1月 19

【横浜駅物語】2横浜

(テキストのみ、画像後日追加)
■横浜物語
第二話は、桜木町に続く、現在の横浜駅を採り上げよう。初代から移動し三代目(三ヶ所目)であるこの駅は”フラッグシップステーション”として地域を代表する駅だ。
地域を代表するレベルの駅が大きく二度も移動したのは「横浜駅」くらいではないだろうか。
1978年(昭和53年)6月17日に公開された高倉健主演の「冬の華」冒頭部分に横浜駅東口が大きく映し出される。当時は風景として「東口」が正面玄関であったが、まさに横浜駅が東西戦争真っ只中だった。 1928年(昭和3年)に現在地へ移動した横浜駅西口は、当時空白地だった。戦後西口エリアの開発が進み、1963年(昭和38年)に地下街が完成したころから、”表玄関”の位置付けが逆転し始めたあたりを探ってみよう。
横浜駅の東西<開発戦争>は、現在も続いている。そごう・高島屋の百貨店をめぐる東西開発競争、ステーションビル・ルミネ競争、地下街競争他、大消費地でもある横浜駅は特に戦後の高度成長を背景に激しい鍔迫り合いが行われてきた。
書き出したらそのドラマは枚挙にいとまがない。
ここでは、あまり知られていない横浜東西表玄関競争の一端を紹介しよう。
■(民衆駅)

1957年(昭和32年)横浜駅を舞台に東西からそれぞれ「民衆駅」請願提出が行われた。
民衆駅とは
「民衆駅(みんしゅうえき)とは、駅舎の建設を日本国有鉄道(国鉄)と地元が共同で行い、その代わりに商業施設を設けた駅である。(wikipedia」
空襲等で荒廃した戦後の駅前を国鉄の立地を活かし地域が資本を投下して商業施設開発を行うという事業で、全国で多くの事例を残している。
いわゆる「ステーションビル」開発である。駅に直結した商業施設は確実に集客を見込める事業である。横浜では「横浜ステーシヨンビル」という地元資本の会社を興し、駅ビルの経営にあたった。このスタイルは駅ビルテナント管理(シアル・ルミネ等)に受け継がれ、最終的には駅ナカ<エキュート>へとつながる。 昭和32年に横浜駅の東西両方から、この民衆駅事業の請願が出た。
東は崎陽軒、西は相模鉄道が中心となりそれぞれが熾烈な争奪戦を始めたが、東は開設以来の表玄関としてのプライドがあり、崎陽軒は桜木町(初代横浜駅)から駅前で開業、現横浜駅にも1928年(昭和3年)に現在の場所に開店し、ここで名物「シウマイ」が誕生した。
以来、駅弁の雄として横浜駅には欠かせない企業となった。
一方、西口は、1926年(大正15年)厚木からスタートした神中鉄道が1933年(昭和8年)に念願の横浜駅開業にこぎつけたが、西口は相模川の砂利置き場となり接続のメリットに与れず経営が低迷していた。五島慶太は東横の西神奈川進出を目論み東京横浜電鉄の傘下に入れ、経営立て直しを進めたが戦争で中断していた。
1943年(昭和18年)に茅ヶ崎に本社を持っていた「相模鉄道」は神中鉄道と合併し拡大を図るが主力線(現相模線)を国鉄に吸収合併され、神中鉄道=相鉄となり現在の路線が相鉄の主力路線となった。
戦中戦後まで、横浜駅西口周辺(幸地区)は、帷子川河口域の埋立が遅れ砂利や資材置場として使われている状況だったが、大きな転機が訪れる。
戦前から横浜駅周辺に油槽を構えていた米国スタンダード・オイル社の持つ横浜駅西口の土地24688m2を1952年(昭和27年)に買収することになる。
この決断がなければ、現在の横浜駅前一帯はかなり雑居化が進み、東口優位は続いたかもしれない重要な判断だった。
ターミナルとして重要度が増す「横浜駅」の空白地西口広場を画期的な商業空間とするには、さらなる駅との直結が望まれた。
このときに、全国的に始まっていた「民衆駅」構想を東西の商工会が導入することを考えたのは当然のことだろう。
あらためて<民衆駅>とは?
「駅舎およびその付属施設に接着する施設の一部を部外者に使用させることを条件として,その建設費の一部または全部をその部外者に負担させて建設する駅施設の呼称である。すなわち民衆駅の名称はこのような形態によって建設された施設のみの呼称であって,駅という概念ではない。したがって駅舎の一部だけがこの種の形態で建設されたような場合は, その部分だけを民衆駅と呼称する。たとえば東京駅の場合, 八重洲口本屋施設(関連施設を含む)だけを民衆駅といい,乗車口・降車口を含めた旧本屋施設は民衆駅とはいわないのである。」
と当時の辞典に記載されるように、その代表例は東京駅八重洲口だった。
この「民衆駅」事業は駅周辺の商業力を大きく変えることもあり、東西の国鉄への請願はデッドヒートした。
国鉄も、さすがに両側に民衆駅を進める訳にもいかず、両者で意見をまとめるよう要望し、最終的に1961年(昭和36年)、統合され株式会社横浜ステーシヨンビルとなり、
西口に「横浜ステーシヨンビル」が神奈川県最大の民衆駅として開業することになった。

