6月 8

第892話【ある日の横浜】東口「横浜ホテル」

ここに在る日の横浜の風景写真があります。

横浜ホテル

この写真は、かつて横浜駅東口にあった「横浜ホテル」と帷子川の風景です。
撮影年は確定できませんが昭和24年頃と推定しました。
東急電鉄がこのホテルを買収する直前か、買収後で改装前のものと思われます。
万里橋の上から国道1号線が通る築地橋方向を撮影しています。その先は当時の「表高島町」操車場にあたります。
このホテルは現在、東急グループの神奈川都市交通が経営するガソリンスタンドとなっています。
横浜ホテルと東急の関係は以前ブログで紹介しましたので参照ください。
1954年(昭和29年)6月30日東口「横浜ホテル」
もう一枚この近所が同時期に撮影されている写真も紹介します。

横浜東口高島通商店街

万里橋の袂で現在、裏高島の面白い飲食店が集まるエリアです。
横浜大空襲を経て終戦となり復興が始まった「高島通商店街」の様子が垣間見ることができます。ここ「高島通商店街」は80年代までは賑わったエリアです。90年代に入り高島エリア(みなとみらいエリア)の空洞化に伴い刃毀れ状態となっていて衰退。
横浜駅の中心が”東から西”へシフトし減退エリアの象徴のようになってしまいました。
写真正面に見える「三共商会」は最近までこの地で運輸業を営業していましたが、移転したようです。

実はこの場所が<高島町2丁目>裏高島エリアだと確定したのは
「三共商会」の奥に「神奈川県製パン協同組合」のビルを確認できたからです。

横浜駅東口エリアには
豆腐会館
神奈川県製パン協同組合
神奈川県印刷組合
など 様々な業界の組合ビルもありました。
※豆腐会館は現在もあります。

このエリア活性化の動き
裏横浜地域活性化プロジェクト urayoko net
http://urayoko.net
ちょっとデータが古いですね。
一時期<裏高島>で頑張ったていましたが
さらに
もうひと踏ん張りして欲しいですね。
2017年6月記す。

6月 3

第891話【横浜の橋】A B 橋

かつて大岡川には川の十字路がありました。

運河の交差点

大岡川下流域は吉田新田の干拓によって誕生した運河の町です。<灌漑水路>として中村川・派大岡川が生まれ堀川が作られ、明治に入って掘割川開削で磯子湾につながることで水運機能が高まります。

吉田新田

水田の吉田新田域が次第に宅地化・近代化していく過程で<灌漑水路>が<水運水路>として「吉田川」「新吉田川」「日ノ出川」「富士見川」が整備されていきます。
この時期に、横浜にとって重大な事業計画が進められます。野毛浦地先に鉄道が引かれる用地が埋め立てられることになりました。 ここに排水路を兼ねた「桜川」が誕生します。

大岡川に桜川と派大岡川が繋がり川の交差点が誕生します。
ここには「柳橋」と「錦橋」、大岡川には「都橋」「大江橋」が架かっていました。
※明治初期には「櫻橋」という木製の橋が短期間ですがありました。

櫻橋

このポイントは首都高速道路、JR根岸線、市営地下鉄、大岡川、幹線道路が集中し大工事が行われた場所でもあります。
「桜川」と「派大岡川」が無くなり大岡川だけになった時に、道路整備が行われ「桜川新道」ができ大岡川に「桜川橋」が架けられます。

【横浜の橋】№10 残った紅葉橋(陸橋)

【横浜の橋】№10 残った紅葉橋(陸橋)

この桜川橋は珍しい橋の一つだと思います。
構造的には普通の<上下線分離型>2連橋ですが上下で”橋名”が異なります。
普通は上下まとめて名称が付けられます。
「紅葉坂」「国際橋」も上下線分離型の2連橋です。さらには上下線、長さが極端に変わる「新山下橋」も上下線分離型の2連橋ですが名前は一つです。
「桜川橋」 上下線に区別がある”大変珍しい橋”なんです。
しかも呼び名も変わっていて
上流から
「桜川A橋(さくらがわえーきょう)」
長さ41.8m
幅は16.8m
架橋年は昭和48年

