カテゴリー別アーカイブ: 【横浜の鉄道】

第977話【横浜の道】国道16号線

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国道16号は現在、起点:西区桜木町〜終点:西区桜木町という珍しい道路です。
歴史は新しく1963年(昭和38年)4月1日に幾つかの路線が統一されて16号となりました。
横浜界隈的に起点から16号を辿ります。
ルート16は
帷子川支流「石崎川」近く、元「桜川」のあった場所を起点に初めて鉄道が始まった初代横浜駅・新橋間の鉄道路線に沿って大江橋へ続きます。

二代目横浜駅。ちょうど市電のあたりが16号線起点
現在の桜木町付近
16号線起点・終点付近
初代横浜駅、現桜木町駅。興産館(現ぴおシティ)あたりの16号線。

<大江橋> 横浜市内では珍しい人名の橋です。(大江卓)
関内大通と交わる尾上町の交差点を右折、羽衣橋を渡ると旧吉田新田の背骨、中央部を吉野町まで。このルートは関東大震災まで狭い道でしたが、吉田川沿いを通っていた市電のルート変更を行い、広い道路として新規整備されました。
吉野町の交差点を左に。
中村川の「睦橋」を越え、堀割川に沿って磯子方面に。

尾上町交差点付近で16号線は大きく曲がります。

<八幡橋>際を右折し横須賀方面に曲がります。
ここから16号線は旧海岸線でした。
磯子駅を通過し、新杉田駅を過ぎると内陸部に入り込み、富岡からほぼ京浜急行線と並行して金沢文庫まで走ります。泥亀あたりで少し京急と分かれ、また金沢八景で並走します。京急と国道16号線は馬堀海岸までほぼ並走しています。
その後16号線は国道の中でも数少ない海の国道を経て、房総半島に上陸し千葉県を縦断、埼玉県、東京都下八王子からかつて絹の街道として盛んな往来があった八王子街道となった横浜市旭区に入ります。保土ヶ谷バイパスと旧道に分かれ、旧道はほぼ「帷子川」の沿って横浜中心部に入り、終点に向かいます。

(歴史)
横浜に海軍鎮守府(東海鎮守府)が1876年(明治9年)に短期間ですが設置されます。
1884年(明治17年) 12月15日、東海鎮守府は横須賀に移転「横須賀鎮守府」となります。この時から横浜と横須賀との道路整備が行われ、1887年(明治20年)に鎮守府に至る国道として「国道45号線」となりました。

戦後の
1952年(昭和27年)12月4日に施行された新道路法に基づく路線指定でこの区間が「一級国道16号」に指定されます。これが国道16号のはじまりです。
その後、延長を重ね、他の国道を取りまとめ環状線となって現在にいたります。

旭区から終点に至る16号線は、江戸時代から八王子街道として開け、保土ケ谷区と西区の区境(洪福寺松原商店街はずれ)に東海道と八王子街道(旧道)の<追分>があります。この主要街道は神奈川往還とも呼ばれ、保土ケ谷宿への重要街道でした。幕末からは繊維(絹)街道として遠くは山梨商人の道として賑わいました。

第973話 【駅から路上観察】京急神奈川駅から白楽まで。

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今回の狙いは、私が世話人をしている「横浜路上観察学会」の例会レポートをアップします。基本参加時のリアリティを大切にしているのであまりレポート系はしないようにしていますが、街を紹介する良い情報源でもありますので
いくつか紹介していくことにしました。
□2018年10月に開催しました京急神奈川駅から白楽ルートから

今回のルート図

谷戸にひだ状に広がる横浜の典型的な稜線越えを楽しみます。横浜の地形は、俯瞰してみると鶴見エリアを除き、多くが襞のような凸凹の連続、小河川が葉脈のようになっているのが判ります。この葉脈の一つの<稜線>を歩きました。

横浜の水系

出発駅は京急「神奈川駅」です。
神奈川駅は、京急全駅中、最も乗降客数の少ない駅で2017年統計では一日あたりの乗降客数が4,637人、お隣「横浜駅」が堂々の第一位で323,668人規模ですので
神奈川駅は70分の一の規模です。距離も近くすぐに<廃止・合理化>対象駅ですが、それでも駅を統廃合しないのは、この駅が京急にとっても、東海道の歴史を語る上でも重要な<鉄道遺産>だからでしょう。

その証として神奈川駅の外観はなかなかの風情です。
早速
神奈川駅前で路上観察的不思議発見???
沿線上 最下位の乗降客数にもかかわらず、しかも時代が電話ボクス廃止傾向の中、駅前には公衆電話ボックスがなんとWで設置。共に現役です。

さあ、ここから丘陵を越えてみましょう。
“小河川”は丘陵地から小さなわき水などが集まり少しずつ水量を増やしながら川に成長していきます。都市化された小河川はかつての<林>を失い、宅地化されることで水量を一気に減らします。横浜のように水源地から河口までが短い河川は、雨が降ると暴れるきまぐれ河川が集中しています。
小暗渠も集中しているので 観察場所としては魅力たっぷりです。
「神奈川駅」から東海道本線を越える「青木橋」を渡ります。
そこには、幕末にアメリカ領事館があった青木山「本覚寺」があります。この青木山一帯は高台を表す”台町”と呼ばれ、かつては神奈川湊を見下ろす景勝地として高島嘉右衛門の邸宅があったことでも有名です。
この丘の下をトンネルで東京急行電鉄「東横線」が走っていましたが、地下化にともない使われなくなった<トンネル>を活かした「フラワー緑道」として遊歩道になっています。
ここでは音の響きが心地よいです。

フラワー緑道

(滝の川)
神奈川区には「滝の川」という準用河川があります。現在は東海道線の橋脚より下流部分しか見えませんが、かつてはこの地域の重要な産業河川でした。河口域は中世から重要港であった「神奈川湊」となり、水運は勿論、大きな漁業拠点でした。江戸時代は「滝の川」河口東海道の「神奈川宿」であり、幕末期には開港を求められた湊です。
地形図を眺めると一目瞭然ですが、
今回のコース
栗田谷・旭ケ丘・二本榎・斎藤分・中丸・六角橋エリアは、大きく二つに別れた「滝の川」の分水嶺であることが判ります。
仮に北滝の川(六角橋方向)と南滝の川(三ツ沢方向)と分けておきます。
この二つの流れは、東神奈川スケートリンクあたりで合流します。ここにはかつて「境橋」が架かっていました。橋の名残が残されています。

