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第977話【横浜の道】国道16号線

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国道16号は現在、起点:西区桜木町〜終点:西区桜木町という珍しい道路です。
歴史は新しく1963年(昭和38年)4月1日に幾つかの路線が統一されて16号となりました。
横浜界隈的に起点から16号を辿ります。
ルート16は
帷子川支流「石崎川」近く、元「桜川」のあった場所を起点に初めて鉄道が始まった初代横浜駅・新橋間の鉄道路線に沿って大江橋へ続きます。

二代目横浜駅。ちょうど市電のあたりが16号線起点
現在の桜木町付近
16号線起点・終点付近
初代横浜駅、現桜木町駅。興産館(現ぴおシティ)あたりの16号線。

<大江橋> 横浜市内では珍しい人名の橋です。(大江卓)
関内大通と交わる尾上町の交差点を右折、羽衣橋を渡ると旧吉田新田の背骨、中央部を吉野町まで。このルートは関東大震災まで狭い道でしたが、吉田川沿いを通っていた市電のルート変更を行い、広い道路として新規整備されました。
吉野町の交差点を左に。
中村川の「睦橋」を越え、堀割川に沿って磯子方面に。

尾上町交差点付近で16号線は大きく曲がります。

<八幡橋>際を右折し横須賀方面に曲がります。
ここから16号線は旧海岸線でした。
磯子駅を通過し、新杉田駅を過ぎると内陸部に入り込み、富岡からほぼ京浜急行線と並行して金沢文庫まで走ります。泥亀あたりで少し京急と分かれ、また金沢八景で並走します。京急と国道16号線は馬堀海岸までほぼ並走しています。
その後16号線は国道の中でも数少ない海の国道を経て、房総半島に上陸し千葉県を縦断、埼玉県、東京都下八王子からかつて絹の街道として盛んな往来があった八王子街道となった横浜市旭区に入ります。保土ヶ谷バイパスと旧道に分かれ、旧道はほぼ「帷子川」の沿って横浜中心部に入り、終点に向かいます。

(歴史)
横浜に海軍鎮守府(東海鎮守府)が1876年(明治9年)に短期間ですが設置されます。
1884年(明治17年) 12月15日、東海鎮守府は横須賀に移転「横須賀鎮守府」となります。この時から横浜と横須賀との道路整備が行われ、1887年(明治20年)に鎮守府に至る国道として「国道45号線」となりました。

戦後の
1952年(昭和27年)12月4日に施行された新道路法に基づく路線指定でこの区間が「一級国道16号」に指定されます。これが国道16号のはじまりです。
その後、延長を重ね、他の国道を取りまとめ環状線となって現在にいたります。

旭区から終点に至る16号線は、江戸時代から八王子街道として開け、保土ケ谷区と西区の区境(洪福寺松原商店街はずれ)に東海道と八王子街道(旧道)の<追分>があります。この主要街道は神奈川往還とも呼ばれ、保土ケ谷宿への重要街道でした。幕末からは繊維(絹)街道として遠くは山梨商人の道として賑わいました。

第974話【横浜の橋】村岡川に架かる橋2

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横浜市泉区を源流とし戸塚区の境川に流れる<支流>宇田川と橋を紹介します。
今回は「村岡川に架かる橋」の後半です。
前回は水源の一つである御霊神社から泉区内の中田橋あたりまでの宇田川に架かる主な橋梁を紹介しましたが、タイトルを「村岡川に架かる橋」としました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8603
パート1でも触れましたが、この宇田川
元々「村岡川」と呼ばれていました。
大正期に河川改良に尽力した宇田さんにちなんで「宇田川」となった、という説明になっています。
ところが泉区エリアでは「宇田川」の表示が極端に減り「村岡川」表示が散見します。

村岡川源流

●なかだ村岡川愛護会掲示板
この川は(水源より下流中田橋まで)なかだ村岡川愛護会が美化活動をしています。 みなさんのご協力をお願いします。 みんなの川だよ きれいにね。
 (なかだ村岡川愛護会、泉土木事務所)
<村岡川愛護会>としている看板が印象的でした。

なかだ村岡川愛護会

宇田川 みんなで育てよう きれいな川
 (中田町々内会、横浜市下水道局)

●「かばた橋」名称の由来
この橋の名称の由来は、4000年〜5000年前の縄文中期に、 この地に住んでいた狩猟民や漁労民の利用したと思われる土器片が多数出土している「かばた遺跡」が 戸塚苑付近にあったとされているところからこの名が名付けられたと言われています。 その後、この橋の上・下流11の橋に暦月の名称がつけられました。 また、平成7〜8年土の高欄の再整備の際に、暦月にちなんだ花を描いたデザイン高欄として整備しました。 これらの橋が皆様にとっても親しまれるものとんるよう望んでいます。
(至汲沢中学校) 睦月橋〜如月橋〜弥生橋〜卯月橋〜皐月橋〜水無月橋〜かばた橋〜文月橋〜葉月橋〜長月橋〜神無月橋〜霜月橋 (至みなみ総合センター)
 (横浜市泉土木事務所)

