7月 8

【よこはま時の風景】

風景というと、辞書的には<見える様>といった説明になりますが、もう少し心象的な意味合いでつかわれることが多くなりました。文字通り「心象風景」は有様を想像する作業です。
サウンドスケープ(音の風景)は、しっかり研究領域として広がりを見せています。

今回はちょっと「時間」、時の風景に分け入ってみましょう。
私達は 近年<時>を見て確認することが多くなりました。
あるローカル線の際に住む友人は、引っ越してきた当初は雑音だった列車の通過音が今は時計代わりになっている、と語っていましたが、時を表す音は減ってきているようです。
ラジオの時報も一昔ほど有用ではないかもしれません。
見る<時>が増えましたが、公園や床屋、街なかにあった「公衆時計」は激減しています。
時の風景にも時代を感じることができます。

公衆時計

<時の時代風景>
横浜はいち早く開港によって居留地が登場しました。隣接して日本人の街が作られ、諸外国との取引や、港に降り立つ人々向けのビジネスが<おそらく>見様見真似、試行錯誤の中で始まります。
居留地で日本人が遭遇した数々のカルチャーギャップの中で、
「時」に関してはどうだったのだろう?と簡単ですが資料を探ってみました。
まず暦の違いが日本人と外国人との間で早急に確認し合う必要がありました。商売に暦は必須条件です。荷物の調達から流通、納品等のカレンダーは当然必要になってきます。
江戸の暦は明治5年12月2日まで使われ(西暦1872年12月31日)次の日が明治6年1月1日((西暦1873年1月1日)と揃いますが、旧暦としては一ヶ月消えてしまったことになります。
一説によれば、国家予算逼迫で、年度予算を一ヶ月切り詰める効果も狙っていたとか。
幕末の文書ではしっかり旧暦西暦を併記したものもあり、しっかり併用していたことが伺えます。
暦同様、日常の時間も江戸と近代では異なりました。
落語の<時そば>にも登場する江戸の時間は、欧米とは異なり、夜明けから日没までを均等割(単位は一刻)していくという一見面倒な方法(不定時法)を使っていました。
昼の長い夏と、夜の長い冬とでは<一刻(いっとき)>が異なったのです。
でも農業や外の仕事としては実に理にかなっていて、明るい内に働くという大原則で生活リズムが決まっていました。
ところが欧米各国は太陽暦の基で一日を均等割する<定時法>を用いていましたので、開港場となった横浜はおそらくいち早くこの時間を取り入れたに違いありません。
幕末から日本を訪れた外国人の日誌などにも詳細な欧米時間で記載されていて、時間のギャップに関して記述しているものは私が調べた限りですが、見当たりませんでした。
面会時間などはどうやって調整したのか?詳しく記述された資料が欲しいです。

今でこそ、スマホや腕時計で、またテレビやラジオで時刻を手軽に知ることができます。
19世紀、時計はとても高級で、一般生活では使うことが難しかった。
では人々はどうして時刻を知ったのか?
日本では、江戸期から時の鐘といって、城、役所、寺などを使って鐘を鳴らすことで一般生活の時を知らせていました。この習慣は、開港後も明治時代でも使われていました。
明治に始まった廃仏毀釈の嵐の中で、寺は消えたが鐘だけ残ったというお寺の話も全国に数多く残っています。

街の人々は、新しい時刻制度となっても 耳で聞いてそれなりに慣れ、対応していったのではないでしょうか。

明治に入って、国の制度が大きく変わり、社会生活も変化を余儀なくされていきました。
明治時代の「時の風景」は、
 見る時間と聞く時間に変化が起こります。
 横浜を中心に「時の風景」を探してみました。

□時の鐘
 仕組みは江戸期と同じで 和梵鐘を撞くことで音を出し時を知らせました。
 音は広域に時を知らせることができますから、開港場には町会所や野毛に報時用の鐘が用意されました。恐らく、山手に多かった教会群からもチャペルの鐘が定時に聞こえたのではないでしょうか。
 開港記念会館の時の鐘だった和梵鐘に関しては関連ブログ(下記リンク)でも触れていますが、調査レポートとしてもまとめているところです。

□時計台
 明治に入って新しく生活に登場した<時間>です。<塔>に時計を設置した洋館が建つようになります。横浜ではブリジエンス設計の町会所にスイス製の時計が設置されました。
その後、弁天通りには「河北時計店」が自社ビルに時計塔を設置し地域のランドマークとなります。

□報時球
 時刻を知らせる<球>が横浜にはありました。これは国内で横浜と神戸だけに設置され、見て確認できる時刻でした。
 横浜では、海岸通りの<仏蘭西波止場>の位置にあり、港湾内の船に独特の方法で時刻を知らせました。港付近ではこの報時球の塔がひときわ目立つランドマークとなっていました。

関連ブログ
「時」の風景(更新)

【謎解き横浜】弁慶の釣り鐘は何処に?

