11月 27

No.473 横浜市かねさわ区独立

地域のアイデンティティが戦後半世紀を過ぎるあたりから強く意識されはじめました。横浜の地域コミュニティ単位を歴史的に眺めてみると、
独立性の高い“地域愛”のあるゾーンが多いことに気がつきます。
まあ、横浜が“寄り合い所帯”的な市域拡大を遂げてきた自治単位なので、多彩多様性があるといえばありますが、開港場周辺と周辺隣接地域とは色合いの違いもあるようです。

(金沢区独立)
ちょっと刺激的な言葉ですが、歴史を知り地域を歩いてみると
あながち空想領域では無いなと感じる昨日今日です。
まずは妄想から。ある日、ニュースで

「横浜市南部に位置する「かなざわ区」が本日、市として独立する申立書を総務省に提出しました。「金沢(かなざわ)市」はすでに石川県に存在するので、古来「かねさわ」と呼ばれていた経緯もあり、市の名称は「神奈川県かねさわ市」と決定しました。当初、鎌倉市との合併も議論に上り、鎌倉の市民団体と「かねさわ市実現協議会」との話し合いももたれましたが、最終的に「かねさわ市」として独立することで住民の意思が一致しました。」「かねさわ市実現協議会」会長のKさんは横浜市金沢区は、1936年(昭和11年)横浜市に編入され、磯子区の一部となりましたが、中世以来武蔵国と相模国の国境で明治以降は神奈川県・六浦県・韮山県など県が入り乱れ地元のコミュニティに関係なく線が引かれていた経緯があります。(中略)六浦の皆さんには「かねさわ村」となった明治以来、「むつうら」は六浦としてしっかり残すべきだという思いもあり、今回の「かねさわ市」命名についても「金沢六浦市」「六浦市」といった意見も多く出ていました。富岡も古くから金沢文化圏でもあり議論も出ましたが「金沢区」がなんとか「かねさわ」にまとまってほっとしているところです。」

(断裂の思い)
金沢区エリアは、
中世には鎌倉幕府経済圏の中心地(湊)として栄え、
江戸時代は江戸湾の要衝地浦賀と東海道を結ぶ
「浦賀道」が通る静かな農・魚村でした。

幕末以降このエリアは(横須賀製鉄所の発展の影響など)
地形・帰属を含め烈しい変化が起こります。
まず明治初期の地形図をご覧ください。

明治の頃の地形図から現在の金沢エリアを想像することはかなり困難な作業になります。単に埋め立てされてきた地形ではないことが判ります。%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%83%e3%83%88-2016-10-25-7-27-04

その昔、野島は陸続きだったのです。

廃藩置県
韮山県を知っていますか?
駿河国、相模国、武蔵国、甲斐国内の幕府領・旗本領および伊豆国一円(伊豆諸島も含む)を管轄する広大な県でした。
金沢区地域は短い期間でしたが「韮山県」時代がありました。泥亀・町屋・洲崎・野島・芝の村域は幕末に江川太郎左衛門(韮山)の支配下となり明治初年そのまま「韮山県」となります。
一方、宿村・寺前・寺分・平分 他は六浦藩からそのまま六浦県となり、その後神奈川県に編入されます。

六浦プライドは江戸から現在まで静かに地域に根ざしています。
幕末から1878年(明治11年)久良岐郡にまとまりかけますが
磯子区に編入される1936年(昭和11年)まで
(明治22年)「六浦荘村」と「金沢村」の二つの地域は分かれることになります。
旧浦賀道を歩いていると、町の“頑固さ”に出会います。

この地域の歴史をひも解いてみると
鎌倉時代以来形成されてきた生活文化圏が
幕末から シャッフル状態になり 明治・大正・昭和を通して
開港場に翻弄され
地域開発に断裂してきた姿をかいま見ることができます。
ここにきて
「金沢八景 再開発」も始まりました。
 六浦の丘の上からの金沢風景もすてきです。

