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第877話【時折今日の横浜】3月25日

1929年(昭和4年)の今日
横浜市営交通八十年史の年表に
「神中鉄道と連絡運転開始(連絡駅は社線は西横浜駅、市電は水道道停車場)」

時代は、横浜市の関東大震災復興計画が仕上げの時期に来ている頃です。
横浜の街(関内外特に伊勢佐木あたり)にも“にぎわい”が戻りつつありました。
神奈川の鉄道関係者にとって、昭和初期は苦難と希望の時期に当たります。
この年表にあった「神中鉄道と市電の連絡運転開始」を元に、当時の「西横浜」停留所の意味を考えてみます。
<神中は程ケ谷を目指す>
神中鉄道、現在の相模鉄道にとって「西横浜」停留所開業は重要な意味がありました。神中鉄道は厚木から始まり、当初は国鉄「程ケ谷駅」近くで東海道線につなげる計画で延伸してきたからです。まだ、横浜駅が二代目(高島町)のころです。
1927年(昭和2年)5月に「北程ケ谷(現:星川)」停留所を開業し、さらに国鉄東海道線を目指します。この年、保土ケ谷エリアは念願の横浜市に編入「保土ケ谷区」となり区役所も国鉄保土ヶ谷駅近くに開設します。
いよいよ東海道線との接続を実現するため「西横浜」停留所までの延伸計画を進めますが、震災で甚大な被害を受けた二代目横浜駅が廃止、三代目(現在の場所)となり、東海道線も弓なりだった路線が平沼を抜けほぼ真っすぐ程ケ谷駅と結ぶ新線が1928年(昭和3年)に完成します。
そこで、市電網の充実を復興計画の一環として計画していた横浜市は、神中鉄道「西横浜」開業に伴い、接続駅「水道道」停車場を1929年(昭和4年)3月25日に開業します。
これによって、
関内に竣工した新県庁にもまた市役所にもアクセスが確保できることになります。
1929年(昭和4年)2月14日に開業したこの「西横浜」停留所と3月25日開業の市電「水道道」停車場の<乗り継ぎ接続>は重要なポイントでした。
以降、神中鉄道は計画線を変更し、新しい東海道線に沿って
新しい「横浜駅」を目指します。
(相模鉄道延伸)
現在の相模鉄道の前身神中鉄道、延伸史をまとめてみました。
[厚木]〜大正15年5月12日〜[二俣川]
[二俣川]〜大正15年12月1月〜[星川](現:上星川)
[星川]〜昭和2年5月31日〜[北程ケ谷](現:星川)
[北程ケ谷]〜昭和4年2月14日〜[西横浜]
[西横浜]〜昭和6年10月25日〜[平沼橋]
[平沼橋]〜昭和8年12月27>〜[横浜]
<相鉄の簡単な歴史>
http://sotetsu-kids.jp/sotetsu/rekishi.html

(その他の3月25日)
■1959年(昭和34年)3月25日
「大黒町埋立完工式〔1.33〕(横浜の埋立)」
「大黒町地先埋立工事竣工式(横浜市会の百年)
「大黒町埋立工事竣工式(横浜税関百二十年史)
■1981年(昭和56年)3月25日
「市が開発した水の缶詰発売(横浜市会の百年)」
水の缶詰・・現在も横浜市水道局各営業所で販売(350ml入り50円)しています。
この缶詰は5年間保存可能で、缶入りなので遮光されています。
透明のビニール袋等に入れておくと、保存中に飲み口がほこりなどで汚れることがありません。
http://www.city.yokohama.lg.jp/…/life-inf/mizu/hozonsui.html
応急給水拠点
水道水の缶詰は
横浜市が全国で初めて昭和48年水道水の缶詰に製造計画に着手し
「全国に先がけて、昭和52年に災害備蓄用の保存飲料水として「水の缶詰」を販売しています。(水道局)」
■1989年(平成元年)3月25日
市政100周年・開港130周年記念「横浜博覧会」開幕
<開催期間は1989年(平成元年)3月25日〜10月1日>
開会式は3月24日です。
横浜博覧会関係はこのブログでも3月24日で紹介しています。
No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催

No.431 「みなとみらい」地鎮祭開催


No.191 7月9日(火) 宙に舞う話

No.191 7月9日(火) 宙に舞う話


No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催


「横浜博覧会」開幕と一緒に横浜美術館も開館しています。

(3月25日関係ブログ)
No.85 3月25日 日本の運命を変えた男横浜に入港

No.85 3月25日 日本の運命を変えた男横浜に入港

第855話 1983年(昭和58年)7月21日二俣川

相鉄線「二俣川」駅は 運転免許試験場があることから横浜市民に広く知られています。
ここで相鉄線は<いずみの線>に分かれ「湘南台駅」につながっています。lightP7311095 lightP7311117 旭区役所は相鉄線の一つ横浜より「鶴ヶ峰駅」にありますが、乗降客数は圧倒的にここ「二俣川駅」が多く旭区の中心駅となっています。
今日この駅を取り上げたのは
市内二番目のCATV局「横浜ケーブルビジョン株式会社」が
横浜市旭区二俣川2−91に
1983年(昭和58年)7月21日の今日設立されました。
(開局ラッシュ)
1980年から90年代にかけて横浜市内でも
CATV(Common Antenna TeleVision および Community Antenna TeleVision (共同受信)の略)事業が始まり市内15区に渡って7局が開局します。
最初のCATV局は
◆緑区・青葉区。都筑区エリアに
Tokyu Cable TV「株式会社東急ケーブルテレビジョン」1987年10月開局
※現在はイッツコム-テレビ(1983年3月2日設立)
当時:加入31,500円 月額3,150円
◆旭区と泉区の全域・戸塚区の一部エリアに
YCV「横浜ケーブルビジョン株式会社」1988年4月開局

当時:加入21,000円 月額3,150円
◆南区・磯子区・中区の一部エリアに
Bay Wave 「株式会社横浜テレビ局」1992年10月開局
※現在ジェイコムイースト傘下「J:COM横浜」に

