4月 27

第886話【横浜の記念式典】復興記念横浜大博覧会

■復興記念横浜大博覧会

◎開催期間:
1935年(昭和10年)3月26日から5月24日
◎開催会場:
山下公園を含む山下町一帯(約10万平方メートル)
◎開催内容:
「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。(乃村工芸)」
◎来場者数:
のべ3,299,000人
二ヶ月で約330万人が入場という記録がありますが、「山下公園一帯」に60日、一日あたり5万人以上の入場者があったということです。あくまで平均です。
新聞記事を探って、一日の入場者の動きを追いかけてみました。
3月26日(水)から5月24日(金)という曜日は土日を加味していませんね。
3月26日(水)から3月31日(日)62,340人
4月7日(日) 一日入場者65,000人
4月14日(日) 一日入場者75,043人
4月21日(日) 一日入場者78,000人
〜4月23日(火) 累計75万人を突破
〜4月29日(月) 昭和天皇誕生日(天長節)に累計100万人達成
5月1日(水) 一日入場者118,500人
5月2日(木) 一日入場者3万余人
5月5日(日) 一日入場者20万人突破
累計1,423,527人に。
5月7日(火) 午後一時延べ入場者150万人達成
5月19日(水) 一日入場者30万人
累計2,279,377人
最終結果
5月24日(金)
累計3,299,000人となっています。
実に残り5日間で100万人が入場ということですから、驚きです。
横濱市も予想を超える入場者に驚きを隠せない様子が報道資料からも読み取れます。

ここに300万人が!(現在の山下公園) 山下公園図

◎関連ブログ

【記念式典】横浜、金のシャチホコ

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント
(復興記念)
一概に比較できませんが、1923年(大正12年)に起こった関東大震災から12年後にこの「復興記念横浜大博覧会」が行われましたが、
<震災復復興宣言>は
震災後7年目、亡くなられた方に対し七回忌に間に合わせたのか判りませんが、
内務省と東京府、東京市は1930年(昭和5年)3月に終結宣言します。
横浜市は復興記念の日を4月23日と宣言し「復興記念祭」を開催しました。
この時、昭和天皇からは
「お祭り騒ぎにならぬやう」と釘を刺されたそうです。
横濱では市役所、公立学校を休みとし、横浜公園他で式典が行われました。
2017年
東北の復興宣言は何時になるのでしょうか。

■まだまだ読み込んでいない興味ある資料があります。
横浜で開催された戦前最大級の<博覧会>ここで実施された<関連事業><関連イベント>を通して、四年後にこの国が開戦に至る歴史の<隘路>の断片が見えてくるように思います。
このテーマさらに追いかけます。

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3月 21

第875話【時折今日の横浜】3月21日

1953年(昭和28年)の今日
「横浜市戦没者慰霊塔」の竣工式が行われ戦没者追悼式が開催されました。
この慰霊塔をご存知ですか?現在の三ツ沢公園の一角に建っています。
<三ツ沢公園>
「横浜市戦没者慰霊塔」の建つ横浜を代表する公園の一つ<三ツ沢公園>をまず紹介しましょう。
三ツ沢公園(みつざわこうえん)は面積300,055m2の「新横浜公園※」に次ぐ規模を持つ運動公園です。
※「日産スタジアム」のある横浜市最大の都市型運動公園

三ツ沢公園一帯は、県道を挟んで大きく北東側と南西側の2つのエリアに分かれています。南西側には陸上競技場、三ツ沢球技場、テニスコート、軟式野球場、野外活動センターなどが設置されています。
北東側には横浜市唯一の馬術練習場、テニスコート、子供の遊び場
そして今回紹介する「横浜市戦没者慰霊塔」を含む公園施設があります。

1949年(昭和24年)10月に、第4回国民体育大会(東京国体)のバレーボール会場として使用されることをキッカケに整備され、現在まで陸上競技場、補助競技場、球技場、テニスコート、軟式野球場、馬術練習場など多彩なスポーツ施設が設置され市内最大級の運動公園となっています。
※「公園」規模では最も広いのが<こどもの国>です。

三ツ沢公園は
1955年(昭和30年)に開催された第10回国民体育大会のメイン会場となり競技場の改修、更衣所、管理棟、ラグビー場などが建設が行われます。
1964年(昭和39年)には新しく東京オリンピックのサッカー会場(現在ニッパツ三ツ沢球技場)として整備され使用されました。

<横浜市戦没者慰霊塔>
今日の本題、「横浜市戦没者慰霊塔」を紹介します。
三ツ沢公園北東側に足を踏み入れるとスポーツを楽しむ人々のにぎわいが一転静けさに包まれます。公園奥に一際高い横浜市戦没者慰霊塔が見えてきます。
この慰霊塔は
1953年(昭和28年)3月21日に建立されました。
平成になって付けられた塔の説明板には

「恒久の平和を願って
戦後50周年を迎えて、更なる平和への願いを込めて慰霊塔を改修いたしました。この慰霊塔は、西南戦争から第二次世界大戦までの戦争犠牲者の御霊を安置するため、昭和28年3月に建設したもので、左の塔は、先の大戦ではらった大きな犠牲と破壊を表し、右の塔は、新生日本が将来にむかって発展する姿を表しています。市民の皆様と共に諸霊の御冥福を心からお祈りし、戦争の悲惨さを忘れることなく、恒久の平和を念じたいと思います。横浜市は、21世紀に向かって、世界に開かれた国際都市づくりを進めていますが、ピースメッセンジャー都市として、今後とも積極的に国際交流活動を展開し、相互理解を深め、世界の平和と発展に貢献していきたいと思います。
平成7年11月1日  横浜市長 高秀秀信」

