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第963話 8月3日(金)

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1935年(昭和10年)8月3日の今日
「青木周三が12代市長に就任した」日です、
青木市長は
1939年(昭和14年)8月3日に再任されます。
ということで今回はこの8月3日ネタを元に

戦前の歴代市長に関して自分の記憶の整理をします。
まず戦前期の歴代横浜市長一覧

初代:増田知
1889年(明治22年)6月18日から1890年(明治23年)2月15日
※辞職
2代:佐藤喜左右衛門
1890年(明治23年)3月3日から1896年(明治29年)3月2日
※任期満了
3代:梅田義信
1896年(明治29年)6月3日から1902年(明治35年)9月20日
※1902年(明治35年) 6月10日再任 9月20日死去
4代:市原盛宏
1903年(明治36年)1月9日から1906年(明治39年)5月2日
※辞職
5代:三橋信方
1906年(明治39年)9月28日から1910年(明治43年)6月25日
※死去
開港50周年記念事業を担当。市章、市歌の制定。
6代:荒川義太郎
1910年(明治43年)9月10日から1913年(大正2年)11月13日
※辞職
7代:安藤謙介
1914年(大正3年)7月24日から1918年(大正7年)7月23日
※任期満了
8代:久保田政周
1918年(大正7年)8月26日から1922年(大正11年)5月27日
※辞職
9代:渡辺勝三郎
1922年(大正11年)11月29日から1925年(大正14年)4月10日
※辞職
10代:有吉忠一
1925年(大正14年)5月7日から1930年(昭和6年)2月26日
※1929年(昭和4年)5月7日再任 ※辞職
11代:大西一郎
1931年(昭和6年)3月3日から1935年(昭和10年)7月18日
※1935年(昭和10年)3月3日再任 ※辞職
12代:青木周三
1935年(昭和10年)8月3日から1941年(昭和16年)2月10日
※1939年(昭和14年)8月3日再任 ※辞職
13代:半井清
1941年(昭和16年)2月10日から1946年(昭和21年)11月30日
※1945年(昭和20年)2月10日再任 ※辞職
以上が戦前の横浜市長です。13代(再任を代替りとするか別にして)、13人が就任しています。
(戦前の市長任命)
戦前の市長の選ばれ方は少し複雑で半分官選、半分民選の性格をもっています。
通常戦前期の市長選出は、まず市会(市議会)で各派閥<政党>有力者(市議)が委員会を形成し、候補者の選出調整が行われます。ここに直接民意はありません。
ここで候補者が絞られ、候補者への意向確認と出馬要請が行われます。
正式に立候補手続きがとられると、市議会では投票で候補者三名に絞り込みを行い
「市長推薦者」が決まり内務大臣に上申され、内務大臣の裁可を経て正式就任になります。
支持母体対決が生じる場合には、政争が起こり、利害の一致等でスムースに決定される場合もあります。
この市長任命制度には問題点もありました。
三人の推薦者(候補者)には当然、党派の力学が有っての上での推薦になる訳で、
議会会派第一位の推薦者がそのまま「市長」として内務省において選ばれない事態も生じました。また、市長を補佐する「助役」の任命は純粋に市会の選挙で選ばれました。
市会議員にも選挙があり都度勢力が変わることで、半官選市長の市政運営は大変だったようです。戦前の市長は半分吏員でもありましたので政務調整には苦労したようです。
→現在も首長は<選挙>による民意で選ばれ、同じく選挙で選ばれた議会多数派との対決構図が生じることもあり、別な意味でねじれ構図の市長(知事)は大変です。
 
市長の力量も大いに関係しますが、上記の一覧を見ても分かる通り、
市長の<※辞職>が殆どです。任期満了で佐藤喜左右衛門(二代)と安藤謙介(七代)の二人だけでした。任期途中で亡くなられた市長もいらっしゃいます。

(12代市長 青木周三)
ここで、今回のテーマのキッカケとなった
青木周三について紹介しましょう。
1875年(明治8年)8月26日〜1946年(昭和21年)12月1日
もともと鉄道官僚畑から地方行政に関わった人物です。
山口県大島郡久賀町(現在の周防大島町)の出身で、
1898年(明治31年)第二高等学校を卒業。
1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業後鉄道書記。
1904年(明治37年)高等文官試験合格。
その後、鉄道事務官、鉄道庁参事、鉄道院参事、鉄道院理事を歴任し鉄道の経理畑・マネジメント分野を一貫して歩みます。
1919年(大正8年)筑豊鉄道専務取締役。
1921年(大正10年)4月1日初代横浜市電気局長(現交通局長)に就任。
1923年(大正12年)4月12日助役就任
  この年起こった関東大震災の対応に尽力。
1924年(大正13年)助役を辞任し鉄道省経理局長に転じた。
 さらに鉄道次官に昇任し、1926年(大正15年)まで務め退任。貴族院議員に勅選。
1929年(昭和4年)鉄道次官に再び任命され、鉄道事業に携わる。
1935年(昭和10年)横浜市長に選出。(〜1941年まで)
<市電誕生期の責任者>
青木周三は横浜市長となる前に、初の横浜市電気局長として市電の基礎を築いた人物です。
戦前から戦後にかけて、横浜の中心部の交通網として活躍した市電、
元々は「横浜電気鉄道」によって開通した民営交通機関でした。ところが、経営困難に陥り、横浜市が公益性を重視し<市営=市電>とすることを決め買収します。
1921年(大正10年)4月1日