ここでも「宇田川」の一言も表記されていません。

でも不思議なのが、
大正期に河川改良に尽力した宇田さん
により河川名が変わったと資料には書かれていますが、
明治期の地図でもここ戸塚エリアは「宇田川」と表記されています。
もう少し資料を探る必要があるでしょう。

(泉区内の橋)
水源(御霊神社)<この間暗渠と名のない橋多数>
広中橋、中下橋、霜月橋、神無月橋、長月橋、葉月橋、(中田幼稚園専用橋)、文月橋、かばた橋、水無月橋、皐月橋、卯月橋、弥生橋、如月橋、睦月橋、中田橋

(戸塚区内の橋)
右岸側は横浜市の地図で目を引く区境円形空間があります。
ここは米軍の戸塚無線通信所で、現在は返還されました。元々、日本海軍の通信基地だったものです。

深谷通信基地
深谷通信基地に残る看板

<支流:第一中汲橋>
<支流:汲橋>
<支流:井戸尻橋>
<汲沢中用?>
川向橋
的場橋
殿山橋
<支流:小無行橋>
(河川局)不明橋※まさかりが淵市民の森用?
ここには「鉞まさかりヶ渕」と呼ばれる幅約八メートル、高さ約三.五メートルの滝があります。

■まさかりが淵市民の森
 「きこりの彦六が木を切っている最中に、まさかりを誤って淵に落としてしまった。すると滝の主の美しい女性が現れ、彦六を滝の庭の方に招いた。彦六は数日滝の庭で女性と過ごす。女性と別れるとき絶対にこのことは他言しないと約束する。しかし女性と別れ、家に帰ってみると、家のものは自分の三回忌を行っていた。驚いた皆に、彦六は約束を破り滝の話をしてしまった。すると彦六はその場で死んでしまった。それからこの淵をまさかりが淵と呼ぶようになったと言う。」(まさかりが淵の民話)

村上橋

深谷橋

専念寺橋
宮前橋

宮下橋
前田橋
道下橋
根先橋
新深谷橋

韮橋
芙蓉橋
ふれあい橋(人道橋)
宇田川橋
橋の名前はどうやって決まるのか、時の事情でいろいろありようですが、
川の名を橋の名にする場合、たまたま偶然かもしれませんが、
河口に近い橋が命名されているように感じます。
帷子橋も埋立前の河口付近
鶴見川橋は河口ではありませんがかなり河口近くです。
大岡川橋梁は現在「北仲橋」になっていますが、河口に架かっていました。

(支流:谷戸川)
このあたりから(旧)横浜ドリームランドのホテルエンパイア(現在横浜薬科大)が良く見えます。
No.48 2月17日 さよならYDL
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=573

(境川合流)

(参考資料)
■主な市内の河川リスト
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?page_id=11913

第973話 【駅から路上観察】京急神奈川駅から白楽まで。

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今回の狙いは、私が世話人をしている「横浜路上観察学会」の例会レポートをアップします。基本参加時のリアリティを大切にしているのであまりレポート系はしないようにしていますが、街を紹介する良い情報源でもありますので
いくつか紹介していくことにしました。
□2018年10月に開催しました京急神奈川駅から白楽ルートから

今回のルート図

谷戸にひだ状に広がる横浜の典型的な稜線越えを楽しみます。横浜の地形は、俯瞰してみると鶴見エリアを除き、多くが襞のような凸凹の連続、小河川が葉脈のようになっているのが判ります。この葉脈の一つの<稜線>を歩きました。

横浜の水系

出発駅は京急「神奈川駅」です。
神奈川駅は、京急全駅中、最も乗降客数の少ない駅で2017年統計では一日あたりの乗降客数が4,637人、お隣「横浜駅」が堂々の第一位で323,668人規模ですので
神奈川駅は70分の一の規模です。距離も近くすぐに<廃止・合理化>対象駅ですが、それでも駅を統廃合しないのは、この駅が京急にとっても、東海道の歴史を語る上でも重要な<鉄道遺産>だからでしょう。

その証として神奈川駅の外観はなかなかの風情です。
早速
神奈川駅前で路上観察的不思議発見???
沿線上 最下位の乗降客数にもかかわらず、しかも時代が電話ボクス廃止傾向の中、駅前には公衆電話ボックスがなんとWで設置。共に現役です。

