7月 13

第847話 1945年(昭和20年)7月13日「海芝浦駅」空爆

1945年(昭和20年)7月13日、
戦争も末期となったこの日
連日実施されていた米軍による空襲が鶴見エリアにも行われました。
京浜運河に沿った工場群が目標となり東芝鶴見工場も被曝します。20396_1016499725060798_44193696028520643_n

「土砂降りの雨の中を午前零時ごろから二時ごろまで、川崎市を主目標とした
B29五十機が、高度二千メートル以下の低空で侵入、鶴見区内でも百発以上の爆弾を投下、岸谷では五十余名の死傷者を出し、安善の日本石油が全焼、東京ガスのタンクにも直撃弾、末広町の旭硝子、日本鋼管が損害を受け、鶴見発電所も被害があった。生麦・潮田・旭町の爆弾の穴は直径二十メートルもあり、人々を恐怖に陥れた。(鶴見区史)」
この時、東芝鶴見工場の一角には捕虜収容所の東京第14分所(旧第11派遣所)がありました。空襲によって宿舎が直撃を受け捕虜が28人死亡、16人負傷、負傷者の2人は後日死亡します。
「国内の捕虜収容所の組織はたびたび改編され、大戦期間中に開設された本所・分所・派遣所・分遣所などは約130ケ所に及ぶ。その一方、途中で閉鎖されるものもあり、終戦時においては7ヶ所の本所の傘下に、分所81ケ所、分遣所3ケ所があり、合計32,418人の捕虜が収容されていた。そして、終戦までに約3,500人が死亡している。(笹本妙子)」
(その後)
東芝工場内の収容所が空襲によって破壊された後、ここに収容されていた捕虜たちは鶴見区末広町1ー12ー4にあった第3派遣所に数日滞在し、その後<総持寺>前の施設に移され終戦を迎えます。
GHQはここでの30人の捕虜の死亡に対し、
軍当局が収容所を工場地帯に残すことを許した結果と判断します。ただ、ここに捕虜収容所があったことを米軍も認識しており、低空投下でも誤爆の可能性も高かった悲劇といえるでしょう。ここに労働力を確保するために捕虜収容所を設けた<日本>と無差別に近い爆撃を行った<米国>共に、戦争末期のヒステリックな措置であったことは間違いありません。11742779_1016499518394152_2219478854530783594_n ◆横浜市内の捕虜収容所
東芝鶴見
日清製粉鶴見航空機
日本鋼管鶴見造船
大阪造船鶴見
日本鋼管鶴見造船
日本鋼管浅野ドック横浜
日清製油横浜
三菱造船横浜
横浜船舶荷役
横浜対価レンガ
(大船海軍)他
上記のように、工場の集中していた鶴見エリアは捕虜収容所も集中していました。隣接する川崎を合わせると15か所にも及ぶ捕虜施設が設置されました。

(出口のない改札)
横浜市内にある鉄道の<駅>の中で、マニアに人気の不思議な駅があります。
ここに紹介した東芝鶴見工場のある鶴見線海芝浦駅(うみしばうらえき)です。
1940年(昭和15年)11月1日に開設した「海芝浦駅」は一般乗客が改札を出ることができません。駅構内の敷地を含め、隣接する東芝京浜事業所の敷地内にあり改札は東芝関係者しか利用できないからです。11039104_1016499238394180_2853717237091536787_n
ただ
ここには、「海芝浦駅」に隣接して一般開放された「海芝公園」が設置されています。公園管理運営は東芝京浜事業所が行っています。開園時間は9時〜20時30分で、一度駅を(改札とは別)出て、園内に入るようになっています。11693844_1016499385060832_1281891388955046405_n 11695737_1016499455060825_7531981560549839583_n 11698598_1016499431727494_899603435215712311_n

(過去の7月13日ブログ)
No.195 7月13日(金)BRAVE HEARTS
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=412
海上保安官の「仙崎大輔」を主人公にした超人気漫画「海猿」の映画第4作が 2012年7月13日(金)の今日、ロードショー公開されました。

Category: 横浜の駅, JR鶴見線, 横浜事件簿, 横浜絵葉書 | 第847話 1945年(昭和20年)7月13日「海芝浦駅」空爆 はコメントを受け付けていません
8月 18

No.464 昭和5年頃の横浜

よく歴史書や教科書では、時代区分をします。
横浜史を区分する際、
最大の分岐点が「開港場」ができる幕末期です。
開港から一世紀半の歴史で、
横浜は幾つもの試練の時期がありました。
横浜近代史の中で、今回は震災復興期の昭和初期に注目してみました。

