11月 16

第928話【横浜グルメ】土用の丑の日

突然食の話です。
土用の丑の日、2017年は二度あったので<酉の市>のように「ニの丑」とでもいうのでしょうか。貴重な食べ物になりつつある「うなぎ」資源枯渇と言われても食べたくなりますね。
2016年は?
7月30日(土)の一回です。
2017年は?
7月25日(火)8月6日(日)の二回でした。
このうなぎを夏に食べる<土用の丑>仕掛け人は平賀源内だそうで、『明和誌』(青山白峰著)という明治の書物に書かれています。ことの顛末はさておいて、以来200年近く続いているこの食習慣、すごいですね。
このブログも
初めて横浜を多方面から学んでみよう!
そのためには自分の<関心>に関わらずテーマに従って調べていくことにしました。
2011年暮れから始めて、
2012年1月1日から一年、先輩の励ましでまず毎日<一日一話>形式でテーマを史料から選び出し小話を書いていきました。

No.1 1月1日(日) 奇跡の1998年(前半)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=622
ここから途中ペースダウンがあるものの間もなく1000話達成が見えてきました。
当初は昨年2016年の「土用の丑の日」までに達成目標!!!のつもりでした。
見事挫折、一時は諦めようと思っていました。気分転換、別仕立てで準備をしようと思いつつ半年。日々の軽さに慣れてしまい困ったものです。
これだけ書いていると、ある種の“習慣”みたいなもので、見るもの聞くもの皆ブログネタに結びついてしまいます。
ペースダウンして時も新聞のチラシや買い物のついでに<ネタ>を探している自分がいますが、
<土用の丑の日>を横浜ネタにと思いつつ中々書けないで前ふりばかり
<つかみ>ばかり長い落語のようです。
横浜と<鰻>
現在のグルメ情報を食べログのように書くのもな、ちょっとこだわりもありますからそれなりに歴史も入れつつ構成できないものか?
まず かなりムリムリ芋づる方式でいくと
鰻といえば<浜松>ですね。
<浜松ネタ>書いています。
No.223 8月10日 (金)奇跡の釘
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=384
1875年(明治8年)8月10日(火)の夕暮れの話です。ところは静岡県の福島村で、浜名湖のすぐ近くで起こった黒船事件を紹介しています。

うなぎの浜松といえばNHK大河ドラマ、掃部山の井伊家(彦根藩)は天下を取る前から徳川家に使えていました。遠江の在地領主で中世から井伊谷(現在の浜松市北区引佐町)辺りを治めていました。といっても、徳川幕府となり浜松から彦根に移ってから<土用のうなぎ>がブームになりましたから、ちょっとムリムリです。井伊家は牛肉ですね。
では一気に時代を明治以降の進めます。
横浜で老舗のうなぎ屋さんといえば関内の「わかな」です。
この店は明治5年創業ですが、最初は野毛の居酒屋だったそうで、その後牛鍋屋を馬車道で開業し鰻を扱うようになり現在に至っています。それでも伝統あるお店であることは間違いありません。
「わかな」
http://www.yokohama-wakana.com
お高いのであまり食していませんが
この10年で食べた「うなぎ」で印象に残っているお店
吉田町「八十八」
http://www.yokohamayasohachi.com
復活した名店です。

八十八

石川町「濱新」
http://hamashin.org
吉田町から移転しました。
尻手の「鰻善」
一癖あるおやじさんでした。→閉店
浜マーケット「小島家」
10年前に移転する前にも何度か、おばあちゃんの釜焚きご飯が美味しかった。
野毛から移転するまえから「江戸っ子」(現在は長者町)
テイクアウトが多いですね
反町「菊家」
ここも明治創業とのこと。
横浜橋「八舟」
テイクアウトが多かったですが店内でも食べられます。
瀬谷「いけだ」
住宅街のどまんなかの地味なお店でした。
結局 お店紹介になってしまいました。

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11月 7

第916話【横浜点と線】カーティスという人間

1,000話に向けてエンジン掛けて
新しい発見はありませんが、調査資料の整理を兼ねて紹介します。
ハムとカーティス
今や有名なのであらためて紹介でもありませんが、
横浜市戸塚区で「鎌倉ハム」が誕生したという<トリビア>があります。戸塚エリアがかつて<鎌倉郡戸塚村>だった時代にハム生産が始まったことから”鎌倉ハム”ブランドが誕生しました。
ところがこの「鎌倉ハム」をめぐる諸説は、かなり複雑で真相は未だ<藪>の中といえる部分があり、ことは鎌倉(戸塚)だけにとどまらずブランドを巡るレシピ騒動も加わって複雑怪奇なものなってしまいました。
「横浜もののはじめ考(第三版)」でも諸説を示すだけで解明には至っていません。
戸塚区史では「鎌倉ハムの誕生」を第五章第一節を使って解説しています。
前述の「もののはじめ」その他の資料と併せてアウトラインを紹介しましょう。
ハム製造は戸塚地域で近代産業移入のトップを切り、始まりました。
欧米の香りがするハム製造、「鎌倉ハム」誕生は
「カーティスなる英国人が戸塚でホテルを経営し同時に養豚場を開設してハムやベーコンを製造販売したことに始まります。」
伝聞によると<カーティスは製造方法を門外不出、誰にも教えることをしなかったそうです>その後、ある理由※で複数の日本人が門外不出のレシピを継承して現在に至っています。
※火災の恩義説、レシピ漏洩説など
日本初のハムづくりかどうかに関しては諸説ありますが食肉としてのハム量産化は<鎌倉ハム>が日本初で間違い無さそうです。幕末から明治にかけて、初めて<トライ>した事例は数々あり、そこで<元祖騒動>が起こります。横浜の<もの・ことのはじめ>は開港場に於いて事業化の草分けとして存在価値があるのではないでしょうか。

