5月 30

No.448 IZUMI Ça va bien!

水辺の整備がコンクリート擁壁の護岸工事から、
親水に変わりはじめて何年たつでしょうか?
最近の水辺は、魅力的になってきました。
今日は
全長9.42kmの短く小さな河川ですが、
「和泉川」流域の一部を紹介しましょう。

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和泉川(いずみがわ)は、瀬谷市民の森を源流として境川と平行しつつ南下し戸塚区俣野町で本流に合流しています。
「境川」は字の通り、横浜市と隣接する大和市、藤沢市の境を流れ、「和泉川」はその支流として瀬谷区、泉区、戸塚区を南北に流れています。

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この和泉川流域は、数多くある鎌倉街道の中でも“上の道”と呼ばれる古道が通っています。

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凡そのルートです。赤が「上の道」緑が「中の道」青が「下の道」

「上の道」は鎌倉時代以降“相摸のもののふ”達がこの道を駆け抜けましたが、江戸時代以降は街道の役目を終え、豊かな近郊農業の地でした。

(左馬神社)
和泉川のちょうど中流域に固まって点在している不思議な神社群があります。
横浜市
①左馬社(瀬谷区橋戸3ー20ー1)
④飯田神社(泉区上飯田町2517)
⑤佐婆神社(泉区和泉町4811)
⑥左馬神社(泉区和泉町3253 )
⑧鯖神社(泉区下飯田町1389 )
⑩鯖神社(泉区和泉町705)
大和市
②左馬神社(上和田町)
③左馬神社(下和田町)
藤沢市
⑨鯖神社(湘南台)
⑦七ツ木神社(高倉)
⑪左馬神社(西俣野)
⑫佐波神社(石川)

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「左馬」「佐婆」「佐波」「鯖」
“さま”または“さば”と呼ばれています。
上記のリストは、飯田神社のようにかつて「さば神社」だったものが近隣の地名に変わったものも含まれています。
現在記録上判っている「さば神社」は十二社といわれています。他にもあったかどうかは不明です。

■特徴
①和泉川中流域の一角に集中して点在していること
 ※川に沿う点では杉山神社群とも似ています。
②鎌倉古道に沿っていること
 ※創建の時期は安土桃山時代末期から江戸時代草創期といわれています
③「七さばまいり」という風習が残っていること
 ※一日で七つの左馬神社をお参りすることで疱瘡、麻疹(はしか)、百日咳などの悪病除けになるという風習。
④源義朝(九社)または源満仲(三社)を祭神としていること
などが挙げられます。
⑤「境川」を含め、この一帯は水害湛水域だったこと
 ※杉山神社同様に川を治める鎮守の役割も担った
  サバ神社の多くが小高い場所にあります。

 何故「さば」なのか?
 諸説あり 確定はしていませんが、
源義朝が左馬頭(さまのかみ)であった説が一番妥当にも思えますが
よくわかっていません。

(モデルコース)
相鉄線「いずみ中央駅」から
和泉川を下りながら
右岸、左岸に点在する「さば神社」を中心に散策し
相鉄線「ゆめがおか駅」か市営地下鉄「下飯田駅」ゴールがちょうど良い距離です。
サイクリング、ウォーキングに最適です。
神社や古寺のほか、公園、富士塚、染めの工房、和食レストランもあり
快適な半日コースとなるでしょう。

5月 23

No.447 いずたとばななの物語

先日船から横浜湾岸部を旅する機会がありました。
「バナナ埠頭」を観たい!という願いが達成!!!
バナナ専用船も間近でウォッチでき感激でした。

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バナナ船ごときに何を感動しているのだ!
私の魅力コンテンツ探しの原則は「ついでコンテンツ」の充実が鍵となっています。
場所、出来事、人物、歴史等々のエピソードが重なる「コンテンツ」を探したい!
「へー」で終わる“落語の考えオチ”のような読了感のあるテーマが見つかればベスト!
例えば「クロモジ」から「ヨコハマタイヤ」
No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?

「No.127 5月6日 あるガーナ人を日本に誘った横浜の発明王」

ということで、今日は
横浜にあるバナナ埠頭とその一帯の地名から「ついでコンテンツ」をひも解きます。
横浜市神奈川区出田町にバナナの輸入専用埠頭があります。

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専用岸壁、燻蒸や定温保管可能な設備を備えた専用上屋の名が
「バナナ1号・2号上屋」です。

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ネットで調べた限りですが正式に「バナナ」と命名されている上屋は
ここだけではないでしょうか。
バナナ輸入量が一番多いのは「東京港」次いで「神戸港」で
横浜港は第三位ですが 唯一「バナナ上屋」があるのは
ちょっと嬉しいです。

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 バナナ埠頭には
その他に青果上屋や青果企業の事務所があります。
※ご存知の方も多いと思いますが
 上屋(うわや)の語源はウェアハウス (Warehouse)の音を当てはめた造語です。

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バナナの陸揚げは、 専用埠頭で行われます。
何故、専用埠頭なのでしょうか?
バナナは輸入後に専用の処理作業が必要になってきます。そのためにバナナ用の専用施設の揃った「埠頭」が必要になってくるという訳です。

バナナは99%が輸入で日常の果物として欠かせない人気の果物ですが、
検疫上完熟で輸入することが殆ど禁止されています。
多くのものが 青いまま輸入され 日本国内で燻蒸・熟成され市場に出ます。
そのための加工施設が「バナナ」には必要という訳です。
輸入してから加工?
面倒なことをしている割にバナナ 廉価で販売されていますね。
価格安定の理由は
年間を通じて 輸入量が安定していることと前述の通り輸入から市場に出回るまでのシステムが確立しているからです。
何故生産量が安定しているのか?
生産地が赤道を中心にベルトのように点在しているため 季節に関係なく成長するからです。

