3月 27

第951話【横浜の地図】東京横浜電鉄

1930年(昭和5年)に発行された「東京横濱電鐵」の沿線案内を兼ねた路線図の一部です。

1930年(昭和5年)に発行

この路線図をネタにこの時代を少し読み解いてみます。
現在と異なっているのが、
○国鉄線の「程が谷」→「保土ケ谷」
一昔前は「保土ヶ谷」でしたが近年は「保土ケ谷」表記要請もあり変更されています。
この駅は1887年(明治20年)7月11日に東海道本線が開業し「程ヶ谷駅」として開業し、1931年(昭和6年)10月1日に保土ヶ谷に改称します。
現在「保土ケ谷駅」は横須賀線の駅で、東海道線は止まりません。
1930年(昭和5年)3月15日に横須賀線が電化されたことをきっかけに通過駅となりました。
○湘南電車黄金町駅→「京浜急行黄金町駅」
この路線図が発行された1930年(昭和5年)がポイントです。この年の4月1日に湘南電気鉄道が黄金町を始発駅として浦賀駅まで、また同時に金沢八景駅から湘南逗子駅まで開通しました。
翌年、湘南電気鉄道は隣の「日ノ出町駅」まで延伸、東から延伸した「京浜電気鉄道」と合流し京浜急行が誕生します。
○本横濱駅
1928年(昭和3年)8月から1931年(昭和6年)1月まで2年と5ヶ月間存在した駅です。やや複雑なのが本横濱駅は1928年(昭和3年)5月に「高島駅」として開業し、三ヶ月で変更され、1931年(昭和6年)1月に元の「高島駅」をちょっとアレンジした?「高島町駅」に戻ります。
現在は横浜駅・桜木町駅間が廃止され消え去りました。
○東神奈川・菊名間
この時点で、「大口駅」はありませんでした。大口駅が開業したのは戦後1947年(昭和22年)12月20日のことです。
○神奈川駅→廃止
東京横浜電鉄が開業当時、横濱の終着駅として1926年(大正15年)2月14日に開業しました。開業当時は、国鉄神奈川駅、京浜電気鉄道神奈川駅もできるなど、現在の横浜駅はありませんでした。その後、東京横浜電鉄が延伸する中、若干高島トンネル寄りに移動して営業。戦時中に空襲を受け全焼し営業休止のまま1950年(昭和25年)4月8日されました。
○新太田町駅→廃止
1926年(大正15年)路線の開業と同時に開設された駅です。神奈川駅と同様横浜大空襲で消失し休業し戦後すぐに廃止されました。
ところが、1949年(昭和24年)3月15日から6月15日まで野毛山と神奈川の二ヶ所に分かれて開催された「日本貿易博覧会」のアクセス駅として新太田町駅を「博覧会場前駅」として臨時復活しました。(記念碑が残っています)
No.75 3月15日 JAPAN FOREIGN TRADE FAIR YOKOHAMA

No.75 3月15日 JAPAN FOREIGN TRADE FAIR YOKOHAMA


※横浜駅・神奈川駅・反町駅・新太田町駅の駅間距離は極めて短かったので、廃止は時間の問題だったといえるでしょう。
○太尾駅→大倉山駅
太尾の名は古くからある地の名で、橘樹郡大綱村大字太尾を駅名としました。1932年(昭和7年)3月31日に「大倉山駅」に改称され現在に至ります。「大倉山」の名はこの路線マップに掲載されている「大倉精神文化研究所」がこの地に設立されたことに由来します。ここは梅の名所でもあります。
○綱島温泉駅→綱島駅
東京横浜電鉄が開通した1926年(大正15年)2月14日に開設された初期の駅の一つです。路線が開通した当時、すでにこの近くにラジウム温泉が出ることが確認されていたことから「綱島温泉駅」と命名。この温泉を電鉄会社も乗客誘致を兼ね温泉ビジネスに進出、直営の「綱島温泉浴場」を開業します。
その後、戦争突入により温泉街の旅館業廃業命令が出されながらも細々と営業されていました。
1944年(昭和19年)10月20日に綱島温泉駅は綱島駅に改称し現在に至ります。
温泉街としては、戦後また復活し「東京の奥座敷」や「関東の有馬温泉」などとも呼ばれた時期があります。
(西の岡山・東の綱島)
このフレーズは、戦前の桃の名産地を示した言葉で、綱島は水害に強い桃生産でその名を全国に轟かせた時期があります。
No.57 2月26日 ある街のある店の歴史

No.57 2月26日 ある街のある店の歴史


No.703 【閑話休題】ちょいと東西比較

No.703 【閑話休題】ちょいと東西比較


■住宅地の開発・販売
東京横浜電鉄時代から東急電鉄に至るまで、電鉄会社としては積極的に分譲地開発を進め、菊名(錦ヶ丘)、綱島、日吉、そして有名なった田園調布などが開発されました。
■白楽駅・東白楽駅
市営住宅
斎藤分町に建てられた市営住宅のことと思われます。
神奈川県立工業学校→1911年(明治44年)に開校した神奈川県立工業学校のことで神奈川県内で最も歴史ある工業高校です。日本のファーブルとして有名な熊田千佳慕もこの路線図が発行された頃の1929年(昭和4年)に、神奈川県立工業学校から東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学しています。
No.44 2月13日 熊田と土門