「桜川B橋(さくらがわびーきょう)」
長さ38.7m
幅は16.8m
架橋年は昭和48年

普段、橋上を走っていると全く判りませんが、川筋や袂から眺めるとしっかり「桜川B橋」のみ明記されています。

桜川物語も調査中ですのであらためて紹介します。

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6月 3

第890話【横濱の風景】西之橋からみる風景

ふと気がついた疑問をFacebookにアップしたネタですが、結構反応があり改めて確認してみると面白いのでブログアップします。
昔の絵葉書や地図を少しコレクションしていますが、
絵葉書とマップを比較することはほとんどありませんでした。
今回のテーマは
【中村川】横濱西ノ橋川岸雪ノ景
横濱の冬景色の絵葉書は少なく風情のあるいい風景です。

この絵葉書に関してこれまで
下記のキャプションを用意してきました。
「中村川と堀川そして埋め立てられた派大岡川が交わるあたりを西之橋から見た雪風景です。現在は石川町駅と首都高速が川の上にありこの風景の面影は殆どありません。今の西之橋は大正15年に再建された震災復興橋の一つで画像上流には、中村川に架かる亀之橋が見えます。昔の美しい景色が写る貴重な運河の風景です。」

ここで遠くに見える橋を中村川に架かる「亀之橋」とばかり思い込んでいました。根拠は「横浜絵葉書」関連書籍に同じ風景が収録されていて
「亀之橋」とあったので検証しなかったからです。
ところが実際「西ノ橋」袂に立ってみるとここから亀之橋を確認することはかなり厳しい角度にあります。
奥に見える高架は根岸線、その奥が 「石川町駅前歩道橋」です。
1960年代に首都高工事で「派大岡川」を埋め立てた際に少し中村川の川筋が変わった可能性もあるので、過去の地図を幾つか探し出してみることにしました。

大正11年
昭和2年

見えないこともない?色々探してみると 発見したのがもう一つの橋でした。
「亀之橋」と「西之橋」の間にもう一つ橋が架かっている地図があったのです。
現在の根岸線の石川町駅前歩道橋あたりに架かっていたようです。
<ようです>というのは
この謎の橋が表記されていない地図もあったからです。戦前の地図、少なくとも橋に関しては、<謎の橋>が時折現れます。
さて?この橋の名は。地図上にも橋梁名が記されていません。
仮に<石川町橋>とでもしておきましょうか。
解明はこれからです。

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4月 6

第885話【横浜の橋】都ぞ春

開港時から明治期にかけて、横浜開港場界隈に架かる<橋>数数あるなか
知名度なら「吉田橋(派大岡川)」でしょう。
明治初期、開港場付近の橋といえば?
辨天橋・大江橋・前田橋・西之橋・谷戸橋・湊橋・豊国橋 他
居留地と外を結ぶ<関門橋>があり、多くが現存しています。
中でも吉田橋は、関内外を結ぶ橋として一際注目されてきました。
横浜の重要な道を繋ぐという視点で<橋>を眺めてみると
「都橋」が横浜発展の要となっていたことに気がつきます。
「都橋」は
1872年(明治5年)7月
「野毛町一丁目往還北側茅屋を毀ち、道路を改修し、野毛橋を毀ち、更に北方へ凡そ三間位置を換へ、橋台を築造し、無杭木橋に改造し、都橋と改称す同月野毛橋の古材を太田村に移し、以て栄橋を架す。」
開港時「野毛橋」と称していました。
東海道から帷子川の越え、野毛坂を越え「野毛村」と突貫工事で切り開いた開港の道(横浜道)は「野毛橋」で大岡川を越え吉田橋関門へとつながる重要な橋の一つでした。
この「野毛橋」の架かる一帯の整備が行われ、
道路を改修、新しい橋に架け替えられます。
この時に、名称を「都橋(みやこはし)」と一新するのですが、
なぜ「みやこはし」となったのか?
オツな話が伝えられています。
古今和歌集56番
「見わたせば
柳桜をこきまぜて
都ぞ春の錦なりける」素性法師
“ここから眺めてみると、
柳の緑と桜の色とが混ざり合って、
都が春の錦のようであることよ”
といった美しい春の風景を詠っています。
見渡せばとあるので 何処か高いところから見下して詠ったものですので
野毛に置き換えれば<野毛山>からの眺めと重ねたのかもしれません。
実は
「見わたせば柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」の
歌中にある<柳><錦>から
都橋下流の大岡川と派大岡川、桜川と川の十字路となっていたところに
「柳橋」と「錦橋」が架かっています。 この2つの橋と桜川をかけて
ちょうどよい歌を引用し「都」橋と名付けたそうです。

