12月 19

【大岡川運河物語】水運の町、石川町

大岡川運河群は1970年代まで日常の風景だったが、多くが消えた。

大岡川運河群図昭和3年

だが、いわゆる吉田新田域が運河の街だった記憶はまだ残されている。
その記憶・残照をたどりながら運河にまつわる物語を書き残しておく。

■中村川運河
JR根岸線「石川町駅」が開通したのは1964年(昭和39年)5月19日のことだった。この年は東京オリンピックが日本で初めて開催された年だった。戦後日本が特に首都圏が工事の粉塵に紛れ、工事車が土砂を跳ね上げていた時代である。
桜木町は旧橫濱駅時代に開業した歴史ある駅にも関わらず、東海道筋から離れていたためおざなりにされていた。地元は路線の延伸を戦前から願っていたが中々実現しなかった。
60年代に入り延伸工事が始まった。派大岡川の上に橋脚が建ち、関内駅を川の上に開設。そのまま直進し山手丘陵の土手っ腹にトンネルを開け「石川町駅」が開設した。
駅名の石川町は石川村に由来し古くからあるが「石川」の名はしばらく消えていた。石川村は海岸に面した漁業、農業、林業を営む小村だったが古くからその名を見ることができる。

IR石川町駅

<石川>
石川の名で有名なのは「石川県」。加賀の国にある手取川の古名である「石川」に由来するが、この「石川町」は武蔵国久良岐郡石川村に因んでいる。何故「石川」となったのか?詳細を追いかけていないが、湧き水が多く岩(石)の間から出たからではと想像している。
漁村として栄えるためには、真水が必須だ。海水では人は暮らしていけない。
石川町近辺を調べてみると、湧水地が数多く見つかる。開港以降は横浜港への船舶給水地として事業も起こっている。
このように古くからあった岩の間の湧水地が<水の豊富な村>として石川の名となったのではないだろうか。 <吉田新田>
石川村は江戸中期に大きく変わる。江戸の材木商だった吉田勘兵衛が幕府の新田奨励施策により、大岡川河口の深い入海の干拓事業に着手。1667年(寛文7年)に11年かけた吉田新田が完成。吉田新田の完成で、石川村は本牧や横浜村とかつて対岸だった<戸部村、野毛村>と密接になった。
石川村は漁村ではなくなる。その後、石川村の経営がどのように行われたのか不勉強だが、新田の幹線道となった「八丁畷」現在の長者町通りの完成によって、交通往来が大きく変わったことは確かだ。
現在は、車橋を渡ると打越の切通しを抜け山元町、根岸へとつながるが、近世、近代は車橋を渡ると石川中村になり一旦下流に向かい地蔵坂が「本牧」と「横浜村」に出る分岐路だった。

干拓前深い入海

<地蔵坂>
地形図で石川村付近を俯瞰すると、地蔵坂が本牧へと続く要路であることが分かる。近世に交通量が増え、道を拡張する工事の際に土の中から地蔵が掘り出され坂の名が地蔵坂となったと伝わっている。現在は関東大震災でこの地蔵尊も崩れてしまったが、戦後地元の有志によって亀の橋袂に新たに地蔵尊を建立された。この地蔵尊は入海に身投げした女人伝説による<濡れ地蔵>の異名もあるが、伝説となるこの地の役割を示した結果だろう。

地蔵坂地形図

<水運の町>
石川町がかつて水運の要の地であったと聞くと驚く人が大半かもしれない。
石川町に関する歴史資料を調べ始めると、この街の川岸がかつて水運の要であった片鱗を感じとることができる。
ここに示す西ノ橋から中村川上流方向の風景、一見亀ノ橋と判断しがちだが西ノ橋左岸際から亀ノ橋を見ることはできない。ではこの橋は?ということになる。実はこの橋の存在から様々な謎解きが生まれ出た。
「謎の橋」戦後の資料では「赤橋」と呼ばれていたことが判る。

明治から昭和にかけ、この位置に架けられては消えた「橋」の存在を確認することができる。中村川対岸吉浜町には幕末から明治期には「横濱製鉄所」があり、大正期からは戦後まで掖済会病院が開業していた(現在は山田町)。
この謎の橋は派大岡川のある運河時代だからこそ利用度が高かった。
絵葉書を拡大するとここに、川岸の荷捌き場が写っている。