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復興ビジョンが絵はがきになっています。

中でも昭和3年から5年頃の横浜の姿をざくっと追ってみます。
※詳細もいずれまとめて発表する機会があると思います。

(鉄道の時代)
横浜の鉄道網が充実したのが昭和期です。
神中鉄道、東横線、京浜電気鉄道、湘南電気鉄道
そして横浜市電がレール網を最も充実させた時代です。

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1926年(大正15年)
 東京横浜電鉄が丸子多摩川駅(現・多摩川駅)〜神奈川駅間を開業します。
 神中鉄道が星川駅(現上星川駅)〜厚木駅間を開業します。
 鶴見臨港鉄道が浜川崎駅 – 弁天橋駅間を開業します。
昭和に入り
1927年(昭和2年)
 神中鉄道が北程ヶ谷駅(現・星川駅)まで延伸します。
 市電浅間町車庫開設。
1928年(昭和3年)
 東横線が神奈川駅〜高島駅(後の高島町駅)間を開業します。
 ※神奈川駅が横浜駅として移転します。 
 鶴見臨港鉄道が浜川崎駅〜扇町駅間を開業します。
 市営バスが開業します。(生麦車庫・麦田車庫完成)
1929年(昭和4年)
 神中鉄道が北程ヶ谷駅(現・星川駅)から西横浜駅まで延伸します。
1930年(昭和5年)
 京浜電気鉄道が高輪駅〜横浜駅間を開業します。
 ※「京浜電気鉄道 横浜駅は、現在の臨海セミナー等予備校が並ぶあたりです)
 一方、
 湘南電気鉄道が黄金町駅〜浦賀駅間、金沢八景駅〜湘南逗子駅間で営業を開始します。
 鶴見臨港鉄道も全線電化し、鶴見仮停車場〜弁天橋駅間を延伸開業します。
1931年(昭和6年)
 神中鉄道が西横浜駅〜平沼橋駅間を開業し
 湘南電気鉄道も桜木町接続を目指し日ノ出町駅まで延伸しますが、
 京浜電気鉄道がゲージの違いを乗り越え
  日ノ出町駅まで延伸された湘南電気鉄道と接続します。
1933年(昭和8年)12月27日にようやく神中鉄道が横浜駅に乗り入れます。
◇市電の時代
ここでは詳細を掲示しませんが、昭和初期に市電網の大半が開業します。横浜市内のアクセス網が一気に整備されます。
ちょうどこの頃、横浜市は周辺町村を合併し市域も一気に拡大します。
1927年(昭和2年)第3次市域拡張

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 ■久良岐郡
 屏風浦村、大岡川村、日下村
 ■橘樹郡
 鶴見町、城郷村、大綱村、旭村、保土ケ谷町
 ■都筑郡西谷村を編入します。
 ※区制が施行され
  市域が5区に分けられます。
  横浜最初の5区が誕生します。
   ※鶴見区、神奈川区、中区、保土ケ谷区、磯子区
1936年(昭和11年)第4次市域拡張
1937年(昭和12年)第5次市域拡張
1939年(昭和14年)第6次市域拡張

(復興事業)
震災復興でインフラが整備されていくに伴い 民間のビル建設ラッシュが起ります。住宅政策では「同潤会アパート」が作られていきます。
 例えば 1930年(昭和5年)の建造物は
都南ビル(旧都南貯蓄銀行本店)(静岡中央銀行)
No.352 12月17日(月)市民の財布を守った都南
ジャパンエキスプレスビル
同潤会アパート 多数
No.376 1月10日(木)中島敦のいた街

横浜競馬場一等観覧席遺構
インペリアルビル
No11 1月11日(水) KAAT開場

綜通横浜ビル
横浜地方裁判所・簡易裁判所
No.50 2月19日 横浜地裁で注目の公判

ベーリックホール
No.167 6月15日(金) 自然、単純、直裁、正直、経済的

東(あずま)隧道
松屋横浜支店
No.30 1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
※氷川丸もこの年に横浜船渠株式会社で竣工しました。
1930年(昭和5年)は震災復興事業の一つ「公園整備計画」の「神奈川公園」と「神奈川会館」の開園式が行われた年です。
 No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶

