【ミニミニ観光横浜】掃部山そうぶやま
今日は掃部山の話です。
掃部山は(かもんやま)と読みます。初めて出会う方には難読地名の一つです。
まず読めません。どう読んでもそうぶやまですよね。
ここは明治期に鉄道省の土地で、後に民間の管理を経て市の公園となりました。
桜の名所としても有名です。この掃部山の名は幕末の歴史を大きく変えた井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)の「掃部」から採ったものです。ここには現在、井伊直弼の銅像が建ち、一角には関東最古の能楽堂が移築されています。
衣冠束帯をつけて正装した男の像が何故ここに建っているのでしょうか?
「開国の恩人」としてすんなり顕彰されたからではありません。現在掃部山に建つ「井伊直弼像」は二代目で戦後に復活したものです。
井伊直弼、日本近代史を学ぶ時必ず登場する彦根藩主であり時の大老は、その評価が未だ大きく分かれます。
彼をテーマにしたブログも幾つか書きました。
No.193 7月11日(水) Hi Come on!
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=414
No.■180 6月28日 横浜能楽堂、その点と線
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=428
No.96 4月5日 開港ではありません開国百年祭
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=521
ここで改めて 掃部山に建つ「井伊直弼像」を通して、横浜を舞台にした歴史の謎について少し紹介しましょう。
■1884年(明治17年)3月22日
「東京・横浜の紳商60人、佐野茂で会合、野毛山に井伊直弼 記念碑建設を決定しました。(横浜近代史総合年表)」
とあるように、井伊直弼の顕彰碑を建てようという活動は明治10年代から彼の故郷「彦根」から起こります。
明治維新後の日本国内における井伊直弼の評価は、散々なものでした。
井伊大老が指示した「安政の大獄」により弾圧された各藩の要人・知識人の多くが新政府の幹部となったからです。幕末明治に活躍した明治維新の要人は薩長土肥と呼ばれた倒幕派の若き<革命家>達も含まれていました。
実は<日本の近代化>を最初に支えた官僚の多くは旧徳川幕府の優秀な幕臣達でした。
倒幕派の若き<革命家>達は清濁合わせながら、露骨な藩閥政治も行い、都合の良い朝令暮改も繰り返しながら近代国家づくりに奔走したのです。
その明治政府をけん引するリーダー(革命家)達にとって井伊直弼は<大獄>の恨みある憎き江戸政治の象徴となっていきます。一方、藩閥政治に不満を持つ人達には 開港を英断した井伊直弼をヒーローとして再評価する動きが活発化します。
明治政府内部でも様々な派閥争いが起こります。
新政府最大の危機が「明治十年の西南戦争」という近代最大で最後の内乱が起こります。
その後大隈重信を巡って「明治十四年の政変」が起こり、福沢諭吉を含め啓蒙派の言論人が政治の場から去っていきます。
官僚機構を整備する中、省庁間の利権争いも重なり、明治国家が少しずつ歪な権力構造のまま膨らみ此の歪みが日本の政治を停滞させていきます。
横浜を例に取れば、横浜港築港計画ではイギリスをバックにした「大蔵省」とオランダを支持する「内務省」の軋轢があったように、井伊直弼を巡る顕彰碑建立では「内務省」と反内務省との対立も鮮明になります。
ここに掃部山の井伊直弼像のたどった運命を少し長くなりますが年表にしておきます。
(井伊直弼碑から像へ)
■1860年(安政7年)3月24日
三月三日桜田門外の変
■1881年(明治14年)11月
有志 井伊直弼像、在東京建碑委員を選定
■1882年(明治15年)7月
建碑位置、横浜戸部不動山案を提案したが否決、東京案となる。
同年10月
上野東照宮境内案 申請。11月に内務省内否決、不許可に。
■1883年(明治16年)11月
横浜戸部不動山鉄道局所有地の払下げを願い出る。
■1884年(明治17年)1月
地所開墾に着手。
同年3月22日
東京・横浜の紳商60人、佐野茂で会合、野毛山に井伊直弼 記念碑建設を決定
■1886年(明治19年)3月27日
豪徳寺で二十七回忌が行われる(26日〜28日)
■1888年(明治21年)3月20日
島田三郎<開国始末>(付録 井伊掃部頭直弼伝)
■1891年(明治24年)
「大老銅像建碑委員会」発足
■1893年(明治26年)
旧臣の集まりが「旧談会」を発足
同年8月
神奈川県知事 遺勲碑建設に関し内務省に問合せた結果、井上馨大臣拒否。
■1899年(明治32年)5月19日
「日比谷公園内に直弼顕彰碑計画を立てる」が内務省(西郷従道)から却下
■1907年(明治40年)2月
遺勲碑から銅像に変更し戸部山に建設を決定。設計に着手。
■1909年(明治42年)6月
銅像竣工。開講五十周年式典挙行。
同年7月1日
神奈川県知事、横浜市に銅像除幕式中止を申し入れ、中止延期。
同年7月11日
除幕式強行。大隈重信、英国総領事ら出席他600人。
■1910年(明治43年)
彦根に井伊直弼像を建立
■1914年(大正3年)11月7日
横浜の掃部山公園として開園。
※土地・銅像は一旦井伊家に寄贈され、整備後横浜市に寄付(8月)
■1916年(大正5年)7月
「井伊直弼朝臣頌徳会」発足
同年11月
「井伊直弼朝臣頌徳会」「旧談会」が「無根水会(むねみ)」となる。