■(西から東へ)
事実上の”西側”の勝利を意味し、しばらくの間横浜駅は西口優位の時代が続くのである。
その後、東口挽回のために「横浜駅前新興会社」が組織されスカイビルへと変身していくが当時の飛鳥田市政とは不協和音が生じ、しばらくゆゆの時代が続く。東口開発のキーマンとして自治官僚トップだった細郷道一が横浜駅東口開発公社理事長に就任するも、苦戦を強いられるが第22代横浜市長となり、飛鳥田六大事業は東口へと光があたり始める。
伊勢丹が狙った東口も、当時の水島 廣雄の手によるそごう進出が決定し、東西再逆転の体制が揃うこととなった。
(関連ブログ)かなりだぶってます。
No.328 11月23日(金)横浜駅東西戦争史
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=263
No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=328
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=604
No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=530
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=399
1954年(昭和29年)6月30日東口「横浜ホテル」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7895

12月 25

【バス物語】江ノ電バスラストラン

2019年(令和元年)12月15日
江ノ電バス横浜の2系統路線が廃止されるラストランの日だった。
大船駅から横浜駅までを繋ぐY2系統
栗木から横浜までのY3系統 
江ノ電の分類ではY16・Y17となっているが、表示はY2Y3。
「神奈川バスルート案内」では23系統・42系統と表記。
なんともわかりにくいバス系統が不思議な番号で綴られている。 横浜市内には市営、神奈中、臨港、東急、京急、小田急、相鉄、大新東、横浜交通開発、富士バスそして江ノ電など11社が路線を持っている。世界最大級と云われているバス会社神奈中を筆頭に、それぞれ<なわばり>みたいなエリアがある。横浜江ノ電は、戸塚駅より西に系統網を持っているが、際立っていたのが<Y2Y3系統>だった。
Y2・3系統は、終着点を「横浜駅東口」に設定している。つまり江ノ電の本拠地に近い地点から「下り」ルートが設定されている路線で、江ノ電が明治期の創設前に目指した鎌倉から黄金町までの路線に重なっている伝統?路線だったようだ。
江之島電氣鐵道、横浜電気株式会社(買収)の時代もあった。
江ノ島電気鉄道、東京横浜電気鉄道(傘下)、江ノ島鎌倉観光など目まぐるしく経営環境が変わった鉄道事業者である。
戦前の一時期神奈中バス(大東急時代)に経営を全面的に手渡したが戦後復活時にバス部門を取り戻し、江ノ電エリアから遠く離れたこの路線も取り戻した伝統あるものであった。 今回、2019年(令和元年)12月15日をもって
「大船〜横浜」という横浜市内最長クラスの路線が廃止されてしまった。過去に二度利用したことがあるが、平日午後利用客も多かった記憶がある。
もう一つの派生路線<栗木〜横浜駅>は数回利用したことがある。これも赤字路線とは思えない。 廃線理由は「運転手不足」という実に悲しい事態だった。運転手不足はこの10年、バス業界に吹き荒れた嵐だった。全国的な人手不足の中、神奈中・市営・京急などが集中するエリアで、江ノ電は今考えれば孤軍奮闘していたのかもしれない。 このY2・Y3路線の横浜・野毛大通り間のルートが不思議な経路を持っている点でマニア的にはとても面白い。 
これが無くなってしまったことはとても残念だ。 (上下分離路線)
横浜駅〜日ノ出町駅前までの路線について特記しておく。
<ルート>
■下りルート
〜日ノ出町駅前〜野毛町〜野毛大通り〜紅葉坂〜雪見橋〜花咲町〜高島町※〜横浜駅改札口前※〜横浜駅東口
※横浜駅東口行き方向のみ停車。
この印のある3停留所のみ江ノ電バスは別ルートを走ります。
■上りルート
横浜駅(東口)〜高島町〜花咲町〜雪見橋〜紅葉坂〜野毛大通り〜野毛町〜日ノ出町駅前〜<以下省略> 横浜駅東口、桜木町駅間のバスルートは上下線が別れているのが特徴です。
理由は桜木町駅前の交差点にあります。
ここは、国道16号線と、山下長津田線(新横浜通り)が並行している区間で、国道16号線が右折禁止のため並行する山下長津田線(新横浜通り)をバイパス道として使い、右折できるためです。
この路線が廃止されたのは残念でなりません。
ラストランの日、バスファンが多く乗り合わせる中、
日頃利用されているお年寄りがガラケイを出し記念撮影をしている姿が印象深かった。
「残念ね。20年利用していたのにね。今日はお休みなんだけど、最後に乗りたいから来ました。」と語っていました。
運転手不足で廃線しなければならないほど悔しいことはないでしょう。
7月 2

