7月 17

第900話【舞台としての横浜】わが恋の旅路


900話となりました。
1000話までの通過点なので大ネタではなく行きます。
横浜の橋が登場する映画といえば?
ちょっとひねくれた質問になりました。
横浜港が登場する映画は数え切れません。私は横浜の<橋>が登場する映画を探しながら鑑賞しています。
今回は1961年公開の『わが恋の旅路』この映画を二度以上見る機会があれば橋に注目してください。最初はそんなこと気にせず鑑賞してください!!と言われると「橋」が気になりますね。
ストーリーの軸になるのが「港橋」です。市役所脇の派大岡川に架かていた橋で、現在は<痕跡>が残されています。以前「さらばあぶない刑事」上映で横浜ロケ地散策なるものが少し流行ったようです。空前のヒット作品「君の名は。」もロケ地めぐりが一大観光産業となったというから映画の舞台、ロケ地としての<横浜>もテーマに取り上げ観光資産になるというのもうなずけます。
単純に横浜を舞台にした映画作品名を上げるとかなりあります。
手元の数冊の資料化だけでも130作品にも及びました。

■『わが恋の旅路』を紹介します。
1961年公開 松竹制作91分まずスペックを紹介します。
監督 篠田正浩
原作 曽野綾子
脚色 寺山修司 、 篠田正浩
撮影 小杉正雄
キャスト
石橋潔 川津祐介 東千江 岩下志麻 宇佐美夫人 月丘夢路 他多数
リソース  DVDでリリース中。アマゾン等で中古もあり。
ネット等で評価を検索してみると 作品評価は あまりよろしくありませんが、私は十分に堪能しました。映画評論の分野では「映画的には凡庸な作品」「オーソドックスなメロドラマ」といった評価が主流のようです。私の横浜風景論としての『わが恋の旅路』評価は上々です。評論家の中でも「1960年代初頭の横浜の街並みがあざやかに切り取られているのが、本作の最も価値ある点である。」(荻野洋一)「大岡川沿いを走る横浜の市電、大岡川を浚渫している船の向こうを走る京浜急行など貴重な映像が見られる。」(指田文夫)ということで、この「わが恋の旅路」に登場する風景について<大喧伝>したい。

■風景としての横浜
まず お断りしておきます。
ここではあらすじや役者に関しては殆ど触れません。あくまで映像としての横浜の風景に関して紹介します。これもネタバレ?と言われるのか判りませんが、ネタバレでもあります。
(港の風景が中心ではない)
良いですね。横浜を舞台とした映画といえば必ずお決まりの<横浜港>が登場します。『わが恋の旅路』でも当然、横浜港が多く登場しますが、無理がない。港ばかりではなく川の町・丘の町<横浜>を上手に取り混ぜながら描いている点で見応えがあります。普通に横浜を歩きまわれば普通に感じる<横浜感覚>が描かれています。映画監督篠田正浩は、自然に横浜の町を捉えているように私は感じました。
この映画は1961年封切りなので 1950年代の風景が切り取られています。お決まりの横浜港も登場しますが、氷川丸が係留されていない(山下公園)が新鮮に映ります。
※氷川丸は封切りされた1961年に横浜港開港100周年記念事業として係留され当初は「ユースホステル」として使用されました。
(川の町がちょっとカッコよく)
冒頭は鎌倉「大海老」そして横浜に舞台が移り<川の町、運河の町>横浜が登場します。派大岡川 吉田橋から吉田町商店街にある<都南ビル>隣、元河合楽器のあったビル(現在は空き地)に設定された喫茶店が登場。途中から市役所脇の派大岡川に架かっていた「港橋」が重要な場所となっていきます。このシーンでは工事中だった根岸線の橋脚が映っているので要チェックです。1964年(昭和39年)5月19日に桜木町駅〜磯子駅間 (7.5km) が延伸開業。なので、まさに路線工事が始まった頃にロケされたのでしょう。
映画に登場する「横浜タイムス」のあるビルも河辺にあり、記者たちが船で行き来するシーンはこれまでにない新視点です。
船を使って川を往来するシーンは他の作品でも時折登場しますが、殆どが裏社会系の裏ルート的な表現が目立ちます。現実、横浜の町は60年代まで川の町運河の街でした。また現在のくブラフ18番館>あたりから見下ろす派大岡川の輝きも素晴らしい!
(産業基盤としての川)
この映画では1950年代、横浜市内にあった運河、川を利用した産業が見えます。当時大きく<曲がり角>を迎えていた捺染産業の影にも少し触れている点、川沿いの看板から材木業や川の浚渫船の日常風景が写り込んでいます。(病院)
映画では二つの市民病院も登場します。
<市民病院>=浦舟の市大病院そして吉浜橋にある横浜中央病院(地域医療機能推進機構横浜中央病院)です。
<市民病院>は病室ばかりですが、横浜中央病院は全景が映り込み、前を市電が走る風景は、実に貴重な記録映像でもあります。
横浜中央病院は1960年に竣工していますから、映画では完成直後の姿が写っていることになります。
設計は 日本武道館や京都タワーを手がけた山田守(やまだまもる)(1894年4月19日〜1966年6月13日)
晩年の作品の一つで玄関車寄せ、ガラス張りの階段室が特徴的で改修されましたが現存しています。
(商店街)
伊勢佐木町通りの商店街がしっかり写り込んでいます。伊勢ビルの1階部分のテナントとして東京電力だったり、洋品店の様子も判り資料的にも面白いシーンが写っています。ちらっと弘明寺商店街の一部も登場しています。
(公園)
冒頭にも少し触れましたが<氷川丸>の係留されていない山下公園が登場します。またベタベタの横浜風景ではなくさりげなく「パイロット会館」や「大さん橋」周辺が登場することで港町を効果的に見せています。
現在のくブラフ18番館>周辺の公園が、映画ストーリーの鍵となっている点も仕立て方としては横浜の歴史的な物語を良く織り込んでいます。※余談冒頭 鎌倉「大海老」で流れるラジオ放送は<ラジオ関東>で野毛山から発信されていました。今日はここまで。