中区史に
「中村川の川沿い石川町から中村町方面にかけては、港や埋地方面に働く人々が多く居住地とした、石川町一帯は人口が増え町が大きくなり、そこには規模は小さいが、多種類の日常生活を売る商売が発生していった。このことは外国人を相手として商売する元町とは対照的であった。すでに石川は明治六年には街並みがととのった所として、石川町と命名されていたが、こうして町が充実していった」
「中村川や堀川などの川は、港から直接内陸に物資を運ぶことができ、埋地の問屋筋へ、さらには八幡橋方面へと」 石川町と千葉県富津市の港と定期航路があった昭和まで記録も残っている。

<亀の橋 下流に船着き場を確認できる>
かつてこの船に乗って多くの女性行商が行李を担ぎ石川町に降り立った。中にはこの地に生活拠点を求めた方もいる。石川町と房総千葉とのつながりも深いものがある。
このように、石川町は運河を巡り関内外から房総千葉まで水運というキーワードのエピソードが誕生した町だ。
近い将来、この石川町に動力船が使える桟橋ができると聞く。
江戸期から続いた水運の町の復活となるのか?変わりゆく石川町に注目したい。

1月 1

【横浜駅物語】1桜木町

(追記の可能性があります) ■桜木町物語
最も歴史に満ちたこの駅には語り尽くせない物語が多くある。
桜木町駅あたりがまだ海だった頃から物語を始めよう。 野毛浦の絶壁から見下ろす海には、姥ヶ岩に打つ白波が絶えず立っていた。その先には洲干辨天の嘴が真下まで伸び、その風景は野毛山を越える旅人を驚かせたに違いない。
幕末に開港場となった横浜村が軸となり居留地が誕生し、近代という異文化がこの地で濃縮された。
開港後、近代化を目指した日本は様々な西欧を吸収する中で、いち早く東京と横浜を結ぶ<鉄道>敷設を目論んだ。1872年(明治5年)のことだ。この時、鉄道用地を白波の立つ野毛浦の海に求めた。
近代化を目指した日本は様々な西欧を吸収する中で、いち早く東京と横浜を結ぶ<鉄道>敷設を目論んだ。この時、鉄道用地を白波の立つ野毛浦の海に求めた。
内田清七と高島嘉右衛門が埋め立て海に鉄道用地を作ったことによって、初代横浜駅が誕生する。1872年(明治5年)のことだ。
明治期になってたった5年しか経っていない鉄道の誕生である。
これは江戸に育った<近代性>の支えなくして成し得なかったといえるだろう。桜木町駅前に立つ度、「日本の近代化が江戸期に培われてきた先進性の素に開花した」ことを実感する。 (鉄道発祥の駅)
鉄道開通の記念碑が建つ桜木町駅は1990年(平成2年)に<正面>が変わった。これは駅開設以来の地域変化を表している。
日本を代表する「横浜駅」が「桜木町駅」となったが長らく「桜木町駅」は関内方向に向かって正面玄関が設置されていた。
玄関を出ると広場があり、その向こうには大岡川が流れ、「辨天橋」「大江橋」が架かる風景が広がっていた。乗降客は、横浜港利用やそれに関係する人々や、三菱造船に働く人が多かった。
市電時代では、終点「桜木町駅」から駅前ロータリーを経由して様々な方面に向かう人で戦後も賑わってきた。
初代横浜駅は
1915年(大正4年)に転機が訪れた。
 第一次世界大戦が起こり間接的影響を受ける中、港都横浜と帝都東京を結んだ国有鉄道が私鉄吸収を含め、驚異的な発展を遂げたことで東海道の幹線から外れた「横浜駅」の役割が大きく変わることになった。
いわゆるスイッチバック問題である。東海道本線「(旧)横浜駅」を経由するには鉄道創業路線をスイッチバックして通過する必要があった。
1889年(明治 22年)に神戸まで開通した東海道本線は、東西を結ぶ幹線として利用度が高まり、ロスのある、横浜駅スルー案が登場する。
1913年(大正2年)8月には東海道本線複線化が完了し、関西圏と関東圏を繋ぐ大動脈が登場し、ますます「横浜駅」スルー議論が高まり、新駅を作るのではなく
「横浜駅」を移動することに決定。石崎川に沿って走る東海道本線に新「横浜駅」が開設された。
1919年(大正8年)データでは国有鉄道の総営業キロは9,982キロメートル、地方鉄道は3,227キロメートルに達 し、ほぼ全国を網羅したのである。
(桜木町駅)
神奈川県を代表する「横浜駅」の冠を譲った「桜木町駅」は戦後、ようやく根岸線延伸計画が実現し、終着駅から通過駅となった。
1964年(昭和39年)に磯子駅まで延伸し、1973年(昭和48年)には大船まで全通することになり、
1990年(平成2年)に現在の駅舎が完成し、正面が海側に変更「関内」から「みなとみらい21」エリアに正面玄関が向いた。
前年の1989年(平成元年)に
桜木町駅海側にあった「三菱造船所」が移転した跡地を再開発する前祝いとして横浜博覧会(YES89)が開催され、駅舎改装が始まった。 (東横線廃止)
1932年(昭和7年)に二代目横浜駅まで延伸していた東急電鉄が桜木町まで延伸、
渋谷と野毛を繋ぐ路線として活躍した。
2004年(平成16年)1月30日に廃止。 2014年(平成26年)には、「CIAL桜木町」が開業し、山側の空間整備が始まり、現在も進行中である。
(市庁舎移転)
桜木町駅の環境がまたもや変わろうとしている。
No.256 9月12日(火)どこも本庁舎引越は大問題
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=348
第854話 改めて横浜市役所移転史
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9071 ■【横浜駅物語】を始める
2011年(平成23年)から4年かけて市内全駅に降り立ち、差はありますが周辺を散策しました。
散策の折り、駅を材料にしてショート・ショートを記してみたいと思って数年、なかなか書き出すキッカケがありませんでした。(※一部駅を除く)
市内全駅
横浜市内の駅は数え方にもよりますが七社150を超えます。
これら数ある中から簡単なコメントを紹介していこうと思います。
最初の駅を選ぶとすれば
横浜の場合「桜木町」しかないでしょう。
ただ、私の場合どうも掘っていって収集がつかなくなるので、桜木町をどう簡単にまとめるか、大難問!でした。折を観て、違った角度で桜木町は紹介していきます。 (JR根岸線桜木町駅)
「桜木町」駅は歴史の大波を乗り越えてきた駅です。
横浜の歴史を知る過程で必ず登場するのが鉄道発祥の駅としてこの地に1872年(明治5年)開設された初代「横浜」駅です。
その後「桜木町」と変更し歴史に翻弄されながら現在に至ります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/桜木町駅 (東急東横線)
1932年(昭和7年)3月31日
当時の国鉄「桜木町」駅に隣接して開業したのが東急東横線「桜木町」駅です。
みなとみらい線開業にともない、横浜駅以降の高島町・桜木町が
2004年(平成16年)1月30日に廃止されました。 過去の「桜木町」関連のブログを紹介します。
第694話【一枚の横浜絵葉書】「桜木町横浜市授産所ノ偉観」