#大岡川の橋

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4月 3

第884話【今日の横浜】4月2日リベンジ横浜!

 万治2年2月11日(1659年4月2日)
横浜の原点となった「吉田新田」の第二回鍬入れ(再開)の日です。 旧暦では2月11日ですが、ここではネタ用に西暦を使わせていただきます。
実は 吉田新田干拓計画はさかのぼるところ
1656年9月5日
明暦2年7月17日に江戸の吉田勘兵衛が江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得て、入海の新田づくり鍬入れ式を行います。
ところが
1657年6月21日
明暦3年5月10日に新田工事の最中、13日まで大雨が降り続き
6月24日に潮除堤が崩壊し干拓工事事態が中止に追い込まれます。
これに屈すること無く、吉田勘兵衛は新田開発再開を決意、
万治2年2月11日(1659年4月2日)に
再開の鍬入れが行われました。この再開の決意がなければ現在の横浜はどうなっていたのでしょうか?
様々な想像ができます・
ただ、大岡川の隣を流れる帷子川に見られるように 大岡川河口もしばらくして複数の干拓事業が行われたでしょう。地権者が増えることによって このエリアの発展がスムースに進んだか? その後も沼地のままになったかもしれません。  今年は、「吉田新田完成350年」にあたります。
一人の事業者によっていち早くこの一帯が整備された意義は大きいのでないでしょうか。
吉田新田事業「土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島」から持ってきたそうです。

(吉田新田前史)
今から約350年以前の横浜エリアは、山手から砂嘴が突き出し、その内側には大岡川の河口から釣鐘形をした深い入り海が広がっていました。
このくちばしのような<砂嘴>の突先に 弁天様が祀られ
洲干弁天と称しました。 1170年代、12世紀の治承年間 源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝えられています。以降、850年近く経ちます。
■枕詞を疑え!!
少々余談となりますが、横浜史の枕詞(まくらことば)に
「入江の砂州上の寒村であった横浜村の更に先端にあり」
「戸数約100戸の半農半漁の寒村・横浜村(今の関内地区)」
と決まってペリー来航以前を<寒村>をしますが、
私は違和感を感じます。ここが<寒村>とするなら 日本中の豊かな村とはどんな村なのか?問いたい!
国語辞典にも「かん‐そん【寒村】 の意味 貧しい村。さびれた村。」
「洲干弁天社は開港前から景勝地として知られ、開港後は開港場の中心をなす横浜町の入口に位置することから、横浜名所の一つとなり、茶屋などが集まった。(開港資料館)」
と近年 横浜村周辺の表現が変わりつつあります。
→横浜村風光明媚論は追って書きます。

