3月 26

第878話【時折今日の横浜】3月26日

三渓園
1954年(昭和29年)の今日
現在、多くの市民に愛されている三渓園が“市民公園”として開園しました。
桜の季節に合わせての開園でしょう。
本牧にある三渓園は、横浜を代表する実業家であった原富太郎(原 三渓)が明治時代に作った自宅を兼ねた庭園です。
1906年(明治39年)5月1日には自宅でありながらその多くを市民に公開、戦前の横浜名所として賑わいました。
彼は多くの芸術家を支援、当時の鈍翁(益田孝)と並ぶ日本美術コレクターでもありました。
横浜が歩んだ悲劇の歴史を三渓園も受け、関東大震災と横浜大空襲で多くの建造物と美術品を失い戦後、原コレクションも散逸してしいます。
オーナーであった原家は、苦渋の売却を決意しますが開発事業者ではなく横浜市に活用を委ねます。三渓園の保全に積極的だった平沼亮三が横浜市長に当選したことで、三渓園の財団化が積極的に進められます。
1953年(昭和28年)に「財団法人三溪園保勝会」が設立され、本格的な再整備が始まり、1954年(昭和29年)の今日 開園し現在に至ります。
三渓園をめぐる関連ブログ
No.280 10月6日(土)天心と三渓

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No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け

No.171 6月19日(火)虚偽より真実へ、暗黒より光明へ 我を導け


【横浜 三溪園】
www.sankeien.or.jp/
「三溪園は、横浜市中区にある庭園。17.5haの敷地に17棟の日本建築が配置されている。実業家で茶人の原富太郎によって1906年に造園され、現在は公益財団法人三溪園保勝会が運営している。名称の三溪園は原の号である三溪から。2006年11月17日に国の名勝に指定された。」

<三渓園の風景>

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11月 18

第865話 絵葉書の風景<開戦前夜の伊勢佐木?>

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Night view of the Isezaki street,amuzement centre,
..(The famous place of Yokohama)

■撮影場所
横濱最大の繁華街だったイセザキの夜景。
一番手前の伊勢ビルからオデヲンまでがベタに写っている。
カメラの位置は 松屋屋上かと考えたがもう少し手前馬車道入口あたりから
望遠で撮影されたものと思われる。
下の風景、中央奥のビルから撮られたのではないか?

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■撮影時期
昭和8年〜10年頃か
時刻は 不明
横浜市が震災復興事業が正式に完了し、伊勢佐木が戦前最も輝いていた時期。

■絵葉書の風景
遠くにオデヲン。さらに奥にはネオンサインで「レートクレーム」がはっきり見える。
「レートクレーム」は東京に本社を置いた平尾賛平商店の看板商品で1954年(昭和29年)に廃業するまで「レート」ブランドで国内を始め、中国大陸でも事業を拡げた。
mukuretoru1938autumn cqoywwjueaahg8j
ちなみに「レート」ブランドの最大ライバルは「クラブ」ブランド。
「東のレート、西のクラブ」と言われ化粧品メーカーの2大ブランドだった。
オデヲンの屋上にはビクターの看板が見える。
この日本ビクター蓄音機株式会社(現在のJVC)は横浜に縁の深い企業だ。

【横浜市電域考】4市電域の終着駅 生麦

【横浜市電域考】4市電域の終着駅 生麦

<入口左手>
高級果実万太(MANTAFRUITS)
柳屋小間物店 小間物とキリ
玉木屋洋服店
名物●●→博雅亭(名物 シューマイ)ではないか?
有隣堂では「古本市」が開催されている
かすかに天賞堂
(サロン)店名不明

<入口右手>
伊勢ビルには
大きな地球儀を模した球体に<キネマ石鹸><キネマ黒砂糖石鹸>の看板が見える。
その下には「キリンビアホール」の看板が。
●●新聞→読売新聞か?

美容院
パーマネントウェーブ
フィンガーウェーブ
(都屋)の洋傘
写真部

高島屋●● ストア
戦後横浜駅に進出する前、伊勢佐木に店舗を持っていた。
洋食・すしの看板(三好野食堂か?)
野澤屋百貨店
寿百貨店
ジャズ●●
→オデヲンに近いので 喜楽座か?