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6063
第987話【運河物語】桜川
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12394
番外編【資料としての絵葉書】横浜駅
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12266
第867話 【明治の風景】横浜駅前公衆便所

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9341
第849話 横浜・新橋、横浜が先?

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9006
第976話【横浜の道】横濱国道物語

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=12001
【横浜の国道】133開港の道物語

http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7243
7月 17

第900話【舞台としての横浜】わが恋の旅路


900話となりました。
1000話までの通過点なので大ネタではなく行きます。
横浜の橋が登場する映画といえば?
ちょっとひねくれた質問になりました。
横浜港が登場する映画は数え切れません。私は横浜の<橋>が登場する映画を探しながら鑑賞しています。
今回は1961年公開の『わが恋の旅路』この映画を二度以上見る機会があれば橋に注目してください。最初はそんなこと気にせず鑑賞してください!!と言われると「橋」が気になりますね。
ストーリーの軸になるのが「港橋」です。市役所脇の派大岡川に架かていた橋で、現在は<痕跡>が残されています。以前「さらばあぶない刑事」上映で横浜ロケ地散策なるものが少し流行ったようです。空前のヒット作品「君の名は。」もロケ地めぐりが一大観光産業となったというから映画の舞台、ロケ地としての<横浜>もテーマに取り上げ観光資産になるというのもうなずけます。
単純に横浜を舞台にした映画作品名を上げるとかなりあります。
手元の数冊の資料化だけでも130作品にも及びました。

■『わが恋の旅路』を紹介します。
1961年公開 松竹制作91分まずスペックを紹介します。
監督 篠田正浩
原作 曽野綾子
脚色 寺山修司 、 篠田正浩
撮影 小杉正雄
キャスト
石橋潔 川津祐介 東千江 岩下志麻 宇佐美夫人 月丘夢路 他多数
リソース  DVDでリリース中。アマゾン等で中古もあり。
ネット等で評価を検索してみると 作品評価は あまりよろしくありませんが、私は十分に堪能しました。映画評論の分野では「映画的には凡庸な作品」「オーソドックスなメロドラマ」といった評価が主流のようです。私の横浜風景論としての『わが恋の旅路』評価は上々です。評論家の中でも「1960年代初頭の横浜の街並みがあざやかに切り取られているのが、本作の最も価値ある点である。」(荻野洋一)「大岡川沿いを走る横浜の市電、大岡川を浚渫している船の向こうを走る京浜急行など貴重な映像が見られる。」(指田文夫)ということで、この「わが恋の旅路」に登場する風景について<大喧伝>したい。