(御大典記念)
昭和天皇の即位の礼・大嘗祭が1928年(昭和3年)11月6日に行われました。昭和天皇即位を祝い、全国で様々な形で祝賀が行われます。
その一環として記念碑、記念造営が行われます。横浜市内にも多くの御大典記念に関係する記念碑等が残されています。
■芝生浅間神社では、1928年(昭和3年)御大典記念事業として社殿が御造営されます。
■横浜市立市場小学校では1928年(昭和3年)御大典記念として校旗を作成します。
■伊勢山皇大神宮の太鼓場(?)は1928年(昭和3年)に御大典記念として建設されます。


(観艦式)
横浜港で昭和に入り集中的に「観艦式」が開催されます。
No.285 10月11日(木)武装セル芸術
日本の観艦式は明治元年に始まり戦前は18回実施されました。
第一回は大阪天保山沖で行われ、以降“横浜沖”が最も多く9回、次いで6回“神戸沖”で実施されました。
昭和期になり観艦式は6回、内4回が横浜沖で実施されます。

1927年(昭和2年)10月30日、横浜沖。
1928年(昭和3年)12月4日、横浜沖。
1930年(昭和5年)10月26日、神戸沖。
1933年(昭和8年)8月25日、横浜沖。
1936年(昭和11年)10月29日、神戸沖
1940年(昭和15年)10月11日、横浜沖。


(磯子八幡神社)
1930年(昭和5年)磯子八幡橋近くにある「八幡神社」にある御大典記念碑が建立されます。


御大典記念
正三位 勲二等 有吉忠一
この記念碑は、碑の上部に鉄の玉が飾られています。

文献や近所の方の話しでは
“昭和の代になり、5年6月には、御大典記念碑が建ちました”。
“漁師の人たちが奉納した大きなブイ(浮標)が石塔の上にのせられています”
「機雷の外側という話もあります」
ここに名が出ている有吉忠一氏はちょうどこの記念碑が作られる直前の1930年(昭和5年)4月11日に市長として貴族院議員に勅撰されます。
その祝いも兼ねたのでしょう。
裏側にはこの記念碑建立に関わった方々の名が掘られています。
禅馬鉄工所、當所 伊達鉄鋼所
おそらく この鉄球を作った所と推理すると
「機雷」ではなく「ブイ」が妥当なのではないでしょうか。
あくまで推論ですが
 観艦式には 数多くの「ブイ」が必要とされるので、その製造を地元の鉄工所が請け負い、その御礼も含めここに奉納したのではないでしょうか。

(この時代)
昭和初期の横浜は、震災から立ち上がりつつある中
昭和恐慌、急激な円安デフレのまっただ中にありました。
復興資金として借り受けた米国債の支払いに苦慮します。
こんな時に
1929年(昭和4年)8月19日
飛行船ツェッペリン伯爵号が 急遽計画を変更して
横浜上空に現れます。

かたくなに進路変更を拒んだ「ツェッペリン伯爵号」がなぜ?
横浜を上空から視察したのか?世界の(特に米国の)メディアを乗せたこの
飛行船の目的は 何だったのでしょう。
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命

7月 31

No.459 夏休み特集横浜鉄道ネタです?!

日本初の鉄道は横浜(現桜木町)から汐留(現品川)まで
全営業距離29.0kmから始まりました。
このブログで きちっと“はじめて鉄道”ネタ紹介していませんでした。
今日は 横浜はじめて鉄道ネタをちょっと紹介します。

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■初めての鉄道!開業日は6月?10月?
「鉄道記念日」は10月14日
1872年10月14日(明治5年9月12日)新橋駅〜横浜駅間開通
に因んでいます。
ところが
実際に開業したのは 4ヶ月前の
1872年6月12日(水)(旧暦明治5年5月7日)です。
仮運転???でも無かったのですが 記念日を開業日にしなかった
珍しい例の一つかもしれません。
このへんの事情は少し下記で紹介!
No.164 6月12日(火) JR JR

開業早々に“駅売り”を始めたのは スコットランド人のジョン・レディ・ブラックだそうです。

■開業時の運賃は?
上等が1円12銭5厘
中等が75銭
下等が37銭5厘でした。
※下等運賃の37銭5厘は当時の米1斗(約15kg)と同じ金額(鉄道歴史展示室資料)
(Wiki)では「下等運賃でも米が5升半(約10kg)買えるほど高額なものであった」とありますから少し異なります。
(朝日新聞資料では)明治5年白米10kgで36銭とあります。
まあ高額であることは間違いありません。
※開業前に値下げ!
1872年4月12日(明治5年3月5日)開業2ヶ月前に
品川駅〜横浜駅間の運賃を
「上等1円50銭、中等1円、下等50銭」と決定しますが、
最終的に「新橋駅〜横浜駅間」が
上等1円12銭5厘、中等75銭、下等37銭5厘ですから
値下げされたことになります。