当時:加入52,500円 月額3,150円
◆鶴見区・神奈川区・港北区の一部エリアに1993年10月開局
YOUテレビ「YOUテレビ株式会社」

当時:加入26,250円 月額1,260円
◆金沢区全域エリアに1996年4月開局
TOWN TV Kanazawa「株式会社タウンテレビ金沢」

当時:加入52,500円 月額3,650円
◆戸塚区・栄区エリアに1997年7月開局
タウンティ「株式会社タウンテレビ横浜」

当時:加入51,500円 月額3,675円
◆青葉区の一部エリアに1987年12月開局
OCV小田急ケーブルテレビジョン「株式会社小田急情報サービス」

当時:加入52,500円 月額3,150円
★上記料金には有料チャンネルは含まれていません。

局によって視聴できるチャンネル数も微妙に異なっていました。
「横浜ケーブルビジョン株式会社」は
1988年(昭和63年)4月2日
横浜市旭区エリアで営業放送を開始します。
その後戸塚区の一部エリア、保土ケ谷区、西区にエリアを拡大し、現在は横浜市保土ヶ谷区神戸町134 横浜ビジネスパークに本社があります。創業の地旭区にもさちが丘事業所を残し相鉄沿線の拡充拠点となっています。

(二俣川駅)
1926年(大正15年)5月12日開業の二俣川駅
No.695【横浜路線バスの旅】市民に最も利用されている路線は?
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6079
現在駅ビルの建て替えが始まっています。
将来 相鉄線の東急東横線との接続が計画され、二俣川が拠点駅となっていきます。
湘南台から日吉・渋谷までの連結で、大きく変わっていく可能性を秘めています。
※慶應義塾の湘南台、日吉、三田を!
文教大学の湘南、旗の台、越谷、石川台を結んでくれ!
って要望が強かったんですかね??

No.203 7月21日 (土)エーゲ海に捧ぐ
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=404
最近何かと話題のギリシアですが、
日本とギリシャの間にはいくつかの姉妹都市があります。その中で、姉妹提携のある横浜の街が大倉山商店街です。
1988年(昭和63)7月21日の今日、「エーゲ海フェスティバル」が開催され姉妹提携が行われました。

第845話 1987年(昭和62年)7月10日横浜駅「京急西口通路」完成

私は都度、目標を決めて達成する“横浜コンプリート”を楽しんでいます。
その達成メニューの一つが<市内の鉄道全駅に降り立つ>ことです。横浜図版 横浜市内には135の駅があり、21の路線、8つの会社(市営含む)があります。市内全駅踏破は最初から意図したわけではありません。90年代の後半に仕事で市内18の区役所を訪問する機会があり、鉄道機関を使ったことがキッカケです。
<無人駅>から9路線が乗り入れる<大ターミナル>までそれぞれの駅に不思議な味わいがあります。
135の駅に降り立った後は、それぞれの駅の<歴史>というと大げさですが、生い立ちに関心が出てきました。
駅を語りだすと「横浜駅」だけでも話題が尽きません。
いずれ市内全駅の紹介をしたいので、今日の横浜駅はゴクゴク手短なブログとします。
1987年(昭和62年)7月10日の今日
横浜駅「京急西口通路」(地下)が完成という記事を発見。
「京急西口通路」って 何処かご存知ですか?
京浜急行のホームと<西口・相鉄線方面>を結ぶ連絡地下通路です。
恐らく乗換に利用する人以外この地下通路は知られていない“迷路”ではないでしょうか。
“迷路”とはいささか失礼な表現かもしれません。
かつて横浜駅は、東西を繋ぐ自由通路が限られていて大変不便でした。(現在もわかりにくい)
横浜駅は、jRを囲むように東に京浜急行、西に相模鉄道、地下に東急・みなとみらい線(かつては西側)が乗り入れています。相模鉄道線から京急に、東急線から京浜急行への乗り換えは<至難の技?>でした。(現在もかなり大変です)light1974年1974年(昭和49年)

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     上図は1979年発行の横浜駅近辺マップ
1980年(昭和56年)11月20日に東西自由通路が全面開通し連絡こ線橋が撤去されます。
私はこの京急こ線橋を利用していなかったので殆ど記憶がありません。
東京寄りの今も残されている<跨線橋>は頻繁に利用していました。
「京急西口通路」を示すマップは無いか?

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1996年の駅周辺詳細図に点線で示してありました。この「京急西口通路」は<横浜駅みなみ通路>が完成した現在も一部がそのまま活用されています。


それにしても、横浜駅は工事していない時期があったのでしょうか?と言いたくなるくらい工事中駅です。
今日はさらっと小さなネタで失礼します。

(過去の7月10日ブログ)
No.192 7月10日(火)もう一つの大岡川
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=415
都市には必ず川の歴史があり氾濫と治水の歴史でもあります。
1976年(昭和51年)7月10日(土)の今日は、大岡川治水工事の一貫として着工した「大岡川分水路」(全長3,640m)の部分通水(笹下川から根岸湾まで)を開始した日です。

【横浜の橋】№11宮崎の橋(帷子川)

宮崎橋空撮 橋には色々種類がある。
一般的なイメージは河川に架かる道路の橋、 人専用なら人道橋、 鉄道橋梁、 そして鉄道を跨ぐ跨線橋、や道路を跨ぐ跨道橋(陸橋)などがある。 このような色々な道路がほぼ一箇所に集中している場所がある。<だからなに?>
スクリーンショット 2016-04-25 21.59.17
なんだが、高速道路などが絡む場所では珍しいことではない。
ただ小さな川の小さな橋のあるところで<橋Gallery化>しているのは結構珍しい。
「宮崎橋」「宮崎橋人道橋」「宮崎跨線橋」「第三帷子川橋梁」(+地下道)が本日の紹介する橋だ。場所は横浜市保土ケ谷区仏向町、相鉄線和田町と上星川駅の中間にあたる。
位置を帷子川を中心にして説明する。
帷子川左岸に国道16号線が平行して走り、すぐに丘陵が迫っている。一方右岸は旧道とわずかだが平地が続き、このあたりは野毛山から続く水道道の役割も果たしている明治からの道だ。 国道16号には「宮崎橋入口」という交差点名が掲示されている。lightP4220178保土ヶ谷中学前すぐ横にあるバス停名は「保土ケ谷中学校前」そこにはサブタイトルとして「仏向杉山社入口」とある。 歴史に準ずると、鎌倉街道から川を渡る神社への橋があり、相鉄線の橋が架かり、橋の架け替えに伴い人道橋ができ、その後しばらくしてから大規模な跨線橋と歩行者用の相鉄線を潜る地下道が完成し念願の渋滞解消が実現した。