■風景としての横浜
まず お断りしておきます。
ここではあらすじや役者に関しては殆ど触れません。あくまで映像としての横浜の風景に関して紹介します。これもネタバレ?と言われるのか判りませんが、ネタバレでもあります。
(港の風景が中心ではない)
良いですね。横浜を舞台とした映画といえば必ずお決まりの<横浜港>が登場します。『わが恋の旅路』でも当然、横浜港が多く登場しますが、無理がない。港ばかりではなく川の町・丘の町<横浜>を上手に取り混ぜながら描いている点で見応えがあります。普通に横浜を歩きまわれば普通に感じる<横浜感覚>が描かれています。映画監督篠田正浩は、自然に横浜の町を捉えているように私は感じました。
この映画は1961年封切りなので 1950年代の風景が切り取られています。お決まりの横浜港も登場しますが、氷川丸が係留されていない(山下公園)が新鮮に映ります。
※氷川丸は封切りされた1961年に横浜港開港100周年記念事業として係留され当初は「ユースホステル」として使用されました。
(川の町がちょっとカッコよく)
冒頭は鎌倉「大海老」そして横浜に舞台が移り<川の町、運河の町>横浜が登場します。派大岡川 吉田橋から吉田町商店街にある<都南ビル>隣、元河合楽器のあったビル(現在は空き地)に設定された喫茶店が登場。途中から市役所脇の派大岡川に架かっていた「港橋」が重要な場所となっていきます。このシーンでは工事中だった根岸線の橋脚が映っているので要チェックです。1964年(昭和39年)5月19日に桜木町駅〜磯子駅間 (7.5km) が延伸開業。なので、まさに路線工事が始まった頃にロケされたのでしょう。
映画に登場する「横浜タイムス」のあるビルも河辺にあり、記者たちが船で行き来するシーンはこれまでにない新視点です。
船を使って川を往来するシーンは他の作品でも時折登場しますが、殆どが裏社会系の裏ルート的な表現が目立ちます。現実、横浜の町は60年代まで川の町運河の街でした。また現在のくブラフ18番館>あたりから見下ろす派大岡川の輝きも素晴らしい!
(産業基盤としての川)
この映画では1950年代、横浜市内にあった運河、川を利用した産業が見えます。当時大きく<曲がり角>を迎えていた捺染産業の影にも少し触れている点、川沿いの看板から材木業や川の浚渫船の日常風景が写り込んでいます。(病院)
映画では二つの市民病院も登場します。
<市民病院>=浦舟の市大病院そして吉浜橋にある横浜中央病院(地域医療機能推進機構横浜中央病院)です。
<市民病院>は病室ばかりですが、横浜中央病院は全景が映り込み、前を市電が走る風景は、実に貴重な記録映像でもあります。
横浜中央病院は1960年に竣工していますから、映画では完成直後の姿が写っていることになります。
設計は 日本武道館や京都タワーを手がけた山田守(やまだまもる)(1894年4月19日〜1966年6月13日)
晩年の作品の一つで玄関車寄せ、ガラス張りの階段室が特徴的で改修されましたが現存しています。
(商店街)
伊勢佐木町通りの商店街がしっかり写り込んでいます。伊勢ビルの1階部分のテナントとして東京電力だったり、洋品店の様子も判り資料的にも面白いシーンが写っています。ちらっと弘明寺商店街の一部も登場しています。
(公園)
冒頭にも少し触れましたが<氷川丸>の係留されていない山下公園が登場します。またベタベタの横浜風景ではなくさりげなく「パイロット会館」や「大さん橋」周辺が登場することで港町を効果的に見せています。
現在のくブラフ18番館>周辺の公園が、映画ストーリーの鍵となっている点も仕立て方としては横浜の歴史的な物語を良く織り込んでいます。※余談冒頭 鎌倉「大海老」で流れるラジオ放送は<ラジオ関東>で野毛山から発信されていました。今日はここまで。