※無根水は直弼の茶号。
■1917年(大正6年)
大正天皇、彦根行幸の際 直弼像には訪れず。
■1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で銅像上部が回転、転倒せず。公園は被災者の避難所に。
■1935年(昭和10年)3月2日
「天照義団掃部頭銅像の首を狙う」が未遂。
※横浜の右翼団体
■1940年(昭和15年)4月10日
「井伊直弼朝臣顕彰会」横浜で開催。
■1943年(昭和18年)6月16日
銅鉄押収「応召」となる。
■1954年(昭和29年)5月20日
二代目井伊直弼像 竣工。
同年6月2日
開港百年祭に際し二代目井伊直弼像 除幕式。
■1958年(昭和33年)5月10日
開港百年祭実行員会、開港功労者31人を顕彰。井伊直弼も
■1968年(昭和43年)9月29日
「開港の恩人井伊大老を偲ぶ110年祭」掃部山公園で開催
■1989年(平成元年)
YES89掃部山公園再整備
■2014年(平成26年)
区制70周年と掃部山公園開園100周年、掃部山公園再整備
第822話1877年(明治10年)6月17日モース横浜へ
1877年(明治10年)6月17日の今日
「エドワード・シルベスター・モース(38歳)東京大学で動物学を教えるため来日、サンフランシスコから横浜港に着く。明治12年8月31日、アメリカに帰国する。」
この表記は正確ではありません。<東京大学で動物学を教えるため来日>ではなく最初は研究のためでした。
少しプライベートな話を。
小学生の頃、父と小旅行で電車に乗った時、車窓の風景を指さしながら、「あの丘は古墳かもしれないぞ。近くではわかりにくいがこうやって少し離れ電車のように動きながら探すと発見しやすい」と聞いて、ワクワクしながら景色をのぞき込んだ記憶があります。
父は学生時代 大山柏の下で、考古学者を目指していました。
この話を私は父のオリジナルと思っていましたが、社会人となった頃エドワード・モースを読み
元ネタがモースの逸話だったことを知った記憶があります。
エドワード・モースはアメリカの動物学者としてまだ外国人の行動が制限されていた日本を訪れます。2枚の殻を持つ腕足動物を研究対象にしていたモースは、アジアの腕足動物研究に<日本>を選びます。
1877年(明治10年)6月17日の今日、
横浜港に着き居留地で情報収集にあたりますが、まだ外国人の行動半径が制限されていたため、
19日東京の文部省にダビッド・モルレーを尋ねるために「横浜駅」から「新橋駅」まで汽車に乗ります。
※ダビッド・モルレー
下関賠償金返還を求めるロビー活動も行います。日本に教育制度の助言を行った教育学者。
モースは、新橋に向かう途中列車の窓からこの時「大森貝塚」を発見します。実際の発掘はこの年の10月からですが、横浜駅から列車に乗りしかも海側で無かったら大森貝塚の発見はもう少し遅れたかもしれません。
エドワード・モースの功績は 3度の来日で
当時日本人があまり関心を示さなかった陶器の収集(ボストン美術館)
そして民俗資料の収集(ピーボディ・エセックス博物館)を行ったことです。
http://pem.org/collections/9-asian_export_art
このモースコレクションから意外な発見をしました。
No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=378
(過去の6月17日ブログ)
No.169 6月17日(日)私は武器を売らない
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=439
横浜スポーツの百年に1876年(明治9年)6月17日(土)の今日
「北方の鉄砲場でスイス人の射的会開催」とあります。
【芋づる横浜】輿地誌略から続く物語(1)
今回は特に横浜に関係がない前回から芋づる式に繋がってしまったテーマです。
【芋づる横浜】輿地誌略(前編)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8567
【芋づる横浜】輿地誌略(後編)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8575
このブログで明治初期の大ベストセラー「輿地誌略」を紹介しました。
著者は「内田恒次郎」明治以降は「内田正雄」と改名します。
幕末に徳川政権のもと、軍用艦を発注しその受取というミッションでオランダに滞在(留学)し、「開陽丸」という艦船を日本に運んできた時のリーダーです。
彼がオランダに滞在していた1863年(文久3年)4月から1866年(慶応2年)10月までの二年半を追っていくと「横浜鎖港談判使節団」の一行の中から<私にとっては>意外な人物との接点があり驚きました。
今日はこの<出会い>を紹介しましょう。
1859年(安政六年)に開港した日本ですが、その後の国内事情はモメにモメます。
最大の事件が「桜田門外の変」です。
時の大老が<浪人>に暗殺されるという事態が起こります。その後、日本全国で「尊王攘夷」の嵐がふきあれます。この流れに沿ったのかどうかは判りませんが時の孝明天皇が1863年(文久三年)に攘夷の命を下します。これが勅命に基づく外国人排除の政治運動「奉勅攘夷」です。5月には下関海峡で長州藩がフライングして外国船を砲撃し、7月には薩英戦争が勃発します。ところがこの<攘夷闘争>も圧倒的な欧州英仏軍の前に惨敗します。外交上は国交を開いているにも関わらず戦争を仕掛けた訳ですから、欧米列強はこれを手がかりに圧力をかけてきます。