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■鉄道開業のお初は横浜ですが
「新橋駅〜横浜駅間」開業後、
全国で創業ラッシュとなります。
特に手軽な路面電気鉄道は明治期に
ざくっと数えて約50社も開業します。

横浜では「横浜電気鉄道」(後の市電)が明治37年7月15日に
神奈川〜大江橋間の運転を開始します。
「神奈川駅」は現在の青木橋
「大江橋駅」は桜木町駅前です。
第2期線として
 「大江橋」〜「西の橋」現在の元町入口近辺が着工されます。
最終的に
明治45年までに
横浜電気鉄道網は「税関線・住吉町線・本牧線・羽衣町線・滝頭線」等が開通します。
※横浜電気鉄道はその後大正10年4月に横浜市営となります。
 市営になり、昭和に入り黄金の市電時代が始まります。

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明治期の横浜電気鉄道網(推測)

■その他の鉄道は
 上記紹介の「新橋駅〜横浜駅」開業後
 ●1887年(明治20年)
 国鉄横浜駅〜程ヶ谷駅〜国府津駅間が延伸開業(横浜駅でスイッチバック)。
 ●1905年(明治38年)
 私鉄では京浜電気鉄道(後の京浜急行)が
 品川(現・北品川)〜神奈川間開通します。
 ●1908年(明治41年)
 東神奈川駅〜八王子駅間(現在の横浜線)が開業します。

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(大正・昭和初期)

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戦前期、横浜の鉄道網は神中鉄道(相鉄線)と湘南電気鉄道と京浜電気鉄道が
日ノ出町でジョイントされ、京浜急行として横浜エリアを縦断します。

No.88 3月28日 京浜湘南電鉄連結地点
現在の鶴見線も昭和初期に整備されます。

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今日は紹介できませんが、昭和初期鶴見線ができる頃 川崎に一大計画があったんですね!!後日お楽しみに!!

1月 22

No.385 【横浜界隈鉄道編】横浜の駅

今日は、横浜市内の駅を簡単に紹介しましょう。
1990年から折々に市内全線全駅巡りをし、2008年に市内全駅前に降り立つことを踏破しました。
中からお気に入りの駅を幾つか紹介していきますが、
その前に 全駅概況を。

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(日本一の横浜駅)
横浜駅は、記憶に従えば日本一路線が乗入れている駅です。
意外じゃありませんか?
 ○東急東横線
 ○相模鉄道線
 ○京浜急行電鉄線
 ○横浜市営地下鉄ブルーライン線
 ○横浜高速鉄道みなとみらい線
 ○JR東海道本線
 ○JR根岸線
 ○JR京浜東北線
 ○JR横須賀線

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以上6社9路線乗入れ規模は他のターミナル駅ではありません。
新宿駅が微妙なところですが5社8路線、東日本旅客鉄道(JR東日本)・京王電鉄・小田急電鉄・東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)が乗入れています。地下では離れて西武新宿駅があります。
wikiでも
「2012年現在一つの駅に乗り入れる鉄道事業者数としては日本最多となっている。」とあります。

(市内の駅の数)
全路線をカウントすると
168駅ありました。
「横浜駅」のような複数路線乗入れのターミナル駅をまとめてカウントすると、
153駅となります。
※市内全線全駅踏破は、勿論全事業路線の改札を出る!ということでカウントしています。
(ただし、センター北・南、横浜駅のようにシームレスな路線は別です)

(市内の路線)
市内を走る路線は21あります。
事業会社でカウントすると9社です。
■こどもの国線(全線)→横浜高速鉄道・東京急行
■相鉄いずみ野線→相模鉄道
■横須賀線→JR東
■横浜高速鉄道みなとみらい線→横浜高速鉄道
■横浜市営地下鉄グリーンライン(全線)→横浜市
■横浜市営地下鉄ブルーライン(湘南台駅以外全線)→横浜市
■横浜新都市交通金沢シーサイド線→横浜新都市交通
■横浜線→JR東
■海芝浦支線→JR東
■京浜急行電鉄→京急
■京浜東北線→JR東
■根岸線→JR東
■逗子線→京急
■相模鉄道(相鉄)
■鶴見線→JR東
■田園都市線→東京急行
■東横線→東京急行
■東海道新幹線→JR東海
■東海道本線→JR東
■南武線→JR東
■目黒線→東京急行