二つの滝の川が合流する境橋
境橋から上流が暗渠化。右が六角橋方向、左は三ツ沢方向へ

南滝の川<暗渠>道路です。川の雰囲気が残されています。
ここから丘陵を登っていきます。
横浜市立栗田谷中学校が右手上に見えてきます。
壁際に穴を埋めた痕跡が。レンガや大理石も混じっています。震災時の瓦礫を埋めたのでしょうか?
栗田谷中学校は1949年(昭和24年)にこの場所に移転したようです。

希望橋橋脚

(希望橋 橋脚)
栗田谷中学校は 道路を挟んで校庭があったので生徒たちの安全を考えて谷間部分に橋を架けました。希望橋と呼ばれ、つい最近までありましたが、耐震構造上の理由からか、廃止され、橋脚のみ残っています。
路上考古学的にはとても興味ある残骸です。
(通信用鋼管柱)
電柱と聞くと一般的にコンクリート製のものが思い浮かびますが、地域によっては金属製の電柱もよく見かけるようになりました。道路が狭かったり、傾斜地には最近良く使われるようになっています。電柱を<路上観察>するだけでも色々発見があります。
ほとんど無くなったクラシックタイプの<木製電柱>も探しどころです。

金属製の軽量電柱

(昭和の香り)
路地裏を歩いていると、昭和に出会います。戦後横浜が急膨張した時期に、住宅街や商店街が数多く完成しました。この急膨張時代の名残が、路地裏に残っています。
神奈川区は戦前戦後を通して住宅街として成長してきた街なので、一軒一軒の住宅の佇まいを観察するだけでも、戦後個人住宅史を垣間見ることができます。
(ノラ)
野良猫の生態も地域特性を表しています。賛成反対いろいろあるでしょうが、この地域ではノラがのんびり過ごしていて、ビクついていません。地域に馴染んでいる証拠です。

(善龍寺)
宿遠山善龍寺、この地域に古くからある浄土真宗のお寺。元々は真言宗でしたが、建長5年(1253年)に浄土真宗寺院として中興されました。
新編武蔵風土記稿では
「斉藤分にあり。浄土真宗西本願寺の末寺なり。宿遠山と号す。開山のこと詳ならず。古は真言宗なりと云。本堂七間に六間半、巽向なり、本尊阿弥陀を安ず。木の立像にして長二尺五寸なり。
鐘楼、門を入て右にあり。鐘に正徳年中の銘文あり。」
この浄土真宗寺院として再興した人物が<斎藤兼実>という人物で、この斎藤さんの<知行地>を 斎藤さんの”分”ですという地名が現在でも残っているという説があり、もう一方で斎藤式部入道なる武士がこの地を治めたところから斎藤分となった!

というなかなかの時代(中世)を実感できる場所です。(それぞれ根拠不詳)
この善龍寺には「五代目一龍斎貞丈」の墓碑があります。講談と横浜の関係を知る上でも重要な人物です。
(神奈川大学付近)
少し歩くと、神奈川大学キャンパスが見えてきます。ここは隠れ通学路(東神奈川駅)らしく学生が多く歩いています。
神奈川大学と付近に関しては 色々面白いネタがあり、別テーマで紹介したいところです。
ちょっと飛ばして、
一山越えて、
「北滝の川」に出ます。ここからは細いけれども実に暗渠らしい遊歩道が、六角橋商店街の裏まで続きます。途中、暗渠ならではの階段、マンホール、壁があるので、路上観察的には発見の多い場所です。
さて、終着点六角橋に到着しました。
ここまでの行程で約4キロくらいでした。

六角橋周辺は路上観察の宝庫。路上博物館ともいえる空間です。
変な発見がたくさんあります。
スタート時のツイン公衆電話が なんと!ゴールの六角橋にも。
ここではボックスではなく、据置型でした。まだまだ需要があるんですね。

路上観察を始めると
普段は見逃しているものが<見えてくる>
路上が気になって気になって仕方なくなります。
くれぐれも事故のないように!
今回はこれでおしまい。

第967話 【市電ニュースの風景】1931年 №37・38

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№37    1931年(昭和6年)9月13日(日)から9月18日(金)
№38    1931年(昭和6年)9月18日(金)から24日(木)

1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を何回かに分けて読み解いている。
※「市電ニュース」は、車内吊り広報紙で、市内で開催される講演会、音楽会、展覧会、祭り、野球などの情報や、市政情報を乗客に伝えるメディアサービスとして掲載した。
№37は
 1931年(昭和6年)9月13日(日)から9月18日(金)まで
№38は
 1931年(昭和6年)9月18日(金)から24日(木)まで
【市電ニュースキーワード】
№37
■元町横濱プール
前回紹介
■山王町日枝神社(お三の宮)大祭
第968話【絵葉書の風景】お三の宮
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11786
「関外総鎮守お三の宮日枝神社」
http://www.osannomiya-hie.or.jp

■全国特産品國際市演芸開始
=芝居、茶番、洋楽、舞踊
※茶番=こっけいな即興寸劇。
江戸歌舞伎の楽屋内で発生し、18世紀中ごろ一般に広まった。口上茶番と立ち茶番とがある。茶番狂言。
■四号岸壁へ
明治後期から大正にかけて建設・整備されてきた「新港埠頭」には12号まで岸壁が設置されていた。その中でも外海に最も近く接岸しやすかったのか、四号岸壁が客船用に多く利用された。

終戦後米軍が占領のため兵士が続々と上陸した岸壁も四号だった。

■神奈川県文化展覧会・物産陳列会
=東京三越本店四階にて=
現在も東京で地方PRブース、物産展が開催されるが戦前も県物産展が開催された。
何が展示されたのか、知りたい!