<簡単横浜の新田史>
1640年代(慶安年間)には元町1丁目の増徳院が別当となります。
1656年(明暦2年)吉田勘兵衛、江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得ます。
1656年(9月5日)(明暦2年7月17日)吉田新田 鍬入れ式が行われます。
1657年(6月21日))明暦3年5月10日)から13日(6月24日)まで大雨で潮除堤が崩壊
★1659年4月2日(万治2年2月11日)
吉田新田 工事を開始 土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島から
1667年(寛文7年)吉田新田 完成
1669年(寛文9年)功績を称え新田名を吉田新田と改称
1674年(延宝2年)公式の検地、新田村となった。
1707年(宝永4年)宝永大地震の49日後に、富士山が中腹から大噴火
1761年(宝暦11年)検地を受け宝暦新田(大新田)<干拓洲>となる。
1779年(安永8年)検地を受け尾張屋新田<2町7反>となる。
1780年(安永9年11月)検地を受け安永新田<干拓洲>となる。
1817年(文化14年)検地を受け藤江新田となる。
1818年(文化15年)「横浜新田」の名が初見(完成は?)。
1830年(天保年間)程ヶ谷宿の豪商 平沼家と岡野家が大規模な埋め立てを開始。
1833年(天保4年)岡野新田鍬入れ
1839年(天保10年)検地を受け岡野新田となる。
1845年(弘化2年9月)検地を受け弘化新田となる。
1853年(嘉永6年)「太田屋新田」完成。
1854年 3月8日(嘉永7年)アメリカ海軍提督ペリーが黒船を率いて日本へ2度目の来航をし、横浜村へ上陸する。
1859年11月10日(安政6年)太田屋新田沼地を埋め立てて港崎町を起立し、港崎遊郭開業。
1859年6月2日(安政6年)横浜港が開港する。久良岐郡横浜村が「横浜町」と改称。運上所周辺には駒形町が、太田屋新田の横浜町隣接地には太田町
1864年(元治元年11月)野毛山下海岸を埋立て石炭倉庫6棟竣工。
1864年(元治元年)さらに検地を受け岡野新田拡大。
1867年(慶応3年)慶応の大火事の復興工事、町は和風から洋風への建て替えが始まり、石造りの洋風2階建ての「神奈川奉行所」完成。それを期に「横浜役所」へ名称変更。馬車道が開通する。
1868年8月(慶応4年)横浜町と太田町をあわせて二地区(上町・下町)に分け、5名の名主が担当した。
1869年(明治2年)洲干弁天社が移転。
1869年(明治2年3月)花咲町6丁目の内田清七、福島長兵衛ら県より請負い吉田橋北詰より野毛浦までの埋立てに着手。
1870年(明治3年)町屋の整った地域に長者町・福富町の二町が起立。
1871年7月(明治4年)横浜町と太田町の区域に正式に町名を付ける。本町・南仲通・北仲通・弁天通・元浜町・海岸通・堺町・太田町・小宝町・相生町・高砂町・住吉町・常盤町・尾上町・真砂町・港町・駒形町・羽衣町
1871年8月(明治4年)横浜関内各町を五区に分け、各々1名の名主が担当する。
1872年11月28日(明治5年)横浜役所は「横浜税関」へ名称変更。
1873年(明治6年)南一ツ目にあった遊水池(沼地)埋め立て、寿町ほか7か町が起立(埋地7か町)。
1873年5月1日(明治6年)神奈川県を20区に分け、区下に複数の番組を編成。横浜町は第1区1番組に編入される。
1873年5月1日(明治6年)平沼新田のうち、横浜道沿いの町屋が形成されていた箇所に平沼町が起立する。大区小区制により神奈川県第1大区3小区に属した。
1874年6月14日(明治7年)大区小区制に伴い、第1大区1小区に編入される。この頃伊勢佐木町ほか数町が起立
1876年(明治9年)洋式の公園「横浜公園」が開園。
1878年(明治11年)郡区町村編制法により以前の新田村が復活し、久良岐郡平沼新田、橘樹郡岡野新田に戻るが、平沼町は横浜区に編入された。(久良岐郡より独立)
1878年11月21日(明治11年)郡区町村編制法に基づき、横浜区となる。(久良岐郡から分離)
1878年7月(明治11年)市街地化した南三ツ目・北四ツ目までが横浜区に編入
1880年(明治13年)南三ツ目に高島町遊廓が移転
1889年(明治22年)市制町村制が施行され、平沼新田は久良岐郡戸太村に、岡野新田は橘樹郡保土ヶ谷村に、平沼町は横浜市にそれぞれ編入される。
1889年(4月1日)明治22年 市制施行により関内全域が横浜市となる。久良岐郡吉田新田から久良岐郡戸太村大字吉田新田となる。
1894年(明治27年)横浜港鉄桟橋(現:大さん橋)が完成する。
1895年(7月1日)明治28年 町制施行により久良岐郡戸太町大字吉田新田に。
1901年(明治34年)戸太町(戸太村が町制を施行)と保土ケ谷町の一部が横浜市に編入され、西平沼町と岡野町が置かれる。
1901年4月1日(明治34年)横浜市に編入。大字吉田新田の地に南吉田町を起立。全域が市街地となる。
■ざくっと一覧にして
関内外エリアがあらためて 埋立ての町=運河の町であることがわかります。
No.701 運河の街誕生(序章)