南武線? の駅が横浜市内にある!
「矢向駅」です。
地図上は横浜市内なので実際行ってきました。

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昔はここに住所があったそうです
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駅前ロータリーに木があるのは懐かしい感じがします

隣の尻手駅はプラットフォームを避けるように川崎市内です。
妙に不自然です。この辺の市域確定について調べてみたいものです。

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同じホーム<市またぎ> では「大船駅」も横浜市に乗っかっていますが
所在地は鎌倉市です。(鎌倉市大船1丁目)
「笠間口」は横浜市栄区笠間一丁目にあります。

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(駅数ランク)
事業会社別市内駅数ランク
第一位は当然、横浜市営地下鉄ブルーライン 31駅
第二位は、京浜急行本線の 23駅※
第三位は、横浜新都市交通金沢シーサイド線の14駅です。
以下 相鉄本線(13駅)、根岸線(11駅)、横浜市営地下鉄グリーンライン(10駅)、横浜線・東横線(9駅)といった順です。
※京急の横浜市内駅数23は、京急全体から見ても多いのではないでしょうか。

(オタク系ランキング)
もうすでに鉄男君系ですが、さらにマニアックなランクを。
横浜市内で路線がまとまって見えるる地点は?
5路線がまとまっていますが さてどのあたりでしょうか?
写真に撮ってあります。この開かず踏切は無くなりました。
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手前から鶴見線、京浜東北線、東海道線、JR貨物線、京浜急行線

(余談編)
横浜市内で戦後廃止された路線があります。さてどこでしょう。
(市電を除きます)
答:ドリームランド線
廃止になりかかったこどもの国線もありますが…

1月 21

No.383 【生麦界隈】横浜史を生麦で体験

約5日間、諸事情で原稿アップを休んでいました。
再スタートします。今日は、この5日間の成果を報告がてら
生麦界隈の散策レポートを贈ります。

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今回は食が中心です?!

横浜市鶴見区生麦(なまむぎ)
横浜市の東海岸?に位置し、東海道の街道沿いに工場と住宅地が連なるエリアです。この界隈、一日ぶらり散策には最高です。
お勧めします!
過去にも紹介していますのでぜひお読み下さい。
【番外編】生麦、旧東海道を歩く

No.234 8月21日(火)パーセプションギャップの悲劇

■今回改めて歩いたルート

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別の地域再発見プログラムに参加しました。(ここでは省略)
このあたりは、かつての「浜」のなごりを追体験できるエリアです。

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■みどころ紹介
鶴見川河口干潟「貝殻浜」
所在地は鶴見区生麦5丁目地先です。
貝殻の川辺が自然公園として保全されています。
※「まちなみ景観部門」で受賞しています。
狭い“猫の額ほど”の保全公園です。
だからこそかつての川の面影が輝いて見えます。
横浜市北東部唯一の干潟で、多くの生き物が生息する貴重な場所です。
一級河川鶴見川の生麦周辺築堤工事の際に、多くの人々が川にふれられるよう、河口干潟を残しました。
この「貝殻浜」が整備されたのは2006年(平成18年)のことです。
第5回横浜・人・まち・デザイン賞で、「まちなみ景観部門」を受賞しました。

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※賢いカモメ
この辺のカモメは人に慣れています。エサをあげる人が多いのでしょう。
足元にある貝殻を空中に撒くと多くのカモメが集まってきますが、皆「様子見」です。判っているようです。

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■まぼろしの橋発見!
鶴見ユタカ橋
竣工は昭和8年1月で数年後に暴風雨で破壊され、再建されませんでした。つい最近まで橋脚を確認できたそうです。

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地元の方の話しでは 有料の橋だったとのこと。
現在のサイエンスフロンティア高校あたりと生麦の「貝殻浜」を結んでいたと推測されます。
昭和4年の地図には当然ですがありません。

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■生麦魚河岸通に行きましょう。
江戸時代の頃は
横浜沖を広く漁場とする漁港だった「生麦」は
明治以降、埋立ての歴史に翻弄されながらも
このエリアで多く水揚げされたノリ・貝・魚の専門店街が残りました。
「生麦魚河岸通」です。

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かつては貝殻の多く混じった砂利道でした。
県内全域から「寿司や」「小料理や」がここにネタ探しに訪れました。
流通の変化で 県央の客筋の激減
チェーン展開による集中仕入で激減した寿司店の仕入れがなくなります。
現在では
かろうじて魚河岸通の雰囲気を残している程度です。
再生は(少なくとも生き残る)最後のチャンスかも知れません。

