5月 28

【絵葉書の風景】中華街

この風景を手にした時、最初横浜中華街であるという確証が無かった。昔の横浜中華街を知っている方ならすぐにわかる風景も、初めての者にとっては不明となる。
よくある風景として長崎の風景とも考えられたが、拡大してみて、「山下町」等の文字を確認、横浜中華街の風景であることが確定した。
ただ、時代は戦前であること以外には確証が無い。

風景を読む
中華街大通りの風景。
左手には市会議員をつとめた沼田安蔵が経営していたという中華料理店の平安楼。右手手前のビルは「加賀ビル」でバー、ホルスタインビールの看板も見える。
奥には聘珍楼、左手には萬新楼の看板が確認できる。電信柱には「安楽園」の名も見えるが、この時代の面影は「安楽園」(明治36年創業、平成23年閉店)が最後だったかもしれない。
当時の一般的な看板として「仁丹」「森永牛乳」も確認することができた。
※「holsten beer」の看板
1879年5月24日創業のドイツビール銘柄。現在もある銘柄らしい。

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3月 31

第881話【時折今日の横浜】3月30日4mの背伸び

1934年(昭和9年)3月30日
「横浜税関庁舎(クイーンの塔)竣工(横浜税関百二十年史)」
横浜三塔の一つで三塔の内で、昭和に竣工したのがクイーンと呼ばれる「横浜税関」です。設計は<横浜税関>によると
「吉武東里氏(国会議事堂も設計)と伝えられているが、詳細は不明」としています。
その他の資料の多くは「吉武東里設計、戸田組施工」と表記しています。
何故?本元とデータが違うのか 良く判りません。
(4mの背伸び)
三代目横浜税関建設にはエピソードが残されています。
「関東大震災(大正12年)で税関庁舎も倒壊。その後、財政窮乏の続いた時代に、税関の仕事は平屋のバラック建で行われていた。そんな折り、時の大蔵大臣高橋是清が「失業者救済のため土木事業を起こすべき…」との発言。
1932年(昭和7年)第22代税関長に就任した金子隆三は、この意を受け
失業者救済をかねて三代目税関庁舎(現庁舎)建設に着手し、急ピッチで建設が進められます。
この時に、横浜港界隈には“神奈川県庁(高さ49m)”と“横浜開港記念会館(高さ36m)”という当時の高層建築物が2つランドマークとなっていました。
塔の高さ47mの税関庁舎の当初の設計図を見た金子税関長は「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき…」と言及。設計図が書き直され、当初より4m高い現庁舎“横浜税関(高さ51m)”が完成したそうです。」

だからですかね、たしかに 少し首長に見えます。
竣工データは
SRC造、地上5階+塔屋。敷地面積が6,875m2、延床面積が12,184m2です。

(簡単な横濱税関史)
安政元年、米国との間に「日米和親条約」が結ばれます。
安政五年に「安政五カ国条約」が締結されこの条約ににもとづき、日本(徳川政府)は
1859年(安政六年六月)
開港し関税と外交事務をあつかう部署「神奈川運上所」を設置します。
場所は、現在の神奈川県庁本館のある場所で記念碑が建っています。
1866年(慶応二年)の大火で焼失
1867年(慶応三年三月)再建
18871年(明治4年)組織変更に伴い「神奈川運上所」を「横浜運上所」に改称。
※歴史のif
神奈川県は横浜県となったかもしれませんね。
No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日

その後、
1872年(明治5年)11月
「横浜役所」における「運上所」を「税関」と統一し関東大震災前までは、日本大通りが横浜港とつながる現在の象の「鼻パーク一角」にありました。
1885年(明治18年)11月
二代目税関庁舎竣工。清水満之助の請負といわれています。<中央に塔を配した煉瓦造2階建ての2代目庁舎><冬の横浜税関>

関東大震災ですべて倒壊、

倒壊した横浜税関

1934年(昭和9年)3月30日
横浜税関現本関庁舎(クイーンの塔)が竣工します。

竣工間もない横浜税関
占領中新港橋から税関

1945年(昭和20年)8月30日
横浜税関本庁舎は接収されアメリカ陸軍第8軍司令部が置かれました。一時期、税関長室をマッカーサーが使用していたこともあるそうです。
税関業務は、仮庁舎で行われ
1953年(昭和28年)11月にようやく接収解除となり 現在の場所に戻ります。

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7月 17

第849話 横浜・新橋、横浜が先?