といった風景の読取りができたが、詳細判読は難しい。

戦災で多くを失い戦後は長い接収を受け、現在の横浜駅西口開発と共に
イセザキはその中心地としての賑わいを失う。
市電を失った後、イセザキの商店主達が再結集しモール化など新しい商店街づくりに奔走。
現在のイセザキがある。

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6月 16

第821話 1989年(平成元年)6月16日ドーム復元工事

1989年(平成元年)6月16日の今日
開港記念会館ドーム屋根の復元工事が完成した日です。ドームなし開港記念会館133開港記念会館
「横浜市開港記念会館(ジャックの塔)」は横浜三塔の一つです。
この横浜三塔は様々なシーンで取り上げていますので今日はジャックのドームに絞ります。
横浜市開港記念会館は
辰野式フリークラシックとよばれる様式で横浜の近代建築を代表するシンボルです。
竣工は1917年(大正6年)当時の名称は「開港記念横浜会館」
前身は「町会所」でその後「横浜貿易商組合会館」となり「横浜会館」に変更。
「横浜会館」は当時の商人たち(現在の横浜商工会議所)の<シンボル>でもありましたが明治39年に焼失してしまいます。
開港50周年をキッカケに再建計画が起こり大正3年9月に起工、同6年6月に竣工します。その後
関東大震災で大被害を受けほぼ焼失してしまい改めて再建計画が持ち上がります。
関係者は<復活・復元>を選びます。light20150609192226_001 1927年(昭和2年)震災復旧(復元)工事が竣工します。
理由は未確認ですが
この時、ドーム屋根は復元されないまま1980年代まで時が流れます。
1959年(昭和34年)に「横浜市開港記念会館」と名称を変更し、
ほとんどの人が<ドームのない>開港記念会館しか知らなくなってしまいました。
ところが
偶然、
1985年(昭和60年)横浜市内で創建時の設計図が発見されます。
当時の基本構造設計は福田重義、山田七五郎、佐藤四郎
施工が清水組(現在の清水建設)
この設計図を元に<市制100周年><横浜博覧会YES89>に合わせ
1989年(平成元年)6月16日の今日
竣工当時のドーム屋根等が復元されます。
「開港記念会館」は横浜市内に残る復活の象徴となりました。light_E開港記念会館
この年、国の重要文化財指定を受けます。
2001年(平成13年)に一部補修、さらに復元し再開館、現在に至ります。
No.375 1月9日(水)残した大正の財産
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=208

※実は初代「開港記念会館」建設に際し<小さな謎>を発見しました。
この謎に関しては別立てで中間報告します。
【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?(2015年6月16日アップ)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7575

その他の6月16日
1870年(明治3年)6月16日の今日
「英国公使パークス、外務大輔・寺島宗則、神奈川県知事・井関盛艮会談。「新規波戸場取設」を提案。(開港資料館)」
開港時から殆ど変わらない港湾施設では困る!と築港を促す要求が英国から神奈川県に出されます。

(過去の6月16日)
No.168 6月16日(土) 6月のカナチュウ(加筆修正版)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=441

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11月 7

歴史の点と線(真鶴・横浜)

今日のテーマですが タイトル通り 歴史の点と線を結んでみました。
1930年(昭和5年)7月25日
「上大岡にある西福寺(曹洞宗)の移転建立が完成(横浜歴史年表)」
所在地は横浜市港南区上大岡東1-38-19
一度前を通ったことがありましたが、写真は撮っていないので今度行ってみます。この「西福寺」お寺のサイトや港南区史・真鶴町史によると
もとは真鶴にあったお寺で、小田原市早川の「海蔵寺」の末寺、山号を「東向山」と称していました。了峯印達により文禄元年(1592年)創建されました。
※「西岸清光庵主」説もあります。
関東大震災で震源地に近かったため、損害が大きく檀家を持たなかったこの寺は再建を断念します。縁あって、上大岡に新寺建立の際、「西福寺」を移転することとなりました。
「地主の北見家の協力をいただき、昭和四年に寺籍譲り受けの許可も下り、移転の功労者「原田久吉翁」の号「二楽」を山号にいただき、新たに名前を「二楽山 西福寺」と改め、新生西福寺としてこの地で再出発しました。
そのご功績を讃え、松喜和尚は「西福寺中興開山」として原田久吉翁は「西福寺中興開基」として、永代にお奉りさせていただいております。(上大岡西福寺)」
ということで、真鶴と横浜の<縁>を少し紹介します。

(真鶴)
皆さんは真鶴半島をご存知ですか?
東海道本線で横浜から下り線で約1時間、相模湾の西南端に位置しています。
「「真鶴」は、神奈川県の西部にある小さな半島の町です。
古くから上質の石材とされる小松石の産地でもあり、江戸城の石垣、皇族の墓石としても有名です。
半島の先端、真鶴岬では景勝、三ツ石(三つ岩)を望めます。
また、半島全体は樹齢350年以上の黒松の林(御林)があり、魚付き保安林として漁師の方に守られています。半島全体は県立真鶴半島自然公園に指定されています。」