この短い通りを「生麦貝食貝道」とでもネーミングし
賑わいを取り戻したいものです。
そのためにも!!!
皆さん 足を運んでください。

■納得丼を食べよう

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納得丼(貝とまぐろ)
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若大将
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おかみさん

唯一残った朝飯食堂「生麦」
朝8時半から営業しています。(午後1時から休憩)
夕方5時から夜の部!です。(今度行きますね)
横浜市鶴見区生麦5丁目23-9
045-501-0467
刺身定食、生麦丼、納得丼他多数メニューがあります。
とにかく みそ汁が 美味いの一言。
このみそ汁をいただくことに価値ありです。

ごちそうさまでした。

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6月 25

No.177 6月25日(月) 出られない出口

JR鶴見線が最近ローカル線として注目を浴びています。
特に海芝浦支線は「出ることのできない駅」「公園のある駅」として有名な「海芝浦駅」があることで、全国の鉄道ファンが訪れています。
この「海芝浦」の走る鶴見線は1904年(明治37年)6月25日(土)の今日、芝浦製作所として独立した(後に株式会社東芝)横浜事業所専用鉄道でした。

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ホームの出口が 事業所の玄関です。
(芝浦製作所の歴史)

株式会社芝浦製作所は1875年(明治8年)に「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれ活躍した日本の発明家、田中久重(1799-1881)が設立した諸機械製造工場「田中製造所」に始まります。
当初経営が上手く運ばず
1893年(明治26年)三井家が継承し三井鉱山の資本下に入っていましたが経営も軌道にのり
1904年(明治37年)6月25日(土)に芝浦製作所となり、三井鉱山から独立したのです。発足時は資本金100万円だったそうです。
その後1939年(昭14年)に東京電気と合併し、東京芝浦電気(東芝)となりました。
芝浦製作所の名は、東京芝浦の地名から命名されたものです。

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(京浜事業所)
鶴見線名物駅「海芝浦」ですが、もともと芝浦製作所の敷地内に専用貨物線として一つ手前の「新芝浦」まで作られた軌道で、1932年(昭和7年)に鶴見臨港鉄道が買収し開業したことに始まります。

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※鶴見臨港エリアは明治大正の実業家の手で作られた工業地帯です。
 安田善次郎(安善駅)、浅野総一郎(浅野駅)、小野信行(鶴見小野)、白石元治郎(武蔵白石)等々
 人名由縁の駅名が連なっています。

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1940年(昭和15年)に工場の拡大等で利用客の増加も見込まれることから新芝浦駅、海芝浦駅間 (0.8km) が旅客線として延伸し、「海芝浦」11月1日に開業しました。
元々、従業員専用で改札から「事業所」になりますので、
現在も関係者以外 出ることができません。
一応出ることは可能ですが目の前に「守衛室」がありますので、
一般客がアポ無しに通過することはできませんのでご注意下さい。
駅ですから
「海芝浦」駅に降立つことはできます。
事業所に用事のある一般の方は
一つ手前の「新芝浦駅」から「正門」を通過することになっています。
この「海芝浦駅」は従業員専用改札といえるでしょう。
※改札はどうするの?
 電子共通乗車カード用の端末が(構内に)設置されています。
 タッチしなくても折り返し電車には乗れますが、タッチ精算するのが
 ルール!です。

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隣接するつるみ「ふれーゆ」おすすめ!

(絶景)
この駅は「海芝浦」の名にふさわしく
海に面しているというか“海の上”の駅のようです。

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目の前に京浜運河が広がり、近年ブームの工場萌絵!にも最適な観光スポットとなっているようです。
おすすめは、夕暮れ日没前の水面に陽が反射する時間帯です。
終点「海芝浦」駅を“形式的”に出て絶好ポイント海芝公園で次の電車を待つのがここの過ごし方です。

(海芝公園)
「海芝公園」は海芝浦駅に隣接する東芝が管理運営している私設公園です。
2006年(平成18年)に横浜市と恊働事業として「京浜の森づくり末広地区協働緑化宣言」に沿ってこの海芝公園の拡張整備が行われ、素敵な海洋公園となっています。

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入園は無料ですが釣りはできません。
開園時間は凡そ事業所の営業時間に沿って9時から20時30分までです。
※元旦のみ初日の出を拝む客のために始発電車の到着時に開園するそうです。(未体験)
1月20日 鶴見線「73型電車サヨナラ運転」