さあ、ここから丘陵を越えてみましょう。
“小河川”は丘陵地から小さなわき水などが集まり少しずつ水量を増やしながら川に成長していきます。都市化された小河川はかつての<林>を失い、宅地化されることで水量を一気に減らします。横浜のように水源地から河口までが短い河川は、雨が降ると暴れるきまぐれ河川が集中しています。
小暗渠も集中しているので 観察場所としては魅力たっぷりです。
「神奈川駅」から東海道本線を越える「青木橋」を渡ります。
そこには、幕末にアメリカ領事館があった青木山「本覚寺」があります。この青木山一帯は高台を表す”台町”と呼ばれ、かつては神奈川湊を見下ろす景勝地として高島嘉右衛門の邸宅があったことでも有名です。
この丘の下をトンネルで東京急行電鉄「東横線」が走っていましたが、地下化にともない使われなくなった<トンネル>を活かした「フラワー緑道」として遊歩道になっています。
ここでは音の響きが心地よいです。

フラワー緑道

(滝の川)
神奈川区には「滝の川」という準用河川があります。現在は東海道線の橋脚より下流部分しか見えませんが、かつてはこの地域の重要な産業河川でした。河口域は中世から重要港であった「神奈川湊」となり、水運は勿論、大きな漁業拠点でした。江戸時代は「滝の川」河口東海道の「神奈川宿」であり、幕末期には開港を求められた湊です。
地形図を眺めると一目瞭然ですが、
今回のコース
栗田谷・旭ケ丘・二本榎・斎藤分・中丸・六角橋エリアは、大きく二つに別れた「滝の川」の分水嶺であることが判ります。
仮に北滝の川(六角橋方向)と南滝の川(三ツ沢方向)と分けておきます。
この二つの流れは、東神奈川スケートリンクあたりで合流します。ここにはかつて「境橋」が架かっていました。橋の名残が残されています。

二つの滝の川が合流する境橋
境橋から上流が暗渠化。右が六角橋方向、左は三ツ沢方向へ

南滝の川<暗渠>道路です。川の雰囲気が残されています。
ここから丘陵を登っていきます。
横浜市立栗田谷中学校が右手上に見えてきます。
壁際に穴を埋めた痕跡が。レンガや大理石も混じっています。震災時の瓦礫を埋めたのでしょうか?
栗田谷中学校は1949年(昭和24年)にこの場所に移転したようです。

希望橋橋脚

(希望橋 橋脚)
栗田谷中学校は 道路を挟んで校庭があったので生徒たちの安全を考えて谷間部分に橋を架けました。希望橋と呼ばれ、つい最近までありましたが、耐震構造上の理由からか、廃止され、橋脚のみ残っています。
路上考古学的にはとても興味ある残骸です。
(通信用鋼管柱)
電柱と聞くと一般的にコンクリート製のものが思い浮かびますが、地域によっては金属製の電柱もよく見かけるようになりました。道路が狭かったり、傾斜地には最近良く使われるようになっています。電柱を<路上観察>するだけでも色々発見があります。
ほとんど無くなったクラシックタイプの<木製電柱>も探しどころです。

金属製の軽量電柱

(昭和の香り)
路地裏を歩いていると、昭和に出会います。戦後横浜が急膨張した時期に、住宅街や商店街が数多く完成しました。この急膨張時代の名残が、路地裏に残っています。
神奈川区は戦前戦後を通して住宅街として成長してきた街なので、一軒一軒の住宅の佇まいを観察するだけでも、戦後個人住宅史を垣間見ることができます。
(ノラ)
野良猫の生態も地域特性を表しています。賛成反対いろいろあるでしょうが、この地域ではノラがのんびり過ごしていて、ビクついていません。地域に馴染んでいる証拠です。

(善龍寺)
宿遠山善龍寺、この地域に古くからある浄土真宗のお寺。元々は真言宗でしたが、建長5年(1253年)に浄土真宗寺院として中興されました。
新編武蔵風土記稿では
「斉藤分にあり。浄土真宗西本願寺の末寺なり。宿遠山と号す。開山のこと詳ならず。古は真言宗なりと云。本堂七間に六間半、巽向なり、本尊阿弥陀を安ず。木の立像にして長二尺五寸なり。
鐘楼、門を入て右にあり。鐘に正徳年中の銘文あり。」
この浄土真宗寺院として再興した人物が<斎藤兼実>という人物で、この斎藤さんの<知行地>を 斎藤さんの”分”ですという地名が現在でも残っているという説があり、もう一方で斎藤式部入道なる武士がこの地を治めたところから斎藤分となった!

というなかなかの時代(中世)を実感できる場所です。(それぞれ根拠不詳)
この善龍寺には「五代目一龍斎貞丈」の墓碑があります。講談と横浜の関係を知る上でも重要な人物です。
(神奈川大学付近)
少し歩くと、神奈川大学キャンパスが見えてきます。ここは隠れ通学路(東神奈川駅)らしく学生が多く歩いています。
神奈川大学と付近に関しては 色々面白いネタがあり、別テーマで紹介したいところです。
ちょっと飛ばして、
一山越えて、
「北滝の川」に出ます。ここからは細いけれども実に暗渠らしい遊歩道が、六角橋商店街の裏まで続きます。途中、暗渠ならではの階段、マンホール、壁があるので、路上観察的には発見の多い場所です。
さて、終着点六角橋に到着しました。
ここまでの行程で約4キロくらいでした。