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

番外編ですが
掘割川の話です。ちょっと力作(自分的には)
No.437 横浜ドラゴンズ、吉田さんに斬られる!

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2月 25

第873話 【横濱絵葉書】駅前劇場

「横濱劇傷(場)
Yokoh Ma Tkoatrs Nera Yokohama Street.」
日本語も英語も怪しい! 誤植だらけ
たぶん
キャプションの誤植は多けれど!!!
Yokohama theater near Yokohama Station.
ではないかなと推理しました。
英文は「横浜駅近くの横浜劇場」としたかったのではないか?
謎解きしてみます。

戦前、さらに時代を遡り
関東大震災まで、横浜は日本有数の<劇場>が建ち並ぶ
賑わいの街でした。
劇場街の中心は<伊勢佐木町>でしたが
1915年(大正4年)8月15日に二代目横浜駅が高島町に開業します。この場所は 京浜電車、貨物用高架線、東海道線。そして市電が交錯する狭い空間でしたが、完成後駅前が少しづつ賑わっていきます。
その一つが<大劇場>の開業でした。
1920年(大正9年)9月11日
花咲町に歌舞伎などを行う総合劇場がオープンします。
二代目横浜駅から南へ約300mの<桜川>に面した場所だろうと思われます。東京と横浜の実業家達が出資し、劇場経営を松竹合名会社に任せます。
ところが
1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災で焼失しわずか3年弱でその姿を消すこととなります。
さらに時期を絞ってみます。
劇場前には「市川左團次」の役者のぼりが立っているのが判ります。
横浜劇場の演目記録から左団次を探すと
1921年(大正10年)6月初旬
大歌舞伎
市川左團次の「歌舞伎 義経千本桜」の興行がありますので、おそらく絵葉書の撮影時期はこの頃と推理できます。

「横濱劇場」は、当初の目論見とは大きく異なり
交通事情も悪く(改善されず)経営不振に陥ります。
震災で焼失後、復活されることなく歴史から消えてゆきました。

横浜駅は、現在の桜木町に誕生し、二代目がこの絵葉書の劇場近く高島になりその後、現在の位置に移りました。
初代と三代目は華やかな歴史を刻んでいますが
8年の歴史を持った二代目の「横浜駅」は殆ど語られることはありません。

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1月 30

第872話【横浜市境を歩く】川崎市境1

市境の基本は
・川筋
・尾根筋
・道路筋
※横浜市境を歩くと横浜が見えます!
今回は川崎・横浜 市境その1

ポイント1
<川崎市下麻生3丁目>
<青葉区寺家町> ●川筋
鶴見川の市境はごく一部です。
横浜市域の北部を流れ東京湾に至る<鶴見川>は一級河川ですが、市域を分ける”境川”となっているのはごく一部に限られています。
何故、暴れ川鶴見川が市域を分けないのか?
一方で、横浜市域の西部は二級河川<境川>によって多くの部分で分かれています。
このエリアを流れる鶴見川上流は恩田川との合流点までを「谷本川(やもとがわ)」とも呼ばれています。