何故ここに戦没者慰霊塔が建ったのか?
横浜市では
「本公園の前身は、昭和14年創建の神奈川県護国神社外苑を昭和17、18年に防空緑地整備事業として整備したものです。
空襲で護国神社は焼失しましたが、残された土地は市に譲渡され、それに国有地の無償貸付や周辺の民有地などの取得をあわせて用地を確保、公園として整備を始めました。」
と説明されています。
<護国神社>
護国神社は、
1939年(昭和14年)に内務省によって制定された東京を除く府県一社を原則とする<指定護国神社>(昭和14年内務省告示第142號)によって全国に建てられました。
建立単位が陸軍連隊区という軍の区分をベースにしたため、中には複数社が作られた県もありました。また、明治期に多く建てられた招魂社・忠魂碑等が護国神社となっていったケースも多くありました。
戦争が終わるまでの6年間で51社が指定されます。
ところが、全国1道2府43県の中で、神奈川、宮崎、熊本の3県の縣護國神社が未着手、または造営中のまま終戦を迎えることになります。
その一つ、神奈川縣護國神社は1942年(昭和17年)7月27日に許可が下り、社殿造営が開始されますが、ほぼ完成間近のタイミングに横浜大空襲があり焼失してしまいます。
その後、
この地一帯が三ツ沢公園となりその一部<外苑>に「横浜市戦没者慰霊塔」が建つことになります。
一方、護国神社の無かった宮崎、熊本の2県では戦後継続して新社殿建設が行われ、
宮崎が1955年(昭和30年)に竣工、
熊本が1957年(昭和32年)に竣工します。
<唯一護国神社のない県>
1953年(昭和28年)
神奈川県は戦後いち早く<神奈川方式>と呼ばれる”多宗教”の「戦没者慰霊堂」が横浜市港南区最戸に建てられ戦没者慰霊の役割を担うことになります。
結果、全国で唯一<護国神社>の無い県となりました。
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f153/p2926.html
また、横浜市としては
<横浜大空襲>を含めた戦争犠牲者を悼む「横浜市 平和祈念碑」が
中区の大通公園中程に建立されています。
1992年(平成4年)5月29日建立。
建立者は「横浜戦災遺族会」
彫刻家の横田七郎の作品で台座正面には「平和記念碑 横浜市長 高秀秀信」とあります。毎年5月29日、大空襲の犠牲者を悼む平和祈念碑の内部が公開されます。
戦争の記憶を心に留めるためにも、
時にはこれらの慰霊碑を訪れることをお勧めします。
(三ツ沢公園関連ブログ)
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園

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No.309 11月4日(日)名実共に記念館

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(3月21日関連過去ブログ)
No.81 3月21日 猛女養成学校出身

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9月 19

第859話【横浜絵葉書】観艦式に見る日本の歴史

戦前、海軍の大セレモニー観艦式が20回近く行われました。
今回は観艦式を<横浜絵葉書+資料>で整理し戦前の戦争史を振り返ってみます。
観艦式とは1341年に英国で始まった軍事デモンストレーションで、当時のエドワード3世が英仏戦争の際に指揮を鼓舞するために艦隊出撃の際に観閲したことが始まりです。
明治から昭和にかけて 日本海軍は「観艦式」を計18回実施しています。
この内、横浜で9回(半数)実施されました。
観艦式一覧
当時は第 回という名称では無く多くの場合年号で示しました。
○1868年4月18日(明治元年3月26日)
大阪天保山沖。参加艦艇数7隻
○1890年(明治23年)4月18日
神戸沖。海軍観兵式 参加艦艇数6隻
○1900年(明治33年)4月30日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数19隻
○1903年(明治36年)4月10日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数49隻

■1905年(明治38年)10月23日lightm38%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f316light%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e9%96%a2%e9%80%a3%e9%9b%91%e8%b3%87%e6%96%99m38m38%e6%96%b0%e8%81%9e%e8%a8%98%e4%ba%8b 横浜沖。凱旋観艦式 (日本海海戦勝利)参加艦艇数168隻
横浜で最初に観艦式が行われたのが日露戦争終結(9月5日)に伴う凱旋観艦式 で「日本海海戦勝利」を祝う形で開催されました。
日露戦争は、第一次世界大戦につながる(近代)総力戦の始まりでした。
日露戦争終結は日本勝利という形でしたが、日露共々厖大な戦費負担と経済疲労に喘いでいて、当時の常識であった<賠償金>を得ることができなかった勝利でした。
国内世論は戦利品のない勝利の不満に沸騰し、暴動が起こり東京で初めて戒厳令(緊急勅令)が出されました。
このような中での戦勝をPRするために「凱旋観艦式」が行なわれました。艦隊の最高責任者(艦隊長官)は東郷平八郎(大将)、英米艦隊も参加しました。
観艦式に参加した艦艇数の多さからも、この観艦式の意味合いがわかります。

