1月 19

【横浜駅物語】2横浜

(テキストのみ、画像後日追加)
■横浜物語
第二話は、桜木町に続く、現在の横浜駅を採り上げよう。初代から移動し三代目(三ヶ所目)であるこの駅は”フラッグシップステーション”として地域を代表する駅だ。
地域を代表するレベルの駅が大きく二度も移動したのは「横浜駅」くらいではないだろうか。
1978年(昭和53年)6月17日に公開された高倉健主演の「冬の華」冒頭部分に横浜駅東口が大きく映し出される。当時は風景として「東口」が正面玄関であったが、まさに横浜駅が東西戦争真っ只中だった。 1928年(昭和3年)に現在地へ移動した横浜駅西口は、当時空白地だった。戦後西口エリアの開発が進み、1963年(昭和38年)に地下街が完成したころから、”表玄関”の位置付けが逆転し始めたあたりを探ってみよう。
横浜駅の東西<開発戦争>は、現在も続いている。そごう・高島屋の百貨店をめぐる東西開発競争、ステーションビル・ルミネ競争、地下街競争他、大消費地でもある横浜駅は特に戦後の高度成長を背景に激しい鍔迫り合いが行われてきた。
書き出したらそのドラマは枚挙にいとまがない。
ここでは、あまり知られていない横浜東西表玄関競争の一端を紹介しよう。
■(民衆駅)

1957年(昭和32年)横浜駅を舞台に東西からそれぞれ「民衆駅」請願提出が行われた。
民衆駅とは
「民衆駅(みんしゅうえき)とは、駅舎の建設を日本国有鉄道(国鉄)と地元が共同で行い、その代わりに商業施設を設けた駅である。(wikipedia」
空襲等で荒廃した戦後の駅前を国鉄の立地を活かし地域が資本を投下して商業施設開発を行うという事業で、全国で多くの事例を残している。
いわゆる「ステーションビル」開発である。駅に直結した商業施設は確実に集客を見込める事業である。横浜では「横浜ステーシヨンビル」という地元資本の会社を興し、駅ビルの経営にあたった。このスタイルは駅ビルテナント管理(シアル・ルミネ等)に受け継がれ、最終的には駅ナカ<エキュート>へとつながる。 昭和32年に横浜駅の東西両方から、この民衆駅事業の請願が出た。
東は崎陽軒、西は相模鉄道が中心となりそれぞれが熾烈な争奪戦を始めたが、東は開設以来の表玄関としてのプライドがあり、崎陽軒は桜木町(初代横浜駅)から駅前で開業、現横浜駅にも1928年(昭和3年)に現在の場所に開店し、ここで名物「シウマイ」が誕生した。
以来、駅弁の雄として横浜駅には欠かせない企業となった。
一方、西口は、1926年(大正15年)厚木からスタートした神中鉄道が1933年(昭和8年)に念願の横浜駅開業にこぎつけたが、西口は相模川の砂利置き場となり接続のメリットに与れず経営が低迷していた。五島慶太は東横の西神奈川進出を目論み東京横浜電鉄の傘下に入れ、経営立て直しを進めたが戦争で中断していた。
1943年(昭和18年)に茅ヶ崎に本社を持っていた「相模鉄道」は神中鉄道と合併し拡大を図るが主力線(現相模線)を国鉄に吸収合併され、神中鉄道=相鉄となり現在の路線が相鉄の主力路線となった。
戦中戦後まで、横浜駅西口周辺(幸地区)は、帷子川河口域の埋立が遅れ砂利や資材置場として使われている状況だったが、大きな転機が訪れる。
戦前から横浜駅周辺に油槽を構えていた米国スタンダード・オイル社の持つ横浜駅西口の土地24688m2を1952年(昭和27年)に買収することになる。
この決断がなければ、現在の横浜駅前一帯はかなり雑居化が進み、東口優位は続いたかもしれない重要な判断だった。
ターミナルとして重要度が増す「横浜駅」の空白地西口広場を画期的な商業空間とするには、さらなる駅との直結が望まれた。
このときに、全国的に始まっていた「民衆駅」構想を東西の商工会が導入することを考えたのは当然のことだろう。
あらためて<民衆駅>とは?
「駅舎およびその付属施設に接着する施設の一部を部外者に使用させることを条件として,その建設費の一部または全部をその部外者に負担させて建設する駅施設の呼称である。すなわち民衆駅の名称はこのような形態によって建設された施設のみの呼称であって,駅という概念ではない。したがって駅舎の一部だけがこの種の形態で建設されたような場合は, その部分だけを民衆駅と呼称する。たとえば東京駅の場合, 八重洲口本屋施設(関連施設を含む)だけを民衆駅といい,乗車口・降車口を含めた旧本屋施設は民衆駅とはいわないのである。」
と当時の辞典に記載されるように、その代表例は東京駅八重洲口だった。
この「民衆駅」事業は駅周辺の商業力を大きく変えることもあり、東西の国鉄への請願はデッドヒートした。
国鉄も、さすがに両側に民衆駅を進める訳にもいかず、両者で意見をまとめるよう要望し、最終的に1961年(昭和36年)、統合され株式会社横浜ステーシヨンビルとなり、
西口に「横浜ステーシヨンビル」が神奈川県最大の民衆駅として開業することになった。