いくつかの町村がまとまり現在の湯河原町、真鶴町が形成されています。いくつかの町村がまとまり現在の湯河原町、真鶴町が形成されています。
「真鶴は、古くより漁業と石材が盛んに行われてきました。
漁業は魚つき保安林のおかげで良質なプランクトンが発生し、木々の影が魚を休ませるなど、魚にとってはストレスフリーな環境です。
石材は「本小松石」という銘石が採掘され、高級墓石として知られています。」(真鶴観光協会)
真鶴半島近隣では江戸時代から良質の安山岩を産出し、積出港としても栄えました。江戸城にも多く使われ、幕末には江戸湾の海防対策のために護岸や台場建設に用いられます。
(横浜と真鶴)
横浜が他の町にどのような影響を与えたのか?横浜市民は多くを学びません。

どちらかというと影響を受けたこと、それを受入れたことが語られています。
幕末から横浜が開港場として急成長する中、この発展に伴い功罪含め横浜は近隣都市、神奈川全域、そして全国にその影響も大きかった視点で歴史を考えてみることも大切でしょう。
真鶴町も幕末から<横浜>の影響を大きく受けました。神奈川台場や、1859年(安政6年)の開港に間に合わせるために突貫工事で開港場を完成させる際、真鶴の小松石を発注している記録が残っています。
また、みなとみらいで人気のドックヤードガーデン、横浜船渠(後の三菱重工業横浜造船所)第2号ドックの建設にも真鶴の石が大量に使われています。 前掲の神奈川県のマップから、東京湾・相模湾を眺めると、三浦港と真鶴港は沿岸航路の重要な位置にあることがわかります。
農耕地の少ないこの地域にとって、漁業と石材業は産業の根幹でした。この二大産業は皮肉にも当時鉄道のない時代には海を巡って利害が対立し、このエリアの歴史にも様々な闘争史を刻んでいます。
石材需要は時代の影響を大きく受けます。江戸時代に近隣の築城や改修計画は少なく石需要は減ります。開港期に一気に延びた需要も幕末の動乱期には一気に需要が落ちるなど景気の浮き沈みの大きい産業でした。
明治草創期から殖産興業の影響で、新設の工部省はこのあたりの石を<国管理>に指定します。横須賀製鉄所(横須賀造船所)、燈台、前述の横浜造船所等々用に使われることになり、真鶴は好景気となりました。
ところが、間もなく需要の国管理が解かれ<自由化>が訪れ生産現場は荒廃します。乱開発のため、石山のインフラが荒れ、積み出しにも影響が出ます。
真鶴一帯の石供給に陰りが出て、不景気が訪れます。そして次なる山は、鉄道建設ラッシュでした。横浜・品川間の鉄道敷設にも真鶴地方の石が使われます。
また、近代建築にも小松石が多く使用され<東京帝国大学>等に小松石が使われた記録があります。
大正時代には東京湾岸の河川・軍事施設等の整備計画に真鶴近辺の石が大量に使われ需要が高まります。
このようにジェットコースターのような石材需要の歴史の中で、漁業とミカン栽培なども景気の波を受けていきました。

(横浜商人)
真鶴の歴史に登場する横浜の実業家達は
浅野 総一郎(埋立)、朝田 又七(廻船)、雨宮敬次郎(鉄道)他
石を必要とする実業家たちも真鶴の資産に着目します。
その後、鉄道網の整備により保養地として湯河原・真鶴が着目され、東京は勿論 横浜の実業たちも温泉付き別荘計画に強い関心を寄せます。
真鶴と横浜を繋いだのは廻船、その後の鉄道でした。
現在真鶴駅前に初期の鉄道敷設を記念した「豆相人車鉄道歴史街道」の碑が建っています。
大正期、真鶴地域のミカンの多くが横浜港からカナダ、アメリカ、大連等に輸出され好景気に沸いた時代もありました。
この真鶴と横浜を繋いでいた<石>を運んだのが船です。この廻船業が真鶴の経済を支えて来ました。
天然の良港が古くから真鶴を支え、その安全祈願として国指定重要無形民俗文化財である貴重な日本三大「船祭」が行われます。

誤植ですが、開催は月火です。誤植ですが、開催は月火です。
【真鶴貴船まつり 2015 】
2015年(平成27年)7月27日(月)28日(火)
http://www.manazuru.org/kibunematsuri.html
※台風が心配です。