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1903年(明治36年)4月10日が
日本が商業取引として初めて“バナナ”を輸入した日だそうです。
輸入先は台湾で基隆(キールン)港から神戸に向けて大阪南船の恒春丸が約75kgのバナナを運びました。当初は高級品だったようです。
(余談)
バナナの叩き売りは九州門司から始まったそうです。

(いずた いづた でた)
横浜港で、バナナの荷揚げを行っているのは、前述の通り
神奈川区出田町(いずたちょう)にある出田町(でたまち)ふ頭です。
え?
同じ出田町で「いずた」「でた」読み方が二つある?
正しくは「いづた」では?
この話しは 地元では有名な話しで
港湾関係者はほぼ全員「でたまちふとう」
でも神奈川区の町名は「いずたちょう」です。
「いづた」ではありません。

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よーく見ると上から修正シートを貼っている????
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昔の画像

Wikiでは
「出田町(いずたちょう)
横浜市神奈川区の町名。住居表示は未実施で、郵便番号は221-0032。
1921年(大正10年)2月4日、横浜鉄工所が千若町3丁目地先の埋立免許を取得。1923年(大正12年)4月に着工、1927年(昭和2年)8月22日に竣工した。
同8月30日、横浜鉄工所の専務取締役出田孝之の姓から、出田町と命名された。
1952年(昭和27年)に出田町埠頭の建設工事着工。
1954年(昭和29年)に2バースが完成、
1958年から1963年にかけ、新たに2バースを建設した。」
面積は0.161km2
横浜港の重要な埠頭として活躍しています。
最初は「いずた」でしたが、現場レベルで難読のため「でたまち」を多用しあとから確定した施設名といえるでしょう。
厳密にいえば この埠頭を作った「出田孝之」氏への畏敬を示すのであれば使いにくくとも「いずたちょう」とすべきだったのでは?
と私は思うのですが。
横浜には埋立に貢献した人物の名がついた地名が多くありますが、
横浜鉄工所の専務取締役出田孝之さんはメジャーになれなかったようです。

(こんな事例も)
 大桟橋(おおさんばし)は、かつて「だいさんばし」と呼ばれていた時代があります。東京オリンピックを契機に「おおさんばし」名称が徹底されたようです。
「だいさんばし」という方がいらしたら60から70歳以上間違いなし!

(埠頭豆知識)
港には埠頭(ふとう)があります。
鉄道と同様に人の乗降りの機能と
貨物の荷役(積み下ろし)が行われる機能を持っています。
埠頭の条件には 人と荷物で変わりますが
①係留施設があること。
 船舶が接岸する岸壁・物揚場のことです。
②旅客ターミナルがあること。
③取り扱う荷物の荷さばき施設・保管施設があること。
付随して
荷物用のコンテナ等を扱うガントリークレーンや
保税倉庫が設置されています。
(上屋とは?)
港湾の荷さばき用倉庫のことです。
保管をおもな目的とする一般の倉庫とは区別されます。
国や自治体の港湾管理者が管理する公共施設のほか、
民間の通運会社管理のものも多数あります。
中でも保税上屋は「倉庫内が保税地域の一種」として税関手続の便宜のため外国貨物の積卸・運搬・一時的蔵置を行う場所として税関長より許可された特別な空間です。

(神戸のバナナ埠頭)
バナナ輸入量国内第二位の神戸港にある兵庫ふ頭にある
兵庫突堤はバナナ埠頭と呼ばれています。
兵庫ふ頭
兵庫ふ頭は、第1突堤から第3突堤までからなる、市民生活に直結したバナナ等の青果物を扱うふ頭として整備されています。
2001年(平成13年)7月から地下鉄海岸線が開通しました。

5月 21

No.446 赤い橋

橋は人やモノを繋ぐ役割を担っています。
川に、道路に、海に架かる橋がありますが
ひと際目立つ
横浜にある“赤い橋”を紹介しましょう。

詳細に調べていませんが
私が見つけた範囲で“赤い橋”ベスト3紹介します。
第一位 浦舟水道橋
第二位 打越橋
第三位 称名寺平橋・反橋

この三つの赤い橋は、それぞれ特徴のある橋です。

●「浦舟水道橋」は
横浜市南区の中村川に架かる橋です。
→詳細は後半で紹介します。

●「打越橋」
道路に架かる橋です。跨道橋(こどうきょう)といいます。

迫力ではNo.1ですね

横浜市中区打越の「横浜市主要地方道80号横浜駅根岸線」に架かっています。
構造は鋼ランガー橋
「この橋は関東大震災の後、路面電車の線路敷設により造成された切通しを跨ぐため 、建造された美しいアーチ形式の鋼橋である。両側を石積擁壁と草木で覆われたV字形の空間に鮮やかな朱色のアーチが架かる景観は、横浜を代表する橋の品格をそなえ、地域のランドマークともなっている。」

●「称名寺平橋・反橋」

横浜市金沢区にある国宝のある称名寺
庭園の池に架かる橋です。

参道橋とでも表現しておきましょう。
木製の再現された単純桁橋、アーチ橋です。

(浦舟水道橋)

今回は「浦舟水道橋」について少し詳しく紹介しましょう。
「浦舟水道橋」は、大岡川、中村川、堀割川水系の中でひと際目立つ真っ赤な橋です。現在は人道橋となっています。
場所は横浜市南区中村町3〜191地先

120年の歴史があります。意外に感じられるかもしれません。

「浦舟水道橋」移設の歴史
1893年(明治26年)「西の橋」として架設されました。

M25の頃の西の橋。かつて横浜製鉄所があったあたりです

No.108 4月17日 活きる鉄の永い物語(一部加筆修正)

