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第958話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第三話

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初代横浜駅前の様子

「横浜真景一覧」には他のエリアとは異なり少々おざなりな描かれ方の初代横浜駅が描かれている。

初代横浜駅構内全景

横浜に初めて鉄道が開業したのは1872年6月12日(明治5年(旧暦)5月7日)のことだ。維新直後の明治2年には鉄道敷設が決定され、衣替えのように<近代化>が進んだ背景には、近世江戸期の文化・技術の奥深さがあったことを再認識しなければならない。
それでも相変わらず厳しい<攘夷思想>が渦巻く明治初期に全く経験値のない鉄道を設計・敷設・指導した英国人技師モレルに対しては改めてその偉大な成果、努力に敬意を表したい。山師の様な、詐欺まがいの外国人もいた中、優秀で正直、謙虚なモレルには感謝しかない。また彼を支えた日本人パートナー達の努力も同じく敬意を表したい。
中でも<現桜木町ネタ>的に紹介するなら、
鉄道敷設の起点となった<野毛浦地先海岸埋立地(吉田橋北詰から野毛浦.・石崎までの埋立)>は内田清七(京屋清七)の功績が大きく、彼の事業成功が無ければ、鉄道事業はこんなに早く完成していなかっただろう。高島嘉右衛門の功績が大きく紹介されている反面「内田清七」の名は鉄道発祥の地から殆ど消え去っているのは残念なことだ。大江橋も内田が請け負った歴史ある橋だ。
内田町を殆ど廃止したのは横浜町名史の汚点ではないか!
語り継ぐ人名はその功績に対し、残すのが後の人々の役割だと思う。
<吹上>
前置きが長かったが今回のテーマは、吹上。駅前の噴水に注目することにした。
この噴水も「内田清七埋地」に設置されたものだ。1891年(明治24年)に描かれた「横浜真景一覧」に登場する<初代横浜駅>前に大きな噴水がある。「吹上ゲ」と表示され、噴水脇にはガス灯らしきものが描かれているということは当時かなり珍しい噴水のライトアップも行われた証だ。
最初、地図上に発見した時「噴水か」「昔は吹上と言ったのか」という程度の認識だったが、この噴水は一体何時出来たのか?開業当初からなのか?という疑問が起こると
噴水好奇心の迷宮にはまり込んでしまった。
この噴水塔は1887年(明治20年)10月の近代水道創設を記念してつくられたものという資料があった。1887年時点では横浜市制前、神奈川県の管轄だった時期だ。
1889年(明治22年)に市制が施行され、水道事業が横浜市に移管されたのが翌年1890年(明治23年)のことだ。
ということはこの「吹上ゲ」の水源は横浜市の水道設備を経た道志の水ということだ。しかも新橋駅デザインのコピー的な評価を受けた初代横浜駅だが、駅前設計に関しては圧倒的に横浜駅のほうが素晴らしい。
新橋駅前にはこの「吹上ゲ」がない!(写真は現在の新橋駅舎レプリカ) 横浜駅は川に近く、海にも近い。そもそもの[港]に近い駅だった。
横浜駅を降り立った多くの乗客は、その開放感と潮の香りに新しい時代を感じ取ったに違いない。

