11月 15

第925話【横浜風景】金沢百景

金沢区は魅惑的な区で、様々な角度から紹介しています。
横浜18区の中でもじっくり書いたものが多いかもしれません。
<カウントしてませんが>
リンクをまとめました。
第923話【横浜市境】 市境の深ーい溝
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10931

No.136 5月15日 フルライン金沢区
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=479
横浜市金沢区は1948年(昭和23年)5月15日に磯子区から分区し創設しました。

No.269 9月25日(火)河口に架かる橋
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=334
1964年(昭和39年)9月25日の今日、埋立てによって整備された河口に架かる八景橋が完成しました。

2月20日 海の公園計画発表
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=570

2月22日 アーティストツーリング
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=568

2月27日 政治家が辞めるとき
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=563

No.124 5月3日 料亭にて超機密書類盗まれる
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=492
憲法記念日に因んで
伊藤博文らが金沢八景の料亭東屋で「明治憲法」草案を練ったという話

第829話 1936年(昭和11年)
6月23日日本製鋼横浜製作所JSW
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7780
「日本製鋼横浜製作所JSW」が金沢町泥亀に竣工・操業開始した日です。

1914年(大正3年)7月12日 京急富岡駅
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7816
横浜貿易新報社選(神奈川県内の)「新避暑地十二勝」が発表されました。

No.230 8月17日 (金)孫文上陸(加筆修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=377

No.451 芸術は短く貧乏は長し
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=108

No.229 8月16日 (木)一六 小波 新杵
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=378

No.282 10月8日 (月)幕府東玄関を支えた寺
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=318

リンクが多くなりましたので
野島に関しては別に紹介します。

11月 15

No.320 11月15日(木)ラッピングが似合う街

11月15日をネタに軽く「乗り物」系を紹介しましょう。
今日は、2000年(平成12年)11月15日(水)から横浜市「車体利用広告物特例許可実施要領」が実施されました。ついでに、
1984年(昭和59年)11月15日(木)に金沢シーサイドラインの起工式が行われた日でもあります。開通は横浜博のあった1989年(平成元年)7月5日(水)でした。

2008年 森日出夫さんの写真がラッピングされた相鉄線

(屋外広告規制)
先に横浜市「車体利用広告物特例許可実施要領」について。
条文によると
1 趣旨
この要領は、横浜市屋外広告物条例施行規則第6条第1項第8号オの「市長が特に認める広告物等」の適用に係る特例許可広告物の取り扱いについて、必要な事項を定める。

これだけではよくわかりませんが、

「2 適用範囲」ではっきりします。
「この規定に及ぶ範囲は、横浜市内を走行するものに限る。」
要は、
市内の電車、バスの車体全面広告(ラッピング)が可能になった日です。
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/kigyo/newstopics/2011/t20120301-8711-03.html

 

 

最近、バスや電車の車両を広告媒体にしている「ラッピング車両」が増えました。バス停、ネーミングライツ等々、行政の収入源拡大施策の一つです。
「ラッピング車両」は(お辞めになった)石原東京都知事の“一声”で2000年(平成12年)東京都交通局が路線バスに採用したことで、これまで全面広告バスに消極的だった自治体にも普及し、現在では日本各地で見られるようになっています。「ラッピング車両」は別にそれまで禁止されていた訳では無く、諸条例の整備で簡単に実施できる案件でした。
現実に、2000年以前にローカルバスや鉄道を“町おこし”でペインティングしたケースがありました。古くは江ノ島電鉄が有名です。
2000年の東京都交通局の「ラッピングバス」実施は、前例に倣う突破口となった訳です。

現在横浜市内では、市営地下鉄が定例の「ラッピング電車」を走らせています。なんと、
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/sub/tokubetsu/
日別時刻表まで公開しています。

他に、市内鉄道会社もイベント等で都度「ラッピング電車」を実施しています。


バスの「ラッピング」も広告・イベント告知・キャンペーン等に随時利用されています。

2008年(平成20年)9月 
トリエンナーレデザインラッピングバス
最近では「2012映画プリキュアオールスターズ」タイアップ

 