■(西から東へ)
事実上の”西側”の勝利を意味し、しばらくの間横浜駅は西口優位の時代が続くのである。
その後、東口挽回のために「横浜駅前新興会社」が組織されスカイビルへと変身していくが当時の飛鳥田市政とは不協和音が生じ、しばらくゆゆの時代が続く。東口開発のキーマンとして自治官僚トップだった細郷道一が横浜駅東口開発公社理事長に就任するも、苦戦を強いられるが第22代横浜市長となり、飛鳥田六大事業は東口へと光があたり始める。
伊勢丹が狙った東口も、当時の水島 廣雄の手によるそごう進出が決定し、東西再逆転の体制が揃うこととなった。
(関連ブログ)かなりだぶってます。
No.328 11月23日(金)横浜駅東西戦争史
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=263
No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=328
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=604
No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=530
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=399
1954年(昭和29年)6月30日東口「横浜ホテル」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7895

12月 25

【バス物語】江ノ電バスラストラン

2019年(令和元年)12月15日
江ノ電バス横浜の2系統路線が廃止されるラストランの日だった。
大船駅から横浜駅までを繋ぐY2系統
栗木から横浜までのY3系統 
江ノ電の分類ではY16・Y17となっているが、表示はY2Y3。
「神奈川バスルート案内」では23系統・42系統と表記。
なんともわかりにくいバス系統が不思議な番号で綴られている。 横浜市内には市営、神奈中、臨港、東急、京急、小田急、相鉄、大新東、横浜交通開発、富士バスそして江ノ電など11社が路線を持っている。世界最大級と云われているバス会社神奈中を筆頭に、それぞれ<なわばり>みたいなエリアがある。横浜江ノ電は、戸塚駅より西に系統網を持っているが、際立っていたのが<Y2Y3系統>だった。
Y2・3系統は、終着点を「横浜駅東口」に設定している。つまり江ノ電の本拠地に近い地点から「下り」ルートが設定されている路線で、江ノ電が明治期の創設前に目指した鎌倉から黄金町までの路線に重なっている伝統?路線だったようだ。
江之島電氣鐵道、横浜電気株式会社(買収)の時代もあった。
江ノ島電気鉄道、東京横浜電気鉄道(傘下)、江ノ島鎌倉観光など目まぐるしく経営環境が変わった鉄道事業者である。
戦前の一時期神奈中バス(大東急時代)に経営を全面的に手渡したが戦後復活時にバス部門を取り戻し、江ノ電エリアから遠く離れたこの路線も取り戻した伝統あるものであった。 今回、2019年(令和元年)12月15日をもって
「大船〜横浜」という横浜市内最長クラスの路線が廃止されてしまった。過去に二度利用したことがあるが、平日午後利用客も多かった記憶がある。
もう一つの派生路線<栗木〜横浜駅>は数回利用したことがある。これも赤字路線とは思えない。 廃線理由は「運転手不足」という実に悲しい事態だった。運転手不足はこの10年、バス業界に吹き荒れた嵐だった。全国的な人手不足の中、神奈中・市営・京急などが集中するエリアで、江ノ電は今考えれば孤軍奮闘していたのかもしれない。 このY2・Y3路線の横浜・野毛大通り間のルートが不思議な経路を持っている点でマニア的にはとても面白い。 
これが無くなってしまったことはとても残念だ。 (上下分離路線)
横浜駅〜日ノ出町駅前までの路線について特記しておく。
<ルート>
■下りルート
〜日ノ出町駅前〜野毛町〜野毛大通り〜紅葉坂〜雪見橋〜花咲町〜高島町※〜横浜駅改札口前※〜横浜駅東口
※横浜駅東口行き方向のみ停車。
この印のある3停留所のみ江ノ電バスは別ルートを走ります。
■上りルート
横浜駅(東口)〜高島町〜花咲町〜雪見橋〜紅葉坂〜野毛大通り〜野毛町〜日ノ出町駅前〜<以下省略> 横浜駅東口、桜木町駅間のバスルートは上下線が別れているのが特徴です。
理由は桜木町駅前の交差点にあります。
ここは、国道16号線と、山下長津田線(新横浜通り)が並行している区間で、国道16号線が右折禁止のため並行する山下長津田線(新横浜通り)をバイパス道として使い、右折できるためです。
この路線が廃止されたのは残念でなりません。
ラストランの日、バスファンが多く乗り合わせる中、
日頃利用されているお年寄りがガラケイを出し記念撮影をしている姿が印象深かった。
「残念ね。20年利用していたのにね。今日はお休みなんだけど、最後に乗りたいから来ました。」と語っていました。
運転手不足で廃線しなければならないほど悔しいことはないでしょう。
7月 2

