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第958話【横浜真景一覧絵図徹底研究】第三話

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初代横浜駅前の様子

「横浜真景一覧」には他のエリアとは異なり少々おざなりな描かれ方の初代横浜駅が描かれている。

初代横浜駅構内全景

横浜に初めて鉄道が開業したのは1872年6月12日(明治5年(旧暦)5月7日)のことだ。維新直後の明治2年には鉄道敷設が決定され、衣替えのように<近代化>が進んだ背景には、近世江戸期の文化・技術の奥深さがあったことを再認識しなければならない。
それでも相変わらず厳しい<攘夷思想>が渦巻く明治初期に全く経験値のない鉄道を設計・敷設・指導した英国人技師モレルに対しては改めてその偉大な成果、努力に敬意を表したい。山師の様な、詐欺まがいの外国人もいた中、優秀で正直、謙虚なモレルには感謝しかない。また彼を支えた日本人パートナー達の努力も同じく敬意を表したい。
中でも<現桜木町ネタ>的に紹介するなら、
鉄道敷設の起点となった<野毛浦地先海岸埋立地(吉田橋北詰から野毛浦.・石崎までの埋立)>は内田清七(京屋清七)の功績が大きく、彼の事業成功が無ければ、鉄道事業はこんなに早く完成していなかっただろう。高島嘉右衛門の功績が大きく紹介されている反面「内田清七」の名は鉄道発祥の地から殆ど消え去っているのは残念なことだ。大江橋も内田が請け負った歴史ある橋だ。
内田町を殆ど廃止したのは横浜町名史の汚点ではないか!
語り継ぐ人名はその功績に対し、残すのが後の人々の役割だと思う。
<吹上>
前置きが長かったが今回のテーマは、吹上。駅前の噴水に注目することにした。
この噴水も「内田清七埋地」に設置されたものだ。1891年(明治24年)に描かれた「横浜真景一覧」に登場する<初代横浜駅>前に大きな噴水がある。「吹上ゲ」と表示され、噴水脇にはガス灯らしきものが描かれているということは当時かなり珍しい噴水のライトアップも行われた証だ。
最初、地図上に発見した時「噴水か」「昔は吹上と言ったのか」という程度の認識だったが、この噴水は一体何時出来たのか?開業当初からなのか?という疑問が起こると
噴水好奇心の迷宮にはまり込んでしまった。
この噴水塔は1887年(明治20年)10月の近代水道創設を記念してつくられたものという資料があった。1887年時点では横浜市制前、神奈川県の管轄だった時期だ。
1889年(明治22年)に市制が施行され、水道事業が横浜市に移管されたのが翌年1890年(明治23年)のことだ。
ということはこの「吹上ゲ」の水源は横浜市の水道設備を経た道志の水ということだ。しかも新橋駅デザインのコピー的な評価を受けた初代横浜駅だが、駅前設計に関しては圧倒的に横浜駅のほうが素晴らしい。
新橋駅前にはこの「吹上ゲ」がない!(写真は現在の新橋駅舎レプリカ) 横浜駅は川に近く、海にも近い。そもそもの[港]に近い駅だった。
横浜駅を降り立った多くの乗客は、その開放感と潮の香りに新しい時代を感じ取ったに違いない。

横浜駅噴水

(余談)
古い噴水といえば「横浜公園の噴水」が有名だが、現在の噴水は1928年(昭和3年)関東大震災の復興事業としてつくられた?らしい。元々はブラントン設計時からだとすると1876年(明治9年)か?(資料未確認)
では噴水の歴史は?ということで調べ始めた。存外困難を極め、噴水の歴史に近づくには本格的に図書館通いが必要そうなテーマに膨張。今回は入口前の散歩にとどめておく。
■噴水(ふんすい)
池や湖などに設けられる水を噴出する装置、またはその噴出される水そのもののことである。広場や庭園、公園の装飾的設備として設けられることが多い。
日本の噴水に限り歴史的には、wikipediaを引用すると
「奈良県にある飛鳥時代の石神遺跡では、水位差を利用して水を噴出させていたと推測される須弥山像と見られる石造物と、石人像が発掘されている。石人像は異国人の風貌を持つ男女の老人が杯を持つ姿をした像であり、百済からの渡来人の技術によって制作されたものと考えられる。
日本で最古とされる噴水は兼六園の噴水で、1861年に前田斉泰が金沢城内に作らせたものである。当然、動力は使われておらず、高低差を利用した位置エネルギーのみで動いている。その他、長崎公園の噴水も装飾噴水としては古いとされる。」
ここで紹介された<長崎公園の噴水>が近代以降の最初の噴水ということらしい。
長崎諏訪神社に隣接して開園した長崎公園内に1878年(明治11年)ごろに建造された。
では横浜公園の噴水は何時か?
別な資料では
一番目がこの長崎公園
二番目が大阪箕面公園の噴水(開園は1910年(明治43年)11月1日)で
三番目が千代田区日比谷公園の噴水。1905年(明治38年)頃東京美術学校(現在の東京芸大)の津田信夫、岡崎雪声両氏に依頼製作したもの。
ということは、1887年(明治20年)完成のこの初代横浜駅前噴水は歴史に記録されていない?
それは変だろう!さらに調べたら
1879年(明治12年)東京劇場千歳座庭園に噴水がある<絵>があった。
この辺を調べるには
「1873年(明治6年)太政官布達第16号」が深く関わっている。
噴水の歴史に関しては もう少し時間をいただくことにしたい。
(つづく)

第948話【横浜絵】五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」

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・横浜絵の誕生
開港後、初代イギリス公使オールコック(Rutherford Alcock)が「人の住まぬ湾のはしの沼沢から、魔法使いの杖によって、日本人商人たちが住む雑踏する街ができた」「魔法使いの杖 の一振りによって茸の生えた一寒村が一瞬にして国際港と化してしまった」
と表現した横浜は徳川幕府末期に花開いた<経済・外交特区>として誕生しました。
横浜開港の表現を”一寒村”とする<元凶>の一人がcolonialismの真っ只中に生きたオールコックですが、確かに居留地には外国人が次々と移り住み、多くの商館やホテルといった洋館が日本人の手によって建てられていきます。
この時の様子が克明に描かれたのが「横浜絵」です。この横浜絵は当時を知る資料価値としても注目されています。
・横浜浮世絵
No.401 短くも美しく
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=178
外国人の風俗をモチーフとして制作され短期間に売り出された横浜浮世絵(横浜絵)はおよそ八百数十点にも及びます。