12月 26

汽車道は三線あった

汽車道は近年人気のプロムナードで、土日休日は行列のように通行人が繋がる。桜木町駅前から新港埠頭を繋ぐ約500mの遊歩道で、感覚的には「赤レンガ倉庫」がゴールのように感じられるが、手間で終点となる。
大正期に完成した新港埠頭倉庫群(赤レンガ倉庫他)と当時の横浜駅を繋ぐために整備された鉄道路線で
当初の計画書には「横浜鉄道海陸連絡線」(以下連絡線)とある。この「連絡線」、現在の横浜線と深い関係にあり多くのエピソードを持っているが、詳しくは別の機会にしたい。
ネット検索でもかなり面白い説明に出会える。例えば京急(京浜電気鉄道)の高架化顛末
この連絡線「汽車道はもともと「ウィンナープロムナード」と呼ばれていた(wikipedia)」
 とあるが俗称で正式名称では無かったと思う(資料無し)。税関線と呼ばれていたこともある。 
連絡線は複線仕様で新港埠頭に入って複数に分岐していた。その中で、主に日本郵船が使用していた4号近くに現在もプラットホーム跡が残っている。
と思っていたが、資料を漁っていたら、少し状況が異なっていたようなので、この点だけここに紹介しておく。連絡線は汽車道と呼ばれるように戦前は貨物を中心に、客船の乗客も<汽車>で運搬していた。
さて、この汽車道に線路は何本あったのだろう?単線だったのか複線だったのか?現在は単線がモニュメントとして残されているが、資料から私は複線だったとしていたが、実は一部<三線>だったようだ。

上記写真地図は主に戦後接収時代の頃で、新港埠頭に近いところの島状になった所まで単線らしきものが伸びているのが解る。ここには上屋らしきものがあったことが伺える。近辺に多くの<艀>が係留されている。なんらかの作業場であったのだろう。
別の証拠は無いか?探してみた。昭和9年の新港埠頭図が見つかった。

昭和九年新港埠頭入口

昭和九年の横浜税関資料では 確かに三線となっている。
では 途中まで伸びている単線の役割は何だったのだろう。荷物の積み降ろしのための護岸(桟橋)用だったのだろうか?


汽車道略年表
1915年(大正4年)東横浜駅開設。
1920年(大正9年)7月23日 日本郵船 香取丸 出航時にボートトレインとして旅客をはじめる。 東京からの初の乗り入れとなる。主に北太平洋航路の客船が現在の海保、赤レンガ倉庫に面する<3号・4号ふ頭>を利用。(〜昭和17年3月まで)
1945年(昭和20年)港湾部新港埠頭接収
 戦後日本郵船は氷川丸以後客船部門から撤退し客船飛鳥で復活。
1950年(昭和25年)〜1953年(昭和28年)
 朝鮮戦争用に旅客輸送として使用
1952年(昭和27年)に返還。
1957年(昭和32年)8月 戦後唯一残った貨客船「氷川丸」
 出港時にボートトレイン再開。
1961年(昭和36年)氷川丸の最終航海時まで旅客運送が行われていた。
この時期、港湾経済は「船混み」状態をどう解決するかが最大の懸案事項。
政府方針「国民所得倍増計画」の下に横浜港第一次港湾整備五か年計画(〜昭和40年)によりふ頭整備計画が実施される。
※氷川丸は現在の係留地、大さん橋から出航ではなく、新港埠頭
1962年(昭和37年)3月 正式廃止
1964年(昭和39年)5月 根岸線磯子まで延伸。6月高島線全通。
1965年(昭和40年)山下ふ頭輸送力増強を目指し新港埠頭から山下公園を抜け山下ふ頭に繋がる「臨港鉄道」が景観論争を経て建設。
※港湾物流の変化(コンテナ時代へ)港湾経済の転換点その1
1973年(昭和48年)オイルショック 港湾経済の転換点その2
1986年(昭和61年)10月汽車道供用廃止
1997年(平成9年)に整備され「汽車道」となる。
JR桜木町駅前から新港埠頭を結ぶ約500mの区間を指す。

4月 13

【大岡川運河物語】埋地七ケ町その1

運河時代の地図をベースに中村川と日ノ出川、吉田川と派大岡川に囲まれた一帯を最も占める町内をまとめて「埋地七ケ町」と呼んでいます。
字のごとく、埋め立てられ宅地となった当時の松影町、寿町、扇町、翁町、不老町、万代町、蓬來町を指します。