平潟湾を囲み、海と丘の町 かなざわは
景観を維持しつつ住まいやすさの追求が
どう地域の“プライド”につながるのか?
見守っていきたいエリアの一つです。

11月 20

【横浜小さな駅】田園都市線 市が尾駅

田園都市線沿線の小さな駅「市が尾駅」周辺を紹介しましょう。

「市が尾駅」は
1966年(昭和41年)4月1日に田園都市線が長津田まで延伸した際に開設されます。
田園都市線の駅間距離が1km前後中心ですが、
隣接駅「江田」へは1.3km、「藤が丘」へは1.5kmと平均より長くしかも起伏のある傾斜地に作られた「駅舎」です。
昔、マーケティングの師匠の教え
「鉄道、国道は川と同じ。地域をつなぐが分断もする。橋が無ければ万里の長城、文化も変える」
「市ケ尾駅」に降り立つとこの言葉を思い出します。
田園都市線はほぼ「国道246号線」に沿って走っていますが、都内の地下路線を除いて「江田駅」とともに246号線に最も近い駅です。

鉄道=田園都市線、国道=246号線が
このエリアを南北に走り、
しかも西側を「一級河川鶴見川」が北から南に流れ“地域を分ける要素”が揃っています。
これは決して悪い意味ではなく、横浜市内の田園都市線沿線としては昔の香りと新興住宅地の香りが併存している独特の街に感じます。

旧道、そして河川敷の佇まい。
起伏のある丘陵地帯と、そこに広がる新興住宅地。
典型的な「郊外の街」とも少し違う街の佇まいがあります。

鶴見川に沿って散策していくと鉄(くろがね)町、さらに上流には寺家のふるさと村もあり、横浜の“原風景”を巡る最適なルートです。

「市が尾」は不思議な町です。
青葉区内の田園都市線各駅「青葉台」や「あざみ野」「たまプラーザ」と比較して小さな町ですが、
青葉区の行政上の中心地域としての顔があります。
○横浜市青葉区総合庁舎
 市内18区の中でも、青葉区役所は解りにくい(行きにくい)ベストスリーに入るかもしれません。
 ○横浜市青葉福祉保健センター
 ○横浜市青葉スポーツセンター
 ○横浜市青葉公会堂
 ○横浜市消防局 青葉消防署
 ○青葉郵便局
 ○神奈川県警察 青葉警察署
 ○横浜地方法務局 青葉出張所
 ○神奈川県 緑県税事務所
 ○緑税務署
と行政の施設が集中しています。
また1998年(平成10年)3月に
東名高速道路 横浜青葉インターチェンジが開通したことで、交通の要衝になります。

(古代史の街)
市ケ尾他鶴見側流域には、古代遺跡が数多く発見され、残されています。
市が尾駅からほど近いところにある「稲荷前古墳群」は珍しい中規模古墳で、当時の生活圏の大きさ(統治者の規模)を測ることができます。15〜17号墳の3基が保存されていて中でも16号墳は全国的にも珍しい方墳と方墳が線で結ばれたような形をしています。
http://kofun.info/kofun/213

また「市ヶ尾横穴古墳群」は、有力な農民の墓として6世紀後半から7世紀後半の古墳時代末期に造られたと考えられています。派手な「古墳群」ではありませんが、このエリアを歩いているとひと際良くわかる“こんもりとした丘”が「古墳群」として残されています。一部は開放されていて無理をすれば横穴に入ることもできます。(子供であれば難なく)
中にはガラス窓から横穴を覗くこともできます。
http://kofun.info/kofun/573

(ついでに)
駅から1分のところにある「市が尾第三公園」のオブジェ

「市が尾ベーカリー」
地元で信頼のあるパン屋さんだそうです。
“人気の”という枕ではなく“信頼の”というところがミソですね。
ご夫婦二人で、切り盛りされています。
→駅から徒歩7分位