日本鉄道事始め、この辺に詳しい方には当たり前のことですが
日本最初の駅「横浜」「新橋」は全く同じファサード(顔)を持っていました。

初代横浜駅
初代横浜駅
初代新橋駅
初代新橋駅

設計は共にアメリカ人建築家リチャード・ブリジェンス、設計者が同じなんだから同じでもおかしく無いけれども、普通<格>をつけてしまうのが近代日本の定番。ところが「横浜」「新橋」は本当にうりふたつ。
横浜駅には<噴水><ガス灯>が写っています。

鉄道の歴史をざくっと
1872年6月12日(明治5年(旧暦)5月7日)
「横浜」「品川」間の鉄道路線が開通し、横浜駅(初代)が開業。
品川駅は「木造平屋2棟、現在の位置よりやや横浜方、海に面したのどかな駅」だったそうです。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/Shinagawa_Station_in_early_Meiji_era.jpg

1872年10月14日(明治5年9月12日)
四ヶ月後に「横浜駅」と「新橋駅」が開業。初日は式典と明治天皇御座乗特別列車の運行のみで営業は翌日からなので営業は1872年10月15日ってことです。
この間を<仮営業>と呼んでいますが、個人的には前述の1872年6月12日からしっかり<営業>しているのでこの日を鉄道の発祥の日にして欲しいところです。
さらに!さらに ここがポイント!
手元の資料だけですが
リチャード・ブリジェンス設計の「横浜駅舎」「新橋駅舎」
1872年6月12日開業が「横浜駅舎」
1872年10月14日開業が「新橋駅舎」
ってことは リチャード・ブリジェンス設計の横浜駅は新橋(汐留)より古い、最初ってことですね。
まあ どうでもいいことですが この辺はっきりしておきたいところです。

旧新橋駅再現
旧新橋駅再現

light2016-04-15-18-28-07light初代横浜駅前

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6月 16

第821話 1989年(平成元年)6月16日ドーム復元工事

1989年(平成元年)6月16日の今日
開港記念会館ドーム屋根の復元工事が完成した日です。ドームなし開港記念会館133開港記念会館
「横浜市開港記念会館(ジャックの塔)」は横浜三塔の一つです。
この横浜三塔は様々なシーンで取り上げていますので今日はジャックのドームに絞ります。
横浜市開港記念会館は
辰野式フリークラシックとよばれる様式で横浜の近代建築を代表するシンボルです。
竣工は1917年(大正6年)当時の名称は「開港記念横浜会館」
前身は「町会所」でその後「横浜貿易商組合会館」となり「横浜会館」に変更。
「横浜会館」は当時の商人たち(現在の横浜商工会議所)の<シンボル>でもありましたが明治39年に焼失してしまいます。
開港50周年をキッカケに再建計画が起こり大正3年9月に起工、同6年6月に竣工します。その後
関東大震災で大被害を受けほぼ焼失してしまい改めて再建計画が持ち上がります。
関係者は<復活・復元>を選びます。light20150609192226_001 1927年(昭和2年)震災復旧(復元)工事が竣工します。
理由は未確認ですが
この時、ドーム屋根は復元されないまま1980年代まで時が流れます。
1959年(昭和34年)に「横浜市開港記念会館」と名称を変更し、
ほとんどの人が<ドームのない>開港記念会館しか知らなくなってしまいました。
ところが
偶然、
1985年(昭和60年)横浜市内で創建時の設計図が発見されます。
当時の基本構造設計は福田重義、山田七五郎、佐藤四郎
施工が清水組(現在の清水建設)
この設計図を元に<市制100周年><横浜博覧会YES89>に合わせ
1989年(平成元年)6月16日の今日
竣工当時のドーム屋根等が復元されます。
「開港記念会館」は横浜市内に残る復活の象徴となりました。light_E開港記念会館
この年、国の重要文化財指定を受けます。
2001年(平成13年)に一部補修、さらに復元し再開館、現在に至ります。
No.375 1月9日(水)残した大正の財産
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=208

※実は初代「開港記念会館」建設に際し<小さな謎>を発見しました。
この謎に関しては別立てで中間報告します。
【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?(2015年6月16日アップ)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7575

その他の6月16日
1870年(明治3年)6月16日の今日
「英国公使パークス、外務大輔・寺島宗則、神奈川県知事・井関盛艮会談。「新規波戸場取設」を提案。(開港資料館)」
開港時から殆ど変わらない港湾施設では困る!と築港を促す要求が英国から神奈川県に出されます。

(過去の6月16日)
No.168 6月16日(土) 6月のカナチュウ(加筆修正版)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=441

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10月 26

1954年(昭和29年)6月30日東口「横浜ホテル」

1954年(昭和29年)6月30日
「西区高島通り1丁目5番地にある横浜ホテルを東急が買収(東京急行50年史)」
11390062_1010016569042447_892204102331503939_n
<東京急行50年史より>新館完成後か?
light横浜ホテル
昭和24年頃 買収直前か、買収後改装前のものと思われます。

