11月 20

第930話石油を巡る点と線

1,000話までカウントダウン70の節目なのでちょっと頑張ってみました。
帷子川河口域を調べている過程で、明治38年発行の地図を改めて見直していたらそれまで全く意識していなかった情報が目に飛び込んできました。
万里橋近くから「石油タンク鉄管」が海にまっすぐ伸びています。
明治38年の時点で、破線なので予定線かもしれませんが、横浜港内に石油パイプラインがあった?ことを再確認した次第です。
このパイプの使用者は?周辺を確認してみると高島嘉右衛門が造成した鉄道道にあたる「高島町四丁目」に「横浜瓦斯製造所」がありその奥には現在の平沼一丁目に「浅野石油槽場」が記載されています。
この場所は、戦前いち早くメジャー二社の石油会社が進出しましたが、浅野グループがいち早くこのあたりに石油関連施設を設置していたようです。資料を探してみたところ、
1892年(明治25年)
11月浅野総一郎、浅野石油部を設置、ロシア石油販売を開始
帷子川河口域の歴史を石油。製造業関係を中心に調べてみました。
1893年(明治26年)
5月ニューヨーク・スタンダード石油、横浜に日本支店を開設
 10月浅野総一郎、横浜に油槽所完成

【関連年表】を作りました。
1884年(明治17年)
山田与七、高島町に山田電線製造所を創業
→「山田電線製造所」が後の古河電工、横浜ゴムとなっていきます。
1888年(明治21年)
 6月19日 横浜のジャーデン・マセソン商会、ロシア灯油を初輸入
山田又七、山本油坑舎を設立、新潟県東山油田浦瀬で試掘
高島町遊郭が真金町、永楽町へ。
→「山田電線製造所」の山田与七と日本の石油パイオニアである山田又七は名前が似ていますが、接点は見当たりません。
1889年(明治22年)
4月16日東京ー浜松間開通
6月16日横須賀線開業
7月1日東京ー神戸全通。
小倉常吉は後に小倉石油となる小倉油店を開業。
1891年(明治24年)
横浜船渠工場操業開始。
浅野総一郎、サミュエル商会とロシア灯油の販売契約締結
1892年(明治25年)
6月山田又七ら、石油会社を設立(宝田石油の前身、新潟県古志郡比礼で試掘)
11月浅野総一郎、浅野石油部を設置、ロシア石油販売を開始
1893年(明治26年)
山田又七、「宝田石油株式会社」設立(新潟県長岡:東山油田)。翌年から米国製掘削機を用いて機械掘り採油を開始.。後に他社を次々と買収して日本石油会社と並ぶ本邦二大石油会社のひとつとなる。
 5月ニューヨーク・スタンダード石油、横浜に日本支店を開設
 10月浅野総一郎、横浜に油槽所完成
1894年(明治27年)
 3月21日ニューヨーク・スタンダード(ソコニー)、横浜に支店を開設。
8月日清戦争勃発(〜28年)
12月東海道、軍用線3.5km(神奈川〜保土ケ谷)ショートカット線開通。
1895年(明治28年)
内海(通称・平沼)の埋立開始。
1896年(明治29年)
山田電線製造所、横浜電線株式会社とし平沼に工場を建てる。
No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=488
帷子川、大岡川流域に染物工場、ハンカチのふちどり工場発展、製糸工場群生。
6月29日西平沼町に横浜電線製造KK設立。
1897年(明治30年)
サミュエルは横濱元町に「シェル運輸交易会社」を設立。
 湘南海岸で自ら「貝(シェル)」を拾った日々の原点に戻って、「シェル」と称したという。
1898年(明治31年)
浅野石油部、日本初の鉄製タンク車で石油輸送
1899年(明治32年)
平沼短縮線を一般客線とする。
1900年(明治33年)
4月11日日本のサミュエル商会は、石油部門を分離独立することとし、
 横浜に「ライジングサン石油株式会社」を設立(資本金25万円 本店・横浜市山下町)。
1901年(明治34年)
平沼駅開業。
2月ロシアに宣戦布告(日露戦争勃発)
1905年(明治38年)
7月19日平沼亮三の母千代子、出征兵士の歓送でホームと列車の間に落ち死亡。
9月大倉喜八郎・浅野総一郎ら、南北石油を設立。
12月京浜電気鉄道 川ー神奈川開通。
1907年(明治40年)
4月国産ガソリン自動車第1号製作(タクリー号)
第923話【横浜絵葉書】鉄桟橋の群衆2
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10924
 9月南北石油、保土ヶ谷製油所完成
 スタンダード石油が神奈川油糟所を開設。
スタンダード石油と三明商店の間に初めて代理店契約が結ばれた。(小嶌 正稔)
その後、全国の商店と代理店契約を結んでいく。東京神田美土代町大家商店。神戸松村石油。
 南北石油(株)保土ヶ谷製油所(神奈川県・保土ヶ谷、原油処理能力3,000バレル/日)がカリフォルニア原油を初輸入。
麒麟麦酒創業。
1908年(明治41年)
平沼の漁民、原油もれに抗議。
1914年(大正3年)
埋立完成、南幸町・北幸町と命名される。
1917年(大正6年)
日本は世界第8位の石油産出国という統計が発表される
1922年(大正11年)
小倉、横浜に原油貯油所完成。