「田園の憂鬱」
No.472 横浜と法政大学、その点と線

ここでも書きましたが、佐藤春夫が一時期暮らしていました。
「田園の憂鬱」の舞台となりました。

「とんかつ とん平」
なかなか丁寧な仕事ぶりで、
地元に愛されている感じが伺えるお店です。
→駅から徒歩5分位

※「市が尾駅」特に「わざわざ」行くところではありませんが、
 時にぶらっと立ち寄ってみたいところです。

11月 19

No.472 横浜と法政大学、その点と線

法政大学は横浜と関係があります。
今日は、1920年(大正9年)に設置された法政大学と横浜を点と線で結んでみることにしました。
法政大学は東京六大学の一つで、
1880年(明治13年)4月に開設された「東京法学社(のち東京法学校)」と
1886年(明治19年)開校の東京仏学校が前身となり1920年(大正9年)の大学令に基づき大学となりました。
私学としては日本で最初の「法学部」と「社会学部」を設置しました。特に法学に関しては「日本近代法の父」ボアソナードが初代教頭に就任しています。

この「法政大学」設立の源流に
“横浜”がつながりますが
その前に
法政大学校歌をお聞きください。
http://www.youtube.com/watch?v=LdBbAFaKnRE
法政の校歌は
作詞は佐藤春夫
作曲は近衛秀麿という当時としては
最強のタッグが組まれました。
創設間もない
1929(昭和4)年、法政の学生の間に
校歌作成委員会が結成されます。
当初は学生から応募を募り
作品73編のエントリーがありましたが 
その中から何を選ぶか
なかなか意見の一致が得られませんでした。
最終的に当時法政大学で教鞭を執っていた
“佐藤春夫教授”に作詞を依頼し
作曲は“近衛秀麿”という最強タッグが組まれこの校歌が誕生しました。
校歌にしては珍しく
作詞者、作曲者の間で激しい論争、激論がかわされたそうです。
(1)
若きわれらが命のかぎり
ここに捧げて(ああ)愛する母校
見はるかす窓(の)富士が峰の雪
蛍集めむ門の外濠
よき師よき友つどひ結べり
法政 おお わが母校
法政 おお わが母校
(2)
若きわれらが命のかぎり
ここに捧げて(ああ)愛する母校
われひと共にみとめたらずや
進取の気象質実の風
青年日本の代表者
法政 おお わが母校
法政 おお わが母校

作曲者の“近衛秀麿”は少し横浜と関係があります。
No.332 11月27日(火)おやかた、濱で一振り。

横浜と関係が深いといえば、近衛秀麿より作詞の佐藤春夫です。
法政大学校歌の作詞を行った昭和4年当時
佐藤春夫は短期間ですが法政大学で教鞭を執っています。
1929年(昭和4年)に法政大学予科講師となり、作文を担当していました。
ちょうどこのタイミングに、校歌づくりが行われたことになります。
作家 詩人でもある佐藤春夫は 和歌山県新宮に生まれ育ちますが、
1910年(明治43年)に上京し与謝野寛の新詩社に入ります。
その後、若き日の一時期
1917年(大正6年)から数年を
神奈川県都筑郡中里村鉄(くろがね)
現在の横浜市青葉区鉄で過ごしました。

この“くろがね村生活”をベースに誕生したのが
短編「病める薔薇」短編集としてまとめた「田園の憂鬱」です。

当時は鉄道も無く
「広い武蔵野が南端になって尽きるところ」
「言わば山国からの微かな余剰を湛えた〜」
大山街道沿いの小さな集落でした。

ここには 現在 佐藤春夫「田園の憂鬱由縁の地」碑が建っています。
佐藤が暮らしていた当時「田園の憂鬱」に登場した近所の女学生のモデルとなった金子美代子さん(故人)が、戦後本人の同意を得て建てたものです。

現在は 往時の風景も殆ど無く、一部の丘陵地が残るのみです。

さあ、法政大学と横浜の関係“本編”に戻ります。
法政の前身学校となった「東京法学校」は、フランス法系学校として1880年(明治13年)4月に開設された東京法学社が出発点となっています。
この東京法学校の初代校長となった人物が薩埵正邦(さった まさくに)で後の法政大学創立者の中心人物です。
この東京法学校の姉妹校として
1886年(明治19年)5月横浜市の尾上町6丁目に設立されたのが
「横浜法律学校」です。