六角橋周辺は路上観察の宝庫。路上博物館ともいえる空間です。
変な発見がたくさんあります。
スタート時のツイン公衆電話が なんと!ゴールの六角橋にも。
ここではボックスではなく、据置型でした。まだまだ需要があるんですね。

路上観察を始めると
普段は見逃しているものが<見えてくる>
路上が気になって気になって仕方なくなります。
くれぐれも事故のないように!
今回はこれでおしまい。

第970話【絵葉書の風景】山下公園

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山下公園 船溜りに傘を差す和装の女性
神奈川県庁と横浜税関の塔が見える絵葉書。
1000話に向けて閑話休題ちょっと軽く流します。

この絵葉書は私の好きな一枚です。
携帯の待受画面にもしています。
風景
右側が岸壁で、現在氷川丸が係留されているあたりです。
撮影時期は横浜税関(クィーン)が建っているので昭和9年以降で、
(大横濱名所)のタイトルから戦前だろうと推測しました。

明治初期の海岸線(海岸通り)左側が仏蘭西波止場、右側が英吉利波止場
英吉利波止場=西波止場  仏蘭西波止場=東波止場

この船溜りは、幕末から明治期にかけて仏蘭西波止場と呼ばれていました。幕末、開港以来、フランス人の多く暮らすエリアで大桟橋ほどではありませんが小さな船着場があり、このあたりでヨットレースや水泳大会も盛んに行われた場所です。
関東大震災の後、震災の瓦礫を使って海岸通りに親水公園を整備、これが山下公園となった訳で、その際、仏蘭西波止場の構造を活かしてこの船溜りとなります。
<復興記念横浜大博覧会>
1935年(昭和10年)3月から5月まで開催
震災復興の博覧会ではこの「船溜り」前に無理やりクジラを運んできたけれども、すぐに死んでしまったという、現在なら大騒ぎとなった場所でもあります。

現在は埋め立てられて沈床花壇になっていますが、完全に埋めてしまうのは残念だったのか、船溜り部分を沈床とし花壇整備しています。
現在はどうなっているか?
<実際に訪れてみてはいかがでしょう>

■山下公園船溜りの風景
手元にある絵葉書を調べてみると
いくつか「山下公園船溜」が写っている風景がありましたので紹介します。

さて
ここまでは「山下公園」を説明する定型文でした。
この絵葉書で実は私が気になるのは、
<白い傘の女性>!よーく見ると結構派手な着物です。
ではなく、左遠景に写り込んでいる丘の風景です。
絵葉書を眺めると背景に丘陵が写り込んでいるのが判ります。

少し拡大

手前の近代資産
右手に建つ県庁の塔屋高は48.60m
  開港記念横浜会館が36m
  横濱税関が51m
さて?いわゆる三塔の奥に見えるこの丘は野毛山なのだろうか?
先ず地形的には 野毛山しか考えられないのですが、妙に存在感がある点、少し疑ってしまいたいのがヨノツネ。
たぶん 野毛山は 高いビルがなにもない時代は このように見えたのでしょうね。

第967話 【市電ニュースの風景】1931年 №37・38

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№37    1931年(昭和6年)9月13日(日)から9月18日(金)
№38    1931年(昭和6年)9月18日(金)から24日(木)

1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を何回かに分けて読み解いている。
※「市電ニュース」は、車内吊り広報紙で、市内で開催される講演会、音楽会、展覧会、祭り、野球などの情報や、市政情報を乗客に伝えるメディアサービスとして掲載した。
№37は
 1931年(昭和6年)9月13日(日)から9月18日(金)まで
№38は
 1931年(昭和6年)9月18日(金)から24日(木)まで
【市電ニュースキーワード】
№37
■元町横濱プール
前回紹介
■山王町日枝神社(お三の宮)大祭
第968話【絵葉書の風景】お三の宮
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11786
「関外総鎮守お三の宮日枝神社」
http://www.osannomiya-hie.or.jp

■全国特産品國際市演芸開始
=芝居、茶番、洋楽、舞踊
※茶番=こっけいな即興寸劇。
江戸歌舞伎の楽屋内で発生し、18世紀中ごろ一般に広まった。口上茶番と立ち茶番とがある。茶番狂言。
■四号岸壁へ
明治後期から大正にかけて建設・整備されてきた「新港埠頭」には12号まで岸壁が設置されていた。その中でも外海に最も近く接岸しやすかったのか、四号岸壁が客船用に多く利用された。

終戦後米軍が占領のため兵士が続々と上陸した岸壁も四号だった。

■神奈川県文化展覧会・物産陳列会
=東京三越本店四階にて=
現在も東京で地方PRブース、物産展が開催されるが戦前も県物産展が開催された。
何が展示されたのか、知りたい!