第897話 藤田雄蔵をめぐる物語

2015年11月5日Facebook掲載より転載・加筆・修正しました。
東京高円寺の古書店で一枚の絵葉書を購入しました。

「航研機」絵葉書

購入価格は200円。
一機の航空機が写っている戦前の絵葉書です。
今日はここで入手した昭和15年のスタンプがある航空機の絵葉書から辿る旅を始めます。

■「航研機」
写真のようにも、絵画のようにも見えるこの航空機は東京帝国大学航空研究所が開発した新型航空機で「航研機」と呼ばれました。この「航研機」で「周回航続距離世界記録」を樹立した記念絵葉書として発行されたものです。
宛名面には
「航研長距離機川崎特殊型700馬力最大速度280粁/時
乗員3名記録飛行距離11,651粁011飛行時間62時間22分49秒」
スタンプは
昭和15年(1930年)2月11日となっています。
・「航研機」スペック
全幅:28.00m
全長:15.06m
全高:3.84m
エンジン:川崎特殊液冷 700ps/1800rpm 巡航速度240㎞/h(飛行高度1000m)
総重量:9000㎏(乗員3名、食料、装備、燃料、オイル含む)
機体は不時着した際発見しやすいよう両翼が赤く塗られていました。

■飛行記録
「周回航続距離世界記録」に挑戦したのは
1938年(昭和13年)5月15日
ルートは<木更津飛行場→銚子→大田→平塚→木更津飛行場>の左回り。
結果は2つの長距離飛行世界記録を樹立しました。
●周回航続距離記録
1周401.759㎞のコースを無着陸で29周、
62時間22分49秒の飛行時間で
周回航続距離10,651.011km
●1万kmコース上の最速記録
1万kmコース平均速度186.192km/時という記録を打ち立てました。
この記録は、
国際航空連盟(FIA)によって公式に認定された記録で日本航空史に輝く偉業といえるものでした。
■時代背景
「航研機」が開発された昭和初期の時代

1937年 蘆溝橋事件が起こり日中戦争が始まる。
1938年5月5日は「国家総動員法」施行

アジアでの軍事的衝突と国際的緊張が高まる中、
この世界記録樹立は<国威発揚>にはうってつけのものでしたが、開発記録を読むと「航研機」を開発した<東京帝国大学航空研究所>の航空機基礎研究部門は当時の政治要因の影響を色濃く受け、厳しい条件下で記録に挑戦しなければなりませんでした。
陸軍と海軍、帝大を監督する文部省など、縦割りの弊害が有ったと読み取れます。
※資料1 開発当事者のエピソード、若干疑問符もありますが、
限られた予算とスタッフで世界レベルを目指した実験機の詳細なドキュメントでした。

研究所スタッフは
「ただただ世界記録のために総てをそれに徹した機体」を開発することに重点を置き、航空機としては極めて運転しにくい構造設計が推進され、操縦席からの前方視界が殆ど無い!?航空機が誕生することになります。
残念ながら樹立された記録は翌年イタリアのサヴォイア・マルケッティ SM.75機によって破られてしまいます。
開発過程や記録挑戦までのエピソードからは実にワクワクする技術開発の現場が見えてきます。横浜ネタからさらに離れてしまいますので航研機ドラマに関しては略します。
※※資料1をお読みください。

■飛行士
記録を樹立した「航研機」
視野が側面にしか無く<横を見おろしながら位置を確認>しなければならない構造でした。飛行性能を追求したあまり操縦性が後回しになった中での記録樹立、この飛行の成功は飛行士にあったと言っても過言では無い!と思えてなりません。
この資料を読み解く中で私はこの実験機に関わる<人間像>に関心をいだきました。
航研機乗員は3人乗りで、飛行チームは陸軍航空技術研究所のパイロット2名と機関士1名で構成されました。
※国の支援が無かった状況ですが 海軍は非協力的で陸軍航空技術研究所とは交流・協力体制ができていたようです。このあたりは、軍の経費節減に伴う陸海軍、陸軍内部の抗争も関係していたのではないか?と推理しています。まだ推測の領域ですが軍関係資料から意外な真実が判ってくるかもしれません。

「航研機」スタッフ
操縦士:藤田雄蔵(陸軍少佐)
副操縦士:高橋福次郎(陸軍曹長)
機関士:関根近吉(帝大技手)