中でも私は五雲亭貞秀 作「横浜鉄橋之図」が好きです。

「横浜鉄橋之図」

■五雲亭貞秀「横浜鉄橋之図」(大判横6枚)
横浜絵の第一人者である五雲亭貞秀は精密で鳥瞰式の一覧図を多く描いています。下総国布佐(現千葉県我孫子市)に生まれた貞秀は初代歌川国貞の門人として錦絵を学び五雲亭、玉蘭斎の画号で多数の作品を残しました。
「貞秀の作品は他の作者にくらべて写実的であるといわれ、歴史資料としての価値も高いといわれています。(開港資料館)」
この「横浜鉄橋之図」は横浜開港のシンボルの一つで1869年(明治2年)に燈台技師ブラントンの設計によって完成した「鉄橋」と呼ばれた吉田橋を描いたものです。
この作品は翌年の明治に入って間もない1870年(明治3年)に描かれました。
開港から11年目という短時間にこれだけ整った風景が誕生し維持された当時の人々の英知に感動すら覚えます。

■甍の波
五雲亭貞秀の洋館の描写も秀逸ですが
私は日本人街の描写が好きです。珍しい洋館やメインモチーフの「鉄橋」はデフォルメしたとしても、見慣れた日本人の住宅風景は素直に描写していると感じます。
「野毛橋(都橋)」は前回のブログで紹介しました。
第947話【横浜の橋】リユース都橋(みやこばし)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=11350
開港時に突貫工事で完成した「横浜道」で一躍脚光を浴びた野毛橋は関内外発展により架替てその名を「都橋」と改名します。
木製の太鼓橋だった明治3年「野毛橋」の様子をこの横浜絵で知ることができます。
今回、
この作品を拡大してそこに描かれた当時の風景を少し読み解いてみたいと思います。
気になった「野毛橋」あたりをクローズアップしてみました。

野毛橋あたり

・吉田橋と野毛あたり
吉田町と野毛橋の付近の絵図には
太鼓橋を渡る二頭だての馬車と
すれ違う人力車
魚を天秤棒で運ぶ魚屋らしい姿が描かれています。

吉田町の通りには
女性と子供が不思議な乗り物に載ってる姿が描かれています。
「駕籠」の一種でしょうか、運び辛そうです。
後ろからは馬上のお付きが従っているようにも見えます。そのすぐ横に洋犬が一匹描かれていますが、この一行が連れている犬と思われます。

また
この様子を二階から興味深く眺めている物見遊山風の人物も描かれています。
もう少し引いて見てみます。
野毛橋より下流左岸には米が積まれている店舗とさらに下流には「渡船役所」が描かれています。川沿いに柳や松、桜の木樹があり、荷物を積んだ船が何艘か見えます。大岡川を使った水運の賑わいが感じられます。一方 野毛橋を越え野毛の町に入ると子ノ神社の鳥居があり神社を回り込むように道が野毛山の方向に向かっています。

他の資料からも「野毛橋(都橋)」を見てみましょう。

都橋

鉄道敷地埋立前夜

この「横浜鉄橋之図」の野毛浦近辺に戻ります。ここは明治4年に始まるまさに横浜駅開業前夜の風景です。
「馬車道」「姥が岩」の文字も読むことができます。
鉄道前夜、鉄の橋近辺の読み解きは別の機会に譲ることにしましょう。

第939話【番外編】横浜のクリスマス

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以前、”クリスマスツリー”の歴史に関して少し調べたことがあります。
日本でクリスマスツリーが飾られたのはいつ頃か?
調べると意外に難しく、ネット上の出典なしネタが多くあり、本腰を入れて出典を調べる必要に迫られましたが、諦めました(笑)。
簡単にまとめると
クリスマスツリーのルーツは諸説ありドイツから始まったのが有力でした。

1.ボニファチウス説
「8世紀のドイツ、樫の木を崇拝する人たちが子どもを生け贄に捧げていました。ドイツの使徒と呼ばれた聖ボニファチウスはこの風習を止めさせるためにオークを切り倒すとき、奇跡が起こりキリスト教の神の力が彼らの神よりも強力であることを示してイエスキリストこそ真の神であることを説いたことに由来。
2.三位一体=三角=樅の木
キリストの三位一体の象徴
3.ユール原型説
北欧に住んでいた古代ゲルマン民族の「ユール」という冬至の祭で使われていた樅の木
は冬でも葉が枯れない生命の象徴。
4.「旧約聖書」の創世記の舞台劇
「中世のドイツでは、イヴに教会の前でキリスト降誕祭の序幕として、楽園におけるアダムとイヴの堕罪の物語を演じる神秘劇が行われていた。」
この<禁断の果実>がなる木を舞台に立てたことに由来。

キリスト教伝来の頃はおそらくツリーは無く江戸時代には長崎の出島ではオランダ商人によって密かに「唐人冬至」を模した「阿蘭陀冬至」としてクリスマスを祝ったそうです。 
時代を近代からとすると幾つか文献がでてきました。
(ドイツ流)
1860年に通商条約締結のために来日していたプロイセン王国使節であったオイレンブルク一行が公館で飾った記録が残っています。

オイレンブルク一行

残念ながら横浜ではなく江戸の赤羽根のプロイセン王国公館でのことでした。
「随員の中の二、三人のクリスマスの準備を依頼した。何よりもクリスマスツリーを立てることが先決だったが、日本で木を一本切り倒すのはいつでも難しいことであった。しかも本当の樅の木は江戸にめったにない。それでも木はぜひとも必要である。(中略)ついに馬にまたがり、何マイルも先まで乗り回してありとあらゆる植木屋を探してやっとすばらしい一本をみつけてきたのである。」
これからが大変だったようで、準備の様子も細かく描写されていますが略します。
「準備そのものがまるで祝典だった。五人の水兵がそのために働いた。(略)すばらしいクリスマスツリーは天井まで届くほどで、オレンジや梨がたくさんそれにぶるさがっていた。」
※冬に梨がたくさんあった?のはいささか疑問ですが
当時、クリスマスツリーで飾り、抽選会などを行いお菓子を振る舞うドイツ流スタイルはゲストとして招かれた英国の将軍ホープ・グラント、領事オールコック、駐日アメリカ総領事館のヒュースケン他のゲスト達も驚きの様子が記されていました。
「オイレンブルク一日本遠征記」より
では、日本人によってクリスマスパーティが行われたのは何時ごろかというと、
1874年(明治7年)に実業家の原胤昭(たねあき)が築地にあったカロザースの妻ジュリアの女学校で開かれたクリスマスパーティーで日本最初のサンタクロースが登場、飾ったのが最初と言われています。
横浜が舞台となったクリスマスツリーの登場は、
1886(明治19)年12月7日
現在クリスマスツリーの日となっている12月7日のこの日
明治屋が横浜で外国人船員向けにお店でクリスマスツリーを飾りつけたそうです。
この日が1886年が日本初の「クリスマスツリー」だ とする説もあるようです。