第897話 藤田雄蔵をめぐる物語

2015年11月5日Facebook掲載より転載・加筆・修正しました。
東京高円寺の古書店で一枚の絵葉書を購入しました。

「航研機」絵葉書

購入価格は200円。
一機の航空機が写っている戦前の絵葉書です。
今日はここで入手した昭和15年のスタンプがある航空機の絵葉書から辿る旅を始めます。

■「航研機」
写真のようにも、絵画のようにも見えるこの航空機は東京帝国大学航空研究所が開発した新型航空機で「航研機」と呼ばれました。この「航研機」で「周回航続距離世界記録」を樹立した記念絵葉書として発行されたものです。
宛名面には
「航研長距離機川崎特殊型700馬力最大速度280粁/時
乗員3名記録飛行距離11,651粁011飛行時間62時間22分49秒」
スタンプは
昭和15年(1930年)2月11日となっています。
・「航研機」スペック
全幅:28.00m
全長:15.06m
全高:3.84m
エンジン:川崎特殊液冷 700ps/1800rpm 巡航速度240㎞/h(飛行高度1000m)
総重量:9000㎏(乗員3名、食料、装備、燃料、オイル含む)
機体は不時着した際発見しやすいよう両翼が赤く塗られていました。

■飛行記録
「周回航続距離世界記録」に挑戦したのは
1938年(昭和13年)5月15日
ルートは<木更津飛行場→銚子→大田→平塚→木更津飛行場>の左回り。
結果は2つの長距離飛行世界記録を樹立しました。
●周回航続距離記録
1周401.759㎞のコースを無着陸で29周、
62時間22分49秒の飛行時間で
周回航続距離10,651.011km
●1万kmコース上の最速記録
1万kmコース平均速度186.192km/時という記録を打ち立てました。
この記録は、
国際航空連盟(FIA)によって公式に認定された記録で日本航空史に輝く偉業といえるものでした。
■時代背景
「航研機」が開発された昭和初期の時代

1937年 蘆溝橋事件が起こり日中戦争が始まる。
1938年5月5日は「国家総動員法」施行

アジアでの軍事的衝突と国際的緊張が高まる中、
この世界記録樹立は<国威発揚>にはうってつけのものでしたが、開発記録を読むと「航研機」を開発した<東京帝国大学航空研究所>の航空機基礎研究部門は当時の政治要因の影響を色濃く受け、厳しい条件下で記録に挑戦しなければなりませんでした。
陸軍と海軍、帝大を監督する文部省など、縦割りの弊害が有ったと読み取れます。
※資料1 開発当事者のエピソード、若干疑問符もありますが、
限られた予算とスタッフで世界レベルを目指した実験機の詳細なドキュメントでした。