(東西戦争)
神奈川県下、東急と西武の熾烈な開発競争が行われました。小田原箱根伊豆における東西戦争の歴史は獅子文六の小説にもなり有名です。
箱根は東急傘下の小田急と西武が、伊豆をめぐっては東急と西武が鉄道・バス路線でガチンコ勝負となります。
この東西戦争、巷のネタにはあまりなっていませんが、ここ横浜でも戦後熾烈な企業競争が行われました。
市内の拠点を俯瞰してみると 新横浜、磯子、八景島あたりに西武が拠点を置いていますね。
「横浜ホテルを東急が買収」した1950年代は東急が本格的にホテル事業に進出し始めた時期にあたります。
ヒルトングループとの提携をベースに東急グループに高級ホテル事業を成功させたいと
考えます。まず1954年(昭和29年)3月に軽井沢パークホテルを買収します。その3ヶ月後には<横浜駅前戦略>の幕開けとなった横浜駅東口(西区高島通り1丁目5番地)にあった神奈川都市交通の経営する小さなホテルの買収でした。
一方の西武鉄道も
1954年(昭和29年)10月1日
旧東伏見宮別邸を横浜プリンス会館として開業、
1960年(昭和35年)9月14日には
横浜プリンスホテル新館が開業し横浜のレジャー部門に楔を打つ形で進出を図ってきます。
(ヘッドハンティング)
「横浜ホテル」社長にはキャピー原田と呼ばれた和歌山県出身の両親を持つ日系アメリカ人「原田恒男」が就任。彼は1921年(大正10年)カリフォルニア州に生まれ、日米戦争で日本語情報将校として従軍します。終戦後はGHQ経済科学局(Economic Scientific Section)局長であるウイリアム・F・マーカット少将の副官(中尉)として配属され、当時の大蔵大臣・池田勇人とマーカットとの国家予算など重要な交渉の通訳を担当した人物です。
キャピー原田に関しては<日米野球の恩人>として有名で、この「横浜ホテル」社長だったことに驚く人も多いと思います。
戦前「大東急」を作り、戦後も東急電鐵王国を築いた五島慶太の才能の一つに人材力、事業展開に必要な人物のスカウト力がありました。
GHQを退官後、ハワイアン・トラベル・サービスホテルという日米旅行中心の代理店を開設していた原田恒男もその一人でした。
買収した「横浜ホテル」は木造モルタル造り、二階建て27室という旅館に毛の生えた小さなホテルでしたが経営陣には
社長は前述の原田恒男
取締役には五島昇、
五島慶太の懐刀「大川 博」
神奈川都市交通の「伊藤 福一」
※ちなみに神奈川都市交通の命名は「大川 博」
といった錚々たるメンバーが参画します。
同年12月27日に新館増築、本館改装を行い新規営業を開始します。
さらには
1955年(昭和30年)4月 「横浜ホテル」は先に買収済みの軽井沢パークホテルの経営にも当たることになります。
そして
1959年(昭和34年)に念願の東京に、銀座東急ホテルが着工し本格的なホテル経営に参入することになります。
1961年(昭和36年)4月に「横浜ホテル」は「横浜東急ホテル」へ商号を変更します。

(東口から西口へ)
東急電鉄は以前から横浜駅西口を軸に相鉄線との連結を含め本格的な横浜進出を狙い、「横浜ホテル」は東口から西口にシフトします。
1962年(昭和37年)3月27日
高島のホテルを閉鎖し横浜駅西口に横浜東急ホテルを移し新規オープンします。
この年、11月23日には横浜ステーションビル(シアル)が開業し、横浜駅西口駅前の核施設となります。11253231_1010023155708455_8184732838177142553_n 10492318_1010016622375775_2405860058021609436_n 2002年「横浜エクセルホテル東急」と名称変更。

2011年3月31日に閉館
現在は、「エキサイトよこはま22」計画が進行中です。
(関連ブログ)
No.328 11月23日(金)横浜駅東西戦争史
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=263
No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=328
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=604
No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=530
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=399

※少し長くなりましたが まだまだ
この草創期の東急ホテル事業に関わった人物が面白い!
「横浜ホテル」初代社長の「原田 恒男」
彼の人脈に銀座東急ホテル・東京ヒルトンホテルの「星野 直樹」
星野ファミリーは横浜と深い因縁があります。
東映・大映との関係、平和球場での日米野球
いずれ 掘って!みたいと思います。

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6月 16

【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?

「一寒村に過ぎなかった横浜が〜」
枕ことばとして使われる横浜開港のフレーズです。小さな村でしたがそれを<寒村>という枕詞で形容するのは止めよう派です。(少数?)
<小さな村>たしかにその通りですが、私はもうこの苔むした表現は卒業したほうが良いなと考えています。
開港前の横浜村は風光明媚な<観光地>でもあり、そこそこ豊かな暮らしをしていました。

開港によって横浜は開港特区となり、その中心地となった開港場は国内外のビジネスが集積する都市となっていきます。明治になり、開港場でビジネスを展開する貿易商人たちが日々起こる案件を評議する目的で「町会所」が設立されます。横浜商工会議所の原点です。
light_時計台神奈川県全図1874年(明治7年)に竣工した町会所は、石造亜鉛葺二階建て、一部四階建て延765㎡の壮大な洋館として明治38年に撤去されるまで開港場の「時計台」としてもランドマークの役割を果たします。
鐘塔はドーム風に設計され、時計はスイスの商社<ファーブルブラント商館>が輸入したものを取り付けます。light_町会所時計台

町会所は1890年(明治23年)に「横浜貿易商組合会館」と改称し
その後「横浜会館」と呼ばれるようになります。明治30年代半ばにはこの「横浜会館」も老朽化し明治38年に改修工事のため解体工事が始まります。
この時「時計台」も撤去されます。
翌年明治39年に焼失し、改修を断念します。
1909年(明治42年)横浜開港50周年を機に、「横浜会館」再建計画が持ち上がり資金集めが始まり大正3年9月に起工、同6年6月に竣工したのが現在の愛称ジャック「横浜市開港記念会館」です。当時は「開港記念横浜会館」と呼ばれました。開港記念会館夜景