本町通り明治屋

1900年(明治33年)に明治屋が東京銀座に進出すると、銀座のお店でもクリスマス飾りが広く行われるようになり、広く商店などのデコレーションに繋がったようです。
少し遡ると
1868年(慶応4年)に出された運上所の取り決めの中で、
開港場の休日が、4月7日、5月15日、7月7日、7月15日、8月1日、9月9日の他に、西暦の日曜日そして クリスマスの日が設定されました。
1879年(明治12年)12月には
海岸教会で日本人初のクリスマスの儀式が行われたという記録が横浜市史稿にあり、いち早く教会が建てられた横浜でも”クリスマスミサ”が積極的に行われたようです。
さらに横浜歴史年表でひろった<クリスマス>
1951年(昭和26年)12月19日
日米合同でクリスマス・デコレーションのコンクールを開催する。
1970年(昭和45年)12月23日
横浜公園体育館で市民クリスマスフォークダンス開催。

No.413 あるドイツ人の見た横浜
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=164
【番外編】今日はクリスマスツリーの日?
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=245
<クリスマス風景 クリッピング>

第933話 【横浜の企業】横浜のNPK

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肥料工場は日本工業化の代表産業でした。
肥料の歴史は、農業の歴史でもあります。かつて人類は、移動する狩猟生活から定住する農業にシフトするキッカケを得ます。これによって農業生産による食料の安定確保が可能となりカロリー量の高い食物を生産することが可能となり人口が急増し人類の文明が一気に拡大します。
それが、農地の<地力>を維持させる肥料という知恵です。
焼畑農業、輪作等を生産力維持の手段としてきましたが、農業は積極的に肥料を使用することで、人類は生産力を爆発的に増加させることを学びます。
農耕型の生活様式は、山から栄養分を運ぶ河川周りに発展します。
特に平野の少ない日本の国土では、集約型農業であったこともあり氾濫する河川に加え肥料が重視されました。
特に平和な戦争のない時代が200年以上続いた江戸期から<肥料>は重要な商品ともなり市場を作り出していきます。
江戸の農業革命は肥料革命でもあったのです。
魚粕、菜種粕、人糞尿、骨粉などが肥料として活用されました。江戸期、貧乏長屋で家賃を滞納しても立ち退かなくて済んだのは、住民の人糞尿が高額で近郊農業の肥料として買い取られたからです。
そして近代は化成肥料の生産(工業化)をもたらしました。
化成肥料生産は19世紀の中ごろから20世紀初頭に始まり、農業生産に大きく貢献し国家政策にまでなります。戦前、満州の植生を剥ぎ取り無理やり大豆を生産し日本の重要な肥料供給地であったことは意外に知られていません。
肥料を分類すると無機質肥料(化学肥料)と有機質肥料に分かれます。
そして無機質肥料は単肥(チッソN、リン酸P、カリKのうち一つの成分を含んだ肥料)と複合肥料(チッソ、リン酸、カリのうち2成分以上を含んだ肥料)とに分かれます。
目下地球的規模で危機となってるのが安価だったリン酸の原材料の枯渇です。
 
農業とは何かを調べてみると
wikipediaに面白い定義が示されていました。
「農業は、土壌から栄養を吸って生育した植物を持ち去って利用する行為
土壌の栄養を追加することを追肥をいいます。
肥料の定義を示してみます。
「植物の栄養に供すること又は植物の栽培に資するため土壌に化学的変化をもたらすことを目的として土地に施される物及び植物の栄養に供することを目的として植物に施される物をいう」
人口あたりの農耕地面積が狭い日本にとって肥料生産は国力の基幹となった訳です。
 
舞台を横浜に移します。
明治以降、横浜が貿易中心から工業化へシフトする過程で、肥料関係の企業も存在感を示します。食油製造に使用する大豆の搾りかすは肥料の原材料となるため、関連企業が設立されました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=8086
昭和初期(戦前期)の京浜地域の地図を眺めてみると
肥料関係の工場、企業が点在しています。
 
◯大日本人造肥料株式会社
1887年( 明治20年)4月
 高峰譲吉、渋沢栄一、益田孝ら明治の先覚者により、わが国初の化学肥料製造会社である東京人造肥料会社として創業
1910年(明治43年) 7月
 大日本人造肥料株式会社に商号変更
1931年(昭和 6年) 2月
 大日本人造肥料株式会社肥料試験場(横浜市子安)が白岡に移転。
その後「日産化学工業株式会社」となります。
 
◯加里工業
 神奈川区恵比須町9・10
隣接して
◯全国購買組合聯合会
 肥料を含めた購買をまとめた協同組合の先駆けとして戦前の肥料飼料の購買に大きな影響をあたえました。
 
 食油産業も化成肥料の生産の一翼を担います。
◯鈴木商店
1922年(大正11年)
 4工場(大連・清水・鳴尾・横浜)を分離独立させ
  豊年製油(現・J-オイルミルズ)を設立します。
社の沿革には
 「大豆粕は肥料として一般農家に安く提供、食料増産、輸入肥料の代替という点で国家に大きく貢献した。」
 
◯帝国社農芸化学
 企業の詳細不明
◯有機肥料会社
 企業の詳細不明
 
横浜が誇る食油老舗「岩井の胡麻油」も1926年(大正15年)昭和初期に<製油肥料合名会社>となった時期がありました。
●岩井の胡麻油 沿革から
1893年(明治26年)
 横浜市神奈川区御殿町に搾油工場を設立
1900年(明治33年)
 横浜市神奈川区青木町に工場移転。岩井製油合資会社設立
1914年(大正3年)
 横浜市神奈川区星野町に大規模工場を設立
1921年(大正10年)
 家庭用化粧小缶を発売。大正博覧会で金賞受賞
1926年(大正15年)
 岩井製油肥料合名会社に社名変更
1947年(昭和22年)8月27日
 岩井製油株式会社設立
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20180831修正加筆