研究所スタッフは
「ただただ世界記録のために総てをそれに徹した機体」を開発することに重点を置き、航空機としては極めて運転しにくい構造設計が推進され、操縦席からの前方視界が殆ど無い!?航空機が誕生することになります。
残念ながら樹立された記録は翌年イタリアのサヴォイア・マルケッティ SM.75機によって破られてしまいます。
開発過程や記録挑戦までのエピソードからは実にワクワクする技術開発の現場が見えてきます。横浜ネタからさらに離れてしまいますので航研機ドラマに関しては略します。
※※資料1をお読みください。

■飛行士
記録を樹立した「航研機」
視野が側面にしか無く<横を見おろしながら位置を確認>しなければならない構造でした。飛行性能を追求したあまり操縦性が後回しになった中での記録樹立、この飛行の成功は飛行士にあったと言っても過言では無い!と思えてなりません。
この資料を読み解く中で私はこの実験機に関わる<人間像>に関心をいだきました。
航研機乗員は3人乗りで、飛行チームは陸軍航空技術研究所のパイロット2名と機関士1名で構成されました。
※国の支援が無かった状況ですが 海軍は非協力的で陸軍航空技術研究所とは交流・協力体制ができていたようです。このあたりは、軍の経費節減に伴う陸海軍、陸軍内部の抗争も関係していたのではないか?と推理しています。まだ推測の領域ですが軍関係資料から意外な真実が判ってくるかもしれません。

「航研機」スタッフ
操縦士:藤田雄蔵(陸軍少佐)
副操縦士:高橋福次郎(陸軍曹長)
機関士:関根近吉(帝大技手)

■藤田雄蔵
操縦士藤田雄蔵(陸軍少佐)の経歴を調べていたところ、
彼は (少なくとも)幼少期を横浜で過ごしていたことが判りました。
「本籍青森県。日本郵船社員・藤田未類二の長男として横浜で生まれる。横浜一中卒を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、砲兵少尉に任官し野戦重砲兵第2連隊付となる。(wikipedia)」
別の資料では
「藤田雄蔵少佐(1898-1939)は周回航続距離世界記録を樹立した航研機のパイロットとして知られる。日本郵船社員の藤田未類二を父に、清美を母として、弘前市小人町12で生まれた。まもなく父の勤務の関係で横浜に移ったが、横浜では、今東光、日出海の両親も父が日本郵船の社員、母が幼なじみということで親しくしていた。横浜一中(17期)から陸軍士官学校(33期)に進み、昭和9年から陸軍航空本部技術部付のテストパイロットになった。」
また
森川肇『空の英雄藤田雄藏中佐』清教社、昭和15年刊では若干記述が異なっています。引用します。
「藤田雄藏中佐は、明治三十一年二月十九日、青森県弘前市で孤々の声をあげた。が、生まれるとすぐに横浜市神奈川区松ヶ丘町十四番地の藤田類二氏の養子となって横浜市に移った。従って小学校は西戸部小学校に入学し、続いて大正元年横浜一中の第十七期生として入学した。
中佐の父君は雄藏氏の今日を見ずして、さきにこの世を去った。その後は、亡父の親友であった横浜一中の校長木村繁四郎氏が、中佐の親代わりをつとめ、中佐の母と共に、その大いなる成長をみつめて来た。」
養子と記述されたり
また、親の名が「藤田未類二」または「藤田類二」と異なった表記があります。
父親「藤田類二」の点に関しては
大正十三年の新聞記事に「藤田未類二」が登場していて実在することが確認できています。
従って(wikipedia)「藤田未類二」が正しいのでは?と思われます。
藤田未類二が住んでいたとされる横浜市神奈川区松ヶ丘町十四番地から西戸部小学校に通うのは現実的ではなく
父親の仕事の関係で横浜市中区戸部(当時)にあった「日本郵船」の社宅に暮らしていたのではないでしょうか?
此の時に、伊勢町で育って西戸部小学校に通った同い年の
今東光、弟の今日出海と交友があったと推察できます。
No.86 3月26日 老松小学校の悪童