No.44 2月13日 熊田と土門


■妙蓮寺・熊野神社・慈雲寺
戦前の観光資源は神社仏閣が主流を占めていました。沿線にも幾つか観光スポットとして神社仏閣が示されています。
妙蓮寺に関して
No.422 【舞台としての横浜】妙蓮寺と野毛

No.422 【舞台としての横浜】妙蓮寺と野毛


※横浜線と東急線に<翻弄された>お寺です。でも結果的に駅前の便利なお寺として良かったのではないでしょうか。
・熊野神社(師岡熊野神社)に関して
「横浜の祈願所として親しまれ西暦724(神亀元)年に開かれた1280余年の歴史を誇る 横浜市内随一のパワースポット」と自らのHPでも称する神社。  戦前はかなり広い境内があり、現在も杉山神社と尾根伝いに繋がっています。
・慈雲寺に関して
日蓮宗の寺院で、港北区仲手原にあります。妙蓮寺(妙仙寺)と並ぶ本門寺の末寺で新編武蔵風土記稿には「明治元年一月七日、神奈川町大火に類燒し、堂宇・什寶等悉く灰燼に歸し、中興以來の舊記等を失ひ、沿革全く不明となつた。同寺は元、神奈川町字神明町七百三十二番地に在つたが、現住第二十五世日量代、境内及び境地全部約一千坪の地と神奈川小學校敷地として、横濱市に讓與し、大正十四年八月十二日、今の地に移轉した。」とあります。

7月 11

第845話 横浜駅「京急西口通路」完成

私は都度、目標を決めて達成する“横浜コンプリート”を楽しんでいます。
その達成メニューの一つが<市内の鉄道全駅に降り立つ>ことです。横浜図版 横浜市内には135の駅があり、21の路線、8つの会社(市営含む)があります。市内全駅踏破は最初から意図したわけではありません。90年代の後半に仕事で市内18の区役所を訪問する機会があり、鉄道機関を使ったことがキッカケです。
<無人駅>から9路線が乗り入れる<大ターミナル>までそれぞれの駅に不思議な味わいがあります。
135の駅に降り立った後は、それぞれの駅の<歴史>というと大げさですが、生い立ちに関心が出てきました。
駅を語りだすと「横浜駅」だけでも話題が尽きません。
いずれ市内全駅の紹介をしたいので、今日の横浜駅はゴクゴク手短なブログとします。
1987年(昭和62年)7月10日の今日
横浜駅「京急西口通路」(地下)が完成という記事を発見。
「京急西口通路」って 何処かご存知ですか?
京浜急行のホームと<西口・相鉄線方面>を結ぶ連絡地下通路です。
恐らく乗換に利用する人以外この地下通路は知られていない“迷路”ではないでしょうか。
“迷路”とはいささか失礼な表現かもしれません。
かつて横浜駅は、東西を繋ぐ自由通路が限られていて大変不便でした。(現在もわかりにくい)
横浜駅は、jRを囲むように東に京浜急行、西に相模鉄道、地下に東急・みなとみらい線(かつては西側)が乗り入れています。相模鉄道線から京急に、東急線から京浜急行への乗り換えは<至難の技?>でした。(現在もかなり大変です)light1974年1974年(昭和49年)

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     上図は1979年発行の横浜駅近辺マップ
1980年(昭和56年)11月20日に東西自由通路が全面開通し連絡こ線橋が撤去されます。
私はこの京急こ線橋を利用していなかったので殆ど記憶がありません。
東京寄りの今も残されている<跨線橋>は頻繁に利用していました。
「京急西口通路」を示すマップは無いか?

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1996年の駅周辺詳細図に点線で示してありました。この「京急西口通路」は<横浜駅みなみ通路>が完成した現在も一部がそのまま活用されています。
それにしても、横浜駅は工事していない時期があったのでしょうか?と言いたくなるくらい工事中駅です。
今日はさらっと小さなネタで失礼します。

(過去の7月10日ブログ)
No.192 7月10日(火)もう一つの大岡川
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=415
都市には必ず川の歴史があり氾濫と治水の歴史でもあります。
1976年(昭和51年)7月10日(土)の今日は、大岡川治水工事の一貫として着工した「大岡川分水路」(全長3,640m)の部分通水(笹下川から根岸湾まで)を開始した日です。