第916話【横浜点と線】カーティスという人間

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1,000話に向けてエンジン掛けて
新しい発見はありませんが、調査資料の整理を兼ねて紹介します。
ハムとカーティス
今や有名なのであらためて紹介でもありませんが、
横浜市戸塚区で「鎌倉ハム」が誕生したという<トリビア>があります。戸塚エリアがかつて<鎌倉郡戸塚村>だった時代にハム生産が始まったことから”鎌倉ハム”ブランドが誕生しました。
ところがこの「鎌倉ハム」をめぐる諸説は、かなり複雑で真相は未だ<藪>の中といえる部分があり、ことは鎌倉(戸塚)だけにとどまらずブランドを巡るレシピ騒動も加わって複雑怪奇なものなってしまいました。
「横浜もののはじめ考(第三版)」でも諸説を示すだけで解明には至っていません。
戸塚区史では「鎌倉ハムの誕生」を第五章第一節を使って解説しています。
前述の「もののはじめ」その他の資料と併せてアウトラインを紹介しましょう。
ハム製造は戸塚地域で近代産業移入のトップを切り、始まりました。
欧米の香りがするハム製造、「鎌倉ハム」誕生は
「カーティスなる英国人が戸塚でホテルを経営し同時に養豚場を開設してハムやベーコンを製造販売したことに始まります。」
伝聞によると<カーティスは製造方法を門外不出、誰にも教えることをしなかったそうです>その後、ある理由※で複数の日本人が門外不出のレシピを継承して現在に至っています。
※火災の恩義説、レシピ漏洩説など
日本初のハムづくりかどうかに関しては諸説ありますが食肉としてのハム量産化は<鎌倉ハム>が日本初で間違い無さそうです。幕末から明治にかけて、初めて<トライ>した事例は数々あり、そこで<元祖騒動>が起こります。横浜の<もの・ことのはじめ>は開港場に於いて事業化の草分けとして存在価値があるのではないでしょうか。

東海道戸塚宿は、江戸時代街道の宿場町として賑わいました。
開港後、幕末から明治初頭にかけて外国人の行動が制限されるなかでも、西へ十里の範囲での休憩点として、また解除後も箱根や富士山詣での中継地点として<戸塚宿>は外国人の利用度が高い街に変身していきます。
ハム製造のウィリアム・カーティスと関係のあった同じ英国のコブ商会、
幕末、慶応三年(1867)には乗合馬車の営業を始め、横浜〜江戸築地間を2時間ほどで結びます。その後、外国人の行動が自由になった明治に入りコブ商会は横浜〜小田原(箱根)ルートも開拓します。多くの外国人が東海道線では直接箱根に行くことができなかった(国府津・御殿場経由)ため、面倒のない馬車を利用したそうです。この事業にカーティスも関係し彼の拠点だった戸塚宿はちょうど良い宿泊(中継)ポイントと考えたのでしょう。

wikipwdiaでは
「鎌倉ハム(かまくらはむ)は食肉加工品であるハムのブランドの一つ。複数の業者が製造販売しており、「日本ハム」や「伊藤ハム」、「プリマハム」のような一企業に属する単独銘柄ではない。
1874年(明治7年)、イギリス人技師ウィリアム・カーティスが神奈川県鎌倉郡で畜産業を始め、横浜で外国人相手に販売を行う。1876年(明治10年)上柏尾村の戸塚街道に面した場所に観光ホテル「白馬亭」を開業。敷地内でハム・ソーセージや牛乳、バター、ケチャップなどの製造を行い、主に横浜居留地の外国人向けに販売した。」
wikipwdiaでは1874年(明治7年)とありますが、
●カーティスがイギリス人技師と言う表現は正確ではありません。
また、戸塚での製造開始年代は1876年(明治9年)ごろが妥当のようです。
“観光ホテル「白馬亭」を開業”も疑問が残るところです。

1907年(明治40年)東京資本の「日本ハム製造㈱」が、
一方「鎌倉ハム製造会社」の名で別の東京資本の会社が設立されます。
そこに元々の戸塚村で製造しているメンバーが本家は我々だと主張し競合が始まり、結局新会社も元々から製造しているメンバーが後継を守り、現在に至っています。

ここで終わろうとしたところ、
別のテーマで「横浜居留地のホテル」について調べている中で、
1876年(明治9年)居留地61番に「カーティス・ホテル(Curtis’Hotel)」を開業、という資料が飛び込んできました。
カーティス(William Curtis)は1864年(元治元年)に来日、元々、P&O(Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)の客船係の経験を持っていた人物で、横浜でホテルビジネスを目指し到着早々居留地86番の「ロイヤルブリティッシュホテル」を譲り受け「コマーシャルホテル」としてオープンする際の経営者となったとありました。
明治期のホテル経営は実力(経営力)の他に<運>が必要でした。開港以降、多くの洋館、ホテルが登場しますが、没落のキッカケは火事でした。
1871年(明治4年)「コマーシャルホテル」も火災で焼失します。
ところが、カーティスが違ったのは、ホテル事業のスクラップ&ビルドの素早さ。「コマーシャルホテル」経営と並行して
1868年(明治元年)の夏には居留地81番に「インターナショナルホテル」を開業していて、火事で「コマーシャルホテル」を失いつつも立ち直る基盤を持っていました。
1874年(明治七年)6月末に「インターナショナルホテル」を売却、7月10日には居留地44番の「ジャパン・ホテル」を買収するなど投機ビジネスとしてホテル経営にあたったようです。
カーティスが戸塚に開業したホテル「白馬亭」は順調に業績を伸ばしますが、それまでに、横浜で手がけてきたホテルビジネスは
「コマーシャルホテル」
「インターナショナルホテル」
「ジャパンホテル」
「カーティスホテル」
「ザ・コマーシャル」
と複数に及びますが、どれも本腰を入れての経営ではなく、ホテルブームの横浜で投機目的だったようです。
前述の「コブ商会」にも参画し、戸塚宿では日本人の妻を持ち
1892年(明治二十五年)ごろには本町通りに戸塚の<肉>を出すレストランも出店します。彼カーティスのその後の足取りは不明ですが、恐らく戸塚の地で亡くなったのではないでしょうか。家族とともに海外へ出た!という説も考えられないこともありませんが、
ハム製造のレシピだけで簡単に事業化が進むことは難しく、短い期間ですが指導に当たったと考えたいところです。
後継者の日本人たちはそれぞれ明治二十年代から三十年代に肉加工業を始め独自のハムやソーセージづくりの道を歩み始めます。
戸塚には
他にも明治十年代に英国人のポーンスフォトが「シェイクスピア・イン」という簡易旅館を開業し、ここでもカーティス農場のハムが珍重されたと戸塚区史にも記述されていてここから西洋ハムが広まっていったことは間違いありません。