埋地七ケ町付近

現在はさらに広く長者町に沿った山吹町・富士見町・山田町・三吉町・干歳町の各町までを含めたエリアを「埋地地区連合町内会」と呼んでいます。
中でも元々の「埋地七ケ町」一帯は近年<また大きく>変わろうとしています。
<また大きく>と表現したのは
この一帯が江戸時代から現在まで関内外の中でも特に激しい変化の歴史を歩んできたからです。
この激変「埋地七ケ町」の歴史を紐解くには
まず江戸時代の吉田新田開発時代から始めることにしましょう。

<入海から新田へ>
江戸時代の初め、この地域一帯は釣り鐘型(ワタシ的には烏帽子)をした入り海でした。長い戦国時代が終わり、戦う農民は帰農したり都市部(街道筋)に居を構えることで非生産人口が増え始め、食糧が不足気味になってきました。また、戦わない領主(大名)を米経済にしたこともあり幕府や全国の藩は耕地を増やす政策をとり、
当初は官製新田でしたが間に合わず、民間による新田開発も奨励することになります。
ちょうどこの頃、
摂津出身で江戸で木・石材商を営み、小さな新田開発も経験した吉田勘兵衛は、当時の<苗字帯刀を許される目標値>1,000石規模の新田開発に挑みます。
目標値の千石の米収量を得るには多大な資本力も必要ですが、技術・人手・周囲の村民の同意も必要となってきます。
恐らく吉田勘兵衛は関東一円を歩き、候補地を探し、大岡川河口に広がる深い入海に注目したのでしょう。
地理的には、東海道街道筋に沿って、帷子川の入り江、袖ヶ浦が広がっていましたのでここを開発する方が、保土ヶ谷宿や神奈川宿に近いため魅力的だったはずです。
ところが、勘兵衛はもう一つ南に流れる大岡川河口を選び、これが結果的に関内外という歴史的空間を生み出したのです。
この地の開発を決断した勘兵衛は資金調達と人材集めに動きました。
<新田時代>
吉田新田は、干拓事業によって誕生した水田地です。
稲作のための水田を造成するのが「干拓」で、灌漑用水の設計が鍵となります。
新田ブームの江戸前期、全国で干拓が行われますが、取水が成功の鍵でした。吉田新田のような河口部の海に面した水域を水田にするのは技術的にかなり困難が伴いました。理由は水田の最大の阻害要因が<塩分>だったからです。
吉田新田着工前、河口部分(現在の蒔田公園)や沿岸の太田村は塩田でした。干拓するには、塩を抜きながら水田を維持しなければなりません。
塩抜きしながら水田を維持できる!と勘兵衛は確信し、新田事業を決意します。
塩抜き等の技術的裏付けは誰が伝授したのか定かではありませんが、先達の成功例をしっかり活用し、塩水地域の水田干拓に挑みました。
事業は開始早々、水害で頓挫します。捲土重来、再トライし約十年の月日をかけて寛文7年完成(幕府認定)します。新田の幕府認定には時間がかかりますから実質土木事業は寛文5年ごろにはほぼ完了していたと推測できます。
それから約200年の間、完成した吉田新田によって、様々な副次効果が生まれます。
まず近隣の村々が繋がっていきます。深い入海時代では舟で往来していた対岸同士が徒歩で行き来できるようになります。特に「野毛」と「石川」の集落が<八丁畷>堤を使って往来が生まれたことは横浜村の発展にも寄与します。

この200年の新田時代を支えたのが<塩抜き>「南一つ目沼」と呼ばれた場所です。現在の「埋地七ケ町」の原点となる場所で、この池無くして吉田新田経営は成立しません。
地図上や文献では<悪水>沼とされているものもありますが、水田の塩抜きと施肥の残りを流しだす役割を担った、水田維持には欠かせない重要な沼でした。

南一ツ目沼

<開港と宅地化>
一般的な横浜史ではこの新田時代を簡略化し、吉田新田が完成、次に「ペリー来航」となってしまいます。この間の200年は都市横浜誕生の礎となり実り多き時間でもありました。
二世紀に渡る時間は、途中宝永の富士山噴火や上流からの流土によって次第に水田維持が困難になり幕末には次第に畑地化していきます。
そんな環境が変化する中、「開国」という一大事件がこの地に起こることになった訳です。
開港直前に、太田屋新田開発事業が完成(といっても半分沼地)し現在の関内エリアが出来上がっていたことも関内=開港場誕生に好条件でした。