神奈川県の土木技師・野口嘉茂の設計により英国シェルトン社製の鋼材を使用して作られました。
現在の「西の橋」は震災復興橋梁として大正15年に竣工され

旧西の橋は解体され、1927年(昭和2年)翁橋の位置に移設されました。


1989年(平成元年)「浦舟水道橋」として現地に再移設されながら残された歴史的遺産です。

処分されず保全活用してきた諸先輩に敬意と感謝を捧げたいと思います。

橋のたもとには記念プレート(消えかかって読みにくい)には

「現存する道路橋としてはわが国最古のピン結合のプラットトラス橋である。」
とあります。

※「プラットトラス(Pratt truss)とは、斜材を橋中央部から端部に向けて「逆ハ」の字形状に配置したものである。ピン結合に適した構造で、日本では明治時代によく採用されたが、やがてより部材が節約でき軽量化を果たせるワーレントラスに移行した。」


ピン結合プラットトラス橋は、

西の長崎市にある出島橋も同様の構造で市街地開発の中、奇跡的に残っっています。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/sumai/670000/676000/p001689.html
→長崎の「出島橋」は通った記憶がありますが残念ながら写真に収めていません。


No.378 1月12日(土)川辺の横浜

(余談)
「私立探偵 濱マイク」で“濱マイク”が女の子とジャンケン、チョコレートを食べるシーンに使われました。移設したてのころです。

5月 16

No.445 「有吉堤」

震災復興時横浜市長を務めた有吉忠一(ありよしちゅういち)、
1915年(大正4年)県知事就任直後、直ちに行動を起こしたのが水害対策でした。
多摩川の氾濫に泣く「平間」地域に堤を築く治水事業を積極的に進めます。
今日はNo.443「岸辺のアル闘い」に続く「有吉堤」誕生を紹介します。

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明治18年頃の平間エリア

No.443 岸辺のアル闘い

橘樹郡御幸村周辺は明治に入り 度々大水害を被ります。
何度も治水請願をしますが、内務省からは「堤防整備不許可」が下ります。
皮肉にも不許可直後、2度に渡る大洪水が橘樹郡一帯を襲います。
1914年(大正3年8月〜9月)のことです。
この時の洪水に対し御幸村の村会議員、秋元喜四郎は
水防活動の最中に濁流に呑み込まれますが、かろうじて一命をとりとめます。
秋元は「身体を賭けても堤防を築く」と決意します。
横浜の県庁へ出頭し東京府との交渉結果はどうなっているのか?尋ねますが要領を得ない回答しか手にする事はできませんでした。
そしてついに起ったのが
『アミガサ事件」です。
1914年(大正3年)9月16日未明の決起です。
 ところがこの実力行使も“うやむや”にされます。
1915年(大正4年)9月神奈川知事に有吉忠一が就任します。
早速有吉は、内務省に許可を求めますが一度不許可にしたものは無理だと却下されます。そこで有吉は現行法の隙間を狙います。
郡道整備建前に堤防として改修する事を決定します。

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明治39年頃の平間エリア。赤丸が平間八幡神社

1916年(大正5年)1月25日
「郡道改修工事」としての正式な許可が下ります。
1916年(大正5年)4月18日
着工後間もなく、内務省から工事中止の命令が下されます。
河川法によりこの工事は国の許可が必要である。中止せよ!
有吉県知事は「郡道改修工事」を続行を指示しますが懲戒処分を受けてしまいます。
神奈川県は、内務省とこの工事に関して交渉を続け、再開許可をとりつけます。
1916年(大正5年)12月18日
竣工式が行われます。このとき、地元の総意として羽田橘樹郡長は堤防を「有吉堤」と命名します。

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昭和7年頃の平間エリア

その後、川全体の視点で治水計画が進められるようになり、多摩川改修史のターニングポイントとなります。

■有吉 忠一

横浜市長有吉忠一

(1873年(明治6年)6月2日〜1947年(昭和22年)2月10日)
京都府宮津出身。山県有朋に新任された官僚。
内務省入省後、
1908年(明治41年)第11代千葉県知事
朝鮮総督府総務部長官を経て、第13代宮崎県知事に就任。
千葉県知事時代には
県営軽便鉄道の開通を手がけた功績をたたえて「有吉町通り」(現在千葉県野田市野田)という地名が残ります。
宮城県知事時代は、
宮崎県営鉄道妻線・飫肥線の敷設、港の改修、開田給水事業などを実施し、宮城県発展のインフラ整備を行います。
また日本で初めての学究的発掘調査である西都原古墳群の発掘調査も命じます。
1915年(大正4年)9月に神奈川県知事就任
※有吉堤を築きます。
その後、第15代兵庫県知事、朝鮮総督府政務総監を経て
1925年(大正14)第10代横浜市長に就任します。
関東大震災によって破壊的な被害を受けた横浜の復興に尽力を注ぎ、道路・河川運等の整備、学校・病院の新設・改築と並んで、瓦礫を埋め立てて山下公園などの公園を整備します。
その後横浜商工会議所会頭等を歴任し、戦後間もなく亡くなります。

No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?