横浜駅噴水

(余談)
古い噴水といえば「横浜公園の噴水」が有名だが、現在の噴水は1928年(昭和3年)関東大震災の復興事業としてつくられた?らしい。元々はブラントン設計時からだとすると1876年(明治9年)か?(資料未確認)
では噴水の歴史は?ということで調べ始めた。存外困難を極め、噴水の歴史に近づくには本格的に図書館通いが必要そうなテーマに膨張。今回は入口前の散歩にとどめておく。
■噴水(ふんすい)
池や湖などに設けられる水を噴出する装置、またはその噴出される水そのもののことである。広場や庭園、公園の装飾的設備として設けられることが多い。
日本の噴水に限り歴史的には、wikipediaを引用すると
「奈良県にある飛鳥時代の石神遺跡では、水位差を利用して水を噴出させていたと推測される須弥山像と見られる石造物と、石人像が発掘されている。石人像は異国人の風貌を持つ男女の老人が杯を持つ姿をした像であり、百済からの渡来人の技術によって制作されたものと考えられる。
日本で最古とされる噴水は兼六園の噴水で、1861年に前田斉泰が金沢城内に作らせたものである。当然、動力は使われておらず、高低差を利用した位置エネルギーのみで動いている。その他、長崎公園の噴水も装飾噴水としては古いとされる。」
ここで紹介された<長崎公園の噴水>が近代以降の最初の噴水ということらしい。
長崎諏訪神社に隣接して開園した長崎公園内に1878年(明治11年)ごろに建造された。
では横浜公園の噴水は何時か?
別な資料では
一番目がこの長崎公園
二番目が大阪箕面公園の噴水(開園は1910年(明治43年)11月1日)で
三番目が千代田区日比谷公園の噴水。1905年(明治38年)頃東京美術学校(現在の東京芸大)の津田信夫、岡崎雪声両氏に依頼製作したもの。
ということは、1887年(明治20年)完成のこの初代横浜駅前噴水は歴史に記録されていない?
それは変だろう!さらに調べたら
1879年(明治12年)東京劇場千歳座庭園に噴水がある<絵>があった。
この辺を調べるには
「1873年(明治6年)太政官布達第16号」が深く関わっている。
噴水の歴史に関しては もう少し時間をいただくことにしたい。
(つづく)

第953話 地政学的に横浜駅を観る

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第一章
「横浜駅の歴史」が面白い!

横浜駅の歴史は横浜市の近現代史を語るキーワードになる。
横浜駅の彷徨から開港の近代史が、
三代目横浜の東西戦争からは戦後史が見えてくる。

近代以降、
<駅>の視点で横浜を観ると探ってみよう。
開港に伴い発展した開港場に鉄道敷設が決まった。
場所は大岡川を越えることなく内田清七が埋め立てた現在の桜木町駅の位置。
当時横浜の中心部であった関内エリアに鉄道が敷設されることはなくその後京浜東北根岸線が関内外の境界、派大岡川の上を通過し、市営地下鉄は一部をかする程度である。
そもそも初代「横浜駅」は
開港交渉で東海道筋神奈川宿から外し帷子川を越え大岡川河口に開港場を作ったことで、後の幹線鉄道からも外れることになってしまった。
その後開設された横浜港に繋がる<横浜港線>のように特別支線的な扱いで初代「横浜駅」を残さず<廃止>し二代目にする必要が何故あったのだろうか?
なぜ「神奈川駅」がメインに出てこなかったのだろうか。戦前の行政権力は圧倒的に県政にあった。県知事は廃藩置県で失った藩主の力ほどではないが、その決定権は市政と比較にならなかったのだ。
東海道線「神奈川駅」がありそこから「横浜駅」行きが出る。ときには東京〜横浜間直通便が出ても不自然ではない。
なのに 横浜駅は二代目となり、さらに三代目へとうつろう。
1872年6月12日(明治5年5月7日)
横浜駅〜品川駅間 開通。
1872年10月14日(明治5年9月12日)
初代横浜駅〜新橋駅間 開通。
1887年(明治20年)7月11日
初代横浜駅経由(スイッチバック)して 国府津駅まで開通。
1889年(明治22年)7月1日
東海道本線 神戸駅まで全通。
1898年(明治31年)8月1日
東海道本線、初代横浜駅を経由せず<上り線>程ヶ谷駅(保土ケ谷)短絡直通線開通、<下り線>神奈川駅に停車。
1901年(明治34年)10月10日
神奈川駅〜程ケ谷駅間に「平沼駅」開業。
1914年(大正3年)12月20日
鉄道省 高島町駅開設(京浜間電車運転開始)
1915年(大正4年)8月15日
二代目横浜駅が高島町に開業。平沼駅は廃止、初代は桜木町に名称変更。

単純に年表で追ってみると 少し納得がいくが、投資は何故行われなかったのか?