6月 3

第891話【横浜の橋】珍しいA ・B 橋

かつて大岡川には川の十字路がありました。

運河の交差点

大岡川下流域は吉田新田の干拓によって誕生した運河の町です。<灌漑水路>として中村川・派大岡川が生まれ堀川が作られ、明治に入って堀割川開削で磯子湾につながることで水運機能が高まります。

吉田新田

水田の吉田新田域が次第に宅地化・近代化していく過程で<灌漑水路>が<水運水路>として「吉田川」「新吉田川」「日ノ出川」「富士見川」が整備されていきます。
この時期に、横浜にとって重大な事業計画が進められます。野毛浦地先に鉄道が引かれる用地が埋め立てられることになりました。 ここに排水路を兼ねた「桜川」が誕生します。

大岡川に桜川と派大岡川が繋がり川の交差点が誕生します。
ここには「柳橋」と「錦橋」、大岡川には「都橋」「大江橋」が架かっていました。
※明治初期には「櫻橋」という木製の橋が短期間ですがありました。

櫻橋

このポイントは首都高速道路、JR根岸線、市営地下鉄、大岡川、幹線道路が集中し大工事が行われた場所でもあります。
「桜川」と「派大岡川」が無くなり大岡川だけになった時に、道路整備が行われ「桜川新道」ができ大岡川に「桜川橋」が架けられます。

【横浜の橋】№10 残った紅葉橋(陸橋)

【横浜の橋】№10 残った紅葉橋(陸橋)

この桜川橋は珍しい橋の一つだと思います。
構造的には普通の<上下線分離型>2連橋ですが上下で”橋名”が異なります。
普通は上下まとめて名称が付けられます。
近隣に架かる(っていた)「紅葉坂」「国際橋」も上下線分離型の2連橋です。さらには上下線、長さが極端に変わる「新山下橋」も上下線分離型の2連橋ですが名前は一つです。
「桜川橋」 上下線に区別がある別の名を持つ”大変珍しい橋”なんです。
上流から
「桜川A橋(さくらがわえーきょう)」
長さ41.8m
幅は16.8m
架橋年は昭和48年

「桜川B橋(さくらがわびーきょう)」
長さ38.7m
幅は16.8m
架橋年は昭和48年

普段、橋上を走っていると全く判りませんが、
川筋や袂から眺めるとしっかり「桜川B橋」のみ明記されています。

桜川物語も調査中ですのであらためて紹介します。

第987話【運河物語】桜川

第987話【運河物語】桜川

7月 11

第845話 横浜駅「京急西口通路」完成

私は都度、目標を決めて達成する“横浜コンプリート”を楽しんでいます。
その達成メニューの一つが<市内の鉄道全駅に降り立つ>ことです。横浜図版 横浜市内には135の駅があり、21の路線、8つの会社(市営含む)があります。市内全駅踏破は最初から意図したわけではありません。90年代の後半に仕事で市内18の区役所を訪問する機会があり、鉄道機関を使ったことがキッカケです。
<無人駅>から9路線が乗り入れる<大ターミナル>までそれぞれの駅に不思議な味わいがあります。
135の駅に降り立った後は、それぞれの駅の<歴史>というと大げさですが、生い立ちに関心が出てきました。
駅を語りだすと「横浜駅」だけでも話題が尽きません。
いずれ市内全駅の紹介をしたいので、今日の横浜駅はゴクゴク手短なブログとします。
1987年(昭和62年)7月10日の今日
横浜駅「京急西口通路」(地下)が完成という記事を発見。
「京急西口通路」って 何処かご存知ですか?
京浜急行のホームと<西口・相鉄線方面>を結ぶ連絡地下通路です。
恐らく乗換に利用する人以外この地下通路は知られていない“迷路”ではないでしょうか。
“迷路”とはいささか失礼な表現かもしれません。
かつて横浜駅は、東西を繋ぐ自由通路が限られていて大変不便でした。(現在もわかりにくい)
横浜駅は、jRを囲むように東に京浜急行、西に相模鉄道、地下に東急・みなとみらい線(かつては西側)が乗り入れています。相模鉄道線から京急に、東急線から京浜急行への乗り換えは<至難の技?>でした。(現在もかなり大変です)light1974年1974年(昭和49年)

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     上図は1979年発行の横浜駅近辺マップ
1980年(昭和56年)11月20日に東西自由通路が全面開通し連絡こ線橋が撤去されます。
私はこの京急こ線橋を利用していなかったので殆ど記憶がありません。
東京寄りの今も残されている<跨線橋>は頻繁に利用していました。
「京急西口通路」を示すマップは無いか?