この宮崎橋近辺は帷子川と相鉄線の和田町一号踏切があり昔から大渋滞の場所だった。昭和38年上星川 私は地元民ではなく車での通過客だったので地元にとっては迷惑千万の一台だったかもしれないが、とにかくこの辺りは渋滞が激しくイライラした記憶がある。
国道1号線から16号に合流する車両と、帷子川左岸から右岸エリアに向かう車がぶつかり合うポイントで、相鉄線の開かずの踏切が加わり身動きできないほどの渋滞地となっていた。 ここに帷子川と相鉄線と小さな道路をまとめて越える<跨線橋>を作る計画が持ち上がったが、予定地には仏向杉山社があり大変だったようだ。
冒頭にも<橋Gallery化>と表現したように、この辺りはとにかく構造が複雑になっている。
苦肉の策で現状となった?のかどうかは判らないが、かなりの強引な跨線橋作りであったことは現地を見れば明らかなので橋梁や道路設計に関心のある人は見学の価値あり??かも。
(歴史資産だらけ)
□和田村道橋改修碑lightP4220165 国道16号線は近世の重要な海道<八王子街道>をほぼトレースしている。古道時代は曲がりくねっていた箇所を地元の村民達が改修し、街道が次第に整備されていく。その改修碑が16号に沿ってひっそり建っている。
『村地先の難路を、江戸の住人桜井茂左衛門が資金を提供し、村民および隣村川島村民の協力を得て改修し、あわせて道筋に橋を架けて往来の難儀を救いました。本碑は、この工事の由来を記したものです。碑高は103cm、碑幅34.5cm、碑厚21cm。建立は元文2年(1737)11月。道筋改修の経緯を知る上で貴重な碑です。』
□仏向町の石塔(仏向杉山社跡)
ちょうど宮崎跨線橋が帷子川右岸側に降りるあたりにはかつて丑寅の方位に向かう「仏向町杉山社」があったがこの跨線橋工事のために遷座することになった。lightP4220075元杉山社跡 平成5年8月のことだ。 その神社跡地の角が交差点となり敷地の一部が仏向町町内会の「ふれあい広場」となっている。
この角に三つの「石塔」が設置されている。 三つの石塔は神社跡地に残った(残した?)もので
(1)「観音庚申塔」
寛保2年(1742)11月造立。庚申信仰の石仏で舟形をしているのが特徴。
(2)「斎上地神塔」
文化9年(1812)8月造立。角塔浮彫形
(3)「出羽三山供養塔」
安政2年(1855)8月造立。

□正福院
かつての「宮崎橋」を渡り、まず杉山社が右手にあり、少し軸がずれ寺への参道が続く。
参道を進み、山門をくぐると 正面に樹齢300年と言われている二本の大銀杏の木が高々とそびえている。曹洞宗仏向山「正福院」だ。lightP4220054正福院正門 lightP4220058正福院の大銀杏 『新編武蔵風土記稿』によると、
「出家の身は他に志願なし、唯、常に仏に向かうこそ桑門の本意とするところなれば、寺の山号およびその村里にも『仏向』の二字をもって名付け賜るべしとの願いにより、かく名付けられしとぞ」スクリーンショット 2016-04-25 21.55.17 と仏向の名について記されている。
□「宮崎跨線橋」
1993年(平成5年)に杉山社が遷座されてから6年、 1999年(平成11年)3月にようやく立体交差化「宮崎跨線橋」が完成する。 その後、どの程度混雑が緩和されたかは定かではないが、2016年に現地に立った時にはあまり渋滞は感じなかった。 この事業には踏切解消の目的もあり、歩行者用の「地下道」も新設、跨線橋の周囲が親水ゾーンとして整備されたが現在はシャッタアウトされた状態になっている。 実に勿体無い。lightP4220134跨線橋下 lightP4220141跨線橋下

【横浜雑学録】昭和21年地形図の謎

横浜関係の資料をこの数年収集しています。
歴史資料としては古書・絵葉書そして地図です。
現在手元に横浜エリアの地形図が何枚かありますが、
改めて 整理したところ 些細なことですが 気がついたことがありますので紹介します。
昭和21年発行の5万分1図名:「横浜よこはま」を8枚持っています。
一見して全て同じ地形図なので特に注目しなかったのですが、
中に表記の異なるものがあり 再確認することにしました。
発行年月まで同じで発行日と価格が異なるものが見つかったのです。
「国土地理院」によると
5万分1図名:「横浜よこはま」の昭和21年版について情報があります。
light_国土地理院「横浜」一覧リストでは昭和7年測量二修正版で昭和21年8月31日発行。
ところが「昭和7年測量二修正版昭和21年発行」でありながら
内容の異なるものが5種類もありました。
light_3円50銭 light_30日10円 light_30日15円その1
昭和21年8月30日発行 「地理調査所」版 定価10円と15円
その2
昭和21年8月31日発行 「内務省地理調査所」版 定価2円と3円50銭
その3
昭和21年8月31日発行 「地理調査所」版 3円50銭
注意書きにも微妙な違いがあるようです。
また地図右肩にある区分指定にも違いが!?
<発行所>
発行所は「内務省地理調査所」「地理調査所」の二種類
内務省地理調査所は終戦2週間後の1945年(昭和20年)9月1日付けで文民組織である内務省地理調査所が新たに発足し、1948年(昭和23年)1月1日に建設院(建設省)地理調査所となり1960年(昭和35年)7月1日に国土地理院となります。
※発行の月日が8月30日と8月31日の二種類あります。
<価格>
定価2円・3円50銭・10円・15円
次に改訂版が発行された昭和26年版までの5年間に組織や経済環境が急激に変化していることがこのデータからも読み取ることができます。
物価推移から調べてみると
昭和21年から昭和26年までの間に
(山手線初乗り)
20銭→50銭→3円→5円→10円
(鉛筆1本)
50銭→2円→5円→10円
(白米<農政米>価格)
36円→150円→357円→405円→445円→620円
1946年(昭和21年)2月に新円切替が行われました。
light_右肩境界確定 light_右肩境界未確定<区分>
神奈川県武蔵国・相模国
鶴見区・神奈川区の境界未定
地図本体の中身に違い! は?
鶴見区と神奈川区は1927年(昭和2年)10月1日に区制施行により横浜市に編入されますが、昭和期に急速に拡大した埋立て地の境界が未確定の時期の原図を使ったものだと推測できます。light_WV050027境界