古来から横浜村として漁業と嘴状の陸地での農業で生業を営んできた村民は、開港の舞台となり、外国人の街を作るということで転地、転居を命じられます。これが元村のちの元町となっていきます。
堀川を開削し出島状態となった関内だけでは日に日に拡大する貿易を支えることは困難で、当然住宅地が運河を越えた関外に拡大して行くことになります。
さらに時代は明治になり、外国からは居留地を含む開港場一帯の抜本的整備が求められます。そこで明治政府(神奈川県)は、対策の一つとして大岡川の分水路を計画します。
堀割川計画です。
根岸湾と横浜港を運河でバイパスとして繋ぐことで、小型船では厳しかった本牧沖往来を加速化する目的として堀割川運河を目論みます。そのためには、山手からつながる稲荷山、弥八ケ谷戸の丘陵を切り開くという当時はかなり無理のある事業だったため、工事に応札する事業者が現れませんでした。
結果、吉田新田を200年守ってきた「吉田家」に半ば強制のように事業命令が下ります。
この堀割川開削物語は難工事で事業史としてまた悲劇の小説にも残されています。
堀割川開削の狙いは運河開削以外にもう一つあり、開削土砂を使って関内居留地に隣接した「南一ツ目沼」を埋立てて宅地化することでした。
1870年(明治3年)に始まり埋立事業が完成したのは1873年(明治6年)のことです。
これによって、
「埋地七ケ町」と「日ノ出川」が誕生することになります。
「南一ツ目沼」によって吉田新田が維持され、吉田新田によって関内の拡大が可能となり、有数の貿易港へと発展していきます。
→埋地七ケ町その2へ

関連ブログ
【大岡川運河物語】日ノ出川運河

2月 23

【横浜人物録】秋元不死男2

「海水浴とマジシャン」と題して俳人秋元不死男作品から横浜のある風景を読み解いていきます。
前回では、不動坂付近で行われていた四の日縁日の風景が描かれている句を紹介しました。
大正初期の亀の橋付近の風景です。
今回は、1938年(昭和13年)秋元が長く暮らした根岸海岸近くの本牧海岸の様子を詠んだ句から一枚の絵葉書を連想しました。

「幕のひま奇術をとめが海にゐる」

この句は解説が無いと理解に苦しむ情景かもしれません。
<幕のあいだに奇術乙女が海にいました>といった意味で、
自解には
「海の家は景気を盛りあげるために芸人を呼んで海水浴客のご機嫌をうかがう。このときも奇術の一行がきて、あれこれと奇術をやってみせた。一行のなかに、お手玉をやる娘がいた。娘は幕の合間をみて海に入った。水着になった娘は、白粉をなまなましく胸まで塗っていた。」
これを読んで、なるほどと思いました。

戦前昭和期に流行ったレジャーが海水浴でした。湯治的な役割から海遊戯的なものに変化していきます。横浜の海岸線にも鶴見・本牧・磯子・金沢といった海水浴場は鉄道会社の重要な乗客増員装置でもありました。
戦前の観光絵葉書の分野で「海水浴」は非常に多く発行されています。

題名は「大磯海岸」発行時期は不明ですが、大正期と思われます。
海水浴の情景に、不思議な四名の家族らしい人物が写っています。海水浴客の一グループとも捉えることができますが、違和感があり気になっていました。
読み解きグループの集まりで、旅芸人ではないかという指摘がありましたが、確証がなくそのままにしておきました。
この俳句解説に”海の家は景気を盛りあげるために芸人を呼んで”とあったのは、当時の海水浴場の日常であったのではないか、と思い探してみると幾つか海水浴場に<演芸場>が併設されていたという資料もあったところから
 この大磯海岸の風景は、海水浴場の旅芸人達かもしれないという推理が高まってきまっした。

「鎌倉名勝 由比ヶ浜海水浴場」Bathing place of Yuigahama,Kamakura.
この風景は、昭和初期の由比ヶ浜海水浴場と推測できます。森永・明治の製菓会社の広告看板、中央奥には「南方飛行」の大きな看板が確認できます。この「南方飛行」が1937年(昭和12年)公開のフランス映画だとすると、この風景の撮影時期も絞り込むことができそうです。
こういった人気海水浴場はアミューズメントパークの位置づけで、様々な出店、演芸小屋もあったようです。

最後に秋元作品に戻ります。まだまだ紹介したい横浜の情景を詠んだ句が多くありますが、ネットでもかなり紹介されていますので参照してください。

秋元不死男句碑(大桟橋客船ターミナル)

◯北欧の船腹垂るる冬鴎
これは元々大桟橋客船ターミナルの待合室に1971年(昭和46年)4月設置されたものですが、現在は建替え時に移動しターミナル入り口の右側壁面の手前に設置されています。
ちょうど、この年11月には秋元不死男が横浜文化賞を受賞します。
Whirl winter-seagulls yonder
While rests a huge Nordic liner
With her impending wall of hull,at anchor.