今回のテーマは、この「町会所」にあった<鐘>です。
平野光雄の「時計亦楽」(昭和51年10月25日、青蛙房刊)横浜町会所時計塔の項に下記のような記述がありました。
「付記。『開港記念横浜会館図譜』(大正六年十一月刊)を見ると、旧町会所時計塔に設置された時報用釣鐘(梵鐘風の和鐘)の写真が掲載されており、当然、大正六年までは釣鐘が存在していたことを物語っている。(以下略)p98」梵鐘

開港記念横浜会館図譜<え?梵鐘風の和鐘?!>
この町会所は1874年(明治7年)に竣工、石造亜鉛葺二階建て、一部4階建て延床765㎡の壮大な洋館でした。ここには町役所や歩合金徴収所、貿易商組合事務所などが入っていました。4階には文明開化を象徴する巨大な時計塔が設置され、鐘塔はドーム風に設計され、前述の通り時計台の機械はファーブルブラント商館が輸入しジェームス・ファーブルブラント自ら塔屋に登って取り付けを指揮したそうです。
※JamesFavre-Brandt
http://www7b.biglobe.ne.jp/~scemo3440/favre-brandt.html
http://www7b.biglobe.ne.jp/~scemo3440/favre-brandt2.html

時計は時刻を刻みますが、見える範囲でしか活用できません。
そこで、<和製の梵鐘風の釣鐘>を撞き<時報>とした訳です。
鳴らされた時刻はわかりませんが、例えば正午に「ゴーン」と鐘が鳴ったお寺の無い開港場はどんな感じだったのでしょう。居留地の外国人には<クールジャパン>だったのかもしれません。
「時計亦楽」の著者も疑問を呈していますが、
この「釣鐘」は何故和風だったのか?
その後、この釣鐘はどのような運命をたどったのか?

開港50年記念祭 弁慶の釣鐘と提灯1909年(明治42年)開港五十周年の年、市内では様々なお祭り、式典が開催されます。開港五十周年を祝う<弁慶の絵柄の鐘楼が写った絵葉書>
この絵葉書には「この鐘の由来」がおぼろげに見えます。
「旧横浜会館時計台時報に用いたる者なり」
新しく制定された市章<ハマ>マークの提灯と、横浜会館で時報として使われていた釣鐘が弁慶に担がれている光景です。その後の調べで、弁慶の鎧は陶磁器で作られているそうです。
現代のように、プラスチック素材ではなく当時の最適技術としての陶磁器技術が用いられていたことに感銘と納得感がありました。

さて、ここに登場する「弁慶の鐘」とはどんな意味合いだったのでしょうか?
「弁慶の釣鐘伝説」という話は全国にあるようで、そもそもは
三井寺(園城寺)金堂に伝わる
弁慶が“比叡山に持ち帰った”という伝(つたえ)のある鐘のことで
「ある日、弁慶一行が三井寺にやってきて、ひと暴れした後、このお堂の釣鐘を引っ張り出して比叡山に持って帰りました。この鐘は、俵籐太が琵琶湖の竜神の頼みで、百足を退治して、そのお礼に竜宮から貰い、三井寺に寄付したと言伝えがあります。さすがの弁慶も簡単には持ち上がらず、引き摺っているのが、よくわかります。
それで、この鐘を「弁慶の引き摺り鐘」と言うようになりました。」 とあります。
この他
●鳥取県の大山寺の釣鐘
弁慶の釣鐘(寿永の鐘)
弁慶の怪力 鳥取県の大山寺の釣鐘を、一日で島根県平田市鰐淵寺まで担ぎ持ち帰った。18歳の修行僧時代のことで、なんと 101Kmの距離を担いで運んだそうです

●石川県金沢市石浦神社拝殿
「石川県金沢市石浦神社拝殿弁慶に伝わるエピソードに、「弁慶の釣鐘引き」の話がある。?〜1189。源義経(1159〜1189)の家来といわれているが、大体が室町時代成立の『義経記』によるもので、その生涯は明らかではない。
主君に最期まで尽くし、かつ怪力無双の豪傑ということから人気が高く、能「安宅」や歌舞伎「勧進帳」では主役である。」
と解説されています。

●出雲市の鰐淵寺
にも伝承があります。

大切な梵鐘を移動させた<因縁>を伝えるための物語のようです。こんなに大切な梵鐘を弁慶によって移動させたのは<これこれしかじか>という訳です。
「横浜会館」の時計塔(横浜町会所時計塔)の鐘は
どこから来て どこに行ったのか?
横浜沿革誌残念ながら いまだもって謎のママです。何かの資料が発見されわかる日がくるかもしれません。開港場の時報が<ゴーン>だったことは、当時の開港場の音の風景としてはかなり面白いエピソードではないでしょうか。