○1908年(明治41年)11月18日
神戸沖。大演習観艦式 参加艦艇数123隻
■1912年(大正元年)11月12日lightt%e5%85%83%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f013-1 横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数115隻 航空機2機
7月30日から大正となり初めて行われた観艦式です。ここで航空機が登場します。
○1913年(大正2年)11月10日
横須賀沖。恒例観艦式 参加艦艇数57隻 航空機4機
→1914年6月28日 第一次世界大戦(〜1918年11月11日休戦協定)
1914年8月23日 日本ドイツに宣戦布告
■1915年(大正4年)12月4日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft4%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e9%96%a2%e9%80%a3%e9%9b%91%e8%b3%87%e6%96%99009light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft4%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e5%8f%b2%e6%96%99017
横浜沖。御大礼特別観艦式 (大正天皇即位式)
参加艦艇数 124隻 航空機9機
■1916年(大正5年)10月25日
横浜沖。恒例観艦式 参加艦艇数 84隻 航空機4機
→1918年(大正7年)8月2日 シベリヤ出兵
11月11日第一次世界大戦終結
○1919年(大正8年)7月9日
横須賀沖。御親閲式 (欧州派遣艦隊慰労) 参加艦艇数 26隻
※日本海軍駆逐艦隊が対ドイツ潜水艦のため地中海に派遣された。
1918年12月19日、7隻のドイツ潜水艦が日本海軍第二特務艦隊に引き渡され英米仏が不可能と見ていた日本への曳航に成功し1919年6月18日に横須賀港に到着した。light20150423115800%e3%83%89%e3%82%a4%e3%83%84%e6%bd%9c%e6%b0%b4%e8%89%a6%e6%88%a6%e5%88%a9%e5%93%81
■1919年(大正8年)10月28日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft8%e5%b9%b420151125143751light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8ft8%e5%b9%b420151125143801
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数 111隻 航空機12機
→1920年(大正9年)1月10日
日本、国際連盟に正式加入。常任理事国となる。(アメリカ不参加)
4月6日 ハバロフスクで日ソ軍事激突。(〜29日)
■1927年(昭和2年)10月30日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs2%e5%b9%b4%e8%b3%87%e6%96%99%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f%e7%b5%b5%e8%91%89%e6%9b%b8002
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数 158隻 航空機83機
→1928年(昭和3年) 張作霖爆死事件。
■1928年(昭和3年)12月4日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs3%e5%b9%b4201312%e7%b5%b5%e3%81%af%e3%81%8c%e3%81%8d038light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs3%e5%b9%b4201312%e7%b5%b5%e3%81%af%e3%81%8c%e3%81%8d041
横浜沖。御大典記念 参加艦艇数 186隻 航空機132機
御大礼特別観艦式 (昭和天皇即位式)※史上最大
○1930年(昭和5年)10月26日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs5%e5%b9%b4%e8%b3%87%e6%96%99%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f%e7%b5%b5%e8%91%89%e6%9b%b8006
神戸沖。特別大演習観艦式 参加艦艇数164隻 航空機72機
→1931年(昭和6年)9月18日 満州事変勃発
■1933年(昭和8年)8月25日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs8%e5%b9%b420150508141624
横浜沖。大演習観艦式 参加艦艇数159隻 航空機200機
→3月24日 日本が国際連盟脱退を通告。
→1934年(昭和9年)12月19日 ロンドン軍縮会議決裂。
→1936年(昭和11年)1月15日 ロンドン軍縮会議を脱退。
○1936年(昭和11年)10月29日light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8fs11%e5%b9%b4%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e5%8f%b2%e6%96%99013
神戸沖。特別大演習観艦式 100隻 航空機約100機
→1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件。7月28日支那事変へ。
→1937年(昭和12年)11月6日日独伊の三国防共協定。light2016%e5%b9%b407%e6%9c%8805%e6%97%a501%e6%99%8216%e5%88%8611%e7%a7%92
→1939年(昭和14年)5月11日ノモハン事件。日ソ軍衝突、日本大敗。
→1939年(昭和14年)9月1日ドイツ軍がポーランド侵攻、第2次世界大戦始まる。
■1940年(昭和15年)10月11日lights15%e7%b4%80%e5%85%83%e4%ba%8c%e5%8d%83%e5%85%ad%e7%99%be%e5%b9%b4%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f017-1light%e8%a6%b3%e8%89%a6%e5%bc%8f%e8%a8%98%e4%ba%8b
横浜沖。参加艦艇数 98隻(推定) 航空機527機
紀元(皇紀)二千六百年特別観艦式
【日本海軍最後の観艦式】
■関連ブログ
戦前観艦式資料
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5064
No.285 10月11日(木)武装セル芸術
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=315
【横浜側面史】 観艦式
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5286

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7月 17

第849話 横浜・新橋、横浜が先?

日本鉄道事始め、この辺に詳しい方には当たり前のことですが
日本最初の駅「横浜」「新橋」は全く同じファサード(顔)を持っていました。

初代横浜駅
初代横浜駅
初代新橋駅
初代新橋駅

設計は共にアメリカ人建築家リチャード・ブリジェンス、設計者が同じなんだから同じでもおかしく無いけれども、普通<格>をつけてしまうのが近代日本の定番。ところが「横浜」「新橋」は本当にうりふたつ。
横浜駅には<噴水><ガス灯>が写っています。

鉄道の歴史をざくっと
1872年6月12日(明治5年(旧暦)5月7日)
「横浜」「品川」間の鉄道路線が開通し、横浜駅(初代)が開業。
品川駅は「木造平屋2棟、現在の位置よりやや横浜方、海に面したのどかな駅」だったそうです。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/ca/Shinagawa_Station_in_early_Meiji_era.jpg