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7月 3

第838話 1989年(平成元年)7月3日ミッドナイトアロー号

1990年代の初め、JR新宿駅南口脇にあったバスターミナルから「深夜急行バス」を良く利用したことがあります。最近は、めちゃくちゃわかりにくかった様々な長距離・深夜バスがほぼまとまりました。
「バスタ新宿」
http://shinjuku-busterminal.co.jp
私の利用した「深夜急行バス」は東京駅から新宿経由で湘南に向かう系統で、運行会社は小田急か神奈中か記憶は曖昧です。
当時、新宿発の深夜急行バスにはかなり制限があり横浜駅近くに停車する路線がありませんでした。新宿を出発すると最初の停車が横浜新道の保土ケ谷区今井町で、唯一自宅に近く(新道上の)「今井町」バス停から一般道に降り、そこからタクシーを拾わなければ自宅には辿りつけませんが重宝しました。
この「深夜急行バス」は
1990年代初めから徐々に拡大した新しいサービスで、
“70年代”から始まった「深夜バス」とは異なります。
「深夜バス」は首都圏の郊外に大型団地が急増した60年代、通常の路線バス運行ルートを使って終電に近い時間帯で運行が求められた結果始まったサービスです。
当時の運輸省も検討に入りますが、1970年に神奈川中央交通が独自の判断で日本最初の「深夜バス」を町田で運行します。この年の暮れに運輸省から深夜枠の路線バス運行に関してガイドラインが出され、1971年から一気に深夜時刻の「深夜バス」運行が全国に拡大します。
これに対して、

1989年(平成元年)7月3日の今日、

終電後の交通手段としてターミナル駅から自社の営業路線まで新たにバス路線を開く「深夜急行バス」<ミッドナイトアロー号>が日本で初めて運行されました。

運行会社は東急バス、運行区間は「渋谷〜青葉台間」です。この路線は現在も運行されています。1897000_1011467408897363_203686569932617223_n 11140044_1011469408897163_1978038056709377104_n

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神奈中深夜急行バス
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京急深夜急行バス

深夜運行なので正確には<7月4日>未明ということになりますが、運行上の日付は7月3日出発となるそうです。
前述の通り、初期の運行はかなりルート設定に制限があったようで、新宿駅から横浜駅ルートはありませんでした。しかも途中のバス停設定も自社の路線が運行されているエリアに限られました。
※この原則は現在も変わっていないようです。
この<ミッドナイトアロー号>を皮切りに、全国で終電後の都心部と郊外、そしてターミナルとターミナルを結ぶ「深夜急行バス」が多く運行されるようになりました。

(過去ブログ7月3日)
No.185 7月3日(火) 実録「居留地警察」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=422
1877年(明治10年)7月3日の今日、
神奈川県は居留地の各国領事に対し6月30日付けで横浜外国人居留地取締役(居留地警察のトップ)Edward.S.bensonを解傭(雇用解除)した旨を居留地各国領事に通知しました。

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6月 26

第832話 1934年(昭和9年)6月26日流血の暴動事件

1934年(昭和9年)6月26日の今日
「日吉村合併問題にからむ流血の暴動事件がおき検事・神奈川署員が出動した(横浜歴史年表)」
この日は、橘樹郡日吉村で臨時村会が開かれます。全日吉村は「横浜市」に入る意見書が緊急動議として提案され決選投票の結果<横浜市合併>が議決されます。
この知らせを聞いた日吉村の一部の村民が異議を申し立て
上記の<暴動事件>が起こります。
日吉村は予てから<川崎・横浜分割合併派><全域横浜派>分かれていましたが川崎市・横浜市、そして仲介に入った神奈川県が条件を協議しますが日を追うごと対立が先鋭化します。
この日、<川崎・横浜分割合併派>は「日吉村川崎市合併期成同盟会」を組織しさらに行動を過激化し、最終的に<川崎・横浜分割合併>となり矢上川を境に川崎市と横浜市に分かれ合併されることになります。
横浜市の市域拡大の過程で紛糾し村を分割した形で合併が決定するケースは<橘樹郡日吉村>だけでした。ただ同時期、横浜市は南の合併にも悩みの種を抱えていました。
久良岐郡六浦荘の合併問題です。(1936年(昭和11年)10月1日磯子区に編入)
この<日吉村顛末>は別立てのテーマで横浜市・川崎市の市域拡大史を整理しているところです。
キーワードは<都市化>に伴う水問題でした。
関東大震災後、多くの都市中心部に暮らしていた住民が郊外へ移り始めます。郊外化が始まる中、鉄道が拍車をかけます。
東京横浜電鉄の<目論見>はまさにここにありました。
一方、工業都市を目指す川崎市、貿易から重工業へ産業の厚みを求める横浜市は昭和に入り首都圏の産業構造の転換を図ります。工場を誘致し自治体の財政基盤を安定させようとする試みが東京を取り巻く首都圏で盛んになります。
結果、そこに必要とされるインフラが<水道設備(利水)>と<洪水に強い(治水・下水)>です。
川崎市は工業都市を目指す上で、多摩川と鶴見川のエリアを整備し市域拡大を目指します。1929年(昭和4年)に中原町と日吉村に対して合併を申し入れます。
中原町内で独立派と川崎市編入派に分かれ対立が激化します。結果、中原町は水道事業の財政負担に耐えられなくなり川崎市との合併を受け入れることになります。