  横浜市が横浜電気鉄道を買収。電気局を発足。

横浜電気鉄道時系統路線図

この時に初代電気局長に就任したのが青木周三です。
就任当時彼は47歳、就任に際し
「大決心をなさしめたるは、一に市民諸君の後援を経(たていと)とし市会が電車事業に対する恰も慈母の愛子に於けるがごとく、
就中(なかんずく)現業員の待遇に於いて熱誠以て優遇を可決されたる援助を緯(よこいと)とし事業の円満に進捗す可きを信じ、
自らはからず就任せる次第なり。
今後における方針としては一市民の期待せらるる改良の企画に副はんが為め、とりあえず応急の修繕をなすと同時に、完全なる交通機関として発達せしむるに努力す可く、将来共に大方の指導と助成を切望に堪えず。(一部抜粋)」
と述べました。
横浜市電は
1921年(大正10年)4月1日に移管され、経営再建の道を歩み始めますが、
1923年(大正12年)に起こった大震災により 市電機能は壊滅状態になります。
青木周三局長は被災復興に奔走、一定の目処が立った
1924年(大正13年)に古巣の鉄道省に経理局長として戻りました。
昭和に入り、有吉忠一市長のもとで震災復興宣言が出され、後任に大西一郎市長が主任し、
1935年(昭和10年)8月3日
12代市長に任命、
1941年(昭和16年)2月10日に辞任します。
市会史には
1940年(昭和15年)11月24日に健康上の理由と大政翼賛会市支部長問題等から辞意を表明、議会承認の上辞職とあります。
辞職の背景に何があったのか?手元の資料だけでは読み解くことができません。
ただ 昭和15年は横浜にとっても日本にとっても”激務”の年でした。
紀元二千六百年の年にあたり
紀年事業、東京オリンピック(辞退)
第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント
市政では
紀元二千六百年防空公園

紀元(皇紀)二千六百年特別観艦式(横浜)

観艦式記事

東京開港問題
市庁舎新築
動物園開設
青木市長時代は市内外激動であったことは間違いありません。
(参考年表)
◾️昭和15年は空転民主主義の年
1月14日 阿部内閣総辞職
1月16日 米内内閣成立
2月2日 斎藤隆夫の反軍演説。(斎藤事件)神奈川県政界とも深く関係あり。
3月7日 戦争政策批判により衆議院が民政党斎藤隆夫を除名処分
7月4日 陸軍首脳部が米内内閣打倒のため陸相畑俊六に辞職を勧告
7月16日 米内内閣総辞職
7月22日 第2次近衛内閣成立
8月15日 立憲民政党の解散により議会制民主主義が実質上停止
9月27日 日独伊三国軍事同盟成立。
10月12日 大政翼賛会発会式
11月24日 元老西園寺公望公死去(国葬12月5日)

第940話【最強の市長】有吉 忠一

Published / by tadkawakita / 第940話【最強の市長】有吉 忠一 への1件のコメント

現在、横浜市長は
第32代、20人目の林文子氏が就任しています。(2009年(平成21年)8月30日〜)
戦前は13代まで官選市長が市政を担当しました。
戦後は選挙で選ばれています。
戦前戦後を通じて 任期満了か、途中辞任によって市長交替となりました。
例外は在任中に亡くなれた市長が2名
16代「平沼亮三」氏と24代「細郷道一」氏でした。
(最強の市長は誰か?)
最強という表現が適切かどうかわかりませんが
ここに紹介する第10代横浜市長「有吉忠一」は横浜市政史に残る
“最強”の市長といえるでしょう。
歴代市長を評価するには様々な視点から市政の結果を分析していかなければなりません。政策実行力・問題解決力・政治的決断力 他いろいろ指標がありますが
有吉忠一は
「数多くの業績を残した昭和初期の「不世出」の市長」と言われています。
“「不世出」の市長”というのは中々の評価ですね。
横浜市史上最大級の難問、震災復興に取り組んだ不屈の市長です。
ここに当時の有吉市長を知ることができる一枚の写真があります。
たまたま海外の写真オークションで手に入れたものです。

生糸検査所の有吉忠一と秩父宮

生糸検査所屋上から「横浜復興」を秩父宮に説明する有吉市長

1927年(昭和2年)6月2日(開港記念日)
この日、関東大震災から5年
<復興>を市内外に宣言する重要なセレモニーとして「大横浜建設記念式」を開催しました。式典には秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)を迎え、望月圭介逓信大臣を始め、1,557人もの市内外の名士が集まり盛大に挙行されました。
秩父宮は式典に参列する前、市長有吉忠一により復興状況の説明を受けます。
写真はこの時の一コマです。

(関東大震災)

震災被災(焼失)エリア

(震災復興)

秩父宮視察が行われた生糸検査所

震災復興のシンボルとなった商工奨励館

有吉忠一の簡単な経歴を紹介しましょう。
1873年(明治6年)
京都府生まれ。
第三高等中学校、帝国大学法科大学法律学科(現在の東京大学)
1896年(明治29年)
内務省入省。
1897年(明治30年)
島根県 参事官
兵庫県 参事官
1901年(明治34年)
内務省 参事官
1908年(明治41年)3月
第11代 千葉県知事 就任。
知事時代、千葉県営軽便鉄道(後の東武野田線の一部)の開通を手がける。
1910年(明治43年)6月14日
韓国統監府総務長官 就任。
朝鮮総督府総務部長官。(〜1911年(明治44年)3月13日)
1911年(明治44年)3月13日
第13代 宮崎県知事 就任。
知事時代 宮崎県営鉄道を建設。飫肥線の敷設、日本初の学究的発掘調査となった西都原古墳群の発掘調査を行う。
1915年(大正4年)
第九代 神奈川県知事 就任。
自治時代 多摩川の改修を指示し川崎市中原区に「有吉堤」の地名が残る。
関東学院の開設に助力。
同年11月10日
大礼記念章
1919年(大正8年)4月18日
第15代 第15代兵庫県知事 就任。
1918年(大正7年)6月29日
勲二等瑞宝章
1922年(大正11年)6月16日 退任
1922年(大正11年)6月12日 ※
「朝鮮総督府政務総監」に就任(〜1924年7月4日)。
※知事退任日と総監就任日に重なりがありますが 資料のママ掲載します。

有吉は軍事権を除く行政・立法・司法の実務を統括し、在任中、朝鮮総督府の日本人高級官僚、特に「生え抜き官僚」との軋轢に加え、関東大震災時の“朝鮮人虐殺”に反発する朝鮮での暴動等の真ただ中でかなり苦労します。