東海道戸塚宿は、江戸時代街道の宿場町として賑わいました。
開港後、幕末から明治初頭にかけて外国人の行動が制限されるなかでも、西へ十里の範囲での休憩点として、また解除後も箱根や富士山詣での中継地点として<戸塚宿>は外国人の利用度が高い街に変身していきます。
ハム製造のウィリアム・カーティスと関係のあった同じ英国のコブ商会、
幕末、慶応三年(1867)には乗合馬車の営業を始め、横浜〜江戸築地間を2時間ほどで結びます。その後、外国人の行動が自由になった明治に入りコブ商会は横浜〜小田原(箱根)ルートも開拓します。多くの外国人が東海道線では直接箱根に行くことができなかった(国府津・御殿場経由)ため、面倒のない馬車を利用したそうです。この事業にカーティスも関係し彼の拠点だった戸塚宿はちょうど良い宿泊(中継)ポイントと考えたのでしょう。

wikipwdiaでは
「鎌倉ハム(かまくらはむ)は食肉加工品であるハムのブランドの一つ。複数の業者が製造販売しており、「日本ハム」や「伊藤ハム」、「プリマハム」のような一企業に属する単独銘柄ではない。
1874年(明治7年)、イギリス人技師ウィリアム・カーティスが神奈川県鎌倉郡で畜産業を始め、横浜で外国人相手に販売を行う。1876年(明治10年)上柏尾村の戸塚街道に面した場所に観光ホテル「白馬亭」を開業。敷地内でハム・ソーセージや牛乳、バター、ケチャップなどの製造を行い、主に横浜居留地の外国人向けに販売した。」
wikipwdiaでは1874年(明治7年)とありますが、
●カーティスがイギリス人技師と言う表現は正確ではありません。
また、戸塚での製造開始年代は1876年(明治9年)ごろが妥当のようです。
“観光ホテル「白馬亭」を開業”も疑問が残るところです。

1907年(明治40年)東京資本の「日本ハム製造㈱」が、
一方「鎌倉ハム製造会社」の名で別の東京資本の会社が設立されます。
そこに元々の戸塚村で製造しているメンバーが本家は我々だと主張し競合が始まり、結局新会社も元々から製造しているメンバーが後継を守り、現在に至っています。

ここで終わろうとしたところ、
別のテーマで「横浜居留地のホテル」について調べている中で、
1876年(明治9年)居留地61番に「カーティス・ホテル(Curtis’Hotel)」を開業、という資料が飛び込んできました。
カーティス(William Curtis)は1864年(元治元年)に来日、元々、P&O(Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)の客船係の経験を持っていた人物で、横浜でホテルビジネスを目指し到着早々居留地86番の「ロイヤルブリティッシュホテル」を譲り受け「コマーシャルホテル」としてオープンする際の経営者となったとありました。
明治期のホテル経営は実力(経営力)の他に<運>が必要でした。開港以降、多くの洋館、ホテルが登場しますが、没落のキッカケは火事でした。
1871年(明治4年)「コマーシャルホテル」も火災で焼失します。
ところが、カーティスが違ったのは、ホテル事業のスクラップ&ビルドの素早さ。「コマーシャルホテル」経営と並行して
1868年(明治元年)の夏には居留地81番に「インターナショナルホテル」を開業していて、火事で「コマーシャルホテル」を失いつつも立ち直る基盤を持っていました。
1874年(明治七年)6月末に「インターナショナルホテル」を売却、7月10日には居留地44番の「ジャパン・ホテル」を買収するなど投機ビジネスとしてホテル経営にあたったようです。
カーティスが戸塚に開業したホテル「白馬亭」は順調に業績を伸ばしますが、それまでに、横浜で手がけてきたホテルビジネスは
「コマーシャルホテル」
「インターナショナルホテル」
「ジャパンホテル」
「カーティスホテル」
「ザ・コマーシャル」
と複数に及びますが、どれも本腰を入れての経営ではなく、ホテルブームの横浜で投機目的だったようです。
前述の「コブ商会」にも参画し、戸塚宿では日本人の妻を持ち
1892年(明治二十五年)ごろには本町通りに戸塚の<肉>を出すレストランも出店します。彼カーティスのその後の足取りは不明ですが、恐らく戸塚の地で亡くなったのではないでしょうか。家族とともに海外へ出た!という説も考えられないこともありませんが、
ハム製造のレシピだけで簡単に事業化が進むことは難しく、短い期間ですが指導に当たったと考えたいところです。
後継者の日本人たちはそれぞれ明治二十年代から三十年代に肉加工業を始め独自のハムやソーセージづくりの道を歩み始めます。
戸塚には
他にも明治十年代に英国人のポーンスフォトが「シェイクスピア・イン」という簡易旅館を開業し、ここでもカーティス農場のハムが珍重されたと戸塚区史にも記述されていてここから西洋ハムが広まっていったことは間違いありません。