プリキュアラッピングバスが2012年(平成24年)3月3日(土)〜5月6日(日)まで運行され、確かにファンがカメラを持っていた記憶があります。
その他「FIFAワールドカップ」「虐待防止キャンペ ーン」「ヨコハマはG30」といったキャンペーンを見たことがあります。注意深く観察すればもっと運行していると思います。

(ラッピングが似合う)
横浜市内唯一の案内軌条式鉄道※「金沢シーサイドライン」にもデザインされた車両が走っています。開放感のある景色に溶込む(私は)ラッピングが似合う路線と感じています。


※走行路面上を中央または側壁にある案内軌条に案内輪をあてて、ゴムタイヤで走行する交通機関。
「金沢シーサイドライン」は冒頭にも表記したように1984年(昭和59年)11月15日(木)に起工式が行われ、5年かかって完成しました。JR根岸線「新杉田駅」と京浜急行「金沢八景」駅を結んでいます。当時の建設省・運輸省の指導による「新交通システムの標準化」第一号事例として進められましたが、開業当初から乗客数が伸び悩み赤字路線として市議会でも議論となりました。

Wiki

現在は、周辺住宅の増加、三井のアウトレット開業、八景島シーパラダイスの奮闘等により徐々に黒字化しています。

 

 

 

現在「金沢八景駅」は仮駅扱いととなっています。計画路線では、京急金沢八景駅まで乗り入れる予定でしたが、地権者との交渉が進展せず未着工のままで運行されていました。


2008年度、金沢八景駅東地区土地区画整理事業が認可され、2016年(平成28年)度の完成を目指し2012年(平成24年)に京急駅舎付近までの延伸に着工しています。


※開業以来、22年間連続10期にわたり無事故運転で表彰されています。
一昔前、金沢八景駅から更に延伸して「大船駅」までつながるという“噂”を聞きましたが(本当だとしても)この状況では難しいでしょうね。この辺の話しは別の機会に…。

10月 3

No.277 10月3日(水)皮肉な緑地

10月2日に引き続き
米軍接収地返還の現状を紹介しましょう。
1948年(昭和23年)10月3日の今日、
旧日本海軍施設だった金沢区柴町他にある526,205 ㎡の敷地「小柴貯油施設」と水域約470,000 ㎡「小柴水域」が米軍により接収されました。

1977年現在の「小柴給油所」航空写真

(小柴貯油施設の経緯)
小柴貯油施設は米軍用の航空燃料用タンクが34基設置されていました。
この航空燃料を積み出すために、海までの運河と海上の水域も接収されていました。
10月2日に紹介した「根岸森林公園」の接収地域と同様に、飛び地のようなエリアです。


(平成16年)10月に日米合同委員会で、一部(約10ヘクタール)返還で合意しますが、全面返還を求め継続協議になります。
一年後の平成17年10月18日の米合同委員会で、陸地部分全域と水域の一部の返還が合意されます。
http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/kichitaisaku/shisetsu/kyuukoshiba.html

(小柴水域)
http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/kichitaisaku/shisetsu/koshiba.html
なぜ?この水域だけ残されたのでしょうか?
日米間の取り決めでは
使用条件
1 本水域は、合衆国船舶の停泊及び積荷の積み卸しのために使用される。
2 本水域が合衆国船舶によって使用されていないときは、一般船舶の通過を認める。ただし、本水域においては、合衆国政府の承認がない限り、ブイ、停泊用の鎖等に損傷を与えるような海底しゅんせつ、掃海、投びょう、魚釣り、底引き網及びその他同様の作業を厳重に禁止する。
とありますが、小柴貯油施設は返還し、
わざわざ海上で積荷の積み卸しもないでしょう?
潜水艦の休憩所???ですかね。
校舎の窓から海が良く見える高校時代を過ごしました。
相模湾ですが
授業中に沖にポッコリ潜水艦が浮かび上るのを見たことがあります。
  (昭和40年代のことですが)