№38
■暁鳥 敏(あけがらす はや)
1877年〈明治10年〉7月12日〜1954年〈昭和29年〉8月27日
真宗大谷派の僧侶、宗教家
http://www.city.hakusan.ishikawa.jp/kankoubunkabu/bunkasinkou/senzin/akegarasu.html
■横浜公園
横浜公園は、開港してまもなく遊郭ができた空間(港崎遊郭)が慶応の大火で消失し遊郭は移動。その跡地はしばらく放置、居留地の外国人から生活環境改善要求があり、土木技師リチャード・ブラントン設計による海岸から日本大通・横浜公園一帯が整備された。本質的な狙いは<防火帯>だったが、本格的な近代公園として、現在まで残る貴重な公共空間である。横浜公園は開園当時、我も彼もという意味で「彼我公園」と呼ばれた。園内には外人居留地運動場、噴水、回遊歩道などが整備された。
1931年(昭和6年)当時は※音楽堂 ※球場があり多くの人々に利用された。

No.78 3月18日 横浜公園に野球場完成

第956話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第一話

■■関連ブログ
第966話 【市電ニュースの風景】1931年 №35・36
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11764

第920話【市電ニュース】市電域と市電ニュース
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10847

【市電ニュースの風景】第一号その1
1930年(昭和5年)12月25日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7276

【市電ニュースの風景】1931年 №21
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7482

第966話 【市電ニュースの風景】1931年 №35・36

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市電ニュース35
市電ニュース36

1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を
何回かに分けて読み解いている。
※「市電ニュース」は、車内吊り広報紙で、市内で開催される講演会、音楽会、展覧会、祭り、野球などの情報や、市政情報を乗客に伝えるメディアサービスとして掲載した。
№35は
 1931年8月29日(土)から9月4日(金)まで
№36は
 1931年9月4日(金)から10日(木)まで
【市電ニュースキーワード】
■元町横濱プール
元町横濱プールは1930年(昭和5年)5月20日に完成、6月1日(日)に開場式が行われた。夜間施設を持っていたので開場の翌月(7月)には日本初の夜間水上競技会が開催された。現在は「元町公園プール」と呼ばれている。
水源は井戸水を使っていたためにかなり冷たく真夏でも凍る!プールで有名だったが現在は<水道>で温かい?!。
戦後1946年(昭和21年)3月1日に米軍に接収され「オリンピックプール」とネーミングされ1952年(昭和27年)に解除、返還された。

戦前の元町プール

■9月1日は震災八周年記念日 久保山で慰霊祭
 記念日はめでたいものに対するものだと思っていたが、記念とは忘れないぞ!ということなので震災を忘れないぞ!ということだろう。

■日本郵船 日枝丸出航
 新港埠頭 四号岸壁 シャトルへ(特別シャトル便のことか)

■4日 朝鮮音楽と舞踊の会
 第二隣保館

■横濱洋画展覧会 横濱興産館
第694話【一枚の横浜絵葉書】「桜木町横浜市授産所ノ偉観」

■満蒙問題講演会
 和田亀治 元第1師団帳陸軍中将
 (わだ かめじ)大分県出身、陸軍士官学校(6期)陸軍大学校(15期)
 日露戦争に第1師団参謀として出征。
 1928年(昭和3年)8月29日、予備役へ。帝国在郷軍人会副会長。

■日本郵船 秩父丸
 大桟橋C発 桑港へ
 秩父丸は1939年(昭和14年)1月に鎌倉丸と改名。

詳しい本文は画像で確認お願いします。
★同時期の出来事
8月29日(土)
 濱口雄幸 前首相告別遥拝式 民政党県本部で執行
 ※1931年(昭和6年)8月26日 東京駅で銃撃され、それが遠因で死亡。
 横浜市、市内9箇所でルンペン※調査実施。
(総数224人。内女性4人、子供3人)
  ※浮浪者。また比喩的に、失業者。本来《ぼろ切れの意》
9月2日(水)
 <朝鮮古代音楽と舞踏の会>横浜公園音楽堂で開催。
 ※市電ニュースで告知の「朝鮮音楽と舞踊の会」第二隣保館
  と同じものか? 会場変更になったのか 別のものか不明
9月4日(金)
 銀座のカフェ・バー<クロネコ>が女給150人を引き連れ伊勢佐木町に進出
9月5日(土)
 第1回女子中等学校水上競技大会開催。
9月6日(日)
 戸塚町矢沢に野球場が新設された。
9月7日(月)
 空の英雄、リンドバーク夫妻来浜。市民の熱狂的歓迎を受ける。
 夫妻は数日間、東京で過ごす間、日本政府機関との打ち合せの合間をぬって、リンディ夫妻は横浜市民の好意に感謝の意を伝えるために訪れた。

No.251 9月7日(金)リンディ夫妻の喜び
 

■■関連ブログ
第920話【市電ニュース】市電域と市電ニュース

【市電ニュースの風景】第一号その1
1930年(昭和5年)12月25日

【市電ニュースの風景】1931年 №21

1931年(昭和6年)5月21日から27日まで

第964話 醤油、塩 横浜雑景

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今回から少しエッセイ風 書きなぐりを始めてみることにした。

地産地消は物流の発達と反比例する現象である。大都市は商品を飲み込む。
また、大量生産による廉価の席巻とも反比例し、ナショナルブランドが地域生産力を奪っていく。この経済原則は近代の風景ではなく、江戸時代後期には、頻繁に村間の商品売買、都市圏への商品供給が盛んに行われていた実態が明らかになっている。