1872年10月14日(明治5年9月12日)
四ヶ月後に「横浜駅」と「新橋駅」が開業。初日は式典と明治天皇御座乗特別列車の運行のみで営業は翌日からなので営業は1872年10月15日ってことです。
この間を<仮営業>と呼んでいますが、個人的には前述の1872年6月12日からしっかり<営業>しているのでこの日を鉄道の発祥の日にして欲しいところです。
さらに!さらに ここがポイント!
手元の資料だけですが
リチャード・ブリジェンス設計の「横浜駅舎」「新橋駅舎」
1872年6月12日開業が「横浜駅舎」
1872年10月14日開業が「新橋駅舎」
ってことは リチャード・ブリジェンス設計の横浜駅は新橋(汐留)より古い、最初ってことですね。
まあ どうでもいいことですが この辺はっきりしておきたいところです。

旧新橋駅再現
旧新橋駅再現

light2016-04-15-18-28-07light初代横浜駅前

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4月 7

【記念式典】横浜、金のシャチホコ

ここに一枚のお城の写真があります。
light復興博覧会名古屋城 城郭ツウであれば<金の鯱>がトレードマークの「名古屋城」らしい?と推理されたかもしれません。
この名古屋城は、横浜市の復興イベントのために建てられた<フェイク>ハリボテです。
場所は山下公園、時は1935年(昭和10年)の出来事です。

(復興記念横浜大博覧会)light名古屋館light正面大さん橋側会場light会場山手側 『復興記念横浜大博覧会』が1935年(昭和10年)3月26日から5月24日まで山下公園を中心に開催されました。
1923年(大正12年)に起こった<関東大震災>から立ち直った横浜市を国内外にアピールするために横浜市が復興記念と謳い実施されたものです。
メイン会場となった『山下公園』は、震災復興のシンボル的存在でした。light開催前 山下公園と通りを挟んだ山下地区約10万平方メートルを会場にして開催され来場者は、のべ3,299,000人に達し横浜市内で開催された戦前最大のイベントとなりました。
※乃村工芸の博覧会データベースによれば

「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。」とあります。
lightアメリカンロディオ

最初に登場した<名古屋城>はこの『復興記念横浜大博覧会』山下公園会場の大さん橋寄りに設置されました。ここに登場した<地方館>は、
地元神奈川館、北海道館、東京館、奈良館、(静岡茶)。統治下にあった台湾館、朝鮮館でした。
全体を通して、特徴的なのは<海>に関するテーマ館が目立つことです。
海女館、水族館、海洋発展館、ウォーターシュート、そして特に際立っているのが戦後貨客船「氷川丸」が係留されたあたりに設置された「生鯨館」でしょう。light復興記念博覧会中央会場 山下公園先の海を囲って鯨を泳がせたようですが、飼育環境が悪かったのかすぐに死んでしまったそうです。現在なら保護団体から厳重な抗議がきたことでしょう。
さらには、かつて仏蘭西波止場(下図 東波止場)だった汐だまりを活かした池には<水上遊戯>施設と『蟹罐』という名の謎の水上施設が記載されています。
『復興記念横浜大博覧会』開催内容を絵図や記念絵葉書を元に探ってみるといろいろ興味深いことがわかってきます。

(記憶)
現在も残っている当時の施設は「ホテルニューグランド」だけです。一部モニュメントが残されているのが「産業貿易センター」前の香港上海銀行と、イギリス系海運・貿易商社バターフィールド&スワイヤ商会の事務所だった建物の一部を保全した「創価学会戸田平和記念館」です。公園内には震災復興に関する記憶は殆どありません。
この山下公園が震災復興のシンボルだった?ことを改めて思い起こす空間にする必要があると感じています。

震災前
震災前の横浜港・大桟橋

(山下公園)
メイン会場となった山下公園は、
関東大震災の復興事業として1930年(昭和5年)3月15日に誕生しました。面積は 74,121m²あり現在も多くの利用者で賑わっています。完成以来、湾岸の工業化に伴い殆どの海岸線が工場用地、埠頭用地となる中、公園機能が残された横浜の貴重な臨海施設です。
戦後一時期、米軍の接収地となりオーシャンビューの住宅が建ち並んだ時もあります。
light接収中の山下公園2 No.181 6月29日(金) オーシャンビューの35棟解体

■1935年の出来事をピックアップ
2月18日
菊池武夫が貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を反国体的と糾弾
3月7日
村山助役再選を決定 日吉・富岡の一部地域へのガス供給案可決 私営バス強制買収に関する意見書を関係行政庁に提出する建議可決
●皇紀2600年記念オリンピック大会招致に関する意見書を市長に提出する建議可決
3月16日
アドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄し、ナチス・ドイツの再軍備を宣言
3月20日
復興博浜踊り発表会が野沢屋で開催された
復興記念横浜大博覧会開催
3月26日
西条八十作詞杵屋佐吉作曲「はまちどり」が発表
4月1日
横浜宝塚劇場が住吉町に開館した
4月4日
日中両国の経済状態視察などを目的とした米極東産業視察団の一二人、横浜に到着。
4月6日
満洲国皇帝溥儀が来日。靖国神社参拝
4月7日
美濃部達吉が天皇機関説のため不敬罪で告発される
4月9日
美濃部達吉の「憲法概要」など著書3冊が発禁となるも買手殺到し書店で売切れ
4月14日
太平洋最大の豪華客船エンプレス・オブ・ブリテン号、五百余人の観光客を乗せて横浜へ入港。
8月12日
永田鉄山暗殺事件(相沢事件)
9月15日
ナチス・ドイツにおいてニュルンベルク法制定(ユダヤ人公民権停止・ドイツ人との通婚禁止)
9月15日
ハーケンクロイツ旗が正式にドイツの国旗とされる。
12月9日
第二次ロンドン海軍軍縮会議開催