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1996年の駅周辺詳細図に点線で示してありました。この「京急西口通路」は<横浜駅みなみ通路>が完成した現在も一部がそのまま活用されています。
それにしても、横浜駅は工事していない時期があったのでしょうか?と言いたくなるくらい工事中駅です。
今日はさらっと小さなネタで失礼します。

(過去の7月10日ブログ)
No.192 7月10日(火)もう一つの大岡川
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=415
都市には必ず川の歴史があり氾濫と治水の歴史でもあります。
1976年(昭和51年)7月10日(土)の今日は、大岡川治水工事の一貫として着工した「大岡川分水路」(全長3,640m)の部分通水(笹下川から根岸湾まで)を開始した日です。

Category: 鉄道一般, 横浜の駅, JR根岸線, 相鉄線, 東急電鉄, 京浜急行 | 第845話 横浜駅「京急西口通路」完成 はコメントを受け付けていません
1月 22

No.385 【横浜界隈鉄道編】横浜の駅

今日は、横浜市内の駅を簡単に紹介しましょう。
1990年から折々に市内全線全駅巡りをし、2008年に市内全駅前に降り立つことを踏破しました。
中からお気に入りの駅を幾つか紹介していきますが、
その前に 全駅概況を。

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(日本一の横浜駅)
横浜駅は、記憶に従えば日本一路線が乗入れている駅です。
意外じゃありませんか?
 ○東急東横線
 ○相模鉄道線
 ○京浜急行電鉄線
 ○横浜市営地下鉄ブルーライン線
 ○横浜高速鉄道みなとみらい線
 ○JR東海道本線
 ○JR根岸線
 ○JR京浜東北線
 ○JR横須賀線

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以上6社9路線乗入れ規模は他のターミナル駅ではありません。
新宿駅が微妙なところですが5社8路線、東日本旅客鉄道(JR東日本)・京王電鉄・小田急電鉄・東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)が乗入れています。地下では離れて西武新宿駅があります。
wikiでも
「2012年現在一つの駅に乗り入れる鉄道事業者数としては日本最多となっている。」とあります。

(市内の駅の数)
全路線をカウントすると
168駅ありました。
「横浜駅」のような複数路線乗入れのターミナル駅をまとめてカウントすると、
153駅となります。
※市内全線全駅踏破は、勿論全事業路線の改札を出る!ということでカウントしています。
(ただし、センター北・南、横浜駅のようにシームレスな路線は別です)

(市内の路線)
市内を走る路線は21あります。
事業会社でカウントすると9社です。
■こどもの国線(全線)→横浜高速鉄道・東京急行
■相鉄いずみ野線→相模鉄道
■横須賀線→JR東
■横浜高速鉄道みなとみらい線→横浜高速鉄道
■横浜市営地下鉄グリーンライン(全線)→横浜市
■横浜市営地下鉄ブルーライン(湘南台駅以外全線)→横浜市
■横浜新都市交通金沢シーサイド線→横浜新都市交通
■横浜線→JR東
■海芝浦支線→JR東
■京浜急行電鉄→京急
■京浜東北線→JR東
■根岸線→JR東
■逗子線→京急
■相模鉄道(相鉄)
■鶴見線→JR東
■田園都市線→東京急行
■東横線→東京急行
■東海道新幹線→JR東海
■東海道本線→JR東
■南武線→JR東
■目黒線→東京急行

南武線? の駅が横浜市内にある!
「矢向駅」です。
地図上は横浜市内なので実際行ってきました。

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昔はここに住所があったそうです
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駅前ロータリーに木があるのは懐かしい感じがします

隣の尻手駅はプラットフォームを避けるように川崎市内です。
妙に不自然です。この辺の市域確定について調べてみたいものです。

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nn-E5-B0-BB-E6-89-8B-E9-A7-85011

同じホーム<市またぎ> では「大船駅」も横浜市に乗っかっていますが
所在地は鎌倉市です。(鎌倉市大船1丁目)
「笠間口」は横浜市栄区笠間一丁目にあります。

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(駅数ランク)
事業会社別市内駅数ランク
第一位は当然、横浜市営地下鉄ブルーライン 31駅
第二位は、京浜急行本線の 23駅※
第三位は、横浜新都市交通金沢シーサイド線の14駅です。
以下 相鉄本線(13駅)、根岸線(11駅)、横浜市営地下鉄グリーンライン(10駅)、横浜線・東横線(9駅)といった順です。
※京急の横浜市内駅数23は、京急全体から見ても多いのではないでしょうか。