1924年(大正13年)7月4日
その任を解かれ東京に戻ります。
1925年(大正14年)5月7日
第10代横浜市長に就任。
※推薦者 原富太郎、中村房次郎、井坂孝ら
1930年(昭和5年)2月10日
正式に辞意を表明します。
「予算案さえつくれば、その決定は予算を実行する後任市長と市会の自由裁量によるべき…」との一言を残し、
同年4月 貴族院議員 勅選。
1930年(昭和6年)2月26日
昭和6年度の予算が成立する前に辞職。
1933年(昭和8年)
第7代 横浜商工会議所会頭。(〜1942年(昭和17年))

■有吉忠一の横浜
米貨公債で<震災復興資金>を集め、早期復興に努め 大きな成果をあげました。
「大横浜建設」の三大方針
・横浜港拡張
・市営埋立(臨海工業地帯の建設)
・市域拡張
生糸貿易に大きく依存してきた横浜市の体質を脱却して工業化を推進するために臨海部に大規模な工業地帯を建設し企業を誘致し港湾機能を拡充。
広大な後背地の確保(市域拡大)
市長時代から退任後
横浜商工会議所会頭時代精力的に臨んだのが
「東京湾拡張問題」=東京港開港要求でした。
横浜にとって東京開港は死活問題。東京にとっても東京開港を渇望していました。この問題はすでに明治期からくすぶっていた課題で 震災後は政財界を巻き込んでの大問題になっていました。
有吉は横浜・神奈川の意見を取りまとめ東京と横浜との軋轢解消を推進しました。
首都圏の港湾経済を考える上で、都市間で争っている時代ではない!
という視点から 国と東京市との合意を求め奔走します。
最終的には横浜復興で独自に米貨公債により調達した復興資金の残債半分を国に肩代わりしてもらう代わりに東京開港を制限付きで認めるという結論をまとめます。
「(横浜復興に借りた米貨公債を政府に肩代わり叶えば)東京の希望に反対しない事になった、併し満支関係の船は兎に角、英米の大船は東京には寄港出来ぬ、東京港は水深二十五尺、六七千噸級内せいぜい一万噸級を限定とする実情である、夫はさてをき横浜市民も此解決で初めて積極的に振興の業にあたる事が出来るようになったのである、之は昭和十五年の事であるが、この時市税総額八百七十万円で、市の公債費は総額八百九十万円、市税の全額を挙げても尚ほかつ足らぬという窮境であったのである(中略)ああこれで横浜市民のために、震災のあとかたづけが出来たと、肩の荷をおろした感で、大変本懐に思った事である。(有吉忠一 経歴抄)」
◯有吉忠一関係ブログ
■震災復興 横浜拡大
No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命

No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命


1929年(昭和4年)8月19日に飛行船ツェッペリン伯爵号は
何故 急遽計画を変更して横浜上空に現れたのか!
第818話【横浜2345】大横浜の時代

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No.464 昭和5年頃の横浜

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No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド

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No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

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■市長エピソード
No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更

No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更


No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?

No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?


■県知事時代
No.445 「有吉堤」

No.445 「有吉堤」(加筆修正)


No.443 岸辺のアル闘い

No.443 岸辺のアル闘い

第926話【絵葉書の風景】橋の袂の少女(改筆)

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戦前の絵葉書が多彩・多用な画像メディアとして活躍していた事はブログ内でも何回かお伝えしているところです。
さらに付け加えると、
時折 絵心というか<写真心>を感じる絵葉書に出会います。風景撮影だけではなく、そこに<アクセント>を意図的に付け加えることがあったのではないか?

この絵葉書は、

横浜関内と関外を結ぶ有名な「吉田橋」の風景です。

<橋の袂>に一人の少女が登場しています。
構図の特徴は、
吉田橋の風景に一人の少女が登場している点でしょう。
この少女
たまたま居合わせたのか、
関係者の子女であったのかわかりませんが、
意図的に構図として少女の居る「吉田橋」を撮影したことは間違いないでしょう。
手彩色のため、着物の色ピンク色になっています。
実際は確かではありませんが、なかなか存在感があります。
この少女の姿で、この橋に物語が生まれそうです。
冒頭で紹介した絵葉書のように
全国の観光絵葉書でも<傘をさす女性>とかアクセントを加えた風景が使われています。
この風景も 同じ感覚かもしれません。
もう一枚、同じ頃の吉田橋絵葉書と比較してみます。
ヒントはありますが
時代の絞込に苦労します。路面電車の軌道や看板がヒントとなります。
「ライオン」の看板は架橋時の風景にもその後の路面電車開通後にも登場しますが、この少女の風景では「ライオン」の看板はよくわかりません。
「活動 横浜館」の看板は確認できます。
もう一点、電柱でも違いがありますが、これだけで撮影時期の前後を判断するのは難しそうです。

少女の絵葉書でも橋上を見ると<電車>や<人力車>が走っています。
吉田橋の奥に見える「活動 横浜館」は
1911年(明治44年)勧工場跡に開館した「横浜館」だろうと思われます。
ここ「横浜館」は市内で最も古い映画館で1929年(昭和4年)に廃業しました。
「吉田橋」架橋時には式典が行われ多くの見学者が訪れました。

年譜にしてみました。
1859年(安政6年)
居留地と関外を繋ぐ仮橋を設置し
1862年(文久2年)
木造の本橋
1869年(明治2年)
錬鉄製の無橋脚トラス橋(リチャード・ブラントン設計)
そして
1910年(明治40年)5月
架替工事着工。
1911年(明治44年)3月21日
吉田橋工事のため橋の上下の派大岡川が閉鎖されました。
10月7日
派大岡川の通水開始。国産の「吉田橋」架替工事が完成します。
同年 11月1日 竣工、渡り初め式が行われます。
渡り初めの他、吉田橋開通式典が行われ、多くの人が集まりました。
記念絵葉書も発売されたようです。
同年 勧工場跡に「横浜館」開館。
1912年(明治45年)
路面電車の軌道が敷設され関東大震災までこの橋を路面電車が往来します。
少女の絵葉書の撮影時期は、
横浜館があり橋上に電車が走っていますから
1912年(明治45年)以降だろうと思われます。
電柱で見ると
1912年(明治45年)にはあった「電信柱」が
この少女の絵葉書では確認がとれません。
明らかに電柱の位置か構造が変わったことが分かります。
この辺の 電話事情がわかると 時代の絞込がさらにできるかもしれません。
本日は この程度の読み解きで 失礼します。