日吉村は、意見がまとまりませんが時間の問題だろうと川崎市側も静観し<粛々と>日吉村を含めた都市計画案を作成していきます。
昭和7年、ここに東急東横線の日吉への慶應義塾誘致計画が持ち上がります。

しかも東急は横浜市に水道の提供を求め、事態が複雑化します。
市域外に市営水道を提供する訳にはいかないということで、横浜市は日吉村に
1933年(昭和8年)6月10日 正式に合併提案を行います。
これに慌てた川崎市は すぐさま7月13日に対案を提示し、一気に村を分けた大問題となっていきます。
川崎市は 生活圏のことなる矢上川を境に<分割案>
横浜市は 元々提案していた日吉村<全域編入案>を提示し
村は二分、神奈川県も仲裁に入りますが
4年に渡って紛糾を重ね
1937年(昭和12年)4月
横浜市は第5次市域拡大として橘樹郡日吉村の一部を
川崎市は第3次市域拡大として橘樹郡日吉村の一部を編入することになります。
この日吉村が<地政学的>に川崎市の重要エリア(喉元)であったことはいうまでもありません。

(関連ブログ)
No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=526

(過去の6月26日ブログ)
No.178 6月26日(火)孟買への道
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=430
1965年(昭和40年)6月26日(土)
インド共和国の最大都市ムンバイと横浜市は姉妹都市締結を行いました。

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2月 20

【横浜の小さな橋】№8 日影橋

今日は「日影橋」を紹介する。恐らく地元の人しか記憶に無い実に地味な橋だが、私のお気に入りPOINTの一つとして紹介しておきたい。
この【横浜の橋】シリーズを始めようと思ったキッカケの一つがこの「日影橋」だった。もう3年前のことだ。2013年の夏、田奈駅から市境ぶらり歩きをするために恩田川を遡上中に出会ったのが「日影橋」だった。恩田川流域 地味ながら横浜の風景、川と橋の関係を考える上で大切な<橋>との出会いだった。
「日影橋」は一級河川「鶴見川」一次支川「恩田川」に架かっている。
二次支川「奈良川」との合流点に設置されているごく普通の桁橋だ。lightP7042598<写真左奥の青い橋が「日影橋」全体の映像は後段で>
竣工:昭和43年3月
橋長:26m
幅員:4m
恩田川は現在の「青葉区」と「緑区」の境となっている。合流する奈良川は恩田(青葉区)一帯を潤す支川で、長津田(緑区)の河岸段丘による台地にぶつかるかたちで恩田川に合流している。
グーグルアースでこの橋周辺をご覧頂きたい。恩田川日影橋 2016-02-18 07.44.01

青葉区の奈良川流域に広がる農地が美しい。実は横浜は近郊農業の町でもある。横浜産の小松菜やキャベツは<かくべつ>だ。住農工商のバランスを考える際、農地の風景は都市にも重要な風景である。すぐ近くには住宅地が迫っている。

日影橋
「日影橋」の名は、古い地名から採っている。旧恩田村字日影山の「日影」を橋名にしているそうだ。因みに、日影は<日陰>ではない。陽の光が影を生む場所を指している。
「日影橋」横には河辺降りることができる階段があり、橋の下のちょっとした<親水空間>が暑い夏の日差しを凌ぐには最適な場所となっている。lightP7042594日影橋 私はここで真夏のランチタイムを楽しんだ。川の水も澄んでいてウォーキングの疲れを癒やすにはもってこいの空間だったのでこの橋が気に入ったのかもしれない。light120704n0087奈良川lightP7042608 (市境めぐり)
日影橋から二つ橋を過ぎると恩田川は東京都町田市成瀬に入る。ここから県境をしばらく歩くことができる。左右に<杉山神社>があり、しばらくすると見事な<尾根境>に入る。市内有数の地境が実感できる散策ルートといえるだろう。ぜひ「恩田川」とセットでお薦めする。lightP7042722 lightP7042707 lightP7042701 lightP7042696 lightP7042688

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10月 26

1954年(昭和29年)6月30日東口「横浜ホテル」

1954年(昭和29年)6月30日
「西区高島通り1丁目5番地にある横浜ホテルを東急が買収(東京急行50年史)」
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<東京急行50年史より>新館完成後か?
light横浜ホテル
昭和24年頃 買収直前か、買収後改装前のものと思われます。