No.336 12月1日(土)ホテル、ニューグランド

No.83 3月23日 雨が降りやすいので記念日変更

No.232 8月19日 (日)LZ-127号の特命

No.347 12月12日(水)横浜自立の原点

日本基督教団神戸教会の教会員で、関東学院の開設にも助力を果たします。
佐佐木信綱に師事し歌人としても多くの“歌”を残します。
有吉が所属した横浜の佐佐木信綱同人会「新月会」には
原善一郎(はらぜんいちろう)、斎藤虎五郎(さいとうとらごろう)、野村洋三(のむらようぞう)らが同人として入会していました。

一すじにまことの道をたがへじと
  ねがふ我手をたすけてよ我友

霜深き夜ふけに電車の音をきゝて
  つとむる人の労をぞおもふ

今日もまた街をまわりてさまざまの
  進む工事を見るぞたのしき

今日も雨なり復興のわざのかくしつゝ
  おくれもてゆく堪えがたみ思ふ

今日よりは外国人もこゝろ安く
  旅寝かさねんこゝのみなとに
※1927年(昭和2年)12月1日ホテル・ニューグランド開業の日に詠う

ポトマック川辺のさくらふるさとの
  やまと少女をまちつゝゑむらん

此国のゆく末はしも憂はるゝ
  党のあらそひかく増し行けば

5月 13

No.444 “Choshu five”NOMURAN,Yokohama

“Choshu five”と聞いて、直ぐに5人の名前が出てくる方はかなりの幕末通です。
映画にもなった幕末期の若者5人(長州五傑)
井上馨、山尾庸三、遠藤謹助、伊藤博文、野村弥吉 のことです。
今日はこの長州五傑の中で最も横浜と関係の深いNOMURANこと“野村弥吉”を紹介しましょう。

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改めて、
明治に入り日本近代化の父と呼ばれそれぞれの分野で活躍した5人を簡単に紹介します。
井上 聞多→馨(当時28歳)写真(下段左)
 外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣などを歴任した「外交の父」
遠藤 謹助(当時27歳)写真(上段左)
 大阪にある造幣局の初代局長となって、有名な「桜の通り抜け」をつくった「造幣の父」
山尾 庸三(当時26歳)写真(下段右)
 帰国後に工部権大丞・工部少輔、大輔、工部卿として活躍、後の東京大学工学部の基礎をつくり、明治政府の盲聾教育施設の設立にも貢献した「工学の父」
最も著名な政治家となった
伊藤 俊介→博文(当時22歳)写真(上段右)
 初代、第5代、第7代、第10代と4回にわたり内閣総理大臣を務め明治憲法制定にも尽力した「内閣の父」
最年少の
野村 弥吉 後の井上 勝(当時20歳)写真(上段中央)
 日本鉄道会社を創設し、初代鉄道庁局長となった「鉄道の父」

(横浜から密航)
この5名は、藩の了解を取り付け
横浜で長州財政を支えた御用商人「大黒屋榎本六兵衛」の横浜支店にあたる横浜本町2丁目の「伊豆倉商店」から密航費用を調達しますが必要経費に全く届きませんでした。
そこで藩の重要な鉄砲調達資金から5,000両(今の数億円)を無理矢理理屈を付け借り受けたエピソードは有名です。
直談判の相手が村田蔵六(大村益次郎)。
若き五人は、自分たちは未来の武器である!俺たちに賭けろ!と説得して留学費用を調達したと伝わっていますが、理由はともあれ貸すほうも借りるほうもスケールがでかいですね。
伊豆倉商店は早くから居留地1番に居を構えるジャーディン・マセソン社と取引があり、5人の密航に必要な“洋銀”の準備も行います。特に尽力したのが番頭の佐藤貞次郎で、マセソン社とは長州藩の軍艦購入の手配を行った人物でした。
このあたりの顛末は多くの「長州ファイブ」エピソードとして紹介されていますのでぜひお楽しみ下さい。
http://shogiku.sakura.ne.jp/choshufive1.htm

(英国へ!)
1863年6月27日(文久3年5月12日)土曜日深夜
徳川幕府のルールを破り、横浜港※から英国船に乗込み密航を決行します。
※ここで簡単に横浜港としましたが、
この横浜港とは<東波止場=仏蘭西波止場>のことです。
その際、上記写真にもあるように、横浜居留地で髪を切り洋装になり乗船します。
だから仏蘭西波止場付近に<ザンギリ碑>がある  訳ではありませんが偶然ですね。
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(ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン)
英国に無事到着した後、UCL(ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン)教授アレキサンダー・ウィリアムソン夫妻の絶大な支援のもとUCLで学びます。

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オックスフォード大学でもケンブリッジ大学でも無く
University College Londonに学んだことが、長州ファイブにとって重要な選択となります。
当時の英国では、1827年創設のUCLだけが、信仰、人種、国籍の違いを越えて、すべての学徒に開かれていた大学だったそうです。
※夏目漱石、小泉純一郎もUCLに学んでいます。

(横浜と野村弥吉と井上勝)
長州五傑の中で最年少、後に「鉄道の父」と呼ばれた野村弥吉(井上勝)は
1843年8月25日(天保14年8月1日)長州藩士井上勝行の三男として萩城下に生まれました。幼名は卯八、6歳で同藩の野村家養子となり、野村弥吉となります。

1868年(明治元年)英国から戻り、生家の井上姓に戻り「井上勝」と名のります。
※戦前まで、養子縁組は頻繁に行われていました。フルネーム変わってしまう場合もあり、歴史を調べる際に混乱する場合があります。

野村弥吉は、長州五傑の中で横浜と縁の深い人物です。
いち早く洋学に関心を持ち横浜の外国人居住地で英語を勉強します。
この無謀とも言える英国留学(密航)を決行した長州五傑の中で唯一片言の英語が話せた人物です。
1863年(文久3年3月)横浜で調達された長州藩艦船「癸亥丸(きがいまる)」の船将を命じられたのが野村弥吉で、測量方を務めたのが長州五傑の一人、山尾庸三です。
野村、後の井上勝が横浜を舞台に活躍したのが新橋駅〜横浜駅間の鉄道敷設事業の日本側責任者としてです。
彼は若いころからかなりの酒豪でもあったようで、
英国留学時代、仲間達に「呑乱(のむらん)」と呼ばれていたことを自分でも楽しんでいたようです。自らを「NOMURAN」と称し彼のUCL(ユニバーシティ・カレッジ・オブ・ロンドン)卒業証書にはMr.Nomuranと記される遊び心?もあったようです。