■藤田雄蔵
操縦士藤田雄蔵(陸軍少佐)の経歴を調べていたところ、
彼は (少なくとも)幼少期を横浜で過ごしていたことが判りました。
「本籍青森県。日本郵船社員・藤田未類二の長男として横浜で生まれる。横浜一中卒を経て、1921年(大正10年)7月、陸軍士官学校(33期)を卒業。同年10月、砲兵少尉に任官し野戦重砲兵第2連隊付となる。(wikipedia)」
別の資料では
「藤田雄蔵少佐(1898-1939)は周回航続距離世界記録を樹立した航研機のパイロットとして知られる。日本郵船社員の藤田未類二を父に、清美を母として、弘前市小人町12で生まれた。まもなく父の勤務の関係で横浜に移ったが、横浜では、今東光、日出海の両親も父が日本郵船の社員、母が幼なじみということで親しくしていた。横浜一中(17期)から陸軍士官学校(33期)に進み、昭和9年から陸軍航空本部技術部付のテストパイロットになった。」
また
森川肇『空の英雄藤田雄藏中佐』清教社、昭和15年刊では若干記述が異なっています。引用します。
「藤田雄藏中佐は、明治三十一年二月十九日、青森県弘前市で孤々の声をあげた。が、生まれるとすぐに横浜市神奈川区松ヶ丘町十四番地の藤田類二氏の養子となって横浜市に移った。従って小学校は西戸部小学校に入学し、続いて大正元年横浜一中の第十七期生として入学した。
中佐の父君は雄藏氏の今日を見ずして、さきにこの世を去った。その後は、亡父の親友であった横浜一中の校長木村繁四郎氏が、中佐の親代わりをつとめ、中佐の母と共に、その大いなる成長をみつめて来た。」
養子と記述されたり
また、親の名が「藤田未類二」または「藤田類二」と異なった表記があります。
父親「藤田類二」の点に関しては
大正十三年の新聞記事に「藤田未類二」が登場していて実在することが確認できています。
従って(wikipedia)「藤田未類二」が正しいのでは?と思われます。
藤田未類二が住んでいたとされる横浜市神奈川区松ヶ丘町十四番地から西戸部小学校に通うのは現実的ではなく
父親の仕事の関係で横浜市中区戸部(当時)にあった「日本郵船」の社宅に暮らしていたのではないでしょうか?
此の時に、伊勢町で育って西戸部小学校に通った同い年の
今東光、弟の今日出海と交友があったと推察できます。
No.86 3月26日 老松小学校の悪童


『空の英雄藤田雄藏中佐』清教社には 他にも幾つか<粉飾><誇張>が見られます。

当時世界記録に輝いた藤田は、
その後日中戦争に出征し、1939年2月中国大陸で戦死します。

<第一中学>現希望が丘高校に通うために毎日のように水道道を上り下りしていた少年藤田雄藏の姿を、この道に重ねながら
一枚の絵葉書から 新しいドラマに出会えたことを感謝します。

<余談>
この航研機の翼及び燃料タンク、車輪カバーを担当したのが山本峰雄で彼は日本自動車界の基礎を築いた人物として歴史に名を残しています。
http://www.yamafami.com/cm/

※名称変遷を繰り返した第一中学・1899年2月6日神奈川県中学校
・1900年4月1日神奈川県第一中学校
・1901年5月7日神奈川県立第一中学校
・1913年4月1日神奈川県立第一横浜中学校
・1923年4月1日神奈川県立横浜第一中学校
・1948年4月1日神奈川県立横浜第一高等学校
・1950年4月1日神奈川県立希望ヶ丘高等学校

参考資料
資料1「航研機」世界記録樹立への軌跡 富塚清 著 三樹書房
資料2「藤田雄藏中佐」森川 肇 著 清教社

関係ブログ
1937年4月9日
朝日新聞社の国産機「神風号」、ロンドンに到着。94時間17分56秒の国際新記録を達成。
航研機に関して
No.692 世界一周機「ニッポン」(号)

11月 23

No.328 11月23日(金)横浜駅東西戦争史

本日は国民の祝日の一つ勤労感謝の日です。
「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」のがこの日の趣旨だそうです。
1962年(昭和37年)11月23日に株式会社横浜ステーション・ビルが開業しました。
11年後の1973年(昭和48年)11月23日には横浜三越店が開業します。
この横浜東西戦争の話しは過去何回も紹介しています。
今日は自分の記憶に残る横浜三越店を軸に横浜東西開発史を簡単にまとめてみました。

横浜駅界隈地図

(横浜駅をめぐる開発競争)
■株式会社横浜ステーション・ビルの閉店に関して
No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる 

■そごう出店と出遅れた三越

No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争

■髙島屋、相鉄

No.265 9月21日(金)ぺんぺん草の後に
■東急
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)

