が急速に増え日本の農業は田畑への肥料の投下(施肥)が盛んに行われるようになります。当時の水田はこの施肥による汚水処理も重要な作業でした。ここ大岡川下流の「吉田新田」は海に面し、田んぼの真水を維持すために上流から肥料の成分を多く含んだ水を排水用に貯めなければなりませんでした。河口部だったことで、海水の干満差を利用するためには、一度貯めておく必要があったのです。
海に面した水田の維持は大変だったに違いありません。
幕末に近づいた頃はすでに「北一つ目沼」は常清寺を中心に宅地化されていました。開港後は一時期遊郭にもなり吉田町、吉田橋と続く要衝の地でした、一方の「南一つ目沼」は灌漑用水路(中川)からの汚水を貯める悪臭のする沼のままでした。
明治に入りさらに関内外の整備の動きが加速しました。
1870年(明治3年)には根岸湾と中村川を繋ぐ「堀割川」計画が始まり、かつて中川と呼ばれていた新田中央を流れる灌漑用水路を活かした運河を整備し直結する計画も始まります。
南一つ目沼を宅地に変えろ!
埋立に必要な土は堀割川開削時の土を活かしました。そして誕生したのが「日ノ出川」水路です。南一つ目沼埋立時の水抜き用水路も兼ねて残されたものでしょう。
埋め立てられた日ノ出川両側は七つの町が作られ「埋地七ケ町」と呼ばれました。町には運河を利用した開港場に必要な回漕店、石材店、木材店の他多くの店が出店しました。宅地としても賑わい、豪邸も建てられました。

大正期頃の日ノ出川風景

掲載の風景は、日ノ出川扇町付近の風景です。川岸に石材店があり、和船には木材が積まれているのが判ります。ただ前述のように日ノ出川は運河というよりも周辺の宅地排水路の役割のほうが大きかったのではないでしょうか。早くから川の汚れに対する苦情もお多かったようです。
日ノ出川は川幅が狭く、水深も浅かったことから、 大型船の航行には適していなかったため、明治期から両岸の町内が日ノ出川によって分断されていた<寿町・松影町・吉浜町・扇町・翁町・不老町・長者町等>の住民からは埋立要求が出ていました。
一方で両岸を活かして営む薪炭商・製材商・材木商・造船鉄工商・青物商らは生活を脅かされることから<埋立には反対>の声が出ていた結果、対立の構造が生まれてしまいました。

戦前、昭和初期の日ノ出川付近 正面に寿小学校

横浜一帯が焼土となってしまった関東大震災後の1924年(大正13年)
復興計画の一貫として政府復興局は、山下公園・野毛山公園・神奈川公園の公園整備とともに、日ノ出川を埋め立てて<公園化>する案が検討されましたが、埋立反対派の事業者たちは市議会に存続・改修を求める要求を出し、可決され埋立計画は幻のものとなってしまいました。
ほとんど艀船も入れなくなっていた日ノ出川は、浚渫もできず、埋立もできないまま結局戦後まで残される形となります。
さらに追い打ちをかけるように横浜空襲で周辺は焼け野原となり、日ノ出川は残骸・瓦礫の投棄処分が繰り返され、川の体を失っていきました。
戦後は長者町通りを境に東側が占領軍に接収され、その間は抜本的な都市改造は休止じょうたいでした。本格的に日ノ出川埋立計画が始まったのは接収が解除された1953年(昭和28年)のことです。