『空の英雄藤田雄藏中佐』清教社には 他にも幾つか<粉飾><誇張>が見られます。

当時世界記録に輝いた藤田は、
その後日中戦争に出征し、1939年2月中国大陸で戦死します。

<第一中学>現希望が丘高校に通うために毎日のように水道道を上り下りしていた少年藤田雄藏の姿を、この道に重ねながら
一枚の絵葉書から 新しいドラマに出会えたことを感謝します。

<余談>
この航研機の翼及び燃料タンク、車輪カバーを担当したのが山本峰雄で彼は日本自動車界の基礎を築いた人物として歴史に名を残しています。
http://www.yamafami.com/cm/

※名称変遷を繰り返した第一中学・1899年2月6日神奈川県中学校
・1900年4月1日神奈川県第一中学校
・1901年5月7日神奈川県立第一中学校
・1913年4月1日神奈川県立第一横浜中学校
・1923年4月1日神奈川県立横浜第一中学校
・1948年4月1日神奈川県立横浜第一高等学校
・1950年4月1日神奈川県立希望ヶ丘高等学校

参考資料
資料1「航研機」世界記録樹立への軌跡 富塚清 著 三樹書房
資料2「藤田雄藏中佐」森川 肇 著 清教社

関係ブログ
1937年4月9日
朝日新聞社の国産機「神風号」、ロンドンに到着。94時間17分56秒の国際新記録を達成。
航研機に関して
No.692 世界一周機「ニッポン」(号)

6月 28

No.180 6月28日横浜能楽堂、その点と線

1996年(平成8年6月28日)の今日、
横浜市西区紅葉ヶ丘に横浜能楽堂が開館しました。
この能楽堂にある能舞台は関東地区で最も歴史あるもので横浜市指定建造物に指定されています。
横浜能楽堂を巡る様々な物語を簡単に紹介します。
(という割に長文でごめんなさい。プリントして読んでください)一部修正しました。

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能楽堂外観

横浜能楽堂(よこはまのうがくどう)は、横浜市西区紅葉ヶ丘27-2掃部山公園の一角にある横浜市の能楽堂です。
現在は指定管理者制度により公益社団法人横浜市芸術文化振興財団が運営しています。
周辺には掃部山公園、音楽堂、県立図書館、青少年ホール等が隣接する知のなごみ空間です。

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散策ルート紹介

横浜能楽堂の能舞台は、移築・復元されたもので
1875年(明治8年)に
東京・根岸の前田斉泰邸(加賀藩邸)に建てられたものです。
設計は東京帝国大学工科大学建築学科出身の山崎静太郎が担当し、鏡板に描かれた松、白梅、根本の竹が極めて珍しい構図となっているのが特徴です。

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珍しい白梅、根本の竹

その後、1919年(大正8年)東京文京区染井の華族(元高松藩主)松平頼寿の母千代子さんが隠居されていた所に能舞台を移築されたことから「染井能舞台」と呼ばれるようになりました。
※母 千代子 彦根藩主、大老だった井伊直弼の次女にあたります。
当時 都内には多くの能舞台があったそうですが、関東大震災と戦災でも4カ所だけ残った内の一つです。
戦後、昭和20年〜30年頃までは、
宝生流を中心に能再興の本拠地として全盛を極めました。
また松平頼寿は、現在の本郷学園創設者だったところから
ここの生徒達は年に何回か能を鑑賞する機会があったそうです。

(実は父が東京に大学進学のため上京した際、本郷中学に3年時編入しています。卒業証書には松平頼寿の名が在り
 能楽堂の話しを聞いたことがあります)
1955年(昭和40年)になり、この「染井能舞台」は老巧化が激しく再建を断念し解体されました。
その後、宝生能楽堂の倉庫に保管されていましたが、
1979年(昭和54年)解体された部材が横浜市に寄贈されることになりました。
横浜市は最大限の復元をめざし部材の大部分を使って“横浜能楽堂”として復元再生に挑むことになります。
新能楽堂建設には当初膨らむ予算や技術的課題が山積し完成にはかなり時間がかかりました。
全体設計を大江匡(大江匡建築事務所)が担当し
1996年(平成8年)3月にようやく竣工の運びとなりました。
http://ynt.yafjp.org/
東京根岸から染井へそして横浜紅葉ヶ丘へと“うつろい”ましたが、
能の心は新しい舞台の下で受け継がれています。