No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争

で紹介した三越は完全に出店タイミングを逸します。
横浜駅西口の百貨店戦争の最後に登場したのが「三越横浜店」です。

三越横浜店

「岩崎学園」による「三越横浜店」誘致でしたが、横浜駅開発と三越は西口周辺を相鉄が開発に踏み切った時点から因縁がありました。
相鉄は、1953年(昭和28年)西口開発を始めるにあたりキーテナントとして最初に「三越」へ出店を依頼します。
この申し出を老舗「三越」は断り、髙島屋に交渉先が代わり苦難の末開店し結果的に大成功します。
これが西口開発の始まりです。
後から横浜進出となった「三越」、
 相鉄としては面白くないでしょうね。

1989年ごろの横浜駅西口

横浜駅西口発展年表をまとめてみました。
戦前戦後、現在の横浜駅周辺は「東口」が表玄関でした。
(重心は西へ)
 1950年代西口開発が始まります。
 1956年(昭和31年) 4月に横浜駅名店街が誕生します。
映画館と髙島屋ストアも開業し、横浜駅が東口から西口へ人の流れが変わり始めます。
 1957年(昭和32年) 相鉄文化会館オープン。
 1958年(昭和33年) 髙島屋仮店舗開業、横浜駅東西を結ぶ地下通路が完成します。
 1959年(昭和34年) 相鉄会館が完成し、髙島屋がグランドオープン。
(東口も対策協議会「横浜駅前復興促進会」を結成)
 1961年(昭和36年) 西口5番街完成
 1962年(昭和37年) 横浜駅西口に東急ホテルが開業し、
11月23日駅ビル(横浜ステーション・ビル→シアル)が開業します。
 1964年(昭和39年) 根岸線が(念願の)磯子まで延伸。
東海道新幹線開通と東京オリンピック開催
※横浜は三沢競技場(他)が使用される。
ダイヤモンド地下街(ザ・ダイヤモンド)開業
 1965年(昭和40年) 第三京浜の開業
 1968年(昭和43年) 横浜岡田屋開業
 1970年(昭和45年) 根岸縁洋光台まで延伸、そごう出店許可
 1972年(昭和47年) 県政総合センター完成、市営地下鉄部分開業
 1973年(昭和48年) この年は横浜駅にとってターニングポイントでした。
4月9日根岸線が全線開通します。
10月6日第四次中東戦争が勃発しオイルショックが始まる。
10月10日髙島屋増築(商工会議所百年史では10月11日開店)
11月20日相鉄ジョイナス完成
11月23日「岩崎学園ビル」完成と同時に三越が開店
12月25日横浜駅東口再開発起工
 1976年(昭和51年)市営地下鉄 横浜駅乗入れ

(1980年代はそごうの時代)
 1980年代に入り(大幅に着工が遅れた)そごう出店計画が現実化してきます。
 東口進撃の10年です。
 1980年には東口地下街が整備され、「新宿ルミネ」で大成功した駅ビル型ショッピングセンター「横浜ルミネ」が11月7日に開業します。同時にポルタも「そごう」を結ぶ導線上に開業します。

(二つの障壁)

横浜三越は結局、2005年に撤退しますが三越には二つの障壁があり、客導線を繋ぐことが結局できませんでした。
一つは 横浜駅西口の階段という丘
 中央改札を出て東口にはフラットにアクセスできますが、西口方面には一度(丘を)越えなければなりませんでした。(現在大改装中)

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一昔前のマップです

二つ目も地下街の階段
さらに地上は西口ロータリーを回り込み、地下街ルートも階段を上がるバリアフリーではないことが不便さの“気分”につながりました。不便さの“気分”は馬鹿にできません。店舗の狭さも三越の強みを発揮できなかった要因となってしまい、撤退となります。

横浜三越閉店の瞬間

http://www.youtube.com/watch?v=lroX1gbxpv4

2008年

三越は伊勢丹との共同持株会社「三越伊勢丹ホールディングス」を設立し百貨店業界は5大グループに再編成されます。
●セブン&アイ・ホールディングス
→横浜駅東口「そごう」
●J.フロント リテイリング
→横浜伊勢佐木から撤退「カトレアプラザ」に
●高島屋G→エイチ・ツー・オー リテイリングと提携
→横高が髙島屋Gに統合
●エイチ・ツー・オー リテイリング
→横浜センター北に「モザイクモール」
★三越伊勢丹ホールディングス
→クイーンズ伊勢丹横浜店(相鉄ビル)
※伊勢丹には、1970年代横浜駅東口に出店戦略を進めていましたが、どたんばで「そごう」にひっくり返された歴史があります。
江戸の敵を長崎で討つのでしょうか?