第893話 山手警察小史

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山手警察の歴史を中心に

※手元の資料で簡単に整理してみました。
神奈川県警察全体の項目も含んでいます。
●山手警察 現在の所在地
横浜市中区本牧宮原1番15号

【略年表】
1870年(明治3年)1月

神奈川に取締見廻役設置
横浜居留地に居留地取締役を置く
山手に屯所(取締局)を設置。

1871年(明治4年)
8月〜10月
陸奥宗光、神奈川県令就任により警察制度改革。横浜関内外の関門・見張所全廃。
県兵に代え階級制度による取締役(ポリスマン)を配置。
※取締役・邏卒・巡査 いずれもポリスマンの訳
12月
居留地の警察権回復「邏卒」制度完成(陸奥宗光)
神奈川県に邏卒課を設置。取締区域を五区に分け、会所詰邏卒を配置。
※陸奥宗光は神奈川県初代県令(明治4年〜明治5年)在任短期間だったが警察制度の大改革と行った。
その片腕となったのが大江卓(陸奥の後任、二代目神奈川県令)→大江橋

1872年(明治5年)
3月 東京府 神奈川県の「邏卒」制度に準拠。以後、全国基準となる。
  ※日本の警察制度の基本となる「邏卒」制度は神奈川(横浜)モデルだった?

1874年(明治7年)6月
邏卒本営設置(堺町二丁目)

1875年(明治8年)3月
行政警察規則 発布。

1875年(明治8年)11月
山手居留地に、山手警察署の前身である警察出張所が設置

1877年(明治10年)
警察出張所を警察署、屯署を分署と改称。
第一号警察出張所→横浜堺町警察署
第二号警察出張所→山手警察署
第三号警察出張所→横浜松影町警察署
第四号警察出張所→横浜長者町警察署
第五号警察出張所→横浜戸部警察署
第六号警察出張所→横浜高島警察署

1879年(明治12年)
山手居留地・山元町の所管、松影町警察署から山手警察署に変更。

1882年(明治15年)
7月1日
松影町・長者町・戸部町の三警察廃止、堺町警察署に統合。
堺町警察署を横浜警察署(後の伊勢佐木警察署)と改称。
横浜警察署に居留地警察署(後の加賀町警察)を設置
→山手警察署は居留地警察署 山手分署となる。

1884年(明治17年)
横浜警察署、堺町二丁目から伊勢佐木町25番地の新築庁舎に移転。

明治38年伊勢佐木警察署付近

明治38年伊勢佐木警察署

居留地警察署、堺町二丁目から加賀町通203番地に移転。

1893年(明治26年)12月
居留地警察署 山手分署 山手警察署の名に戻る

1895年(明治28年)12月
伊勢佐木町警察署 横浜市伊勢佐木町1丁目
戸部分署 横浜市戸部町一丁目
加賀町警察署 横浜市居留地加賀町
水上分署 横浜市西波止場岬
山手本町警察署 横浜市居留地山手本町
石川町警察署 横浜市石川町四丁目
日下分署 久良岐郡日下村笹下
神奈川警察署 橘樹郡神奈川町青木
川崎分署 橘樹郡川崎町新宿
高津分署 橘樹郡高津村溝口
都田警察署 都筑郡都田村川和
以下 略

明治38年

1897年(明治30年)
山手町に木造平屋の庁舎が完成(山手本町警察署)

1909年(明治42年)
山手本町警察署、煉瓦造りの2階建てに改築

1911年(明治44年)
4月10日「(タイトル)遠乗会寄贈品、自動車と衝突 八日午前十一時市内松影町四ノ一三五馬淵宇平が自転車に乗じて山元町一ノ一先街路に来かかりたり所前方より来りし外人四人乗りの自動車と衝突し自転車は滅茶苦茶に破壊されしより宇平は直ぐに外人を捕へて山手署へ同行を乞ひたるに外人は自分の名刺を同人に渡し自分は山下町二〇グランドホテルに投宿し居るなれば若し用があればホテルに来れよと云い捨てし儘立去りたるより宇平は直ちに山手署へ訴へ出でたり(横浜貿易新報)」

1923年(大正12年)
9月山手本町警察署、関東大震災で全壊、仮庁舎を本牧に置く。
11月山手本町警察署八幡橋分署(後の磯子署)設置。

1925年(大正14年)
10月1日山手警察署 本牧町に新設。

昭和9年山手警察署

1926年(大正・昭和)
八幡橋分署が八幡橋警察署(後の磯子署)となる。

1945年(昭和20年)
山手警察署、横浜大空襲での全焼などによる幾度からの移転
大鳥国民学校→本牧国民学校→横浜授産所

1965年(昭和40年)
5月新庁舎完成。現在の場所に移転。

1994年(平成6年)
山手警察署 新庁舎竣工。

【芋づる横浜】輿地誌略(後編)

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幕末から明治に至る開国直後の日本は劇的な変化が起こります。幕末の幕府、明治以降の政府関係者はもちろん、多くの人々が外国の情報を広く求めました。「輿地誌略」もまた、当時の国民の知的欲求やニーズに見事応えた内容でした。
【芋づる横浜】輿地誌略(前編)

(洋才の時代)
19世紀後半、欧州は産業革命後の技術革新の荒波に大きく揺れます。産業革命にによる技術革新の国威発揚が各国の「万国博」でした。国威発揚の現場に遭遇した最初の政府使節団は
1862年(文久二年)遣欧使節団が現地で(第二回)ロンドン万博に出会ったことに始まります。
引き続き
1867年(慶応三年)の(第二回)パリ万博開催に際し日本も早速参加表明します。ただ、徳川幕府・薩摩藩・佐賀藩はそれぞれ別々に参加することになりました。幕府の弱体化・瓦解寸前の万博参加でした。
日本使節団が万国博にで会う直前、後に「輿地誌略」を編纂した内田恒次郎が15人の留学生と共にオランダに向かいました。幕府海軍の軍艦「開陽丸」を回航するためでした。途中の1862年(文久2年)9月11日でトラブルに遭いますが無事1863年(文久3年)4月にオランダに到着します。
15人の留学生は以下の通りです。
榎本釜次郎(榎本武揚)、澤太郎左衛門、赤松大三郎、田口俊平、津田真一郎、西周助(西周)、古川庄八、山下岩吉、中島兼吉、大野弥三郎、上田寅吉、林研海、大川喜太郎(現地で病死)そして伊東玄伯らです。明治以降要人として活躍した人物も多く含まれています。
この中であまり知られていないエピソードを紹介しておきましょう。
日本人で最初に欧州で電信を利用したと言われているのが医師として留学していた医師「伊東玄伯」でした。1867年(慶応三年)10月17日に留学生仲間の「赤松則良」の処へ「明日お訪ねするするからお待ち下され」という内容の電信をオランダ語で送っています。
この電信技術も、二年後の明治二年にイギリスから通信技師を招いて、横浜燈台役所と横浜裁判所に日本で初めての電信回線を開通させました。lig_電信碑2<ちょっと横浜に関係しました>

