12月 17

【占領の風景】関外飛行場

横浜中心市街地の占領史で若葉町に軽飛行場があったことは意外と知られていないようです。
2009年ごろ「空港の街」という飛行場サイトもできていましたがマイナーでした。このタイトルはいささかオーバーだとは思いますが、意外性からも面白い内容になっています。ただ情報量としては残念無念、少なすぎます。さらなる継続を期待したのですが。
(URLは文末に掲載)
1943年(昭和23年)発行1万分の1「横浜」
1943年(昭和23年)発行1万分の1「横浜」
■空港の街<関外飛行場>
1945年(昭和20年)9月、終戦直後接収が始まったと同時に米軍は横浜の繁華街に飛行場を整備します。
カナコロ「戦災復興の記憶〈8〉飛行場」
https://www.kanaloco.jp/article/entry-64012.html
ここに貴重な写真が掲載されています。1950年(昭和25年)ごろに撮影されたものとあり、接収解除は二年後の1952年でした。
この写真から接収当時の様子が良く判ります。飛行場脇に被災し関外がほぼ焦土化した伊勢佐木4丁目から5丁目のバラックが建っている風景が確認できます。 今回、この神奈川新聞は何故この時期に「飛行場」敷地を撮影したのだろう?と思い巡らしていたところ
 そういえば、
当「XY通信」でも初期に取り上げたことを思い出してみると
「暦で語る今日の横浜【9月10日】市長と飛行場」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=75
で後半ちょっと紹介していました。
これも1950年(昭和25年)9月10日の新聞記事から辿ったものです。
偶然にも1950年
「“伊勢佐木町飛行場”跡広場で横浜の「港湾勤労者スポーツ大会」開催。」の記事から手繰り寄せたものですが、
この時期には飛行場跡地が地元に開放され、地域のイベントが開催されていたことが判ります。
実質飛行場機能は「間門」の海岸線に移設されました。
飛行機部分を拡大したもの
■若葉空港整備中
ここに紹介する風景は、この若葉町飛行場整備中のものと思われます。右手に勤労動員なのか、多くの人が集まっています。
飛行機も確認できます。
1948年(昭和23年)修正の1万分の1地図と比較しても、まだ周辺が未整備状況を確認できます。
地図情報や接収資料からこの写真は1945年秋から1947年(昭和22年)
ごろと推測しました。
拡大前の元写真
(横浜飛行場)
横浜市内にはかつて航空機離発着に関係する施設がいくつかありました。他の横浜市内飛行場に関して簡単に紹介します。
<富岡水上飛行場>
現在金沢区にある富岡総合公園一帯周辺に横浜海軍航空隊の施設が整備されていたもので飛行艇の(海を使った)離発着が行われていましたが滑走路は無かったようです。
1936年(昭和11年)に開設され終戦まで使用されました。
その後接収、解除という歴史をたどり、公園や警察・民間施設となっています。
広さ:約21,9200平方m <大日本航空横浜水上飛行場>
ここも富岡同様飛行艇用の施設がありました。戦前には南方(パラオ)への定期便も運行されていた時期もあり、戦後米軍に接収、解除という歴史を歩みました。
所在地:磯子区鳳町あたりから中区千鳥町
(当時は、横浜市八幡町海岸)
195,162平方m
1945年(昭和20年)9月25日〜
1955年(昭和30年)3月11日接収開始1960年(昭和35年)6月30日接収完了。
「昭和15年(1940)この埋立地に大日本航空株式会社 により日本初の飛行艇 専用民間飛行場 が作られました。南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設されたのです。川西航空機 製の97式という大型飛行艇が15年3月6日に根岸湾からサイパン 経由パラオ に向け飛び立ちました。
 発動機4基、翼長40メートル、「綾波」「磯波」「黒潮」「白雲」など海や空にちなんだ愛称の優美な巨人機で、サイパンまで10時間、パラオまではさらに7時間かかりました。客席は18あり運賃はサイパンまで235円で東京・大阪間の7倍でした。戦時中は人員と機材すべてが海軍に徴用され南方の島々との連絡や人員・物資の輸送の任務にあたりました。
 昭和17年には世界最優秀機の名も高い2式大艇 が登場しましたが、全備重量24.5トンの日本最大の新鋭機で乗員以外に26~64人も収容でき、離着水時には家々の屋根をかすめて轟音を響かせました。
 97式大艇の最終飛行は終戦後昭和20年(1945)9月の台湾向け紙幣の輸送で、2式大艇は同じ年11月にアメリカへ試験機として引き渡すため香川県の託間基地からここに飛来したのが最後です。
 根岸には飛行艇の乗員や空港関係者が大勢下宿し子供たちに南方の珍しい果物の味を運んでくれました。鳳町の名は巨大な翼にちなみ未来に羽ばたくようにという意味でつけられたそうです。 」
※中区史 <間門飛行場>
前述の関外若葉町にあった軽飛行場が海岸線に移設され一時期飛行場として開設されました。 関連サイト
「空港の街」
http://isezakiwakaba.hama1.jp/e28216.html
6月 24

第830話  6月24日は美空ひばり命日

1989年(平成元年)6月24日の
美空ひばりが亡くなった日です。light美空ひばり像
彼女は 我が国女性として初めて国民栄誉賞を贈られました。
No4 1月4日(水) 昭和の歌姫
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=619

ちょっと一覧化してみました。題して
【横浜と美空ひばりの歌】
※関係あるんだろうな? レベルのリストです。
抜けもあるかもしれませんのでご了承ください。
気楽に始めましたが 結構時間がかかってしまいました。
◎1949年(昭和24年)
「河童ブギウギ」松竹「踊る龍宮城」挿入歌