(オタク系ランキング)
もうすでに鉄男君系ですが、さらにマニアックなランクを。
横浜市内で路線がまとまって見えるる地点は?
5路線がまとまっていますが さてどのあたりでしょうか?
写真に撮ってあります。この開かず踏切は無くなりました。
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手前から鶴見線、京浜東北線、東海道線、JR貨物線、京浜急行線

(余談編)
横浜市内で戦後廃止された路線があります。さてどこでしょう。
(市電を除きます)
答:ドリームランド線
廃止になりかかったこどもの国線もありますが…

10月 15

No.289 10月15日(月)生き残った魅惑の迷宮(加筆修正)

今日は駅ネタです。
都市伝説風に書けば
(明治3年)1870年
 開港都市横浜と東京を結ぶ鉄道敷設のために測量・着工
(大正3年)1914年
 二代目横浜駅竣工
(昭和3年)1928年
 三代目横浜駅竣工
(平成3年)1991年
 空の港、成田空港駅が開業
ややこじつけですが
不思議と揃っていますね。
さらに、
三代目の「横浜駅」は
10月15日に開業しました。

Aは神奈川駅、Bは平沼駅(現在廃止)

「横浜駅」の位置は2回移動します。
今日はさよえる横浜駅の話しを紹介します。

現在の横浜駅は三代目です。
正確には三回の引越後、数回リニューアルが行われ、現在も工事中といった方が正しいでしょう。
(初代)
初代の「横浜駅」は現在のJR東日本根岸線「桜木町駅」で、
鉄道営業が日本で始まった駅であることは有名です。

No.288 10月14日(日)仮の借りを返す

東海道線の開通で、初代横浜駅が立地的理由から取り残されそうになります。

そこで「横浜駅」だけが東海道本線に接近する必要性から移転します。

最初の「横浜駅」
明治時代の横浜駅付近
県民共済ビルにある「横浜駅」を描いた錦絵パネルです

(二代)
二代目の「横浜駅」は
1915年(大正4年)8月15日
現在の横浜市営地下鉄高島町駅付近に建設されます。
遺構が残っていますので名残を見学することが出来ます。

二代目遺構

この場所も改めて現在の視点で眺めると東海道がカーブしていて無理があります。
二代目横浜駅は当時の駅舎建築としては見事なデザインでした。
この二代目横浜駅開設で「平沼橋商店街」が誕生します。
その後、横浜駅二回目の移動で寂れかかりますが、
1931年(昭和6年)12月26日に京浜急行「平沼駅」の開業でまた復活します。
1944年(昭和19年)11月20日に京急平沼駅が廃止されてしまいます。

(二代目焼失)
しかし、残念なことに“関東大震災”で「横浜駅」が焼失します。

明治時代の高島付近

(三代目横浜駅)
そうして震災復興計画で現在の(三代目横浜駅が
1928年(昭和3年)10月15日現在の場所に移動し開業します。

しかも表玄関は東口をで、西口はしばらくの間
「ぺんぺん草」の生える空き地でした。

No.265 9月21日(金)ぺんぺん草の後に

No.274 9月30日(日)巨大資本の東西戦争

(全国でも希有の駅移動)
横浜駅は二回位置を大きく移動しました。
小さな駅ならまだしも神奈川県内最大の駅を移動した訳ですから、良くあることなのか?
簡単に調べた範囲内でも
函館・千葉・博多には若干移動した記録がありますが2キロ移動した例はありません。
単に駅名で言えば
初代横浜駅を「桜木町駅」にせず「横浜駅」のままにし
新駅を「神奈川駅」にしても不思議では無いのですがね。
(そうなったら新幹線は新神奈川駅に)
鉄道は最も政治力の働く領域です!ので何か思惑があったのでしょう。
我田引鉄の世界ですから。

 鉄道と国家「我田引鉄」の近現代史

(大岡川を越えられない)
横浜は幕末に創られたベンチャー都市ですから
城下町、門前町のような町の核がありません。
江戸時代の「核」を持たない街が“横浜”です。
良い面とマイナス面がありますがこの駅の大移動は結果的に横浜を柔軟に活かしたことになります。
鉄道創世記の頃、
城下町に県庁・市庁所在地から駅が遠い事例は多くあります。
“鉄道忌避”で古い街程、城下町中心部を外して路線が敷かれました。
常々不思議に思っているのが関内に長らく駅が無かったことです。
横浜は1964年(昭和39年)まで国鉄が“大岡川”を越えることはありませんでした。
地元の人はあまり気がつかないようですが、横浜を訪れる人にとって横浜港(山下公園・大桟橋)や山手、中華街は奥座敷、特別な場所に入り込む“奥座敷”感覚があるように思えます。
大昔、関内エリアにコミュニティFMの可能性を探るために調査を行ったことがありますが、「中華街」「山下公園」「元町」「山手」が横浜のラビリンス(迷宮)感覚があるという聞き取り結果が出ました。
地域の核となる「横浜駅」が移動しても魅力を失うことなかったのも横浜の面白さの一つではないでしょうか。(先人はご苦労されたようですが)

(横浜は開港とともに幕末の経済特区)
No13 1月13日(金)幕府新規事業に求人広告

(横浜駅西口の変化)
No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる

5月 19

No.140 5月19日 ねぎしへいそご!