終戦直後の関外埋地七ケ町付近

関連ブログ
【大岡川運河物語】埋地七ケ町その1

10月 19

【絵葉書の風景】横濱山手英国病院

<ちょっと具合悪そう>
「横濱山手英国病院
 English Hospital Bluff Yokohama.」

撮影場所:横浜市中区山手
撮影時期:明治末期か?
横濱絵葉書コレクターの世界では人気の一枚らしい。
確認できる最古?クラスのブラフ積み擁壁とガス灯が写っているからだそうです。
偶然手に入れたものですが、この絵葉書の風景、拡大してみると人物が尋常じゃななそう。
まず絵解きをする前に
横濱山手英国病院(イギリス海軍病院)は、横浜山手居留地(ブラフ)161番に1868年頃完成しました。
横浜が開港しました!
外国人が来ました!って話なんですが、当時の状況はそんなに甘いもんやおまへん。
当時の二大強国<英・仏>は居留地の自国民を守るために、軍隊を常駐させます。現在のふらんす山と港のみえる丘公園あたりが英仏の駐屯地でした。
そこに、様々な自国民のための施設を建設します。これは戦後の進駐軍と似ています。
(ここは病院前)
一台の人力車、二人の和服の女性。
よく見ると、女性の一人は”具合悪そう”に見えませんか?
人力車の車夫も心配そうに二人を眺めています。
付き添いの女性は<傘>を持っています。
雨か雪でも降りそうな空模様、
背景の<桜花>から季節は春先でしょうか?
勝手に物語を想像すると
急に具合が悪くなった日本人女性が、「そうだ丘の上にエゲレス病院がある」というわけで付き添いを伴って人力車で駆けつけたところ
<断られた>
<利用するかどうか逡巡><重い病気を告げられた>
どれででも良いのですが この女性は確かに尋常ではなさそうです。
撮影者はこの女性と人力車を”意図”して絵にしたのか?
いろいろ想像力を掻き立てる風景です。
(ブラフ積み)
直方体の石材を縦横交互に並べ、端面が1つおきに出るように積む技法を、当時の山手近郊の<ブラフ(崖)>に因んで「ブラフ積み」と後から呼んだものです。
煉瓦積みの技法に「フランドル積み」または「フランス積み」と呼ばれるものがあります。この手法が「ブラフ積み」として擁壁に応用された限定的なもので貴重な近代遺産です。
少し長いですが
「横浜には数多くの歴史的建造物、遺構があることは周知の事実である。特に山手などは外国人居留地があった時代が色濃く残っている。「ブラフ積」という洋風石垣も、その中のひとつである。「ブラフ積」とは、1867年に第一回山手地所の競売によって外国人の住宅地として開放され、細かく入り込んだ斜面に宅地が造成された過程で生じた多くの崖の土留めのことを言う。千葉の房州石を棒状の直方体に加工し、長手面(横)と小口面(縦)を交互に並べたもので、従来の「野面積」とは異なる積み方は当時としては大変画期的であった。もともと「ブラフ(Bruff)」とは、海岸や谷間の「絶壁・断崖」を意味し、当時本牧や山手に多く見られた切り立った崖を「ブラフ」と呼んでいた(幕末、日本来航時に横浜周辺を測量したペリーは、本牧十二天《現在の本牧市民公園》のオレンジ色の崖をその色から『マンダリン・ブラフ』と呼んでいた)ことから、居留地によって生まれた洋風技術と言える。また、縦に積むことで、崖に深く入り込むようになっているため、耐震性にも優れ、関東大震災でほとんど崩壊せず現存している場所が多いことを考えてもそれが実証済みだと言えよう。(横浜経済新聞2007-10-03)」
「横濱山手英国病院」は1867年以降山手地区の洋館群が競って建設される中、1868年に完成したものです。
参考に、山手を下り元町にあった薬師堂の雁木と擁壁も紹介しておきましょう。
一枚の絵葉書、いろいろなところに注目すると面白いですね。
9月 16

【大岡川の橋】吉浜橋付近

橫濱絵葉書吉浜橋大正初期ごろの風景と思われる。派大岡川吉浜橋近くで釣りを楽しむ子どもたち。
私の関心は右の釣りをする子どもたちより少し大人の人物二名。
荷物を背負う男性と、性別は不確かだが恐らく女性と思われる人物が写り込んでいる。そしてその人物は何か手持ちの荷物でカメラ目線では顔を隠しているようにも見える。日差しを避けているのか、写りたくないのか。
子どもたちに視点を移すと、5人の子どもたちの内、釣りは2名。
帽子を被る者2名。手彩色のため服の色彩はヒントにならない。
一番左の子供は 履いていた下駄を脱いでいる。
 明治に始まった写真絵葉書の構図は大正・昭和に入るとカメラマンの意思、センスが感じられるようになる。人物も敢えて<配し>構成する意図があるようだ。 吉浜橋
1898年(明治31年) 鉄の橋に架替 設計は野口嘉茂
派大岡川南東に位置し、橫濱製鉄所※への連絡橋の役割を担った。
仕様:橋長27間2分(約49.1m) 橋幅4間2分(約7.3m) 横浜製鉄所
1865年(慶応元年八月二四日)1865年10月13日 竣工