(鉄道ことはじめ)
1872年10月14日(明治5年9月12日)
日本初の鉄道路線である新橋駅〜横浜駅間が開業します。

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明治新政府は1869年12月12日(明治2年11月10日)の廟議で
「幹線は東西両京を連絡し、枝線は東京より横浜に至り、又琵琶湖辺より敦賀に達し、別に一線は京都より神戸に至るべし」
という日本最初の鉄道建設計画を決定します。
枝線の東京横濱間から計画がスタートしますが、幹線計画は政府の危機的財政難で大幅に遅れます。
この日本初の鉄道路線計画の技術責任者がエドモンド・モレルです。モレルは日本の実情に即した提案、外貨の節約や国内産業の育成に貢献した外国人技術者(お雇い外国人)として日本鉄道史に足跡を残しますが、残念なことに夢半ば
1871年11月5日(明治4年9月23日)満30歳の若さで亡くなります。
Wikiでは
「1870年(明治3年)、イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任し、本格的工事が始まった。日本側では1871年(明治4年)に井上勝(日本の鉄道の父。鉄道国有論者としても著名)が鉱山頭兼鉄道頭に就任し、建設に携わった。」
と井上 勝に触れていますが、その評価は低すぎるような気がします。
モレルより3歳年下の同世代、モレルの母国イギリスで鉱山技術、化学等を学んだ井上とモレルのコミュニケーション無しに、この重要なミッションは成功しなかったでしょう。
当時、鉄道敷設反対派は暗殺も計画していた時代、全くスタンダードモデルのない日本に鉄道技術を根付かせるために、「現場主義」の井上は、横浜と東京間を何度も往復したに違いありません。
※井上はかなりの頑固者で、時の政府首脳ともかなり衝突したそうです。幕末に共に軍艦を運んだ「工学の父」山尾庸三とは真正面から衝突、辞表を叩き付けたエピソードも残っています。
No.288 10月14日(日)仮の借りを返す

No.164 6月12日(火) JR JR

(余談)
小岩井農場の井は井上のイです。
http://www.koiwai.co.jp
井上勝は視察で岩手県を訪れ、岩手山中腹にある温泉宿に泊まります。
この時に、この地を開拓して農場を造れないだろうかと考えます。

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これが小岩井農場の出発点です。
日本鉄道会社副社長・小野義真
三菱社社長・岩崎弥之助
そして 井上勝、三人の頭文字から 「小岩井」となります。
(余談2)
鉄道のゲージ問題
線路の幅を決めるにあたって 日本は何故狭軌を選んだか?
「日本鉄道史最大の失敗」とも言われていますが
ここにも井上勝が大きく関わっています。
当時の判断で 狭軌の選択は 正しかったと
私は 評価している一人です。

5月 12

No.442−2 「路男」君の愉しみ(2)

最近「ローカルバスの旅」系のテレビ番組が多いようです。
実際見ていないので構成までコメントできませんが、
超人気番組ではなさそうですね。
にも関わらず なんで似たような番組が…
直ぐに疑う私の悪い癖です。
国交省のキャンペーンですかね?

と前フリをしたのは
私は昔から 路線バス大好きの「バス男」君系でもあります。
鉄道趣味系「乗り鉄」に相当します。
通勤以外でぶらっとバスを楽しむ“輩”はかなり少数派です。
理由の一つに
バスの利用が結構面倒だということ。
まず 道路事情に依存しますから 運行時間が読めないという不確実性を愉しめるかどうか?
また 運転手(全国殆どワンマン化)から
冷たい視線を受ける場合がある!
日常乗り馴れた乗客しか相手にされていないような感じが多々あるのです。
※近年行き先を尋ねることは激減しましたが、乗り方に戸惑ったときの面倒くさそうな運転手の態度にぶち切れそうになるときが マダあります。
かなり改善されましたが。

(バス停)
全国バス停探しをしている訳ではありませんが、鉄道に比べてバス停は個性的(バラバラ)です。掲示している情報のデザインも千差万別です。

横浜市内でも、電子掲示から従来のプレート表記まで何種類かあります。
時刻表やルート案内も共通表示のバス停と、バス会社独自のものが混在しています。
 バス停の時刻表表記 字が小さい!年寄りにはかなり負担。
 バス停の表記で<次の停留所>表記が小さい場合が多い。
 同じ場所で、会社毎にバス停があり微妙に位置が異なる。(激減してはいますが)
 
(バスターミナルの不便さ)
全く初めて訪れるバスターミナルの判りにくさはバス利用の“宿命”です。
横浜駅は西口も東口も予め乗り場を確認してから移動しないと大変です。
横浜駅西口は バスターミナルが二カ所に別れています。
横浜駅東口は 乗り場案内が判りにくい。ので昼間は係員がいます。
判りにくさNo.1は「桜木町駅」バス乗り場だと思います。

飛び地のような探しにくいバス停

(乗車方法・料金)※大人の場合
横浜市内は「前乗り前払い後降り」しかも210円均一料金です。
川崎市内は、200円均一「前乗り前払い後降り」
神戸市内は、200円均一「前乗り前払い後降り」
京都市内は220円でバス・バス乗継というのがあります。大人350円