東海道本線を本格的に運用するために初代横浜駅をスルーし程ケ谷駅、平沼駅に停車する措置が必要になった。このときは初代「横浜駅」は諦めていない。
電化にともない、高島町駅ができその後二代目になるときに、
帷子川河口は沼地のままだったので「神奈川駅」をむりやり高島町側に持ってくるのは難しいだろう。ただ、埋立元年の大正期にこの帷子川河口域は何故開発されなかったのだろう???
このエリアは見れば一目瞭然、埋立事業により好立地となることに多くの人が気がついていたはずだ。
ここ高島エリアにはいち早くスタンダード石油会社が進出していた。
三代目横浜駅が本格的に”看板駅”となるのは 戦後接収解除を待たなければならなかった。

関連リンク
第867話 【明治の風景】横浜駅前公衆便所

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◆横浜駅周辺の思い出

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第904話 横浜ダブルリバー概論(2)

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※さらっといきました。

第二章
三代目「横浜駅」は横浜の表玄関なのか?
(つづく)

第951話【横浜の地図】東京横浜電鉄

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1930年(昭和5年)に発行された「東京横濱電鐵」の沿線案内を兼ねた路線図の一部です。

1930年(昭和5年)に発行

この路線図をネタにこの時代を少し読み解いてみます。
現在と異なっているのが、
○国鉄線の「程が谷」→「保土ケ谷」
一昔前は「保土ヶ谷」でしたが近年は「保土ケ谷」表記要請もあり変更されています。
この駅は1887年(明治20年)7月11日に東海道本線が開業し「程ヶ谷駅」として開業し、1931年(昭和6年)10月1日に保土ヶ谷に改称します。
現在「保土ケ谷駅」は横須賀線の駅で、東海道線は止まりません。
1930年(昭和5年)3月15日に横須賀線が電化されたことをきっかけに通過駅となりました。
○湘南電車黄金町駅→「京浜急行黄金町駅」
この路線図が発行された1930年(昭和5年)がポイントです。この年の4月1日に湘南電気鉄道が黄金町を始発駅として浦賀駅まで、また同時に金沢八景駅から湘南逗子駅まで開通しました。
翌年、湘南電気鉄道は隣の「日ノ出町駅」まで延伸、東から延伸した「京浜電気鉄道」と合流し京浜急行が誕生します。
○本横濱駅
1928年(昭和3年)8月から1931年(昭和6年)1月まで2年と5ヶ月間存在した駅です。やや複雑なのが本横濱駅は1928年(昭和3年)5月に「高島駅」として開業し、三ヶ月で変更され、1931年(昭和6年)1月に元の「高島駅」をちょっとアレンジした?「高島町駅」に戻ります。
現在は横浜駅・桜木町駅間が廃止され消え去りました。
○東神奈川・菊名間
この時点で、「大口駅」はありませんでした。大口駅が開業したのは戦後1947年(昭和22年)12月20日のことです。
○神奈川駅→廃止
東京横浜電鉄が開業当時、横濱の終着駅として1926年(大正15年)2月14日に開業しました。開業当時は、国鉄神奈川駅、京浜電気鉄道神奈川駅もできるなど、現在の横浜駅はありませんでした。その後、東京横浜電鉄が延伸する中、若干高島トンネル寄りに移動して営業。戦時中に空襲を受け全焼し営業休止のまま1950年(昭和25年)4月8日されました。
○新太田町駅→廃止
1926年(大正15年)路線の開業と同時に開設された駅です。神奈川駅と同様横浜大空襲で消失し休業し戦後すぐに廃止されました。
ところが、1949年(昭和24年)3月15日から6月15日まで野毛山と神奈川の二ヶ所に分かれて開催された「日本貿易博覧会」のアクセス駅として新太田町駅を「博覧会場前駅」として臨時復活しました。(記念碑が残っています)
No.75 3月15日 JAPAN FOREIGN TRADE FAIR YOKOHAMA