1月 13

No.705 【横浜育ち?】サンマー&坦坦

横浜名物の一つにサンマー麺があります。寒い日のサンマー麺は心底温まります。
サンマーは漢字で「生馬麺」「生碼麺」と書きます。どちらがそもそも「サンマー麺」を表したのか?定説はありませんが、横浜市中区の中華料理店から戦後まもなく現在のスタイルが発祥したと云われています。
サンマー麺は<横浜生まれ>のグルメアイテムの一つです。
一方、担々麺の美味しい店も多いのも横浜ならではの特徴です。
日本の担々麺のルーツは?
http://ja.wikipedia.org/wiki/担担麺
「日本の担担麺は、麻婆豆腐と同様に、四川省出身の料理人陳建民が日本人向けに改良した作り方を紹介して広まったと言われる。」
中華といえば<中華街>ですが、私の記憶では中華街の多くのお店で<担々麺>が表メニューとなったのはここ20年以内の現象ではないかと思います。
1980年代、中華街の担々麺は板場料理から常連の<裏メニュー>そして90年代に登場した比較的新しい<和製中華?>ではないでしょうか?

<サンマーミエン>
「生馬麺」は広東語の読み方で「生=サン 馬=マー」と呼び広東料理の仲間ですが、
元々は「新鮮でしゃきしゃきした」具を“載せ”た麺を表したようです。
一方「生碼麺」は、
同じく広東語で「サンマーミエン」と発音しますが、「碼」の意味は長さの単位、数字の番号、部屋番号を表したり、港の<埠頭>を指す意味で使われているそうです。
「横浜の多くの埠頭で働く労働者が好んで食べたところから、この字が使われるようになった」と言う説もあり横浜港の<へそ>大さん橋ふ頭に「生碼麺」は似合う?料理かもしれませんね。

(サンマー麺の定義)
サンマー麺には厳格な<定義>がないところが魅力かもしれません。
基本条件:
ベースが醤油味であること。最近では、塩味のサンマー麺もありますから拡張していますね。
具は「肉」と「しゃきしゃきもやし」、「白菜程度+ちょっとした具」
これらを「あんかけで綴じた」麺
ということです。

「かながわサンマー麺の会」
http://www.sannma-men.com

サンマー麺発祥の店にも諸説あるそうですが、
有名なのが 伊勢佐木の「玉泉亭」です。
「戦後当店先代が考案し「生碼麺」と命名。由来は「生」(野菜)「碼」(具を載せた)麺という意味から付けられたと云われる。(現店主が先代より聞いた話として)戦前、中華街の「聘珍樓」にもメニューに「生碼麺」サンマーメンがあったが当時のレシピも残っておらず、価格が「柳麺」ラーメンの倍以上であることから、今日のサンマー麺とは別物だった可能性もあると云われている。」
と大店「聘珍樓」とは一線を画していますが、真偽の程はわかりません。

「大沢屋」
「創業は1953年。多くの常連客に愛され続けて60有余年のサンマー麺の店。 あっさりとしてコクと旨味のある醤油スープは、何度食べても飽きない味です。「安く美味しく」をモットーにこれからも腕を振るいます。 皆様のご来店お待ちしております。」

(中華の粋)
サンマー麺、担々麺は日本で生まれた中華料理の一つですが、中華料理の奥深さはどこの国においてもその国にある美味しい食材を<料理メニュー>する食への誘い力にあります。近年「中華料理」「中国料理」と区別されて表現されるようになってきました。ある定義では「中華料理」は「日本向けに味付けや調理法が工夫された料理」、「中国料理」は「中国本来の料理」といわれるようになってきました。
私は「中華料理」の包容力が好きです。「中国本来の料理」=中国料理という表現も中国の多様性を狭めているように思います。「広東」「四川」「北京」「江蘇」「浙江」「湖南」等々 地域の味を持っています。また世界各国で華僑の先人たちがアレンジしてきた美味しい料理も数多くあります。
と 難しく考えるより 美味しい味を楽しむことができる<横浜中華料理>のメニューがさらに広がると良いですね。