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落雁がおすすめです
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(横浜能楽堂を繋ぐ因縁)
この横浜能楽堂「舞台」を設計した山崎静太郎には不思議な横浜との縁があります。
東京帝国大学工科大学建築学科時代の同期で親友となった仲間に、
●大熊喜邦(おおくま よしくに)
妻木頼黄・矢橋賢吉の後を引き継いで国会議事堂の建設を統括し、横浜銀行協会、帝国劇場、山口県庁舎・議事堂の設計にも関わった建築家です。
●後藤 慶二(ごとう けいじ)
日本建築界の構造学者としては草分け的存在。
コンクリート構造に関する論文を多数執筆発表ました。
絵画、俳句、能等の芸術にも造詣が深く、建築作品に活かしています。(36歳で死去)

そして
●咲壽栄一(さくじゅえいいち)
1884年(明治18年)横浜電気株式会社の常務取締役上野吉二郎の長男として東京の京橋に生まれました。
1893年(明治27年)に横浜市吉田小学校へ転校、神奈川県立第一中学校へ入学します。
京都市第三高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築学科に進み山崎清太郎、後藤慶二、大熊喜邦ら上記の仲間達に出会います。
卒業後大蔵省臨時建築部に入り、のちに大蔵技師。
妻木頼黄とともに設計にあたりますが30歳という若さで逝去します。
墓所は横浜市磯子区の根岸西有寺墓地です。
咲壽栄一は惜しくも30歳という若さで亡くなりましたが、その間短い時間ではありましたが大蔵省臨時建築部で多くの税関設計に関わってきました。また俳人としても非凡な才能を表し短い人生に詠んだ句はおよそ3万句もあったそうです。
彼が亡くなった後、山崎静太郎が中心となって咲壽栄一遺稿集「卯木集」を出版します。咲壽は卯花(ウツギの花)を好み、俳号「卯木屋」と読んだそうです。
横浜電気株式会社の常務取締役上野吉二郎の長男ですが、母方の高橋家の祖母の姓を名乗り咲壽栄一(さくじゅえいいち)として活躍しました。
この高橋家が、現在の「株式会社ダニエル」を創業し横浜クラシック家具の伝統を守っています。
「株式会社ダニエル」http://www.daniel.co.jp/

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(まだある横浜能楽堂)
長くなりますが 分けずに一気にいきます。
東京と文京区根岸の前田斉泰邸に建てられた「根岸能楽堂」を我が母のために文京区染井に移築した松平頼寿は、最後の高松藩主だった松平頼聰の八男でした。
頼聰はあまり評判が良くありませんが、母となる千代子は善き母だったようです。
この母千代子は、井伊直弼の次女として生まれ幕末明治、大正、昭和まで生き抜いた女性です。
彼女の生涯も物語になる波乱万丈の人生だったようです。
この横浜能楽堂の建つ敷地は、開港50周年に際し井伊家から寄贈された掃部山公園(かもんやまこうえん)です。
平成に建った能楽堂の窓から井伊 直弼像を眺め観るとは…。

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画像が飛んでいますが右側の窓から像が見えます
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(見学フリーデーがありますので是非 中をご覧ください)

もう一つの貴重な能舞台
「久良岐能舞台」
http://www.kuraki-noh.jp

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(おまけ)
今日6月28日は、「貿易記念日」です。
1963年(昭和38年)、自由貿易推進の為に閣議決定し、通商産業省(現在の経済産業省)が実施を決めました。
FTAとかTPPとか、最近議論になっていますが、
1859年(安政6年)5月28日(新暦6月28日)、徳川幕府がロシア・イギリス・フランス・オランダ・アメリカの五か国に、神奈川(横浜)・長崎・箱館(函館)での自由貿易を許可する布告を出し、港を開港、同時に「運上所」(税関)が設けられました。
貿易に携わる企業だけでなく、ひろく国民全般が輸出入の重要性について認識を深める日として設定したそうです。
FTAとかTPPについて 考える一日(では済みそうにありませんが)にしてみましょう。