さらにJRグループの駅ビル・エキナカビジネスが怒濤の快進撃をしています。

★★エキサイトよこはま22 (横浜駅周辺大改造計画)
http://www.city.yokohama.lg.jp/toshi/tosai/daikaizou/

横浜駅ビル「横浜CIAL」が50年の歴史に幕/神奈川新聞(カナロコ)
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=492azj_dyKc
→「横浜CIAL」は「CIAL鶴見」に
http://www.cial.co.jp

No.84 3月24日 実験都市ヨコハマの春祭り開催(YES89)


(余談)
横浜駅西口ロータリーに 建築界の巨匠の初期作品が
意外な場所にあります。さて?どこでしょう?

横浜駅西口 伊東豊雄「風の塔」
伊東豊雄の「風の塔」

夜景ははっきりしますが、昼間は殆ど判りません。
これは建築家 伊東豊雄の「風の塔」として業界では有名です。
http://www.toyo-ito.co.jp/WWW/Project_Descript/1980-/1980-p_08/1980-p_08_j.html
11月 5

No.310 11月5日(月)倉庫業は近代経済の秤

近代日本を象徴する企業の一つが「倉庫業」で近代経済のバロメーター(秤)です。
特に貿易港のある街には明治以降新しい倉庫業が起業されていきます。
1897年(明治30年)11月5日高島町にある中央倉庫株式会社が開業、私設保税倉庫の営業を始めます。(横浜税関百二十年史)

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現在倉庫業は倉庫業法で「倉庫業を営もうとする者は、国土交通大臣の行う登録を受けなければならない」と規定されています。倉庫業の定義は
http://www.mlit.go.jp/seisakutokatsu/freight/butsuryu05100.html
でご覧ください。
(倉庫業が意外な背景)
近代倉庫業が登場した背景には廃藩置県があります。
江戸時代、全国の藩は藩内の商品流通の保管という役割も担っていました。幕藩体制の崩壊で、藩屋敷や蔵のある藩邸の接収等でこれらの保管場所を失ってしまいます。そこで、官設倉庫もできますが民間で独自に倉庫業が明治時代に誕生します。横浜中央倉庫が開業した1897年(明治30年)には全国で110社の倉庫業が営業していました。
特に国際港のある街には前に述べた“江戸時代の蔵屋敷”とはことなる「近代保税倉庫」として倉庫業がスタートします。
全国に現在も観光資源として残る「赤レンガ倉庫」はその産業遺産です。
横浜赤レンガ倉庫の正式名称は?

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「新港埠頭保税倉庫」です。1号館と2号館が残っていますが、2号館の方が古く1911年(明治44年)、1号館は1913年(大正2年)に竣工しました。

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No.205 7月23日(月)駅を降りたら、国際港

No.103 4月12日「新港埠頭保税倉庫」から「赤レンガ」へ

(明治から大正へ)
明治時代、国際港横浜の大手倉庫業は
冒頭に紹介した中央倉庫株式会社(緑町)が1895年(明治28年)に創業し翌年の1897年(明治30年)11月5日に高島町で倉庫業を開始します。規模は28,099坪で、港に面した堀割をもった本格的な港湾倉庫でした。
他には
株式会社横浜貿易倉庫(堺町) 明治24年開業 1,400坪
WMストロン株式会社横浜支店 明治30年
合名会社横浜商品倉庫(海岸通)明治38年開業 規模不明
横浜倉庫株式会社(神奈川)明治39年
その後大正に入って三菱。三井を始めとする倉庫企業が雪崩を打って横浜港エリアに進出してきます。

(中央倉庫のその後)
実は、中央倉庫株式会社は1895年(明治25年)に創業した時点から「中央倉庫株式会社上屋」として免税品及び輸入砂糖・鉄類を陸揚・蔵置業を営んでいました。
横浜における(私設上屋のはじまり)と言われていますが、明治30年に法律ができて倉庫業が明確になった時点で新しく7月に免許申請し11月5日に高島町に近代倉庫を建て営業を開始します。
その後、1910年(明治43年)に中央倉庫株式会社は横浜船渠株式会社と合併します。

今も残る横浜船渠のマーク(ドッグヤードガーデン)

この横浜船渠株式会社も1935年(昭和10年)三菱重工業に吸収され、三菱重工業株式会社横浜船渠となります。

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三菱G変遷史

ここから氷川丸 、秩父丸(鎌倉丸)他数々の船が誕生しました。
No.283 10月9日 (火)三角菱のちから

No.38 2月7日 鎌倉丸をめぐる4つの物語
No.116 4月25日 紺地煙突に二引のファンネルマーク

8月 7

No.220 8月7日 (火)Visit Yokohama MM

ホテルは街の魅力のバロメーターです。
素敵な街には良いホテル・旅館があります。横浜ホテル事情を観察すると、横浜の魅力度が見えてきます。
1997年(平成9年)8月7日の今日、みなとみらいに3番目のホテル「パン パシフィックホテル横浜」が開業しました。現在は「パン パシフィック横浜ベイホテル東急」と経営母体が変わり改称されています。