ポイント2
<川崎市麻生区早野>
<青葉区寺家町> ●「寺家橋」
横浜市の西北部に広がる寺家(じけ)は、都市部に貴重な里山が維持管理されているエリアです。寺家エリアの多くは「東京都町田市」と接しています。(別レポートで紹介します)
このエリアは寺家ふるさと村(じけふるさとむら)と呼ばれていますが、
鶴見川に架かる寺家橋は「じげはし」と知って、少し驚きでした。

ポイント3
鶴見川「河内橋」(かわちはし)付近
横浜あおば霊苑 ●尾根筋
短い<川筋区間>に終わりを告げ、長い尾根筋市境ルートに入ります。
横浜市市域と川崎市域の境目の多くが<尾根筋>です。途中、一部を除いて港北区の日吉エリアあたりまで尾根歩きが可能です。
横浜と川崎の<境>がどのような自然条件で決定したのか、地理学的にも面白いルートと言えるでしょう。

ポイント4
●尾根筋
★★★ ここは ちょっとマニアックですが、おすすめです。
横浜市境ルートで最も”ケモノミチ”のような尾根筋ポイントがここです。
横浜の市境には南部に公田や朝比奈エリアがありますが、
この道も負けず劣らず ハイキングコースになりそうな<縦走>体験ができます。

ポイント5
●尾根筋 かなりブッシュを掻き分けないと前に進めない道でした。
草刈りの予定でもあるのか、白いビニルテープが市境に張られていました。
地面の市境道標は
まるでヘンゼルとグレーテルの<パンくず>ような感じでした。

ポイント6
●尾根から道路へ ここは川崎市と横浜市にまたがって開発された住宅地。
川崎側 虹が丘
横浜側 すすき野
1970年代〜1980年代に開発・分譲され、両市で土地区画整理事業が進められました。
横浜市青葉区すすき野は、
鉄町、黒須田町、元石川町から新設されたエリアです。
最寄駅は東急田園都市線あざみ野駅または小田急線柿生駅で、エリア中央に東急SCがあります。

ポイント7
●市境の奇妙 このポイントには不思議な段差がありました。
市境にある「すすき野二丁目北公園」(すすき野二丁目8−5)
面積5,000m2
公開1984年1月25日(S59年)
公園横に隣接して 広い道路があります。
この道路には車止めがあり車両は侵入できません。
これは良くある道路使用のスタイルですが
一般道とつながる交差点に段差がありました。

(川崎2につづく)

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12月 8

第867話 【明治の風景】横浜駅前公衆便所

初代横浜駅が開業したのは1872年6月12日(明治5年5月7日)
考えてみれば、開港以来十数年で産業革命の象徴を導入したことになる。
わが国の鉄道発祥の駅舎は新橋駅と共にアメリカ人建築家、R・P・ブリジェンスが設計した。