(余談ですが)
この真鶴エリアで、石花(いしはな)会を始めています。
・大師匠ちとく氏の管理サイト
http://ishihana.club
・師匠 金木さんの福浦(湯河原町)の作品
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=956935214367087&set=a.195587147168568.50324.100001518517325&type=1&permPage=1
石の町に相応しい企画だな!と思って参加しています。

 

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10月 26

図書館設置問題と水源林買収

今日は横浜資料からたまたま出会った史実を紹介します。
(掃部山公園)
横浜市史5巻目第二章「第一次世界大戦下の市政」第二節に
「図書館設置問題と水源林買収」という項目が書かれています。
読んでも2ページ程度なので全て引用しても良いのですが、前振りも含めて少し編集してみました。
第二節のタイトルは「遅々たる公共施設の整備」
ここでは横浜史の中で明治末期から大正初期について触れています。
横浜は開港50周年の記念行事も行い交易も盛んな大都市になった割にインフラを含め公共設備がなっとらん!と市議会で問題提起されます。

大正3年には「開港記念横浜会館」の建設が始まります。

当時
「一つの公会堂なく一つの図書館なし」と揶揄された横浜市は、まあ経済優先だったのでしょう。港湾施設は国のお金で大きく整備されてきましたが、市内を見回すと<ろくなものがない>という状態、文化施設不毛の町でした。様々な文化施設の計画が無かったわけではありません。市議会での議論がまとまらなかったのです。
例えば「商品陳列館」(現在のコンベンション・トレードセンター?)の建設計画も紛糾し先送りとなります。<市会>は明治以来<商人派><地主派>の系譜が二大勢力となって対立状況がありました。
同じく市民力のバロメータである「図書館」建設も明治期からの懸案事項でした。
ライバル神戸市は明治44年に規模は小さいですが本の閲覧を始めていました。その後、本格的な図書館が大正10年に開設されます。横浜市立図書館、そして大阪市立図書館も、大正10年に<横浜公園仮設閲覧所>が開設されます。
といっても戦後制定された<図書館法>による公共図書館の体裁はあまり整っておらず、本格的な開館は戦後を待ちます。
大正10年に図書館が開館した背景には「公立図書館職員令(同年勅令336号)」があるのかもしれません。
この辺詳しくないので勅令のタイミングだけ記しておきます。

※水源林確保のテーマは 横浜水道史のキモ!なので別立てで紹介します。

大正3年に彦根の井伊家から「掃部山」一帯4,233坪を横浜市に寄付するという申し入れが“正式に”あります。この広大なしかも整備された公園空間を無償で提供した背景は、聞くも涙、語るも涙の井伊家と支援者の努力があったのですが背景は別段で。
この公園、
寄付には条件がついていました。
●未来永劫 公園として使用しすること
●井伊直弼像はそのままにしておくこと※
※これが井伊家の<本望><photo id=”7″ />
●公園にはその他の建造物、井伊像とは関係のない記念物を建てない!
そして ここが肝心、
◎市が開港記念のために図書館を建設することは許す。
しかも 井伊家から2万円を補助するというものでした。
この申し入れをチャンスに図書館を建設しようという考えもだされます。ただ、この井伊掃部頭像を巡っては <開港50年式典>で政界を巻き込んで一悶着があった公園ですから、その後もスムースに掃部山に図書館ができるわけもなく、
横浜市は候補地を北仲にあった宮内省御用地払下げを目論みますが、条件が折り合わず計画は頓挫します。
結局大正10年になって横浜公園の仮設閲覧所を経て、昭和2年にようやく現在の中央図書館が開設されるに至ったのです。

一方、現在の<神奈川県立図書館>は戦後になり<サンフランシスコ講和条約>の記念事業として紅葉丘、掃部山公園に隣接する場所に設置されます。この時の知事は内山岩太郎という“豪腕知事”でした。

井伊家のメッセージに寄り添ったのか判りませんが、マッカーサーがペリーを意識した<講和条約>の記念事業に掃部山脇の図書館というのも歴史の皮肉といえるでしょう。

(大横浜)
横浜に様々な施設が登場するのは昭和に入ってからです。
残念ながら関東大震災後の復興事業によって横浜商工奨励館や横浜中央電話局、本町旭ビル、横浜地方裁判所の他都市中心部の威容は整います。

文化施設も、公園が整備されたのも関東大震災後の復興事業でした。

山下公園、野毛山公園もこの時期に整備されます。
実は 関東大震災後の復興計画で 横浜市の中心部を戸部に置く計画もありました。
市域を拡大し、市としても拡大していく上で、中心をどこに置くか?
今回市役所の移転で、少し市の軸がまた北に移動しますね。
ちょっと暴言になりますが、横浜の原点は<野毛・吉田橋>にあるんじゃないか?
と時々思うようになりました。<photo id=”3″ />

この辺に関しては 改めて。
最近横浜もビアガーデンが復活しているらしいので 飲みに行きますか!!