№38
■暁鳥 敏(あけがらす はや)
1877年〈明治10年〉7月12日〜1954年〈昭和29年〉8月27日
真宗大谷派の僧侶、宗教家
http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kankoubunkabu/bunkasinkou/senzin/akegarasu.html
■横浜公園
横浜公園は、開港してまもなく遊郭ができた空間(港崎遊郭)が慶応の大火で消失し遊郭は移動。その跡地はしばらく放置、居留地の外国人から生活環境改善要求があり、土木技師リチャード・ブラントン設計による海岸から日本大通・横浜公園一帯が整備された。本質的な狙いは<防火帯>だったが、本格的な近代公園として、現在まで残る貴重な公共空間である。横浜公園は開園当時、我も彼もという意味で「彼我公園」と呼ばれた。園内には外人居留地運動場、噴水、回遊歩道などが整備された。
1931年(昭和6年)当時は※音楽堂 ※球場があり多くの人々に利用された。

No.78 3月18日 横浜公園に野球場完成

第956話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第一話

■■関連ブログ
第966話 【市電ニュースの風景】1931年 №35・36
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11764

第920話【市電ニュース】市電域と市電ニュース
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10847

【市電ニュースの風景】第一号その1
1930年(昭和5年)12月25日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7276

【市電ニュースの風景】1931年 №21
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7482

第968話【絵葉書の風景】お三の宮

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日枝神社正面

まもなく1000話になりますが、お三の宮はうっかり紹介していませんでした。
昔のお三ノ宮付近の絵葉書・地図を少し紹介しながら
「関外総鎮守お三の宮日枝神社」に触れます。
多くの方は「お三の宮」と略して呼んでいます。
関外総鎮守の名からわかるように
横浜関外地区=吉田新田域の鎮守様です。
約360年前、江戸の木材・石材商の吉田勘兵衛が、深い入り海部分を干拓する願いを幕府に出し、新田事業に成功します。この「吉田新田」の鎮守(守り神)として、寛文十三年 (1673年)に建てられたのが「関外総鎮守お三の宮日枝神社」です。
なぜ「お三の宮」なのかは諸説あります。
(1)お三の宮の旧社名である「山王社」が転詑して、「山王(さんのう)の宮」から「おさんのうのみや」「お三の宮」になった。
(2)お三の宮は江戸赤坂の山王社からの勧請で、日吉大社→東京赤坂の日枝神社→お三の宮、と三番目にあたる。
(3)江戸の山王社は、近江日吉山王二十一社の中の、大宮・ニノ宮・三ノ宮であるから、お三ノ宮もその分霊を祀ったので。
以上は「山王」に関係するもの。
(4)明治初期の古地図には、お三の宮の位置に、「お産の宮」と当て字をしたものもあり、お産の信仰があったのではないか。
(5)古田新田埋立ての際の人柱「おさん」を祀ったので。
(4)(5)は庶民信仰の中から呼ばれるようになったようです。
定説となりそうなのは「山王社」の<さんのう>→<おさんのう>
このあたりではないでしょうか。

「お産の宮」と表記された地図

日枝神社には<池>がありました。
明治から大正時代の地図をみると日枝神社裏には大きな池がありました。
現在はどうなっているか?
吉野町市民プラザになっています。

日枝神社は古くから猿が神様の使い「神猿(まさる)」信仰がありました。
中世から近世にかけて山王信仰のなかでサルは神の使いとしての役割を担うとされ、
外部からの侵入を排除して村内を守る役割や、音から難がサル、「神猿(まさる)」は勝るに繋がるとして縁起物となりました。