英訳は清水信衛氏

受賞の3年前の1968年(昭和43年)には句集『万座』にて第2回蛇笏賞を受賞し海を離れて港北区下田町に転居します。終焉の地となったのは自宅からほど近い丘の上の川崎井田病院でした。
(おわり)
【横浜人物録】秋元不死男1

2月 23

【横浜人物録】秋元不死男1

秋元不死男、彼の名を知る人は限られていると思います。戦前から戦後にかけて活躍していた俳人です。人生の大半を横浜で過ごし、横浜の情景を詠んだ句も多く残されています。
彼に関しては、以前簡単なブログを書いています。
No.35 2月4日 秋元不死男逮捕、山手警察に勾留
http://tadkawakita.blogspot.jp/2012/02/24.html

現在1,000話を越えたこのブログの初期に書いたものです。毎日一話を一年間続けてみようと決め、35日目に選んだのが「秋元不死男逮捕、山手警察に勾留」の記事でした。
この頃、彼は東 京三(ひがし きょうぞう)と名乗っていました。不死男という勇ましい名に変えたのは戦後のことでした。秋元にとって戦場には行きませんでしたが、生死の境を乗り越えた安堵感が不死男の名に繋がったのかもしれません。

「自選自解秋元不死男句集」より

秋元不死男は、1901年(明治34年)11月3日に横浜市中区元町生まれました。父茂三郎は漆器輸出商を営み、長男は不死男が生まれた日に病没したと記録されています。このことも戦後の不死男の名に繋がっていると思います。
他に姉が一人、弟・妹が二人ずついました。ところが、不死男13歳のときに父が病気で亡くなります。おそらく生活はそれ以前から厳しくなっていたと想像できます。子どもたちは姉が奉公、末弟・末妹はそれぞれ他家に貰われ、秋元家は母と三人の子供が残りました。
以後母 寿は<和裁の賃仕事>や<夜店の行商>をして家計を支えたことが彼の作品に残されています。

秋元不死男句集カバー
『自選自解秋元不死男句集』には彼が生きた幼き時代と社会人時代の横浜風景が細かく詠まれていて思わず引き込まれてしまいました。横浜風景論としても素晴らしい資料です。

「横浜の石川町にあった地蔵の縁日は四の日。運河を背に夜店を張ると、舫っている艀からポン、ポンと鈍い音を立てて夜の時計が刻を告げて鳴り出す。」と自解した句が
「夜店寒く艀の時計河に鳴る」です。
この頃、秋元一家は元町を離れ吉浜町に移り、亀の橋を渡って中村川岸で屋台を出したのでしょう。近くには派大岡川、中村川の運河が流れ、多くの艀が川面を占領していた時代です。大正初期、石川町付近は横浜有数の繁華街でした。
石川町で発行されていた明治大学中川ゼミ編集の「石川町の史実」には
「当時の石川町3丁目(現在の2丁目)の河岸から地蔵坂の途中の蓮光寺あたりまでで賑やかな縁日の催しが行われた。大勢の人が集まり坂下の鶴屋呉服店周辺※①ではゴッタ返しであった。また夏の縁日には、金魚屋、風鈴屋、綿菓子屋、新粉細工屋、玩具店、べっこう菓子屋あるいはカルメ焼屋などが軒を連ねた。今ではほとんどみられなくなったアセチレンガス灯の火が、華やかに闇に浮いて見えた。」と町のかつての様子を伝えています。
この情景を不死男も詠っています。

2012年発行の石川町広報紙


※①鶴屋呉服店は当時横浜有数の呉服店で、その後伊勢佐木に移り東京松屋と合併し松屋呉服店、現在の銀座MATSUYAとなります。
『自選自解秋元不死男句集』の冒頭の句が
「寒や母地のアセチレン風に欷き」(さむやははちのあせちれんかぜになき)
「短日に早くもアセチレン灯をともすと、ひゅう、ひゅうと青い焔が鳴り出す。すすり泣くようなその音をきいていると寒さが骨を噛じりにくる。」と自解しています。

彼は震災の時に半年神戸に暮らし、横浜唐沢に戻りその後、結婚で一時期東京に居を移しますが、息子近史が喘息になり環境の良い根岸海岸に移りこの地に二十年近く暮らします。
この転地療養が良かったようで、長男近史は治癒し健康になったそうです。
秋元近史は明治大学を卒業後しばらくして草創期の日本テレビに入社し『シャボン玉ホリデー』などの演出を手がけたテレビマンとして活躍します。
ところが、父不死男の名とは逆に、1977年(昭和52年)父が病死後の1982年(昭和57年)に自殺を選んでしまいます。享年49歳でした。
(つづく)
参考資料:
『俳人・秋元不死男』庄中健吉 永田書房 昭和57年
『自選自解秋元不死男句集』秋元不死男 白凰社 昭和47年