(過去の7月29日ブログ)
No.211 7月29日 (日)株式会社横浜国際平和会議場
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=396
1991年(平成3年)7月29日の今日、
横浜みなとみらいに通称“パシフィコ横浜”
「会議センター」と「ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル」が完成しました。運営会社の正式名称は「株式会社横浜国際平和会議場」です。
これに伴い
1991年(平成3年)7月29日

「市営バス141系統<横浜駅前〜パシフィコ横浜〜桜木町駅前間>運転開始(横浜市営交通八十年史)」します。

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3月 8

【ミニミニ今日の横浜】3月7日

1978年(昭和53年)の今日

「首都高速道路横浜市道1号横羽線・2号三ツ沢線が開通。」
横浜駅西口出入口(金港JCT)から神奈川区の三ツ沢(第三京浜との接続)が開通しました。これによって首都高速神奈川2号三ツ沢線が全線開通します。
広い意味での「狩場インターチェンジ」の機能が完成し、
首都高速道路、保土ヶ谷バイパス、第三京浜道路、横浜新道に接続します。この時点では「横浜横須賀道路」は未完成です。
2号三ツ沢線 金港JCT〜三ツ沢JCT間 2.3Kmの短い区間ですが、この2号線の開通で、横浜の道路網の重要な区間がつながったことになります。
light_首都高三ツ沢線<関連年表>
1959年(昭和34年)10月28日
国道1号横浜新道の全線が開通します。
1965年(昭和40年)12月19日
第三京浜が全線開通します。
1968年(昭和43年)7月5日
第三京浜と横浜新道との連絡路が開通します。
昭和40年1972年(昭和47年)8月7日
横羽線、金港JCTまで開通します。
1973年(昭和48年)4月17日
保土ヶ谷バイパスが開通し、新保土ヶ谷インターチェンジの一部が供用開始となります。
1974年(昭和49年)9月25日
新保土ヶ谷インターチェンジ〜狩場インターチェンジ間が開通し、新保土ヶ谷インターチェンジが全面通行可能となります。
1978年(昭和53年)3月7日
横羽線・2号三ツ沢線が開通し横浜新道・第三京浜と接続しました。
同時に横羽線・1号の金港JCT〜横浜公園出入口区間が開通します。
1979年(昭和54年)12月6日
有料道路「横浜横須賀道路」日野IC〜朝比奈IC間が開通します。
1984年(昭和59年)2月2日
横羽線が横浜公園出入口〜石川町JCT開通で、全線開通。
1985年(昭和60年)4月1日
横浜新道と首都高速神奈川2号三ツ沢線とを連絡する「三ツ沢ジャンクション」を新設。
1993年(平成5年)3月1日
首都高速神奈川2号三ツ沢線三ツ沢ジャンクション改良
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(3月7日関連年表)
No.67 3月7日 教育会館にて夜露死苦!
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=552
下記の
No.43 2月12日 “浮浪者狩り”
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=578
では、荒廃する子供達の姿が浮き彫りにされました。
金属バット事件から校内暴力へと拡大していく時代です。
あなたにとって 80年代はどんな時代だったでしょうか?

その他
1948年(昭和23年)の今日
新警察法の公布に伴い、自治体警察として「横浜市警察」が発足します。市内各警察署は例えば「横浜市加賀町警察署」と名乗ることになります。
同時期に消防組織も自治消防組織となり1948年(昭和23年)の今日、横浜市消防本部が設置されます。
※加賀町警察といえば横浜最初の警察署です。
No.185 7月3日(火) 実録「居留地警察」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=422

light_加賀町警察

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3月 8

【ミニミニ今日の横浜】3月4日

今日は簡単に

1947年(昭和22年)の今日
「野毛にマッカーサー劇場(実演と映画封切り)開場」
野毛の一角に戦後一時期占領軍司令官<マックアーサー>の名の劇場が野毛にありました。
位置は現在のJRAあたりで
美空ひばりが本格デビューを果たした「横浜国際劇場」に隣接した場所に同時期開館しました。

「マッカーサー劇場」は地図・写真記録等から<マックアーサー劇場>となっていましたが、記録ではマッカーサーとなっています。
Douglas MacArthur 確かにマックアーサーと読むのが素直ですが、スコットランド・ゲール語で息子を意味する<アーサーの子MacArthu>は一般的にマッカーサーと表記されています。
http://www.hamakei.com/photoflash/816/