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5月 18

【市電ニュースの風景】№20

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。№201931年(昭和6年)5月
十四・五・六日 伊勢山皇大神宮大祭(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂下車)
十五日 『郵船』浅間丸入港(ホノルルより午前中四号岸壁へ)
十五日 弘法大師誕生会ならびに詠歌大会(電車及バス本町一丁目下車)
=午前十一時より本町開港記念会館にてー入場無料=
十五日より十八日まで
第四回掃部山バザー(電車 紅葉坂・野毛坂又は戸部一丁目下車
バス紅葉坂又は雪見橋下車)
=マネキン劇場支那獅子舞其他余興沢山=
十六日 名古屋高商對横濱高商野球戦(午后三時横濱公園球場にて)
十六日 基督教婦人講演会 入場無料(午后二時尾上町指路教会にて)
十六・七日 神奈川金毘羅神社大祭(電車及バス 青木橋下車)
十六・七日 横濱専門学校記念祭(電車 六角橋終点より約四町)
=中等学校陸上競技会、音楽会、野球試合、提灯行列等ー入場無料=
18日シボレー大キャラバン隊(20数台)到着、元横濱駅裏広場で展覧

懸賞標語
「おつと危い左右(当選者 松本藤四郎君)」
※アラビア数字は別の年表から追記したものです。

[キーワード]
■伊勢山皇大神宮
横浜の総鎮守「関東のお伊勢さま」と呼ばれている伊勢山皇大神宮は、開港後現在の場所に遷座されてものです。現在の位置する場所からほど近い戸部村海岸伊勢の森の山上にあった神社を明治初年に国費を以て創建したもので、開港場の総鎮守として明治から今日まで多くの参拝者が訪れます。light_横浜商店街通り077 light_横浜商店街通り071No.691 【横浜神社めぐり1】伊勢山皇大神宮
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5971

No.426 横浜で学ぶ(神社編1)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=146

No.338 12月3日 (月)八の1418(加筆)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=252

■電停 紅葉坂・野毛坂
横浜は坂の多い都市です。light_紅葉坂-1light_伊勢山電停

■『郵船』浅間丸
「太平洋の女王」と呼ばれた浅間丸。主に横浜-ホノルル-サンフランシスコ航路に就航し多くの日本人と訪日外国人を運びました。
ロサンゼルスオリンピックに出場した西竹一男
ハリウッドスターのダグラス・フェアバンクス
ヘレン・ケラー
交換船・海軍徴用船となった後
1944年(昭和19年)2月24日に魚雷を受けて損傷しますが沈没は免れます。修復後マニラから高雄へ向けて航行中魚雷が命中し沈没。

■四号岸壁
新港埠頭で客船用に多く使用された埠頭です。light_20150408165442 light_新港埠頭上空

■掃部山(かもんやま)
別の機会に詳しく紹介します。
■尾上町指路教会
指路教会は最初の横浜居住地39番から、現在地、太田町、住吉町を経て1892年(明治25年)再び現在地に戻り、ヘボンの尽力により赤レンガの教会堂が建てられました。初代指路教会は
設計:サルダ 1892年(明治25年)竣工
関東大震災で倒壊。現在の建物は大正15年竹中工務店の設計により再建されました。横浜市認定歴史的建造物です。

■神奈川金毘羅神社
大綱金刀比羅神社
「横浜の金刀比羅(こんぴら)さん、大神様の尊き御神徳を知る数多くの会社経営者を始め、船舶関係、農業関係、建築関係、医療関係、民衆に至るまで、十六神の大神様の御神徳を頂ける神社であります。」
旧東海道、神奈川宿台の坂に鎮座、街道の安泰と袖が浦神奈川港に出入りする船は海上安全を祈願した神社です。light_神奈川金毘羅

■横濱専門学校
神奈川大学の前身の校名。light__9145936light_P2090159(戦前の歩み)
1928年(昭和3年)
米田吉盛が横浜市中区桜木町に「横浜学院」を開設
現在の西区桜木町6丁目34番地にあった「桜木会館」の1階と2階を借り学校を開校。
同年12月
横浜学院、中区西戸部町富士塚に移転。スクリーンショット 2015-05-18 16.36.43スクリーンショット 2015-05-18 16.36.061929年(昭和4年)
専門学校令により「横濱専門学校」(法学科、商業理財科)を開設
1930年(昭和5年)
六角橋校地(現在の横浜キャンパス(横浜市神奈川区六角橋)へ移転
1939年(昭和14年)
工学系の3学科(機械、電気、工業経営)を新設
1945年(昭和20年)
GHQによって一時的に六角橋校地が接収
大倉山の大倉精神文化研究所と三ツ沢の県立第二横浜中学校(現横浜翠嵐高校)にて授業を再開。