No.75 3月15日 JAPAN FOREIGN TRADE FAIR YOKOHAMA


※横浜駅・神奈川駅・反町駅・新太田町駅の駅間距離は極めて短かったので、廃止は時間の問題だったといえるでしょう。
○太尾駅→大倉山駅
太尾の名は古くからある地の名で、橘樹郡大綱村大字太尾を駅名としました。1932年(昭和7年)3月31日に「大倉山駅」に改称され現在に至ります。「大倉山」の名はこの路線マップに掲載されている「大倉精神文化研究所」がこの地に設立されたことに由来します。ここは梅の名所でもあります。
○綱島温泉駅→綱島駅
東京横浜電鉄が開通した1926年(大正15年)2月14日に開設された初期の駅の一つです。路線が開通した当時、すでにこの近くにラジウム温泉が出ることが確認されていたことから「綱島温泉駅」と命名。この温泉を電鉄会社も乗客誘致を兼ね温泉ビジネスに進出、直営の「綱島温泉浴場」を開業します。
その後、戦争突入により温泉街の旅館業廃業命令が出されながらも細々と営業されていました。
1944年(昭和19年)10月20日に綱島温泉駅は綱島駅に改称し現在に至ります。
温泉街としては、戦後また復活し「東京の奥座敷」や「関東の有馬温泉」などとも呼ばれた時期があります。
(西の岡山・東の綱島)
このフレーズは、戦前の桃の名産地を示した言葉で、綱島は水害に強い桃生産でその名を全国に轟かせた時期があります。
No.57 2月26日 ある街のある店の歴史

No.57 2月26日 ある街のある店の歴史


No.703 【閑話休題】ちょいと東西比較

No.703 【閑話休題】ちょいと東西比較


■住宅地の開発・販売
東京横浜電鉄時代から東急電鉄に至るまで、電鉄会社としては積極的に分譲地開発を進め、菊名(錦ヶ丘)、綱島、日吉、そして有名なった田園調布などが開発されました。
■白楽駅・東白楽駅
市営住宅
斎藤分町に建てられた市営住宅のことと思われます。
神奈川県立工業学校→1911年(明治44年)に開校した神奈川県立工業学校のことで神奈川県内で最も歴史ある工業高校です。日本のファーブルとして有名な熊田千佳慕もこの路線図が発行された頃の1929年(昭和4年)に、神奈川県立工業学校から東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学しています。
No.44 2月13日 熊田と土門

No.44 2月13日 熊田と土門


■妙蓮寺・熊野神社・慈雲寺
戦前の観光資源は神社仏閣が主流を占めていました。沿線にも幾つか観光スポットとして神社仏閣が示されています。
妙蓮寺に関して
No.422 【舞台としての横浜】妙蓮寺と野毛

No.422 【舞台としての横浜】妙蓮寺と野毛


※横浜線と東急線に<翻弄された>お寺です。でも結果的に駅前の便利なお寺として良かったのではないでしょうか。
・熊野神社(師岡熊野神社)に関して
「横浜の祈願所として親しまれ西暦724(神亀元)年に開かれた1280余年の歴史を誇る 横浜市内随一のパワースポット」と自らのHPでも称する神社。  戦前はかなり広い境内があり、現在も杉山神社と尾根伝いに繋がっています。
・慈雲寺に関して
日蓮宗の寺院で、港北区仲手原にあります。妙蓮寺(妙仙寺)と並ぶ本門寺の末寺で新編武蔵風土記稿には「明治元年一月七日、神奈川町大火に類燒し、堂宇・什寶等悉く灰燼に歸し、中興以來の舊記等を失ひ、沿革全く不明となつた。同寺は元、神奈川町字神明町七百三十二番地に在つたが、現住第二十五世日量代、境内及び境地全部約一千坪の地と神奈川小學校敷地として、横濱市に讓與し、大正十四年八月十二日、今の地に移轉した。」とあります。

第946話【横浜史の節目】後半

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1923年(大正12年)9月1日
関東大震災で横浜市域は多くの人命、財産を失います。
実質、東京より被災度が大きかった横浜は、帝都東京を復興するという最優先の下
独自の震災復興を目指さなければなりませんでした。
多くの企業が横浜を去り、港都の機能が麻痺、蚕・絹を中心とした貿易産業は壊滅状態となります。
横浜は元々
幕末、江戸開港を避けた結果として、<港都横浜>が誕生します。
関東大震災が起こる頃、横浜は現在の10分の一にも満たない<小横浜>でした。
1901年
第1次市域拡張 面積24.80km2
1911年
第2次市域拡張 面積36.71km2
1927年
第3次市域拡張 面積133.88km2
廃墟からの脱却を復興だけではなく
<発展><産業転換>という新しいベクトルで推進したのが
【最強の市長】有吉 忠一でした。
湾岸の埋立、港湾機能の高度化、産業誘致を推進し
<大横浜>を目指しました。
※市域拡大
【番外編】市域拡大は元気なうちに!?