「パン パシフィックホテル横浜」は、クイーンズスクエア横浜の運営会社である横浜・シティマネジメントが“みなとみらいエリア”3番目のラグジュアリーホテルとして開業しました。東急電鉄グループが海外ホテル経営を行っていたパン パシフィックホテルズの日本進出(逆輸入)旗艦店として、ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル、横浜ロイヤルパークホテル(当時横浜ロイヤルパークホテルニッコー)に次ぐ話題の進出となりました。
http://pphy.co.jp
2007年(平成19年)に創業時の横浜シティ・マネジメントから東急ホテルズ傘下の横浜ベイホテル東急ヘ経営権が譲渡され「パン パシフィック 横浜ベイホテル東急」と改称されました。

“パン パシ”のめざすラグジュアリーさは
“personalized care, because we genuinely care”の実現を目指し、全従業員(アソシエイツ)がお客様ひとりひとりに妥協なきおもてなしを施す姿勢から導き出されています。(少しCMっぽくなってしまいましたが)
1997年(平成9年)当時から、ホテルレストランの目玉として
地元横浜市出身の石鍋裕シェフがプロデュースする、『フランス料理 クイーン・アリス』がオープンするということで話題になりました。
また、中国料理は総料理長 脇屋友詞の「トゥーランドット游仙境」の開店という有名料理人のお店がホテルに進出する相乗効果を狙った展開がブームになりました。

みなとみらい地区が1989年以降開発されるに伴い、横浜観光の軸が明治大正時代が薫る山手、山下エリアと新しい都市空間としてのMMエリアが形成されることで横浜の魅力に幅がでてきました。当然、ホテル進出競争も起こり、みなとみらい周辺には90年代から次々とホテルが進出しします。

■ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル
1991年8月20日に開業。
http://www.interconti.co.jp/yokohama/index.html

■横浜ロイヤルパークホテル
1993年9月15日に開業。
http://www.yrph.com

ブリーズベイホテル(1990年9月)、ナビオス(1999年)、ワシントンホテル(2000年)に加え、新横浜にホテルアソシア新横浜(2008年)桜木町駅前にはニューオータニイン(2010年)が開業しましたが、

パークハイアット横浜、W Yokohama(共に2010年開業予定)の中止はリーマンショック以降の経済環境の激変とはいえ横浜ホテル市場にかげりを示す兆候とする関係者も多く、今後の横浜の“ビジット”能力が問われているでしょう。

(余談)
「パン パシ」ホテル正面玄関からのアプローチはわかりやすいのですが、クイーンズスクエア側からホテルに入る際、入口がわかりにくく開業当初一瞬迷いそうになりました。(その後ちょっと改善?されました)

【関連ブログ】
No.200 7月18日(水)無限の境界

6月 28

No.180 6月28日横浜能楽堂、その点と線

1996年(平成8年6月28日)の今日、
横浜市西区紅葉ヶ丘に横浜能楽堂が開館しました。
この能楽堂にある能舞台は関東地区で最も歴史あるもので横浜市指定建造物に指定されています。
横浜能楽堂を巡る様々な物語を簡単に紹介します。
(という割に長文でごめんなさい。プリントして読んでください)一部修正しました。

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能楽堂外観

横浜能楽堂(よこはまのうがくどう)は、横浜市西区紅葉ヶ丘27-2掃部山公園の一角にある横浜市の能楽堂です。
現在は指定管理者制度により公益社団法人横浜市芸術文化振興財団が運営しています。
周辺には掃部山公園、音楽堂、県立図書館、青少年ホール等が隣接する知のなごみ空間です。

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散策ルート紹介

横浜能楽堂の能舞台は、移築・復元されたもので
1875年(明治8年)に
東京・根岸の前田斉泰邸(加賀藩邸)に建てられたものです。
設計は東京帝国大学工科大学建築学科出身の山崎静太郎が担当し、鏡板に描かれた松、白梅、根本の竹が極めて珍しい構図となっているのが特徴です。

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珍しい白梅、根本の竹

その後、1919年(大正8年)東京文京区染井の華族(元高松藩主)松平頼寿の母千代子さんが隠居されていた所に能舞台を移築されたことから「染井能舞台」と呼ばれるようになりました。
※母 千代子 彦根藩主、大老だった井伊直弼の次女にあたります。
当時 都内には多くの能舞台があったそうですが、関東大震災と戦災でも4カ所だけ残った内の一つです。
戦後、昭和20年〜30年頃までは、
宝生流を中心に能再興の本拠地として全盛を極めました。
また松平頼寿は、現在の本郷学園創設者だったところから
ここの生徒達は年に何回か能を鑑賞する機会があったそうです。