この地図の元となったのが
<昭和7年測量二修正版>とあります。以降発行された
昭和21年まで戦争直前から戦中を経て、戦後最初の発行となったものが今回謎多き地形図です。
この昭和21年版、内容は昭和7年時点のままの部分が多数あります。細部まで確認していませんが、顕著な例は
鉄道路線の延伸時期です。
light_横浜駅関内駅あたり神中鉄道が横浜駅まで乗り入れていませんので1933年(昭和8年)以前、
湘南電気鉄道と京浜電気鉄道の<連結前>の図であることも昭和初期の時点ということが推測できます。
その他は?
根気強くエリアをチェックしますか    。

No.695【横浜路線バスの旅】市民に最も利用されている路線は?

最近、路線バスに少しハマっています。
市内で最も広く・多くの市民に愛用、利用されている路線バスはどこだろう?と考えました。
私の直感的推理では<旭23系統>と考えています。
乗降者総数では他にナンバーワン路線があると思いますが“広く・多くの市民に愛用、利用”となるとこの<旭23系統>でしょう。
理由は至ってシンプルで「運転試験場」と「がんセンター」があるからです。
<旭23系統>=二俣川駅〜運転試験場〜二俣川駅の循環バスです。

神奈川県警察運転免許試験場、多くの利用者には「二俣」または「二俣川」で通じるでしょう。
light_運転試験場 light_運転試験場入口二俣川運転免許試験場、1963(昭和38)年10月に開設していらい半世紀50年が経っていることになります。
https://www.police.pref.kanagawa.jp/mes/mes83001.htm
統計からアバウト計算すると、神奈川県の年間免許交付数が約97,000人(平成24年度)ですから半世紀で人口変動や書き換え等の利用者も加味し約500万人位?
内横浜市民が人口比から200万人位の利用かな?
冒頭にも書きましたが
人数は別にして、市内全域から市民が利用するバス路線はここしか無い!
と思っているのですがどうでしょう。

「運転免許試験場」のある横浜市旭区中尾周辺は<旭区神奈川県>
と呼んでも良いくらい県有地と県関係の施設が集中しています。

行政用語でいう「広域利用圏をもつ公共施設」が多く立地しています。
このエリアの県有地は総面積で約26.7haもあるそうです。
●神奈川県立産業技術短期大学校
●神奈川県立二俣川看護福祉高等学校
●神奈川県立よこはま看護専門学校
●神奈川県立公文書館
●神奈川県国際研修センター
●県立保健福祉大学実践教育センター
●神奈川県立がんセンター
●がんセンターあゆみ園
●神奈川県ライトセンター
●県立がんセンター医療従事者公舎
●災害救助用備蓄物 資保管倉庫
●公益財団法人神奈川県少年少女育成指導協会
※日本ボーイスカウト神奈川連盟事務局
※公益社団法人ガールスカウト神奈川県連盟
※一般社団法人神奈川県子ども会連合会事務局
■県職員二俣川アパート

ざくっと探しただけですのでこの他にもあるかもしれませんが、行政機関集中地区です。ここへの利用者も加味すると、<旭23系統>は広範囲の利用率が高い路線バスといえるのではないでしょうか?
その割にといってはなんですが、バス利用が不便ですね。二俣川ライフ(駅ビル)の一階にバスターミナルがありますが、初めての方にはちょっと探しにくい場所ですね。
light_運命の分かれ道駅ビルの途中で この案内指示を見逃すと彷徨ってしまいます!!!!
light_二俣川かい札改札には大きく掲示されていますが?出て見ると 一瞬わからなくなります。

この「二俣川駅」
開業は神中鉄道時代の1926年(大正15年)5月12日と古く、交通の要衝でもあったため歴史的にも面白いエリアです。現在は相鉄いずみの線との分岐点です。

神奈川県施設集中の中で地味ですが気になっていたのが
「神奈川県ライトセンター(指定管理者:日本赤十字社)」です。
http://www.kanagawalc.org

light_神奈川県ライトセンターここでいう“ライト”が視覚障害福祉のための“ひかり”を表すものだったとは知りませんでした。
「ライトセンターは神奈川県内の視覚障害福祉の向上のために、日本赤十字社の基本理念である「人道」「公平」を掲げ視覚障害の皆様のために、視覚障害援助ボランティアの皆様のために、積極的に業務を行わせていただいています。」
「神奈川県ライトセンター」は県内の視覚障害者に対して、「点字・録音図書」などの情報提供や各種相談・指導を行っている施設です。
さらに視覚障害者へのボランティア活動を志す人達の育成・指導なども行ってるそうです。設立は1974年(昭和49年)4月、運営は日本赤十字社が指定管理者として行っています。この神奈川県ライトセンターの特徴の一つが“視覚障害者を対象とした点字図書館と体育館・プール等の利用施設機能を併設したセンター”で他県には例がないと言われています。
現在の建物は1993年(平成8年)10月に竣工し現在に至っています。
(バリアフリー商店街)
もう一つ「二俣川銀座商店街」は90年代に「地域と人にやさしい躍動感あふれる街づくり」をコンセプトに、高齢者や障害者にもやさしい街づくりを推進し別名”フラット通り”商店街としていち早くスタートしましたが、完全にバリアフリー化まで達していません。これは商店街の責任ではありませんが、せっかくパイオニアとして”フラット通り”商店街を推進したのですから、ライトセンターとコラボし もっとやさしい街づくりを推進して欲しいですね。
light_二俣01※バスはまだまだ 高齢者や障害者には厳しい乗り物です。
ベストは<低床車両>ですがこれに関しては抜本的計画が必要になってきますね。
(南口再開発)
二俣川駅というのは何気なく利用していますが、断崖絶壁中腹に線路があるって感じの駅です。
駅南口は改札を出て登り!
駅北口は改札を出て降り。
南側には「グリーングリーン」というショッピングビルがありましたが、2014年9月に閉店し、目下再開発が始まるところです。
light_二俣川南口light_201411140066新線計画も進んでいるところですので もう少し伸びるか?
注目しておきたい駅です。
路線バス<旭23系統>から少し離れましたが、追々市内路線バスも紹介していきます。

No.475 点・線遊び「足利尊氏からフェリスまで」

今日は、点と線を結ぶ“遊び”をします。
つなぐのは 足利尊氏と横浜ゴムとフェリスの秀才です。
この三つのキーワードにどのような関係があるか、
おわかりですか?