小柴貯油施設返還が決定し、跡地活用の計画が現在調査を含め進捗中です。
「つながりの森」構想


横浜市南部の円海山周辺を中心とし、北西はいたち川から南東の小柴地区までを構想の対象エリアと設定しています。
目的は「横浜の生物多様性の宝庫」である「つながりの森」を 市民全体で、体感・感動し、次代、次々代につないでいく」ことにあります。
このプランから、返還された小柴貯油施設地域は、残された自然を生かした水辺や緑地の整備というイメージでしょうか。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kankyo/mamoru/tayou/tsunagari/

現在の空撮
敷地内、右が崖になり上部が給油施設
返還?されているのに
無人?ですが 米軍施設!って感じです。
小柴水域に続く運河、前をシーサイドラインが走ってます

「横浜市と米軍基地」
http://www.city.yokohama.lg.jp/seisaku/kichitaisaku/shiryo/pdf/h24/h24sassi/24sassi01.pdf
現在日米安全保障条約の下での日米防衛戦略上
 効果的な米軍配置がマネジメントされているのか?
防衛大臣
スリムで効果的な防衛計画を御願いするものであります。

2月 20

No.51 2月20日 海の公園計画発表

横浜市は江戸時代から現在まで埋立てを繰り返しながら少しずつ土地を拡大して行った街です。
特に海の公園は、
横浜市の市域拡大(埋立て事業)の中でもちょっと変わったコンセプトで作られた人工の砂浜です。
この計画が市議会で発表され、事業が具体化されたのが1970年(昭和45年)の今日でした。
今日は「海の公園」についてご紹介しましょう。

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横浜市は1889年(明治22年)4月1日に市制が施行された当時、面積は横浜港周辺の5.4 km² にすぎませんでした(セントラルヨコハマエリア)。
6次にわたる拡張(近隣行政区域編入)と埋立てにより統計では2006年現在437.98 km² ですが現在も少しずつ増え続けて(埋め立てが行われて)います。

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江戸時代の埋め立ては新田開発が目的でした。
明治以降昭和30年代までは港を中心とした工業用地確保が主な目的でした。
中でも、1965年(昭和40年)に発表された飛鳥田市長の六大事業プランの一つが「金沢地先埋立て事業」でした。

その最大の目的は市内に点在する中小企業を移転させて事業の効率化を計ると同時に市内の住環境を改善する目的がありました。同時に6大事業の柱の一つに、現在のみなとみらい地区開発がありました。そのためには三菱造船及び近辺にあった関係工場の移転が必要でしたので、「金沢地先埋立て事業」とまとめて行ってしまおうというものでした。
ここまでは、従来の「産業誘致」「工場団地」発想と同じですが、同時に住宅地、レクリエーション地にわけて都市デザインのコントロールの下に整備することが決まりました。
この計画の目玉が人工の砂浜公園「海の公園」を作ることでした。横浜は工業化の波に乗りほとんどの海岸線を第二次産業の用地に転換してきました。
横に広がる浜であった「横浜」の唯一の自然海岸は「海の公園」のできた対岸「野島海岸」だけです。このエリア一帯の自然を維持していくという命題も背負いつつ「海の公園」は造られました。

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前置きが長くなりましたが、現在の「海の公園」情報はこちらからどうぞ。

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サイトでも触れていますが、海水浴場の砂は対岸の千葉県富津市の山砂を運び、海底に5年ほど仮置きしたものを使用しました。
人工の砂浜づくりはかなり苦労したそうです。
『「海の公園」は、「海の自然再生と環境の保全」、「海辺の多様なレクリエーションとスポーツの場」をコンセプトに横浜市が整備し、昭和55年に潮干狩り場として、昭和63年には海水浴場としてオープンし、以来、年間約180万人の市民が訪れています。』(里海ネット)です。
平成元年には沿岸をつなぐ新交通システム「シーサイドライン」が開通します。

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そして平成5年(1993)に八景島シーパラダイスがオープンとし、この「金沢地先埋立て事業」の骨格ができあがります。

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野島公園の展望台から眺める「海の公園」を含む一体の風景は、20年の時が流れ平潟湾から続く美しい自然として溶込んでいます。春口の景色は絶景ですよ。