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5月 18

【市電ニュースの風景】№20

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。№201931年(昭和6年)5月
十四・五・六日 伊勢山皇大神宮大祭(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂下車)
十五日 『郵船』浅間丸入港(ホノルルより午前中四号岸壁へ)
十五日 弘法大師誕生会ならびに詠歌大会(電車及バス本町一丁目下車)
=午前十一時より本町開港記念会館にてー入場無料=
十五日より十八日まで
第四回掃部山バザー(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂又は雪見橋下車)
=マネキン劇場支那獅子舞其他余興沢山=
十六日 名古屋高商對横濱高商野球戦(午后三時横濱公園球場にて)
十六日 基督教婦人講演会 入場無料(午后二時尾上町指路教会にて)
十六・七日 神奈川金毘羅神社大祭(電車及バス 青木橋下車)
十六・七日 横濱専門学校記念祭(電車 六角橋終点より約四町)
=中等学校陸上競技会、音楽会、野球試合、提灯行列等ー入場無料=
18日シボレー大キャラバン隊(20数台)到着、元横濱駅裏広場で展覧

懸賞標語
「おつと危い左右(当選者 松本藤四郎君)」
※アラビア数字は別の年表から追記したものです。

[キーワード]
■伊勢山皇大神宮
横浜の総鎮守「関東のお伊勢さま」と呼ばれている伊勢山皇大神宮は、開港後現在の場所に遷座されてものです。現在の位置する場所からほど近い戸部村海岸伊勢の森の山上にあった神社を明治初年に国費を以て創建したもので、開港場の総鎮守として明治から今日まで多くの参拝者が訪れます。light_横浜商店街通り077 light_横浜商店街通り071No.691 【横浜神社めぐり1】伊勢山皇大神宮
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5971

No.426 横浜で学ぶ(神社編1)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=146

No.338 12月3日 (月)八の1418(加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=252

■電停 紅葉坂・野毛坂
横浜は坂の多い都市です。light_紅葉坂-1light_伊勢山電停

■『郵船』浅間丸
「太平洋の女王」と呼ばれた浅間丸。主に横浜-ホノルル-サンフランシスコ航路に就航し多くの日本人と訪日外国人を運びました。
ロサンゼルスオリンピックに出場した西竹一男
ハリウッドスターのダグラス・フェアバンクス
ヘレン・ケラー
交換船・海軍徴用船となった後
1944年(昭和19年)2月24日に魚雷を受けて損傷しますが沈没は免れます。修復後マニラから高雄へ向けて航行中魚雷が命中し沈没。

■四号岸壁
新港埠頭で客船用に多く使用された埠頭です。light_20150408165442 light_新港埠頭上空

■掃部山(かもんやま)
別の機会に詳しく紹介します。
■尾上町指路教会
指路教会は最初の横浜居住地39番から、現在地、太田町、住吉町を経て1892年(明治25年)再び現在地に戻り、ヘボンの尽力により赤レンガの教会堂が建てられました。初代指路教会は
設計:サルダ 1892年(明治25年)竣工
関東大震災で倒壊。現在の建物は大正15年竹中工務店の設計により再建されました。横浜市認定歴史的建造物です。

■神奈川金毘羅神社
大綱金刀比羅神社
「横浜の金刀比羅(こんぴら)さん、大神様の尊き御神徳を知る数多くの会社経営者を始め、船舶関係、農業関係、建築関係、医療関係、民衆に至るまで、十六神の大神様の御神徳を頂ける神社であります。」
旧東海道、神奈川宿台の坂に鎮座、街道の安泰と袖が浦神奈川港に出入りする船は海上安全を祈願した神社です。light_神奈川金毘羅

■横濱専門学校
神奈川大学の前身の校名。light__9145936light_P2090159(戦前の歩み)
1928年(昭和3年)
米田吉盛が横浜市中区桜木町に「横浜学院」を開設
現在の西区桜木町6丁目34番地にあった「桜木会館」の1階と2階を借り学校を開校。
同年12月
横浜学院、中区西戸部町富士塚に移転。スクリーンショット 2015-05-18 16.36.43スクリーンショット 2015-05-18 16.36.061929年(昭和4年)
専門学校令により「横濱専門学校」(法学科、商業理財科)を開設
1930年(昭和5年)
六角橋校地(現在の横浜キャンパス(横浜市神奈川区六角橋)へ移転
1939年(昭和14年)
工学系の3学科(機械、電気、工業経営)を新設
1945年(昭和20年)
GHQによって一時的に六角橋校地が接収
大倉山の大倉精神文化研究所と三ツ沢の県立第二横浜中学校(現横浜翠嵐高校)にて授業を再開。

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3月 8

【ミニミニ今日の横浜】3月4日

今日は簡単に

1947年(昭和22年)の今日
「野毛にマッカーサー劇場(実演と映画封切り)開場」
野毛の一角に戦後一時期占領軍司令官<マックアーサー>の名の劇場が野毛にありました。
位置は現在のJRAあたりで
美空ひばりが本格デビューを果たした「横浜国際劇場」に隣接した場所に同時期開館しました。