野毛の「横浜国際劇場」は日本映画・演芸・歌謡ショー中心の劇場で
「マッカーサー劇場」は洋画専門館としてオープンしました。
(占領の時代)
1945年(昭和20年)に戦争が集結し、米軍が横浜市域の多くを接収します。米国駐留軍は軍事施設を初め、住宅施設・補給施設そして文化施設を横浜に設置します。
特に住宅が多かったためか<映画館、劇場、スポーツ等>の文化施設が横浜中心部に開設します。
占領文化施設の一部を下記に示します。
「横浜赤十字クラブ」「バンカー ズ・クラブ」「ゴールデ ンドラゴン・クラブ」「ク ロスロード・クラブ」「ゼブラ・クラブ」「コロニアル・クラブ」「セブ・メス・ホール」「ルー・ゲーリックスタジアム(平和球場→横浜球場)」
伊勢佐木町に開設された「オクタゴン劇場(横浜松竹劇場の跡廃止)」
開港記念会館は「メモリアル・ホール」
松屋伊勢佐木町店は「横浜PXメインストア」

米軍施設ではない「マッカーサー劇場」は、アメリカの民間企業が建てたものなのか?
当時の神奈川新聞では
「其の名も”マッカーサー劇場”元帥を讃へ横濱野毛に開館」とタイトルが書かれていますので、戦後日本が占領軍司令官を多く<讃え>た施設の一つといえるでしょう。
戦後の日本、アメリカに対し<節操が無い>のか<日本独特の柔軟性>なのか議論の別れるところですが、占領軍へのプレセンスをいち早く行った横浜市民の受容性には感服します。
「一般からその館名を公募してゐたところ、廳募は1万7千通に上った。二十三日にその審査を開催、堀内敬三(音楽家)北林透馬(作家)中山富久(作曲家)橘正禄(舞踊家)青木純二(神奈川新聞文化部長)平古壽次(瑞穂興業社長)などが厳選入選候補としてマッカーサー劇場、ミューズ劇場、希望劇場、セントラル劇場、オリンパス劇場などが残った、さらに審査の上で確定するが、進駐軍当局の認可を得てマッカーサー劇場と命名されると、日本では最初のマックアーサー元帥を讃える劇場が横濱に誕生するわけ、尚この劇場では横濱で最初のダンシングチームや市民演劇團も育成していくといふ。
(昭和21年9月26日付神奈川新聞)」

ちなみにこの1947年(昭和22年)時代
横浜市役所は、マッカーサー劇場から徒歩5分
五代目市庁舎(1944 年~1950年)として旧老松国民学校(老松中学校)にありました。

(関連ブログ)
No.139 5月18日 マッカーサーに嫌われた男
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=476

No.252 9月8日(土)横浜終戦直後その3
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=352

No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=363
(3月4日関連過去ブログ)
No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=555

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1月 6

No.703 【閑話休題】ちょいと東西比較

703番目の投稿にしては軽すぎ?ですが、
大目標1000話までは軽く飛ばしていかんがための助走とご勘弁ください。
横浜の名産?といえば 何を思い起こしますか?
横浜といえば「シウマイ」でしょ。でもここではシウマイは横浜名物!?のカテゴリーに入れておきましょう。名産と名物、違いに厳密な定義はありませんが、
ここでは名産とは 農水産物のことを指すことにします。
横浜名産といえば 浜梨、小松菜、キャベツが注目されています。
海の物といえば <小柴の蝦蛄>が有名ですが、野島の「海苔」も頑張っています。
酪農も元気が出てきたようです。

それでは ここで大昔の横浜名産の話をちょっと紹介しておきます。

■西の岡山、東の綱島といえば!何のことでしょう?
light_A0210113 【桃】ですね。
かつて東西で「西の岡山、東の綱島」と比較されるほど 美味しい桃が<綱島>で生産されていました。現在の生産農家はごく少数となってしまいました。
綱島の桃を使ったビールも作られています。
light_桃ビール なぜ綱島の「桃」が名産となったのでしょうか?
桃は水害に強く、鶴見川が良く氾濫した綱島エリアに適した農産品でした。
light_A0210115 light_A0210078 light_A0210042

■西の月ノ瀬(奈良)、東の杉田といえば!?
これは【梅】のことです。
light_20131026PA260067 「杉田梅」かつて東西で名を馳せた東の名産品のひとつです。江戸から明治にかけて「杉田(すぎた)」といえば梅のことでした。杉田梅最盛期は30,000本といわれていたほどの梅の観光名所で時の有名人が「杉田」を訪れています。
No.53 2月22日 アーティストツーリング

No.53 2月22日 アーティストツーリング

No.458 相摸のもののふは杉田を目指す?