特に長州が仕掛けた<下関事件>のツケは結局幕府が負うことになりました。
これが明治になって米国から賠償金が返還され<横浜築港予算>となったのは有名ですね。
外交的にも経済的にも苦境に追いこまれれていた幕府は「奉勅攘夷」の下、
交渉によって<開港場だった横浜を再度閉鎖する交渉>を行うために、外国奉行池田筑後守長発を正使とする使節団を組みます。
1864年2月6日(文久三年十二月二十九日)
池田使節団はフランス軍艦ル・モンジュ号に乗船しフランスに向かいます。
結果は大失敗、糸口すらつかめず帰国し、幕府から処罰されてしまいます。
この一行の中に
蕃書取調出役教授手伝として同乗していた原田吾一(原田 一道)という人物がいました。
wikipediaから
「原田 一道(はらだ いちどう / かづみち)
文政13年8月21日(1830年10月7日)〜明治43年(1910年)12月8日)は、江戸幕府旗本、幕末・明治期の兵学者、日本陸軍軍人。陸軍少将正二位勲一等男爵。」
(中略)「文久3年(1863年)12月、横浜鎖港談判使節外国奉行・池田長発らの遣仏使節団一行に随いて渡欧。兵書の購入に努めるなど、使節団帰朝後も欧州に滞留してオランダ陸軍士官学校に学ぶ。慶応3年(1867年)に帰朝。」とあります。
これには2点誤記があります。
「使節団帰朝後も欧州に滞留して」ではなく
正しくは使節団が帰朝する際の5月にパリで使節団と別れ、彼はオランダのハーグに内田恒次郎を訪ねオランダの陸軍士官学校に留学し兵学を学びます。<池田家文書>
もう一点、原田 一道が帰国したのは慶応二年一月十三日(1866年2月27日)でした。<原田先生記念帖>
明治維新後は兵学のキャリアを活かして陸軍教官となります。
外国留学と語学を買われて岩倉遣欧使節団の幹部「陸軍少将・山田顕義理事官」の随行員として渡欧します。
帰国後は、
陸軍省砲兵局長、東京砲兵工廠長、砲兵工廠提理、砲兵会議議長等を歴任し貴族院議員となり1910年(明治43年)12月に81歳で亡くなります。
この「原田 一道」には二人の息子がいました。
長男 原田豊吉は地質学者となります。
そして次男 直次郎は 「日本近代洋画の礎を築いた男」と呼ばれた洋画家となります。

彼と生涯の親友となった人物がいます。
その名は森鴎外(林太郎)。
原田直次郎は
日本国内で高橋由一の下で絵を学びますが留学していた兄の影響もあり留学を決意します。
兄豊吉は地質学を学ぶためにドイツに留学しオーストリアの地質研究所に所属した後に聞き国し弟の留学先を探します。豊吉が留学の際に友人となった歴史画の巨匠ガブリエル・フォン・マックスを紹介し直次郎はドイツ留学を決めます。
1884年(明治十七年)2月に横浜港からメンザーレ号に乗船し出国します。
直次郎21歳でした。
同じ船には欧州兵制視察団として大山巌、川上操六、桂太郎らが乗船していました。恐らく、当時陸軍少将だった父 原田 一道の<はからい>もあったのではないでしょうか。
この年の8月24日に同じくメンザーレ号に乗船し横浜港を旅立った若き陸軍軍人が森林太郎、当時22歳でした。
二人は二年後の
1886年(明治十九年)3月ドイツで出会います。
これが二人にとって運命の出会いとなります。鴎外の「独逸日記」には
「二十五日。畫工原田直次郎を其藝術學校街Akademimiestrasseの居に訪ふ。直次郎は原田少将の子なり。油畫を善くす。」
出会いは さらっとした感じだったと想像できます。
「日本近代洋画の礎を築いた男」原田直次郎は
1863年10月12日(文久三年八月三十日)〜1899年(明治三十二年)12月26日
36歳の若さで亡くなります。
森林太郎、文豪森鴎外の作品「うたかたの記」のモデルとなったのが原田直次郎です。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/694_23250.html
奇しくも鴎外の下宿の隣人がガブリエル・フォン・マックスでした。(つづく)
金玉均(キム・オッキュン)
今日のテーマは一時期横浜に滞在した金玉均(キム・オッキュン)についてです。
1886年(明治19年)7月26日
「朝鮮の亡命志士金玉均が神奈川県で拘留された」という簡単な記事を元に数日前から資料を読んでいますが、<明治以降の朝鮮と日本>に関しては異論の多いこと。
なので 事実関係を紹介する程度に留めました。ある程度理解した時点で改めてまとめてみたいと思います。
朝鮮、革命の志士「金玉均」は日本との関係が深く四回来日しています。
(最初の来日)
金玉均は1851年2月23日に忠清南道公州市で生まれました。俊英だった彼は22歳で科挙に合格、中堅官僚として近代化を推進するために開化思想に目覚めていきます。
1882年(明治15年)年2月から7月にかけて初来日し大阪に滞在、福沢諭吉ら多くの支援者と出会います。既に朝鮮からは前年の1881年(明治14年)に2名の留学生が慶應義塾で学び、1名が同人社に入学していました。
(二度目)
1882年(明治15年)9月から翌年3月にかけて金玉均は日朝間で締結された済物浦(チェムルポ)条約批准の修信使の顧問として二度目の来日を果たします。この時、彼は横浜正金銀行から17万円の借款を得ます。
(三度目)
1883年(明治16年)6月、金玉均は国王の国債委任状を携え、日本での三百万円の借款を得ようとして来日します。