横浜代言人組合(後の横浜弁護士会)によって設立された「横浜法律学校」は、当時としては大変珍しく、この代言人(弁護士)による法律家育成組織の結成に重要な役割を果たしたのが先の薩埵正邦(さった まさくに)でした。
開校時から東京法学校の教員が多く講師陣に名を連ね、修業年限の3年を超えて修学を希望するものは東京法学校へ編入できる名実共に「姉妹校」といえる学校でした。
残念ながら
横浜法律学校は、1889年(明治22年)ごろに財政的な問題で廃校となってしまいますが設立から3年間に法律関係書籍の発行等を行い優秀な人材も育成しました。
例えば

江戸文化・風俗研究家「江戸学」の祖といわれた三田村 鳶魚(みたむら えんぎょ)は「横浜法律学校」に学びました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/三田村鳶魚

この「横浜法律学校」
尾上町6丁目に設立されましたが、
現在でいえば 指路教会の向かい側あたりでしょうか?

11月 12

【番外編】ランドマークが建つ

残照、ある時期 みなとみらいエリアに建つ(建設中の)ランドマークタワーを撮っていた時期があります。
記憶に残るランドマークタワーの風景を紹介します。
ごめんなさい!!一部画像が逆版です、
修正アップし直しますのでしばし逆でご勘弁を。
フィルムからスキャンした際 左右を間違えました。

■ランドマークタワー
正式には「横浜ランドマークタワー」といいます。
70階建てで高さ296.33mです。
1990年(平成2年)3月20日に着工し、1993年(平成5年)7月16日に開業しました。
http://www.yokohama-landmark.jp/page/
http://ja.wikipedia.org/wiki/横浜ランドマークタワー
今日は 写真集です。
特に解説は設けません。

全国から精鋭の職人が集まったそうです。クレーン職人が話題に。 
建設中のランドマークタワー
11月 12

No.471 横浜・世田谷・彦根

私は特に“運命論者”ではありませんが、
巡り合わせの不思議さを感じることが時々あります。
今日はある偶然の一致を紹介しましょう。
2008年(平成20年)〜2010年(平成22年)
横浜開港150年関連の仕事で彦根市に何度か出向くことになりました。

国宝 彦根城
ゆるキャラ人気のひこにゃん

それまで滋賀県長浜・大津は何度も訪れたことはありましたが、彦根は気になっていましたがスルーしていました。
私は、東京都世田谷区世田谷に生まれ育ちました。
中学で引っ越すまで世田谷区野毛町(これも因縁?)と世田谷区上町に育ちました。
一時期過ごした世田谷の自宅近くは「ボロ市」で有名な通りがあり、玉電が走る下町風情の住宅地です。当時の自宅近くに「豪徳寺」という大きな寺がありました。

この豪徳寺は「招き猫」で有名なところですが、
その所以となった彦根井伊家の菩提寺として有名です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/豪徳寺
寛永10年(1633年)近江彦根藩第2代藩主であった井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備したことから現在に至ります。
ここには、一部の彦根藩主の墓がありますが中でも第15代藩主だった井伊直弼の墓もあることで有名になりました。

井伊直弼の墓

現在暮らす横浜の自宅近くには掃部山公園があります。
掃部山は難読地名に入るでしょう。
「かもんやま」と読みます。
名前の由来は、井伊直弼(いいなおすけ)の官職名から来ています。

掃部山と井伊直弼像
掃部山と井伊直弼像

江戸時代には 様々な役職(官位)があり大名は○○守・頭(〜のかみ)と名乗りました。テレビドラマで有名な大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)は、町奉行として徳川吉宗の「享保の改革」を支援した大名で、越前=福井とは全く関係がありません。
井伊家は代々掃部頭(かもんのかみ)を名乗ったため、近江彦根藩の第15代藩主だった井伊直弼も“井伊掃部頭直弼”と名乗ります。幕末の徳川幕府の大老となった井伊直弼の公園がなぜ横浜市西区にあるのでしょうか?
ここには明治期薩長藩閥政治と旧幕府との確執のシンボルとして<井伊直弼 顕彰>運動が関わってきます。→別途紹介します。