震災前の平沼周辺

1923年(大正12年)
関東大震災によりスタンダード石油油槽所が倒壊。大火災により、周辺住民により再建反対運動が起きる。
1924年(大正13年)
日本石油、鶴見製油所(神奈川県橘樹郡安善町)を建設。
1925年(大正14年)
 2月資本金400万円で「日本フォード社」が横浜市緑町4番地に設立
 3月3日アジア初の「日本フォード」製造工場が横浜市神奈川区子安に開設。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6947
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7846
1927年(昭和2年)
日本ゼネラルモータース設立
以上大正時代までの関連年表を整理しただけで、
横浜と石油の関係が浮かび上がってきました。

11月 15

第927話【金沢区物語】島にもどった野島

「野島(のじま)は、神奈川県横浜市金沢区の平潟湾に浮かぶ島である。かつては砂州によって陸続きの陸繋島であったが、水路の建設などで分断され、島となった。(wikipedia)」

野島沖

野島
かつては島で、海流の作用で陸続きの<陸繋島>ということらしい。近世には地続きとなっていたようですので上記の表現、<水路の建設などで分断され、島となった。>とネガティブに表現しているけれど<戻った>ってことですね。

野島の夕照

横浜市では
「安藤広重の描いた「野島夕照」で知られる野島は、現在のこの公園のあたりといわれています。公園前面の海岸は、埋立てにより失われた中で残された市内唯一の自然海浜で、江戸時代には称名寺と共に物見遊山の客で賑わったそうです。第二次大戦中は巨大な地下基地が構築されましたが、戦後まもなく横浜市が立てた大臨海公園の計画に基き、大蔵、建設の両省と幾多の折衝を重ね国有地の無償貸与を受け、隣接民有地も買収し昭和30年から整備を行いました。昔の地形の特徴をそのまま残している野島山には、新しい展望台が、またその周りの運動広場、野球場、青少年研修センター、キャンプ場などは臨海のレクリエーションゾーンとして親しまれています。(横浜市環境創造局)」
ここでは、野島運河の話や経緯については触れていません。

■野島山展望台
野島の観光スポットである展望台は海抜57mあります。眼下には隣接する「海の公園」や八景島シーパラダイス」が広がり、反対方向では晴れた日に遠く丹沢、富士の山並み海側は房総半島を望むことができます。
平潟湾の夕照は昔と変わらない美しさを楽しむことができます。
■旧伊藤博文金沢別邸
野島にはもう一つ重要な観光スポットがあります。伊藤博文の別邸が復元されて公開されています。1898年(明治31年)に建てられ、ゲストハウスとして活用しました。
老朽化が進んでいたため解体工事・調査を行い、現存しない部分を含め、創建時の姿に復元し庭園と併せて整備し公開しています。
http://www.hama-midorinokyokai.or.jp/park/nojima/hakubuntei/outline.php
■平潟湾
平潟湾は横浜市内の湾岸部でも貴重な海岸線を残していますが、それでもほとんど失われてしまった風景です。侍従川、宮川、六浦川、鷹取川(横須賀市)の小河川が湾に流れ込んでいます。
近世後期の時点では、野島は陸続きで歩いて渡れる観光地でした。
ここに水路(野島運河)を作り、島化したのが現在の野島です。
島となった背景には、夏島が軍事基地として埋め立てが進められに、野島と接近したことで平潟湾の出口が無くなったため「野島運河」が作られました。
いっそのこと野島と夏島をつなげてしまえば!!と思いましたが、埋め立てしない理由があったのでしょう。
戦後、海苔養殖を営む漁業従事者と近隣の埋立地に進出する工場から出される排水の被害を巡って対立が起こります。
平潟湾を含め、金沢(柴漁港)の漁業権闘争の歴史は凄まじいものだったようです。
平潟湾には「金沢漁業協同組合」単独の共同漁業権(採貝採藻など)と区画漁業権(魚類養殖などの養殖)が設定されていました。一部横須賀の漁協と入漁権契約(山林の入会権)を結んでいました。
平潟湾に関しては 現実的に夏島などの埋立地により追い詰められていたこともあり、新たな24ha埋立交渉は昭和37年10月に始まり、約半年の厳しい交渉で3月に決着します。
熾烈な反対運動が行われたのが金沢地先埋立計画でした。
平潟の埋立事業交渉で先鞭をつけた形でしたが、昭和43年7月に発表されると同時に
柴・富岡・金沢の三漁協は強く反対を表明します。ここでは反対から妥結までの詳細な経緯は紹介しませんが、
現在ほぼ旧来の海岸線と漁業権を失った横浜湾岸は南北で大きく漁業再生事業の流れが分かれる形となります。根岸以北の多くの業業従事者は陸に上がり漁業から離れる結果となりましたが、南部の漁業はすべて満足という形ではないにしろ、転業を含め近海漁業が残っているという点で、今世紀の横浜にとって<救い>ではないでしょうか。海苔の栽培、蝦蛄漁他、金沢では美味しい海の食材を現在も提供し続けています。
野島を楽しみ 野島を眺めながら海を楽しむ
「海の公園」
本来の浜辺では無く<人工海浜>公園ではありますが、海辺が守られ、海と触れ合う空間がここに維持されていることは大切にしていきたい横浜の資産だと思います。
No.51 2月20日 海の公園計画発表
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=570
お薦め
海の公園「かき小屋」
平成29年11月1日(水) 〜 平成30年3月31日(土)
http://www.kanazawarinkaisv.co.jp/kaki.html
横浜市金沢区海の公園10
080-1218-3967
11:00〜21:00