第886話【横浜の記念式典】復興記念横浜大博覧会

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■復興記念横浜大博覧会

◎開催期間:
1935年(昭和10年)3月26日から5月24日
◎開催会場:
山下公園を含む山下町一帯(約10万平方メートル)
◎開催内容:
「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。(乃村工芸)」
◎来場者数:
のべ3,299,000人
二ヶ月で約330万人が入場という記録がありますが、「山下公園一帯」に60日、一日あたり5万人以上の入場者があったということです。あくまで平均です。
新聞記事を探って、一日の入場者の動きを追いかけてみました。
3月26日(水)から5月24日(金)という曜日は土日を加味していませんね。
3月26日(水)から3月31日(日)62,340人
4月7日(日) 一日入場者65,000人
4月14日(日) 一日入場者75,043人
4月21日(日) 一日入場者78,000人
〜4月23日(火) 累計75万人を突破
〜4月29日(月) 昭和天皇誕生日(天長節)に累計100万人達成
5月1日(水) 一日入場者118,500人
5月2日(木) 一日入場者3万余人
5月5日(日) 一日入場者20万人突破
累計1,423,527人に。
5月7日(火) 午後一時延べ入場者150万人達成
5月19日(水) 一日入場者30万人
累計2,279,377人
最終結果
5月24日(金)
累計3,299,000人となっています。
実に残り5日間で100万人が入場ということですから、驚きです。
横濱市も予想を超える入場者に驚きを隠せない様子が報道資料からも読み取れます。

ここに300万人が!(現在の山下公園) 山下公園図

◎関連ブログ

【記念式典】横浜、金のシャチホコ

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント
(復興記念)
一概に比較できませんが、1923年(大正12年)に起こった関東大震災から12年後にこの「復興記念横浜大博覧会」が行われましたが、
<震災復復興宣言>は
震災後7年目、亡くなられた方に対し七回忌に間に合わせたのか判りませんが、
内務省と東京府、東京市は1930年(昭和5年)3月に終結宣言します。
横浜市は復興記念の日を4月23日と宣言し「復興記念祭」を開催しました。
この時、昭和天皇からは
「お祭り騒ぎにならぬやう」と釘を刺されたそうです。
横濱では市役所、公立学校を休みとし、横浜公園他で式典が行われました。
2017年
東北の復興宣言は何時になるのでしょうか。

■まだまだ読み込んでいない興味ある資料があります。
横浜で開催された戦前最大級の<博覧会>ここで実施された<関連事業><関連イベント>を通して、四年後にこの国が開戦に至る歴史の<隘路>の断片が見えてくるように思います。
このテーマさらに追いかけます。

第875話【時折今日の横浜】3月21日

Published / by tadkawakita

1953年(昭和28年)の今日
「横浜市戦没者慰霊塔」の竣工式が行われ戦没者追悼式が開催されました。
この慰霊塔をご存知ですか?現在の三ツ沢公園の一角に建っています。
<三ツ沢公園>
「横浜市戦没者慰霊塔」の建つ横浜を代表する公園の一つ<三ツ沢公園>をまず紹介しましょう。
三ツ沢公園(みつざわこうえん)は面積300,055m2の「新横浜公園※」に次ぐ規模を持つ運動公園です。
※「日産スタジアム」のある横浜市最大の都市型運動公園

三ツ沢公園一帯は、県道を挟んで大きく北東側と南西側の2つのエリアに分かれています。南西側には陸上競技場、三ツ沢球技場、テニスコート、軟式野球場、野外活動センターなどが設置されています。
北東側には横浜市唯一の馬術練習場、テニスコート、子供の遊び場
そして今回紹介する「横浜市戦没者慰霊塔」を含む公園施設があります。

1949年(昭和24年)10月に、第4回国民体育大会(東京国体)のバレーボール会場として使用されることをキッカケに整備され、現在まで陸上競技場、補助競技場、球技場、テニスコート、軟式野球場、馬術練習場など多彩なスポーツ施設が設置され市内最大級の運動公園となっています。
※「公園」規模では最も広いのが<こどもの国>です。

三ツ沢公園は
1955年(昭和30年)に開催された第10回国民体育大会のメイン会場となり競技場の改修、更衣所、管理棟、ラグビー場などが建設が行われます。
1964年(昭和39年)には新しく東京オリンピックのサッカー会場(現在ニッパツ三ツ沢球技場)として整備され使用されました。

<横浜市戦没者慰霊塔>
今日の本題、「横浜市戦没者慰霊塔」を紹介します。
三ツ沢公園北東側に足を踏み入れるとスポーツを楽しむ人々のにぎわいが一転静けさに包まれます。公園奥に一際高い横浜市戦没者慰霊塔が見えてきます。
この慰霊塔は
1953年(昭和28年)3月21日に建立されました。
平成になって付けられた塔の説明板には

「恒久の平和を願って
戦後50周年を迎えて、更なる平和への願いを込めて慰霊塔を改修いたしました。この慰霊塔は、西南戦争から第二次世界大戦までの戦争犠牲者の御霊を安置するため、昭和28年3月に建設したもので、左の塔は、先の大戦ではらった大きな犠牲と破壊を表し、右の塔は、新生日本が将来にむかって発展する姿を表しています。市民の皆様と共に諸霊の御冥福を心からお祈りし、戦争の悲惨さを忘れることなく、恒久の平和を念じたいと思います。横浜市は、21世紀に向かって、世界に開かれた国際都市づくりを進めていますが、ピースメッセンジャー都市として、今後とも積極的に国際交流活動を展開し、相互理解を深め、世界の平和と発展に貢献していきたいと思います。
平成7年11月1日  横浜市長 高秀秀信」