彦根市に建つ井伊直弼像

小さい頃遊んだ豪徳寺、平成の自宅近くにある掃部山公園
ともに井伊直弼つながりですが 自宅を引っ越しするときの理由には全く入っていませんでした。というよりまったく忘れ去られていた存在といったほうが正確でしょうか。
さらに一時期暮らした「世田谷区野毛」
現在の自宅近くにも「横浜市中区野毛」があり 縁とは不思議なものです。
→もう少し加えれば 両親は福井県出身で茅ヶ崎に暮らしていますが、
 この茅ヶ崎には「大岡越前守」の墓があるのです。
 父も引っ越してから知ったそうです。
しつこく、因縁はまだあります。
私の自宅近くに「日ノ出町」という街があり、京浜急行の駅近くには幕末期「陣屋」がありました。開港に際し関内の居留地警備のために幕府の命令で一時期福井藩が警備にあたっていました。ただ、この警備にあたっては一悶着ありました。

幕府は、横浜に居留地を開くにあたり警備を越前松平藩に命じますが、
このときの藩主“松平春嶽”は、命令をやんわりと拒否します。
これに激怒したのが 時の大老“井伊直弼”ですから 因縁ですね。
このことも含めて“安政の大獄”で春嶽は失脚、その後(しぶしぶ)越前松平藩は横浜警備に就くことになり、そこにスタッフとして赴任したのが岡倉 覚右衛門
岡倉天心の父親です。
歴史は史実の点と線を編むのが面白いところですね。

No.382 1月16日(水)横浜と福井

11月 11

No.470 パーセプションギャップを読む

日本が開国することで多くの国々から外国人が来日します。
目的はビジネス、政治、教育、布教 等々いろいろありました。

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彼らは一応に驚き、それぞれの価値観で未知の国「日本」を理解しようとしました。
未開の“野蛮”な国と感じる人、美しき風景に感動する人、美術・工芸に驚嘆する人、インフラや生活水準を未熟とする人 様々でした。

そして彼らは日記や書籍、新聞等々で“不思議の国”を母国に伝えます。
このブログでも何人かの人物を通して横浜(日本)の姿の伝わり方を紹介しました。

No.402 JIMAE TABI

「幕末から明治中期にかけて日本が外国から技術や語学研修のために多くの
“OYATOI”外国人が来日しました。一方で、在留外交官・宣教師や商館の外国人も“自前”で日本国内を旅記録に残し、一部は母国で出版され日本研究や、日本紹介の役割を果たしました。今日は、外国人の日本紀行の一部を紹介しましょう。」

→ここでは、外国人が日本(横浜)について記述した旅行記系の書籍を紹介しました。
今日は、これら多くの外国人が“幕末から明治”にかけて来日し日本をどう認識したかをテーマ別に“横断”してまとめあげた一冊の著作を紹介します。
「逝きし世の面影」渡辺京二 著
平凡社ライブラリー

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「逝きし世の面影」というタイトルからも読み取れますが、
著者は 開国時に訪れた外国人の日本評から 明治以降急激に失われたであろう“日本”(文化)の姿を浮き彫りにしようと試みています。
開国当時ですから日本といってもその多くが
横浜(神奈川)・江戸(江戸郊外)・日光・長崎・函館 など開港に関連するエリアが多く取り上げられています。
この「逝きし世の面影」から地域を拾いだすことで
外国人の“横浜”(論までいきません)が読み取れます。

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本書で引用された訪日外国人の一部
■外交官
「アンベール」「オイレンブルク」「エルギン」「オールコック」「ゴンチャロフ」「シーボルト」「ハリス」「パークス」「ヒューブナー」他
■女性外国人
「バラ」「バード」「シドモア」他
■研究者・専門家
「ケンペル」「ベルツ」「パーマー」「ヘボン?」「モース」他
その他「グリフィス」「ペリー」「グラント」「ブラック」他

(意外)
多くの外国人が最初に訪れた開港都市「横浜」の記述が意外と少ないことに気がつきます。
著者の引用の傾向もある程度見受けられますが、オリジナルにあたってみても
外国人にとって開港居留地の街「YOKOHAMA横浜」よりも郊外部の残された(当時はありのままの)日本に関心があったことも事実です。