猿面を被った姿が確認できます
狛犬の位置に注目してください。人物と比較して非常に高いことがわかります。

日枝神社周辺の風景

第965話 醤油、塩 横浜雑景Ⅱ

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前回に続き、醤油と塩から横浜を見てみたい。
横浜市域は地形的には東から北東にかけて、鶴見川に沿って農耕地が点在するが西部エリアは起伏が多く農耕地はあまり多くなかったため近世、全体としては米穀の生産量は全国平均と比較して少ない。
かといって近世の横浜エリアがコメの取れない貧しい村々で埋め尽くされていたと考えるのは早計だ。林業、漁業を含め多角的経営が行われていたようだ。
少し横浜の時間を近世江戸期に戻してみよう。
近世の横浜は、武蔵国の南部と相模国の東部にまたがり、久良岐郡の一部を除き殆どが幕府直轄領で、江戸城を中心にした経済圏内にあった。
つまり藩の国境がなかったので、物流に関しては周囲30km程度の範囲は江戸経済のヒンターランド(後背地)に横浜市域の半分が入っていた。単純に直線で30kmといえば、保土ケ谷宿あたりになる。江戸の消費力は、周辺エリアの生産構造を大きく変え、相互の村々も商品や資源のやり取りを頻繁に行っていたことが、村に残る明細帳・日記等から明らかになっている。
近世以降、集約的農業を行わなければならなかった農家にとって<肥料>の確保は死活問題だった。酸性土の多い関東ローム層では中和剤として糠を必要とし、川沿いの農耕地では干鰯や粕を必要としたため肥料市場が形成されていた。
同様に、戦国時代の「敵に塩を送る」という言葉があるように、人々の暮らしに欠かせないのが塩だった。人は塩分を摂取しなければ生きて行けない。
塩の生産は古代から重要な<営み>だったが、江戸時代になると重要な産業の一つとなった。明治38年に塩の生産管理が専売法によって行われるまで、塩は地場の重要産品で、大小様々な形態で製塩が行われていた。
明治まで金沢平潟湾の塩はさかんに生産され、古くは室町時代後期南北朝時代に称名寺領洲崎・町屋に塩垂場(製塩場)があり塩で年貢を収めていたことが記録で確認することができる。鎌倉幕府を失った後も称名寺の重要な収入源が塩であったことがうかがえる。
この製塩はただ海があれば生産できるものではなく、幾つかの条件が必要である。製塩には「塩水・干潟・燃料・物流手段」などの条件を十分に兼ね備えた場所でしか成立できない。
製塩といえば、播州赤穂の塩が有名で、江戸期には藩の経済を支えた重要産業でもあった。製塩は「藻塩焼」「揚浜式塩田法」「入浜式塩田法」などがあり、現在では「流下式塩田」「イオン交換法」などが用いられている。
江戸時代、全国の諸藩は独自に「塩」を確保しなければならなかったため、多く生産できる藩は財源ともなった。加賀百万石とも言われた加賀藩は、石高だけではなく製塩を産業化し江戸期から専売制を敷いていた。新潟村上も古くから製塩で有名である。豊かな塩田があるところはコストを支払い高瀬舟を使ってでも多くの燃料を遠方から調達した。
塩田の要は安定した<燃料>確保である。
生産に必要な燃料が地域の植生バランスを壊せば、たちまち製塩コストが急上昇してしまう。特に小さな塩田には循環型に近いかたちでの燃料供給が必須だった。つまり地域循環程度の生産量を維持する規模の製塩は、「塩水・干潟・燃料・物流手段」のバランスが揃った場所で行われていた。
起伏に富み後背地に広い森林を持ち、干潟があった六浦(金沢)はまさに適地だったようだ。
江戸後期に編集された新編武蔵風土記稿には金沢の製塩業の様子が克明に記されている。金沢では干潟で濃縮された海水を釜に入れ、燃料(塩木)を燃やし煮詰め結晶化させ炊き塩を抽出する方法が一般的だったようだ。
1872年(明治5年)三分村(六浦) では年間67トンの塩、三万束の薪が生産されたことが記録されている。金沢の製塩業は1905年(明治38年)に塩が専売品となった以降急速に縮小され、地場の塩が消えていくことになる。
江戸前期まで、製塩が行われていた場所が、前回
第964話 醤油、塩 横浜雑景 で紹介した南太田・蒔田にあった。
現在蒔田公園となっている一帯を含め、このエリアは塩の生産地でもあったようだ。
この蒔田公園あたりは、吉田勘兵衛が新田開発に取り掛かるまで大岡川の河口だったからだ。そしてこの蒔田公園を見下ろす高台にはかつて「蒔田城」があり、そこには戦国時代三河国幡豆軍吉良荘をルーツに持つ「(武蔵)吉良氏」が城主として領地の南端拠点としていた。
「(武蔵)吉良氏」は武蔵国世田谷郷にあった世田谷城を拠点として、小田原北条氏を支えた武将として活躍した一族だ。
ここからは推論に過ぎない。
吉良一族のルーツとなった足利氏一族の血筋を持つ東条吉良氏が領主を務めた地名「吉良吉田」が愛知県に残る。この場所は「吉良」の名が残りかつて「塩田」があったことで有名である。中世から矢作古川河口付近を中心に製塩業が営まれ、専売法施行後の1970年代まで続いた三河湾の中心的塩田だった。
蒔田の製塩と三河の製塩が吉良氏で繋がるのではないか?
中世の多能武士集団に<塩作り技能者>がいたのではないか?
全くの推論に過ぎない。
ただ 世田谷城主 吉良氏と横浜の因縁は蒔田城だけではない。
北条氏綱の娘、崎姫が小田原より吉良家に嫁入りする際、従ってきた武将の中に
■苅部氏
■森氏
■並木氏
がいる。
彼らは小田原北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた際、帰農し在に残り江戸時代に名主などを務め、現在も苅部家があり、その他の武士は地名を残している。
また、吉良家の世田谷拠城下に吉良家が建立した寺院が弘徳院で、後に彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺とした「豪徳寺」である。

豪徳寺井伊直弼碑

井伊直弼像は蒔田城の下流にある掃部山から海を見ている。
不思議な因縁である。
さらにコジツケレば、井伊家の本拠地である彦根は琵琶湖に面し、淡水であるこの湖岸にも「近江塩」を生成した場所があった。
塩は人間に必須成分なので、塩の道をたどれば<全て>に繋がってしまう。