No.458 相摸のもののふは杉田を目指す?

一方の西の月ノ瀬(つきがせ)村は、現在の奈良市月ヶ瀬にあたります。奈良県の北東端に位置し現在も梅の名所です。奈良県ですが、地勢的には三重県伊賀地域との結びつきが強いエリアで梅の木が広がる様から「月ヶ瀬梅渓」とも呼ばれ、古くから有名な梅林として日本政府が最初に指定した名勝の一つです。

杉田といえば!
江戸時代の特産品!で横浜産の輸出の花形!!がありました。
<煎海鼠(イリコ)>です。煎海鼠とは、中国で人気の高級素材で<なまこ>のことです。
江戸時代後期、杉田村の名物といえば「梅」と「煎海鼠(イリコ)」だったのですが、梅に少し名残がある程度です。
light_煎海鼠看板 この<煎海鼠(イリコ)>は江戸時代、中国への貴重な輸出品だったそうです。
横浜の名産品
もっともっと増やしたいものですね。

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12月 9

No.699 【横浜 失われた風景】ある総菜店

1990年代、戸部駅近辺に事務所があって良く買った総菜店があります。
当時は写真なんて考えていなかったので記録はありませんが、魚のフライがめちゃくちゃ美味しいお店でした。
コンビニでライスだけ購入して総菜はここで揃えるランチに凝った時期もありました。
この店の名は「たかさご亭」。国道一号線沿いにある知るヒトぞ知るお店でした。
横浜の総菜店として紹介したことがあります。
この時お店の名は伏せて欲しいとの要望があり「店名は秘密」としました。
スクリーンショット 2014-12-09 1.52.45        <横浜18区のほん「横浜の食材」>
国道一号線を戸部駅あたりから保土ケ谷駅方向に走ると左手に、セットバックせず拡張工事から取り残されているような“一見 立ち退き反対のような”建物が2軒あって、その一つが総菜店「高砂亭」看板は「たかさご亭」とひらがなになっていました。
一方反対側にはこれまた取り残されたように「理容店」と「酒屋」が営業中で、他に数軒閉店した店舗が並んでいました。時系列ははっきり記憶していませんが
理容店・酒屋が閉まった後も「たかさご亭」は営業していて、コロッケを買いました。
お店には 時折 笑顔がすてきなおばあちゃんがいらして立ち話をしたものです。
このあたりの国道1号線拡幅工事のための土地買収が始まったのがバブルの直前で、以来四半世紀遅々として進んでいないのが現状です。京急戸部駅の拡幅に対応した工事が終了してるので、そろそろ最終工事に入るかな?という状況ですね。
元々 このあたりは1928年(昭和3年)9月に扇田町となり戦後の1966年(昭和41年)に西区中央となったエリアです。扇田のなごりは石崎川に架かる「扇田橋」くらいですね。
light_PC080117 light_PC080119おばあちゃんの話では「たかさご亭」は戦後まもなく義理のお兄さんが開店したお店が始まりだとか。区役所があり市電「扇田駅」近くということもあり商売は順調だったようです。
スクリーンショット 2014-12-09 2.56.56

扇田町近辺 先日、閉店した「たかさご亭」前を通ったら閉店の張り紙に多くの方の書込みがありました。心温まるメッセージですね。
light_PC080127 もったいないので記念に撮っておきました。
人づての話では、国道拡幅計画に対し、反対ではないがお店を移転して営業するつもりは無いので、ぎりぎりまで営業したいという意向があったようで、計画進行が遅れることにともなってこの店の命も長らえたというところのようです。また一つ 横浜から時代の記憶が消えていきました。