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9月 22

【芋づる横浜物語】縁は異なもの味なもの1

縁は異なもの味なもの
本来は「男女の縁は常識では考えられない不思議でおもしろいものであるの意」といった、艶っぽい言葉ですが
今日は前段の長い長い【芋づる横浜物語】から味の話を始めます。
lig_WV240027.jpg
(和食とは)
「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録されました。さて?和食とはと問われてその概要、定義を語れる方は意外に少ないかもしれません。
そこはユネスコ登録! 日本から提出した日本食の定義が
(善し悪しはこの際別にして)あります。
「和食」の特徴
■多様で新鮮な食材とその持ち味の尊重
日本の国土は南北に長く、海、山、里と表情豊かな自然が広がっているため、各地で地域に根差した多様な食材が用いられています。また、素材の味わいを活かす調理技術・調理道具が発達しています。
■栄養バランスに優れた健康的な食生活
一汁三菜を基本とする日本の食事スタイルは理想的な栄養バランスと言われています。また、「うま味」を上手に使うことによって動物性油脂の少ない食生活を実現しており、日本人の長寿、肥満防止に役立っています。
■自然の美しさや季節の移ろいの表現
食事の場で、自然の美しさや四季の移ろいを表現することも特徴のひとつです。季節の花や葉などで料理を飾りつけたり、季節に合った調度品や器を利用したりして、季節感を楽しみます。
■正月などの年中行事との密接な関わり
日本の食文化は、年中行事と密接に関わって育まれてきました。自然の恵みである「食」を分け合い、食の時間を共にすることで、家族や地域の絆を深めてきました。
http://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/ich/だそうです。
私は これとは別の視点で「和食」の魅力を紹介します。
世界に多くの食のスタイルがありますが
その国その地域の食文化を知るには『保存食』の歴史を知ると面白いと思っています。
各国料理の乾燥食材活用はすばらしいものがあります。干物、薫製類はまさに乾燥食材の美学です。
塩漬けや砂糖漬けも保存食の代表的レシピです。
同様に『発酵食品』の工夫も地域の特色が現れています。
日本食では特にバラエティのある『発酵食品』が多いような気がします。
味噌・醤油・酒・酢のような調味料や
「すし」(寿司ではありません)類の「鮒ずし」「ハタハタずし」
「納豆」「塩辛」「漬物」最近ブームとなった「塩麹・しょうゆ麹」「魚醤油」「かつお節」「舞昆」「くさや」
特に日本食に登場する発酵食は世界の食文化の中でも多彩だと思います。

たまたま、変わった発酵食は無いか?
と色々探していたところ、クックパッドに
http://cookpad.com/search/チーズ%20味噌漬け
「チーズの味噌漬け」がありました。
「味噌漬け」は奥が深い!のです。
卵の黄身を味噌漬けにして程よく固まった頃は最高です。
http://www.sirogohan.com/kimiduke.html
実は肉の味噌漬けも色々試してみました。
自作も良いですが 地域の名産に絶品の「肉の味噌漬け」があります。

千成亭の「彦根肉の味噌漬」は彦根で仕事をして以来のファンです。
http://www.sennaritei.co.jp
水戸の徳川斉昭は無類の肉好きで、特に「彦根肉の味噌漬」が大好物だったそうです。「彦根肉の味噌漬を何卒、贈らせ給へ」と井伊直弼に頼んだら断られた!のが遠因で水戸藩と直弼は不仲に さらには「桜田門外の変」にという話迄残っているほど江戸時代からの名物だったそうです。
lig_P4180039.jpg
<見栄えは上手く写っていませんが、味は絶品です>

「チーズの味噌漬け」に話を戻します。
味噌にカマンベールチーズを漬け込むだけで珍味が誕生します。
ぜひ お勧めします。ということで、味噌蔵が「チーズの味噌漬け」を作っていないか?探したところ 見つかりました。
モッツアレラチーズ・プロボローネチーズ・ナチュラルチーズの味噌漬けを扱っている群馬の「たむらや」を取り寄せてみました。
http://www.tamuraya.com/category/index/category_code/CHEESE
味噌とチーズが合わない訳がありませんが、やはり良い味噌との組み合わせですよね。いい感じです。
lig_たむらや

(その他 おすすめ発酵食)
私が食べた中で 美味しくてたまらなかった 発酵食を紹介します。

★宇都宮「青源」の味噌
手頃なものとしては「味噌飴」(発酵食ではありませんが)
なんか面白いです。
lig_P7301072.jpg

<写真はひしほ(醤)。野菜との相性が良い>
http://www.aogen.co.jp

★福井県の「へしこ」もおすすめ。
http://info.pref.fukui.jp/hanbai/syunfile/syun19/syoku_fukei_01.htm

となんだか横浜とは全く関係のない話になってしまいましたが
実は、
この群馬の「たむらや」さん。
ルーツが横浜にあったんです。
http://www.tamuraya.com/company/history
創業明治23年、横浜で網元だった高橋助次郎氏が漁業を営むかたわら食料品や薪、炭などを販売する個人商店として創業したお店が縁あって群馬県に店を構え、以来群馬の老舗として頑張っている!