オールコック「破損している小屋や農家」を見受けなかった。と神奈川近郊の田園の豊かさに感動していたようです。
一方で他の外国人の中には「日本の農業はいまなお非常に未開なやりかたで行われている」と認識した人物も引用しています。
(切り口)
この「逝きし世の面影」の章立ては
 ○ある文明の幻影
 ○陽気な人びと
 ○簡素とゆたかさ
 ○親和と礼節
 ○雑多と充溢
 ○労働と身体
 ○自由と身分
 ○裸体と性
 ○女の位相
 ○子どもの楽園
 ○風景とコスモス
 ○生類とコスモス
 ○信仰と祭
 ○心の垣根
14にわたる章立ての中で、思いのほか少なく感じたとはいえ
多くの横浜に関するエピソードが鏤められています。
いささか懐古的過ぎる、外国人によるニッポンよいしょ!集の感も拭えませんが、世界各国から日本(横浜)を訪れた 日本(横浜)の「価値」を再認識し、現在を考える良き資料となることは間違いありません。

(イザベラ・バード)
この「逝きし世の面影」中でも良く取り上げられているイギリスの女性旅行家、紀行作家であるイザベラ・バード。

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明治初期の東北地方や北海道、関西などを精力的に旅行し、旅行記”Unbeaten Tracks in Japan”を著します。

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時期は
1878年(明治11年)6月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った「伊藤鶴吉」野他には誰も伴わない“女性 一人旅”の記録です。
世界的にも当時珍しい女性旅行家のニッポン紀行に登場する「日本」は新鮮で、欧米文化と日本文化の間にあるギャップと、理解の手がかりをここに読み取ることができます。一般的な紹介では日光、東北地方や北海道、関西旅行が有名ですが、44章立ての中で冒頭と最後には 横浜の情景が印象深く描かれています。
「上陸して最初に私の受けた印象は、浮浪者が一人もいないことであった。(中略)税関では、西洋式の青い制服をつけ革靴を履いたちっぽけな役人たちが、私たちの応対に出た。たいそう丁寧な人たちで、私たちのトランクを開けて調べてから、紐で再び縛ってくれた。ニューヨークで同じ仕事をする、あの横柄で強引な税関吏と、おもしろい対照であった。(英米間は当時険悪な関係であったことも背景にありますが…)
横浜の英国代理領事との会話では「私の日本奥地旅行の計画を聞いて『それはたいへん大きすぎる望みだが、英国婦人が一人旅をしても絶対に大丈夫だろう』と語った。」
「横浜駅は、りっぱで格好の石造建築である。玄関は広々としており、切符売り場は英国式である。等級別の広い待合室があるが、日本人が下駄をはくことを考慮して、絨毯を敷いていない。そこには日刊新聞を備えてある。」
など 当時の様子が丁寧に描かれています。
イザベラ・バード自身、先入観もありましたが次第にそのパーセプションギャップを融和していく心の変化を読み解いていくのも面白いでしょう。
最終章、最後にイザベラは
「汽船ヴォルガ号にて、一八七八年クリスマス・イブ。—-雪を戴いた円い富士山頂は、朝日に赤く輝いていた。私たちは十九日に横浜港を出て、ミシシッピー湾(根岸湾)の紫色の森林地帯のはるか上方に富士山が聳え立つのを見たのである。三日後に私は日本の最後の姿を見た—-
冬の荒涼とした海が烈しく打ち寄せる起伏の多い海岸であった。」

(印象的な山形路)
http://www.genki-machinet.com/img/20070602-4/20070609-15yamasin.pdf
http://www.genki-machinet.com/img/20071005-08/20071016-23yamasin.pdf

(外国人に関する関連ブログ)
No.413 あるドイツ人の見た横浜

No.163 6月11日(月) 反骨のスコッツ親子

No.290 10月16日(火)文士の大家さんは法律家

No.234 8月21日(火)パーセプションギャップの悲劇

11月 10

【番外編】富士山の美しさを世界に紹介した英国人

江戸末期、全国の諸大名以下多くの人々が“横濱”の動向に関心を抱いていました。幕府の手によって翻訳新聞・筆写新聞が制作され、また伝聞を記録に残し“国元”に伝えられました。
日本の近代ジャーナリズムの幕開けに大きな影響を及ぼします。
(この辺は 現在「メディア拠点横浜の興亡」としてまとめています)