残念ながら借款には失敗し翌年の5月に失意の帰国となります。
(四度目)
1884年(明治17年)12月4日に 金玉均ら数名は日本公使館も加わりクーデター(甲申事変)を起こしますが清国の介入で失敗。井上角五郎らによって日本に亡命(密航)します。<亡命中>日本政府冷遇の中、玄洋社の頭山満ら多くの支援者に出会うことになります。
https://kotobank.jp/word/甲申政変-261601
クーデターに失敗した金玉均は本国の刺客にも狙われ、日本国内の支援者を頼ながら亡命生活を送ります。
1886年(明治19年)に入り日本国政府は、冷遇はしていましたが、庇護状態していた彼の存在が外交上の<お荷物>という評価に変わり対応が大きく変わり始めます。
6月2日 警視総監命で国外退去を口頭で伝えます。
6月4日 東京にいた金玉均は列車で横浜に向かい
この頃、まだ治外法権だった横浜居留地のグランドホテルに滞在します。
6月9日 内務大臣であった山県有朋は書面でグランドホテルの金玉均に対し退去命令を執行するように要請します。
6月12日 神奈川県令から本人に退去命令が令達されますが、本人は“国外退去の金が無い”という理由で拒否します。
そして
7月26日
<国外不退去>の金玉均をグランドホテルより拘致、野毛山(伊勢山?)の三井別荘に連行、強制抑留します。
(その後)
勾留した金玉均を日本政府は”国外追放“できませんでした。
井上馨外務大臣は山県内相に「内地ヨリ隔然セル小笠原嶋二送置」を要請し、
8月8日に身柄を神奈川県から東京府に移します。
その後 事実上の<島流し>である小笠原に送られ保護観察となった金玉均はしばらく小笠原で生活し、その間日本の友人が彼の元を訪れています。
しかし気候風土が合わなかったのか 体調を崩し 北海道に転送されます。
明治23年に北海道から<内地>で暮らすことを認められ、国内で多くの支援者と交流します。
明治27年周囲の制止を振り切り上海に渡りますが 暗殺されその生涯を終えます。
(最初の亡命者)
当時の日本政府にとって金玉均の取り扱いは<初めての政治亡命受入>だったそうです。
この時に彼を支援した福沢諭吉をはじめ、大アジア主義者と呼ばれた玄洋社の頭山満、孫文や蒋介石を支援した宮崎滔天らの行動が脈々と民間の手で受け継がれ、孫文やボーズの支援に繋がっていきます。
※孫文の初期日本滞在<横浜時代1897年〜1907年>を支えたのも華僑や民間の日本人でしたね。
甲乙2種の記念絵葉書(アーカイブ再掲)
1909年(明治42年)6月28日(月)
「横浜開港50年史」上下2巻ならびに甲乙2種の記念絵葉書を発行する。(横浜商工会議所百年史)」
「横浜商業会議所発行」
※上記絵葉書は記念絵葉書の一部です。
この他
★「開港五十年記念博覧会の開会式が挙行された(横浜歴史年表)」
★「開港記念史料展覧会が万国橋内でひらかれた(横浜歴史年表)」
★「開港記念史料展覧会税関新埋立地で開催(〜7月5日)(総合年表)」
★「五十年祭に参列の英艦マンモウス号入港(総合年表)」
と開港記念日前にプレイベント的に様々な催しが行われます。
メインイベントは
1909年(明治42年)7月1日(木)に式典が行われました。
有名な話ですが、昭和3年まで開港記念日は7月1日に行われ、
その後
6月2日に変更され現在に至っています。
No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更
この日に合わせて「井伊直弼像」の開幕式を元彦根藩のメンバー他、薩長土肥の藩閥政治に不満をもつ人達の手で挙行する計画でしたが<時の政府>には中止命令を受けます。
横浜の商業会議所(後の商工会議所)発行の絵葉書にはしっかり井伊直弼像がペリーと一緒に描かれていますから、横浜は薩長土肥出身者とは一線を画していたのかもしれません。
※「横浜開港50年史」上下2巻は
近代デジタルライブラリーでダウンロードできます。
http://kindai.ndl.go.jp
(風景を読みとく)
明治から大正にかけて 世界は絵葉書の時代でした。日本も年に<億>単位の絵葉書が国内外に流通し市民メディアとして多くの状況を伝えました。
ある時代の重要な映像資料となりますが、<複製>も多く、正確な年代推定が難しい資料であることもありつい最近まで<歴史資料>としては中々認知されませんでした。
その浜で、「横濱絵葉書」は火災・震災・戦争・接収等を経て街の風景がめまぐるしく変化していることもあり、<時代資料>としての絵葉書研究が早くから行われてきました。
この商業会議所発行の「開港五十年記念絵葉書」、
写された<税関桟橋>の時代推定に重要な判定基準となってきます。
絵葉書に見る<税関桟橋>の変遷は別立てで 紹介します。
【ミニミニ今日の横浜】3月5日
タイムリーなネタから
1854年(嘉永7年3月5日)
「吉田松陰、海外渡航を狙って保土ケ谷宿にくる。」
数え年・25歳の時のことです。
ペリーが来航した際、一年後の再来を予告し去りますが、
半年も早くペリーは
1854年2月13日(嘉永7年1月16日)
琉球を経由して再び浦賀に来航し幕府を慌てさせます。その後も次々と艦船が江戸湾に入港、
3月19日(嘉永7年2月21日)
最終的に総勢9隻のペリー艦隊が江戸湾に集結します。
この時 ペリーに直接会う!と決めた人物が吉田松蔭です。足軽の金子重之輔と二人で、まず東海道の「保土ケ谷宿」に入り、そこから横濱に入ります。(おそらく 保土ケ谷道から戸部に出た?)