(つづく)
ということで
次回は、群馬の「たむらや」さんにとって横浜と群馬を結びつけた
「一府十四県連合共進会」から縁は異なもの味な物語を紹介します。
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6月 12

【しりとり横浜巡り】6月11日(水)イセザキ界隈その2

前回は関内と関外を結ぶ「吉田橋」を紹介しました。
関内馬車道から吉田橋を渡ると、目の前にイセザキが広がります。
【雑景シリーズ】イセザキ界隈その1

その1で終わっているので、
今日はミニイセザキストリートの楽しみ方2を紹介します。

イセザキは七丁目まであり少しずつ表情を変えます。たまには一丁目から七丁目までブラブラしてみましょう。昔「イセブラ」なんて言葉が盛んに使われた時代があったそうです。
伊勢佐木には 一度は立寄ってみたい老舗店がたくさんあります。
一丁目から二丁目は
有名店がいっぱいです。
「みのや本店」「有隣堂」「横浜文明堂」「不二家」
「花見煎餅」「ハマ楽器」「加藤回陽堂」等々
三丁目は
ランドマークの「オデヲン」が「ドンキー」になるそうです。(20140601)
lig_A1179458横浜と深い関係にある「ピアゴ」伊勢佐木店は現在建替え中ですが、撤退でなかったのでほっとしています。
BB20131001PA010032
四丁目は
良く行く「白河中華そば弘流」がお勧め。チェーン店ではありません。

ぜんぶのせ
ぜんぶのせ

http://www.kouryuu.co.jp
※ちょっと裏通りに
昔、ビストロコパカバーナという店がありました。(かなり前です)
冷やかしお断り!!の「へびや」がありますが、やはり冷やかしてみたいけど勇気がでない。
lig__7262837イセザキモールのパーキングがあります。
lig__7262835「クロスストリート」
五丁目は
サンマーメンの「玉泉亭」
大正7年創業の老舗です。新装開店していらいいってませんね。横浜サンマーメンを語るなら一度は立寄るべし。
●牛鍋の「じゃのめや」
http://www.janomeya.com
開港場の牛鍋は明治以来の横浜名物ですが、名店が消える中いまだ「暖簾」を守っています。
●浜志まん(はまじまん)のボストンクリームパイ
http://www.isezakicho.or.jp/~hamajimn/
創業は大正2年です。浜志まん(はまじまん)の正式には「志に¨」が付きます。
lig_P1200983 ●古書なぎさ書房
時折立寄る古書店です。
六丁目は
●創業明治43年の「川本屋」
http://www.kawamotoya.com
「川本屋」オリジナルいせぶらパウンドケーキがお勧めです。
※横浜にはお茶屋の老舗も多かったのですが、どんどん減っています。
●健康靴のプロフィットイイジマ
http://www.yoikutu.com
元々大正時代から靴屋さんで、フットケアの店が未だ珍しい1990年代に上級シューフィッターの居るラボを立ち上げ健康な靴を提供してきた専門店です。
七丁目は
●一押しは「銚子屋」のところてん、あんみつ、ぜんざい。
1935年(昭和10年)の創業です。
lig_資料銚子屋030□老舗ではありませんが、地元の人気スポット
lig_P1230073「子育地蔵尊」は要チェック。
6月1日(日) 6日(金) 16日(月) 26日(木)
7月1日(火) 6日(日) 16日(水) 26日(土)
8月1日(金) 6日(水) 16日(土) 26日(火)
「一・六縁日」が開催されています。

 

11月 20

【横浜小さな駅】田園都市線 市が尾駅

田園都市線沿線の小さな駅「市が尾駅」周辺を紹介しましょう。

「市が尾駅」は
1966年(昭和41年)4月1日に田園都市線が長津田まで延伸した際に開設されます。
田園都市線の駅間距離が1km前後中心ですが、
隣接駅「江田」へは1.3km、「藤が丘」へは1.5kmと平均より長くしかも起伏のある傾斜地に作られた「駅舎」です。
昔、マーケティングの師匠の教え
「鉄道、国道は川と同じ。地域をつなぐが分断もする。橋が無ければ万里の長城、文化も変える」
「市ケ尾駅」に降り立つとこの言葉を思い出します。
田園都市線はほぼ「国道246号線」に沿って走っていますが、都内の地下路線を除いて「江田駅」とともに246号線に最も近い駅です。

鉄道=田園都市線、国道=246号線が
このエリアを南北に走り、
しかも西側を「一級河川鶴見川」が北から南に流れ“地域を分ける要素”が揃っています。
これは決して悪い意味ではなく、横浜市内の田園都市線沿線としては昔の香りと新興住宅地の香りが併存している独特の街に感じます。

旧道、そして河川敷の佇まい。
起伏のある丘陵地帯と、そこに広がる新興住宅地。
典型的な「郊外の街」とも少し違う街の佇まいがあります。

鶴見川に沿って散策していくと鉄(くろがね)町、さらに上流には寺家のふるさと村もあり、横浜の“原風景”を巡る最適なルートです。

「市が尾」は不思議な町です。
青葉区内の田園都市線各駅「青葉台」や「あざみ野」「たまプラーザ」と比較して小さな町ですが、
青葉区の行政上の中心地域としての顔があります。
○横浜市青葉区総合庁舎
 市内18区の中でも、青葉区役所は解りにくい(行きにくい)ベストスリーに入るかもしれません。
 ○横浜市青葉福祉保健センター
 ○横浜市青葉スポーツセンター
 ○横浜市青葉公会堂
 ○横浜市消防局 青葉消防署
 ○青葉郵便局
 ○神奈川県警察 青葉警察署
 ○横浜地方法務局 青葉出張所
 ○神奈川県 緑県税事務所
 ○緑税務署
と行政の施設が集中しています。
また1998年(平成10年)3月に
東名高速道路 横浜青葉インターチェンジが開通したことで、交通の要衝になります。