【番外編】市域拡大は元気なうちに!?(加筆)

第940話【最強の市長】有吉 忠一

第940話【最強の市長】有吉 忠一

1923年から戦後まで横浜は波状的な破壊・復興を繰り返しました。
震災後の横浜は横浜大空襲でまたまた壊滅。
終戦、当時沖縄を除き、日本最大の<占領・接収>時代を迎えます。
※関東大震災
No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

No.245 9月1日(土)災害は忘れなくとも起きる

※横浜の空襲
「写真でみる横浜大空襲」web版
http://www.city.yokohama.lg.jp/somu/org/gyosei/sisi/web-air-raid/

※占領下の横浜
第905話 【占領下の空】

第905話 【占領下の空】

長い占領・接収時代が続きます。
戦後接収解除と人口急増が重なり、横浜は爆発的に拡大する<東京>のベッドタウン化していきます。
■1968年(昭和43年)
人口200万人都市となります。この年、ブルーライトヨコハマ、伊勢佐木町ブルースという空前の大ヒット曲が生まれ、横浜市の大PRとなりさらに人口が急増します。
1968年をテーマに
No.422 【舞台としての横浜】妙蓮寺と野毛

No.422 【舞台としての横浜】妙蓮寺と野毛


■市電の時代の終わり
1966年(昭和41年)に生麦線、中央市場線を廃止したのを皮切りに廃止路線が増えて行きます。
1972年(昭和47年)市電とトロリーバスが全廃されその姿を消しました。
同時期、関内外の運河が消えてゆきます。
■1980年代、横浜は政治の嵐
No.357「今保守を問う」

No.357「今保守を問う」加筆版


■1989年バブル崩壊前夜のお祭り
No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催


■1996年防災ボランティア元年
No.237 8月24日(金) 防災は体で覚える!

No.237 8月24日(金) 防災は体で覚える!


No.126 5月5日 私がこどもの国を選んだ訳

No.126 5月5日 私がこどもの国を選んだ訳


■2002年はワールドカップサッカー
No.161 6月9日(土)  日本、ロシアに勝利!

No.161 6月9日(土)  日本、ロシアに勝利!

後半はリンクばかりになってしまいました。

第943話【今無い風景を読む】汽車道と北仲通の壁模様

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1997年(平成9年)に開通した汽車道(開港の道)を渡る折、

開通直後の汽車道

桜木町駅から日本丸の脇に立つと、いつも気なる風景がありました。
帝蚕倉庫の壁に設置されていた「Panasonic」の光学ディスクをモチーフにした広告です。
それ以上にこの壁に這うツタの葉が描く<模様>に釘付けとなったことを記憶しています。
この風景、一服の絵画に見えませんか?
森の中に一軒の家が建ち、冬には枯れ、秋には色づき四季の変化もありました。
私が汽車道を良く渡るようになったのは2000年頃からです。それから17年、汽車道の木々も成長し、何と言っても周辺の景色が大きく変わっていきました。
汽車道、運河パーク内を通るこの道はその名の通り、明治以来汽車が通る鉄道線でした。1989年(平成元年)に横浜博覧会で使用されたのを最後に廃線となり、閉鎖されていましたが、再整備が決まり山手まで繋がる<開港の道>の入口です。この道は
桜木町から明治期に整備された「新港埠頭」現在の象の鼻パーク、大さん橋、山下公園、そして山手ふらんす山を経由する遊歩道です。
撮影の頃、新港埠頭近辺には大きな商業施設、横浜ワールドポーターズがありませんので、1990年代の風景です。 1980年代、1990年代、2000年代、2010年代
このエリアは 10年単位で大きく変貌してきました。
横浜市内で今、
最も変化し続けている空間といえるでしょう。