10月 19

【絵葉書の風景】横濱山手英国病院

<ちょっと具合悪そう>
「横濱山手英国病院
 English Hospital Bluff Yokohama.」

撮影場所:横浜市中区山手
撮影時期:明治末期か?
横濱絵葉書コレクターの世界では人気の一枚らしい。
確認できる最古?クラスのブラフ積み擁壁とガス灯が写っているからだそうです。
偶然手に入れたものですが、この絵葉書の風景、拡大してみると人物が尋常じゃななそう。
まず絵解きをする前に
横濱山手英国病院(イギリス海軍病院)は、横浜山手居留地(ブラフ)161番に1868年頃完成しました。
横浜が開港しました!
外国人が来ました!って話なんですが、当時の状況はそんなに甘いもんやおまへん。
当時の二大強国<英・仏>は居留地の自国民を守るために、軍隊を常駐させます。現在のふらんす山と港のみえる丘公園あたりが英仏の駐屯地でした。
そこに、様々な自国民のための施設を建設します。これは戦後の進駐軍と似ています。
(ここは病院前)
一台の人力車、二人の和服の女性。
よく見ると、女性の一人は”具合悪そう”に見えませんか?
人力車の車夫も心配そうに二人を眺めています。
付き添いの女性は<傘>を持っています。
雨か雪でも降りそうな空模様、
背景の<桜花>から季節は春先でしょうか?
勝手に物語を想像すると
急に具合が悪くなった日本人女性が、「そうだ丘の上にエゲレス病院がある」というわけで付き添いを伴って人力車で駆けつけたところ
<断られた>
<利用するかどうか逡巡><重い病気を告げられた>
どれででも良いのですが この女性は確かに尋常ではなさそうです。
撮影者はこの女性と人力車を”意図”して絵にしたのか?
いろいろ想像力を掻き立てる風景です。
(ブラフ積み)
直方体の石材を縦横交互に並べ、端面が1つおきに出るように積む技法を、当時の山手近郊の<ブラフ(崖)>に因んで「ブラフ積み」と後から呼んだものです。
煉瓦積みの技法に「フランドル積み」または「フランス積み」と呼ばれるものがあります。この手法が「ブラフ積み」として擁壁に応用された限定的なもので貴重な近代遺産です。
少し長いですが
「横浜には数多くの歴史的建造物、遺構があることは周知の事実である。特に山手などは外国人居留地があった時代が色濃く残っている。「ブラフ積」という洋風石垣も、その中のひとつである。「ブラフ積」とは、1867年に第一回山手地所の競売によって外国人の住宅地として開放され、細かく入り込んだ斜面に宅地が造成された過程で生じた多くの崖の土留めのことを言う。千葉の房州石を棒状の直方体に加工し、長手面(横)と小口面(縦)を交互に並べたもので、従来の「野面積」とは異なる積み方は当時としては大変画期的であった。もともと「ブラフ(Bruff)」とは、海岸や谷間の「絶壁・断崖」を意味し、当時本牧や山手に多く見られた切り立った崖を「ブラフ」と呼んでいた(幕末、日本来航時に横浜周辺を測量したペリーは、本牧十二天《現在の本牧市民公園》のオレンジ色の崖をその色から『マンダリン・ブラフ』と呼んでいた)ことから、居留地によって生まれた洋風技術と言える。また、縦に積むことで、崖に深く入り込むようになっているため、耐震性にも優れ、関東大震災でほとんど崩壊せず現存している場所が多いことを考えてもそれが実証済みだと言えよう。(横浜経済新聞2007-10-03)」
「横濱山手英国病院」は1867年以降山手地区の洋館群が競って建設される中、1868年に完成したものです。
参考に、山手を下り元町にあった薬師堂の雁木と擁壁も紹介しておきましょう。
一枚の絵葉書、いろいろなところに注目すると面白いですね。
9月 16

【大岡川の橋】吉浜橋付近

橫濱絵葉書吉浜橋大正初期ごろの風景と思われる。派大岡川吉浜橋近くで釣りを楽しむ子どもたち。
私の関心は右の釣りをする子どもたちより少し大人の人物二名。
荷物を背負う男性と、性別は不確かだが恐らく女性と思われる人物が写り込んでいる。そしてその人物は何か手持ちの荷物でカメラ目線では顔を隠しているようにも見える。日差しを避けているのか、写りたくないのか。
子どもたちに視点を移すと、5人の子どもたちの内、釣りは2名。
帽子を被る者2名。手彩色のため服の色彩はヒントにならない。
一番左の子供は 履いていた下駄を脱いでいる。
 明治に始まった写真絵葉書の構図は大正・昭和に入るとカメラマンの意思、センスが感じられるようになる。人物も敢えて<配し>構成する意図があるようだ。 吉浜橋
1898年(明治31年) 鉄の橋に架替 設計は野口嘉茂
派大岡川南東に位置し、橫濱製鉄所※への連絡橋の役割を担った。
仕様:橋長27間2分(約49.1m) 橋幅4間2分(約7.3m) 横浜製鉄所
1865年(慶応元年八月二四日)1865年10月13日 竣工
4月 20