2月 21

No.52 2月21日 東洋一の遊園地(加筆修正)

京浜急行線に「花月園駅」があります。
2010年までは競輪場がありました。
この「花月園」の名は東洋一の遊園地の名から来ました。
1914年(大正3年)に平岡廣高氏が開業し、
関東大震災を挟み18年間個人営業を続けましたが、個人経営の限界を迎え
1932年(昭和7年)の今日、新生「株式会社花月園」がスタートしました。

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鶴見花月園は数多くのエピソードを持つ横浜黄金時代の証です。
戦前の横浜がいかにベンチャー都市として成功していたかを物語る最高の事例がこの「花月園」でしょう。

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昭和30年代競輪場のころ
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昭和初期

横浜は関東大震災、戦災、進駐軍接収という三重苦を乗り越えてきましたが、その荒波の中「花月園」のような“横浜発の先取の文化”が消え去って行きました。
東洋一の遊園地「花月園」は公称10万坪(7万坪程度)の敷地に、
大観覧車(愛称はベティさん)、屋内スケートリンク、動物園、大ダンスホール、園内の鉄道、プールといった当時としては最大級、最新鋭の遊戯施設が設置されました。
フランスのフォンテンブローにあった遊園地をモデルにしたと云われています。
京浜電気鉄道(現在の京浜急行)はこの遊園地のために駅を建設しました。
「桃は西の岡山 東の綱島」と呼ばれたように『西の宝塚・東の花月園』と呼ばれました。
大成功すれば競合が現れるのは市場の原理です。
あらかわ遊園、谷津遊園、多摩川園、野毛山公園など遊園地が続出します。
しかも個人経営でした。

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近所に競合『三笠園』が確認できます。

次第にその勢いは衰えて行きます。
最終的には沿線に集客装置が欲しかった京浜電鉄と大日本麦酒が資本を出し株式会社化し経営を刷新します。放漫経営でも無く、破綻でもありませんでした。円満に経営譲渡が行われ、新生花月園が2月21日オープンします。
この劇的なエピソードが詰まった一冊が「鶴見花月園秘話」です。
この本からエピソードを二つ紹介しましょう。
「六郷渡れば川崎の万年屋、鶴と亀とのよねまんじゅう、こちゃ神奈川急いで保土ヶ谷へ』と『お江戸日本橋』にも唄われた鶴見宿の名物に米粉を使った「よねまんじゅう」がありました。

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明治5年に鉄道の開通し、宿場が廃れ姿を消します。
この「よねまんじゅう」を大正期に復活させたのが「花月園」の平岡廣高でした。
戦後花月園の閉園とともに姿を消しますが、
1982年(昭和57年)に地元菓子組合のもとで復活します。
京急鶴見駅近くの「清月」さんの「よねまんじゅう」を時々買います。
もう一つのエピソードは、
エリアナ・パブロワです。
1927年(昭和2年)鎌倉七里ヶ浜にわが国初のバレエ稽古場を開き、
妹のナテジタ・パブロワと共にクラシック・バレエを本格的に教授し始めたロシア人です。
パブロワ姉妹は、1922年(大正11年)に横浜で創設された露西亜舞踏劇協会の県知事の推薦で「花月園舞踏場」のダンス教師になります。
鎌倉七里ヶ浜のバレエスタジオは
妹ナテジタ・パブロワさんが1982年(昭和57年)に亡くなられるまで使われていました。

■No.161 6月9日(土)  日本、ロシアに勝利!

高校時代、学校の近くに斜面に建つ白亜の屋敷のスタジオに一度だけお邪魔したことがあります。
紆余曲折あり、記念館になった時期もありましたが
現在は関係のない方の個人宅で公開しておりませんので大変貴重な経験でした。

1月 20

No.20 1月20日 鶴見線「73型電車サヨナラ運転」

「オタク」最近では「熱中人」という名の不思議な人たちがいます。私もその一人かもしれません。興味外の者にとって「そこが好き、夢中になる」理由が全く分からなりません。
1980年(昭和55年)の今日
鶴見線「73型電車サヨナラ運転」があり別れを惜しむ多くの「鉄男君」に見送られました。鶴見線自体もかなりマニアックな路線ですが、ここに最後の姿を求めて鉄道ファンが押し寄せました。