第936話【市境を歩く】川崎市境0

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街には国境ほどではありませんが行政の境界があります。
地域民にとって境界は別段関係ありませんが時にこの境界が市民生活に影響してきます。
街は何故ここに境界を設定したのか、
謎解きをしながら市境を歩くと、横浜が見えてきます!
市境の基本はおおよそ地勢の影響を受けています。
・川筋
(主に境川あたり)
・尾根筋
(北部と南部)
※隣接自治体は
川崎市・東京都町田市・大和市・藤沢市・鎌倉市・逗子市・横須賀市

■今回は川崎・横浜市境
スタートは尻手駅です。

尻手駅

尻手

ここから川崎市境を湾岸まで南下します。
横浜と隣接する自治体は川崎市です。
ちょっと余談から、
市境際のJR南武線「尻手」駅は川崎市で、
お隣の「矢向」駅は横浜市に位置しています。
横浜市域に南武線の駅があることちょっと意外ですね。
■拡張競争
横浜市と川崎市の<領土獲得>はドラマのような歴史があります。
元々、明治期までは広く橘樹郡でした。その後川崎市と横浜市が拡大するにつれて周辺村域を合併し市域拡大を繰り返し最終的には二分します。
今回歩くのは
橘樹郡田島村→1927年(昭和2年)4月1日に川崎市
橘樹郡町田村(潮田町)→1927年(昭和2年)4月1日に横浜市
この境です。
前述の通り、JR南武線「尻手駅」は横浜市に食い込むように<川崎市>です。
資料を精査していないので憶測の域をでませんが、
南武線尻手駅の開業は
1927年(昭和2年)3月9日で、
同年の
1927年(昭和2年)4月1日に市境が確定します。

昭和18年尻手駅界隈

駅をめぐってもやり取りがあったとしても不思議ではないでしょう。
鉄道は地域にとっても重要なインフラですので、駅際の<境>を正確に線引していくなかで、我が市に駅を!という作用もあったと思います。
尻手駅の<尻手>の名も
橘樹郡鶴見町大字市場字尻手の”尻手”から採っていますので、横浜市に編入された市場村・矢向村の字名でした。<尻手>命名にも当時はいろいろあったのかもしれません。
<市境>も<いさかい>のネタであることは間違いありません。
川崎市とは大騒動になった日吉村顛末もありました。
No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発

No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発


尻手あたりから、海岸にかけてかつて<用水路>だったので、正確には川筋境に市境が生まれたといえるでしょう。古い地図では尻手駅脇に川筋があり最終的には京浜運河に流れ込んでいた(いる?)ようです。(上図)
尻手近辺にはいたるところに水路や池、沼地を確認することができます。
今回の市境旅もある意味
<暗渠旅>といえるでしょう。
尻手駅界隈は東西で表情が変わります。東側は川崎市幸区、駅前の西口通り東方向に900mで、川崎駅に出ます。川崎駅西口は東芝などの企業が集中するエリアでしたが、西口ラゾーナなどが登場し一気に商業集積地に変貌しました。
一方、西エリアは南武線に並行してJR貨物線(現在横須賀線)と鶴見川があり、住宅地と中小事業所が密集する地域です。
南武線(本線・支線)に沿って流れていた用水路に沿って市域となっています。
南武線本線と支線、東海道本線の挟まれた三角地帯には
川崎市堤根処理センター(川崎市堤根処理センター発電所)があり、ゴミ焼却エネルギーの再利用が図られています。予熱は隣接する「ヨネッティー堤根」に供給されています。市境はJR東海道(並木踏切)を越えます。用水路は全て暗渠化していて、一部名残が残っているだけです。さらに南下し京浜急行を越えるあたりで少し市境が複雑に変化します。京急の踏切近辺には横浜市と川崎市、両市境を示す道標が設置されています。

横浜市側

川崎市側

一本で両市を示している珍しいの道標の一つです。
市境は第一京浜、国道15号線に向かいます。
第937話【市境を歩く】川崎市境0その2
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11168
につづく