「マッカーサー劇場」は地図・写真記録等から<マックアーサー劇場>となっていましたが、記録ではマッカーサーとなっています。
Douglas MacArthur 確かにマックアーサーと読むのが素直ですが、スコットランド・ゲール語で息子を意味する<アーサーの子MacArthu>は一般的にマッカーサーと表記されています。
http://www.hamakei.com/photoflash/816/

野毛の「横浜国際劇場」は日本映画・演芸・歌謡ショー中心の劇場で
「マッカーサー劇場」は洋画専門館としてオープンしました。
(占領の時代)
1945年(昭和20年)に戦争が集結し、米軍が横浜市域の多くを接収します。米国駐留軍は軍事施設を初め、住宅施設・補給施設そして文化施設を横浜に設置します。
特に住宅が多かったためか<映画館、劇場、スポーツ等>の文化施設が横浜中心部に開設します。
占領文化施設の一部を下記に示します。
「横浜赤十字クラブ」「バンカー ズ・クラブ」「ゴールデ ンドラゴン・クラブ」「ク ロスロード・クラブ」「ゼブラ・クラブ」「コロニアル・クラブ」「セブ・メス・ホール」「ルー・ゲーリックスタジアム(平和球場→横浜球場)」
伊勢佐木町に開設された「オクタゴン劇場(横浜松竹劇場の跡廃止)」
開港記念会館は「メモリアル・ホール」
松屋伊勢佐木町店は「横浜PXメインストア」

米軍施設ではない「マッカーサー劇場」は、アメリカの民間企業が建てたものなのか?
当時の神奈川新聞では
「其の名も”マッカーサー劇場”元帥を讃へ横濱野毛に開館」とタイトルが書かれていますので、戦後日本が占領軍司令官を多く<讃え>た施設の一つといえるでしょう。
戦後の日本、アメリカに対し<節操が無い>のか<日本独特の柔軟性>なのか議論の別れるところですが、占領軍へのプレセンスをいち早く行った横浜市民の受容性には感服します。
「一般からその館名を公募してゐたところ、廳募は1万7千通に上った。二十三日にその審査を開催、堀内敬三(音楽家)北林透馬(作家)中山富久(作曲家)橘正禄(舞踊家)青木純二(神奈川新聞文化部長)平古壽次(瑞穂興業社長)などが厳選入選候補としてマッカーサー劇場、ミューズ劇場、希望劇場、セントラル劇場、オリンパス劇場などが残った、さらに審査の上で確定するが、進駐軍当局の認可を得てマッカーサー劇場と命名されると、日本では最初のマックアーサー元帥を讃える劇場が横濱に誕生するわけ、尚この劇場では横濱で最初のダンシングチームや市民演劇團も育成していくといふ。
(昭和21年9月26日付神奈川新聞)」

ちなみにこの1947年(昭和22年)時代
横浜市役所は、マッカーサー劇場から徒歩5分
五代目市庁舎(1944 年~1950年)として旧老松国民学校(老松中学校)にありました。

(関連ブログ)
No.139 5月18日 マッカーサーに嫌われた男
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=476

No.252 9月8日(土)横浜終戦直後その3
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=352

No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=363
(3月4日関連過去ブログ)
No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=555

Category: 横浜に因んだ人たち, 横浜の映画, 横浜の近代建築, 横浜の駅, 記憶に残るスポット | 【ミニミニ今日の横浜】3月4日 はコメントを受け付けていません。
11月 14

第694話【一枚の横浜絵葉書】「桜木町横浜市授産所ノ偉観」

区役所は、歴史的地勢や例外を除いて概ね区の中心に近いところに設置されていますが、
中には様々な事情で区役所が移動した区があります。
区役所位置図今日は<一枚の絵葉書>から一時期桜木町駅前に中区役所があった風景を紹介します。
約20年間、桜木町駅前に中区役所がありました。かなり『西区』よりにあったんですね。
No.326 11月21日(水)彷徨える中区役所
※近年でいえば、南区役所は端っこに移転しますね。ほぼ中区といっても良いくらいの位置です。
中区役所位置図

さて、ここで一枚の絵葉書を紹介しましょう。
「桜木町横浜市授産所ノ偉観」です。
light_資料絵葉書009

(撮影位置)
このシーンが撮影されたのは恐らく、下図の位置でしょう。
撮影位置

現在ならJRガード下近くの公衆トイレ近くでしょうか。
鉄道発祥の地「初代横浜駅」(現 桜木町駅)前には当初から噴水がありました。
Y校イラストマップ

No.428 Y校創設地はどこだ?