【一枚の絵葉書から】野毛山の桜

昔の絵葉書に写し出されている風景から時々意外なことがわかることがあります。
ここに紹介する絵葉書は大正初期に写されたものだろうなと推理していますが、
そのほかのことは、桜が咲いているので春四月ごろかな? 程度で
手彩色の<桜>色にそのままスルーしてしまいました。
もう少し詳細に見てみることにします。
左下に映る天秤棒を担ぐ男性の荷物はなんだろう?と拡大してみると、
向かって左側の籠には<筍>が積まれ、
右側には青物野菜と芋のような塊の山を確認することができました。
桜と筍といえば
「桜前線」を追うこと約1週間から10日後に、南鹿児島あたりから始まり、九州・四国・近畿・関東、そして例年は四月末には北限の東北南部へと北上。
孟宗のたけのこの採り頃というか食べ頃まさに「旬」が北上します。「たけのこ前線」というらしいですが、竹篇に旬が<たけのこ>だから、昔も花より食い気の方が優先したのかなと余分なことも考えてしまいます。
野毛山あたりは 豪商の別邸が立ち並んでいましたので、天秤棒の彼はこの長い坂を登ってでも売れたのでしょう。
次に、
彼の後ろには、子守をする<少女>の姿が数人見えます。
児童労働としての子守が日常的に存在しました。戦前のそれも大正以前の風景には、この<子守するこども>が良く写っています。
子守が労働であった時代です。
現代の<ベビーシッター>とは異なる、10歳前後の幼い少女が労働として<子供を子守すること>が江戸時代から普通に行われてきた習慣が明治・大正期まで盛んだったようです。
さて 天秤棒の右側には何が積まれていたのでしょうか?知りたいところです。 「子守という仕事」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9207
2月 28

【横浜ミニ備忘録】「密航0ライン」は大岡川だ

些細なテーマだが スルーしたくない横浜ネタを掘り出す。
昔の横浜を舞台にした映画やテレビドラマを時々見直しているが
時折 <嘘つけ!!>という情報に出会うので
【横浜備忘録】
■映画「密航0ライン」
製作年:1960
公開年月日:1960年(昭和35年)6月25日
監督:鈴木清順
構成:棚田吾郎 伊賀逸兵
脚本「横山保朗
撮影:峰重義
キャスト
 香取耕一=長門裕之
 仁科達男=小高雄二
 香取寿美子=清水まゆみ
 佐伯玲子=中原早苗
 李鮮信=小沢昭一
 島村健介=木浦佑三
 千葉伸次=高品格
  他
https://www.nikkatsu.com/movie/20457.html
非情に生きる社会部記者とその好敵手が、強大な麻薬ルートに特ダネを求めて潜入するスリルとスピードに富んだアクション篇。密航0ラインジャケット ここに示されている日活のオフィシャル情報に一言
 <嘘つけ!!
日活オフィシャルでは
■ロケ地
【東京都】文京区(後楽園)/葛飾区(東京拘置所)/▲(隅田川)/中央区(浜離宮)/千代田区(東京駅八重洲口)
【神奈川県】鎌倉市 
【兵庫県】神戸市(神戸南京町) 
これは無いだろう!
 冒頭を含め、そこに映されているのは明らかに横浜市を流れる「大岡川」だ!
「オフィシャルページ」以外の 映画評論やロケ地情報では<概ね>横浜となっているが
製作者情報に なぜ 横浜を記載していないのか?確かに麻薬の取締現場としてど真ん中の「黄金町」を選んだので遠慮・配慮したのかどうか判らない。
戦後でモノクロ、大岡川筋を走る京急が映るシーンとしては最高のシチュエーション、映像資料としても正確な情報を望む。
202102 時点
12月 19

【大岡川運河物語】水運の町、石川町

大岡川運河群は1970年代まで日常の風景だったが、多くが消えた。

大岡川運河群図昭和3年

だが、いわゆる吉田新田域が運河の街だった記憶はまだ残されている。
その記憶・残照をたどりながら運河にまつわる物語を書き残しておく。

■中村川運河
JR根岸線「石川町駅」が開通したのは1964年(昭和39年)5月19日のことだった。この年は東京オリンピックが日本で初めて開催された年だった。戦後日本が特に首都圏が工事の粉塵に紛れ、工事車が土砂を跳ね上げていた時代である。
桜木町は旧橫濱駅時代に開業した歴史ある駅にも関わらず、東海道筋から離れていたためおざなりにされていた。地元は路線の延伸を戦前から願っていたが中々実現しなかった。
60年代に入り延伸工事が始まった。派大岡川の上に橋脚が建ち、関内駅を川の上に開設。そのまま直進し山手丘陵の土手っ腹にトンネルを開け「石川町駅」が開設した。
駅名の石川町は石川村に由来し古くからあるが「石川」の名はしばらく消えていた。石川村は海岸に面した漁業、農業、林業を営む小村だったが古くからその名を見ることができる。