11月 15

第926話【絵葉書の風景】橋の袂の少女(改筆)

戦前の絵葉書が多彩・多用な画像メディアとして活躍していた事はブログ内でも何回かお伝えしているところです。
さらに付け加えると、
時折 絵心というか<写真心>を感じる絵葉書に出会います。風景撮影だけではなく、そこに<アクセント>を意図的に付け加えることがあったのではないか?

この絵葉書は、

横浜関内と関外を結ぶ有名な「吉田橋」の風景です。

<橋の袂>に一人の少女が登場しています。
構図の特徴は、
吉田橋の風景に一人の少女が登場している点でしょう。
この少女
たまたま居合わせたのか、
関係者の子女であったのかわかりませんが、
意図的に構図として少女の居る「吉田橋」を撮影したことは間違いないでしょう。
手彩色のため、着物の色ピンク色になっています。
実際は確かではありませんが、なかなか存在感があります。
この少女の姿で、この橋に物語が生まれそうです。
冒頭で紹介した絵葉書のように
全国の観光絵葉書でも<傘をさす女性>とかアクセントを加えた風景が使われています。
この風景も 同じ感覚かもしれません。
もう一枚、同じ頃の吉田橋絵葉書と比較してみます。
ヒントはありますが
時代の絞込に苦労します。路面電車の軌道や看板がヒントとなります。
「ライオン」の看板は架橋時の風景にもその後の路面電車開通後にも登場しますが、この少女の風景では「ライオン」の看板はよくわかりません。
「活動 横浜館」の看板は確認できます。
もう一点、電柱でも違いがありますが、これだけで撮影時期の前後を判断するのは難しそうです。

少女の絵葉書でも橋上を見ると<電車>や<人力車>が走っています。
吉田橋の奥に見える「活動 横浜館」は
1911年(明治44年)勧工場跡に開館した「横浜館」だろうと思われます。
ここ「横浜館」は市内で最も古い映画館で1929年(昭和4年)に廃業しました。
「吉田橋」架橋時には式典が行われ多くの見学者が訪れました。

年譜にしてみました。
1859年(安政6年)
居留地と関外を繋ぐ仮橋を設置し
1862年(文久2年)
木造の本橋
1869年(明治2年)
錬鉄製の無橋脚トラス橋(リチャード・ブラントン設計)
そして
1910年(明治40年)5月
架替工事着工。
1911年(明治44年)3月21日
吉田橋工事のため橋の上下の派大岡川が閉鎖されました。
10月7日
派大岡川の通水開始。国産の「吉田橋」架替工事が完成します。
同年 11月1日 竣工、渡り初め式が行われます。
渡り初めの他、吉田橋開通式典が行われ、多くの人が集まりました。
記念絵葉書も発売されたようです。
同年 勧工場跡に「横浜館」開館。
1912年(明治45年)
路面電車の軌道が敷設され関東大震災までこの橋を路面電車が往来します。
少女の絵葉書の撮影時期は、
横浜館があり橋上に電車が走っていますから
1912年(明治45年)以降だろうと思われます。
電柱で見ると
1912年(明治45年)にはあった「電信柱」が
この少女の絵葉書では確認がとれません。
明らかに電柱の位置か構造が変わったことが分かります。
この辺の 電話事情がわかると 時代の絞込がさらにできるかもしれません。
本日は この程度の読み解きで 失礼します。