(実は父が東京に大学進学のため上京した際、本郷中学に3年時編入しています。卒業証書には松平頼寿の名が在り
 能楽堂の話しを聞いたことがあります)
1955年(昭和40年)になり、この「染井能舞台」は老巧化が激しく再建を断念し解体されました。
その後、宝生能楽堂の倉庫に保管されていましたが、
1979年(昭和54年)解体された部材が横浜市に寄贈されることになりました。
横浜市は最大限の復元をめざし部材の大部分を使って“横浜能楽堂”として復元再生に挑むことになります。
新能楽堂建設には当初膨らむ予算や技術的課題が山積し完成にはかなり時間がかかりました。
全体設計を大江匡(大江匡建築事務所)が担当し
1996年(平成8年)3月にようやく竣工の運びとなりました。
http://ynt.yafjp.org/
東京根岸から染井へそして横浜紅葉ヶ丘へと“うつろい”ましたが、
能の心は新しい舞台の下で受け継がれています。

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落雁がおすすめです
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(横浜能楽堂を繋ぐ因縁)
この横浜能楽堂「舞台」を設計した山崎静太郎には不思議な横浜との縁があります。
東京帝国大学工科大学建築学科時代の同期で親友となった仲間に、
●大熊喜邦(おおくま よしくに)
妻木頼黄・矢橋賢吉の後を引き継いで国会議事堂の建設を統括し、横浜銀行協会、帝国劇場、山口県庁舎・議事堂の設計にも関わった建築家です。
●後藤 慶二(ごとう けいじ)
日本建築界の構造学者としては草分け的存在。
コンクリート構造に関する論文を多数執筆発表ました。
絵画、俳句、能等の芸術にも造詣が深く、建築作品に活かしています。(36歳で死去)

そして
●咲壽栄一(さくじゅえいいち)
1884年(明治18年)横浜電気株式会社の常務取締役上野吉二郎の長男として東京の京橋に生まれました。
1893年(明治27年)に横浜市吉田小学校へ転校、神奈川県立第一中学校へ入学します。
京都市第三高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築学科に進み山崎清太郎、後藤慶二、大熊喜邦ら上記の仲間達に出会います。
卒業後大蔵省臨時建築部に入り、のちに大蔵技師。
妻木頼黄とともに設計にあたりますが30歳という若さで逝去します。
墓所は横浜市磯子区の根岸西有寺墓地です。
咲壽栄一は惜しくも30歳という若さで亡くなりましたが、その間短い時間ではありましたが大蔵省臨時建築部で多くの税関設計に関わってきました。また俳人としても非凡な才能を表し短い人生に詠んだ句はおよそ3万句もあったそうです。
彼が亡くなった後、山崎静太郎が中心となって咲壽栄一遺稿集「卯木集」を出版します。咲壽は卯花(ウツギの花)を好み、俳号「卯木屋」と読んだそうです。
横浜電気株式会社の常務取締役上野吉二郎の長男ですが、母方の高橋家の祖母の姓を名乗り咲壽栄一(さくじゅえいいち)として活躍しました。
この高橋家が、現在の「株式会社ダニエル」を創業し横浜クラシック家具の伝統を守っています。
「株式会社ダニエル」http://www.daniel.co.jp/

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(まだある横浜能楽堂)
長くなりますが 分けずに一気にいきます。
東京と文京区根岸の前田斉泰邸に建てられた「根岸能楽堂」を我が母のために文京区染井に移築した松平頼寿は、最後の高松藩主だった松平頼聰の八男でした。
頼聰はあまり評判が良くありませんが、母となる千代子は善き母だったようです。
この母千代子は、井伊直弼の次女として生まれ幕末明治、大正、昭和まで生き抜いた女性です。
彼女の生涯も物語になる波乱万丈の人生だったようです。
この横浜能楽堂の建つ敷地は、開港50周年に際し井伊家から寄贈された掃部山公園(かもんやまこうえん)です。
平成に建った能楽堂の窓から井伊 直弼像を眺め観るとは…。

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画像が飛んでいますが右側の窓から像が見えます
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(見学フリーデーがありますので是非 中をご覧ください)

もう一つの貴重な能舞台
「久良岐能舞台」
http://www.kuraki-noh.jp

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(おまけ)
今日6月28日は、「貿易記念日」です。
1963年(昭和38年)、自由貿易推進の為に閣議決定し、通商産業省(現在の経済産業省)が実施を決めました。
FTAとかTPPとか、最近議論になっていますが、
1859年(安政6年)5月28日(新暦6月28日)、徳川幕府がロシア・イギリス・フランス・オランダ・アメリカの五か国に、神奈川(横浜)・長崎・箱館(函館)での自由貿易を許可する布告を出し、港を開港、同時に「運上所」(税関)が設けられました。
貿易に携わる企業だけでなく、ひろく国民全般が輸出入の重要性について認識を深める日として設定したそうです。
FTAとかTPPについて 考える一日(では済みそうにありませんが)にしてみましょう。