今日は殆どの方には無用の(鉄道ネタ)です。
少し 横浜の歴史をかいま見ることができます。
1964年(昭和39年)の今日、
国鉄桜木町駅から磯子駅まで延伸し「根岸線」が誕生した日です。

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現在の磯子駅、海側は工場地帯
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桜木町駅、上りは京浜東北、下りは根岸線と掲示

(素朴な疑問)
1.根岸線開通前、横浜駅〜桜木町駅は何線?ご存知ですか?
2.「京浜東北線」と「根岸線」は同じ?違う?
3.磯子駅まで延伸したのに何故「根岸線』?

“根岸線”、“京浜東北線”に関して、 Wikipediaでは
俗に言う“荒らし”対策がとられている炎上ネタとなっています。
 (どこを争いたいのか?よくわかりませんが)
 (2012年5月現在)

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疑問1ですが
根岸線開通前、横浜駅〜桜木町駅間は「東海道本線支線」でした。
日本で一番最初の鉄道は、東海道本線の支線として条件が揃ったので
 着工しました。次第に現横浜駅と現桜木町駅間は“鉄道計画”の主軸から脇に追いやられていきます。→市庁舎・県庁のある“関内地区”に駅がない!!!

疑問2は
「京浜東北線」と「根岸線」は区別して使用されています。
「京浜東北線」は“通称路線名”
「根岸線」は“路線名”です。
 →良く判んない!ですね。
(解説)
■1964年(昭和39年)5月19日
国鉄桜木町駅から磯子駅まで路線が延伸され、横浜駅から磯子駅(現在は大船駅)を“新線名”として「根岸線」と命名しました。
一方、横浜駅から大宮駅までを「京浜東北線」と呼んでいます。この「京浜東北線」という名称は“通称路線名”として便宜上付けられている名称です。
※『京浜東北線」は戦前、横浜〜東京の東海道本線、東京〜大宮の東北本線を使った近郊線が通称路線名として使われるようになったものです。
東海道本線の近郊線が京浜線
東北本線の近郊線が東北線と言われ、両線を合わせて「京浜東北」としたのが始まりです。
京浜東北線に対し、
新しく開通した根岸線は、横浜駅〜桜木町駅路線(東海道本線の支線)に桜木町〜磯子間の新しい路線が加わって開通した路線として設定されました。
(彷徨える横浜駅)
ところが、この横浜駅が初代(桜木町駅)から二代目(高島町)に、そして現在の位置に(三代目)として移動したため路線区間の設定が複雑になりました。
【横浜駅〜桜木町駅】の歴史を簡単にマップに示しました。

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■さて「根岸線」の由来ですが、
これも正直良くわかりません。
磯子線にしても不思議はありませんが、何故「根岸線」となったのでしょう。
少々調べてみました。
根岸線には意外な顔があります。
桜木町から磯子(現在は大船)までの路線管轄は「JR貨物」と「JR東日本」が共同で担っています。
そのため日本貨物鉄道(JR貨物)と神奈川臨海鉄道の管理駅もあります。
ここの路線には日本最大規模の製油所である「JX日鉱日石エネルギー」根岸製油所がありそのタンク車(タキ)の操車場が広がっています。
車両基地と呼ぶほどの規模ではありませんが、
国鉄時代の重要な貨物駅であったことは間違いありません。
根岸駅、意外と大きな駅です。

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根岸駅
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磯子駅

現在も一部が残る米軍の根岸住宅があったことと少し関係があるかもしれません。

(余談)石崎川路線
野毛の湘南鉄道予定路線だった街区のなごり同様に
高島町(二代目横浜駅)から保土ケ谷駅に繋がっていた旧東海道本線のなごりがまだ残っています。

3月28日 京浜湘南電鉄連結地点(野毛)
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ピンクの帯(着色)が初期東海道本線跡、JR住宅から現在はマンション群に

(おそまつでした)