11月 15

第925話【横浜風景】金沢百景

金沢区は魅惑的な区で、様々な角度から紹介しています。
横浜18区の中でもじっくり書いたものが多いかもしれません。
<カウントしてませんが>
リンクをまとめました。
第923話【横浜市境】 市境の深ーい溝
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10931

No.136 5月15日 フルライン金沢区
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=479
横浜市金沢区は1948年(昭和23年)5月15日に磯子区から分区し創設しました。

No.269 9月25日(火)河口に架かる橋
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=334
1964年(昭和39年)9月25日の今日、埋立てによって整備された河口に架かる八景橋が完成しました。

2月20日 海の公園計画発表
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=570

2月22日 アーティストツーリング
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=568

2月27日 政治家が辞めるとき
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=563

No.124 5月3日 料亭にて超機密書類盗まれる
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=492
憲法記念日に因んで
伊藤博文らが金沢八景の料亭東屋で「明治憲法」草案を練ったという話

第829話 1936年(昭和11年)
6月23日日本製鋼横浜製作所JSW
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7780
「日本製鋼横浜製作所JSW」が金沢町泥亀に竣工・操業開始した日です。

1914年(大正3年)7月12日 京急富岡駅
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7816
横浜貿易新報社選(神奈川県内の)「新避暑地十二勝」が発表されました。

No.230 8月17日 (金)孫文上陸(加筆修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=377

No.451 芸術は短く貧乏は長し
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=108

No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=378

No.282 10月8日 (月)幕府東玄関を支えた寺
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=318

リンクが多くなりましたので
野島に関しては別に紹介します。

11月 14

第924話【横浜市境】 市境の深ーい溝(修正)

この話題は以前フェイスブックで取り上げたものを
このブログ用に加筆修正しました。
1988年(昭和63年)2月19日
「戦前に臨時飛行場として造成された埋立地“夏島”の帰属をめぐる横浜・横須賀両市間の紛争が40年ぶりに決着し、横須賀市に帰属することとなった。」
という記事を発見。改めて考えてみると
つい最近(昭和63年)まで市境が確定せず
帰属争議が横浜市・横須賀市間で行われてきたという事実に驚きます。
現在の市境は

横浜・横須賀 市境(Google)

今年2017年横浜市域の<境目>をほぼ確認してきました。
川崎市境から初めて東京町田、大和、藤沢、鎌倉、横須賀と歩いてきました。
横浜市金沢区野島町と横須賀市夏島町でフィニッシュ!

野島を横須賀側から眺めながら「鷹取川」河口域から護岸に沿って歩くと日本でも“珍しい”岸下の<市境>になります。“珍しい”岸下の<市境>

これは私の素人調査ですが入江や運河の行政界は ざくっと調べた限り戦後の境界設定にこのようなぎりぎり設定はあまり考えられません。
そもそもこの<夏島問題>戦前からありましたので、
<歴史的経緯>を紐解いてみる必要があります。
岸下の<市境>なので横須賀市域の陸上の岸壁真下は<横浜市>になるため、当然<横浜市港湾局><環境創造局>管轄域となります。この際どい横浜市域に<干潟>があり、少し葦が自生しています。※漁港区域の管轄は<環境創造局>とご指摘いただきました。
今回、ここに葦がしっかり育つようにしようという活動のお手伝いをしつつ<市境>を越え確認してきました。
このエリアは干潟となっていて豊富な野鳥の飛来する空間にもなっています。
ところがご存知、干潟の葦原はゴミの<フィルター化>して大量のゴミが漂着しています。こればっかりはしっかり人の手でゴミを除去する必要があるからです。
ところが、掃除をスルためには横須賀市域から<欄干>を乗り越え横浜市域に下ります。そこで集めたゴミは横浜市指定の袋を使い、横須賀市域に上げ、横浜市のゴミとして金沢区のゴミ処理場に持ち込みます。横浜市内で生じたゴミは横須賀市を通過しないと処理できない空間でした。
『野島運河』は横浜市・横須賀市の大切な海洋資源であることを再確認しておきましょう。
(夏島問題)
名前の通り、「夏島」はかつて島でした。ただ、金沢区南部は明治期以前から現在までにかなり海岸線が変化した地域です。ここに「夏島」だけではなく「野島」の存在も面白い歴史的経緯を持っています。
夏島ですが
戦前、軍の飛行場拡張のため夏島周辺を埋立てた場所の帰属が横須賀市なのか、横浜市なのか、両市が争った!という事件です。(戦前は横須賀市?)