近年足利尊氏像では無い説が有力
■歴史認識
 日本史で足利尊氏ほど戦前と戦後で評価が変わった人物はいないでしょう。
 時代は14世紀、第96代後醍醐天皇と対立して足利政権を樹立し、
 史上最大の逆賊とも
 史上屈指の有徳の英雄とも評されました。
 現在の研究では尊氏の人間的側面や、人間関係の分析がかなり深く行われ新しい人物像が描き出されているようです。
 (横浜と足利氏)
 栃木県足利市は、尊氏の「足利家」に因んだ名前です。では“横浜”との関係は?
 彼の簡単な伝記を読む限りではトピックスとなるような「横浜」との関係はありませんでした。ところが、
 足利尊氏関連の日本史を調べている時、彼の時代=中世ではなく“近代史”で横浜が浮上してきました。
 足利尊氏が“国賊”とされていた戦前に彼を再評価しようとした人物が横浜にいたのです。歴史で習う「南北朝」の歴史認識は明治時代に入り、「南朝正統・尊氏逆臣」という「皇国史観」に反する考えや研究、発言が抑圧されるようになります。
 1934年(昭和9年)にいわゆる「足利尊氏論」が起こり当時の斎藤実内閣商工大臣だった「中島 久万吉」が辞任します。
 ※中島久万吉が、13年前に(会員向け)同人誌に発表した論文「足利尊氏論」が月刊誌『現代』に採録されたことが、衆議院で取り上げられ紛糾します。
 中島大臣の論文内容は、足利尊氏を賛美する内容でそれが国粋主義者たちを刺激します。
 この中島久万吉、横浜を舞台に実業家として活躍した人物です。
 彼は大手メーカー古河グループの中核となる 「古河電気工業」と「横浜ゴム」を創業し、昭和に入り政界入りします。
 
 ■平沼育ち
 横浜ゴム関係は幾つかこのブログでも紹介しています。
 横浜ゴム株式会社は、横浜で誕生した「横濱電線製造」が成長し古河グループ(古河電工)の一員となります。このお膳立てをした実業家が中島 久万吉です。
 電線とタイヤの原材料のゴムは“絶縁体”として密接な関係があります。古河電工は銅線を、横濱電線製造はその銅線に絶縁加工し「電線」を製造しました。
 この横浜電線製造を起こした横浜の“発明王”が山田与七です。
 山田は高島町に山田電線製造所を作り成功します。
  中小起業から脱却するために横浜商人の木村利右衛門、原富太郎らの出資を得て横浜電線株式会社を作り 一回り大きい製造会社となります。この時に次世代電線製造に必要だったのがゴムでした。
 「銅線」製造部門が古河鉱業(古河電工)になり、
 「ゴム」製造部門が「横浜ゴム」となって
 現在の日本の基幹産業となります。
 
 No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王(加筆修正)

No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?

■浜流しになった父信行
この古河の立役者、中島 久万吉、1873年(明治6年)横浜に生まれます。
父は中島信行、母は陸奥宗光の妹“初穂”で、久万吉を生んだ後体調を崩し1877年(明治10年)に若くして亡くなります。
父の信行は土佐勤王党→長州藩の遊撃隊→坂本龍馬の海援隊→陸援隊に参加した幕末の強者の一人で大暴れし、明治になっても波乱の人生を送ります。
新島襄との出会いでクリスチャンとなり新政府の幹部として活躍しますが、自由民権運動に板垣退助とともに参加し、政府批判を強めます。
優秀だった中島はこの間、任官し外国官権判事や兵庫県判事、神奈川県令を務めますが、
戦前の大悪法の一つ「保安条例」によって
横浜に追放されます。
よこはまついほう?
現在の感覚では信じられませんが、自由民権運動を弾圧するためできた“にわか”法律です。秘密の集会・結社を禁じ内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れがあるとされた自由民権派の多くが
<東京ところ払い!>
皇居から3里(約11.8km)以外に退去させられます。

尾崎行雄、星亨、林有造、中江兆民 そして中島信行と後妻となった中島湘煙夫婦も1887年(明治20年)12月に追放される<ハメ>になります。
島流し ならぬ ハマ流しになる始末が その後の中島の人生を大きく変えます。

■政治家への転身
中島 久万吉の父、信行は横浜に落ち着くとまもなく
1890年(明治23年)7月1日
第1回衆議院議員総選挙に神奈川県第5区から立候補して当選し
その後は 政治家として活躍し
最後は 療養中の神奈川県大磯別邸にて亡くなります。
長男の中島 久万吉は
自由民権の理想を最後まで貫いた父と
義母「中島湘烟」の影響を十二分に受け経済界と政界で活躍します。