ところが横濱では沖のペリー艦隊に近づくことが実行できず失敗。
ペリーが下田に移動したことを知り、伊豆に向かった松蔭らは海岸につないであった漁民の小舟を盗み艦船に向かい旗艦ポーハタン号に乗船、渡航を直訴しますが拒否され、断念。幕府の命で萩の野山獄に幽囚されることになります。下田踏海事件というそうです。
これを美談とするのか、愚行とするのか? 意見が別れるところです。
No.65 3月5日 サルビアホール一周年(改訂)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=554
今日は 短く 失礼します。
(第685話)明治4年、象の鼻 晴天なり。
江戸時代に生まれ、激動の幕末に頭角を現した総勢107名の日本人が
明治4年11月12日(1871年12月23日)横浜港を出航しました。
彼ら目的は色々ありましたが、多くの同行者は欧米の実情を知ることでした。
「岩倉使節団」のメンバーです。
この国は理想と現実、欲望と信義が落ち着かないまま明治という全く新しい体制に突入します。
革命か政権委譲か?コップの中の嵐を、欧米列強の外交官達は固唾をのんで眺めていました。
明治維新は、
不思議なほどの静かで力強いエネルギーによって始まります。明治新政府は日本の近代化は幕末生まれの若者と、優秀な徳川時代の元官僚が支えられることで大きな混乱なく誕生します。
しかし、大政は奉還されましたが、その先のことは全く白紙状態でした。この国がどうなるのか、どうしていくのか、朝から深夜まで合意と同意の議論が連日続きます。
未熟な維新のリーダー達は皆苛立っていました。派閥抗争も表面化します。
260年続いた徳川政権、武士による連合国家に近い政権がいとも簡単に覆ります。
そして維新後 矢継ぎ早の大変革でこの国の近代化が始まります。
版籍奉還と廃藩置県の実施によって全国の諸藩を一気に解散させ中央集権型に移行させます。
制度の変革には成功しますがここに登場する若き明治のリーダー達は、青臭く原則論者で血気盛んな者達でした。
この若き維新の志士たちに強いショックを与えたのが岩倉具視が率いる「米欧回覧使節団」俗にいう「岩倉使節団」です。
1871年(明治4年7月14日)に、制度による大革命「廃藩置県」を行ったその年の暮、
明治4年11月12日(1871年12月23日)「岩倉使節団」は横浜を出発します。
総勢107名
幹部の多くが20代から30代、最長老の岩倉自身も43才という若者集団でした。
同行した者達がその後の各界をリードする人物となっていきます。
この外交団の記録『特命全権大使米欧回覧実記』を著した人物が久米 邦武です。
彼の記述は、日本史上希有の見聞録として、国際社会でも高く評価されています。
■米欧使節団の主なメンバー
岩倉 具視 1825年10月26日生まれ 43才→正使
由利 公正 1829年12月6日生まれ 39才→随行
大久保 利通 1830年9月26日生まれ 38才→副使
田辺 太一 1831年10月21日生まれ 37才→一等書記官
木戸 孝允 / 桂 小五郎 1833年8月11日生まれ 35才→副使
東久世 通禧 1834年1月1日生まれ 34才→神奈川府知事
三條實美 1837年3月13日生まれ 31才→太政大臣
大隈 重信 1838年3月11日生まれ 30才
山口 尚芳 1839年6月21日生まれ 29才→副使
久米 邦武 1839年8月19日生まれ 29才→公式記録者
名村 泰蔵 1840年11月24日生まれ 28才
何 礼之 1840年8月10日生まれ 28才→一等書記官
伊藤 博文 1841年10月16日生まれ 27才→副使
福地 源一郎 1841年5月13日生まれ 27才→一等書記官
沖 守固 1841年8月13日生まれ 27才→初代神奈川県知事
中山 信彬 1842年11月17日生まれ 26才
長野桂次郎(立石斧次郎) 1843年10月9日 25才
新島 襄 1843年2月12日生まれ 25才→留学生
山田 顕義 1844年11月18日生まれ 24才
川路寛堂 1845年1月28日生まれ 23才→三等書記官
田中 不二麿 1845年7月16日生まれ 23才
安藤 太郎 1846年5月3日生まれ 22才→幕末、横浜で英語を学ぶ
中江 兆民 1847年12月8日生まれ 21才→留学生
小松 済治 1848年生まれ 20才→横浜地方裁判所長
渡辺 洪基 1848年1月28日生まれ 20才→両毛鉄道社長
林 董 1850年4月11日生まれ 18才→二等書記官
川路 利良※ 1834年6月17日生まれ 34才→司法省の西欧視察団
鶴田皓※ 1836年2月12日生まれ 32才→司法省の西欧視察団
井上 毅※ 1844年2月6日生まれ 24才→司法省の西欧視察団
※明治5年派遣の司法省西欧視察団メンバー
この岩倉使節団の出発光景を描いたのが「岩倉大使欧米派遣」という作品です。山口蓬春が1934年(昭和9年)に描いたものです。
この一枚の絵画 初期の横浜港を語る上で、興味深い画像ですが意外に知られていないようです。
(つづく)次回は『特命全権大使米欧回覧実記』を元に横浜港の出発風景を探ってみます。
(第686話)明治4年、象の鼻 晴天なり。(後編)
横浜の寺島
前回「尾崎良三」について紹介しました。
ここに登場した寺島 宗則は、幕末維新の超優秀官僚ベスト3に入ると私は考えています。
ここでは、彼の天才ぶりに触れながら幾度となく訪れた寺島の“横濱”物語を紹介ましょう。
寺島 宗則(てらしま むねのり)
あまり彼の名は激動の幕末維新史の中で、比較的地味な存在かも知れません。鹿児島薩摩出身の寺島は現在の阿久根市に生まれ幼く藩医の松木家の養子となり蘭学を始めます。15歳で江戸遊学を認められ蘭学を学びその才能を発揮します。
http://kotobank.jp/word/寺島宗則
寺島が仕事先として横浜に赴任したのは1859年(安政6年)開港直前でした。大量の外国人との交渉ごとに対応するために全国の藩から人材を集めた中に“寺島”も一員として神奈川運上所に赴任することになります。
このとき、寺島宗則28歳、多くの関係者が直面した英語ショックに遭います。横浜開港場に押寄せる多くの米英人の話す“英語”の前にこれまで必死に学んできた“蘭語”が全く役に立たないことを実感します。
このときの様子を同僚だった福地源一郎は「横浜の運上所は何事も皆手初にて上下恰も鼎の沸くが如く、盂蘭盆と大晦日が同時に落合たる状況にて頗る混雑を極めたり」と記録しているように、日々激務だったようです。