結果 長い協議を経て
夏島一体の埋立地は横須賀市ということに決着したということです。
問題となった軍航空施設の埋立て地は面積45万坪にも及び、その74%(約33万坪)が戦後<地方公共団体>に属さない所属未定地であったところから係争となりました。こんなこともあることにも驚きました。
前述の通り、
このエリア、幕末から明治の頃、「野島」と「夏島」の間は広い海で、干潮時には広大な干潟になる自然豊かな場所でした。
この干潟を明治時代あたりに海軍航空隊の飛行場を整備するため埋立を進めます。夏島にあった小さな山を削り、その土砂で南側の追浜との間を埋め立ててしまいます。
戦争が終わりますが、この海軍の追浜埋立地は皮肉にもそのまま米軍の管理下に入り基地として使用されます。
接収解除後、日産自動車の追浜工場敷地となり現在に至ります。日産追浜はテストコースもあり、一時期新車スクープ事件も起こったり日産にとっても重要な工場の一つです。
戦後の地図を調べてみると 驚き
横浜市域が夏島の中に引かれているではありませんか。

地図制作会社は 何を基準に作図したのでしょうか?
行政の懐事情で言えば、
大企業がそこに進出しているわけですから税金が違ってくるため、自治体はある意味必死だったのでしょう。
和解と合意の内容に関しては調べていませんので不明ですが、
横浜市民的には 入るべき<税>を横浜市は諦めたのは市民の利益を失う行為!!
ですね。
※一方、野島はかつて島ではありませんでした。このあたりも知りたいところです。
※注力散漫でした。港湾区域図をしっかり見ませんでした。

11月 10

第921話【堀と掘】掘って割、堀となる

横浜市南区東南部と磯子区東部にわたり、
明治7年(1874年)
大岡川の支流中村川分水路として開削されたのが「ほりわり川」です。

この「ほりわり川」の表記が統一されていないのかあくまで誤記なのか。
堀割川
掘割川
「堀」「掘」の二種類が様々な場所で見受けられます。
ここでは「堀割川」を採ることにします。

テレビ番組でも 時折テロップに「掘割川」が使われることもあります。

「堀割川(ほりわりがわ)は、神奈川県横浜市を流れ根岸湾に注ぐ流域全長2700mの二級河川。大岡川の分流である。明治時代に作られた人工河川で、横浜港発展に大きな役割を果たした。
※1870年、横浜港と根岸湾とを結ぶ水運と、吉田新田埋立用土砂確保のため、当時の神奈川県知事の井関盛艮が工事請負人を募った。吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫がこれに応じ、今の中村橋付近の丘陵を切り下げ、中村川から根岸湾まで運河を開削。その土砂で、当時の「一つ目沼」、のちに根岸線と横浜駅根岸道路の間の吉浜町・松影町・寿町・翁町・扇町・不老町・万代町・蓬莱町となる湿地帯の埋立を行った。滝頭波止場(現在は動物検疫所となっている)が大波で破損するなどしたものの、1874年に完成した。2010年度には土木学会選奨土木遺産に認定された。(wikipedia)」

横浜市の資料、国交省の資料には「堀割川」とあり、常識的にはこの表記が正しい。
ただなぜ<てへん掘割川>が未だ使われているのでしょうか?
単純に 変換ミス。もう一つ、掘割川派の立場であえて主張するなら
掘るのは<てへん>で掘った結果が<つちへん堀>となります。
掘って運河(堀)を作った結果を<掘割川>の方が理にかなっている!と言えないこともないでしょう。かなりの屁理屈ですが。
「堀割川」
<名称>をきっかけに堀割川のこと少し突っ込んで調べてみました。まだ、資料を読んでいる最中!なので保留ですが、横浜を考える上でいろいろなことを学んでいるところです。堀割川は、民間の手で近代に誕生した大岡川の運河の一つです。
横浜市内7水系28河川の一つ「大岡川」に含まれます。
明治3年に県が公募し吉田家を中心とする民間資本が名乗り出て途中米国資本が入り明治7年に完成しました。
堀割川は吉田新田大岡川の家族で、ここに<家>の浮沈をかけて挑んだ吉田家の努力があり、当時不平等条約の下で居留地から国家ビジネスをしかける外国資本、国家財政破綻寸前、明治六年政変前後の日替わり政府の姿勢、
横浜を舞台にした江戸から明治への近代化とは何だったのかを問う象徴的な出来事です。開港によって、開港以降の<輝かしき>発展史だけではない史実があったこと、
ここに登場する、今殆ど評価されていない人たち、史実が少し見えてきました。
来年は改めて「堀割川」両岸を歩きながら明治・大正・昭和、そして平成を見つめてみたいと思います。