■戦士、岸田俊子
岸田俊子(きしだとしこ)
明治の時代を駆け抜けた女権拡張運動家・作家です。
俊才「岸田俊子」後の中島湘烟

(ブログでも紹介しました)
No.153 6月1日(金) 天才と秀才
1889年(明治22年)6月1日
 25歳だった二人の俊才がフェリス女学校の大講堂で演説を行いました。
明治期のフェリス女学院のエネルギーを伝える若松賤子(島田かし子)と同じく中島湘烟(岸田俊子)の短くも激しい人生を追います。
ブログから 引用します。
(天才・神童の出現)
若松賎子の半年前(文久3年)に京都の呉服商の長女として生まれた「岸田俊子」は、小さい頃から神童と呼ばれた俊才でした。
1870年(明治3年)6歳で下京第15校に入学、
1875年(明治8年)中学に進みます。
1879年(明治12年)15歳で昭憲皇太后(当時34歳)に「孟子」などの漢書講義を担当する事となった訳ですからその「俊才」ぶりが伺われます。
いじめられのかどうかはっきりしませんが、名誉職を1年で辞退し“自由民権運動”に目覚めていきます。
1882年(明治15年)4月大阪道頓堀の政談演説会で最初の演説デビューとなった岸田俊子の「婦女の道」は、世間をあっと言わせます。
あでやかな容姿、弁舌口調は視聴者を魅了します。
全国各地で彼女の演説は人気を博しますが、時代は言論封殺、明治の暗黒時代に入ります。滋賀県大津の演説で官史侮辱罪で投獄され、方向転換を迫られ演説から寄稿による言論に変わっていきます。
この時期活動を共にしていた18歳年上の自由党副総裁中島信行と結婚(後妻)します。
若き日の中島信行は、坂本龍馬、睦奥宗光ら土佐藩士と共に討幕運動に参加した海援隊メンバーの一人で、死別した最初の妻は睦奥宗光の妹でした。
睦奥宗光、中島信行は共に神奈川県令を務め、中島は第一回の衆議院選挙で神奈川4区で当選した横浜ゆかりの人物でもありました。
※神奈川第1区は島田三郎
俊才中島湘烟(岸田俊子)はフェリスとの関わりを深くしていきます。
1888年(明治21年)5月にはフェリス和英女学校名誉教授
1893年(明治26年)9月にイタリア公使になった信行ともに結核を発病
1898年(明治31年)11月帰国し神奈川県大磯町に転居、夫婦ともに治療に専念します。
1899年(明治32年)3月26日信行が肺結核のため53歳で亡くなり、
1901年(明治34年)5月25日一年後追うように中島湘烟、肺結核のため28歳で逝去します。

■大磯に死す
ここに登場した中島信行 俊子(湘烟) は神奈川県中郡大磯町の大運寺に墓があります。

この大磯という街は不思議な街です。新島襄が療養中に無くなったように茅ヶ崎市と並んで“サナトリウム”当時不治の病に近かった結核療養施設が多かったことも関係がありますが、明治中期から昭和初期にかけて、要人の避暑・避寒地としても最高のロケーションだったようです。
吉田茂
伊藤博文
山形有朋
その他、西園寺公望、大隈重信、陸奥宗光、岩崎弥之助、安田善次郎など
明治時代の幹部勢揃いといえそうな顔ぶれです。
最初の帝国議会が開かれた時
初代衆議院議長となった中島信行
初代貴族院議長となった伊藤博文
内閣総理大臣は山県有朋でした。
この三人が大磯に別荘を持っていました。

→大磯と横浜の歴史的関係
 調べてみると面白い繋がりがありそうです。

※個人的には山県有朋に関心があり
 彼の資料を調べていますが
 一時期作られた イメージとはかなり異なる人間像が感じられます。
 何かの折に 紹介しましょう。

「山県有朋」関連書籍リスト

山県有朋 明治日本の象徴
岡義武  岩波新書(絶版)

山県有朋
半藤 一利 筑摩書房

山県有朋 愚直な権力者の生涯
伊藤 之雄 文春新書

山県有朋と明治国家
井上 寿一 NHKブックス

No.464 昭和5年頃の横浜

よく歴史書や教科書では、時代区分をします。
横浜史を区分する際、
最大の分岐点が「開港場」ができる幕末期です。
開港から一世紀半の歴史で、
横浜は幾つもの試練の時期がありました。
横浜近代史の中で、今回は震災復興期の昭和初期に注目してみました。

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復興ビジョンが絵はがきになっています。

中でも昭和3年から5年頃の横浜の姿をざくっと追ってみます。
※詳細もいずれまとめて発表する機会があると思います。

(鉄道の時代)
横浜の鉄道網が充実したのが昭和期です。
神中鉄道、東横線、京浜電気鉄道、湘南電気鉄道
そして横浜市電がレール網を最も充実させた時代です。

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1926年(大正15年)
 東京横浜電鉄が丸子多摩川駅(現・多摩川駅)〜神奈川駅間を開業します。
 神中鉄道が星川駅(現上星川駅)〜厚木駅間を開業します。
 鶴見臨港鉄道が浜川崎駅 – 弁天橋駅間を開業します。
昭和に入り
1927年(昭和2年)
 神中鉄道が北程ヶ谷駅(現・星川駅)まで延伸します。
 市電浅間町車庫開設。
1928年(昭和3年)
 東横線が神奈川駅〜高島駅(後の高島町駅)間を開業します。
 ※神奈川駅が横浜駅として移転します。 
 鶴見臨港鉄道が浜川崎駅〜扇町駅間を開業します。
 市営バスが開業します。(生麦車庫・麦田車庫完成)
1929年(昭和4年)
 神中鉄道が北程ヶ谷駅(現・星川駅)から西横浜駅まで延伸します。
1930年(昭和5年)
 京浜電気鉄道が高輪駅〜横浜駅間を開業します。
 ※「京浜電気鉄道 横浜駅は、現在の臨海セミナー等予備校が並ぶあたりです)
 一方、
 湘南電気鉄道が黄金町駅〜浦賀駅間、金沢八景駅〜湘南逗子駅間で営業を開始します。
 鶴見臨港鉄道も全線電化し、鶴見仮停車場〜弁天橋駅間を延伸開業します。
1931年(昭和6年)
 神中鉄道が西横浜駅〜平沼橋駅間を開業し
 湘南電気鉄道も桜木町接続を目指し日ノ出町駅まで延伸しますが、
 京浜電気鉄道がゲージの違いを乗り越え
  日ノ出町駅まで延伸された湘南電気鉄道と接続します。
1933年(昭和8年)12月27日にようやく神中鉄道が横浜駅に乗り入れます。
◇市電の時代
ここでは詳細を掲示しませんが、昭和初期に市電網の大半が開業します。横浜市内のアクセス網が一気に整備されます。
ちょうどこの頃、横浜市は周辺町村を合併し市域も一気に拡大します。
1927年(昭和2年)第3次市域拡張

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 ■久良岐郡
 屏風浦村、大岡川村、日下村
 ■橘樹郡
 鶴見町、城郷村、大綱村、旭村、保土ケ谷町
 ■都筑郡西谷村を編入します。
 ※区制が施行され
  市域が5区に分けられます。
  横浜最初の5区が誕生します。
   ※鶴見区、神奈川区、中区、保土ケ谷区、磯子区
1936年(昭和11年)第4次市域拡張
1937年(昭和12年)第5次市域拡張
1939年(昭和14年)第6次市域拡張