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10月 12

第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント

1940年(昭和15年)東京オリンピックの影で同じく延期となった国際イベントがありました。
会場も東京と横浜に決まっていました。

light_1940_TOKYO
1940年東京オリンピック

日本萬国博覧会(EXPO JAPAN)です。

light_横浜史料001この萬国博覧会は1940年3月15日〜8月31日の期間に開催される予定でした。オリンピック同様に日中戦争の激化などを受けて開催を延期します。
EXPOとは、国際博覧会条約(BIE条約)に基づいて行われる博覧会のことで、国際機関が認定した国際博覧会のことを指します。国が申請し、総会で承認される必要があります。システムはオリンピックと似ていますね。
昭和に入り、横浜は復興振興を兼ねイベントを重ねます。

※産業文化展覧会
1931年(昭和6年)11月3日〜9日の一週間
※復興記念横浜大博覧会
1935年(昭和10年)3月26日〜05月24日
light_1935復興記念横浜大博覧会light_横浜式典001 light_横浜式典011この博覧会は3,299,000人を動員します。
「大正12年の関東大震災から立ち直った横浜市が復興を記念して産業貿易の全貌を紹介するため、山下公園約10万平方メートルを会場に開催した。風光の明媚と情緒随一の山下公園には、1号館から5号館まで各県と団体が出展、付設館として近代科学館、復興館、開港記念館のほか、正面に飛行機と戦車を描いた陸軍館と、1万トン級の巡洋艦を模した海軍国防館が作られ、館内に近代戦のパノラマがつくられ、戦時色の濃い内容であった。特設館は神奈川館のほか満州、台湾、朝鮮などが出展。娯楽施設は真珠採りの海女館、水族館、子供の国などがあり、外国余興場ではアメリカン・ロデオは、カーボーイの馬の曲乗りと投げ縄や、オートバイサーカスなどの妙技を見せ喝采を浴びた。この博覧会は百万円博といわれた。」(乃村工芸サイトより)

引き続き
1940年(昭和15年)の皇紀二千六百年に合わせ
東京オリンピック、日本萬国博覧会が計画されました。
日本が初めて国際的な博覧会に参加したのは1867年(慶応3年)のパリ万博です。
その後、積極的に外国の博覧会へ参加し同時に国内でも多くの博覧会を開催することになります。

国際博覧会の場合、前述の通り<国際機関>の総会での認定が必要となります。
明治時期から昭和の戦前期にかけて万博の日本開催を計画しますが中々開催に至りませんでした。国際機関認定の「日本万国博覧会」=大阪万博が1970年に開催するまで100年の歳月がかかったことになります。
一方で横浜ならではの大型イベントが開催されました。
観艦式です。
13回 1927年(昭和2年) 10月30日 大演習観艦式 横浜沖
14回 1928年(昭和3年) 12月4日 御大礼特別観艦式 (昭和天皇即位式)※史上最大 横浜沖
15回 1930年(昭和5年) 10月26日 特別大演習観艦式 神戸沖
16回 1933年(昭和8年) 8月25日 大演習観艦式 横浜沖
17回 1936年(昭和11年) 10月29日 特別大演習観艦式 神戸沖
18回 1940年(昭和15年) 10月11日 紀元二千六百年 特別観艦式 横浜沖
観艦式は 明治以降 18回開催されますが、半数が横浜港で開催されました。
特に第5回の日露戦争凱旋観艦式以来の14回中、8回が横浜沖で開催されます。

観艦式は横浜にとって日常イベントになっていたようです。
1940年(昭和15年)オリンピックと万博が中止になった年、横浜港では「紀元2600年記念特別観艦式」が挙行されますが、規模は航空機中心で艦船の規模はかなり控えめとなりました。日米が戦争に突入する一年前の頃の出来事です。
light_観艦式記事 light_横浜関連雑資料017
紀元二千六百年「日本萬国博覧会」入場券。
light_万博入場券 ※ネット情報の多くが東京会場としていますが、横浜もしっかり会場となっています。
昭和初期、日本が国際関係に行き詰まり開戦を選ぶに至った十数年、イベントで横浜が賑わっていたことも記憶に残しておいて欲しいものです。

(第687話)オリンピックと横浜

7月 27

【横浜側面史】 観艦式

戦前、横浜で開催された大規模の式典が多くあります。

■製茶共進会・生糸繭共進会(1879年(明治12年))
■開港50周年記念式典(1909年(明治42年))
■神奈川県横浜市勧業共進会(1913年(大正2年))
■震災復興記念横濱大博覧会(1935年(昭和10))
この他、
特に横浜で多く開催されたのが海軍「観艦式」です。
今日はこの横浜沖「観艦式」を少しレビューしてみます。

観艦式930373
<昭和3年観艦式記念絵葉書  合成写真っぽい>
「観艦式」は明治に始まり現在も行われていますが、戦前は軍拡競争の中で国の威信をかけた式典として盛大に行われました。
「観艦式」
戦前、明治から昭和にかけて 日本海軍は「観艦式」を計18回実施しています。
その半数九回が横浜沖で実施されました。
No.285 10月11日(木)武装セル芸術

ここでは1940年(昭和15年)10月11日(金)に開かれた帝国海軍、最後で最大の「観艦式」について簡単に紹介しました。

そもそも「観艦式」というのは1341年に英国で始まったデモンストレーションで、当時のエドワード3世が英仏戦争の際に指揮を鼓舞するために出撃の際観閲したことに始まります。
余談ですが、
礼砲の作法も英国のプロトコルが世界標準になっています。発射数を最大21発として19発・17発・15発〜と奇数回その地位によって数が決まっています。
No.231 8月18日 (土)give a twenty‐one gun salute.