11月 8

第919話【横浜の小さな橋】大清水橋(滝ノ川)

Google Earth

滝ノ川に架かる「大清水橋」
かな表記は「だいしみずばし」だが市の橋梁台帳では「おおしみずはし」となっている。読みが全く異なるもの珍しい。理由は近所に60年暮らす方に聞いても解らなかったが、その方は「おおしみずばし」だと思っていたようだ。
滝の川だと神奈川区、滝ノ川は境川の小派川となる。「滝ノ川」の名は神奈川東京に多くあり、小さいが時に滝のように流れるからかもしれない。
横浜市戸塚区小雀町付近(公文学園)あたりを源に横浜市と鎌倉市の境付近を沿うように流れ、藤沢市に入り、藤沢宿近くで境川に流れ込む。普段は殆ど水量の少ない川だが、一旦雨が降ると一気に水量が増し、両脇の畑が浸水することもあるという。
長さと幅がほぼ同じくらいなので橋面は四角い感じがする。記憶違いかもしれないが、
かつてこの橋の近くを横浜ドリームランド線(モノレール)が走っていたころ、車両が交差するポイント近くを流れる小さな川の記憶が残っている。
少し小高い尾根筋のような<国道1号線>と横浜市水道局小雀浄水場のある丘に挟まれた谷戸が滝ノ川。現在も川沿いには畑が多く残っている。実はこの「大清水橋」はかつて神奈川有数の渋滞交差点「原宿」の迂回路として使っていた個人的に懐かしい橋だった。今冷静に地図を眺めるとやたら遠回りで、少しは時間短縮に役立ったのかドウか実に怪しい抜け道だ。でも渋滞で頻繁にアクセルとブレーキを踏むより<走る>ことでストレスレスだったのかもしれない。
ただ少し小高いところから<冬場に限るが>見る富士はなかなかである。

小雀から富士
10月 6

第912話 【市境を歩く】長尾台町あたり

横浜側:長尾台、田谷
鎌倉側:玉縄、岡本
今年の春、市境踏破を目指しました。ほぼ全市境あたりを歩きましたので、第二ステップでは、市境をもう少し探ってみることにしました。
(長尾台)
大船駅西口から柏尾川に沿って上流に向かうと程なく「長尾台」のバス停があります。このあたりで川を背にすると目の前に切り立った高台とその周辺が長尾台です。
中世戦国時代に後北条氏伊勢盛時、後の北条早雲となったに武将によって築かれた玉縄城(たまなわじょう)の出城があった場所とされています。
この長尾台は東と南の方角を見据える良い立地で古くから小城(館)があったことが発掘調査で判っています。平安時代の武将、源義家に従って活躍した長尾次郎の名がこの地名の由来とされています。中世に北条氏の三浦攻めの拠点となった鎌倉玉縄城は、永正9年(1512年)に後北条氏伊勢盛時のちの北条早雲によって築かれます。長尾台は玉縄城の重要な出城で近くを流れる境川支流柏尾川が堀の役割をする絶好の要害の地でした。
現在も長尾台の丘陵部は人里離れた別天地の様相で、横浜に居ることを忘れてしまいそうです。
この長尾台と隣接する田谷の境界にはケモノミチがあり、この道を抜けると玉縄五丁目に出ることができます。
(夢を運ぶ)
この市境にはかつて、モノレールが走っていました。
この話にピンとくるかどうかで一つの世代を測ることができます。夢のように現れ、夢のように消えた「横浜ドリームランド」の消滅要因がこの横浜ドリームランドと大船駅を結ぶ”モノレールドリームランド線”のトラブルでした。モノレールが開通した翌年、1967年(昭和42年)に構造上の欠陥が見つかり早くも運行が休止され、送客できないことでドリームランド閉鎖の致命的要因となります。モノレールを担当した東芝は、責任を認めず、長い裁判となります。
※このドリームランドモノレール事件の裁判過程は実に興味深いのでじっくり読み解いてみたいテーマです。 池井戸潤の「下町ロケット」にも通じる、大手企業の<影>が見えてきます。
掲載の地図に引かれている路線図はかなり乱暴ですが、実際は長尾台・田谷付近の市境に沿って路線が引かれていました。すでに市街化していたこの地域に交通機関を設置する唯一残された空間だったのかもしれません。
(市境)
JR大船駅ホームの下を柏尾川の小派川「砂押川」が流れています。横浜市と鎌倉市の境、市境の決まり方としては一般的な「境の川」です。
「砂押川」が柏尾川に合流し市境も柏尾川に沿って400mほど北(上流)に伸び、柏尾川右岸側、西方向に入り込み長尾台西南の尾根筋が市境となっています。
現在の長尾台は古来「相模国鎌倉郡」で、1889年(明治22年)明治期最大の市町村再編成が行われます。この市町村合併は近世江戸の集落関係に関係なく様々な軋轢を残したまま実行されます。
柏尾川右岸の金井村・田谷村・長尾台村と小雀村が合併し現在の鎌倉市境、横浜市西部のかなりまとまったエリアが長尾村となります。
ところが、1915年(大正4年)に再編が起こます。
“広い長尾村”周辺が解体され、国道(東海道)沿いの小雀村・富士見村・俣野村・長尾村(一部)が大正村に
田谷村・金井村・長尾(台)が明治22年に柏尾川左岸でまとまった豊田村と大正4年に合併し大きな「豊田村」となります。
単純化すれば、川をベースにした農業エリア柏尾川両岸でまとまり、東海道筋経済圏で戸塚宿以南でまとまった新しい自治体を作り直したという構図です。
ただ、長尾(台)村は大船駅に近かったため、早くから大船村への合併を希望していましたが叶いませんでした。
(鉄道の時代)
明治に入り、街道の時代に加え鉄道の時代が始まります。
東海道線 大船駅は
1888年(明治21年)11月1日に開業。当時、駅の正面は西口の観音側でしたので、長尾台村にとっても重要な最寄り駅となっていました。
さらに翌年の1889年(明治22年)6月16日には横須賀線が大船駅〜横須賀駅間で開通し、鎌倉駅・逗子駅・横須賀駅も合わせて開業します。
戸塚町は明治中期以降、工業都市として急速に発展していきます。横浜市が昭和に入り「大横浜」を指向する中、柏尾川沿いの町は大横浜に入るのか、これまでのコミュニティを維持するのか、大きな選択を経て現在の横浜市域が誕生していきます。
改めて境界を歩くと長尾台から玉縄の台地を鎌倉時代、相模のもののふ達が去来した思いを馳せることができるでしょう。