※竜宮城→浦島伝説からムリムリ
◎1949年(昭和24年)
「悲しき口笛」作詞:藤浦 洸 作曲:万城目 正
◎1954年(昭和29年)
「ひばりのマドロスさん」作詞:石本 美由起 作曲・編曲:上原 げんと

※石本 美由起さんは横浜の方で、横浜をイメージする作詞も多い方です。

神奈川区の歌も作詞されています。ちなみに歌は 由紀さおりさん。
◎1955年(昭和30年)
「あの日の船はもう来ない」作詞:西沢 爽 作曲・編曲:上原 げんと
◎1956年(昭和31年)
「港は別れてゆくところ」作詞:西沢 爽 作曲:船村 徹
◎1956年(昭和31年)
「君はマドロス海つばめ」作詞:石本 美由起 作曲・編曲:上原 げんと
◎1957年(昭和32年)
「みなと踊り」作詞:星野哲郎(補作詩石本美由起)作曲:船村 徹
※横浜市/産経時事新聞社選定「横浜の歌」

◎1957年(昭和32年)
「浜っ子マドロス」作詞:星野哲郎(補作詩石本美由起)作曲:船村 徹
※横浜市/産経時事新聞社選定「横浜の歌」
→この産経時事新聞社選定「横浜の歌」は未確認です。追って調べてみます。
◎1957年(昭和32年)
「港町さようなら」作詞:水島 哲 作曲:万城目正 編曲:若木みのる◎1958年(昭和33年)

「ご機嫌ようマドロスさん」作詞:西沢 爽 作曲:船村 徹
◎1958年(昭和33年)
「白いランチで十四ノット」作詞:石本美由起 作曲:万城目 正
◎1958年(昭和33年)
「風に唄えば」作詞:石本美由起 作曲:万城目 正(B面)
◎1960年(昭和35年)
「アロハの港」作詞:三木嘉平 作曲:古賀政男
◎1960年(昭和35年)
「ひばりの船長さん」作詞:石本美由起 作曲・編曲:船村 徹
◎1960年(昭和35年)
「哀愁波止場」作詞:星野 哲郎 作曲・編曲:船村 徹
◎1960年(昭和35年)
「初恋マドロス」作詞:西沢 爽 作曲:遠藤 実
◎1960年(昭和36年)
「ヨコハマ物語」作詞:西沢 爽 作曲:遠藤 実
◎1963年(昭和38年)
「港は涙のすてどころ」作詞:石本美由起 作曲・編曲:上原げんと
※ジャケットは柳沢良平?
◎1964年(昭和39年)
「港は心のふるさと」作詞:三浦康照 作曲:船村 徹
◎1964年(昭和39年)
「お久し振りネマドロスさん」作詞:三浦康照 作曲:船村 徹
◎1967年(昭和42年)
「あの人の…」作詞・永六輔 作曲・中村八大
これは注目です。
美空ひばり オフィシャルウェブサイトには見当たりませんでした。
探し方が悪いのかもしれません。
https://www.youtube.com/watch?v=uxbmVCAuOAM
ユーチューブは 著作権上 削除される可能性が高いので
確認したい方は 早めに!!!

※追って調べました。

 アルバム「歌は我が命~美空ひばり芸能生活20周年記念」に収録。

 シングルでは発売されていません。残念です。
◎1967年(昭和42年)
「港のむせび泣き」作詞:三浦 康照 作曲:山本 丈晴
◎1969年(昭和44年)
「星くずの港」作詞:吉岡 治 作曲:下川博省 編曲:河村 利夫
◎1970年(昭和45年)
「港が見える丘」アルバム
◎1972年(昭和47年)
「ひばり仁義」作詞:石本 美由起 作曲:市川 昭介
◎1977年(昭和52年)
「港町十三番地」作詞:石本 美由起 作曲・編曲:上原 げんと
◎1986年(昭和52年)
「恋港」作詞:志賀 貢 作曲:岡 千秋 編曲:斉藤 恒夫
◎1999年(平成11年)
「元禄港歌」作詞:秋元 松代 作曲:猪俣 公章
※1905年録音

No.176 6月24日(日) 関内の粋といやーー、ね。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=432
関内を代表する割烹料亭「千登世」が
1881年(明治14年)6月24日(金)の今日、
住吉町6丁目79番地に開業しました。

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4月 7

【記念式典】横浜、金のシャチホコ

ここに一枚のお城の写真があります。
light復興博覧会名古屋城 城郭ツウであれば<金の鯱>がトレードマークの「名古屋城」らしい?と推理されたかもしれません。
この名古屋城は、横浜市の復興イベントのために建てられた<フェイク>ハリボテです。
場所は山下公園、時は1935年(昭和10年)の出来事です。

(復興記念横浜大博覧会)light名古屋館light正面大さん橋側会場light会場山手側 『復興記念横浜大博覧会』が1935年(昭和10年)3月26日から5月24日まで山下公園を中心に開催されました。
1923年(大正12年)に起こった<関東大震災>から立ち直った横浜市を国内外にアピールするために横浜市が復興記念と謳い実施されたものです。
メイン会場となった『山下公園』は、震災復興のシンボル的存在でした。light開催前 山下公園と通りを挟んだ山下地区約10万平方メートルを会場にして開催され来場者は、のべ3,299,000人に達し横浜市内で開催された戦前最大のイベントとなりました。
※乃村工芸の博覧会データベースによれば