近世江戸の産業が明治維新以後、変化しながらも存続していく業種もあれば、近代化で消滅していく業種もある。呉服商は百貨店に、両替商は商社・金融会社へと変わっていった。染と版画の技術と織物産業が融合し横浜の捺染、スカーフ産業を育てたように大消費地として近代に登場した「横浜」は業種業態の様々なドラマが起こっている。今も横浜人に人気なのが「もののはじめ」だ。個人的にはそろそろ卒業したほうが良いとは思うが、横浜もののはじめ本は未だ売れるようだ。その中には、他の都市の研究によって「はじめの座」を失ったものもある。富岡八幡近くにある海水浴の碑は、大磯に奪われたようだ。洗濯もどうやら横浜初ではなさそうだ。
ただ、居留地を抱えたことにより横浜から事業化が始まった産業形態は多い。ビール事業、パン製造、アイスクリーム製造、大量の製茶販売、鉄道事業もそうだろう。近代産業は日本各地に興り、次第に寡占化していく過程を踏んでいった。
元町の古老に聞いた。
横浜でも戦後まで小さな製パン店が多かったという。昔は商店街に必ず一二軒はあった和菓子店も自家製が中心だった。これは戦後、東京オリンピックくらいまで続いたという。このあたりからナショナルブランドが台頭し、自家製のパン屋は激変しチェーン化していく。木村屋、山崎製パン、丸十ベーカリー他の看板が急増し、スーパー、コンビニの登場で街のパン屋はその姿を消していった。
横浜のパン製造史を読むと偶然の一致ではあるが、大岡川周辺に老舗パン屋が健在であるように思う。まず堀川近辺ではパン業発祥の元町<パン物語>がある。横浜神戸東京、大正期から昭和初期に一大パン業創業ブームがおとずれるのである。
現在、
弘明寺入り口で開業する「デュークベーカリー」は昭和三年「木村屋」として創業 赤川家が店を守っている。
「盛光堂総本舗」の笹川さん。
横浜橋通商店街にある「丸十早川ベーカリー」は昭和29年「藤田丸十ベーカリー」として丸十系列として創業、初代の早川博さんを早川家が守っている。
野毛の「コテイベーカリー」もそうだ。あんぱんの美味しかった日本堂もつい最近まで頑張っていた。
横浜では、豆腐屋さんも個人製造店舗が最近までかなり頑張っていたが、この二十年軒並み閉店し激減状態にある。横浜の豆腐屋がとても元気な時代があった。
必ずしもその証ではないが、平沼に当時は目を見張った「豆腐会館」が建てられた。九〇年代まであのラッパを吹きながらの引き売りを見ることができた。
新しもの好きな横浜人(ごめんなさいハマっ子という語はあまり好きではない)ではあるが、老舗やご近所を愛するのも忘れないのも横浜の良いところだと思う。
前振りが長くなった。本題に入ろう。
醤油製造は近代まで、街なかに製造工場があり最寄り品だった。醤油は地産地消の代表格だったが、どこでも生産されていた訳では無い。原材料が揃わないと生産地にはならない。醤油の原材料は言うまでもないが大豆・小麦・麹・水・塩である。
現在、地元では神奈川区で「横浜醤油」が生産を続けている。
かつて南太田に「太田醤油醸造所」という中規模の工場があった。ここは横浜太田町に本宅を構えた吉田健三が経営していた醤油工場である。
吉田健三といってもピンと来ないかもしれなが、外相から首相となった吉田茂の父親(養父)だといえば、少し驚くかもしれない。
越前福井藩士の家に生まれ、1864年(文久四年)に脱藩し大坂で医学を学ぼうとするが、英学の必要性を感じ長崎に行き、その後1866年(慶応二年)にイギリス軍艦でイギリスへ密航、2年間滞在して西洋の新知識を習得し明治維新に帰国。その後、ジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)の支店長に就任し日本政府を相手に事業で大成功する。その功あってか大金の一万円の慰労金(退職金)を受け取りこれを元手に
「英学塾を皮切りに、翌1872年には東京日日新聞の経営に参画。さらには醤油の醸造業や電灯会社の設立、ビールやトタン、フランネルの輸入など、実業家としての頭角を顕して横浜有数の富豪に成長した。(wikipedia」
明治に入り、新しい時代に様々な政治運動が芽生えた。中でも幕末期倒幕に寄与した一人、板垣退助が全く未明の明治新政府設立時には木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に参与に就任する。「明治六年政変」征韓論論争に破れ、下野。自由民権運動を経て自由党を起し、明治期の一大勢力となっていく。
横浜でも、彼の思想に共鳴した者も多く、吉田健三もその一人だった。
大岡川運河整備に寄与した伏島近蔵も自由党支持者であった。
吉田健三は子供がなく、自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった友人の竹内綱の五男 茂(吉田茂)を養子に迎え、茂は戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業した。

話が逸れてしまった。
醤油の原材料は大豆・小麦・麹・水・塩である。
醤油といえば千葉県銚子(ヤマサ)・野田(キッコーマン)が有名である。醤油は近世江戸期に工業化されたことにより贅沢品から日常の食生活革命の一端を担うようになる。江戸期当初は、原材料に大豆と大麦が使われていたが小麦を使うことにより濃口醤油の量産が始まる。醤油はもともと良質の大豆・麦・塩を調達できる西国の特産品で、江戸城への高級献上品の代表格でもあった。本場関西からの醤油は「下り醤油」と呼ばれ、関東の醤油は二級品扱いだったが、溜ではない濃口が主生産となり江戸味の醤油文化が確立する。
醤油製造の条件に、原材料は勿論「水運」が必須だったので、利根川流域に醤油産業が育ち行徳の塩、関東平野の大豆と小麦が結果的に銚子・野田に集約し醤油産業が育つ事になったが、この条件が揃えば近世から近代にかけて、地場の醤油産業も成り立った。
横浜市南区太田エリアは大岡川運河が発達し、大豆・小麦・麹・水・塩を揃える条件が揃っていたと推察できる。
(横浜の塩へつづく)

第901話 横浜ダブルリバー概論(1)

第963話 8月3日(金)

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1935年(昭和10年)8月3日の今日
「青木周三が12代市長に就任した」日です、
青木市長は
1939年(昭和14年)8月3日に再任されます。
ということで今回はこの8月3日ネタを元に