(古代史の街)
市ケ尾他鶴見側流域には、古代遺跡が数多く発見され、残されています。
市が尾駅からほど近いところにある「稲荷前古墳群」は珍しい中規模古墳で、当時の生活圏の大きさ(統治者の規模)を測ることができます。15〜17号墳の3基が保存されていて中でも16号墳は全国的にも珍しい方墳と方墳が線で結ばれたような形をしています。
http://kofun.info/kofun/213

また「市ヶ尾横穴古墳群」は、有力な農民の墓として6世紀後半から7世紀後半の古墳時代末期に造られたと考えられています。派手な「古墳群」ではありませんが、このエリアを歩いているとひと際良くわかる“こんもりとした丘”が「古墳群」として残されています。一部は開放されていて無理をすれば横穴に入ることもできます。(子供であれば難なく)
中にはガラス窓から横穴を覗くこともできます。
http://kofun.info/kofun/573

(ついでに)
駅から1分のところにある「市が尾第三公園」のオブジェ

「市が尾ベーカリー」
地元で信頼のあるパン屋さんだそうです。
“人気の”という枕ではなく“信頼の”というところがミソですね。
ご夫婦二人で、切り盛りされています。
→駅から徒歩7分位


「田園の憂鬱」
No.472 横浜と法政大学、その点と線

ここでも書きましたが、佐藤春夫が一時期暮らしていました。
「田園の憂鬱」の舞台となりました。

「とんかつ とん平」
なかなか丁寧な仕事ぶりで、
地元に愛されている感じが伺えるお店です。
→駅から徒歩5分位

※「市が尾駅」特に「わざわざ」行くところではありませんが、
 時にぶらっと立ち寄ってみたいところです。

6月 25

No.454 「横浜道」を歩く (後編) 加筆修正

No.453に引き続いて現在の「横浜道」(後編)の紹介です。
後半は横浜道の難所となった「掃部山・野毛山」越えから
野毛の町にぐぐっと曲がり
そして大岡川を都橋で渡ると吉田町、吉田橋となります。
現在 最も開港場の歴史を庶民の視点から散策できるエリアです。

掃部山(かもんやま)の桜

この道行きは
人気の観光、賑わいゾーンで
案内情報も沢山紹介されています。
見どころは「掃部山」界隈です。

横浜能楽堂

ここでは少し違った視点で紹介しましょう。
(石積み博物館)
このエリアは「石積み」の野外博物館です。

野毛山の傾斜地に

フランス積み
ブラフ積み
古来の亀甲石積
布積み
乱積み
谷積み
等々 時代や環境に応じた石積みが発見できます。
(蕎麦街道)
横浜道にはそば屋が多い!!!!
平沼から日本蕎麦屋が10軒以上あります。
浅間下「横浜そば処 古登婦喜」
平沼「角平」

平沼「田中屋」

戸部「砂場」
戸部「松山そば店」

戸部「田中屋」

戸部「あんどうそば店」

※ちょっとルート外ですが花咲町 「太宗庵」

野毛町「中屋」
野毛町「東京庵」
吉田町「角清」
※八軒訪問。横浜道「蕎麦街道」って発想あると思います。

野毛山周辺はグルメスポット集中地区、しかも
小さい名店が点在しています。
例えば洋食!
紅葉坂周辺には「洋食屋きらく」(昔金港亭がありました)
青少年センターの「メルヘン」はあなどれません。
センターグリル、キムラの老舗も
レストランも新旧入り乱れて 話題の店が
ぎゅーーーーっと詰まっています。

No.371 1月5日(土)ノゲ的

No.424 琉球バル

No.323 11月18日(日)歓楽街の住まい方

No.61 3月1日 成田山横浜別院延命院復興

※野毛界隈は ここでは略します。
(吉田町)
さて 最後のルート「吉田町」に入ります。
No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん

鴎が舞う「都橋」を越えると
右側(南側)と左側(北側)が対照的な商店街が登場します。
吉田町の特徴は 左右非対称の商店街です。
通りとしての元気が出てきたのがここ十年のことです。
野毛とイセザキに挟まれて 静かに時が流れていましたが
再開発の計画が起る度に 街の活性化がロックされてきました。

この界隈も 情報が最近多く発信されています。
参考にされて 変わりつつある「吉田橋界隈」を
散策してみては如何でしょう。
新しいカテゴリーの飲食店が多く出店しています。
老舗中の老舗
肉の中川、鶏肉の梅や  は健在!