第929話【保土ケ谷区】程ケ谷駅

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今日は、程ケ谷駅を巡るエピソードを。
1887年(明治20年)7月11日
この日、東海道線の横浜(初代)〜国府津間が開通しました。
これにより程ヶ谷駅( 1931年(昭和6年)に保土ケ谷の名に変更)・戸塚駅・藤沢駅・平塚駅・大磯駅・国府津駅が開業しました。
ほどがや現在は保土ケ谷と表記します。
少し前は保土谷でもあまりうるさく言われませんでした。保土が正式表記です。
90年代、少なくとも私の記憶では神奈川県、国交省(当時の建設省)などは<保土ヶ谷公園><保土ヶ谷インター>といった表記がなされていることが多く、横浜市の「保土ケ谷」と二種類が併存していました。近年、「保土ケ谷」に“じわじわ”揃いつつあります。

なんたって 保土ケ谷区がこの表記のためにサイト持っています。
「「保土ケ谷区」の「ケ」は大きな「ケ」です!」
http://www.city.yokohama.lg.jp/hodogaya/gaiyou/ke.html
「区の設置並びに区の事務所の位置、名称及び所管区域を定める条例
(条例第1号、昭和34年3月14日制定)」
http://www.city.yokohama.jp/me/reiki/honbun/ag20200021.html
ここには、なぜ大きいケなのか? 理由は示していません。「そう決めたのでそうだ!」という感じで少し違和感を感じます。
広重の東海道五十三次でも「保土ヶ谷」ですし

保土ケ谷宿

元々保土ケ谷は「程ヶ谷」から転換された地名です。

冬の程ケ谷宿

程ケ谷宿

中世文書でも「程ヶ谷」のケは小さいケです。
さて、保土ケ谷駅に戻ります。

1887年(明治20年)7月11日程ヶ谷駅が開業します。
この時期に<程ケ谷>がらみの新規鉄道敷設出願も行われます。
多くが現在国道16号線(絹の道)が走っている(保土ケ谷〜八王子)路線を鉄道が走ることを目論見として出されています。
◆武相鉄道
明治27年5月30日 出願
横浜〜程ケ谷〜原町田〜八王子
出願者:雨宮啓次郎 ほか
◆南武鉄道
明治27年5月30日 出願
程ケ谷〜原町田〜八王子
出願者:伊藤茂右衛門 ほか
◆相武鉄道
明治28年12月 出願
吉野駅(津久井)〜程ケ谷、厚木〜藤沢
◆武蔵鉄道
明治28年4月20日 出願
出願者:柴原和也 ほか
程ケ谷〜五日市
◆京浜鉄道
明治28年12月 出願
出願者:雨宮啓次郎 ほか
※「保土ケ谷区史」より
これらの出願は全て却下され、実現することはありませんでした。
もしひとつでも実現していたら、横浜の交通環境は大きく変わったに違いありません。

保土ケ谷関連
【保土ケ谷区】歌人 荒波孫四郎
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7162
No.249 9月5日(水)保土ケ谷駅周辺散策
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=355
No.82 3月22日 神戸産東京麦酒
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=535

第925話【横浜風景】金沢百景

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金沢区は魅惑的な区で、様々な角度から紹介しています。
横浜18区の中でもじっくり書いたものが多いかもしれません。
<カウントしてませんが>
リンクをまとめました。
第923話【横浜市境】 市境の深ーい溝
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10931

No.136 5月15日 フルライン金沢区
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=479
横浜市金沢区は1948年(昭和23年)5月15日に磯子区から分区し創設しました。

No.269 9月25日(火)河口に架かる橋
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=334
1964年(昭和39年)9月25日の今日、埋立てによって整備された河口に架かる八景橋が完成しました。

2月20日 海の公園計画発表
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=570

2月22日 アーティストツーリング
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=568

2月27日 政治家が辞めるとき
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=563

No.124 5月3日 料亭にて超機密書類盗まれる
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=492
憲法記念日に因んで
伊藤博文らが金沢八景の料亭東屋で「明治憲法」草案を練ったという話

第829話 1936年(昭和11年)
6月23日日本製鋼横浜製作所JSW
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7780
「日本製鋼横浜製作所JSW」が金沢町泥亀に竣工・操業開始した日です。

1914年(大正3年)7月12日 京急富岡駅
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7816
横浜貿易新報社選(神奈川県内の)「新避暑地十二勝」が発表されました。

No.230 8月17日 (金)孫文上陸(加筆修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=377