「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。」とあります。
lightアメリカンロディオ

最初に登場した<名古屋城>はこの『復興記念横浜大博覧会』山下公園会場の大さん橋寄りに設置されました。ここに登場した<地方館>は、
地元神奈川館、北海道館、東京館、奈良館、(静岡茶)。統治下にあった台湾館、朝鮮館でした。
全体を通して、特徴的なのは<海>に関するテーマ館が目立つことです。
海女館、水族館、海洋発展館、ウォーターシュート、そして特に際立っているのが戦後貨客船「氷川丸」が係留されたあたりに設置された「生鯨館」でしょう。light復興記念博覧会中央会場 山下公園先の海を囲って鯨を泳がせたようですが、飼育環境が悪かったのかすぐに死んでしまったそうです。現在なら保護団体から厳重な抗議がきたことでしょう。
さらには、かつて仏蘭西波止場(下図 東波止場)だった汐だまりを活かした池には<水上遊戯>施設と『蟹罐』という名の謎の水上施設が記載されています。
『復興記念横浜大博覧会』開催内容を絵図や記念絵葉書を元に探ってみるといろいろ興味深いことがわかってきます。

(記憶)
現在も残っている当時の施設は「ホテルニューグランド」だけです。一部モニュメントが残されているのが「産業貿易センター」前の香港上海銀行と、イギリス系海運・貿易商社バターフィールド&スワイヤ商会の事務所だった建物の一部を保全した「創価学会戸田平和記念館」です。公園内には震災復興に関する記憶は殆どありません。
この山下公園が震災復興のシンボルだった?ことを改めて思い起こす空間にする必要があると感じています。

震災前
震災前の横浜港・大桟橋

(山下公園)
メイン会場となった山下公園は、
関東大震災の復興事業として1930年(昭和5年)3月15日に誕生しました。面積は 74,121m²あり現在も多くの利用者で賑わっています。完成以来、湾岸の工業化に伴い殆どの海岸線が工場用地、埠頭用地となる中、公園機能が残された横浜の貴重な臨海施設です。
戦後一時期、米軍の接収地となりオーシャンビューの住宅が建ち並んだ時もあります。
light接収中の山下公園2 No.181 6月29日(金) オーシャンビューの35棟解体

■1935年の出来事をピックアップ
2月18日
菊池武夫が貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を反国体的と糾弾
3月7日
村山助役再選を決定 日吉・富岡の一部地域へのガス供給案可決 私営バス強制買収に関する意見書を関係行政庁に提出する建議可決
●皇紀2600年記念オリンピック大会招致に関する意見書を市長に提出する建議可決
3月16日
アドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄し、ナチス・ドイツの再軍備を宣言
3月20日
復興博浜踊り発表会が野沢屋で開催された
復興記念横浜大博覧会開催
3月26日
西条八十作詞杵屋佐吉作曲「はまちどり」が発表
4月1日
横浜宝塚劇場が住吉町に開館した
4月4日
日中両国の経済状態視察などを目的とした米極東産業視察団の一二人、横浜に到着。
4月6日
満洲国皇帝溥儀が来日。靖国神社参拝
4月7日
美濃部達吉が天皇機関説のため不敬罪で告発される
4月9日
美濃部達吉の「憲法概要」など著書3冊が発禁となるも買手殺到し書店で売切れ
4月14日
太平洋最大の豪華客船エンプレス・オブ・ブリテン号、五百余人の観光客を乗せて横浜へ入港。
8月12日
永田鉄山暗殺事件(相沢事件)
9月15日
ナチス・ドイツにおいてニュルンベルク法制定(ユダヤ人公民権停止・ドイツ人との通婚禁止)
9月15日
ハーケンクロイツ旗が正式にドイツの国旗とされる。
12月9日
第二次ロンドン海軍軍縮会議開催

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5月 18

【市電ニュースの風景】1931年 №20

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。№201931年(昭和6年)5月
十四・五・六日 伊勢山皇大神宮大祭(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂下車)
十五日 『郵船』浅間丸入港(ホノルルより午前中四号岸壁へ)
十五日 弘法大師誕生会ならびに詠歌大会(電車及バス本町一丁目下車)
=午前十一時より本町開港記念会館にてー入場無料=
十五日より十八日まで
第四回掃部山バザー(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂又は雪見橋下車)
=マネキン劇場支那獅子舞其他余興沢山=
十六日 名古屋高商對横濱高商野球戦(午后三時横濱公園球場にて)
十六日 基督教婦人講演会 入場無料(午后二時尾上町指路教会にて)
十六・七日 神奈川金毘羅神社大祭(電車及バス 青木橋下車)
十六・七日 横濱専門学校記念祭(電車 六角橋終点より約四町)
=中等学校陸上競技会、音楽会、野球試合、提灯行列等ー入場無料=
18日シボレー大キャラバン隊(20数台)到着、元横濱駅裏広場で展覧

懸賞標語
「おつと危い左右(当選者 松本藤四郎君)」
※アラビア数字は別の年表から追記したものです。

[キーワード]
■伊勢山皇大神宮
横浜の総鎮守「関東のお伊勢さま」と呼ばれている伊勢山皇大神宮は、開港後現在の場所に遷座されてものです。現在の位置する場所からほど近い戸部村海岸伊勢の森の山上にあった神社を明治初年に国費を以て創建したもので、開港場の総鎮守として明治から今日まで多くの参拝者が訪れます。light_横浜商店街通り077 light_横浜商店街通り071No.691 【横浜神社めぐり1】伊勢山皇大神宮

No.691 【横浜神社めぐり1】伊勢山皇大神宮

No.426 横浜で学ぶ(神社編1)

No.426 横浜で学ぶ(神社編1)

No.338 12月3日 (月)八の1418(加筆)

No.338 12月3日 (月)八の1418(加筆)