この横浜駅前、鉄道開業後の写真に写る<謎>の建物は何か?
私は新しい「公衆便所」ではないかと推理した。
撮影時期は、初代横浜駅開業期から
1902年(明治35年)初代大江橋架替までの間であることは間違いない。
さらに絞りこめるか、果たして公衆便所なのか
資料を漁ってみた。
まず簡単に横浜公衆便所史から
開港後、欧米人が出会った日本の風習の中で、
庶民が平気でどこでも<立ちション>するという行為には閉口したという。
そこで外国人たちは<公衆便所>の設置を時の行政府に強く要望した。
早速動いたのが横浜町会所、現在の横浜商工会議所だった。
1871年(明治4年)11月に横浜町会所の費用で町内83カ所に小便所を設置。
掲示板を使って設置場所を掲示し
「右之通りに付旅人は別して心得居可申事也」とした。
この小便所は四斗樽大の桶を地面を掘り下げて埋め込み、板囲いをした程度の簡単なものであったため臭いがきつく外国人にはかなり不評だったようだ。
「主要地区には瓶(かめ)を埋め込み、男女両用に供し、屋形式のやや完全なるものに改造するなど、統廃合の結果、多くは橋詰に設置する事となり、其の数も四十数箇所となった。」
これが写真にある初代横浜駅前広場、大江川橋詰に設置された公衆便所ではないか?
<横浜駅前公衆便所>
確証は無いがその他にこの当たりに必要な<建築物>が考えつかない。邏卒所=交番も考えたが、川沿いに建てる必要があるのか疑問が残る。
拡大してみると人影が見え”立ちション”に見えないこともない。
写真左側には「大江橋」が架かっている。下流右岸から「大江橋」を見ている。
反対側からの風景でも確認してみたい。

大江橋上流の右岸から「大江橋」を写している。
恐らくこの風景の方が新しいものだろう。電信柱が増えているのが判る。
ちょうど樹木が遮っていて、正確に確認することができないが、角度的には橋詰の<建造物>は無いように見える。
短期間で撤去された可能性もある。

明治二十年代の初代横浜駅周辺。横浜電気鉄道はまだ開通していない。
明治25年の絵図には小屋みたいな建物がありますね!?

1872年(明治5年)2月17日の横浜毎日新聞には
「仮名垣魯文、立ち小便で科料(とがりょう)とられる。仮名垣魯文、当港へ来たり、本町辺にて風と立小便為し、邏卒に見咎められ、科料申付けられし由、西洋膝栗毛の趣向を一寸実施に見せたるは面白し。」と時の有名人も”立ちション”で捕まったようだ。
(参考資料:荒井保男『日本近代医学の黎明 横浜医療事始め』2011 中央公論新社)
※番外編
偶然の一致。大江橋近くに今年まで年代物の公衆便所があったが、廃止。

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11月 23

第866話 横浜川崎市境合戦 その1

国盗り合戦といえば それは戦国時代に遡ります。
江戸時代は 国替えもありました。%e5%b9%95%e6%9c%ab%e5%9b%bd%e5%9f%9f 近代に入り、明治初期に都道府県が制定され
その後
1889年(明治22年)4月1日以降、市町村制が始まります。
その後、全国市町村は<合併>の二文字に揺れます。
明治期に71,314の町村があったそうです。
明治22年
「明治の大合併」町村数は15,859と約5分の1に減少。
昭和28年〜昭和36年
「昭和の大合併」市町村数は昭和36年で3,472に減少。
<横浜の市域拡大>
横浜を例に取れば、
現在の市域はかつて国を分けた<相模国>と<武蔵国>をまたいでいます。
近世以前の国区分には川や山が重要な要素でしたが、交通網が発達してくると国境が次第に曖昧になってきます。武蔵国と相模国を分けたものは尾根筋、稜線ですがもう一つの視点では<水系>で現在の18の区を分けることもできます。
<隣接市>
横浜市は東が川崎市 西が藤沢市・大和市
南は鎌倉市・逗子市・横須賀市と隣接しています。
これまで横浜市で目いっぱいでしたが、今回は
少し近隣にも視野を広げてみることにします。
お隣、川崎市との市域の歴史、ほとんど知りませんでした。
プロローグに川崎の市域拡大を紹介しておきます。
■川崎市の変遷
大きく6次に渡って市域が拡大されました。%e5%b7%9d%e5%b4%8e%e5%b8%82%e5%b8%82%e5%9f%9f%e6%8b%a1%e5%a4%a7
1924年(大正13年)7月1日[合体し市制開始]
橘樹郡川崎町、大師町、御幸村が合体し川崎市発足
1927年(昭和2年)4月1日[第1次市域拡張]
橘樹郡田島町 編入
1933年(昭和8年)8月1日[第2次市域拡張]
橘樹郡中原町 編入
1937年(昭和12年)4月1日[第3次市域拡張]
橘樹郡高津町、日吉村(鹿島田・小倉・南加瀬)編入
1937年(昭和12年)6月1日[第4次市域拡張]
橘樹郡橘村 編入
1938年(昭和13年)10月1日[第5次市域拡張]
橘樹郡稲田町、生田村、向丘村、宮前村 編入
1939年(昭和14年)4月1日[第6次市域拡張]
都筑郡柿生村、岡上村 編入
別添の市域拡大図から分かる通り、川崎市は市となった当初実に不安定な市域を擁していました。橘樹郡田島町が川崎市に編入されたのが昭和2年。これが一つのターニングポイントです。