IR石川町駅

<石川>
石川の名で有名なのは「石川県」。加賀の国にある手取川の古名である「石川」に由来するが、この「石川町」は武蔵国久良岐郡石川村に因んでいる。何故「石川」となったのか?詳細を追いかけていないが、湧き水が多く岩(石)の間から出たからではと想像している。
漁村として栄えるためには、真水が必須だ。海水では人は暮らしていけない。
石川町近辺を調べてみると、湧水地が数多く見つかる。開港以降は横浜港への船舶給水地として事業も起こっている。
このように古くからあった岩の間の湧水地が<水の豊富な村>として石川の名となったのではないだろうか。 <吉田新田>
石川村は江戸中期に大きく変わる。江戸の材木商だった吉田勘兵衛が幕府の新田奨励施策により、大岡川河口の深い入海の干拓事業に着手。1667年(寛文7年)に11年かけた吉田新田が完成。吉田新田の完成で、石川村は本牧や横浜村とかつて対岸だった<戸部村、野毛村>と密接になった。
石川村は漁村ではなくなる。その後、石川村の経営がどのように行われたのか不勉強だが、新田の幹線道となった「八丁畷」現在の長者町通りの完成によって、交通往来が大きく変わったことは確かだ。
現在は、車橋を渡ると打越の切通しを抜け山元町、根岸へとつながるが、近世、近代は車橋を渡ると石川中村になり一旦下流に向かい地蔵坂が「本牧」と「横浜村」に出る分岐路だった。

干拓前深い入海

<地蔵坂>
地形図で石川村付近を俯瞰すると、地蔵坂が本牧へと続く要路であることが分かる。近世に交通量が増え、道を拡張する工事の際に土の中から地蔵が掘り出され坂の名が地蔵坂となったと伝わっている。現在は関東大震災でこの地蔵尊も崩れてしまったが、戦後地元の有志によって亀の橋袂に新たに地蔵尊を建立された。この地蔵尊は入海に身投げした女人伝説による<濡れ地蔵>の異名もあるが、伝説となるこの地の役割を示した結果だろう。

地蔵坂地形図

<水運の町>
石川町がかつて水運の要の地であったと聞くと驚く人が大半かもしれない。
石川町に関する歴史資料を調べ始めると、この街の川岸がかつて水運の要であった片鱗を感じとることができる。
ここに示す西ノ橋から中村川上流方向の風景、一見亀ノ橋と判断しがちだが西ノ橋左岸際から亀ノ橋を見ることはできない。ではこの橋は?ということになる。実はこの橋の存在から様々な謎解きが生まれ出た。
「謎の橋」戦後の資料では「赤橋」と呼ばれていたことが判る。

明治から昭和にかけ、この位置に架けられては消えた「橋」の存在を確認することができる。中村川対岸吉浜町には幕末から明治期には「横濱製鉄所」があり、大正期からは戦後まで掖済会病院が開業していた(現在は山田町)。
この謎の橋は派大岡川のある運河時代だからこそ利用度が高かった。
絵葉書を拡大するとここに、川岸の荷捌き場が写っている。

中区史に
「中村川の川沿い石川町から中村町方面にかけては、港や埋地方面に働く人々が多く居住地とした、石川町一帯は人口が増え町が大きくなり、そこには規模は小さいが、多種類の日常生活を売る商売が発生していった。このことは外国人を相手として商売する元町とは対照的であった。すでに石川は明治六年には街並みがととのった所として、石川町と命名されていたが、こうして町が充実していった」
「中村川や堀川などの川は、港から直接内陸に物資を運ぶことができ、埋地の問屋筋へ、さらには八幡橋方面へと」 石川町と千葉県富津市の港と定期航路があった昭和まで記録も残っている。

<亀の橋 下流に船着き場を確認できる>
かつてこの船に乗って多くの女性行商が行李を担ぎ石川町に降り立った。中にはこの地に生活拠点を求めた方もいる。石川町と房総千葉とのつながりも深いものがある。
このように、石川町は運河を巡り関内外から房総千葉まで水運というキーワードのエピソードが誕生した町だ。
近い将来、この石川町に動力船が使える桟橋ができると聞く。
江戸期から続いた水運の町の復活となるのか?変わりゆく石川町に注目したい。