■電停 紅葉坂・野毛坂
横浜は坂の多い都市です。light_紅葉坂-1light_伊勢山電停

■『郵船』浅間丸
「太平洋の女王」と呼ばれた浅間丸。主に横浜-ホノルル-サンフランシスコ航路に就航し多くの日本人と訪日外国人を運びました。
ロサンゼルスオリンピックに出場した西竹一男
ハリウッドスターのダグラス・フェアバンクス
ヘレン・ケラー
交換船・海軍徴用船となった後
1944年(昭和19年)2月24日に魚雷を受けて損傷しますが沈没は免れます。修復後マニラから高雄へ向けて航行中魚雷が命中し沈没。

■四号岸壁
新港埠頭で客船用に多く使用された埠頭です。light_20150408165442 light_新港埠頭上空

■掃部山(かもんやま)
別の機会に詳しく紹介します。
■尾上町指路教会
指路教会は最初の横浜居住地39番から、現在地、太田町、住吉町を経て1892年(明治25年)再び現在地に戻り、ヘボンの尽力により赤レンガの教会堂が建てられました。初代指路教会は
設計:サルダ 1892年(明治25年)竣工
関東大震災で倒壊。現在の建物は大正15年竹中工務店の設計により再建されました。横浜市認定歴史的建造物です。

■神奈川金毘羅神社
大綱金刀比羅神社
「横浜の金刀比羅(こんぴら)さん、大神様の尊き御神徳を知る数多くの会社経営者を始め、船舶関係、農業関係、建築関係、医療関係、民衆に至るまで、十六神の大神様の御神徳を頂ける神社であります。」
旧東海道、神奈川宿台の坂に鎮座、街道の安泰と袖が浦神奈川港に出入りする船は海上安全を祈願した神社です。light_神奈川金毘羅

■横濱専門学校
神奈川大学の前身の校名。light__9145936light_P2090159(戦前の歩み)
1928年(昭和3年)
米田吉盛が横浜市中区桜木町に「横浜学院」を開設
現在の西区桜木町6丁目34番地にあった「桜木会館」の1階と2階を借り学校を開校。
同年12月
横浜学院、中区西戸部町富士塚に移転。スクリーンショット 2015-05-18 16.36.43スクリーンショット 2015-05-18 16.36.061929年(昭和4年)
専門学校令により「横濱専門学校」(法学科、商業理財科)を開設
1930年(昭和5年)
六角橋校地(現在の横浜キャンパス(横浜市神奈川区六角橋)へ移転
1939年(昭和14年)
工学系の3学科(機械、電気、工業経営)を新設
1945年(昭和20年)
GHQによって一時的に六角橋校地が接収
大倉山の大倉精神文化研究所と三ツ沢の県立第二横浜中学校(現横浜翠嵐高校)にて授業を再開。

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1月 13

No.707 野毛「海員碑」について

野毛成田山横浜別院から一つのモニュメントが消えました。
海員悼逝の碑です。
新本堂造営のために設置場所が無くなったからでしょう。
light_成田山旧本堂海員碑本堂の脇にこの「海員悼逝の碑」が建ったのは1903年(明治36年)6月のことです。明治維新以来の海難に殉じた多くの船員の霊を慰めるために明治32年、当時の海員倶楽部所属の船員が呼びかけで同じ職の船員たちの拠出によって建立されたものです。題字は伊藤博文の筆によるものだそうです。
横浜都市発展記念館にある絵葉書コレクションには
「横浜野毛山ヨリ市街ヲ望ム」というタイトルでこのモニュメントが写っているものがあります。
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a01_001-16.htm
「備考:正面の塔は1903(明治36)に野毛山不動尊内に建立された海員悼逝碑。碑には国際信号旗がはためいている。悼逝碑の左側に横浜停車場が、画面右奥に指路教会が見える。絵葉書は1907(明治40)〜1918(大正7)年の発行。トンボヤ刊。」
その他
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a13_028_34.htm
「震災で上部に見えている飾りを失う。」
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/ppcDB/ppcDB_a13_028_20.htm
■当時の観光ガイドブックより:
「山号を成田山 寺号を延命院と云ふ 成田山新勝寺の末寺で準別格本山である 明治三年南太田の普門院に遥拝所を設けたが同九年高島嘉右衛門氏から敷地の寄附を受け現在の場所に移つた」(『横浜名勝』横浜市銃後奉公会、1939年)
解説:海員悼逝碑(画面右)上部に設置されていた碇の飾りが見えないことから関東大震災以降の撮影か。絵葉書は1918(大正7)〜33(昭和8)年刊。
このようにこの「海員悼逝の碑」は関東大震災で倒壊してその後再建されますが、中が空洞になっていて震災直後は避難場所になっていたという記録も残っています。
light_成田山旧本堂大正期01 light_成田山旧本堂LM方向

ここにある絵葉書には
震災前の上部に設置されていた碇の飾りが見えるところから、震災前に撮影され発行されたものといえるでしょう。
碑の横には国文学者の重野 安繹(しげの やすつぐ)が書いた海員悼逝之碑文が設置されていました。
スクリーンショット 2015-01-13 15.42.41スクリーンショット 2015-01-13 15.42.55

今後、塔の再建予定があるのか?ない場合でも碑文等の保存がされるのか?
確認していないのでわかりません。
すでに取り壊しているので 遅いかもしれませんが、できればこの碑は何らかの形でこの地に残してほしいと希望するものです。
[野毛関連ブログ]

■野毛
No.371 1月5日(土)ノゲ的 (加筆修正)

No.371 1月5日(土)ノゲ的 (加筆修正)