(復興事業)
震災復興でインフラが整備されていくに伴い 民間のビル建設ラッシュが起ります。住宅政策では「同潤会アパート」が作られていきます。
 例えば 1930年(昭和5年)の建造物は
都南ビル(旧都南貯蓄銀行本店)(静岡中央銀行)
No.352 12月17日(月)市民の財布を守った都南
ジャパンエキスプレスビル
同潤会アパート 多数
No.376 1月10日(木)中島敦のいた街

横浜競馬場一等観覧席遺構
インペリアルビル
No11 1月11日(水) KAAT開場

綜通横浜ビル
横浜地方裁判所・簡易裁判所
No.50 2月19日 横浜地裁で注目の公判

ベーリックホール
No.167 6月15日(金) 自然、単純、直裁、正直、経済的

東(あずま)隧道
松屋横浜支店
No.30 1月30日 MATSUYA GINZAのDNA
※氷川丸もこの年に横浜船渠株式会社で竣工しました。
1930年(昭和5年)は震災復興事業の一つ「公園整備計画」の「神奈川公園」と「神奈川会館」の開園式が行われた年です。
 No.101 4月10日 薄れ行く災害の記憶

(御大典記念)
昭和天皇の即位の礼・大嘗祭が1928年(昭和3年)11月6日に行われました。昭和天皇即位を祝い、全国で様々な形で祝賀が行われます。
その一環として記念碑、記念造営が行われます。横浜市内にも多くの御大典記念に関係する記念碑等が残されています。
■芝生浅間神社では、1928年(昭和3年)御大典記念事業として社殿が御造営されます。
■横浜市立市場小学校では1928年(昭和3年)御大典記念として校旗を作成します。
■伊勢山皇大神宮の太鼓場(?)は1928年(昭和3年)に御大典記念として建設されます。


(観艦式)
横浜港で昭和に入り集中的に「観艦式」が開催されます。
No.285 10月11日(木)武装セル芸術
日本の観艦式は明治元年に始まり戦前は18回実施されました。
第一回は大阪天保山沖で行われ、以降“横浜沖”が最も多く9回、次いで6回“神戸沖”で実施されました。
昭和期になり観艦式は6回、内4回が横浜沖で実施されます。

1927年(昭和2年)10月30日、横浜沖。
1928年(昭和3年)12月4日、横浜沖。
1930年(昭和5年)10月26日、神戸沖。
1933年(昭和8年)8月25日、横浜沖。
1936年(昭和11年)10月29日、神戸沖
1940年(昭和15年)10月11日、横浜沖。


(磯子八幡神社)
1930年(昭和5年)磯子八幡橋近くにある「八幡神社」にある御大典記念碑が建立されます。


御大典記念
正三位 勲二等 有吉忠一
この記念碑は、碑の上部に鉄の玉が飾られています。

文献や近所の方の話しでは
“昭和の代になり、5年6月には、御大典記念碑が建ちました”。
“漁師の人たちが奉納した大きなブイ(浮標)が石塔の上にのせられています”
「機雷の外側という話もあります」
ここに名が出ている有吉忠一氏はちょうどこの記念碑が作られる直前の1930年(昭和5年)4月11日に市長として貴族院議員に勅撰されます。
その祝いも兼ねたのでしょう。
裏側にはこの記念碑建立に関わった方々の名が掘られています。
禅馬鉄工所、當所 伊達鉄鋼所
おそらく この鉄球を作った所と推理すると
「機雷」ではなく「ブイ」が妥当なのではないでしょうか。
あくまで推論ですが
 観艦式には 数多くの「ブイ」が必要とされるので、その製造を地元の鉄工所が請け負い、その御礼も含めここに奉納したのではないでしょうか。

(この時代)
昭和初期の横浜は、震災から立ち上がりつつある中
昭和恐慌、急激な円安デフレのまっただ中にありました。
復興資金として借り受けた米国債の支払いに苦慮します。
こんな時に
1929年(昭和4年)8月19日
飛行船ツェッペリン伯爵号が 急遽計画を変更して
横浜上空に現れます。

かたくなに進路変更を拒んだ「ツェッペリン伯爵号」がなぜ?
横浜を上空から視察したのか?世界の(特に米国の)メディアを乗せたこの
飛行船の目的は 何だったのでしょう。
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命

No.448 IZUMI Ça va bien!

水辺の整備がコンクリート擁壁の護岸工事から、
親水に変わりはじめて何年たつでしょうか?
最近の水辺は、魅力的になってきました。
今日は
全長9.42kmの短く小さな河川ですが、
「和泉川」流域の一部を紹介しましょう。

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和泉川(いずみがわ)は、瀬谷市民の森を源流として境川と平行しつつ南下し戸塚区俣野町で本流に合流しています。
「境川」は字の通り、横浜市と隣接する大和市、藤沢市の境を流れ、「和泉川」はその支流として瀬谷区、泉区、戸塚区を南北に流れています。

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この和泉川流域は、数多くある鎌倉街道の中でも“上の道”と呼ばれる古道が通っています。

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凡そのルートです。赤が「上の道」緑が「中の道」青が「下の道」

「上の道」は鎌倉時代以降“相摸のもののふ”達がこの道を駆け抜けましたが、江戸時代以降は街道の役目を終え、豊かな近郊農業の地でした。

(左馬神社)
和泉川のちょうど中流域に固まって点在している不思議な神社群があります。
横浜市
①左馬社(瀬谷区橋戸3ー20ー1)
④飯田神社(泉区上飯田町2517)
⑤佐婆神社(泉区和泉町4811)
⑥左馬神社(泉区和泉町3253 )
⑧鯖神社(泉区下飯田町1389 )
⑩鯖神社(泉区和泉町705)
大和市
②左馬神社(上和田町)
③左馬神社(下和田町)
藤沢市
⑨鯖神社(湘南台)
⑦七ツ木神社(高倉)
⑪左馬神社(西俣野)
⑫佐波神社(石川)

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「左馬」「佐婆」「佐波」「鯖」
“さま”または“さば”と呼ばれています。
上記のリストは、飯田神社のようにかつて「さば神社」だったものが近隣の地名に変わったものも含まれています。
現在記録上判っている「さば神社」は十二社といわれています。他にもあったかどうかは不明です。