戦前の歴代市長に関して自分の記憶の整理をします。
まず戦前期の歴代横浜市長一覧

初代:増田知
1889年(明治22年)6月18日から1890年(明治23年)2月15日
※辞職
2代:佐藤喜左右衛門
1890年(明治23年)3月3日から1896年(明治29年)3月2日
※任期満了
3代:梅田義信
1896年(明治29年)6月3日から1902年(明治35年)9月20日
※1902年(明治35年) 6月10日再任 9月20日死去
4代:市原盛宏
1903年(明治36年)1月9日から1906年(明治39年)5月2日
※辞職
5代:三橋信方
1906年(明治39年)9月28日から1910年(明治43年)6月25日
※死去
開港50周年記念事業を担当。市章、市歌の制定。
6代:荒川義太郎
1910年(明治43年)9月10日から1913年(大正2年)11月13日
※辞職
7代:安藤謙介
1914年(大正3年)7月24日から1918年(大正7年)7月23日
※任期満了
8代:久保田政周
1918年(大正7年)8月26日から1922年(大正11年)5月27日
※辞職
9代:渡辺勝三郎
1922年(大正11年)11月29日から1925年(大正14年)4月10日
※辞職
10代:有吉忠一
1925年(大正14年)5月7日から1930年(昭和6年)2月26日
※1929年(昭和4年)5月7日再任 ※辞職
11代:大西一郎
1931年(昭和6年)3月3日から1935年(昭和10年)7月18日
※1935年(昭和10年)3月3日再任 ※辞職
12代:青木周三
1935年(昭和10年)8月3日から1941年(昭和16年)2月10日
※1939年(昭和14年)8月3日再任 ※辞職
13代:半井清
1941年(昭和16年)2月10日から1946年(昭和21年)11月30日
※1945年(昭和20年)2月10日再任 ※辞職
以上が戦前の横浜市長です。13代(再任を代替りとするか別にして)、13人が就任しています。
(戦前の市長任命)
戦前の市長の選ばれ方は少し複雑で半分官選、半分民選の性格をもっています。
通常戦前期の市長選出は、まず市会(市議会)で各派閥<政党>有力者(市議)が委員会を形成し、候補者の選出調整が行われます。ここに直接民意はありません。
ここで候補者が絞られ、候補者への意向確認と出馬要請が行われます。
正式に立候補手続きがとられると、市議会では投票で候補者三名に絞り込みを行い
「市長推薦者」が決まり内務大臣に上申され、内務大臣の裁可を経て正式就任になります。
支持母体対決が生じる場合には、政争が起こり、利害の一致等でスムースに決定される場合もあります。
この市長任命制度には問題点もありました。
三人の推薦者(候補者)には当然、党派の力学が有っての上での推薦になる訳で、
議会会派第一位の推薦者がそのまま「市長」として内務省において選ばれない事態も生じました。また、市長を補佐する「助役」の任命は純粋に市会の選挙で選ばれました。
市会議員にも選挙があり都度勢力が変わることで、半官選市長の市政運営は大変だったようです。戦前の市長は半分吏員でもありましたので政務調整には苦労したようです。
→現在も首長は<選挙>による民意で選ばれ、同じく選挙で選ばれた議会多数派との対決構図が生じることもあり、別な意味でねじれ構図の市長(知事)は大変です。
 
市長の力量も大いに関係しますが、上記の一覧を見ても分かる通り、
市長の<※辞職>が殆どです。任期満了で佐藤喜左右衛門(二代)と安藤謙介(七代)の二人だけでした。任期途中で亡くなられた市長もいらっしゃいます。

(12代市長 青木周三)
ここで、今回のテーマのキッカケとなった
青木周三について紹介しましょう。
1875年(明治8年)8月26日〜1946年(昭和21年)12月1日
もともと鉄道官僚畑から地方行政に関わった人物です。
山口県大島郡久賀町(現在の周防大島町)の出身で、
1898年(明治31年)第二高等学校を卒業。
1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業後鉄道書記。
1904年(明治37年)高等文官試験合格。
その後、鉄道事務官、鉄道庁参事、鉄道院参事、鉄道院理事を歴任し鉄道の経理畑・マネジメント分野を一貫して歩みます。
1919年(大正8年)筑豊鉄道専務取締役。
1921年(大正10年)4月1日初代横浜市電気局長(現交通局長)に就任。
1923年(大正12年)4月12日助役就任
  この年起こった関東大震災の対応に尽力。
1924年(大正13年)助役を辞任し鉄道省経理局長に転じた。
 さらに鉄道次官に昇任し、1926年(大正15年)まで務め退任。貴族院議員に勅選。
1929年(昭和4年)鉄道次官に再び任命され、鉄道事業に携わる。
1935年(昭和10年)横浜市長に選出。(〜1941年まで)
<市電誕生期の責任者>
青木周三は横浜市長となる前に、初の横浜市電気局長として市電の基礎を築いた人物です。
戦前から戦後にかけて、横浜の中心部の交通網として活躍した市電、
元々は「横浜電気鉄道」によって開通した民営交通機関でした。ところが、経営困難に陥り、横浜市が公益性を重視し<市営=市電>とすることを決め買収します。
1921年(大正10年)4月1日

  横浜市が横浜電気鉄道を買収。電気局を発足。

横浜電気鉄道時系統路線図

この時に初代電気局長に就任したのが青木周三です。
就任当時彼は47歳、就任に際し
「大決心をなさしめたるは、一に市民諸君の後援を経(たていと)とし市会が電車事業に対する恰も慈母の愛子に於けるがごとく、
就中(なかんずく)現業員の待遇に於いて熱誠以て優遇を可決されたる援助を緯(よこいと)とし事業の円満に進捗す可きを信じ、
自らはからず就任せる次第なり。
今後における方針としては一市民の期待せらるる改良の企画に副はんが為め、とりあえず応急の修繕をなすと同時に、完全なる交通機関として発達せしむるに努力す可く、将来共に大方の指導と助成を切望に堪えず。(一部抜粋)」
と述べました。
横浜市電は
1921年(大正10年)4月1日に移管され、経営再建の道を歩み始めますが、
1923年(大正12年)に起こった大震災により 市電機能は壊滅状態になります。
青木周三局長は被災復興に奔走、一定の目処が立った
1924年(大正13年)に古巣の鉄道省に経理局長として戻りました。
昭和に入り、有吉忠一市長のもとで震災復興宣言が出され、後任に大西一郎市長が主任し、
1935年(昭和10年)8月3日
12代市長に任命、
1941年(昭和16年)2月10日に辞任します。
市会史には
1940年(昭和15年)11月24日に健康上の理由と大政翼賛会市支部長問題等から辞意を表明、議会承認の上辞職とあります。
辞職の背景に何があったのか?手元の資料だけでは読み解くことができません。
ただ 昭和15年は横浜にとっても日本にとっても”激務”の年でした。
紀元二千六百年の年にあたり
紀年事業、東京オリンピック(辞退)
第689話【横浜の記念式典】もう一つの幻イベント
市政では
紀元二千六百年防空公園

紀元(皇紀)二千六百年特別観艦式(横浜)