残念ながら閉店しましたね。

画廊も バーも
「Bar Noble」
横浜市中区吉田町2-7 VALS吉田町1F
http://noble-aqua.com

No.134 5月13日 必ず素晴らしい日の出が訪れる

最近は
うなぎの「八十八」が出店しました。

このエリアから 目が離せません。

※余談テーマ
 野毛の街をあるいていて
 「理美容店」の多いことに気がつきます。
 特に理容店で、値段もバラバラというところが
 ちょっと“おそろしい”
 今度数えてみますが ざくっと知っているだけで
 野毛界隈に 理容室が10軒は数えることができます。
No.457 ザンギリ野毛

4月 29

No.442 「路男」君の愉しみ(更新)

鉄道マニア(おたく)男を世の中は「鉄男」君と呼びます。

私もちょっとだけ鉄分系ですが
今日は新しいジャンルの“提案”をしたいと思います?!
「路男」君です。引かないでくださいね。

私は「路男」君です。→これが路上観察のきっかけ。今は路上観察者!!と呼んでます。

路地裏を入って行くと素晴らしい眺望に出会ったり
 

路(道)を歩くのが好きです。特に横浜の「路歩き」が好きです。
どこへ行っても自宅近所でも、観光地でなくても、
路から見える魅力は飽きることがありません。
何故「路男」?
みちを表す漢字は「途」「道」「路」「径」などいろいろあります。

国道も脇道に入りながら楽しめます


その中で人が歩く「みち」を楽しむにはこの「路」がぴったりだという理由で「路男」としました。「道」と「路」両者の違いは辞書的には
多くの解釈がありましたがここでは紹介しません。
(興味のある方はどうぞ)

(路男の旅)
これまでの徒歩旅行の最長距離は
勿来海岸から柏駅前まで三泊四日の徒歩旅行
のべ130キロくらいだと思います。何故“柏”かといえば
単純にギブアップしただけです。
茅ヶ崎から箱根湯本まで往復(一泊二日)
一日30キロ程度なら良くあります。
昔から
一日十里40キロ位とか 一時間4キロが目安ですが 歩くに徹した場合です。
ただ、最近は年のせいか寄り道が好きなので
ゆっくり歩くことが多くなりました。

去年は中距離級ですと
◎長津田駅から県境を北上し多摩川学園駅まで


◎舞岡駅から本郷台駅まで歩きました。


(自転車も最高)
自転車利用も楽しくなってきました。

その分歩くチャンスは減りましたが
他の都市に出かけると 時間があれば歩いています。

韓国の大邸(テグ)に仕事で行った時には
一日自由時間があったので
朝七時から夜7時まで十二時間街中を歩き
相棒と地元の人から奇異の目で見られました。

この看板 著作権侵害でしょう!でも人気あるんです。
韓国も旧商店街と新しいショッピングセンターの課題が山積みです

※因みに韓国語は話せませんがなんとかなりました。

(本題に)
路をただ歩いていることが楽しい訳ではありません。
楽しむポイントがいろいろあります。
発見、体験、冒険、推理
【発見】いろいろな発見をするのが路男君(路上観察)の醍醐味です。#路上観察
道標、記念碑、神社仏閣の発見
マニアックな発見
 交差点→T字路、三叉路、四叉路(十字路)、五叉路、六叉路〜

ダブル五叉路
藤棚六叉路
 

 道路標識→国道県道標識

路地裏→迷宮への招待
 すかしブロック→昭和の残骸探し?

横浜市内でも20種類くらい発見しました

石積み→横浜は傾斜地が多いので石積みも多数発見できます。

 

 橋→奥が深い。これだけで世界が拡がります。

(閉店した)(昔ながらの)商店の看板

【体験】
何はともあれ食べる!

【冒険】
裏路地に入り込むのも、渋い店に入ってみるのも
ちょっと勇気が。でも意外な発見が

【推理】
歩いている「道」と「地図」を比較しながらの時代を推理するのも愉しみの一つです。
ということで、今は路上観察として横浜の街を 徘徊しています。

3月 16

No.424 琉球バル

2012年2月1日にバジルドミノという一文を限定配信した。
以下は2012一部更新したものだ。
以前から野毛を歩いていて書きたかったことがある。
タイトルは「バジルドミノ」。

Tipping Pointの好事例だ。
ある一定の閾値を越すと一気に全体に行き渡ることを「ティッピングポイント(Tipping Point)」という。
もう一つ別な表現では、ドミノ現象がある。
小さなきっかけを起点として、大きな範囲に影響が及ぶ現象のことだ。
連鎖反応という表現のほうがぴったりかもしれない。このドミノ倒しの最初の一枚を倒すことを「ファーストタッチ」という。
この話しは、横浜市中区野毛に起ったドミノ現象のファーストタッチの話しである。

(序章)
10年以上の時間をかけてドミノは静かに並べられていた。
1989年の横浜博YES89を皮切りに現在の「みなとみらい」地区が新しい職住地域として開発が始り、ビジネスゾーンであると同時に横浜最大の観光スポットとしても多くの若者を吸引するパワーを持ち始めた。
一方、横浜の下町「野毛」は東横線桜木町駅が無くなることで飲食街の危機と叫ばれた。
はたしてそうだったのだろうか?