(東西戦争)
戦後、
神奈川県下で五島慶太・昇 率いる「東急」と堤義明・清二率いる「西武」の熾烈な開発競争が行われました。小田原箱根伊豆における東西戦争の歴史は獅子文六の小説にもなり有名です。
箱根は東急傘下の「小田急」と「西武」が、伊豆をめぐっては「東急」の伊豆急と西武が鉄道・バス路線でガチンコ勝負となります。
この東西戦争、巷のネタにはあまりなっていませんが、ここ横浜でも戦後熾烈な企業間競争が行われました。
市内の拠点を俯瞰してみると 現在「新横浜」「磯子」「八景島」あたりに西武が拠点を置いています。
<横浜ホテルを東急が買収>した1950年代は東急が本格的にホテル事業に進出し始めた時期にあたります。
東急グループはヒルトングループとの提携をベースに高級ホテル事業を成功させたいと考えます。まず1954年(昭和29年)3月に軽井沢パークホテルを買収します。その3ヶ月後には<横浜駅前戦略>の幕開けとなった横浜駅東口(西区高島通り1丁目5番地)にあった神奈川都市交通の経営する小さなホテルの買収でした。
一方の西武鉄道も
1954年(昭和29年)10月1日
旧東伏見宮別邸を横浜プリンス会館として開業、
1960年(昭和35年)9月14日には
横浜プリンスホテル新館が開業し横浜のレジャー部門に楔を打つ形で進出を図ってきます。
(ヘッドハンティング)
「横浜ホテル」社長にはキャピー原田と呼ばれた和歌山県出身の両親を持つ日系アメリカ人「原田恒男」が就任。彼は1921年(大正10年)カリフォルニア州に生まれ、日米戦争で日本語情報将校として従軍します。終戦後はGHQ経済科学局(Economic Scientific Section)局長であるウイリアム・F・マーカット少将の副官(中尉)として配属され、当時の大蔵大臣・池田勇人とマーカットとの国家予算など重要な交渉の通訳を担当した人物です。
キャピー原田に関しては<日米野球の恩人>として有名で、この「横浜ホテル」社長だったことに驚く人も多いと思います。
戦前「大東急」を作り、戦後も東急電鐵王国を築いた五島慶太の才能の一つに人材力、事業展開に必要な人物のスカウト力がありました。
GHQを退官後、ハワイアン・トラベル・サービスホテルという日米旅行中心の代理店を開設していた原田恒男もその一人でした。
買収した「横浜ホテル」は木造モルタル造り、二階建て27室という旅館に毛の生えた小さなホテルでしたが経営陣には
社長は前述の原田恒男
取締役には五島昇
五島慶太の懐刀「大川 博
神奈川都市交通の「伊藤 福一
※神奈川都市交通の命名は「大川 博」
といった錚々たるメンバーが参画します。
同年12月27日に新館増築、本館改装を行い新規営業を開始します。
さらには
1955年(昭和30年)4月 「横浜ホテル」は先に買収済みの軽井沢パークホテルの経営にも当たることになります。
そして
1959年(昭和34年)に念願の東京に銀座東急ホテルを着工し 本格的なホテル経営に参入することになります。そして
1961年(昭和36年)4月に「横浜ホテル」は「横浜東急ホテル」へ商号を変更します。

(東口から西口へ)
東急電鉄は以前から横浜駅西口を軸に相鉄線との連結を含め本格的な横浜進出を狙い、「横浜ホテル」は東口から西口にシフトします。
1962年(昭和37年)3月27日
高島のホテルを閉鎖し横浜駅西口に横浜東急ホテルを移し新規オープンします。
この年、11月23日には横浜ステーションビル(シアル)が開業し、横浜駅西口駅前の核施設となります。11253231_1010023155708455_8184732838177142553_n 10492318_1010016622375775_2405860058021609436_n 2002年「横浜エクセルホテル東急」と名称変更。

2011年3月31日に閉館
現在は、「エキサイトよこはま22」計画が進行中です。
(関連ブログ)
No.328 11月23日(金)横浜駅東西戦争史
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=263
No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=328
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=604
No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=530
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=399

※少し長くなりましたが まだまだ
この草創期の東急ホテル事業に関わった人物が面白い!
「横浜ホテル」初代社長の「原田 恒男」
彼の人脈に銀座東急ホテル・東京ヒルトンホテルの「星野 直樹」
星野ファミリーは横浜と深い因縁があります。
東映・大映との関係、平和球場での日米野球
いずれ 掘って!みたいと思います。

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5月 29

【市電ニュースの風景】1931年 №21

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。
21号1931年(昭和6年)5月
東横電鐵直営 日吉台苺園開園中(二十五日前後が最盛)
二十一日 『郵船』龍田丸入港出航(午後三時四号岸壁発 桑港へ)
※この「龍田丸」でフェリス女学校校長シェーファー、日本ミッションを代表して米国伝道局100年祭出席のため帰米しました。
21日 越前屋新館(8階建・延坪2200坪)伊勢佐木町通りに開店
二十二日より二十四日まで 横濱書道展覧会(電車及バス桜木町駅下車)
=市内有名書家並各学校生徒作品陳列並席上揮毫=
=桜木町中央授産所階上にてー入場無料=
二十二日 剣道聯合会五月例会
(午後六時半北仲通二丁目三菱倶楽部にてー観覧随意)
二十二日 三州豊川いなり大祭
(前里町豊川閣出張所にてー電車初音町下車)
22日 日清製粉鶴見工場全焼
二十三日 一高對横濱高商野球戦(電車花園橋下車)
=入場無料ー午後三時より横濱公園球場にて=
二十四日 第八回マンドリン大演奏会(電車及バス本町一丁目下車)
=午後七時より本町開港記念会館にてー入場無料=
二十五日 岡村天満宮大祭(電車天神橋假停留所下車)
二十四日 全関東中等学校剣道大会
(午前八時横濱商業専門学校にてー入場無料)
二十七日 神奈川高等女学校大運動会(電車花園橋下車)
=午前十時より横濱公園運動場にてー入場無料ー雨天翌日に延期=