全国的には「後乗り後払い前降り」が圧倒的に多いのですが、
均一料金や先払いに慣れているとつい間違って車内でトラブルになることもあります。

(整理券)
最近「乗車カード」「ICカード」を利用できる路線が都市部では増えましたが、まだまだ整理券方式の路線が主流のようです。
この整理券、最近はバーコード読み取り式になってきました。
(その前にIC化したほうが合理的と思うのですが)

(他社乗入れ)
横浜市民としては、この課題が一番です。
一つの路線に複数の営業会社が走っていることが多く、しかも微妙にルートが異なるため、思わず乗り間違いを起こすことがあります。何時も乗り馴れている(常連客)には普通の出来事のようですが、初めて利用する者にとっては戸惑うことがあります。しかも、バスルート案内は運行会社毎なので、立体的な複数社を使った乗換のための下調べが難しいのです。「駅探」ならぬ「バス探」はできないのでしょうか?
http://www.kanagawabus.or.jp
各社のバス時刻をまとめて調べるには最適ですが、乗り継ぎ調査はできません。
一昨年、バス路線マップが発行されましたが、売れ行きが悪く新版は“おそらく”出ないでしょう。私のような「バス男」君系には必需品なんですが。


横浜市内を運行するバス会社は12社あります。
●横浜市営バス
●神奈中バス
●東急バス
●江ノ電バス
●相鉄バス
●京浜急行バス
●小田急バス
●川崎鶴見臨港バス
●川崎市営バス
 溝25系統 溝口駅前〜高田
●フジエクスプレスバス
 桜木町〜本牧循環
●大新東
 金01・02系統 金沢文庫駅〜レイディアントシティ
●横浜交通開発
 61 系統・117系統 他 横浜市営バスルートの管理(運行)受託路線

同じ名のバス停があります。最初間違いか?と思いましたが実際にあります。
二カ所に「滝頭」

基本、最初にも触れましたが
ローカル路線バスを“ぶらり”乗ることがレアケースなのです。
横浜市内でも「バス乗継」割引が「ICカード」等で可能になると嬉しいです。
同日に二回違う路線を乗り継ぐと420円が350円になるとか。
一日乗車券は現在も発行されていますが、市営バスだけです。
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/kyoutuu/ichinichi.html#bus1
エリア内フリーチケットは
☆横浜1DAYきっぷ(京急電鉄)
京急線フリー区間、市営地下鉄・市営バスフリー区間、みなとみらい線フリー区間を組み合わせた一日乗車券
http://www.keikyu-ensen.com/otoku/otoku_yokohama.jsp

☆みなとぶらりチケット
http://www.yokohama-bus.jp/burari/index.html

バスネタブログ
No.339-2 12月4日(火)越すに越されぬ国境(くにざかい)

No.168 6月16日(土) 6月のカナチュウ

No.198 7月16日(月) 最後で最後の

No.92 4月1日 横浜市交通局ブルーライン大人200円

No.367 1月1日(火)この駅「日ノ出町駅」

5月 11

【番外編】その資料危険につきご用心!

「森鴎外から「武鑑」に関心が出てきて数冊「武鑑」を入手した。」と
“歴史学”の専門家に話したら
危険だ!と言われてしまった。冗談で「幕末で止めておきなさい」

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掃部山にその名が残る幕末の大老 井伊掃部頭

横浜に関係する歴史的な話題を探す際、概ね幕末からの資料が中心になります。
横浜の歴史はついつい 近世末期からスタートしてしまいます。横浜が脚光を浴びた時期が幕末「開港」の時代だからです。
一般的に安土桃山時代から江戸時代を近世
明治維新以降を近代と呼びます。
歴史の範囲を「江戸時代」まで遡ると 
一気に守備範囲が等比級数的に拡がっていきます。江戸時代はこれまた面白い時代です。しかも資料をコレクションし始めたら
たしかに危険な匂いがします。

(武鑑に夢中)
文豪で思想家でもあった森林太郎(鴎外)は武鑑コレクターでもあり研究家でもありました。
彼は「伊沢蘭軒」「渋江抽斎」他を書くにあたって武鑑をフル活用しました。
彼自身の「武鑑コレクション」は有名です。
「伊沢蘭軒」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2084_17397.html
「渋江抽斎」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2058_19628.html
池波正太郎、司馬遼太郎、松本清張 他多くの時代小説作家も「武鑑」を資料にしながら作品を残しています。

「武鑑(ぶかん)は、江戸時代に出版された大名や江戸幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋などを記した年鑑形式の紳士録。」(Wiki)
「武鑑とは江戸時代に民間の書肆(しょし=本屋)が営利のために刊行した大名・幕府役人の名鑑である。江戸時代初期寛永頃の『大名御紋尽(ごもんづくし)』や『江戸鑑』を経由して1687年(貞享4年)『本朝武鑑』で始めて武鑑の名前が冠された。『正徳武鑑』に至り体裁が整い、明和元年(1764)の武鑑で形式が定まって、幕末に終刊する。」(伊従保美)
http://www.kawara-ban.com/daimyouNO13.html

私が入手したのは、
「袖珍武鑑(シュウチン ブカン)」と
「袖玉武鑑(シュウギョク ブカン」という対の武鑑です。

「珍」と「玉」いささか語弊のある文字ですが?!
「袖珍武鑑」はイロハ別大名図鑑で諸藩大名を名前から探ります。
一方
「袖玉武鑑」は役職別幕府役人図鑑で、大名以下の細かな役職担当者も記載されています。江戸時代の組織が見えてきます。