3月 8

【ミニミニ今日の横浜】3月4日

今日は簡単に

1947年(昭和22年)の今日
「野毛にマッカーサー劇場(実演と映画封切り)開場」
野毛の一角に戦後一時期占領軍司令官<マックアーサー>の名の劇場が野毛にありました。
位置は現在のJRAあたりで
美空ひばりが本格デビューを果たした「横浜国際劇場」に隣接した場所に同時期開館しました。

「マッカーサー劇場」は地図・写真記録等から<マックアーサー劇場>となっていましたが、記録ではマッカーサーとなっています。
Douglas MacArthur 確かにマックアーサーと読むのが素直ですが、スコットランド・ゲール語で息子を意味する<アーサーの子MacArthu>は一般的にマッカーサーと表記されています。
http://www.hamakei.com/photoflash/816/

野毛の「横浜国際劇場」は日本映画・演芸・歌謡ショー中心の劇場で
「マッカーサー劇場」は洋画専門館としてオープンしました。
(占領の時代)
1945年(昭和20年)に戦争が集結し、米軍が横浜市域の多くを接収します。米国駐留軍は軍事施設を初め、住宅施設・補給施設そして文化施設を横浜に設置します。
特に住宅が多かったためか<映画館、劇場、スポーツ等>の文化施設が横浜中心部に開設します。
占領文化施設の一部を下記に示します。
「横浜赤十字クラブ」「バンカー ズ・クラブ」「ゴールデ ンドラゴン・クラブ」「ク ロスロード・クラブ」「ゼブラ・クラブ」「コロニアル・クラブ」「セブ・メス・ホール」「ルー・ゲーリックスタジアム(平和球場→横浜球場)」
伊勢佐木町に開設された「オクタゴン劇場(横浜松竹劇場の跡廃止)」
開港記念会館は「メモリアル・ホール」
松屋伊勢佐木町店は「横浜PXメインストア」