観艦式記事

東京開港問題
市庁舎新築
動物園開設
青木市長時代は市内外激動であったことは間違いありません。
(参考年表)
◾️昭和15年は空転民主主義の年
1月14日 阿部内閣総辞職
1月16日 米内内閣成立
2月2日 斎藤隆夫の反軍演説。(斎藤事件)神奈川県政界とも深く関係あり。
3月7日 戦争政策批判により衆議院が民政党斎藤隆夫を除名処分
7月4日 陸軍首脳部が米内内閣打倒のため陸相畑俊六に辞職を勧告
7月16日 米内内閣総辞職
7月22日 第2次近衛内閣成立
8月15日 立憲民政党の解散により議会制民主主義が実質上停止
9月27日 日独伊三国軍事同盟成立。
10月12日 大政翼賛会発会式
11月24日 元老西園寺公望公死去(国葬12月5日)

第958話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第三話

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初代横浜駅前の様子

「横浜真景一覧」には他のエリアとは異なり少々おざなりな描かれ方の初代横浜駅が描かれている。

初代横浜駅構内全景

横浜に初めて鉄道が開業したのは1872年6月12日(明治5年(旧暦)5月7日)のことだ。維新直後の明治2年には鉄道敷設が決定され、衣替えのように<近代化>が進んだ背景には、近世江戸期の文化・技術の奥深さがあったことを再認識しなければならない。
それでも相変わらず厳しい<攘夷思想>が渦巻く明治初期に全く経験値のない鉄道を設計・敷設・指導した英国人技師モレルに対しては改めてその偉大な成果、努力に敬意を表したい。山師の様な、詐欺まがいの外国人もいた中、優秀で正直、謙虚なモレルには感謝しかない。また彼を支えた日本人パートナー達の努力も同じく敬意を表したい。
中でも<現桜木町ネタ>的に紹介するなら、
鉄道敷設の起点となった<野毛浦地先海岸埋立地(吉田橋北詰から野毛浦.・石崎までの埋立)>は内田清七(京屋清七)の功績が大きく、彼の事業成功が無ければ、鉄道事業はこんなに早く完成していなかっただろう。高島嘉右衛門の功績が大きく紹介されている反面「内田清七」の名は鉄道発祥の地から殆ど消え去っているのは残念なことだ。大江橋も内田が請け負った歴史ある橋だ。
内田町を殆ど廃止したのは横浜町名史の汚点ではないか!
語り継ぐ人名はその功績に対し、残すのが後の人々の役割だと思う。
<吹上>
前置きが長かったが今回のテーマは、吹上。駅前の噴水に注目することにした。
この噴水も「内田清七埋地」に設置されたものだ。1891年(明治24年)に描かれた「横浜真景一覧」に登場する<初代横浜駅>前に大きな噴水がある。「吹上ゲ」と表示され、噴水脇にはガス灯らしきものが描かれているということは当時かなり珍しい噴水のライトアップも行われた証だ。
最初、地図上に発見した時「噴水か」「昔は吹上と言ったのか」という程度の認識だったが、この噴水は一体何時出来たのか?開業当初からなのか?という疑問が起こると
噴水好奇心の迷宮にはまり込んでしまった。
この噴水塔は1887年(明治20年)10月の近代水道創設を記念してつくられたものという資料があった。1887年時点では横浜市制前、神奈川県の管轄だった時期だ。
1889年(明治22年)に市制が施行され、水道事業が横浜市に移管されたのが翌年1890年(明治23年)のことだ。
ということはこの「吹上ゲ」の水源は横浜市の水道設備を経た道志の水ということだ。しかも新橋駅デザインのコピー的な評価を受けた初代横浜駅だが、駅前設計に関しては圧倒的に横浜駅のほうが素晴らしい。
新橋駅前にはこの「吹上ゲ」がない!(写真は現在の新橋駅舎レプリカ) 横浜駅は川に近く、海にも近い。そもそもの[港]に近い駅だった。
横浜駅を降り立った多くの乗客は、その開放感と潮の香りに新しい時代を感じ取ったに違いない。

横浜駅噴水

(余談)
古い噴水といえば「横浜公園の噴水」が有名だが、現在の噴水は1928年(昭和3年)関東大震災の復興事業としてつくられた?らしい。元々はブラントン設計時からだとすると1876年(明治9年)か?(資料未確認)
では噴水の歴史は?ということで調べ始めた。存外困難を極め、噴水の歴史に近づくには本格的に図書館通いが必要そうなテーマに膨張。今回は入口前の散歩にとどめておく。
■噴水(ふんすい)
池や湖などに設けられる水を噴出する装置、またはその噴出される水そのもののことである。広場や庭園、公園の装飾的設備として設けられることが多い。
日本の噴水に限り歴史的には、wikipediaを引用すると
「奈良県にある飛鳥時代の石神遺跡では、水位差を利用して水を噴出させていたと推測される須弥山像と見られる石造物と、石人像が発掘されている。石人像は異国人の風貌を持つ男女の老人が杯を持つ姿をした像であり、百済からの渡来人の技術によって制作されたものと考えられる。
日本で最古とされる噴水は兼六園の噴水で、1861年に前田斉泰が金沢城内に作らせたものである。当然、動力は使われておらず、高低差を利用した位置エネルギーのみで動いている。その他、長崎公園の噴水も装飾噴水としては古いとされる。」
ここで紹介された<長崎公園の噴水>が近代以降の最初の噴水ということらしい。
長崎諏訪神社に隣接して開園した長崎公園内に1878年(明治11年)ごろに建造された。
では横浜公園の噴水は何時か?
別な資料では
一番目がこの長崎公園
二番目が大阪箕面公園の噴水(開園は1910年(明治43年)11月1日)で
三番目が千代田区日比谷公園の噴水。1905年(明治38年)頃東京美術学校(現在の東京芸大)の津田信夫、岡崎雪声両氏に依頼製作したもの。
ということは、1887年(明治20年)完成のこの初代横浜駅前噴水は歴史に記録されていない?
それは変だろう!さらに調べたら
1879年(明治12年)東京劇場千歳座庭園に噴水がある<絵>があった。
この辺を調べるには
「1873年(明治6年)太政官布達第16号」が深く関わっている。
噴水の歴史に関しては もう少し時間をいただくことにしたい。
(つづく)

第953話 地政学的に横浜駅を観る

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第一章
「横浜駅の歴史」が面白い!