図版からわかるように家紋や槍などの道具印は図も丁寧に描かれ、ほぼ毎年発行されています。
この武鑑を手にして驚くのは、
ハンディタイプであること。大きいサイズもあるとのことですが、手元に置いておくなら手頃な大きさです。この中に
徳川御三家から國主大名、外様大名、譜代大名の
氏名、官位、御所号、本國、家紋、石高、さらに江戸より居城までの里程などが記載されています。さらに
江戸城中の詰所の別とか、大名行列の槍の形(どこの大名か見分けるのに便利だった)など 小さいながらも事細かに記載されています。
ユーザーは
江戸屋敷在勤の武士が日常政務の際、他の武家屋敷との折衝や交際の基礎資料として購入したそうです。
頻繁に使用したのは出入り商人や街道筋の役人、商店、旅籠なと宿場町関係の人々でビジネスの必需品となりました。
余裕が出てくると 参勤交代の下級武士のお土産、町人の大名行列の見物資料とになったそうです。

なんとも優雅な世界というか、この一冊だけでも江戸時代の成熟度を感じます。

(何が危険か)
集めたくなる衝動にかられるからです。特に「袖玉武鑑」は
時代と共に変わっていく役職の面白さを探す
いったい何だろう?と思う役職探し他
読み出したら 別な世界に入り込んでしまう“危険”が確かにあります。
現在16冊で幕末が殆どです。先輩のアドバイスに従って
幕末より遡るのは止めておくことにします。

5月 7

No.443 岸辺のアル闘い

今日は、川崎が舞台です。
勿論横浜に深く関係のある話しです。
「有吉堤」と「アミガサ事件」を知っている横浜市民は
少ないのではないでしょうか?
隣接市川崎から横浜まで駆け抜けたアミガサ事件の人たちの足跡をトレースしてみます。今日は多摩川編。

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ガス橋

(川辺に生きる)
川は大地の恵みを下流へ
そして海に運ぶ役割を担っています。
人類は川辺に集落を作り暮らしを始めました。
一方で、川は人々に自然の力を見せつけてきました。
川辺の歴史は、水害との闘いの歴史でもあります。
江戸東京の城南、神奈川の北部を流れる多摩川の歴史から、大正初期に起った事件を紹介します。

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(右岸と左岸)
多摩川は東京都と神奈川県の県境を流れる一級河川です。現在は穏やかな流れですが、昭和の時代まで水害の絶えない暴れ川でもありました。
※山田太一「岸辺のアルバム」
http://ja.wikipedia.org/wiki/岸辺のアルバム

江戸は川の街です。利根川と多摩川によって作られた平野に育った街です。
江戸時代に入り、多摩川の豊かな水源を利用した“灌漑用水路”の整備が始まり水稲生産農家が増加し江戸の近郊農業が飛躍的な発展を遂げます。
多摩川右岸(橘樹郡=神奈川)には「二ヶ領用水」、左岸(荏原郡=東京)には「六郷用水」が整備され広大な農地が誕生します。

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二ヶ領用水

豊かな水田は、川の氾濫と隣り合わせの危険も抱えていました。
何年かに一度起る大水害が川筋を変え、田畑を土砂で塗りつぶし再び田畑を整備するという繰り返しでした。
※余談ですが 私が生まれ育った世田谷区玉堤は「六郷用水」が流れていました。
 小学校の頃に 多摩川の水量が激減した時期があり 歩いて多摩川を渡った記憶があります。
江戸城に近い多摩川左岸は、江戸時代重点的に土手の整備が行われましたが、右岸の川崎側は整備が遅れました。
明治に入り、右岸と左岸の差は尚一層明確になっていきます。
川崎側の橘樹郡御幸村(川崎市幸区の全域 中原区一部)

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現在の地図でも蛇行が微妙ですね。

(繰返す水害)
現在の川崎市幸区一帯は水害の歴史と共にありました。
明治維新以降
 何度も請願書を県庁は勿論
 政府・貴衆両院に提出し
 同時に新堤築造を出願しますが
 行政府は動きません。
そこに歴史に残る大災害が起こります。
1907年(明治40年)豪雨による大洪水が全国的に発生
 多摩川も氾濫
1910年(明治43年)豪雨による大洪水が全国的に発生
 多摩川も氾濫
 この年の「臨時治水調査会」で
 多摩川は第2期河川に指定されます。
 これは事実上棚上げを意味しました。
1913年(大正2年)豪雨による大洪水が多摩川で発生
 御幸村他“右岸”流域の人々は治水の請願書を出しますが
 進展しません。
1914年(大正3年)ようやく神奈川県は“左岸”の東京都と協議に入ります。
 何故?東京都と協議が必要かというと 
 “左岸”地域は、“右岸”の堤防工事が進むと 左岸に被害が及ぶ“危険”があるというものでした。両方まとめて工事するには 予算が無い!
 では県費で築堤申請を国に出すと、左岸側の強い抵抗に合うという
 繰り返しでした。
 最終的に許可を出す「内務省」(戦前は公共事業も管轄していました)も
 申請を却下!します。

同年1914年(大正3年)の8月9月に、再び大洪水が起ります。
 
明治に入っても
 一般市民のデモや抗議のための集団行動は禁止されていました。

(決起)
地域住民はついに実力行使を決定します。
御幸村など4村の住民数百人の一団が早期築堤を求め県庁に陳情行動に出ます。
9月15日(火)
 小倉・鹿島田・町田・江ヶ崎・北加瀬など関係地域の代表が集まります。
 関係村民が大挙して神奈川県庁に迫る以外方法がないという結論に達します。
 ●9月16日(水)午前2時に出発する事
 ●服装は羽織を使わず、
  草鞋を履き目印としてアミガサを冠る事
 ●県庁への進路は各字(あざ)の随意とすれども
  成るべく警官の目を避けて目的地に達するようにする事
を決定し 散会します。

9月16日(水)未明
各村の陳情部隊は、月明かりを頼りに県庁に向かって出発します。
「九月十六日午前一時八幡社ニ集合スル」

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※現在 川崎市平間にある「八幡神社」境内にプレートがあります。