この横浜発の外国情報は、多くの人々によって写本が作られ
「横濱新聞」「異国関係資料」として全国の要人に伝えられました。
この写しの中に幕末の外国人富士山登山の報告記録がありましたので【番外編】で紹介しましょう。

古文書初心者なので正確な訳はできませんが
英人冨士登山と題し 浅間神社の大宮司冨士亦八郎が
万延元(年)庚申8月2日に寺社奉行の松平伯耆の守に届け出た英国人の富士登山の行程についての書面の写しです。
これは
日本発の富士登山を行ったオールコック一行についての記事です。
No.158 6月6日(水) 休暇をとって日本支援!

簡単に紹介しましょう。
(富士登山) 

船旅で相模湾に入る頃、多くの人が富士山の絶景に遭遇します。さらに東京(江戸)湾に入り、横浜港に向け舵を切ると 天候の良い日には真正面に富士山を眺めることができます。登山が日常のレジャーだった欧米人にとって
「富士山」はぜひ登ってみたい“そこにある山”でした。
ドイツ人旅行家ケンペルも富士山に登りたかったのですが、信仰の場でもある富士山には幕府の許可が下りませんでした。
開国後も幕府は外国人の居住は認めましたが、日本国内旅行の自由に関することに関しては、明治初期まで認めていませんでした。
オールコックは、外交官特権として特別に旅行の自由を持っている存在だとして、幕府に富士登山を認めるよう要求を続けます。
ようやく
オールコックは、富士登山計画に反対していた幕府を説き伏せ、
万延元年7月(1860年9月)富士山へ向けて出発することになります。
旅には、オールコックを初めとする英国公使館職員ら8名のイギリス人に加え、幕府から派遣された“外国奉行役人や荷物を運ぶ人馬”が100名近く随行するというものものしいものでした。
そのため、オールコックが当初希望した静かな旅とは逆に
大行列となってしまいます。
当初オールコックの目的は、富士山に登ってみたいという英国人(エリート)の“登山願望”に加え、日英修好通商条約(1857年締結)にある内地旅行権の確認や江戸を離れた地方を視察するという政治的目的もあったようです。
オールコック一行は東海道を通り、小田原から、箱根の山中を抜け、吉原宿で台風をやり過ごした後、静岡県三島市大宮町を経て村山の興法寺に入ります。
箱根越えの際

「スイスを旅行した者には、オーベルラントのある部分、特にローテルブリュンネンへの下り坂を思い出させる個所が多かった。マツの木がいっぱい生えている高い山やみずみずしい緑色の渓谷とか屈折しながら下の野原に流れてゆく渓流などがよく似ている。だがそれは、主要な特徴の面ではあまり雄大ではない。ここには永久的な氷河や雪のマントをかぶったむき出しの岩や高峰はない。」

 日本に辛口のオールコックにしては少し褒め言葉が見られます。
翌朝、村山を出発し「中宮八幡堂」まで馬を利用しここからは荷物を預け、金剛杖を手に徒歩での登山に切り替えます。
その日は六合目(現在の七合目)まで登り、翌日無事頂上に到達します。山頂では事前に準備していた測量機器で標高・気圧など測量し、英国旗を掲げシャンパンで乾杯し登頂を祝ったそうです。
その後、「一ノ木戸」(標高2,160m付近)まで一気に下山し、
同所に一泊した後に村山を経て大宮町に戻ります。
一行が通過する東海道筋では、オールコックの富士登山が大変注目を集め、見物制止命令が出されるほどでした。

日本で最初に富士山登頂を実現し彼の記録から外国に富士山の存在が多く知られることにまります。
最初の登山者は英国公使オールコックですが、
アメリカ公使ハリスの通訳だったアムステルダム生まれのオランダ人ヒュースケン(1832年〜61年)もいち早く日記の中で富士山の美しさを記録しています。
残念ながらヒュースケンは、攘夷派の浪士に襲撃され命を落としてしまいます。