何故ここに戦没者慰霊塔が建ったのか?
横浜市では
「本公園の前身は、昭和14年創建の神奈川県護国神社外苑を昭和17、18年に防空緑地整備事業として整備したものです。
空襲で護国神社は焼失しましたが、残された土地は市に譲渡され、それに国有地の無償貸付や周辺の民有地などの取得をあわせて用地を確保、公園として整備を始めました。」
と説明されています。
<護国神社>
護国神社は、
1939年(昭和14年)に内務省によって制定された東京を除く府県一社を原則とする<指定護国神社>(昭和14年内務省告示第142號)によって全国に建てられました。
建立単位が陸軍連隊区という軍の区分をベースにしたため、中には複数社が作られた県もありました。また、明治期に多く建てられた招魂社・忠魂碑等が護国神社となっていったケースも多くありました。
戦争が終わるまでの6年間で51社が指定されます。
ところが、全国1道2府43県の中で、神奈川、宮崎、熊本の3県の縣護國神社が未着手、または造営中のまま終戦を迎えることになります。
その一つ、神奈川縣護國神社は1942年(昭和17年)7月27日に許可が下り、社殿造営が開始されますが、ほぼ完成間近のタイミングに横浜大空襲があり焼失してしまいます。
その後、
この地一帯が三ツ沢公園となりその一部<外苑>に「横浜市戦没者慰霊塔」が建つことになります。
一方、護国神社の無かった宮崎、熊本の2県では戦後継続して新社殿建設が行われ、
宮崎が1955年(昭和30年)に竣工、
熊本が1957年(昭和32年)に竣工します。
<唯一護国神社のない県>
1953年(昭和28年)
神奈川県は戦後いち早く<神奈川方式>と呼ばれる”多宗教”の「戦没者慰霊堂」が横浜市港南区最戸に建てられ戦没者慰霊の役割を担うことになります。
結果、全国で唯一<護国神社>の無い県となりました。
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f153/p2926.html
また、横浜市としては
<横浜大空襲>を含めた戦争犠牲者を悼む「横浜市 平和祈念碑」が
中区の大通公園中程に建立されています。
1992年(平成4年)5月29日建立。
建立者は「横浜戦災遺族会」
彫刻家の横田七郎の作品で台座正面には「平和記念碑 横浜市長 高秀秀信」とあります。毎年5月29日、大空襲の犠牲者を悼む平和祈念碑の内部が公開されます。
戦争の記憶を心に留めるためにも、
時にはこれらの慰霊碑を訪れることをお勧めします。
(三ツ沢公園関連ブログ)
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園

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No.309 11月4日(日)名実共に記念館

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(3月21日関連過去ブログ)
No.81 3月21日 猛女養成学校出身

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第859話【絵葉書の風景】観艦式に見る日本の歴史

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戦前、海軍の大セレモニー観艦式が20回近く行われました。
今回は観艦式を<横浜絵葉書+資料>で整理し戦前の戦争史を振り返ってみます。
観艦式とは1341年に英国で始まった軍事デモンストレーションで、当時のエドワード3世が英仏戦争の際に指揮を鼓舞するために艦隊出撃の際に観閲したことが始まりです。
明治から昭和にかけて 日本海軍は「観艦式」を計18回実施しています。
この内、横浜で9回(半数)実施されました。
観艦式一覧
当時は第 回という名称では無く多くの場合年号で示しました。
○1868年4月18日(明治元年3月26日)
大阪天保山沖。参加艦艇数7隻
○1890年(明治23年)4月18日
神戸沖。海軍観兵式 参加艦艇数6隻
○1900年(明治33年)4月30日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数19隻
○1903年(明治36年)4月10日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数49隻

■1905年(明治38年)10月23日lightm38%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f316light%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e9%96%a2%e9%80%a3%e9%9b%91%e8%b3%87%e6%96%99m38m38%e6%96%b0%e8%81%9e%e8%a8%98%e4%ba%8b 横浜沖。凱旋観艦式 (日本海海戦勝利)参加艦艇数168隻
横浜で最初に観艦式が行われたのが日露戦争終結(9月5日)に伴う凱旋観艦式 で「日本海海戦勝利」を祝う形で開催されました。
日露戦争は、第一次世界大戦につながる(近代)総力戦の始まりでした。
日露戦争終結は日本勝利という形でしたが、日露共々厖大な戦費負担と経済疲労に喘いでいて、当時の常識であった<賠償金>を得ることができなかった勝利でした。
国内世論は戦利品のない勝利の不満に沸騰し、暴動が起こり東京で初めて戒厳令(緊急勅令)が出されました。
このような中での戦勝をPRするために「凱旋観艦式」が行なわれました。艦隊の最高責任者(艦隊長官)は東郷平八郎(大将)、英米艦隊も参加しました。
観艦式に参加した艦艇数の多さからも、この観艦式の意味合いがわかります。