8月 20

第909話 【大岡川運河エリア史】江戸湾編

素人調べレベルと予め宣言しておきます。
大岡川河口域に広がっていた<内海>は絵図を見ると新田開発が始まるまでは、漁場だったようです。<横浜の砂州>が冬場の北波を防ぐ防波堤の役割をしていたから中々の漁場だったのではないでしょうか。
その後、吉田新田干拓(1667年)によって、<内海>の漁場が野毛村近辺と横浜村外海が漁村として残された他は、いわゆる農業が行われました。
ただ新田がすぐに稲作に適した土地になることは無く、塩抜きを含め数年にわたる手入れが必要でした。干拓には約11年かかり、順次上流域から耕作地となっていきましたが幕府から正式に新田として認められるにはもう少し時間がかかります。
江戸時代、八割は百姓でした。その大半が農業従事者だったので百姓=農民と表現されるようになりますが、百姓は稲作中心の農民という姿以外にも多彩な生活スタイルを持っていました。
(百姓=地域に生きる多能工)
半農半漁、農業ができないから漁業も。
逆に漁業だけでは生活できないから農業も。
といった表現は百姓=農民、米生産者からの視点です。
石高制の幕府にとって米生産者は 最も歓迎すべき納税者でした。
現代におけるサラリーマン(源泉納税層)みたいなものです。
漁業従事者は一般的に網役(あみやく)という漁業年貢を収めていました。
年貢米と同様に、共同体単位で収めていたようです。

十七世紀に入り、兵農分離で闘う武士が都市生活者となり、安定した徳川時代が訪れます。治水・利水技術の発展と普及で山間地農業が河川域全般に稲作が広がり、江戸時代は急激に人口増と米の収穫増となります。
ただ、稲作は労働集約型なので人力が必要でした。
また江戸期からの農業は限られた田畑に<肥料>を投入する集約農業スタイルとなります。特に都市近郊農業は<糞尿>を有料で購入し投入することで収量を増やしていきます(金肥)。
では海辺や谷戸ばかりで<平地>の少ないエリアでは どのような生業で集落共同体は成り立っていたのか?
地に生きるとは、地(海)から恵を得ることです。生業とはそういうことです。
海付の村、海辺からすぐに谷戸となる地域の多い横浜は
農・漁・搬送を複合的に生業とする「漁師百姓」によって村落共同体が形成されていました。
漁場を巡る争い
19世紀に入り「内海三十八職」という取り決めが江戸湾内漁業従事者の間で行われます。江戸湾で認められた38種類の漁法のことです。
当時、江戸前には84の浦と、18の磯付(いそつき)村があったといわれていますが漁場を巡る争いも多く、都度話し合いによって解決してきました。
江戸時代も後期に入ると 都市近郊の在郷町に市場経済が発達し
漁業も江戸市場への稼ぎ頭となってきたため 漁法規制が必要になってきました。