幕府がオランダに発注した軍艦「開陽丸」が現地で進水したのが1865年(慶応元年)9月14日
全ての艤装が完了した1866年(慶応2年)10月25日にオランダを出港し日本(横浜)に向かいます。
この三年半のオランダ留学中に、メンバーの中で身分も高かったリーダー格の内田恒次郎は前編でも紹介したように、様々な欧州の基礎資料を収集し持ち帰ります。また、同時期にフランスやイギリスにも入国し、パリ万博参加の幕府側出品交渉役や<横浜鎖港談判使節団(完全に失敗)>の現地調整役も担い国際舞台で大活躍します。
※横浜鎖港談判使節団は池田使節団とも呼ばれ、スフインクスで写真を撮ったことでも有名。
オランダより軍艦「開陽丸」に乗り母国に戻り地位も軍艦頭にまで昇進しますが、幕府は消滅寸前でした。幕府が瓦解し明治政府となった時点で、幕府の役人だった立場に<こだわり>内田恒次郎は全ての職を辞め名前を内田正雄と改名します。
維新後、政府から彼の得た知識を活かすよう「大学南校」に勤めることを勧められます。「大学南校」は当時<洋学教育>を中心に人材育成する機関で、彼はここで知見を活かし『輿地誌略』他多数の教科書となる書籍を著します。
1873年(明治六年)墺国(ウィーン)博覧会に日本が参加する際事務局へ出向し博物局長で東京国立博物館の初代館長となった町田久成をサポートし美術品の鑑定に関わります(日本初の文化財調査とされる壬申検査)。
この時の記録係の一人が油絵画家の高橋由一です。light高橋由一1873年(明治六年)墺国(ウィーン)博覧会に深く関わる<横浜ブランド>があります。現在も横浜を代表するシルクスカーフのパイオニア椎野正兵衛です。
『当時の日本では、「博覧会」という概念そのものが、一般には知られていなかったらしい。参加
者を募っても意義が理解されず、政府は大変な苦労したことが、澳国博覧会事務局が残した刊行
物に詳しい。事務局では道具の目利きなどを各地に派遣し、海外に披露するに足る特産品や工
芸品、美術品を収集、購入した。
美術品と書いたが、明治初期の人が考える「美術品」とは、現代の人が考える「芸術作品」とは
様子が大分違っている。工房や商店の製造した実用品であっても、美的な装飾や価値の高いもの
は「美術品」に括られた。作家が製作し署名したものが美術品とは限らないので注意が必要だ。
椎野正兵衛は、この渡欧使節団に選ばれ、弟の賢三を伴い19世紀のヨーロッパを目の当たりに
した。正兵衛34歳、賢三は、若干23歳だ。』(日本初の洋装絹織物ブランド S.SHOBEY より)
まさに事務局で全国の<美術品>を探していたのが内田正雄でしたので、両者に接点があった可能性が高いと推理できます。

(博覧会の時代)
明治初期、日本政府は全国で博覧会を実施し、多くの人々に<文明開化>のインパクトを与えました。
1871年(明治四年)から1876年(明治九年)までの六年間で府県主催による博覧会は32回も開催されます。
1871年(明治四年)5月には西洋医学所薬草園にて大学南校主催「物産会(博覧会)」開催。10月京都博覧会(京都博覧会社主催)
1872年、3月湯島聖堂にて「勧業博覧会」を開催。
東京をはじめ、京都・和歌山・徳島・名古屋・金 沢・木曽福島・大宰府など全国各地で様々なテーマで展開しました。
第一回内国勧業博覧会
1877年(明治十年)8月〜東京・上野公園454,168人
第二回内国勧業博覧会
1881年(明治十四年)3月〜東京・上野公園823,094人
第三回内国勧業博覧会
1890年(明治二十三年)4月〜東京・上野公園1,023,693人
第四回内国勧業博覧会
1895年(明治二十八年)4月〜京都・岡崎公園1,136,695人
第五回内国勧業博覧会
1903年(明治三十六年)4月〜大阪・天王寺今宮4,350,693人
東京大正博覧会
1914年(大正三年)3月〜東京・上野公園7,463,400人light東京博覧会会長渋沢0018
平和記念東京博覧会
1922年(大正十一年)3月〜東京・上野公園11,032,584人light平和記念東京博覧会案内図
万博に関する「横浜ブログ」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=345
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5810
大正・昭和を経て現在まで
博覧会開催熱は冷めていませんが、国民の関心はどうでしょうか?light1935復興記念横浜大博覧会 light1940年日本萬国博覧会 lightポスター083

【横浜の橋】№0謎解き編 新旧玉手箱

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ここに一枚の絵葉書があります。light大日本人造肥料株式会社001

タイトルは「大日本人造肥料株式会社横濱工場」です。
画像奥には社名の入った大煙突と工場の全景が写っています。
今日のテーマは、この「大日本人造肥料株式会社横濱工場」に架かる橋の謎解きをしてみます。
構造は少しアーチ状(太鼓橋ぽい)になった木製桁橋にも見えます。ここで製造した「肥料」はこの橋を渡って陸路運び出されたのか?
それとも海路を使って船便で搬出されたのかは分かりません。
まずこの橋の名は何か?
そのためには「大日本人造肥料株式会社横濱工場」の場所を特定する必要があります。
「大日本人造肥料株式会社横濱工場」は
現在の日産化学工業株式会社(にっさんかがくこうぎょう)です。
Wikipediaには
「1887年(明治20年)4月、日本初の化学肥料製造会社として誕生した。」とあります。
よ!横浜はじめてストーリーを飾ることができます。
戦後の財閥解体で現在日産自動車との資本関係はありませんが、戦前は旧日産コンツェルンの一員だったことで、肥料産業の位置づけが少しわかります。
<沿革>
●渋沢栄一(第一銀行創業者)、益田孝(当時の三井財閥有力関係者)など当時の財界首脳が発起人となって「東京人造肥料会社」を設立します。
1893年(明治26年)12月
 「東京人造肥料株式会社」設立。
1910年(明治43年)7月
「大日本人造肥料株式会社」に商号変更。
と「大日本人造肥料株式会社」関連の社史を調べてみましたが、
横濱工場が何時、何処に開設されたのかは分かりませんでした。
1918年(大正7年)
「大日本人造肥料株式会社横浜工場にて耐酸鉄器の製造を開始す(日本曹達工業年表p102)」
これが手元の資料で確認できた横濱工場の初出
場所は意外なところから確認できました。
◆横浜市震災誌 第3冊 第3編 各方面の被害と復興
第6章 商工業 第2節 工業
第2項 被害工場会社と復旧
22 大日本人造肥料株式会社横浜工場
新浦島町1-1
「大震災の際、火災に罹り、工場の大半は消失した。震災前に於いては相当の製造能力を有し、業態良好であったが、震災後は少量の完全肥料を製造し居るのみにて、震災前に比しては雲泥の差がある。(P409)」
震災誌「大日本人造肥料株式会社」は神奈川区新浦島町1-1にあったことが分かりました。
震災でかなりダメージを受け、
1931年(昭和6年) 2月に
「大日本人造肥料株式会社肥料試験場(横浜市子安)を白岡に移転」
※日産化学工業 社史
白岡は現在、埼玉県白岡市白岡で「生物科学研究所」となっています。