○1908年(明治41年)11月18日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数123隻
■1912年(大正元年)11月12日lightt%e5%85%83%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f013-1 横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数115隻 航空機2機
7月30日から大正となり初めて行われた観艦式です。ここで航空機が登場します。
○1913年(大正2年)11月10日
横須賀沖。恒例観艦式 参加艦艇数57隻 航空機4機
→1914年6月28日 第一次世界大戦(〜1918年11月11日休戦協定)
1914年8月23日 日本ドイツに宣戦布告
■1915年(大正4年)12月4日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft4%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e9%96%a2%e9%80%a3%e9%9b%91%e8%b3%87%e6%96%99009light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft4%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e5%8f%b2%e6%96%99017
横浜沖。御大礼特別観艦式 (大正天皇即位式)
参加艦艇数 124隻 航空機9機
■1916年(大正5年)10月25日
横浜沖。恒例観艦式 参加艦艇数 84隻 航空機4機
→1918年(大正7年)8月2日 シベリヤ出兵
11月11日第一次世界大戦終結
○1919年(大正8年)7月9日
横須賀沖。御親閲式 (欧州派遣艦隊慰労) 参加艦艇数 26隻
※日本海軍駆逐艦隊が対ドイツ潜水艦のため地中海に派遣された。
1918年12月19日、7隻のドイツ潜水艦が日本海軍第二特務艦隊に引き渡され英米仏が不可能と見ていた日本への曳航に成功し1919年6月18日に横須賀港に到着した。light20150423115800%e3%83%89%e3%82%a4%e3%83%84%e6%bd%9c%e6%b0%b4%e8%89%a6%e6%88%a6%e5%88%a9%e5%93%81
■1919年(大正8年)10月28日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft8%e5%b9%b420151125143751light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft8%e5%b9%b420151125143801
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数 111隻 航空機12機
→1920年(大正9年)1月10日
日本、国際連盟に正式加入。常任理事国となる。(アメリカ不参加)
4月6日 ハバロフスクで日ソ軍事激突。(〜29日)
■1927年(昭和2年)10月30日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs2%e5%b9%b4%e8%b3%87%e6%96%99%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f%e7%b5%b5%e8%91%89%e6%9b%b8002
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数 158隻 航空機83機
→1928年(昭和3年) 張作霖爆死事件。
■1928年(昭和3年)12月4日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs3%e5%b9%b4201312%e7%b5%b5%e3%81%af%e3%81%8c%e3%81%8d038light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs3%e5%b9%b4201312%e7%b5%b5%e3%81%af%e3%81%8c%e3%81%8d041
横浜沖。御大典記念 参加艦艇数 186隻 航空機132機
御大礼特別観艦式 (昭和天皇即位式)※史上最大
○1930年(昭和5年)10月26日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs5%e5%b9%b4%e8%b3%87%e6%96%99%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f%e7%b5%b5%e8%91%89%e6%9b%b8006
神戸沖。特別大演習観艦式 参加艦艇数164隻 航空機72機
→1931年(昭和6年)9月18日 満州事変勃発
■1933年(昭和8年)8月25日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs8%e5%b9%b420150508141624
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数159隻 航空機200機
→3月24日 日本が国際連盟脱退を通告。
→1934年(昭和9年)12月19日 ロンドン軍縮会議決裂。
→1936年(昭和11年)1月15日 ロンドン軍縮会議を脱退。
○1936年(昭和11年)10月29日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs11%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e5%8f%b2%e6%96%99013
神戸沖。特別大演習観艦式 100隻 航空機約100機
→1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件。7月28日支那事変へ。
→1937年(昭和12年)11月6日日独伊の三国防共協定。light2016%e5%b9%b407%e6%9c%8805%e6%97%a501%e6%99%8216%e5%88%8611%e7%a7%92
→1939年(昭和14年)5月11日ノモハン事件。日ソ軍衝突、日本大敗。
→1939年(昭和14年)9月1日ドイツ軍がポーランド侵攻、第2次世界大戦始まる。
■1940年(昭和15年)10月11日lights15%e7%b4%80%e5%85%83%e4%ba%8c%e5%8d%83%e5%85%ad%e7%99%be%e5%b9%b4%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f017-1light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f%e8%a8%98%e4%ba%8b
横浜沖。参加艦艇数 98隻(推定) 航空機527機
紀元(皇紀)二千六百年特別観艦式
【日本海軍最後の観艦式】
■関連ブログ
戦前観艦式資料
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5064
No.285 10月11日(木)武装セル芸術
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=315
【横浜側面史】 観艦式
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5286

第849話 横浜・新橋、横浜が先?

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日本鉄道事始め、この辺に詳しい方には当たり前のことですが
日本最初の駅「横浜」「新橋」は全く同じファサード(顔)を持っていました。

初代横浜駅

初代横浜駅

初代新橋駅

初代新橋駅

設計は共にアメリカ人建築家リチャード・ブリジェンス、設計者が同じなんだから同じでもおかしく無いけれども、普通<格>をつけてしまうのが近代日本の定番。ところが「横浜」「新橋」は本当にうりふたつ。
横浜駅には<噴水><ガス灯>が写っています。

鉄道の歴史をざくっと
1872年6月12日(明治5年(旧暦)5月7日)
「横浜」「品川」間の鉄道路線が開通し、横浜駅(初代)が開業。
品川駅は「木造平屋2棟、現在の位置よりやや横浜方、海に面したのどかな駅」だったそうです。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/Shinagawa_Station_in_early_Meiji_era.jpg

1872年10月14日(明治5年9月12日)
四ヶ月後に「横浜駅」と「新橋駅」が開業。初日は式典と明治天皇御座乗特別列車の運行のみで営業は翌日からなので営業は1872年10月15日ってことです。
この間を<仮営業>と呼んでいますが、個人的には前述の1872年6月12日からしっかり<営業>しているのでこの日を鉄道の発祥の日にして欲しいところです。
さらに!さらに ここがポイント!
手元の資料だけですが
リチャード・ブリジェンス設計の「横浜駅舎」「新橋駅舎」
1872年6月12日開業が「横浜駅舎」
1872年10月14日開業が「新橋駅舎」
ってことは リチャード・ブリジェンス設計の横浜駅は新橋(汐留)より古い、最初ってことですね。
まあ どうでもいいことですが この辺はっきりしておきたいところです。

旧新橋駅再現

旧新橋駅再現

light2016-04-15-18-28-07light初代横浜駅前

【記念式典】横浜、金のシャチホコ

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ここに一枚のお城の写真があります。
light復興博覧会名古屋城 城郭ツウであれば<金の鯱>がトレードマークの「名古屋城」らしい?と推理されたかもしれません。
この名古屋城は、横浜市の復興イベントのために建てられた<フェイク>ハリボテです。
場所は山下公園、時は1935年(昭和10年)の出来事です。