福沢諭吉が横浜居留地でオランダ語が通じないことを実感したように多くの幕末の知識層が英語の必要性を「居留地 横濱」で感じ取ります。
ここからが 天才・秀才それぞれに外国語習得の個性を発揮します。横浜勤務の間に文久の遣欧使節団に加わるチャンスが訪れます。さらに海外渡航の準備をしている間に結婚の話がもたらされます。新婚生活は二ヶ月足らずしか無く、渡航しなければなりませんでしたが、寺島にとって至福の横浜生活が始まります。
結婚するまでは居留地の農家の一寓に仮住まいしたり、江戸の仮住まいに暮らすなど落ち着きませんでしたが、所帯を持つということで、江戸本郷三丁目に新居を持ちます。妻の名は茂登(もと)、侍医の曾昌啓(そうしょうけい)の長女です。
妻の茂登(もと)には妹天留(てる)が居り、天留が結婚した相手が寺島の同郷薩摩の有島武(ありしまたけし)です。明治維新後大蔵省租税寮に勤め横浜税関長、国債局長、関税局長など財務官僚として活躍後、実業界で活躍します。
有島の息子が作家の有島武郎、里見弴そして芸術家の有島生馬です。
※作家、有島武郎の息子が黒沢の「羅生門」溝口の「雨月物語 」他に出演した俳優の森雅之です。
寺島は、文久遣欧使節の総勢38名の一員として約一年の欧州旅行に出かけます。
この時に同行したメンバーには、福地源一郎、福沢諭吉、森山栄之助らが通訳として同行し、この旅の知見が後の明治時代に大きな影響力をもたらします。
この時、多くの同行者が仏蘭西の雅さに圧倒され賛美しますが、福沢と寺島は英国の倫敦に強い関心と衝撃を受け、その後の建国思想に大きな影響を与えます。
欧州から戻り、時代は一気に幕末の争乱時代に突入します。寺島宗則もこの波乱の時代に巻き込まれ、生麦事件がきっかけで起こった「薩英戦争」では敗北を知ると盟友五代友厚と二人で“自発的に捕虜”になり鹿児島から英国艦船で横浜まで行き、神奈川奉行時代に旧知の仲となった米国人ヴァン=リードを頼って上陸ししばし隠れ住むことにします。薩摩藩から逃げる中、刻々と変わる情勢に薩摩藩に戻ることを許された寺島は、語学力を認められ薩摩藩遣英使節団の一行19名の一人として“国禁”を破り英国に留学することになります。英国で寺島は
自由貿易と近代外交の実務を当時の英国政府が目指した小国主義的自由経済を目の当たりにしてきます。
寺島の吸収し理解した政治観について紹介するスペースはありませんが、少なくとも後に日本が歩んだ“富国強兵”“皇国史観”とは一線を画していたことは紹介しておきます。
帰国後まもなく薩摩藩江戸高輪藩邸詰めとなった寺島は、
慶応2年7月から精力的にしかも頻繁に横濱に通い英国公使パークスと様々な折衝を行います。その壮絶ともいえる倒幕に転換した薩摩藩支援交渉は三ヶ月にも及び、ここに強い信頼と絆が醸成されます。
時代は急転直下、大政奉還から明治維新となり綱渡りのような政権委譲が行われます。内政にも外交にも多数の問題を抱えたままの新政府移行でした。
当時、殆どの主要外国公使館は横浜に集中し、その事務にあたる「横浜裁判所」が諸外国との重要な折衝窓口となります。
No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日
建前上「横浜裁判所」総督は東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)に決まりますが、実務に強い官僚がいませんでした。副総督にも大隈重信、睦奥宗光らが名を連ねていましたが、維新体制の確立のために殆ど横浜に来ることが不可能な状況で、居留地の諸外国関係者からクレームが殺到する事態に陥ります。
そこで 矢面にたったのが外交折衝力のある
寺島宗則でした。
彼は優秀なスタッフを数人引き連れ、“いやいや”横浜裁判所勤務となります。他にやりたいことがたくさんあったのでしょう、依頼があったときかなり抵抗しますが勝手知ったる横浜に着任します。
この時寺島37歳、働き盛りです。まずは野毛の旅館「修文館」の逗留し落着き先の住まいを横浜の豪農「吉田勘兵衛」宅に決め最初の仕事を始めます。
No.321 11月16日(金)吉田くんちの勘兵衛さん(加筆)
「横浜裁判所」は「神奈川裁判所」に、その後「神奈川府」「神奈川県」とめまぐるしく変わる中、弁天社近くに官舎も整備されそこに移り住み、いやいやながらも?精力的に開港場の案件を解決していきます。
行政組織が未整備の中
国政としての外交、
居留地他県内全般の地方行政一般事務に至るまでを管轄するという異例な役職に謀殺されます。
横浜時代のトピックスは幾つかありますが
最も寺島宗則らしい 即決力として評価できるのが
「電信事業」の推進です。
寺島はいち早く“ブレゲ指字電信機(モールス信号ではなく針で文字を指す方式)”を事後承諾で購入します。政府の了解を得た後、当時燈台技師として横浜の都市計画を担当していたリチャード・ヘンリー・ブラントン(Richard Henry Brunton)に相談し、英国から電信技師ジョージ・M・ギルバート(George M. Gilbert)を招聘し
1869年(明治2年)に横浜燈台役所と横浜裁判所の間に電信回線を敷設し通信実験を成功させます。成功を確認すると寺島は同年中に、横濱・東京間での電信による電報の取り扱い事業を開始します。寺島は「電信の父」とも呼ばれています。
No.26 1月26日 横浜東京間電信通信ビジネス開始
その後、明治政府は電信網の整備に力を入れ、横濱・東京間の電報の取り扱いが開始されてから数年で全国に電信網が張り巡らされます。
皮肉にも、同郷の西郷隆盛が起こした877年(明治10年)の西南戦争においても大いに活用され政府軍の勝利に貢献します。
<電話交換業務も横浜から始まりました>
寺島の情報インフラに対する理解の早さは 既に幕末に鹿児島で「ガス灯」「写真」「電信」の実験体験を率先して行っていることからも理解できます。
この「ガス灯」「写真」「電信」三つとも横浜で事業化されているというのも不思議な因縁といえるでしょう。
その後、寺島宗則は東京勤務となった後もしばらく横浜から通いつめますが
最終的には 東京築地木挽町に転居します。内政からもっぱら外交担当として海外と日本を往復することもしばしばあり、
都度 横浜港から出立し 横浜港に戻ってくることになります。
そんな折、たまたま英国公使を辞して帰国する際、倫敦留学から木戸の要請で帰国してきた10歳年下の学生 尾崎三良(おざき さぶろう)が、横浜港の入国手続きを嘆いたのが
「番外編」10月17日こら!ちゃんと仕事せい!