米軍施設ではない「マッカーサー劇場」は、アメリカの民間企業が建てたものなのか?
当時の神奈川新聞では
「其の名も”マッカーサー劇場”元帥を讃へ横濱野毛に開館」とタイトルが書かれていますので、戦後日本が占領軍司令官を多く<讃え>た施設の一つといえるでしょう。
戦後の日本、アメリカに対し<節操が無い>のか<日本独特の柔軟性>なのか議論の別れるところですが、占領軍へのプレセンスをいち早く行った横浜市民の受容性には感服します。
「一般からその館名を公募してゐたところ、廳募は1万7千通に上った。二十三日にその審査を開催、堀内敬三(音楽家)北林透馬(作家)中山富久(作曲家)橘正禄(舞踊家)青木純二(神奈川新聞文化部長)平古壽次(瑞穂興業社長)などが厳選入選候補としてマッカーサー劇場、ミューズ劇場、希望劇場、セントラル劇場、オリンパス劇場などが残った、さらに審査の上で確定するが、進駐軍当局の認可を得てマッカーサー劇場と命名されると、日本では最初のマックアーサー元帥を讃える劇場が横濱に誕生するわけ、尚この劇場では横濱で最初のダンシングチームや市民演劇團も育成していくといふ。
(昭和21年9月26日付神奈川新聞)」

ちなみにこの1947年(昭和22年)時代
横浜市役所は、マッカーサー劇場から徒歩5分
五代目市庁舎(1944 年~1950年)として旧老松国民学校(老松中学校)にありました。

(関連ブログ)
No.139 5月18日 マッカーサーに嫌われた男
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=476

No.252 9月8日(土)横浜終戦直後その3
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=352

No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=363
(3月4日関連過去ブログ)
No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=555

Category: 横浜に因んだ人たち, 横浜の映画, 横浜の近代建築, 横浜の駅, 記憶に残るスポット | 【ミニミニ今日の横浜】3月4日 はコメントを受け付けていません。
11月 14

No.319 11月14日(水)東のヨコシネ(加筆修正)

今日は映画に因んだ話しを紹介します。
たまたま「ハマことば」(伊川公司)神奈川新聞社を読んでいたら
「ヨコハマシネマ」という項目が出てきました。
今日はこの「ヨコハマシネマ」こと「横浜シネマ商会」の話しです。

nnWV140005

横浜シネマ商会は1923年(大正12年)に創業した現像・映像企業です。
現在は(株)ヨコシネ ディー アイ エー(英文名:YOKOCINE D.I.A. INC.)と商号を変更しています。
http://www.yokocine.com

(ヨコハマシネマ)
「ハマことば」(伊川公司)の「ヨコハマシネマ」の項には、
「戦前の記録映画とアニメーション映画には必ず「ヨコハマシネマ(横浜シネマ)」という文字があります。(中略)横浜市神奈川区の素封家に生まれた佐伯永輔という人が大正十二年(一九二三)年一月に横浜シネマ商会を創立し、同区栗田谷の土地一万三千二百平方メートルに現像所を新築して映画製作を始めたとあります。」

nn-E6-A8-AA-E6-B5-9C-E3-82-B7-E3-83-8D-E3-83-9E-E5-95-86-E4-BC-9A

(創業者 佐伯永輔と仲間達)
横浜シネマは映画オールドファンにはよく知られた企業で、
映画黎明期に現像の世界で西の極東フィルム研究所(東洋現像所、現在イマジカ)、東の横シネと呼ばれていました。
横シネ創業者の佐伯永輔(さえきえいすけ)は米国留学後、
横浜市中区の都橋際で
1920年(大正9年)「都商会」という写真器材店を創業しました。
写真材料の「都商会」から映像(動画)制作・フィルム現像の企業を立ち上げ国内トップクラスに育て上げたのは彼の人柄から生まれた“出会い”からでした。

(風来坊)
横シネに欠かせない人がいます。
広島県出身でカメラ技術を独学で習得した後、
長谷川伸二郎(後の長谷川伸)の下で横浜毎朝新聞社の記者として働いていた“相原隆昌”という人物です。
ブッキラボウな彼は、広告の撮影をしながら個人でフィルムの現像、焼付けも行なっていたカメラマンでした。横浜毎朝新聞社を辞め、中央新聞横浜支局に転じ花柳界・演芸関係を担当しますがまもなく辞職し姿見町にしる粉店を開業します。
経営は上手くいかず1918年(大正7年)オデヲン座に就職します。
座主平尾榮太郎に見いだされた相原隆昌は、同座の仕切り場員に就き動画に深く関わることになります。

nnWV090025_1

この頃、都橋の「都商会」に来店し いきなり佐伯永輔に
「活動写真をやっているそうだが、カメラを貸してくれないか」と持ちかけたそうです。佐伯は商売の機材として撮影機を扱ったことはあるが技術的には未熟だったためこのブッキラボウな相原隆昌からノウハウを入手しようと「現像現場」も見せてもらうことを条件に、貸し出します。