■大岡川に関係する武士たちを現在整理している。まとまり次第紹介したい。
第964話 醤油、塩 横浜雑景
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No.471 横浜・世田谷・彦根
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第964話 醤油、塩 横浜雑景

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今回から少しエッセイ風 書きなぐりを始めてみることにした。

地産地消は物流の発達と反比例する現象である。大都市は商品を飲み込む。
また、大量生産による廉価の席巻とも反比例し、ナショナルブランドが地域生産力を奪っていく。この経済原則は近代の風景ではなく、江戸時代後期には、頻繁に村間の商品売買、都市圏への商品供給が盛んに行われていた実態が明らかになっている。

近世江戸の産業が明治維新以後、変化しながらも存続していく業種もあれば、近代化で消滅していく業種もある。呉服商は百貨店に、両替商は商社・金融会社へと変わっていった。染と版画の技術と織物産業が融合し横浜の捺染、スカーフ産業を育てたように大消費地として近代に登場した「横浜」は業種業態の様々なドラマが起こっている。今も横浜人に人気なのが「もののはじめ」だ。個人的にはそろそろ卒業したほうが良いとは思うが、横浜もののはじめ本は未だ売れるようだ。その中には、他の都市の研究によって「はじめの座」を失ったものもある。富岡八幡近くにある海水浴の碑は、大磯に奪われたようだ。洗濯もどうやら横浜初ではなさそうだ。
ただ、居留地を抱えたことにより横浜から事業化が始まった産業形態は多い。ビール事業、パン製造、アイスクリーム製造、大量の製茶販売、鉄道事業もそうだろう。近代産業は日本各地に興り、次第に寡占化していく過程を踏んでいった。
元町の古老に聞いた。
横浜でも戦後まで小さな製パン店が多かったという。昔は商店街に必ず一二軒はあった和菓子店も自家製が中心だった。これは戦後、東京オリンピックくらいまで続いたという。このあたりからナショナルブランドが台頭し、自家製のパン屋は激変しチェーン化していく。木村屋、山崎製パン、丸十ベーカリー他の看板が急増し、スーパー、コンビニの登場で街のパン屋はその姿を消していった。
横浜のパン製造史を読むと偶然の一致ではあるが、大岡川周辺に老舗パン屋が健在であるように思う。まず堀川近辺ではパン業発祥の元町<パン物語>がある。横浜神戸東京、大正期から昭和初期に一大パン業創業ブームがおとずれるのである。
現在、
弘明寺入り口で開業する「デュークベーカリー」は昭和三年「木村屋」として創業 赤川家が店を守っている。
「盛光堂総本舗」の笹川さん。
横浜橋通商店街にある「丸十早川ベーカリー」は昭和29年「藤田丸十ベーカリー」として丸十系列として創業、初代の早川博さんを早川家が守っている。
野毛の「コテイベーカリー」もそうだ。あんぱんの美味しかった日本堂もつい最近まで頑張っていた。
横浜では、豆腐屋さんも個人製造店舗が最近までかなり頑張っていたが、この二十年軒並み閉店し激減状態にある。横浜の豆腐屋がとても元気な時代があった。
必ずしもその証ではないが、平沼に当時は目を見張った「豆腐会館」が建てられた。九〇年代まであのラッパを吹きながらの引き売りを見ることができた。
新しもの好きな横浜人(ごめんなさいハマっ子という語はあまり好きではない)ではあるが、老舗やご近所を愛するのも忘れないのも横浜の良いところだと思う。
前振りが長くなった。本題に入ろう。
醤油製造は近代まで、街なかに製造工場があり最寄り品だった。醤油は地産地消の代表格だったが、どこでも生産されていた訳では無い。原材料が揃わないと生産地にはならない。醤油の原材料は言うまでもないが大豆・小麦・麹・水・塩である。
現在、地元では神奈川区で「横浜醤油」が生産を続けている。
かつて南太田に「太田醤油醸造所」という中規模の工場があった。ここは横浜太田町に本宅を構えた吉田健三が経営していた醤油工場である。
吉田健三といってもピンと来ないかもしれなが、外相から首相となった吉田茂の父親(養父)だといえば、少し驚くかもしれない。
越前福井藩士の家に生まれ、1864年(文久四年)に脱藩し大坂で医学を学ぼうとするが、英学の必要性を感じ長崎に行き、その後1866年(慶応二年)にイギリス軍艦でイギリスへ密航、2年間滞在して西洋の新知識を習得し明治維新に帰国。その後、ジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)の支店長に就任し日本政府を相手に事業で大成功する。その功あってか大金の一万円の慰労金(退職金)を受け取りこれを元手に
「英学塾を皮切りに、翌1872年には東京日日新聞の経営に参画。さらには醤油の醸造業や電灯会社の設立、ビールやトタン、フランネルの輸入など、実業家としての頭角を顕して横浜有数の富豪に成長した。(wikipedia」
明治に入り、新しい時代に様々な政治運動が芽生えた。中でも幕末期倒幕に寄与した一人、板垣退助が全く未明の明治新政府設立時には木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に参与に就任する。「明治六年政変」征韓論論争に破れ、下野。自由民権運動を経て自由党を起し、明治期の一大勢力となっていく。
横浜でも、彼の思想に共鳴した者も多く、吉田健三もその一人だった。
大岡川運河整備に寄与した伏島近蔵も自由党支持者であった。
吉田健三は子供がなく、自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった友人の竹内綱の五男 茂(吉田茂)を養子に迎え、茂は戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業した。