■特徴
①和泉川中流域の一角に集中して点在していること
 ※川に沿う点では杉山神社群とも似ています。
②鎌倉古道に沿っていること
 ※創建の時期は安土桃山時代末期から江戸時代草創期といわれています
③「七さばまいり」という風習が残っていること
 ※一日で七つの左馬神社をお参りすることで疱瘡、麻疹(はしか)、百日咳などの悪病除けになるという風習。
④源義朝(九社)または源満仲(三社)を祭神としていること
などが挙げられます。
⑤「境川」を含め、この一帯は水害湛水域だったこと
 ※杉山神社同様に川を治める鎮守の役割も担った
  サバ神社の多くが小高い場所にあります。

 何故「さば」なのか?
 諸説あり 確定はしていませんが、
源義朝が左馬頭(さまのかみ)であった説が一番妥当にも思えますが
よくわかっていません。

(モデルコース)
相鉄線「いずみ中央駅」から
和泉川を下りながら
右岸、左岸に点在する「さば神社」を中心に散策し
相鉄線「ゆめがおか駅」か市営地下鉄「下飯田駅」ゴールがちょうど良い距離です。
サイクリング、ウォーキングに最適です。
神社や古寺のほか、公園、富士塚、染めの工房、和食レストランもあり
快適な半日コースとなるでしょう。

No.233 8月20日 (月)相鉄線ミニ物語(加筆版)

駅にも誕生と廃止の歴史があり、それぞれにドラマがあります。
1934年(昭和9年)8月20日の今日開業し、
1957年(昭和32年)1月に廃業した「古河電線駅」から相鉄線の小さなエピソードを紹介します。

相模鉄道(本線)は、横浜駅と小田急線海老名を結ぶ
私鉄大手で最も短い営業距離を首都圏最大級の密度で運行するスーパー路線です。
過去に横浜市域の営業路線で廃止となった相鉄線の駅が四つありました。

開業日見比べると?不思議だと思いませんか?一駅毎に開設日が違います。

※相鉄線横浜駅開業は意外と後になります。このあたりの話しは相鉄創業の話しの時にご紹介します。

その中で、大工場用に通勤駅として開業したのが「古河電線駅」です。
この駅は現在の古河電工の横浜工場用にできました。

正確な場所は特定できませんでしたが、「tvkハウジングプラザ横浜」と「横浜イングリッシュガーデン」の間位でしょうか。
http://www.tvk-plazayokohama.jp/
http://www.y-eg.jp/

この古河電線駅は朝・夕のみ停車したそうです。
地図で確認すると、鶴見線の「海芝浦駅」と同じ性格を持った駅でした。
駅そのものが工場の敷地内にあり改札が“専用”だったようです。
当時の名残は全く見当たりませんが、現在帷子川に「電線橋」という名の橋が架かっています。
(以前写真探しています。再撮かな)
古河電線駅の歴史
1934年(昭和9年)8月20日当時の神中鉄道が平沼橋〜西横浜間に工場通勤用に開業しました。
1943年(昭和18年)4月1日に神中鉄道は合併により相模鉄道の駅になります。
戦時中から営業を休止し、基幹産業のため空襲を受けました。
1957年(昭和32年)1月に廃駅となりました。

No.177 6月25日 出られない出口

(古河電線の話し)
No.1275月6日(日)あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王

No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?

かつてこのエリアにあった古河電工と横浜ゴムの関係について紹介しましたが、現在も「古河電工 横浜研究所」があります。
ここには名門サッカーチームがありました。
戦後からここのサッカー場を練習所として活躍しました。1946年に創設された「古河」で現在の「ジェフユナイテッド」(株式会社 東日本ジェイアール古河サッカークラブ)です。
ジェフユナイテッドは「ジェフユナイテッド市原」または「ジェフ市原」として千葉県市原市をホームグラウンドとして活躍していますが、横浜がルーツなんです。
なんていうと“波乱”が起こりそうですが、横浜に三つのチームができた可能性もあったんですね。
偶然だと思いますが、この「古河電線工場」のある島状の敷地を斜めに、相模鉄道とJR東海道線、JR横須賀線が走っています。元々は石崎川沿いに国鉄路線(第二横浜駅時代)があり現在も少しその雰囲気が残っています。
JRと古河は電線工場時代から関係が深かった?のかもしれませんね。

ここ古河電工サッカーチーム出身で「東洋のコンピューター」と呼ばれたブンデスリーガで活躍した奥寺康彦は、現在の株式会社横浜フリエスポーツクラブ(横浜FC)の会長です。
http://www.yokohamafc.com
彼は、横浜出身で日本サッカー界初のヨーロッパトップリーグで活躍した選手です。

この「裏高島」は運河に囲まれ、かつては電線工場、瓦斯工場、その他の製造工場が建ち並ぶ工場エリアでしたが近年、前述の「tvkハウジングプラザ横浜」と「横浜イングリッシュガーデン」が進出するようになって景色が変わり始めました。
川沿いにマンションも多くなり、工場街から住宅街に変わってきました。
「石崎川プロムナード」が一部に整備されていますが、今後もう少し魅力アップを図ると界隈性のある独特の街に育っていくでしょう。
(ただ、人道橋が欲しい!)どこに架けるかは議論があるとは思いますが…。

【相鉄線ミニ物語】
別立てにしようかなと思いましたがここに
簡単ですが相鉄の面白史を紹介しておきます。

 

相鉄線(神中鉄道)は
神中鉄道(株)は1917年(大正6年)
保土ケ谷区岩間町に創設されました。
一方、
相模鉄道(株)も1917年(大正6年)
茅ヶ崎市に創設されました。
現在の相模線(茅ヶ崎〜橋本)が相模鉄道として開通。
横浜線に接続しました。
1943年(昭和18年)に相模鉄道(株)が神中鉄道(株)を吸収合併します。
ところが 相模鉄道の本線である茅ヶ崎〜橋本他を国に吸収されてしまいます。
1944(昭19)のことです。
茅ヶ崎〜橋本からスタートした相模鉄道(株)が
吸収した神中鉄道(株)の海老名〜横浜の路線経営というのも
不思議な歴史の巡り合わせです。