[埋立の町、新浦島町]
地図で確認してみると神奈川区<新浦島>には現在二つの橋が架かっています。
「新浦島橋」「荒木橋」
<新浦島>埋め立ての歴史は明治36年に神奈川地先海岸埋立計画が出願され2年後の明治38年に許可が下り、明治40年に「横濱倉庫株式会社」がこの事業に着手します。
1908年(明治41年)10月に「新浦島橋」「浦島橋」(同時期に「村雨橋」「千若橋」「千鳥橋」「常盤橋」)が竣工し11月に運河も完成します。
1910年(明治43年)
新浦島一丁目が設置。
その後
バナナ埠頭のある出田町(昭和2年)ができます。
No.447 いずたとばななの物語
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=116
埋め立て地「新浦島町」に架かる橋は当初一つだけで、
「荒木橋」が架けられたのは1955年(昭和30年)のことです。light昭和31年1956年

(消えた浦島)
「新浦島町」の沖に「千若町三丁目」ができそこに浦島橋が架かります。
大きな製鉄工場が進出しその後 拡張して出田町ができました。
「新浦島町」と「千若町三丁目」の間にあった<運河>が
戦後昭和39年〜40年頃に埋め立てられてしまいます。(当時の地図による推計なので確証なし)
このことによって「浦島橋」が無くなり
「新浦島橋」だけが現在まで残ることになります。
新浦島橋は今年平成28年度事業で架替工事中。完成。
light新浦島橋77 light新浦島橋工事http://www.city.yokohama.lg.jp/doro/kyouryou/kakekae/shinurashimabashi/
とここまで進んできました。
まとめますと
1907年(明治40年)に埋立が始まり
1908年(明治41年)に繋ぐ「新浦島橋」が完成
1910年(明治43年)に町名が「新浦島一丁目」、「大日本人造肥料株式会社」に商号変更。
1918年(大正7年)に横浜工場で耐酸鉄器の製造を開始
1923年(大正12年)震災で「火災に罹り、工場の大半は消失」

(新事実)
これまで積み上げてきた資料が一気に覆る?
ここに新たな事実が、「カナコロ」アーカイブにありました。
【新浦島橋】
「管理する橋梁課によると、正確な築造年はわかっていないが、明治末期から大正初期にかけて、炭素製品メーカーの日本カーボンが工場への専用橋として設置した。1955年に煉瓦の橋脚部分を残して上部の舗装部分を架替え1987年は同社の移転を機に市に移管」
http://www.kanaloco.jp/article/61678
「日本カーボン」は
1915年(大正4年)12月
横浜市神奈川区浦島ヶ丘に設立とあり、昨年100周年を迎える企業です。
1938年(昭和13年)に
横浜海岸工場建設、電刷子等高級炭素製品用素材の大量生産開始。

また、この「新浦島・千若」には1926年(大正15年)操業の「日本製粉」横浜工場があり現在も稼働しています。
昭和5年発行の地図にもしっかり「大日本人造肥料株式会社横濱工場」の位置がしめされていました。昭和5年新浦島あたり さてlight大日本人造肥料株式会社001
この「大日本人造肥料株式会社横濱工場」前に架かる橋の名は?
私としては「新浦島橋」であって欲しいですが、もしかすると
「浦島橋」???????謎、残されたままです。
JR東神奈川駅改札前に歴史紹介パネルがあり「大日本人造肥料株式会社横濱工場」がありました。橋もありますが<名前>は依然不明です。

「大日本人造肥料株式会社横濱工場」

Louis Eppingerの時代

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1908年(明治41年)6月14日ドイツ系アメリカ人で居留地のグランドホテル支配人を務めたLouis Eppingerが心臓病により山手一般病院で亡くなりました。77歳でした。
このニュースはすぐに海を渡り彼が育ったサンフランシスコの新聞にもしっかりと掲載されます。

 

日本の新聞には79歳とありますが米国の訃報から計算すると正しくは77歳と思われます。
彼の勤めた「グランドホテル」について簡単の紹介しておきましょう。
1873年(明治6年)に英国資本によって開業します。
(マネージングディレクターはWHスミス、支配人はリオンズ)
1877年(明治10年)
グランドホテル出資者の一人ベアト※が出資者から撤退します。
※ベアトは写真家としても有名です。
「The Grand Hotel Yokohama」の創業に関わった人物の一人が写真家として有名なベアト
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/univj/list.php?req=1&target=Beato
フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)
http://ja.wikipedia.org/wiki/フェリーチェ・ベアト

1878年(明治11年)6月1日
グランドホテルがオークションにより$22,100でJ.von.Hemertによって落札されます。
(実質仏人ボナによるフランス資本となります)。
7月1日に改装しオープン。
1879年(明治12年)
経営者だったボナは健康上の理由で帰国しますが途中の米国で死亡します。
1881年(明治14年)
ボナ商会がグランドホテルから撤退しボワイエ商会に経営が移ります。
1882年(明治15年)
1月1日からグランドホテルはボワイエ商会による三代目の経営者を迎え営業が始まります。
当時の居留地にあったフラッグシップホテルは「クラブホテル」でした。
1886年(明治19年)
グランドホテル隣接のウィンザーハウス(居留地18番19番)が失火により焼失しグランドホテルと経営統合が図られます。
ここまで、経営者がめまぐるしく変わり、個人経営レベルの安定しない経営が続きます。
1887年(明治20年)
この年、パーマーが築港意見書を提出するなど、本格的な横浜築港計画が進み始めます。
さらには
「横浜〜バンクーバー」定期航路も就航し横浜も本格的な国際都市としての機能を果たすようになります。
1889年(明治22年)
この頃
横浜にも本格的なホテルニーズが求められるようになりますが、個人経営レベルの「グランドホテル」は設備投資力を失い業績不振で売却を決めます。
2月25日に資本金25万ドルのグランドホテル(株)を設立し会社組織となります。
この時にサンフランシスコでホテルに勤めていたLouis Eppinger米国より招聘されグランドホテルに着任します。
彼は1891年〜1905年までの間、約15年間支配人を勤めます。
この直後 最大のライバルとなる「クラブホテル」も法人化を図り英国人のハーンが支配人となります。
1890年(明治23年)
建築家サルダにより別館を新築します。
グランドホテル客室は100を超え、300人収容の食堂やビリヤード室、バーも設けられ横浜を代表するホテルになります。
※設計者サルダ(Sarda,Paul)は、指路教会会堂を設計した建築家です。設計を巡ってはグランドホテル側と係争となり裁判も起こります。