No.457 ザンギリ野毛

No.457 ザンギリ野毛

No.422 妙蓮寺と野毛

No.422 【舞台の横浜】妙蓮寺と野毛

No.323 11月18日(日)歓楽街の住まい方 (加筆修正)

No.323 11月18日(日)歓楽街の住まい方 (加筆修正)

No.398 野毛山公園句碑を訪ねる

No.398 野毛山公園句碑を訪ねる

No9 1月9日(月) 野毛カストリ横町立退き騒動

No9 1月9日(月)【桜川】野毛カストリ横町立退き騒動

No.701 運河の街誕生

No.701 運河の街誕生(序章)

No.424 琉球バル

No.424 琉球バル

【番外編】成田山ただいま新築造営中。

【番外編】成田山ただいま新築造営中。

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12月 5

No.698 【横浜 橋物語】幻の橋?、吉田橋。

「橋」の定義はなんだろう?
「人や物が、谷、川、海、窪地や道路、線路などの交通路上の交差物を乗り越えるための構造物である」
「河川・渓谷・運河などの上に架け渡し、道路・鉄道などを通す構築物。橋。」
「土木工学ハンドブック」では
「橋梁とは、道路、鉄道、水路等の輸送路において、輸送の障害となる河川、渓谷、湖沼、海峡あるいは他の道路、鉄道、水路等の上方にこれらを横断するために建設される構造物の総称である。」「市街地において効率的な土地利用の観点から、道路上あるいは河川上の空間に連続して建設される高架橋も橋梁の一形態である。」

今日は<橋>の話です。江戸から明治に<近世>から<近代>になった大きな変化の一つに橋梁の歴史があります。江戸幕府は橋梁設置に消極的でした。一方で近代に入り、橋梁は政府の重要政策となります。ちなみに大阪も東京も<橋都(きょうと)>です。城下町には橋がシンボルですね。
前置きが長くなりましたが、横浜も新田の町、運河の町として発達してきました。特に開港時からは<橋>が重要になってきます。
横浜開港場の<橋>といえば、
『吉田橋』です。ここは関門橋ですから、まさに横浜開港場の<関内><関外>を繋ぐ橋でした。このあたりに関しては、多くの歴史情報、観光情報がありますので<吉田>の名を含めて調べる楽しみがあると思います。実際に『吉田橋』脇に解説看板も記念碑もありますので参考にしてください。
light_2014-12-05 15.34.28

今日は 吉田橋の歴史的解説をするためにブログを書き始めた訳ではありません。
もう少しひねくれた 素朴な疑問です。
冒頭に橋ってなんだろう?と疑問を提示しました。
(川は濁って橋は濁らない?)思いっきり寄り道します。
ちなみに、行政的に<橋>は<はし>で<ばし>とは表記されていません。
light_みやこはしlight_2014-12-05 15.34.07川の表記は<おおおかがわ><つるみがわ><かたびらがわ> 何故なんでしょうね?
本論に行く前に横路にそれていますが どんどん行きます。
当たり前ですが橋には一つ一つ名前があります。それぞれ橋を渡る時 橋の名を確認することができます。(面倒でなければ)
橋=橋梁には 両脇に欄干=高欄(こうらん、hand rail)があります。この高欄の端々(四隅)に親柱というものを立てたり、プレートを設置したりします。
この高欄の四隅に着いている橋に関する<プレート>河川橋の場合、全て異なっています。
1橋梁名称の正式名称(漢字かな表記)
2橋梁名称のふりかな(ひらがな表記)
3設置河川名称
4設置年月
では?陸橋や架線橋の場合は?
→謎解きは ご自分の目で!確認してみましょう。(別の機会にじっくり紹介します)
はなしが捩れてきましたので元に戻します。
横浜が開港した際、治外法権の居留地(関内)と市街地(関外)を結ぶ橋が「吉田橋」です。
<派大岡川>の上に架けられ、その後ここを首都高速が通ることになりましたので、河川橋から架道橋に変身します。
【架道橋】道路や鉄道を立体交差で越えるために架けられた橋。跨道(こどう)橋・跨線橋など。
吉田橋、(首都高道)路の上を渡る<橋>であるはずなんですが、
「吉田橋」は橋じゃない?かもしれないという 疑問が湧いてきたのです。
いやー どうみても 橋でしょ!
でも、横浜市の橋梁リストに「吉田橋」がありません!!!!

スクリーンショット 2014-12-05 20.46.37

「吉田橋」を横から見たことありますか?

吉田橋下 改装前

light_2014-12-05 15.38.25       <改装後の 吉田橋 マリナード入口あたり>
構造は、マリナード地下街の入口通路の上に<屋根>のように吉田橋、通路の下に首都高速が通っています。地下街の下を通過する道路にイチイチ橋梁名は付いていないですし、ここは<暗渠>なの?
light_2014-12-05 15.29.44 light_2014-12-05 15.29.18この天井が吉田橋ですね。
リストには無いし、橋の下は広場?だし…
なぞは深まるばかり。
期待させといて つづく!