(復興記念横浜大博覧会)light名古屋館light正面大さん橋側会場light会場山手側 『復興記念横浜大博覧会』が1935年(昭和10年)3月26日から5月24日まで山下公園を中心に開催されました。
1923年(大正12年)に起こった<関東大震災>から立ち直った横浜市を国内外にアピールするために横浜市が復興記念と謳い実施されたものです。
メイン会場となった『山下公園』は、震災復興のシンボル的存在でした。light開催前 山下公園と通りを挟んだ山下地区約10万平方メートルを会場にして開催され来場者は、のべ3,299,000人に達し横浜市内で開催された戦前最大のイベントとなりました。
※乃村工芸の博覧会データベースによれば

「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。」とあります。
lightアメリカンロディオ

最初に登場した<名古屋城>はこの『復興記念横浜大博覧会』山下公園会場の大さん橋寄りに設置されました。ここに登場した<地方館>は、
地元神奈川館、北海道館、東京館、奈良館、(静岡茶)。統治下にあった台湾館、朝鮮館でした。
全体を通して、特徴的なのは<海>に関するテーマ館が目立つことです。
海女館、水族館、海洋発展館、ウォーターシュート、そして特に際立っているのが戦後貨客船「氷川丸」が係留されたあたりに設置された「生鯨館」でしょう。light復興記念博覧会中央会場 山下公園先の海を囲って鯨を泳がせたようですが、飼育環境が悪かったのかすぐに死んでしまったそうです。現在なら保護団体から厳重な抗議がきたことでしょう。
さらには、かつて仏蘭西波止場(下図 東波止場)だった汐だまりを活かした池には<水上遊戯>施設と『蟹罐』という名の謎の水上施設が記載されています。
『復興記念横浜大博覧会』開催内容を絵図や記念絵葉書を元に探ってみるといろいろ興味深いことがわかってきます。

(記憶)
現在も残っている当時の施設は「ホテルニューグランド」だけです。一部モニュメントが残されているのが「産業貿易センター」前の香港上海銀行と、イギリス系海運・貿易商社バターフィールド&スワイヤ商会の事務所だった建物の一部を保全した「創価学会戸田平和記念館」です。公園内には震災復興に関する記憶は殆どありません。
この山下公園が震災復興のシンボルだった?ことを改めて思い起こす空間にする必要があると感じています。

震災前

震災前の横浜港・大桟橋

(山下公園)
メイン会場となった山下公園は、
関東大震災の復興事業として1930年(昭和5年)3月15日に誕生しました。面積は 74,121m²あり現在も多くの利用者で賑わっています。完成以来、湾岸の工業化に伴い殆どの海岸線が工場用地、埠頭用地となる中、公園機能が残された横浜の貴重な臨海施設です。
戦後一時期、米軍の接収地となりオーシャンビューの住宅が建ち並んだ時もあります。
light接収中の山下公園2 No.181 6月29日(金) オーシャンビューの35棟解体

■1935年の出来事をピックアップ
2月18日
菊池武夫が貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を反国体的と糾弾
3月7日
村山助役再選を決定 日吉・富岡の一部地域へのガス供給案可決 私営バス強制買収に関する意見書を関係行政庁に提出する建議可決
●皇紀2600年記念オリンピック大会招致に関する意見書を市長に提出する建議可決
3月16日
アドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄し、ナチス・ドイツの再軍備を宣言
3月20日
復興博浜踊り発表会が野沢屋で開催された
復興記念横浜大博覧会開催
3月26日
西条八十作詞杵屋佐吉作曲「はまちどり」が発表
4月1日
横浜宝塚劇場が住吉町に開館した
4月4日
日中両国の経済状態視察などを目的とした米極東産業視察団の一二人、横浜に到着。
4月6日
満洲国皇帝溥儀が来日。靖国神社参拝
4月7日
美濃部達吉が天皇機関説のため不敬罪で告発される
4月9日
美濃部達吉の「憲法概要」など著書3冊が発禁となるも買手殺到し書店で売切れ
4月14日
太平洋最大の豪華客船エンプレス・オブ・ブリテン号、五百余人の観光客を乗せて横浜へ入港。
8月12日
永田鉄山暗殺事件(相沢事件)
9月15日
ナチス・ドイツにおいてニュルンベルク法制定(ユダヤ人公民権停止・ドイツ人との通婚禁止)
9月15日
ハーケンクロイツ旗が正式にドイツの国旗とされる。
12月9日
第二次ロンドン海軍軍縮会議開催

【市電ニュースの風景】1931年 №20

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目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。№201931年(昭和6年)5月
十四・五・六日 伊勢山皇大神宮大祭(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂下車)
十五日 『郵船』浅間丸入港(ホノルルより午前中四号岸壁へ)
十五日 弘法大師誕生会ならびに詠歌大会(電車及バス本町一丁目下車)
=午前十一時より本町開港記念会館にてー入場無料=
十五日より十八日まで
第四回掃部山バザー(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂又は雪見橋下車)
=マネキン劇場支那獅子舞其他余興沢山=
十六日 名古屋高商對横濱高商野球戦(午后三時横濱公園球場にて)
十六日 基督教婦人講演会 入場無料(午后二時尾上町指路教会にて)
十六・七日 神奈川金毘羅神社大祭(電車及バス 青木橋下車)
十六・七日 横濱専門学校記念祭(電車 六角橋終点より約四町)
=中等学校陸上競技会、音楽会、野球試合、提灯行列等ー入場無料=
18日シボレー大キャラバン隊(20数台)到着、元横濱駅裏広場で展覧

懸賞標語
「おつと危い左右(当選者 松本藤四郎君)」
※アラビア数字は別の年表から追記したものです。

[キーワード]
■伊勢山皇大神宮
横浜の総鎮守「関東のお伊勢さま」と呼ばれている伊勢山皇大神宮は、開港後現在の場所に遷座されてものです。現在の位置する場所からほど近い戸部村海岸伊勢の森の山上にあった神社を明治初年に国費を以て創建したもので、開港場の総鎮守として明治から今日まで多くの参拝者が訪れます。light_横浜商店街通り077 light_横浜商店街通り071No.691 【横浜神社めぐり1】伊勢山皇大神宮
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5971

No.426 横浜で学ぶ(神社編1)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=146

No.338 12月3日 (月)八の1418(加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=252