横浜駅の歴史は横浜市の近現代史を語るキーワードになる。
横浜駅の彷徨から開港の近代史が、
三代目横浜の東西戦争からは戦後史が見えてくる。

近代以降、
<駅>の視点で横浜を観ると探ってみよう。
開港に伴い発展した開港場に鉄道敷設が決まった。
場所は大岡川を越えることなく内田清七が埋め立てた現在の桜木町駅の位置。
当時横浜の中心部であった関内エリアに鉄道が敷設されることはなくその後京浜東北根岸線が関内外の境界、派大岡川の上を通過し、市営地下鉄は一部をかする程度である。
そもそも初代「横浜駅」は
開港交渉で東海道筋神奈川宿から外し帷子川を越え大岡川河口に開港場を作ったことで、後の幹線鉄道からも外れることになってしまった。
その後開設された横浜港に繋がる<横浜港線>のように特別支線的な扱いで初代「横浜駅」を残さず<廃止>し二代目にする必要が何故あったのだろうか?
なぜ「神奈川駅」がメインに出てこなかったのだろうか。戦前の行政権力は圧倒的に県政にあった。県知事は廃藩置県で失った藩主の力ほどではないが、その決定権は市政と比較にならなかったのだ。
東海道線「神奈川駅」がありそこから「横浜駅」行きが出る。ときには東京〜横浜間直通便が出ても不自然ではない。
なのに 横浜駅は二代目となり、さらに三代目へとうつろう。
1872年6月12日(明治5年5月7日)
横浜駅〜品川駅間 開通。
1872年10月14日(明治5年9月12日)
初代横浜駅〜新橋駅間 開通。
1887年(明治20年)7月11日
初代横浜駅経由(スイッチバック)して 国府津駅まで開通。
1889年(明治22年)7月1日
東海道本線 神戸駅まで全通。
1898年(明治31年)8月1日
東海道本線、初代横浜駅を経由せず<上り線>程ヶ谷駅(保土ケ谷)短絡直通線開通、<下り線>神奈川駅に停車。
1901年(明治34年)10月10日
神奈川駅〜程ケ谷駅間に「平沼駅」開業。
1914年(大正3年)12月20日
鉄道省 高島町駅開設(京浜間電車運転開始)
1915年(大正4年)8月15日
二代目横浜駅が高島町に開業。平沼駅は廃止、初代は桜木町に名称変更。

単純に年表で追ってみると 少し納得がいくが、投資は何故行われなかったのか?

東海道本線を本格的に運用するために初代横浜駅をスルーし程ケ谷駅、平沼駅に停車する措置が必要になった。このときは初代「横浜駅」は諦めていない。
電化にともない、高島町駅ができその後二代目になるときに、
帷子川河口は沼地のままだったので「神奈川駅」をむりやり高島町側に持ってくるのは難しいだろう。ただ、埋立元年の大正期にこの帷子川河口域は何故開発されなかったのだろう???
このエリアは見れば一目瞭然、埋立事業により好立地となることに多くの人が気がついていたはずだ。
ここ高島エリアにはいち早くスタンダード石油会社が進出していた。
三代目横浜駅が本格的に”看板駅”となるのは 戦後接収解除を待たなければならなかった。

関連リンク
第867話 【明治の風景】横浜駅前公衆便所
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9341
◆横浜駅周辺の思い出
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?page_id=9222
第904話 横浜ダブルリバー概論(2)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10238

※さらっといきました。

第二章
三代目「横浜駅」は横浜の表玄関なのか?
(つづく)

第951話【横浜の地図】東京横浜電鉄

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1930年(昭和5年)に発行された「東京横濱電鐵」の沿線案内を兼ねた路線図の一部です。