この時に見た横浜港は、何度も帰港している寺島にとって若き尾崎が憤慨している様を懐かしくも微笑ましく眺めていたのかもしれません。
【2月16日】ヨコハマグランドホテル解散
このブログは 2013年に書いたものからお気に入り、
加筆が欲しいものを「過去ネタ」としてアップしているものです。
1927年(昭和2年)2月16日、関東大震災で倒壊・焼失した「The Grand Hotel Yokohama」が再建を断念し会社を解散しました。明治から大正期に横濱の高級ホテルとして輝いた「The Grand Hotel Yokohama」は震災をきっかけにその栄光の歴史に幕を下ろします。
この「The Grand Hotel Yokohama」エピソードを中心に紹介します。
「The Grand Hotel Yokohama」の創業に関わった人物の一人が写真家として有名なベアトです。
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/univj/list.php?req=1&target=Beato
フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)
http://ja.wikipedia.org/wiki/フェリーチェ・ベアト
1870年(明治3年)夏にベアトが購入した英国公使館跡地の建物を(グリーン夫人が)石造りのホテルとして開業しましたが上手くいきませんでした。(写真家は財力があったんですね)
場所は海岸通20番地エリア、フランス波止場(西波止場とも)近くです。(マップ参照)
現在の人形の家近辺です。(フランス山もすぐ近くです)
※ちなみに横浜には開港時三つの港がありました。元町よりのフランス波止場、現在の大桟橋エリアのイギリス波止場、そして万国橋エリアの日本波止場(上の画像マップからは外れています)です。
立ち行かなくなったホテルは
再度ベアトが資金調達し1873年(明治6年)に改装オープンします。
その後、1889年(明治22年)に個人経営から法人化(株式会社)し翌年の明治23年にフランス人の建築家サルダ(Sarda,Paul)設計により、隣接の18・19番に新館を増築します。
室数は200余りと横浜を代表する大型ホテルとして
関東大震災で焼失するまで営業していました。
※設計者サルダ(Sarda,Paul)は、指路教会会堂を設計した建築家です。
当時、高級ホテルのノウハウはやはり英仏、特にフランスが持っていました。
ホテルの朝食にもこの伝統が流れています。
コンチネンタルブレックファースト、
ブリティッシュ ブレックファースト(アメリカンブレックファースト)ですね。
海岸通20番地エリアはフランスの支配が強く感じられるエリアでしたので、
フランスの高級ホテルの名を使い(The Grand Hotel)としたのでしょう。
余談ですが、スウェーデンのストックホルムにある世界的にも有名な5つ星「グランドホテル」も
1872年(明治5年)にフランス人の(Jean-François Régis Cadier)によって設立されたホテルです。
関東大震災が無ければ、現在もThe Grand Hotel Yokohamaは営業していたかもしれません。
このグランドホテルを語るときに 忘れてはいけない人物がいます。
1889年(明治22年)支配人として、サンフランシスコから着任したルイス・エッピンガー(Louis Eppinger)です。
※カクテルの紹介でルイス・エッピンガーをバーテンダーと紹介している資料もありますが、手元の資料では支配人と紹介されていますのでここでは支配人としておきます。
エッピンガーは着任2年目の1890年(明治23年)新しい創作カクテルの考案に取り組みます。
彼はカクテルに造詣が深く、アメリカ時代に(1885年頃)ニューヨークで人気を博したカクテル「アドニス」をバーのメニューに加えます。
「アドニス」とはライト・オペラと呼ばれた草創期のミュージカルのタイトルで、ギリシア神話を題材にした女神アフロディーテ(ヴィーナス)と四季の始まりとなった逸話を残すペルセポネの二人に愛された美少年“アドニス”の代表的悲劇をアメリカ流にアレンジしたものです。
このライト・オペラ「アドニス」は1880年代空前のロングランヒットとなります。
ヒット作品には早速新しいカクテルが考案されます。
19世紀まで主流だったブランデーに代わり当時人気のあった手軽で高級感のあるシェリー酒、特にフィノベースのカクテルが作られました。
カクテル「アドニス」
ドライ・シェリー3分の2、
スイート・ベルモット3分の1、
オレンジ・ビターズひと振りをステアして
カクテル・グラスに注いだものです。
食前酒としておすすめです。
この「アドニス」をエッピンガーは横浜版にアレンジしました。
スイート・ベルモットをドライ・ベルモットに変えたのです。
「アドニス」に比べ甘さが抑えられ「竹のように素直でクセがなく、すっきりとした辛口に仕上げられた」ためエッピンガーはこれを「バンブー」と名付けたそうです。
私の珍説(仮説)があります。
「電灯の事業化に成功した」発明王エジソン(1847年2月11日 – 1931年10月18日)は、
1879年(明治12年)に電球の実用化に成功しますが、
そのフィラメントに京都岩清水八幡宮脇の竹林から採取した竹を使います。
http://www.iwashimizu.or.jp/story/edison.php?category=0