結果は既に出ているようだ。
10数年前野毛の近くに移ってきた頃、私は違和感のある光景を目にするようになってきた。
それは夜11時過ぎに
若者が暗くなった野毛界隈を右往左往している姿だった。
その姿は次第に増え始めていた。
単なる一過性、みなとみらいで遊んだ連中がその勢いで夜を彷徨っているに違いない。いずれどこかに消えて行くだろうと見ていた。
(チーズケーキブーム去る)
野毛の一角にチーズケーキの店が突然現れた。light_6070578 そしてすぐに消えた。
その後にオープンしたのがイタリアンバル「バジル」である。
2007年5月ごろのオープンと記憶している。
ワインの立ち飲みができる。
元気なスタッフがいる。
宅配ではないピザが食べられる。
なんといっても夜遅くまで開いている。
これはイケルと思った。
前の通りはちょっと交通量が多すぎるが、オープンな感じが良い。
(第二次立ち飲みブーム)
1999年(平成11年)頃に第一次立ち飲み(大)ブームが起こり、一過性のように下火になった。生き残っている店は固定した。
この時に多くの立ち飲み業態が淘汰されたが、平成17(2005)年頃、第二次立ち飲みブームが起こる。
第一次のときとは一変して、スペインバルやイタリアンバル、昭和レトロ風をねらった立ち飲み屋などコンセプトがしっかりしたお店が登場してきた。
これらの新立ち飲み店は、おじさんではなく、女性や若者客などをターゲットにしたオシャレ系なお店が次々と登場する。
しかも若者と女性に従来の「おじさん」までオシャレ系に吸い寄せられてきたのだ。
こじんまりとしたスペース、オープンキッチン、カウンター。
腰を据えないがゆえの「気軽さ」に軽く寄ることができる空間がこの時代にマッチした。


(野毛もこれを待っていた)
野毛のバジルは快進撃を続けている。
この野毛エリアのドミナント戦略で攻めている。
一方、野毛交差点周辺は一気に競合の出店ラッシュとなった。
みなそれぞれに個性的である。
野毛で新しい飲食スタイルがティッピングポイントを超えたのだ。
このバジルドミノは花咲あたりまで波及し、宮川町、日の出町にまで広がっている。
要因はさまざまある。吉田町も元気になった。

 

隣接する黄金町にアート拠点ができ多くのアーティストが集まるようになったこと。
ドンキホーテの出店も大きい。
紅葉坂近辺に大型マンションもいくつか建った。
ワンルームマンションの勇、グリフィン銀座でもある。
円高(ワインが手頃、輸入食材が豊かになった)もあるだろう。

ようやく野毛が「眠らない街」になったのだ。

野毛ラーメン銀座といわれたピークも過ぎたが、淘汰は一通り終わった感がある。
いち早くデニーズもこの流れを読んだが少し客層を誤り早々に撤退して行った。


この先、野毛バジルドミノはどのような模様を見せるのか。
ブームからこの街の顔としてどこまで勝負できるのか?
期待は大きい。新しい野毛の店。現在私が確認(飲んだ)店は9店。
他にまだ4、5店あるらしい。
野毛は確実に新しいゾーンに変身しつつあるようだ。

■良く行く花咲町のバジル→ここはスクラップ・アンド・ビルドか?撤退。
音楽通りに良い刺激が走っている。
さすがバジルは、スタッフが訓練されている。
味も価格も野毛の相場観を見事にリードしている。
◎BASIL
2007年5月:1号店「イタリアン バル バジル」
2008年9月:2号店「チーズ& ワイン バジル」
2010年9月:3号店「アメリカンバー バジル」
2011年5月:4号店「カフェ バジル」
2012年2月:5号店「トラットリア バジル」
2013年3月15日
 6号店「琉球バルBASIL」オープン→10月に閉店!早ッ!

2月 22

【番外編】磯子区濱

横浜市内にある名物商店街の一つ「浜マーケット」
何が名物か?
このあたりを謎解きしながら紹介しましょう。

「浜マーケット」
名物その一
第一印象は、その佇まい。
昭和レトロな感じです。
横浜市内にある「六角橋商店街」と並ぶ戦後生まれた商店街です。規模は「六角橋商店街」が大きいですが、濃密さは五分五分です。

名物その二
近くに鉄道駅が無い!にも関わらず賑わっている。
その訳は、お店が頑張っている!
これが「浜マーケット」の最大の特徴だと思います。

浜マーケット
http://hama-market.com


名物その三
日曜日でも休む時は“休み”
そうなんです。週休ではなく9の付く日が定休日。
日曜でも9日ならお休みです。

名物その四
話題の店がある。
三角コロッケ、ガチコロの「カネヒラ」


総菜の「はまや高木食品」

ちょっと昔の高木食品
小分けの宝庫、色々楽しめます。

うなぎの「小島屋」
 放火で焼失しましたが、復活したうなぎ屋さんです。
 昔のお宝画像を一部紹介します。

おばあちゃんの釜焚き飯
この桶から美味いお新香が生まれました

(商店街周辺にも)
レストラン洗濯船のタンシチュー


季節感を感じる和菓子が人気の「磯子風月堂」

洋光台のムギヤさんも出店しています。

ここで
ちょっと浜マーケット周辺の歴史を
■以前はここが中心商店街!
「浜」の戦前戦後マップ写真比較
明治の頃

昭和初期


戦後

磯子 偕楽園あたり?


浜マーケット 未体験の方 おすすめですよ。観光気分でも構いません!
でも財布も緩めておいたほうが 尚 楽しいですよ。