No.429 Y校創設地はどこだ?2

(授産所)
ここに写っている煉瓦作りの建物が「興産館」で1929年(昭和4年)に竣工しました。

「興産館」は震災復興政策の一つとして建設されました。ここに「市中央授産所」がありました。<授産所>あまり聞き慣れない言葉かも知れませんが、
「授産所(じゅさんじょ)とは、身体障害者や知的障害者、ならびに家庭の事情で就業や技能取得が困難な人物に対し、就労の場や技能取得を手助けする福祉施設である。施設の設置は、おもに社会福祉法人などの団体によって行なわれている。(wikipedia)」
授産所=授産施設は<生活弱者のための就労支援施設>です。

1927年(昭和2年)横浜市が復興社会事業費より28万円を捻出して着工します。
1929年(昭和4年)「興産館」桜木町駅前授産所の場所に開館。
1929年(昭和4年)6月11日に「市中央授産所」として桜木町に設置されます。
1930年(昭和5年)5月11日「 横浜興産館主催の国際文化映画大会が5日間開催」※こんな記事も見つけました。
この絵葉書の情景、拡大してみると看板に人が写っています。「●●展覧会  」という看板を製作しているように見えます。最初、『復興記念横浜大博覧会』の看板かな?と思いましたが、拡大してみると違っていました。この博覧会もついでに紹介しておきます。
看板製作中

(復興記念横浜大博覧会)
1935年(昭和10年)3月26日から『復興記念横浜大博覧会』が5月24日まで山下公園を中心に開催されます。
大正12年の<関東大震災>から立ち直った横浜市を国内外にアピールするために横浜市が復興を記念して産業貿易振興を含め様々な催しが開催されました。
山下公園に約10万平方メートルを会場を設置し開催されました。来場者は3,299,000人とされています。
light_横浜式典001 light_横浜式典009 light_横浜式典011第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント

(中区役所)
1942年(昭和17年)3月 中区役所が港町1丁目(市役所内)より桜木町1丁目の興産館へ移転します。
1944年(昭和19年)4月1日西区が中区より分区して誕生しました。
※これによって、中区役所は<中区>の端に位置することになります。
1961年(昭和36年)に住吉町4丁目の横浜銀行ビルを改装し移転するまで、約20年中区役所は桜木町駅前にありました。
1983年(昭和58年)11月21日(月)三度目、現在の場所に引越します。前川國男建築設計事務所の設計です。

(市役所去って)
桜木町駅前から「中区役所」が去ってしまい、
1968年(昭和43年)4月30日に「桜木町ゴールデンセンター」が竣工します。
現在の「ぴおシティ」です。

No.99 4月8日 陸の孤島対策はあるのか?

(まとめ?)
冒頭に明示しておきませんでしたが、この<興産館>の跡地は現在桜木町駅前の立体パーキングになっています。

Google earthで確認しておきます。
スクリーンショット 2014-11-14 3.54.08 Googleearth桜木町再度この絵葉書を眺めてみると、
light_資料絵葉書009中々良い姿ですよね。横浜は震災と空襲で多くの味わいのある建物が失われてしまいました。復古趣味になることには異論がありますが、失いたくなかった風景です。
この味わいを今後どう活かして行ったらいいのでしょうか?
少子高齢化で都市が萎縮して行くことは間違いありませんね。
ちょっと 時代を振り返るヒントが あったほうが これからはなお良いと思います。

7月 29

わだじゅんけん 物語

前回から続きます。
少し横浜から 離れます。
松屋中興の祖、内藤彦一は
東京商工会議所の議員をしていた頃、藤沢の鵠沼に1,000坪ほどの土地を別荘地として購入します。
近隣には後藤たま(帝國興信所創業者夫人)邸や、三輪善兵衛(ミツワ石鹸創業者)邸他 政財界の豪邸が立ち並ぶ別荘地でした。
http://kugenuma.sakura.ne.jp
上記サイトを参考に「内藤彦一 邸」周辺の別荘人脈を乱暴にプロットしてみました。
ここには、益田孝をはじめ多くの三井人脈が別荘を所有していたことが解ります。
lig_鵠沼に別荘作家芥川龍之介も
時期は少しずれますが鵠沼雑記に当時の様子を描いています。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card2328.html
当時、東京商工会議所は生活改善運動を掲げ「生活の簡素化」「住宅難問題」などを活動目標にしていました。
そこで内藤は「生活の簡素化」「住宅難問題」を実践する試みとして、
米国の組立家屋(ブレハブ住宅)を輸入し鵠沼に建てることを試みます。完成までにはかなりの苦労があったようです。シアトルの住宅会社アメリカン・ポータプル・ハウス社(American Portable Houses Co.)の組立家屋(プレハブ住宅)を発注しますが、船便で部材は痛み横浜港に荷揚げされた部材の通関業務にも苦労したそうです。これが日本初期の組立家屋(ブレハブ住宅)といわれています。
※1910年(明治43年)東京赤坂に建てられた藤倉五一邸がツーバイフォー住宅を導入しています。1920年(大正9年)7月に内藤邸は完工し、当時の建築雑誌や「主婦の友」といった家庭誌にも紹介されます。関東大震災で周囲の家屋が殆ど倒壊する中、内藤邸は基礎部分と20cm程度ずれが生じたものの戦後も長く現役だったそうです。この鵠沼 内藤邸を組立家屋(ブレハブ住宅)で建てる企てに一人の建築家が関わります。

彼の名は“和田 順顕(わだ・じゅんけん)”