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住民はアミガサをそれぞれに着用し結集します。

「二時十分鹿島田を経て小倉に至り,更に同志九十人と会す.末吉橋に至るや濁流滔々と渦を巻き,川口は溢れて渡る事を得ない.止むを得ず鶴見橋に迂回せんとしたが,此処は警官防備線の中心地なるを以て果して成功するかは疑はしい.種々協議の末,一同生命を賭しても此の末吉橋を渡らん事に決着した.
 其処で一同衣服を頭に結び付けて胸に達する濁流を押切り,親子兄弟互に助け合ひ相励しつゝ進み,幾度か濁流に押流されんとしては踏みしめ踏みしめ,漸くにして彼岸に達する事を得た.半月雲間に現れ,必死の一行を照らすに其の凄惨なる状態,叫び合ひ嶋咽する声と共に此世のものとも思はれなかつた.
 渡るに要せし時間約一時間半,先着順に仕度を整へて飯田道横町を過るに前後の間隔次第に拡がり,終に互に見失つて了つた.此時引返して来た鹿島田部隊五十余名は飯田橋横丁に於て同志二十余名が警戒の巡査に捕はれたる事を報じたのである.此処に於て又も進路を協議して居るうちに三百名の同勢が程ケ谷方面に向ひつゝある事を知らす者があり,之に勢を得て進み漸く迫付く事を得た.
 今や同勢五百有余,群がる警官も物かはと,或は神奈川台下,或は平治の鉄道踏切と到る所警官の垣を突破して潮の如く県庁に殺到した.」

すごい表現ですね。
これは川崎市御幸尋常高等小学校発行の資料の一文です。
このルートを歩いてきました。

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二日に分けています
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古市場商店街で発酵食品の専門店「片山本店」発見
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鹿島田は新川崎と相乗効果で大変貌
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アミガサチームは恐らくこの「杉山神社」に参ったことでしょう
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末吉橋から鶴見川を

飯田道横町を過るに前後の間隔次第に拡がり,終に互に見失つて了つた.此時引返して来た鹿島田部隊五十余名は飯田橋横丁に於て同志二十余名が警戒の巡査に捕はれたる事を報じた」

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飯田町は神奈川区の滝野川流域の町です。飯田橋は未確認
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この事態に終止符を打った人物が
アミガサ事件後に就任した県知事(後の横浜市長)
有吉 忠一でした。
彼は 就任二ヶ月で“築堤”を決断します。
内務省の反対を押し切った築堤は現在も「有吉堤」として残っています。

No.128 5月7日 今じゃあり得ぬ組長業!?
(余談)

アミガサ事件に決起した「八幡神社」前を通る県道111号線は
多摩川を渡る際「ガス橋」で東京と結ばれます。

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1936年(昭和11年)東京ガスが鶴見製造所で製造したガスを東京に供給するために作られました。
このガス橋近くに多摩川を挟んで互いに水害から逃れるために、反目し合った悲しい歴史があるのも皮肉な巡り合わせといえます。
現在のガス橋は、1960年(昭和35年)に車両用の橋梁として新設されたものです。かながわの橋100選にも選ばれています。

5月 1

【雑談】秋田雨雀の横浜

横浜の様々な情報やシーンをネタにブログを約500話書いてきました。
2012年1月1日から今日までで【番外】を含めて500話目です。

最近、事実の掘り起こしだけではなく
横浜を舞台にしたフィクションも書いてみたくなっています。
といってもそういった文才があるわけでも無く、
願望・妄想に近い。
何が書きたいか?というと ラブストーリー。
意欲だけで 全く手つかずの状態です。
当分無理そうです。

ブログの中でもラブストーリーにぴったりのネタが幾つかありますので紹介しておきます。

No.94 4月3日 横浜弁天通1875年

これなんか 素敵な素材です。
切ない 明治初頭の国際的なラブストーリーになりそうです。
というより
ラブストーリーです。

一方 壮絶な愛の姿もあります。
No.225 8月12日 (日)太夫 打越に死す

芸に生きながら、一世を風靡した義太夫師夫婦の物語に仕上がりそうです。

(秋田雨雀の横浜)
日本の劇作家・詩人・童話作家・小説家として戦前戦中戦後を生きた秋田雨雀という人物がいます。


1883年(明治16年)1月30日青森県に生まれ、1962年(昭和37年)5月12日に亡くなります。
文学者であるとともに社会運動家、エスペランティストとして活躍します。彼が交流のあった人たちにはエロシェンコ、神近市子、相馬黒光、有島武郎、島崎藤村、小山内薫、島村抱月、永井叔他多くの創作者に影響を与えました。

No5 1月5日(木) 漂泊の詩人 永井叔

秋田雨雀にとって横浜は?
三渓園にインドのタゴールを訪問したり

「日陰茶屋事件(元恋人神近市子が、アナーキストの大杉栄に切り掛かる)」の裁判を傍聴するために横浜裁判所に何度か通うなど日常活動の延長線に横浜を訪れることが何度かありましたが、
彼にとって 忘れられぬ思い出が 横浜に残っています。
愛する娘を看取った街でした。


秋田雨雀の娘でロシア文学者の上田進と昭和7年結婚した“千代子”が、昭和十二年四月長い闘病生活の末、横浜の久保山にあった横浜病院(横浜市立療養院、戦後に国立横浜東病院となり現在は民間病院の聖隷横浜病院となっています)で看病の甲斐なく亡くなります。
娘の看病のために何度も横浜を訪れます。


※写真は秋田夫妻とロシア文学者上田進(演劇評論家尾崎宏次の実兄)に嫁いだ娘千代子の子供(雨雀の孫)静江