No.64 3月4日 日本初の外国元首横浜に

「No.285 10月11日(木)武装セル芸術」の回での紹介を含め
今回「観艦式」を再度紹介するに至ったのは
なぜ 「観艦式」の半分を横浜で行ったのだろうか?
という素朴な疑問があったからです。
おそらく 横浜港沖で行った理由は
「帝都東京」と「東海鎮守府」である海軍中枢基地「横須賀」に近いこと。
そして
横浜港の持つ構造の良さだろうと推測できます。
→後半で別途紹介します

全18回の「観艦式」の内訳は
横浜沖で9回
神戸沖で6回
横須賀沖で2回
1回(初回のみ)大阪天保山沖
で行われました。

観艦式44288d
<式次第>                  kawakita collections

観艦式41384

観艦式928357
kawakita collections

最初に横浜沖で実施された「観艦式」は
1905年(明治38年)10月23日<日本海海戦勝利凱旋観艦式>と呼ばれ、
日露戦争の勝利を祝う目的も兼ねていました。
第五回目にあたるこの「観艦式」は、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将が総司令官として式典に臨み国民の関心もかなり高いものでした。
観艦式図 <当時の観艦式 配列図>
この第五回目以降、観艦式は拡大を続けます。
明治期観艦式の見物人に関する資料は手元にありませんが、
1928年(昭和3年)御大礼特別観艦式(昭和天皇即位式)として実施された横浜沖での観艦式は天候にも恵まれ
鶴見岸から本牧まで、多数の見学者が水際を埋め尽くしその数は100万人を越えていたそうです。
この観艦式には米国『重巡洋艦ピッツバーグ』、英国『重巡洋艦ケント』『重巡洋艦サフォーク』『重巡洋艦ベルウィック』、仏国『装甲巡洋艦ジュール・ミシュレ』、伊国『リビア』、オランダ『ジャワ』と各国の特務艦計11隻の外国艦船も参加しています。

(劇場としての横浜港一帯)
横浜港一帯が最高の一大劇場と化していたことになります。
横浜港の持つ円形劇場、
横浜港から鶴見川崎にかけての、岸辺・丘からの眺め
現在のように工場や高層ビルの無い時代に、少し小高い丘に登れば横浜沖の東京湾が一望できたロケーションは、海上デモンストレーションには最高です。
多くの国民・関係者にプレゼンスできる「横浜港一帯」だったのです。

観艦式444384
kawakita collections

以前 このブログで 帝都東京と 港都横浜の都市間競争を紹介しましたが、帝都東京が力と権力も有しながら中々開港できなかった背景は、省庁間・地元経済界の猛反対に加え、多くの市民の支持と
「港都横浜」としての“劇場性”もあったからではないでしょうか。

70年代に私が初めて横浜港周辺を散策し始めた頃、
まだまだ海辺は近づくことが難しかった時代でした。
「KEEP OUT」の文字も多かった気がします。
横浜港の水際が自由で快適な空間になりはじめたのは つい最近のことです。
戦前以上に港都横浜の魅力を楽しめるようになった?今
“平和会議場”もあることですし
みなとのみらいから積極的平和を発信できる都市に成長していって欲しいものです。

観艦式一覧
1868年 (明治元年3月26日) 大阪天保山沖 4月18日
1890年 (明治23年)4月18日 神戸沖。
1900年 (明治33年)4月30日 神戸沖。
1903年 (明治36年)4月10日 神戸沖。
1905年 (明治38年)10月23日 横浜沖 日露戦争終結
1908年 (明治41年)11月18日 神戸沖。
1912年 (大正元年)11月12日 横浜沖。
1913年 (大正2年)11月10日 横須賀沖。
1915年 (大正4年)12月4日 横浜沖。
1916年 (大正5年)10月25日 横浜沖。
1919年 (大正8年)7月29日 横須賀沖。
1919年 (大正8年)10月28日 横浜沖。
1927年 (昭和2年)10月30日 横浜沖。
1928年 (昭和3年)12月4日 横浜沖 【御大典記念】
1930年 (昭和5年)10月26日 神戸沖。
1933年 (昭和8年)8月25日 横浜沖。
1936年 (昭和11年)10月29日 神戸沖。
1940年 (昭和15年)10月11日 横浜沖。
【日本海軍最後の観艦式】紀元二千六百年特別観艦式

(余談)
観艦式資料を探していたら
観艦式準備資料の中からこんな図面・文書を発見しました。
観艦式509317
観艦式4397e3 以前横浜水上署見学の際
ここで西波止場という言葉が使われていました。何気なく聞き流していましたが
lig_sanbasi 戦前からこのあたりを
「西波止場」と呼び続けていたんですね。

3月 24

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

1989年(平成元年)の今日、横浜市政100周年(横浜開港130年)記念事業の中核となる横浜博覧会開会式が行われました。
この横浜博覧会はみなとみらい21地区の69haを使用して開催され、のべ1,333万人が入場しました。<開催期間は1989年(平成元年)3月25日〜10月1日>

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公式ガイドブック
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当時の横浜駅西口駅前、靴磨きが生業としてありました

この「横浜博YES’89」英称:YOKOHAMA EXOTIC SHOWCASE ’89 は1960年代に構想された「みなとみらい21計画」の“地鎮祭”のような役割を持つお祭りでした。
横浜駅界隈と関内界隈、桜木町駅界隈をつなぐ位置に広がる「三菱重工横浜造船所」跡地が「みなとみらい21」エリアです。
下の写真は77年のみなとみらいに相当するエリアです。