松屋の成長期を支えた建築家です。
1912年(明治45年)に東京美術学校を卒業し、松屋・鶴屋に勤めます。
明治35年に帝大工科建築学科を卒業した古宇田 實の下で横浜「鶴屋呉服店」社屋建設に携わり建築の腕を磨きます。
その後、1915年(大正4年)に独立し建築事務所を開設します。
鶴屋・松屋との関係は切れず
1917年(大正6年)鶴屋創業者古屋徳兵衛の別荘を手がけます。
これが縁かどうかわかりませんが
1920年(大正9年)に
松屋支配人 内藤彦一別邸を輸入プレハブ材で建てます。
この時に、このプレハブ住宅を日本向けに設計し直しています。
lig_和田2x4設計<内藤邸建設にあたって和田が設計変更した図>
※H22日本大学理工学部 勝原・大川論文より

横浜に関わった多くの建築家の中で
和田 順顕の存在はあまり知られていないようですが
戦前に建てられた「日本郵船ビル」の存在だけでも十分に横浜に足跡を残した建築家としてその名を残していくに値すると思います。
戦後
孤高の建築家、神奈川県庁を設計した1898年(明治31年)生まれの小尾 嘉郎(おび かろう)が1889年(明治22年)生まれの和田 順顕の事務所に
1961年(昭和36年)1月勤めたという記録があり驚きました。
70代の和田 順顕、60代の小尾 嘉郎のタッグは凄かったでしょうね。
何かの折にもう少し調べてみたいエピソードです。

(和田 順顕年譜 ※は作品で一部掲載)
1889年(明治22年)4月21日 石川県金沢市に生まれる
1907年(明治40年) 石川県立第一中学校卒業
東京美術学校予科入学
1912年(明治45年) 東京美術学校卒業
横浜鶴屋 (設計・古宇田實)の工事に携わる
(古宇田實は明治35年帝大工科建築学科卒)
松屋本店工事に携わる。
1915年(大正4年) 建築事務所設立
※ワイキキ公園大噴水塔
1916年(大正5年)
※皇太子及各皇子御用机及椅子 設計
※田守呉服店
1917年(大正6年)
※古屋徳兵衛別邸
※田辺貸し洋館三棟
※森八本店
1919年(大正8年)
※日露戦役記念塔
※三津輪銀行 土浦支店→現在の常陽銀行土浦東支店
  常陽銀行土浦支店その後の土浦東支店?
1920年(大正9年)日本建築学会正員
※内藤彦一別邸
※紅屋菓子店 風月堂北浜店 他
1921年(大正10年)1〜10月 アメリカ各地を研究視察する
1922年(大正11年) 日本建築士会正員に推薦
平和博覧会嘱託
1923年(大正12年) 丸ビル内に建築事務所を設置
※田中源太郎酒造
※風月堂 横浜  他風月堂関係多数
※米津分店(横浜市馬車道)・米津武三郎(米津松造・三男)?
※米津支店(横浜市元町)・原田千太郎(松造・弟子)の可能性も
金沢市建築顧問
1926年(大正15年)
※安田善兵衛 邸 他
1927年(昭和2年)この頃からビル・大型建築設計時代
※日華生命京城支店・日本ビル・尾張屋銀行・日本電報通信社ビル(現在の電通) 他
1931年(昭和6年)
※日本医科大学第一病院 他
1933年(昭和8年)
※箱根登山鉄道 早雲山駅舎及千人風呂 他
1934年(昭和9年)6月 旧濱口吉右衛門邸(大崎)
昭和18年よりタイ王国大使公邸
1936年(昭和11年)8月
→ ※日本郵船横浜支店
lig_日本郵船ビル1936年(昭和11年)
※湘南中学校体育館 風月堂本店
1937年(昭和12年)
※日本郵船横浜支店構内倉庫
※慶應義塾大学医学部特別薬化学教室→信濃町メディアセンター
1938年(昭和13年)
※大日本航空金沢飛行場事務所
1947年(昭和22年) 金沢市建築顧問再嘱託
1952年(昭和27年)
※横浜セントラルビル
1958年(昭和33年) 加賀市建築顧問嘱託
※神奈川県中央児童相談所
※県立茅ヶ崎高校 体育館
1959年(昭和34年) 建築事務所を株式会社とし、代表取締役となる。
※神奈川県庁屋上会議室
1960年(昭和35年)
※横浜市立稲荷台小学校体育館
1962年(昭和37年) アメリカを視察
建設大臣表彰 黄授褒賞
1964年(昭和39年) 勲五等瑞宝章
1977年(昭和52年)12月13日 大磯町の自宅で逝去

今回は、単純に年譜を探し出し 補足しただけです。
神奈川県内に作品も多く(あまり現存していませんが)、
彼の足跡を追ってみても面白いなと思います。
文中でも紹介しましたが
60代にして殆ど個人で仕事をしてきた孤高の建築家、小尾 嘉郎(おび かろう)が
和田の元で晩年仕事をした話も 関心があります。
実は
1919年(大正8年)で紹介した
三津輪銀行 土浦支店→現在の常陽銀行土浦東支店ですが
1990年に福島県勿来から東京まで5泊で歩いたルート上で
たまたま写真に撮った 土浦の風景が残っていました。
lig_ppp041.jpgこれが 「じゅんけん」作の常陽銀行だとしたら 感激なのですが まだ未確認です。
だから【芋づる式余談から駒!】はたまりません。