懸賞標語
不断の注意は最大の公徳(当選者 松永 伊吉 君)
※アラビア数字は別の年表から追記したものです。

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■東横電鐵直営 日吉台苺園
1926年(大正15年)2月14日に開業した「日吉駅」は、東急が新しい都市開発をイメージしたエリアで、東側に慶応義塾大学を誘致し西側に放射状の街区を持った街を計画します。スクリーンショット 2015-05-19 19.15.08■三州豊川いなり
「三州豊川稲荷」のことですが、何故「いなり」とひらがなにしたのか?
前里町に戦前の地図を見ると「豊川稲荷」があったことが判ります。戦後20年代から30年代に何らかの事情で無くなっているようです。
※市内の豊川稲荷
埋地連合町内会集会所横に小さな祠がありここが「埋地豊川稲荷」です。中区史によると扇町三丁目七番地に「一説には明治七年の創建」され戦災で消失し昭和38年に現在の地に再建されたとのこと。
神奈川高等女学校大運動会スクリーンショット 2015-05-19 19.06.21「神奈川高等女学校」は現在、沢渡にある神奈川学園高等学校の前身です。
1914年(大正3年)に「横浜実科女学校」として創設されます。
創設の地は南吉田にあった<リンネル工場>跡地の仮校舎だったそうです。
1915年(大正4年)に「横浜実科高等女学校」となり
1921年(大正10年)から「神奈川高等女学校」と改名します。
戦後の新学制から「神奈川高等学校」に1990年(平成2年)から神奈川学園高等学校となり現在に至ります。
http://www.kanagawa-kgs.ac.jp

この「市電ニュース」に登場した運動会の写真が「東急沿線」のサイトで確認できます。
http://touyoko-ensen.com/syasen/kanagawa/ht-txt/kanagawa18.html

ここで一瞬勘違いするのが
1900年(明治33年)10月10日に創立された
 <神奈川県高等女学校>です。翌年に神奈川県立高等女学校となり
1930年(昭和5年)4月1日に「神奈川県立横浜第一高等女学校」となり「第一高女」と呼ばれました。
この「市電ニュース」発行時の昭和六年時点では
「神奈川高等女学校」(沢渡)
「神奈川県立横浜第一高等女学校」(平沼)
の二校が近くにあり間違いやすかったと思います。

Category: 【資料編】, 東急電鉄, 横浜の企業群, 横浜の実業家達, 横浜の駅, 横浜市電 | 【市電ニュースの風景】1931年 №21 はコメントを受け付けていません
2月 5

【横浜雑学録】昭和21年地形図の謎(改訂版プラス)

2019年正月、加筆修正しました。
ブログ作成をきっかけに<横浜関係の資料>を収集するようになりました。
主な歴史資料としては古書・絵葉書そして地図です。その中で、現在手元に横浜エリアの地形図が何枚かあります。
改めて 整理してみると些細なことですが 気がついたことがありますので紹介しておきます

(地形図5万分1 昭和21年発行「横濱」)
昭和21年発行の5万分1
図域名:「横濱」を複数枚入手しました。
一見して全て同じ地形図ですがよくよく見ると 中に表記の異なるものがあるからです。
昭和21年、日本は敗戦後の占領体制の時代です。特に横浜はGHQの重要施設があったこともあり、変化の真っ只中にありました。
この年に発行された地形図、
「発行年月」はまったく同じで<発行日>と<価格>、<内容>が微妙に異なるものが見つかりました。
「国土地理院」のデータによると
5万分1図名:「横浜よこはま」の昭和21年版については下記の情報があります。国土地理院「横浜」一覧リストでは
※昭和7年測量二修正版が昭和21年8月31日に発行。
ところが現物では「昭和7年測量二修正版昭和21年発行」でありながら
内容の異なるものが5種類もありました。

3円50銭
内務省地理調査所3円50銭
8月30日10円
地理調査所8月30日発行10円
8月30日15円
地理調査所8月30日15円

大きくは8月30日地理調査所発行のものと8月31日内務省地理調査所発行のものに分かれます。
さらに異なった価格設定が行われています。
◎その1

昭和21年8月30日発行 「地理調査所」版 定価10円と15円
◎その2
昭和21年8月31日発行 「内務省地理調査所」版 定価2円と3円50銭
◎その3
昭和21年8月31日発行 「地理調査所」版 3円50銭
地図右肩にある区分指定や凡例にも違いがあるようなので比較してみました。