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9月 22

【絵葉書が語る横浜】吉田橋脇2

このブログは、調べながら書き、書きながら調べるという自転車操業が常態化しています。先日【絵葉書が語る横浜】と題して吉田橋際の鶴屋呉服店の風景を探ってみました。

改めて、吉田橋界隈の写真・絵葉書を探していたところ別の「絵葉書」を発見しましたので、簡単ですがパート2として紹介します。
※専門家が探れば簡単な時代考証ですが、ここでは素人の試行錯誤の様子を紹介しています。(毎度の事です)
lig_伊勢佐木イセビル036
<上記写真が以前紹介した吉田橋界隈>
【絵葉書が語る横浜】 吉田橋脇ここでは横浜亀の橋生まれの「鶴屋呉服店」の吉田橋店を推理しました。
亀の橋から亀屋にせず“鶴”としたのは鶴と亀にひっかけたかったのですかね。
そしてさらに東京の“松屋”ですから、縁起が良いといえば中々のものです。
事の真偽は別にして
亀の橋「鶴屋」は 当時の大繁華街「伊勢佐木」入口に店舗を出します。
ここで紹介した「絵葉書」には低層の鶴屋の店舗が写り込んでいることと
1927年(昭和2年)に竣工した「イセビル」が写っていることから昭和初期の風景だという事がわかります。
今回の吉田橋脇の絵葉書をご覧ください。
lig_吉田橋から伊勢佐木046
さらに時間が経ち「鶴屋呉服店」が「松屋」となり五階建ての当時としては近代的なビルとして登場しています。
松屋横浜支店が竣工したのが記録では1930年(昭和5年)です。
振り返って、
【絵葉書が語る横浜】 吉田橋脇
小サイズ
で紹介した風景の年代を確定しないままにしましたが、ここでもう少しはっきりさせておきます。
「イセビル」竣工と「松屋横浜店」竣工の間
1927年(昭和2年)〜1930年(昭和5年)の間の風景です。

さて、
今回の「吉田橋より伊勢佐木町を望む」の風景も、かなり撮影時期を絞り込む事ができました。
まず季節ですが、半袖と日傘の服装から暑い時期、夏頃ではないでしょうか。
lig_半袖姿
年代は
1930年(昭和5年)〜1941年(昭和16年)ごろの10年に絞り込めます。
横道にそれますが「中区わが街 中区地区沿革外史」に戦前戦後の町並みを「記憶絵図」として収録されています。(PDFですが画像は解読に難)
http://www.city.yokohama.lg.jp/naka/archive/reference/wagamachi.html
ここに昭和10年頃の伊勢佐木一丁目マップがあり照らし合わせてみると いろいろ情報が見えてきます。
※薬「わかもと」の広告塔のあるビルは「丸高十銭ストアー」とか。

この風景の時代特定は、意外に簡単でした。
画像に映画の上演案内の看板があり、そこから時期を特定する事ができます。
「2013年12月16日 一枚の絵葉書から」

このブログでも、重要なヒントは「映画」でした。

都市発展記念館のサイトには
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a12_021_03.htm
『備考:画面左の建物は松屋横浜支店(1930年竣工)。垂れ幕には「祈皇軍武運長久」と書かれている。中央の広告塔の看板は「わかもと」。絵葉書は1933(昭和8)〜45年刊。』
とありますが、もう少し時期をしぼる事ができます。

(開戦前夜の夏)
この「絵葉書」には、読みにくいですが
映画の上演案内が写っています。
lig_映画看板
「小島の春」と「南風交響楽」です。
二本の邦画作品が並んで掲げられています。
「小島の春」1940年(昭和15年)7月31日公開
「南風交響楽」1940年(昭和15年)7月24日公開
特に
「小島の春」はヒットしこの年の暮れに発表されたキネマ旬報年間ランキングで第一位となります。
1940年(昭和15年)この年は皇紀二千六百年でもあります。
この「絵葉書」はこの時期に映された映像をプリントしたことになります。
※「小島の春」は女医小川 正子(おがわ まさこ)が描いたハンセン病在宅患者のノンフィクション小説を映画化した作品で、1937年(昭和12年)に長崎出版より発刊しまたたくまにベストセラーとなります。
この「小島の春」大ヒット、研究者荒井英子は『小島の春』現象と呼び「ハンセン病とキリスト教」(岩波書店)の中で70p以上に渡って分析しています。
ファシズム化の進む中、ハンセン病患者の“囲い込み”政策に上手く利用された疑念は拭えません。
→ここではテーマがずれてしまいますが、
メディアとしての映画が、弱者を切り捨てていく“美談”を謳い、酔いしれる大衆の怖さを学ぶ良いケースです。
lig_小島の春
もう少し時期を絞り込める情報がこの「絵葉書」には写り込んでいます。「松屋横浜店」の壁面に架かっている懸垂幕です。
lig_松屋懸垂幕
7月23日より8月3日まで
「●銀 即金買上げ 取扱い」
→おそらく “満州事変”勃発以降始まった「金銀 (強制)買上」政策の一つを百貨店が代行していたと考えられます。
もう一面の壁には「祈皇軍武運長久」の幕が架けられています。
→同じく戦時下となり国内に緊迫感が次第に高まってきている時期です。
1940年(昭和15年)か
1941年(昭和16年)のつかの間の夏。
lig_吉田橋から伊勢佐木046
あらためて
肩幅の広い「吉田橋」の存在感を感じる一枚です。