No.451 芸術は短く貧乏は長し
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=108

No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=378

No.282 10月8日 (月)幕府東玄関を支えた寺
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=318

リンクが多くなりましたので
野島に関しては別に紹介します。

第920話【市電ニュース】市電域と市電ニュース

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1930年(昭和5年)の暮、横浜市が震災復興に一つのメドがついた頃
市電社内刷りPRとして「市電ニュース」が発行されました。
ちょうどこの頃、横浜市内の市電網が最も精力的に整備され、市域トラフィックの軸となっていきます。
当然ですが元気な商店街はこの時期に拡張された市電域と重ねることができます。
六角橋商店街・洪福寺松原商店街・弘明寺商店街・杉田商店街・横浜橋商店街・浜マーケット・かつての生麦魚河岸通り・藤棚商店街 他
横浜の都市形成を考える上で 市電域の研究は必須です。
と宣言しつつ 途中までですが 下記のシリーズも継続していきます。

【横浜市電域考】1路面電車の時代

【横浜市電域考】1路面電車の時代


【横浜市電域考】2創業期の時代 

【横浜市電域考】2創業期の時代


【横浜市電域考】3震災を乗越えて

【横浜市電域考】3震災を乗越えて


【横浜市電域考】4市電域の終着駅 生麦

【横浜市電域考】4市電域の終着駅 生麦


【横浜市電域考】5市電域の終着駅 六角橋

【横浜市電域考】5市電域の終着駅 六角橋

【市電ニュースの風景】第一号その1

【市電ニュースの風景】第一号その1


【市電ニュースの風景】第一号その2

【市電ニュースの風景】第一号その2


【市電ニュースの風景】1931年  №17

【市電ニュースの風景】1931年  №17


【市電ニュースの風景】1931年 №18

【市電ニュースの風景】1931年 №18


【市電ニュースの風景】1931年 №19

【市電ニュースの風景】1931年 №19


【市電ニュースの風景】1931年 №20

【市電ニュースの風景】1931年 №20


【市電ニュースの風景】1931年 №21

【市電ニュースの風景】1931年 №21

それぞれの写真キャプション未整備です。(ハガキ、写真は個人蔵)

第905話 【占領下の空】

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終戦直後の福富町

この写真は約7割が空となっています。
カメラマンは何故?
敢えてこの広い空を構図の中に取り込もうとしたのでしょうか?
撮影場所は野毛山中腹(現在の西区東ケ丘あたり)かプール(今無い)あたりか?
<風景を読む>
手前に京浜急行が走り、日ノ出町駅舎は隠れて見えません。
高架線の途中にある構造物は京急の変電所でしょう。
その先には大岡川が流れ、アーチ橋長者橋、左側に桁橋宮川橋が見えます。
福富町の殆どが空襲で焼失し、米軍によって整地され、接収の準備が始まっています。
後にこのエリアには第八軍宿舎(カマボコ兵舎)が立ち並びますが
まだ臨時のテント設営段階のようです。
横浜関内外エリアは戦後、ほとんど接収となり戦後復興が滞りました。
このエリアは、開港後の「慶応の大火」以降 「関東大震災」「横浜大空襲」「戦後接収」と地域の機能不全の中から立ち上がってきた経験があります。
遠景のスカイラインに ランドマークとして「神奈川県庁」が確認できます。
<横浜三塔>の一つである「横浜税関」は県庁に重なって確認できないようです。手前に「開港記念会館」がぼんやり見えます。
長者橋近くには、『和菓子屋 しげた』の裏にあった「倉」が写っています。
貴重な風景です。
細かく拡大することで、色々な建物を読み取ることができますが、
今日の本題に戻します。
何故、カメラマンは広い空を選んだのでしょうか?
手前の日ノ出町一帯は幸運にも空襲の被害は少なかったようで、街並みが残りました。
この風景から、焼け残った風景(家並み)は切り取られました。
何も残っていない風景を強調したかったのか?
この写真はアメリカ人から譲り受けたものですが、撮影者が日本人なのか在留アメリカ人なのかは不明です。
撮影時期は昭和20年の秋か21年の初めあたりと推定しました。

復興したエネルギーも大切ですが、
失ったモノを忘れない エネルギーも重要です。