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1893年(明治26年)
横浜港築港工事もほぼ完了するころ
グランドホテルは一泊食事付き4円を設定、国内最高級価格のフラッグシップホテルの座を獲得するまでになります。
1905年(明治38年)
Louis Eppingerは現場から離れマネージングディレクターとなります。
この年 横浜港は日露戦争凱旋観艦式で賑わい、その後も海軍観艦式の多くが横浜港で開催され集客力となります。

 
1906年(明治39年)4月18日
米国サンフランシスコで午前5時12分に大地震が起こります。
数日間にわたって火災が続き街の4分の3以上が灰燼に帰し、ダウンタウンの中心部はほとんど焼けてしまいます。
横浜グランドホテルはEppingerが退きH.E. Manwaringがホテル支配人に就任します。

1907年(明治40年)
グランドホテルに転機が生まれます。
11月5日グランドホテルはさらに拡張のための50万円増資を決定します。
一方ライバルの「クラブホテル」が
11月28日近隣の火事を受け類焼してしまいます。
1908年(明治41年)6月14日
Louis Eppingerが亡くなります。
<彼Eppingerの残したもの>
彼の残した中で現在も世界にその名を残しているのが
カクテルの「アドニス」をアレンジした「バンブー」です。
これはEppingerがアメリカ時代に大流行したライトオペラ「アドニス」に因んでニューヨークで誕生したカクテルです。「アドニス」「バンブー」は共にドライ・シェリー ベースのカクテルですが「アドニス」にはスイート・ベルモット、
「バンブー」には ドライ・ベルモットを使い、少しすっきり系に仕上がっています。
バンブー ※ホテルニューグランドで誕生したという記述がありますが、
私はEppingerがグランドホテルで提供したカクテル説を採ります。
Eppinger説に寄り添うと
Eppingerは何故「アドニス」を「バンブー」と名づけたのでしょうか?
資料が無く不明ですが 推測してみました。
1880年(明治13年)Eppingerがサンフランシスコで働いていた時期
一人の米国人竹採りハンターが来日します。
彼の役割はエジソンの電球フィラメント素材探しでした。ハンターは京都石清水八幡宮の竹を持ち帰り、フィラメントに採用されます。日本製のフィラメントは点灯時間が一気に伸び一躍エジソン電球が有名になります。
この時、Eppingerがサンフランシスコの職場で日本の<竹=バンブー>の事を知ったかもしれません。
京都岩清水八幡宮脇の竹林から採取した竹のこと
http://www.iwashimizu.or.jp/story/edison.php?category=0
先達はあらまほしきことなり
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=302

長々と書いてしまいましたが、もう少し続けます。
Louis Eppingerと次のH.E. Manwaringが築いたグランドホテル黄金時代にはまだまだエピソードがあります。その後 横浜グランドホテル支配人であったH.E. Manwaringは退任し母国アメリカに戻り、サンフランシスコの「パレスホテル」支配人に着任します。
※このパレスホテルがまた、日本そして横浜と因縁深いホテルです。
サンフランシスコのゴールドラッシュ時代に財を成したWilliam Ralstonが関わっています。
目下資料整理中です。

 

横浜グランドホテル支配人には<三代目>が着任しますが
残念ながら1923年(大正12年)関東大震災で焼失し再建を諦めます。
その後 横浜にフラッグシップホテルとして全く新しく誕生したのが
ホテルニューグランドです。

Louis Eppingerが亡った1908年(明治41年)6月14日からちょうど半世紀50年
1958年(昭和33年)6月14日に北大西洋の女王と呼ばれた「氷川丸」が昭和28年7月に改装されてから44の航海を終えた、ちょうど輸送船客が一万名を突破した日となります。light_20150508222226_001 light_G氷川丸

横浜製自動車 雑話(改訂)

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1925年(大正14年)3月3日
アジア初の「日本フォード」製造工場が横浜市神奈川区子安に開設されました。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=6947
このフォードの進出は、日本自動車産業界に大きなインパクトを与えました。light_20150523132628

日本の自動車生産革命が国内メーカー、アメリカメーカーの下で<横浜>から始まりました。

1925年(大正14年)2月に資本金400万円で「日本フォード社」が横浜市緑町4番地に設立されます。
そして3月3日、新子安に「日本フォード」の製造工場が生産を開始します。
当初は本国モデルの左ハンドルT型フォードをノックダウン生産しますがここでは右ハンドルモデルAの生産をおこないました。
遅れること二年、ゼネラル・モーターズが大阪に拠点を置き生産を初め米国二大自動車メーカーによる東西競争が始まります。light_20150508141642
1936年(昭和11年)に、日本政府は自国の自動車産業の保護育成を目的とする「自動車製造事業法」を制定。この法律により、国内資本が50%以上の企業のみ自動車製造が制限されたことで、
1939年(昭和14年)12月にはトヨタ・日産・フォード間の合弁企業設立交渉が行われたこともありましたが、軍部からの強い横槍があり夢の合弁はたち消えとなってしまいます。
日本フォード社は1940年(昭和15年)に操業停止を余儀なくされます。
1941年(昭和16年)12月から1945年(昭和20年)8月終戦までの期間は日本政府に接収され、陸軍収容財産となり全ての生産設備は解体され、倉庫だけが残ったそうです。
戦後の連合国軍接収を経てフォードに返還され、東洋工業の所有となり現在はマツダのR&D(研究開発)センターとなっています。
一方、自動車製造(株)が1933年(昭和8年)に資本金1000万円で横浜に設立されます。(社長 鮎川義介)
翌年の1934年(昭和9年)6月に日産自動車(株)と社名を変更。翌年から生産に入ります。
1937年(昭和12年)2月には販売体制を確立するために「日産自動車販売」を設立します。
現在の日産自動車横浜本社