<吉田橋関連ブログ>(他にもいろいろありますが)
【絵葉書が語る横浜】 吉田橋脇

【絵葉書が語る横浜】吉田橋脇2

【しりとり横浜巡り】6月10日(火)吉田橋

Category: 記念碑, 横浜の橋, 【横浜の水辺】 | No.698 【横浜 橋物語】幻の橋?、吉田橋。 はコメントを受け付けていません
10月 6

第687話 オリンピックと横浜

先日、「1964年東京オリンピックのころ」と題された大衆文化評論家の指田 文夫さんのレクチャーに参加しました。映画と音楽を通して東京オリンピックの時代を遡る楽しいひと時でした。東京オリンピックというと私が小学校の時に開催されました。その時の記憶が音楽と映像でこんなにも鮮明に蘇るのか?というほど記憶を楽しみました。
学校でも入場券の当たった?近所の家族が出かけることを羨ましく感じたことや、前年に起こった吉展ちゃん誘拐殺人事件で集団登下校となったときにオリンピックの話をみんなで話したことを思い出したりしました。

東京オリンピックは、1940年(昭和15年)に一度決定し開催権を返上した幻の「東京オリンピック」がありました。それから約25年後の1964年に改めて立候補した東京オリンピックが行われまます。この幻のオリンピック、1964年の時、共に横浜はオリンピック関連の出来事がいろいろありましたので少し関連エピソードを紹介しましょう。東京オリンピックポスター

1940年(昭和15年)の夏季オリンピック東京大会開催に際し、横浜市はヨット競技の誘致に成功し、ヨット競技開催の準備を進めます。
1937年(昭和12年)東京オリンピックに備えてヨットハーバーの設計コンペが開かれます。詳細のデータは手元にありませんが中区新山下町にオリンピック用の仮ヨットハーバーが9月に落成し、本格的な横浜ヨット港(ヨットハーバー)建設が計画されます。この時に、ヨット競技の開催に尽力したのが横浜ヨットクラブ(YYC)です。

新山下ヨットハーバー オリンピックは中止となってしまいますが、横浜ヨット港建設は継続し、幻のオリンピックの翌年1941年(昭和16年)に竣工し「海の記念日」となった7月20日に海洋競技大会が開催されました。
この横浜ヨット港は1968年(昭和43年)まで使用され、その後1977年(昭和52年)磯子区に移転され新規開設されます。

ハーバー記事20 現在も残っている幻の「東京オリンピック」の証?が
京濱國道のバイパスとして計画された新京浜国道(第二京浜国道)に残っています。
鶴見区の響橋(通称めがね橋)です。
めがね橋29 この新京浜国道は、施行時期がオリンピック開催決定時期とも重なったため、東京オリンピックのマラソンコースとして使用されることを想定して設計されます。42.195kmの折り返し点を横浜市鶴見区の響橋(通称めがね橋)近辺にしていたそうです。そのために、デザイン性の高い橋梁が造られました。残念ながら実際この響橋が完成したのは、1941年(昭和16年)3月で幻のオリンピック予定年の後でした。

戦後、日本は直にオリンピックに参加できませんでした。1948年ロンドン大会、1952年ヘルシンキ大会、1956年メルボルン大会、そして1960年が敗戦国初のローマオリンピックに決まります。
第18回となった「東京大会」で横浜が会場となったのが「三ツ沢公園」。
横浜市神奈川区三ツ沢に広がる運動公園で、サッカー(現在ニッパツ三ツ沢球技場で)が行われました。
またバレーボールが横浜文化体育館で行われました。
東京オリンピックの聖火リレーは1964年(昭和39年)10月7日に横浜も通りしました。(全県回ったのであまり特記事項ではありませんが)
街中にも東京オリンピックの記憶が残っています。
オリンピック開催に伴い、野毛本通りの街並みを美しく(いわゆる浄化)するために、露店、屋台を収納して出来たのが都橋商店街ですね。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA また、
大岡川に架かる太田橋の袂に、「オリンピック開催記念昭和39年7月吉日、吉田町末
吉三・四町内会」の碑が置かれています。もう一方に元外相、藤山愛一郎書の「この旗のもとに」の石碑があります。
OLYMPUS DIGITAL CAMERAlight_2013-01-23 14.46.22

※なぜこのようなタイトルになったのか?不明です。
「オリンピックビルの屋上からみた伊勢佐木町」1953年
http://www.yokohama-album.jp/picture/detail/1311/

【689話】もう一つの幻イベント

7月 29

横浜市出身山田太郎くん

山田太郎君
といえば、大ヒット漫画「ドカベン」週刊「少年チャンピオン」連載、水島新司作品の代表作の登場人物です。
好きな「野球漫画」は?
50代は巨人の星、
40代はドカベンだそうですが
この「ドカベン」1972年(昭和47年)から1981年(昭和56年)まで連載されました。
ここに登場するドカベンが山田太郎君です。
実は「ドカベン」最初は柔道漫画だったそうです。私は野球時代しか知りません。
ドカベンの通う「神奈川明訓高校」は神奈川県にある私立高校を想定していますが、果たして明訓は横浜の高校か?という疑問が湧きます。おそらく そうでしょう。
少なくとも山田君は“横浜在住の畳屋さん”だったかな。確認してません。
「ドカベン」に登場する
県内のライバル校には
「横浜学院高校」なんとなく横浜高校らしく感じますが
「東海高校」これは東海大相模でしょう!
「白新高校」神奈川最強と呼ばれる投手、不知火守(しらぬい まもる)擁する最大のライバル校です。(神奈川ではなく作新の江川と同世代なのでこのイメージが被ってしまいます)
ドカベンの画像はありません。ごめんなさい。
以前持っていたコミックも2000年に処分してしまいました。
結構しっかり最後までとっておいたんですがね   。ところで、山田太郎といえば
かなり高年齢の方には通じるかな?
「新聞少年」
1965年(昭和40年)に山田太郎さんの
「ぼくの名前を知ってるかい。朝刊太郎と言うんだぜ?♪」の歌声が全国に流れ大ヒットとなって親しまれました。(世代的には私がギリギリ?)
この「新聞少年の像」が日本大通脇に建っています。しかも長ズボンで!

lig_新聞少年
日本大通りの守り神?

No.157 6月5日(火) 半ズボンより長ズボンでしょ!