1930年(昭和5年)に発行

この路線図をネタにこの時代を少し読み解いてみます。
現在と異なっているのが、
○国鉄線の「程が谷」→「保土ケ谷」
一昔前は「保土ヶ谷」でしたが近年は「保土ケ谷」表記要請もあり変更されています。
この駅は1887年(明治20年)7月11日に東海道本線が開業し「程ヶ谷駅」として開業し、1931年(昭和6年)10月1日に保土ヶ谷に改称します。
現在「保土ケ谷駅」は横須賀線の駅で、東海道線は止まりません。
1930年(昭和5年)3月15日に横須賀線が電化されたことをきっかけに通過駅となりました。
○湘南電車黄金町駅→「京浜急行黄金町駅」
この路線図が発行された1930年(昭和5年)がポイントです。この年の4月1日に湘南電気鉄道が黄金町を始発駅として浦賀駅まで、また同時に金沢八景駅から湘南逗子駅まで開通しました。
翌年、湘南電気鉄道は隣の「日ノ出町駅」まで延伸、東から延伸した「京浜電気鉄道」と合流し京浜急行が誕生します。
○本横濱駅
1928年(昭和3年)8月から1931年(昭和6年)1月まで2年と5ヶ月間存在した駅です。やや複雑なのが本横濱駅は1928年(昭和3年)5月に「高島駅」として開業し、三ヶ月で変更され、1931年(昭和6年)1月に元の「高島駅」をちょっとアレンジした?「高島町駅」に戻ります。
現在は横浜駅・桜木町駅間が廃止され消え去りました。
○東神奈川・菊名間
この時点で、「大口駅」はありませんでした。大口駅が開業したのは戦後1947年(昭和22年)12月20日のことです。
○神奈川駅→廃止
東京横浜電鉄が開業当時、横濱の終着駅として1926年(大正15年)2月14日に開業しました。開業当時は、国鉄神奈川駅、京浜電気鉄道神奈川駅もできるなど、現在の横浜駅はありませんでした。その後、東京横浜電鉄が延伸する中、若干高島トンネル寄りに移動して営業。戦時中に空襲を受け全焼し営業休止のまま1950年(昭和25年)4月8日されました。
○新太田町駅→廃止
1926年(大正15年)路線の開業と同時に開設された駅です。神奈川駅と同様横浜大空襲で消失し休業し戦後すぐに廃止されました。
ところが、1949年(昭和24年)3月15日から6月15日まで野毛山と神奈川の二ヶ所に分かれて開催された「日本貿易博覧会」のアクセス駅として新太田町駅を「博覧会場前駅」として臨時復活しました。(記念碑が残っています)
No.75 3月15日 JAPAN FOREIGN TRADE FAIR YOKOHAMA
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=542
※横浜駅・神奈川駅・反町駅・新太田町駅の駅間距離は極めて短かったので、廃止は時間の問題だったといえるでしょう。
○太尾駅→大倉山駅
太尾の名は古くからある地の名で、橘樹郡大綱村大字太尾を駅名としました。1932年(昭和7年)3月31日に「大倉山駅」に改称され現在に至ります。「大倉山」の名はこの路線マップに掲載されている「大倉精神文化研究所」がこの地に設立されたことに由来します。ここは梅の名所でもあります。
○綱島温泉駅→綱島駅
東京横浜電鉄が開通した1926年(大正15年)2月14日に開設された初期の駅の一つです。路線が開通した当時、すでにこの近くにラジウム温泉が出ることが確認されていたことから「綱島温泉駅」と命名。この温泉を電鉄会社も乗客誘致を兼ね温泉ビジネスに進出、直営の「綱島温泉浴場」を開業します。
その後、戦争突入により温泉街の旅館業廃業命令が出されながらも細々と営業されていました。
1944年(昭和19年)10月20日に綱島温泉駅は綱島駅に改称し現在に至ります。
温泉街としては、戦後また復活し「東京の奥座敷」や「関東の有馬温泉」などとも呼ばれた時期があります。
(西の岡山・東の綱島)
このフレーズは、戦前の桃の名産地を示した言葉で、綱島は水害に強い桃生産でその名を全国に轟かせた時期があります。
No.57 2月26日 ある街のある店の歴史
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=564
No.703 【閑話休題】ちょいと東西比較
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6387
■住宅地の開発・販売
東京横浜電鉄時代から東急電鉄に至るまで、電鉄会社としては積極的に分譲地開発を進め、菊名(錦ヶ丘)、綱島、日吉、そして有名なった田園調布などが開発されました。
■白楽駅・東白楽駅
市営住宅
斎藤分町に建てられた市営住宅のことと思われます。
神奈川県立工業学校→1911年(明治44年)に開校した神奈川県立工業学校のことで神奈川県内で最も歴史ある工業高校です。日本のファーブルとして有名な熊田千佳慕もこの路線図が発行された頃の1929年(昭和4年)に、神奈川県立工業学校から東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学しています。
No.44 2月13日 熊田と土門
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=577
■妙蓮寺・熊野神社・慈雲寺
戦前の観光資源は神社仏閣が主流を占めていました。沿線にも幾つか観光スポットとして神社仏閣が示されています。
妙蓮寺に関して
No.422 【舞台としての横浜】妙蓮寺と野毛
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=151
※横浜線と東急線に<翻弄された>お寺です。でも結果的に駅前の便利なお寺として良かったのではないでしょうか。
・熊野神社(師岡熊野神社)に関して
「横浜の祈願所として親しまれ西暦724(神亀元)年に開かれた1280余年の歴史を誇る 横浜市内随一のパワースポット」と自らのHPでも称する神社。  戦前はかなり広い境内があり、現在も杉山神社と尾根伝いに繋がっています。
・慈雲寺に関して
日蓮宗の寺院で、港北区仲手原にあります。妙蓮寺(妙仙寺)と並ぶ本門寺の末寺で新編武蔵風土記稿には「明治元年一月七日、神奈川町大火に類燒し、堂宇・什寶等悉く灰燼に歸し、中興以來の舊記等を失ひ、沿革全く不明となつた。同寺は元、神奈川町字神明町七百三十二番地に在つたが、現住第二十五世日量代、境内及び境地全部約一千坪の地と神奈川小學校敷地として、横濱市に讓與し、大正十四年八月十二日、今の地に移轉した。」とあります。

第946話【横浜史の節目】後半

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1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で横浜市域は多くの人命、財産を失います。
実質、東京より被災度が大きかった横浜は、帝都東京を復興するという最優先の下
独自の震災復興を目指さなければなりませんでした。
多くの企業が横浜を去り、港都の機能が麻痺、蚕・絹を中心とした貿易産業は壊滅状態となります。
横浜は元々
幕末、江戸開港を避けた結果として、<港都横浜>が誕生します。
関東大震災が起こる頃、横浜は現在の10分の一にも満たない<小横浜>でした。
1901年
第1次市域拡張 面積24.80km2
1911年
第2次市域拡張 面積36.71km2
1927年
第3次市域拡張 面積133.88km2
廃墟からの脱却を復興だけではなく
<発展><産業転換>という新しいベクトルで推進したのが
【最強の市長】有吉 忠一でした。
湾岸の埋立、港湾機能の高度化、産業誘致を推進し
<大横浜>を目指しました。
※市域拡大
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=359

第940話【最強の市長】有吉 忠一
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11222

1923年から戦後まで横浜は波状的な破壊・復興を繰り返しました。
震災後の横浜は横浜大空襲でまたまた壊滅。
終戦、当時沖縄を除き、日本最大の<占領・接収>時代を迎えます。
※関東大震災
No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=361

※横浜の空襲
「写真でみる横浜大空襲」web版
http://www.city.yokohama.lg.jp/somu/org/gyosei/sisi/web-air-raid/

※占領下の横浜
第905話 【占領下の空】
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10263

長い占領・接収時代が続きます。
戦後接収解除と人口急増が重なり、横浜は爆発的に拡大する<東京>のベッドタウン化していきます。
■1968年(昭和43年)
人口200万人都市となります。この年、ブルーライトヨコハマ、伊勢佐木町ブルースという空前の大ヒット曲が生まれ、横浜市の大PRとなりさらに人口が急増します。
1968年をテーマに
No.422 【舞台としての横浜】妙蓮寺と野毛
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=151
■市電の時代の終わり
1966年(昭和41年)に生麦線、中央市場線を廃止したのを皮切りに廃止路線が増えて行きます。
1972年(昭和47年)市電とトロリーバスが全廃されその姿を消しました。
同時期、関内外の運河が消えてゆきます。
■1980年代、横浜は政治の嵐
No.357「今保守を問う」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=229
■1989年バブル崩壊前夜のお祭り
No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=533
■1996年防災ボランティア元年
No.237 8月24日(金) 防災は体で覚える!
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=369
No.126 5月5日 私がこどもの国を選んだ訳
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=489
■2002年はワールドカップサッカー
No.161 6月9日(土)  日本、ロシアに勝利!
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=451

後半はリンクばかりになってしまいました。