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左上が横浜駅で右下がカップヌードルミュージアム、赤れんが倉庫のある新湊埠頭エリアです。そのさらに下が関内地区で臨海部の造船所がエリアを分断しているのが良くわかります。ここを80年代に地ならしと埋め立てを行い90年代に街を作る計画が「みなとみらい21計画」です。
いわばその鍬入れ式を市政100周年というタイミングに博覧会というかたちで実施しよう!ということになった訳です。
関東大震災まで首都圏で光り輝いていた「横浜界隈」は、その後戦災、米軍接収の苦難の中、失われた半世紀の時を過ごします。本腰で横浜のまちづくりに取り組み始めたのが1960年代後半、飛鳥田市長時代の「六大事業」構想です。当時、東京湾岸は工場地帯がベルトのように臨海部を占有していましたが、可能な限り臨海部を職住機能のある街にする計画が湾岸各都市で計画されます。千葉は幕張エリア計画、東京が臨海副都心計画、そして横浜がみなとみらい21計画でした。熾烈な都市間競争の始まりです。

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1988年ほぼ埋め立て完了横浜博会場準備中
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現在のみなとみらいエリア

この「横浜博YES’89」はバブル期に開催されました。
地鎮祭は行ったものの、バブル崩壊で90年代「みなとみらい21計画」は苦難の道を歩みます。
また、単に新しい街ができるだけでは無く、周辺の商業地域との調整にも様々な難題が起ります。横浜駅東西の商業戦争、野毛地区の東急線廃止問題、伊勢佐木の地盤沈下等々を抱えながら「横浜博YES’89」が挙行されました。
ただ、「横浜博YES’89」にはここで紹介したように「みなとみらい21」というあたらしい街ができあがる地鎮祭(前夜祭)的な役割がありましたから希望が見えました。
事実動員があったりもしましたが、このみなとみらいに蒔かれた種や樹々はなんとか現在まで枝葉を広げ形になりつつあります。
さあこの点で「開港開国博Y+150」はその先に何を見ようとしたのでしょうか?

「みなとみらい21計画」の評価、是非は様々な議論が行われています。私も別の機会にまとめてみたいテーマの一つですので後日に譲ります。

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ガイドブック他報告書各種

「横浜博YES’89」の開催内容のマップです。ゴンドラはあるし専用鉄道も敷かれます。現在みなとみらいのシンボルとなっている観覧車もこのときにできたものです(後日現在地に移設)。桜木町駅前の動く歩道、日本丸、美術館もこの時期に設置されたものです。思い出のある方も多いと思います。

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会場マップ
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3月 15

No.75 3月15日 JAPAN FOREIGN TRADE FAIR YOKOHAMA

戦後、横浜で開催された博覧会(開港博)は四回あります。
1989年に市制100周年としてYES89
2009年に開港150周年としてY+150がそれぞれ開催されました。
この二つの博覧会に先立つ1949年(昭和24年)の今日から「JAPAN FOREIGN TRADE FAIR YOKOHAMA(日本貿易博覧会 横浜)」が開催されました。(〜6月15日)

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横浜も東京に匹敵する大空襲による戦災ダメージはかなりの規模でした。
さらに日本最大面積の接収地(沖縄は日本ではありませんでした)を抱える基地の街となりました。
占領下にあった日本は1947年(昭和22年)に一部貿易が可能となり横浜港の機能も回復し始め、戦災復興のために産業博覧会を開催しようという計画が持ち上がり「日本貿易博覧会」が開催されました。

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横浜都市発展記念館蔵 HPより転用

博覧会の目的は会の規約によると「本会は内外における物産の現状及び産業資料を展示し、日本産業を再建し、日本貿易の振興を図るを以て目的とする。」でした。

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報告書

横浜市と神奈川県の共催で、開場は「野毛山」と「神奈川(現在の反町公園)」の二会場に分かれて会期93日間にわたって実施されました。
予算規模5億1000万円
第一会場(野毛山会場)27,500坪
第二会場(神奈川会場)28,000坪
合計56,000坪に企業関係を中心に、政府関係、全国自治体のブースが50の施設に展開されました。二会場は市電で結ばれ(シャトル電車?)入場者数は360万人(有料1,122,721人)にのぼりました。
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lit_日本貿易博覧会福引き券

野毛山会場

内容に関しては、Wikipediaを参照してください。

この「日本貿易博覧会」も他の横浜で開催された「博覧会」同様赤字でした。

議会でも赤字補填に関して紛糾します。
博覧会閉会後、神奈川開場の施設はその後10年間「横浜市役所市庁舎(臨時)」として使用され移転後は公園となりました。
会場内の演芸館が神奈川スケートリンクになりました。また、野毛山開場は、公園として整備され現在にいたります。庭園が野毛山動物園に、迎賓館が横浜迎賓館(現セントジェームスクラブ迎賓館)として活用されることになりました。

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「日本貿易博覧会」1949年から10年後の1959年に開港100周年祭が行われます。

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なぜ 両方のエネルギーを合わせられなかったのか?
残念であると同時に不思議でなりません。
この博覧会を広告会社として仕切ったのが「日本電報通信社(電通)」発展の礎を築いた広告の鬼、(四代目社長)吉田秀雄です。例の「鬼十則」(おにじゅっそく)を作った人物です。

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2016 12加筆修正