<発行所>
発行所は
「内務省地理調査所」「地理調査所」の二種類
「内務省地理調査所」は終戦2週間後の
1945年(昭和20年)9月1日付けで文民組織である内務省地理調査所が新たに発足し、
1948年(昭和23年)1月1日に建設院(建設省)地理調査所となり
1960年(昭和35年)7月1日に国土地理院となります。
<発行日>
発行の月日は 8月30日と8月31日の二種類あります。冒頭でも紹介したように
国土地理院データでは昭和7年測量二修正版昭和21年8月31日発行のみとなっています。
<頒布価格>
定価2円・3円50銭・10円・15円
改訂版が発行された昭和26年版までの5年間に組織や経済環境が急激に変化していることがこのデータからも読み取ることができます。
物価推移から調べてみると
昭和21年から昭和26年までの間に
(山手線初乗り)
20銭→50銭→3円→5円→10円
(鉛筆1本)
50銭→2円→5円→10円
(白米<農政米>価格)
36円→150円→357円→405円→445円→620円
1946年(昭和21年)2月に新円切替が行われました。
右肩境界確定 右肩境界未確定<区分>
神奈川県武蔵国・相模国
鶴見区・神奈川区の境界未定
地図本体の中身に違い! は?
鶴見区と神奈川区は1927年(昭和2年)10月1日に区制施行により横浜市に編入されますが、昭和期に急速に拡大した埋立て地の境界が未確定の時期の原図を使ったものだと推測できます。境界

この地図の元となったのが
<昭和7年測量二修正版>とあります。
以降発行された
昭和21年まで戦争直前から戦中を経て、戦後最初の発行となったものが今回謎多き地形図です。
この昭和21年版、内容は昭和7年時点のままの部分が多数あります。細部まで確認していませんが、顕著な例は鉄道路線の延伸時期です。
神中鉄道神中鉄道が横浜駅まで乗り入れていませんので1933年(昭和8年)以前、
湘南電気鉄道と京浜電気鉄道の<連結前>の図であることも昭和初期の時点ということが推測できます。

東京急行東横線
東京急行東横線
西区・中区 分区
西区・中区
東京横浜電鉄
東京横浜電鉄
湘南電気鉄道
湘南電気鉄道
京浜急行 南区
京浜急行 南区

 その他は?
根気強くエリアをチェックしますか    。

Category: 【資料編】, 京浜急行, 東急電鉄, 横浜の駅, 相鉄線 | 【横浜雑学録】昭和21年地形図の謎(改訂版プラス) はコメントを受け付けていません
11月 20

【横浜小さな駅】田園都市線 市が尾駅

田園都市線沿線の小さな駅「市が尾駅」周辺を紹介しましょう。

「市が尾駅」は
1966年(昭和41年)4月1日に田園都市線が長津田まで延伸した際に開設されます。
田園都市線の駅間距離が1km前後中心ですが、
隣接駅「江田」へは1.3km、「藤が丘」へは1.5kmと平均より長くしかも起伏のある傾斜地に作られた「駅舎」です。
昔、マーケティングの師匠の教え
「鉄道、国道は川と同じ。地域をつなぐが分断もする。橋が無ければ万里の長城、文化も変える」
「市ケ尾駅」に降り立つとこの言葉を思い出します。
田園都市線はほぼ「国道246号線」に沿って走っていますが、都内の地下路線を除いて「江田駅」とともに246号線に最も近い駅です。

鉄道=田園都市線、国道=246号線が
このエリアを南北に走り、
しかも西側を「一級河川鶴見川」が北から南に流れ“地域を分ける要素”が揃っています。
これは決して悪い意味ではなく、横浜市内の田園都市線沿線としては昔の香りと新興住宅地の香りが併存している独特の街に感じます。

旧道、そして河川敷の佇まい。
起伏のある丘陵地帯と、そこに広がる新興住宅地。
典型的な「郊外の街」とも少し違う街の佇まいがあります。

鶴見川に沿って散策していくと鉄(くろがね)町、さらに上流には寺家のふるさと村もあり、横浜の“原風景”を巡る最適なルートです。

「市が尾」は不思議な町です。
青葉区内の田園都市線各駅「青葉台」や「あざみ野」「たまプラーザ」と比較して小さな町ですが、
青葉区の行政上の中心地域としての顔があります。
○横浜市青葉区総合庁舎
 市内18区の中でも、青葉区役所は解りにくい(行きにくい)ベストスリーに入るかもしれません。
 ○横浜市青葉福祉保健センター
 ○横浜市青葉スポーツセンター
 ○横浜市青葉公会堂
 ○横浜市消防局 青葉消防署
 ○青葉郵便局
 ○神奈川県警察 青葉警察署
 ○横浜地方法務局 青葉出張所
 ○神奈川県 緑県税事務所
 ○緑税務署
と行政の施設が集中しています。
また1998年(平成10年)3月に
東名高速道路 横浜青葉インターチェンジが開通したことで、交通の要衝になります。