文化13年(1816年)6月
江戸湾沿岸の相模・武蔵・上総の漁村44の代表が集まって会合を開き、一通の議定書を作成します。
・各漁村は毎年春に会合を開くこと。
・御菜八ケ浦が年番で代表を務め、会合の開催やその他重要なことは廻状によってそれぞれの村に伝えること。
・各郡にも年番の惣代を置いて議定書の内容を守らせるとともに御菜八ケ浦や他郡の惣代との連絡を行うこと。
・新規漁法を原則禁止とし、どうしても行いたいとする希望が出されたならば会合における合意を得ること。
等を取り決めます。
◆江戸湾内湾漁撈大目三十八職」または「内湾三十八職漁法」
手繰網(一名うたせ)
三艘張網
鮑漁
貝草取(貝藻取)
揚繰(あぐり)網
とび魚漁
こませ流し網※
肥取漁(ひとり網)
地引(ちびき)網
このしろ網
鰆(さわら)網
張網
貝類巻※
縄舟漁縄編漁
小晒(こさらし)網
投げ網※
あびこ流(網)
六人網
小貝桁網※
鰻掻(うなぎかき)
のぞき網(漁)
八田網
釣職一式(釣船)
海鼠(なまこ)漁
たいこんぼう網(一名かひかつら網)
鵜縄網
小網
ころばし網
鯔(ぼら)網
鯛縄
貝桁漁
いなだ網
四手(よつで)網※
丈長網
白魚網
藻流し網
歩行引網(かち網)
たつき(たたき)網
このしろ網
ななめ網
竿小釣網
※四十一種類ありますが
時期によって 種類が異なったようです。それにしても多彩です。

◆従来から使用を認められた漁具「小職」
簣引網、ズリ網、尨魚引抜網、蛎万牙漁、蛎挟漁、蜆流網、アサリ熊手漁、アミ漁網、サデ押網一名糖魚網、不笊漁、ウナギ筒網、ウナギ筌漁(方言ウケ、ドウ)、ウナギ抄(方言メボリ)、サザエ引網、鰌漁網、ボッサ縄、海苔桁網(方言ケタ網)
※その後追加された漁法
「エビケタ網」

領域を多彩な分類によって一つ一つ決めていくのは日本のお家芸ですね。

参考文献
「東京都内湾漁業興亡史」東京都内湾漁業興亡史刊行会
「巨大都市と業業集落」成山堂書店
安室 知(神奈川大学) 論文
「百姓たちの江戸時代」ちくま
「江戸日本の転換点」NHK

8月 20

第908話 【大岡川運河エリア史】漁師百姓

大岡川に関心を持った中で
江戸期の百姓の姿を知りたいと考えました。
そこで
この夏の集中テーマを江戸の「百姓」に置き 学習計画を立てました。
大岡川下流域、横浜村エリアに暮らした百姓の姿を推理するには何が必要か?
と考えたからです。
1667年に吉田新田が完成した以降、開港までの横浜村エリアの百姓はどんな暮らしをしていたのか?
●大岡川運河エリア
ここでは「横浜村エリア」を
吉田新田に関係するエリア=「大岡川運河エリア」と考えました。現在の「関内外エリア」という表現ではどうもしっくり来なかったので、大岡川運河エリアとしました。
では大岡川運河史をざくっと!まとめます。大岡川河口域に「吉田新田」が完成する前は蒔田あたりまで<海域>でした。
蒔田一帯は「塩田」や「漁業」を生業とする百姓が中心
吉田新田が1667年に完成したことで まずこのあたりの経済構造が大きく変わっていったと想像できます。
<海域>から<川域>になり
大岡川右岸から派川として中村川が誕生します。
干拓による人工の河川なので「運河群」といって良いでしょう。
吉田新田完成によって大岡川運河が誕生します。
中村川河口は?ちょっと判断が難しいです。
堀川ができるまでは大岡川本流の河口あたりで合流することになっていますが
現在の石川町駅あたりからは小さな入海ともいえます。(後の派大岡川)
この出口右岸側に浅瀬・沼地ができるようになり、
「太田屋新田」「横浜新田」ができあがます。
開港によって この地域の役割が大きく変わり
開港場が登場し 堀川が開削されて 関内出島が誕生。
おそらく このあたりで中村川が明確に見えてきたことで一般的に「中村川」となったのでは?<勝手な推理>
明治に入り
堀割川が完成し、吉田新田一帯の灌漑用水が整備され運河化して
一応の「大岡川運河エリア」整備が終わります。(つづく)