■横浜市の市域拡大
1889年(明治22年)4月1日【市制施行】
1901年(明治34年)【第1次市域拡張】
1911年(明治44年)【第2次市域拡張】
1927年(昭和2年)【第3次市域拡張】
1936年(昭和11年)【第4次市域拡張】
1937年(昭和12年)【第5次市域拡張】
神奈川区に、橘樹郡日吉村から大字駒ケ橋(下田町)、駒林(日吉本町)、箕輪(箕輪町)および矢上、南加瀬の各一部(いずれも日吉町)を編入(日吉村の他地区は、川崎市へ編入。)
1939年(昭和14年)【第6次市域拡張】

【番外編】市域拡大は元気なうちに!?(加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=359

No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=526

<水利が市域の鍵>
市域拡大の背景には<水利権>が欠かせません。
水を巡る横浜・川崎の話を何回かに分けて紹介していきます。

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9月 26

番外編「大岡川運河論」

最近齢も高齢者の仲間入りなので昔良く口出しては嫌われた
そもそもロンを”少し”展開させていただきます。
大岡川を考える時 何故「運河」がキーワードとなるの?
このあたりを 共有する 議論なり コンセプトワークが必要ではないか?
これが 今回の<そもそも>です。
「運河」うんが
「運輸・灌漑(かんがい)・排水・給水等のために、人工的に造った川。(wikipedia)」
「運河とは水利、灌漑、排水、給水、船舶の航行などのために、陸地を掘って造られた人工的な水路のことです。ヨーロッパではローマ時代から主要な交通 施設でした。
しかし、戦後になって鉄道などの新しい交通体系が発達し、運河は人々の生活から離れ、水たまりとなったり、埋め立てられて道路になったり、放置されて汚れていったのです。
しかし、人工的に造られた運河は波もなく、深さもある程度一定で、安全性の高い水路なのです。近年、ようやく水辺環境の見直しと共に運河の持つ魅力を再認識する動きが出てきました。
人々の知恵と工夫次第で、運河は魅力的に生まれ変わる力を秘めた水辺環境と言えるのです。」
http://www.thr.mlit.go.jp/karyuu/mizu-no-dokutsu/02.html
こう定義されています。
私は大岡川を模式図化してみました。%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%83%e3%83%88-2016-09-26-9-16-43大岡川って不思議な<シンメトリー>なんです。
源流の笹下川は鎌倉武士が築いた領地で、江戸を経て明治・大正・昭和に沿って流れ、平成のみなとみらいエリアに注いでいますね。

江戸時代から 笹下川下流域を
水利、灌漑、排水、給水、船舶の航行などのために(陸地を掘って)造られた人工的な水路が現在の「大岡川」「中村川」「堀川」そして「堀割川」です。
私は総称して
「大岡川運河群」と呼んでも良いのではないか?と考えています。
さらに中流域の「大岡川分水路」も運河です。
都市河川には「運河の思想」が必要です。
歴史と生活文化をも取り込んだ「大岡川運河論」を進めたいですね。

さらに枠組みを広げれば 自然というが
<完全な自然>など無く、人手(人工)との調和を議論しないと、原則論的な神学論争になってしまいます。

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