私のお気に入りブログの一つです。
ぜひ 再読ふくめ よろしく!現地に行って長ズボン確認してみてください。

9月 20

No.467 なんでここにこんな?(戸塚編)

東海道(国道一号線)下り路線、戸塚から原宿交差点に向かう途中、
左手のマンションの脇に「記念碑」らしきものがあります。
昔からマイカー、バス(の方が良く見える!)で気になっていました。
先日 気がついてから三十数年目に確認してきました。

ちょうどこの記念碑のあるあたりは 東海道戸塚宿を過ぎた馬の背になっています。

事前に「Google」でこのあたりを確認してみようとしたら
ストリートビューで ちょうど 見えない!なんで追い越し車線から撮影するかなー。

ストリートビュー手前だと見えます。
近づくと車がじゃま!

やっぱり実地検分しか無い!
戸塚駅から藤沢駅行きのバスに乗って、
「西横浜国際総合病院前」で下車します。

戸塚方面バス停

ありました、ありました。
「お軽・勘平の碑」でした。しっかり囲みもあり、丁寧に作られていることがわかります。

「碑石の由緒」には昭和四十六年七月とありました。
文学博士 松本亀松氏による由緒が記されています。
「伝統芸能研究者。1901年10月27日〜1985年4月。東京生まれ。東京高等工業学校中退。日大教授。1960年「狂言六儀の研究」で日大文学博士。72年定年退任。演劇学会理事。」
碑が建立されてから半世紀近くなりますがメンテナンスも行き届いています。
「お軽・勘平」って?
歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」四段目、塩谷(えんや)判官の家臣早野勘平と腰元お軽が、お軽の所への道行の途中で
「鎌倉を出てやうやうと、ここは戸塚の山中、石高(いしだか)道で足は痛みはせぬかや」と勘平が優しくお軽に問うところに因んでいるらしい。
鎌倉から落ち行くお軽・勘平のふたりが桜と菜の花が咲き乱れる戸塚山中で見せる美しく華やかな所作事なんですが、なぜここなのかが明記されていません。
ここは「桜と菜の花が咲き乱れる戸塚山中」なんですかね。
昭和50年代の地図には「日本石油」のガソリンスタンドがありました。
現在はマンション(?→未確認)が建っていますが、ガソリンスタンドがあった頃からこの記念碑はありましたから、スタンド脇に記念碑が設置されたことになります。
さらに疑問なのが「東京急行電鉄」が記念碑の賛助社と記されている点です。

「お軽・勘平」は、創作です。
【仮名手本忠臣蔵】の『道行旅路の花聟』(みちゆき たびじの はなむこ)は本来のストーリーではなく、後から追加されたものです。
幕末以降、二段目や三段目などに挿入されてきましたが、最近では「判官切腹」の場と五段目「山崎街道」の場」の間に挿入されています。

語り出しが「落人と、見るかや野辺に若草の」と始まるので、通称『落人』(おちうど)といわれています。
http://www.youtube.com/watch?v=L2_26wsZ4_A
内容は「おかる」と「勘平」が駆け落ちを決意し、おかるの故郷山城国の山崎へと目指す途中、そのあとを追いかけてきた「鷺坂伴内」が二人にからむ場面です。色彩豊かな所作事で、軽やかな清元を聞きながら華やかな気分が人気定番となりました。
舞台は「一面の菜の花の春景色、遠くに富士が見える」見事なシーンが拡がります。
歌舞伎舞台では、舞台装置は“どうみても”平地ですね。

周辺に観光資源、無いことはないのですが 孤立感ヒシヒシ。何か関連で活かす方法ないでしょうかね。戸塚宿尾根歩きコースですか  ね。

8月 18

No.464 昭和5年頃の横浜

よく歴史書や教科書では、時代区分をします。
横浜史を区分する際、
最大の分岐点が「開港場」ができる幕末期です。
開港から一世紀半の歴史で、
横浜は幾つもの試練の時期がありました。
横浜近代史の中で、今回は震災復興期の昭和初期に注目してみました。

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復興ビジョンが絵はがきになっています。

中でも昭和3年から5年頃の横浜の姿をざくっと追ってみます。
※詳細もいずれまとめて発表する機会があると思います。

(鉄道の時代)
横浜の鉄道網が充実したのが昭和期です。
神中鉄道、東横線、京浜電気鉄道、湘南電気鉄道
そして横浜市電がレール網を最も充実させた時代です。

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1926年(大正15年)
 東京横浜電鉄が丸子多摩川駅(現・多摩川駅)〜神奈川駅間を開業します。
 神中鉄道が星川駅(現上星川駅)〜厚木駅間を開業します。
 鶴見臨港鉄道が浜川崎駅 – 弁天橋駅間を開業します。
昭和に入り
1927年(昭和2年)
 神中鉄道が北程ヶ谷駅(現・星川駅)まで延伸します。
 市電浅間町車庫開設。
1928年(昭和3年)
 東横線が神奈川駅〜高島駅(後の高島町駅)間を開業します。
 ※神奈川駅が横浜駅として移転します。 
 鶴見臨港鉄道が浜川崎駅〜扇町駅間を開業します。
 市営バスが開業します。(生麦車庫・麦田車庫完成)
1929年(昭和4年)
 神中鉄道が北程ヶ谷駅(現・星川駅)から西横浜駅まで延伸します。
1930年(昭和5年)
 京浜電気鉄道が高輪駅〜横浜駅間を開業します。
 ※「京浜電気鉄道 横浜駅は、現在の臨海セミナー等予備校が並ぶあたりです)
 一方、
 湘南電気鉄道が黄金町駅〜浦賀駅間、金沢八景駅〜湘南逗子駅間で営業を開始します。
 鶴見臨港鉄道も全線電化し、鶴見仮停車場〜弁天橋駅間を延伸開業します。
1931年(昭和6年)
 神中鉄道が西横浜駅〜平沼橋駅間を開業し
 湘南電気鉄道も桜木町接続を目指し日ノ出町駅まで延伸しますが、
 京浜電気鉄道がゲージの違いを乗り越え
  日ノ出町駅まで延伸された湘南電気鉄道と接続します。
1933年(昭和8年)12月27日にようやく神中鉄道が横浜駅に乗り入れます。
◇市電の時代
ここでは詳細を掲示しませんが、昭和初期に市電網の大半が開業します。横浜市内のアクセス網が一気に整備されます。
ちょうどこの頃、横浜市は周辺町村を合併し市域も一気に拡大します。
1927年(昭和2年)第3次市域拡張