(古代史の街)
市ケ尾他鶴見側流域には、古代遺跡が数多く発見され、残されています。
市が尾駅からほど近いところにある「稲荷前古墳群」は珍しい中規模古墳で、当時の生活圏の大きさ(統治者の規模)を測ることができます。15〜17号墳の3基が保存されていて中でも16号墳は全国的にも珍しい方墳と方墳が線で結ばれたような形をしています。
http://kofun.info/kofun/213

また「市ヶ尾横穴古墳群」は、有力な農民の墓として6世紀後半から7世紀後半の古墳時代末期に造られたと考えられています。派手な「古墳群」ではありませんが、このエリアを歩いているとひと際良くわかる“こんもりとした丘”が「古墳群」として残されています。一部は開放されていて無理をすれば横穴に入ることもできます。(子供であれば難なく)
中にはガラス窓から横穴を覗くこともできます。
http://kofun.info/kofun/573

(ついでに)
駅から1分のところにある「市が尾第三公園」のオブジェ

「市が尾ベーカリー」
地元で信頼のあるパン屋さんだそうです。
“人気の”という枕ではなく“信頼の”というところがミソですね。
ご夫婦二人で、切り盛りされています。
→駅から徒歩7分位


「田園の憂鬱」
No.472 横浜と法政大学、その点と線

ここでも書きましたが、佐藤春夫が一時期暮らしていました。
「田園の憂鬱」の舞台となりました。

「とんかつ とん平」
なかなか丁寧な仕事ぶりで、
地元に愛されている感じが伺えるお店です。
→駅から徒歩5分位

※「市が尾駅」特に「わざわざ」行くところではありませんが、
 時にぶらっと立ち寄ってみたいところです。

10月 20

横浜年表ピックアップ【10月20日】

横浜の出来事を年表からピックアップしました。

■トピックス
2013年(平成25年)の今日10月20日は、10月の第3日曜日にあたります。
10月第3日曜日は「新聞少年の日」「新聞配達の日」です。
この「新聞少年の日」は横浜ネタがあります。
No.157 6月5日(火) 半ズボンより長ズボンでしょ!

ここで紹介した「日本大通」にある新聞少年の像、
「長ズボン」なんです。だからなんだ!!について追っかけてみました。


※新聞週間中の日曜日を「新聞配達の日・新聞少年の日」と定めています。「新聞少年の日 」は1960年代に新聞配達の主力を担った少年たちの労をねぎらい、激励するとともに、 広く一般の理解を求めるために1962年に設置されました。
http://www.pressnet.or.jp/about/shimbun_shukan/gyouji/

●1875年(明治8年)の今日
「塚原渋柿園(27歳)田口十内の「讒謗律の疑ひ」を掲載したかどにより、編集長として罰金百円、禁獄十カ月に処せられる。」
新聞紙条例(1875年明治8年6月発布)に違反で摘発されたのは
塚原渋柿園が「横浜毎日新聞」に勤めていた頃です。
1874年(明治7年)に入社とありますから、まあ入社一年目で言論弾圧にあった!ということでしょう。これで“ひよった”(死語?)訳ではないでしょうが、1878年(明治11年)「東京日日新聞」に移り、新聞小説家として活躍します。
一方投稿した「田口十内」こと田口卯吉は頑張って時の権力を批判し続けます。
No.250 9月6日(木)やはり官僚には向かなかった?

●1885年(明治18年)の今日
横浜とは直接関係ありませんがメートル法条約に加入。
尺貫法は戦後まで併用されました。

●1913年(大正3年)の今日
神奈川県横浜市鶴見、総持寺で大梵鐘鋳造式が行われる。

●1986年(昭和61年)の今日
みなとみらい21熱供給会社設立。

手前の白煙(水蒸気)を出している施設

(Wikiでは10月1日となっていますが創立総会と登記の差です)
この会社は、みなとみらい21中央地区のオフィスビル、商業施設、ホテル、コンベンションセンター、病院、マンションや地下鉄駅に熱供給事業を行う地域熱供給会社です。現在では日本有数の規模を誇る熱供給会社です。
http://www.mm21dhc.co.jp/index.html

●1938年(昭和13年)の今日
江ノ島電鉄株式会社、戦時統合により東京横浜電鉄(現東京急行電鉄)の傘下に一時期入りました。

●1944年(昭和19年)の今日
「綱島温泉駅」「綱島駅」に改称。
1926年(大正15年)2月14日「綱島温泉駅」として開業しました。
戦争が始まると同時に旅館業の廃業命令が出て、戦後復活するまで綱島温泉は休業状態になります。駅名の変更は“戦時命令”によるものでしょう。
戦後も東京近郊の温泉地「東京の奥座敷」として賑わいますが、
2008年3月15日宿泊施設として最後の温泉施設、
 横浜市教職員互助会「浜京」が閉店し現在では「東京園」を残すのみです。


※「綱島」の地名の由来は、川の中州や湿地に浮かぶ島から来ているそうです。