(風呂場で現像)
動画フィルムの現像技術を知るために相原の現像所を訪れると、「横浜シネマ商会」という看板のあるそこは病院の看護婦が使用する“お風呂場”だったそうです。場所はともかく現像の腕前は中々のものだったのでしょう、二人は意気投合し終生のパートナー上野幸清(カメラマン)と「合資会社横浜シネマ商会」を1923年(大正12年)1月に設立します。
同年5月に会社を神奈川区栗田谷に自宅兼現像所を置きます。

Wikiより現在の社屋

その後、震災前にオデヲン座の絵看板やタイトル画家だった
天才アニメーター村田安司が加わり、アニメーションの世界にも進出します。
※村田安司(1896〜1966)は、動体の切り紙を背景画の上に載せて撮影する切り抜き漫画映画の名手と言われた。1923年に設立された横浜シネマ商会(現在は横シネDIA)に長く勤め、34年に切り紙とは思えない緻密で流麗な動きの代表作『月の宮の王女様』を制作したほか、数多くの作品を残した。

(アニメとドキュメンタリーのハマシネ)
「横浜シネマ商会」が制作する村田アニメ、
上野幸清の撮る報道映画は当時のオデヲン座始め全国で大ヒットします。
中でも報道ドキュメンタリー映画は当時各社競争の中、行動力が鍵でした。
例えば「横浜シネマ商会」の佐伯、上野コンビは 1936年(昭和11年)アマゾンとブラジル移民を現地取材します。
当時の新聞には
「先ずブラジルでは邦人のコーヒー栽培、ついでアマゾニア移住地に向い、小ボートでマナオス一帯の大処女林まで遡航し珍奇な土人の生活や猛獣、さては飛行機上からアマゾンの全貌を収める等の活躍をなし 更にこんど新たに我移民を送ることになったパラグアイ国その他ウルグアイ、アルゼンチン、チリー、ボリビア、ペルーの七ケ国を歴訪」(神戸新聞)
この取材は「南十字星は招く」(昭和13年)として発表され「海の生命線」(昭和8年)、「北進日本」(昭和9年)と併せて横浜シネマ三部作として歴史にその名を残します。

(戦後も独自技術を活かす)
戦後、1953年のテレビ放送開始に先立ってNHKは機動性や速報性を重視しし35ミリではなく16ミリフィルムを使うことを決めます。ところが16ミリフィルムの現像施設が少なかったことから、横浜・神奈川区に現像所と編集室を整備していた「横浜シネマ」が受託し東京・内幸町の放送会館と横浜とを自動車で往復してフィルムを運んだというエピソードが残っています。(その後NHK独自の設備が整備され特急受注はなくなります)

(シェアする心)
1936年(昭和11年)いち早く海外の最先端機器を導入し使いやすく機能アップの改善改造しその技術の普及にも貢献します。
この改善型は1955年(昭和30年)に新型が米国から導入されるまで日本国内の主流現像機として活躍します。

※長谷川 伸
(はせがわ しん、1884年(明治17年)3月15日〜1963年(昭和38年)6月11日)は日本の小説家、劇作家である。本名は長谷川 伸二郎(はせがわ しんじろう)。使用した筆名には他にも山野 芋作(やまの いもさく)と長谷川 芋生(はせがわ いもお)があり、またそのほか春風楼、浜の里人、漫々亭、冷々亭、冷々亭主人などを号している(筆名が多いのは新聞記者時代の副業ゆえ名を秘したためである)。
「股旅物」というジャンルを開発したのはこの長谷川であり、作中できられる「仁義」は実家が没落して若い頃に人夫ぐらしをしていた際に覚えたものをモデルにしたという。

この「横浜シネマ商会」は1923年(大正12年)1月1日創業で、戦後1950年(昭和25年)11月14日(火)の今日、「株式会社横浜シネマ現像所」として設立されます。
1993年(平成5年)CI導入と同時に株式会社ヨコシネディーアイエー
(YOKOCINE D.I.A. INC.)に商号変更されました。