話が逸れてしまった。
醤油の原材料は大豆・小麦・麹・水・塩である。
醤油といえば千葉県銚子(ヤマサ)・野田(キッコーマン)が有名である。醤油は近世江戸期に工業化されたことにより贅沢品から日常の食生活革命の一端を担うようになる。江戸期当初は、原材料に大豆と大麦が使われていたが小麦を使うことにより濃口醤油の量産が始まる。醤油はもともと良質の大豆・麦・塩を調達できる西国の特産品で、江戸城への高級献上品の代表格でもあった。本場関西からの醤油は「下り醤油」と呼ばれ、関東の醤油は二級品扱いだったが、溜ではない濃口が主生産となり江戸味の醤油文化が確立する。
醤油製造の条件に、原材料は勿論「水運」が必須だったので、利根川流域に醤油産業が育ち行徳の塩、関東平野の大豆と小麦が結果的に銚子・野田に集約し醤油産業が育つ事になったが、この条件が揃えば近世から近代にかけて、地場の醤油産業も成り立った。
横浜市南区太田エリアは大岡川運河が発達し、大豆・小麦・麹・水・塩を揃える条件が揃っていたと推察できる。
(横浜の塩へつづく)

第901話 横浜ダブルリバー概論(1)

第960話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第五話

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今回は
横浜真景一覧絵図に見る「橋梁」を追いかけてみた。
明治期に大岡川で架橋された多くの<橋>は現在も少し位置の変更はあるものの残っている。運河が廃止されたことで消え去った橋梁も多いが、1974年(昭和49年)まで大岡川下流域は運河の街だった。

大岡川下流域橋梁図一部

横浜真景一覧

この絵図から橋梁部分をズームアップしてみた。

辨天橋

弁天橋風景

辨天橋は三連橋脚の桁橋で、片側に四つのガス灯がある。絵地図では片側三灯となっているが、概ね構造をとらえている。

初代大江橋

二代目大江橋

桜川・大岡川十字路

柳橋

都橋

都橋の袂に小屋が確認できます。邏卒所と思われます。現在もここは交番になっているので、横浜の中でも歴史ある<交番>といえるでしょう。

都橋・宮川橋

長者橋

たぶん大岡川長者橋

全く根拠はないが、一枚の撮影場所不明の横浜写真は「長者橋」ではないか?と推理している。明治四十三年時の横浜市域で川筋を調べてみると「横浜真景」での橋脚図が正確という前提で当てはめてみた。左岸に住宅、右岸に材木業、4つの橋脚あたりから「長者橋」が導き出された。
かなり乱暴な推理なので、新しいことが分かり次第 撤回!?確定!?どちらかへと向かうことになるだろう。

第959話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第四話

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複数回にわたって横浜真景一覧絵図から見える横浜を研究している。
ここに描かれた横浜の風景は「運河」の町横浜を如実に現している。
運河には作業船が多数走り、港には大型船も停泊中。

 横浜港沖に停泊中の大型船。

有名な話だが、横浜港には当初、小さな「象の鼻」程度の桟橋しか無かった。大型外国船は、沖に係留し、日本の小型船が荷物の受け渡しを行っていたため、大岡川の岸辺には、艀(はしけ)の役割を担った作業船も多かった。

大岡川河口、弁天橋大江橋間を行き交う舟

大岡川河口近くに動力船が走っている。このスケッチは左岸側、初代横浜駅側からの視点で描かれている。三角屋根は荷船ではなく人を乗せるための小舟だろうか?

吉田川日ノ出川合流

吉田新田域の中央を流れる吉田川と派川の日ノ出川が合流する地点。現在は日ノ出川公園テニス場になっている。石炭倉庫は、現在横浜で最も古い個人ガス会社だった増尾ガス。石炭倉庫前は石炭の積み下ろし用の施設だろうか?

堀川前田橋付近、元町側からのアングル

大岡川模式図

明治38年図。大岡川が分流し、中村川に分かれ横浜港に流れ込む。
その間
横浜運河群は中央を流れる吉田川、関内外を区別する「派大岡川」が運河の街を形成する。
この「横浜真景一覧絵図」に描かれた運河は昭和まで続く横浜の基礎を築くことになった。