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 ■久良岐郡
 屏風浦村、大岡川村、日下村
 ■橘樹郡
 鶴見町、城郷村、大綱村、旭村、保土ケ谷町
 ■都筑郡西谷村を編入します。
 ※区制が施行され
  市域が5区に分けられます。
  横浜最初の5区が誕生します。
   ※鶴見区、神奈川区、中区、保土ケ谷区、磯子区
1936年(昭和11年)第4次市域拡張
1937年(昭和12年)第5次市域拡張
1939年(昭和14年)第6次市域拡張

(復興事業)
震災復興でインフラが整備されていくに伴い 民間のビル建設ラッシュが起ります。住宅政策では「同潤会アパート」が作られていきます。
 例えば 1930年(昭和5年)の建造物は
都南ビル(旧都南貯蓄銀行本店)(静岡中央銀行)
No.352 12月17日(月)市民の財布を守った都南
ジャパンエキスプレスビル
同潤会アパート 多数
No.376 1月10日(木)中島敦のいた街

横浜競馬場一等観覧席遺構
インペリアルビル
No11 1月11日(水) KAAT開場

綜通横浜ビル
横浜地方裁判所・簡易裁判所
No.50 2月19日 横浜地裁で注目の公判

ベーリックホール
No.167 6月15日(金) 自然、単純、直裁、正直、経済的

東(あずま)隧道
松屋横浜支店
No.30 1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
※氷川丸もこの年に横浜船渠株式会社で竣工しました。
1930年(昭和5年)は震災復興事業の一つ「公園整備計画」の「神奈川公園」と「神奈川会館」の開園式が行われた年です。
 No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶

(御大典記念)
昭和天皇の即位の礼・大嘗祭が1928年(昭和3年)11月6日に行われました。昭和天皇即位を祝い、全国で様々な形で祝賀が行われます。
その一環として記念碑、記念造営が行われます。横浜市内にも多くの御大典記念に関係する記念碑等が残されています。
■芝生浅間神社では、1928年(昭和3年)御大典記念事業として社殿が御造営されます。
■横浜市立市場小学校では1928年(昭和3年)御大典記念として校旗を作成します。
■伊勢山皇大神宮の太鼓場(?)は1928年(昭和3年)に御大典記念として建設されます。


(観艦式)
横浜港で昭和に入り集中的に「観艦式」が開催されます。
No.285 10月11日(木)武装セル芸術
日本の観艦式は明治元年に始まり戦前は18回実施されました。
第一回は大阪天保山沖で行われ、以降“横浜沖”が最も多く9回、次いで6回“神戸沖”で実施されました。
昭和期になり観艦式は6回、内4回が横浜沖で実施されます。

1927年(昭和2年)10月30日、横浜沖。
1928年(昭和3年)12月4日、横浜沖。
1930年(昭和5年)10月26日、神戸沖。
1933年(昭和8年)8月25日、横浜沖。
1936年(昭和11年)10月29日、神戸沖
1940年(昭和15年)10月11日、横浜沖。


(磯子八幡神社)
1930年(昭和5年)磯子八幡橋近くにある「八幡神社」にある御大典記念碑が建立されます。


御大典記念
正三位 勲二等 有吉忠一
この記念碑は、碑の上部に鉄の玉が飾られています。

文献や近所の方の話しでは
“昭和の代になり、5年6月には、御大典記念碑が建ちました”。
“漁師の人たちが奉納した大きなブイ(浮標)が石塔の上にのせられています”
「機雷の外側という話もあります」
ここに名が出ている有吉忠一氏はちょうどこの記念碑が作られる直前の1930年(昭和5年)4月11日に市長として貴族院議員に勅撰されます。
その祝いも兼ねたのでしょう。
裏側にはこの記念碑建立に関わった方々の名が掘られています。
禅馬鉄工所、當所 伊達鉄鋼所
おそらく この鉄球を作った所と推理すると
「機雷」ではなく「ブイ」が妥当なのではないでしょうか。
あくまで推論ですが
 観艦式には 数多くの「ブイ」が必要とされるので、その製造を地元の鉄工所が請け負い、その御礼も含めここに奉納したのではないでしょうか。

(この時代)
昭和初期の横浜は、震災から立ち上がりつつある中
昭和恐慌、急激な円安デフレのまっただ中にありました。
復興資金として借り受けた米国債の支払いに苦慮します。
こんな時に
1929年(昭和4年)8月19日
飛行船ツェッペリン伯爵号が 急遽計画を変更して
横浜上空に現れます。

かたくなに進路変更を拒んだ「ツェッペリン伯爵号」がなぜ?
横浜を上空から視察したのか?世界の(特に米国の)メディアを乗せたこの
飛行船の目的は 何だったのでしょう。
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命