その後すぐに新素材が開発されますが、日本の竹フィラメントは驚異的な寿命を実現し、世界にその名が轟きます。
それから約10年経っていますから、Japan Bambooというブランドはアメリカでも日本でも話題になっていたのではないでしょうか。
大西洋を渡った美少年(アドニス)は、アメリカに渡り「竹」を割って生まれた「かぐや姫」に変身して太平洋を渡ったとしたら なんとエキゾチックな物語でしょうか。
(グランドホテル焼失)
関東大震災は、横浜のほとんどの建造物を倒壊、焼失させます。
再建を試みるもの、諦めるものありましたが、
グランドホテルは後者を選びます。
国際ホテルの必要性を感じた横浜市内の財界、市役所の総意で1927年(昭和3年)12月1日現在のニューグランドホテルがオープンします。
敷地は幕末に開設されたフランス海軍病院跡で
ここでもフランスとの因縁があります。
またまた余談ですが、福沢諭吉が横濱から旅立ち
欧州を巡った時、帰路パリで泊まったホテルがグランドホテルです。
No.466 19世紀の「ハゲタカファンド」
長い間外国との交易が制限されていた日本が、
一気に開国へと舵を切ります。
外国事情は皆無ではなく、出島等を通じてかなり幕府関係者も理解していました。
【ミニミニよこはま】No.2 突然外交特区へ
徳川時代を「鎖国」とは最近表現しなくなりました。
ところが、残念ながら経済制度の専門家が通商条約に登場する機会を失い、
徳川政権は、安政の五カ国条約で
通貨権を放棄してしまいます。幕末の最大の失策が行われます。
舞台は開港場の横浜でした。
このあたりに関しては
No.49 2月18日 過去に学ばないものは過ちを繰り返す
で、「ハゲタカファンド」の餌食となった幕末から明治の通貨権の政策ミスを簡単に紹介しました。
ここでは、幕末の翻弄された幕府の通貨政策について紹介します。
通貨の外貨との交換レート
現代日本も「為替レート」に一喜一憂しています。
金融ビジネスで、日本は今帰路にさしかかっています。
TPPは貿易ではなく“関税・金融”のグローバル化が焦点なんです。
「国際化」と「グローバル化」は違います!
話しを戻します。
開港時に発効した各国との通商条約で
幕末のドルショック、列強にとっては“ぬれ手に粟”のゴールドラッシュが訪れます。
徳川時代の貨幣制度は、金貨も銀貨も両方「本位貨幣」である「金銀複本位制」でした。
幕府の貨幣単位は「両・分・朱」といい、1両の四分の一が朱という四進法でした。鎖国でしたから、海外の金銀レートと全く関係なく独立して金銀のレートが決められていました。
開国するにあたって「通商条約」ですから、貿易の通貨レートをしっかり議論し決定しなければならないのですが…
1853年(嘉永6年)にペリーに開国を求められた時、その対応にあたった外国奉行が国政通貨に全く無知だったようです。
(国内にはしっかり通貨に詳しい役人もいたんですが、初期に外国との折衝には参加できませんでした)
1858年(安政4年)6月日米修好通商条約が結ばれます。
この条約の第5条に「外国の諸貨幣は日本貨幣と同種類、同量を以って通用すべし」
※「外国の諸貨幣は日本貨幣同種類の同量を通用すべし金ハ金、銀ハ銀と量目を以比較するをいふ、双方の国人互ニ物価を償ふニ日本と外国との貨幣を用ゆる妨なし日本人外国の貨幣に慣れざハ、開国の後凡壱ケ年の間各港の役所より日本の貨幣を以て亜墨利加人願次第引替渡すへし向後鋳替の為分量割を出すに及はす、日本貨幣は銅銭を除き輸出する事を得、并ニ外国の金銀ハ貨幣に鋳さるとも輸出すべし」
とあり、この条項に基づき、当時事実上の国際通貨として機能していたメキシコ銀を使ったドル貨幣(洋銀)と一分銀の交換比率を1ドル=3分と定めます。
これで日本は
約50万両分=(一両約8万円として400億円)
の金貨を国外に放出し、通貨危機が起ります。
現在ならIFMが乗り出す所ですが、
日本は流出し始めた直後に気がつきますが、すでに遅し!
各国は「条文」を楯に!!!適正レートに応じません。
少しずつ改正し、場当たり的に対応しながら
完全に「通貨権」を回復したのは
なんと 1897年(明治30年)3月までかかりました。
この無謀なレートを交渉で獲得したのが米国総領事タウンゼント・ハリスで、彼も最初、ぼろ儲けしますが 敬虔な聖公会信徒のハリスもさすがに気がとがめたことを日記に残しています。
解りやすく 説明しましょう。まず洋銀で一分銀に換えます。
次に その一分銀で小判に(国内レートで)交換します。
この図で解りますか?
日本の金銀交換率が海外の金銀交換率と大きく異なっていたため為替利益(暴利)を得た訳です。ぐるぐる「洋銀」を交換していくだけで3倍になる訳ですから底なしです。
1860年2月13日(安政7年1月22日)に横浜を出発したポーハタン号に乗った
万延元年遣米使節団は 日米修好通商条約の批准書交換のために米国に向かいましたが、一方で“既に始まっていた金流出の対策として”使節団に天才“小栗忠順”を加え通貨の交換比率の交渉を行います。
小栗は現地で
小判と金貨の分析実験をもとに堂々と日本の主張の正しさを証明しますが、条文を楯に比率の改定までは至りません。
ただこの交渉に関しては、多くのアメリカの新聞が絶賛の記事を掲載しもう少しメディア戦略に長けていたら“米国の正義感”に訴え条約改正が可能だったかもしれません。
(関連ブログ)
No.34 2月3日ポサドニック号事件で咸臨丸発進