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まず鶴見線を紹介しておきましょう。
「鶴見線」普段はまず乗ることの無い路線です。ここ20年は鉄道ファンの人気路線となっていますが、最近では現代アート展が行われたり、廃止となった旧式車両の展示会を行ったりしています。
鶴見線のおすすめは超有名な「国道駅」そして「海芝浦駅」です。国道駅も海芝浦駅も駅ごとに語りだしたら止まらないほどエピソードたっぷりの駅です。
「海芝浦駅」の敷地は元々“東芝”(東京芝浦電気)の私有地で、改札から外には社員、関係者以外降りることができません。それでも一般客(マニア)が絶えないのは、駅構内に海芝浦駅に隣接する私設公園「海芝公園」があるからです。東芝京浜事業所が敷地の一部を使用し、東芝によって「海芝公園」が運営・管理されています。
入園無料、開園時間は9:00〜20:30でここから見る風景はすばらしいので未体験の方は必見でしょう。(特に工場夜景で人気沸騰、夕景もおすすめ)

(海芝公園)
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(海芝浦駅はまさに海の中にある駅のようです)

もともとJR鶴見線は私鉄でした。
「鶴見臨港鉄道株式会社」が経営する路線で戦前、京浜工業地帯の鶴見川崎エリアの工場に貨物や人を運ぶために開かれました。1943年(昭和18年)に戦時買収され、保有する鉄道路線が国有化となり現在に至ります。
その時にこの「鶴見臨港鉄道株式会社」は<鉄道部門>を切り離したまま事業を継続し不動産を中心にした事業で現存しています。
もう一つ、鉄男君系エピソード。
この臨港鉄道の系列会社だった「鶴見川崎臨港バス」は1938年(昭和13年)12月に合併し「川崎鶴見臨港バス」と社名が入れ替わるという面白い社名変更をしました。現在は京急の系列会社になっています。

鶴見線のマップを下記に紹介します。駅名に注目してください。

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(路線図)

「鶴見小野は地元大地主の小野信行、浅野は浅野財閥の創設者で、鶴見臨港鉄道の設立者でもある浅野総一郎、安善は安田財閥の安田善次郎、武蔵白石は日本鋼管(現在のJFEスチール)の白石元治郎、大川は製紙王の大川平三郎から取ったものである。扇町も浅野家の家紋の扇に因む。また、国道15号が近くを走るから「国道」、昭和電工扇町工場が近くにあるから「昭和」、石油精製所の近くにあったことから「石油(後の浜安善)」、曹洞宗の大本山である総持寺の近くにあったことから「本山(廃駅)」など、あまりにそのままな命名がされた例もある。」(wikipedia引用)

若干前置きが長くなりましたが
表題の「73型電車」がなぜファンの心をつかんで離さないのか紹介しましょう。
73型とは“モハ73(後のクモハ73)、中間電動車に改造されたモハ72型”を総称して73型電車といいます。
モハ?クモハ?
鉄道車両には製造番号と型式番号がついています。
これがまたファンにはたまらない。
いろいろ詳しいものがあるがこれが簡単で分かりやすいので
http://asuzuki.la.coocan.jp/hp3/train41/tetumame.htm参照してください。

この73型は戦争直後の旧型通勤電車を代表する型式で、限られた資材と設備の中で最大限に効率的な電車を量産するために設計された車両です。
73型製造のキッカケは1951年(昭和26年)に起きた桜木町事件(4月24日)です。桜木町構内で起った車両火災事故が原因で死者が106名、負傷者96名という多くの犠牲者を出した鉄道事故史に残る大事故となったことと人災でもあったため事件と称されています。
この教訓として急いで改造が行われたのが72系です。
戦後の復興期を代表する車両でした。高度成長が進むに連れて、新規車両が登場します。運ぶ機能から快適を指向し始めます。したがってどんどん廃車になって行きます。
そして、鶴見線で走っていた「最後の車両72型」が消える!
ということで鉄道ファンを集めました。

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(表情がちょっと可愛い、食パンのような窓)

72系引退そして新101系の投入を記念して、鶴見線全線と南武線浜川崎支線が乗降自由となる「鶴見線フリー乗車券」が発売されました。
価格は大人200円・小人100円で、乗車券は発売日当日のみ有効。鶴見駅・浜川崎駅・川崎新町駅・尻手駅で発売されたそうです。
冒頭にも紹介したように
現在鶴見線は昭和を感じる観光路線にもなっています。
日曜日には臨時電車も出ているようなのでレトロ路線の旅、ぜひ一度お試しあれ!

No.177 6月25日(月) 出られない出口