■電停 紅葉坂・野毛坂
横浜は坂の多い都市です。light_紅葉坂-1light_伊勢山電停

■『郵船』浅間丸
「太平洋の女王」と呼ばれた浅間丸。主に横浜-ホノルル-サンフランシスコ航路に就航し多くの日本人と訪日外国人を運びました。
ロサンゼルスオリンピックに出場した西竹一男
ハリウッドスターのダグラス・フェアバンクス
ヘレン・ケラー
交換船・海軍徴用船となった後
1944年(昭和19年)2月24日に魚雷を受けて損傷しますが沈没は免れます。修復後マニラから高雄へ向けて航行中魚雷が命中し沈没。

■四号岸壁
新港埠頭で客船用に多く使用された埠頭です。light_20150408165442 light_新港埠頭上空

■掃部山(かもんやま)
別の機会に詳しく紹介します。
■尾上町指路教会
指路教会は最初の横浜居住地39番から、現在地、太田町、住吉町を経て1892年(明治25年)再び現在地に戻り、ヘボンの尽力により赤レンガの教会堂が建てられました。初代指路教会は
設計:サルダ 1892年(明治25年)竣工
関東大震災で倒壊。現在の建物は大正15年竹中工務店の設計により再建されました。横浜市認定歴史的建造物です。

■神奈川金毘羅神社
大綱金刀比羅神社
「横浜の金刀比羅(こんぴら)さん、大神様の尊き御神徳を知る数多くの会社経営者を始め、船舶関係、農業関係、建築関係、医療関係、民衆に至るまで、十六神の大神様の御神徳を頂ける神社であります。」
旧東海道、神奈川宿台の坂に鎮座、街道の安泰と袖が浦神奈川港に出入りする船は海上安全を祈願した神社です。light_神奈川金毘羅

■横濱専門学校
神奈川大学の前身の校名。light__9145936light_P2090159(戦前の歩み)
1928年(昭和3年)
米田吉盛が横浜市中区桜木町に「横浜学院」を開設
現在の西区桜木町6丁目34番地にあった「桜木会館」の1階と2階を借り学校を開校。
同年12月
横浜学院、中区西戸部町富士塚に移転。スクリーンショット 2015-05-18 16.36.43スクリーンショット 2015-05-18 16.36.061929年(昭和4年)
専門学校令により「横濱専門学校」(法学科、商業理財科)を開設
1930年(昭和5年)
六角橋校地(現在の横浜キャンパス(横浜市神奈川区六角橋)へ移転
1939年(昭和14年)
工学系の3学科(機械、電気、工業経営)を新設
1945年(昭和20年)
GHQによって一時的に六角橋校地が接収
大倉山の大倉精神文化研究所と三ツ沢の県立第二横浜中学校(現横浜翠嵐高校)にて授業を再開。

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント

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1940年(昭和15年)東京オリンピックの影で同じく延期となった国際イベントがありました。
会場も東京と横浜に決まっていました。

light_1940_TOKYO

1940年東京オリンピック

日本萬国博覧会(EXPO JAPAN)です。

light_横浜史料001この萬国博覧会は1940年3月15日〜8月31日の期間に開催される予定でした。オリンピック同様に日中戦争の激化などを受けて開催を延期します。
EXPOとは、国際博覧会条約(BIE条約)に基づいて行われる博覧会のことで、国際機関が認定した国際博覧会のことを指します。国が申請し、総会で承認される必要があります。システムはオリンピックと似ていますね。
昭和に入り、横浜は復興振興を兼ねイベントを重ねます。

※産業文化展覧会
1931年(昭和6年)11月3日〜9日の一週間
※復興記念横浜大博覧会
1935年(昭和10年)3月26日〜05月24日
light_1935復興記念横浜大博覧会light_横浜式典001 light_横浜式典011この博覧会は3,299,000人を動員します。
「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。」(乃村工芸サイトより)

引き続き
1940年(昭和15年)の皇紀二千六百年に合わせ
東京オリンピック、日本萬国博覧会が計画されました。
日本が初めて国際的な博覧会に参加したのは1867年(慶応3年)のパリ万博です。
その後、積極的に外国の博覧会へ参加し同時に国内でも多くの博覧会を開催することになります。

国際博覧会の場合、前述の通り<国際機関>の総会での認定が必要となります。
明治時期から昭和の戦前期にかけて万博の日本開催を計画しますが中々開催に至りませんでした。国際機関認定の「日本万国博覧会」=大阪万博が1970年に開催するまで100年の歳月がかかったことになります。
一方で横浜ならではの大型イベントが開催されました。
観艦式です。
13回 1927年(昭和2年) 10月30日 大演習観艦式 横浜沖
14回 1928年(昭和3年) 12月4日 御大礼特別観艦式 (昭和天皇即位式)※史上最大 横浜沖
15回 1930年(昭和5年) 10月26日 特別大演習観艦式 神戸沖
16回 1933年(昭和8年) 8月25日 大演習観艦式 横浜沖
17回 1936年(昭和11年) 10月29日 特別大演習観艦式 神戸沖
18回 1940年(昭和15年) 10月11日 紀元二千六百年 特別観艦式 横浜沖
観艦式は 明治以降 18回開催されますが、半数が横浜港で開催されました。
特に第5回の日露戦争凱旋観艦式以来の14回中、8回が横浜沖で開催されます。

観艦式は横浜にとって日常イベントになっていたようです。
1940年(昭和15年)オリンピックと万博が中止になった年、横浜港では「紀元2600年記念特別観艦式」が挙行されますが、規模は航空機中心で艦船の規模はかなり控えめとなりました。日米が戦争に突入する一年前の頃の出来事です。
light_観艦式記事 light_横浜関連雑資料017
紀元二千六百年「日本萬国博覧会」入場券。
light_万博入場券 ※ネット情報の多くが東京会場としていますが、横浜もしっかり会場となっています。
昭和初期、日本が国際関係に行き詰まり開戦を選ぶに至った十数年、イベントで横浜が賑わっていたことも記憶に残しておいて欲しいものです。

(第687話)オリンピックと横浜