11月 7

No.469 横浜トイレ事情

今日は 横浜市内のトイレ事情について
トイレの話しは“奥が深い”です。
世界のトイレ事情から、わが家のトイレ文化!まで。
さらにはバリアフリートイレもさらに進化(整備)が必要です。
今日は「わが街シリーズ」的視線で横浜市内のトイレ事情の断片を紹介しましょう。

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ここでは「公衆トイレ」+“一般の方が必要時に使うことができるトイレ”について語ります。
最近「おもてなし」が“流行っています”が、公衆トイレの使いやすさは、おもてなしの基本部分にあたります。
ここで紹介したいことが沢山ありますが今日は絞っていきます。
■街中(まちなか)で、トイレに行きたくなったら?どうします。
どこにいきます? どうやって探します?

 車なら多くのコンビニエンスストアで借りることが出来ますが、

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 街中を歩いているとき
 さらには ハンディのある方には なお探しづらいのがトイレです。
最近減りましたが「和式」も多いので、足の不自由な方や、足腰が弱っている方には「和式」は辛い。
公衆「トイレ」が「和式」なのか「洋式」なのか?
判るようにせめてトイレの入口に表示できないでしょうかね。
書いていて 思いましたが「和式」「洋式」というのもなんか変ですね。
欧米も最初から“座式”だったのでしょうか?

「洋式便器と男性用小便器は20世紀になってから日本に登場し、イギリス軍やアメリカ軍などの欧米諸国を中心としたGHQが日本を占領していた頃に劇的に日本各地に広まった。」(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の便所

一般的に「公衆トイレ」と呼ばれるものは公園、駅前、公共施設等々に整備されている「トイレ」を指しています。
横浜市の「公衆トイレ」は、市が管理しているもので横浜市危機管理室のデータでは約500余(H19年)ありました。その内の約450カ所が公園のトイレです。

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手元の資料では横浜市内の公営公園は2,625(H25)ありますが、
単純に計算して公園のトイレ設置率は17%ということになります。
トイレのある公園が均等にある訳でもなく
またベビーケアだったり老人だったりする場合、課題があります。
トイレ配置への地域的な配慮がほしいところです。

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全てに対応しているトイレ

このような事情をを反映して最近では、必要な時に利用できる
「オープントイレ」の活動が活発になってきました。
「OPEN Toilet Project」
街の店舗のトイレを気軽に借りることができるプロジェクト
ここでモバイル端末を仕えない人のために
元町・中華街・山下地区からサービス開始したのが
「オープントイレマーク」
観光や買い物をする人が気兼ねなくトイレを借りられるよう、横浜市中区の横浜中華街や元町商店街などで飲食店やブティックの入り口に、誰でも利用できることを示す共通の「オープントイレマーク」を張るプロジェクトが始まった記憶がありますが現在はどうなんでしょうか???。
https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-96701.html
http://www.check.or.jp/about/asahi111126.pdf
http://www.checkatoilet.com
この試みは“横浜発”のグッドニュースです。
NPO法人Checkと大川印刷、
トイレ貸出サイン「オープントイレマーク」を共同開発
IT機器を扱えなくても、誰もがトイレに困ることなく安心して街歩きや買い物を楽しむことができるように、共通化されたトイレ貸出サインを建物の入口に掲出するプロジェクト『OPEN Toilet Project』が元町・中華街・山下地区からスタート!

■神奈川県では
「みんなのトイレ」の推奨マークについて
http://www.pref.kanagawa.jp/cnt/f6880/p22191.html
神奈川県みんなのバリアフリー街づくり条例・施行規則では、「みんなのトイレ」の「出入口には、誰もが利用できる旨をわかりやすい方法で表示すること」が定められています。県では、そのための表示方法の一つとして、「みんなのトイレ」の「推奨マーク」を作成し、事業者や施設管理者の方にお配りして表示していただき、その普及に努めることといたしました。2011年3月1日

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※まあ不思議ですが、同じようなことを違うフォームで進めるのが
 “日本流”ですかね。

■鉄道を利用する
私も、車椅子の家族と鉄道を利用する際、
「トイレ」「移動ルート」さがしが重要です。
近年、駅のトイレもバリアフリー化が進み車椅子ルートのネットによる情報提供も便利になっては来ましたが、
 やはり探しづらい、扱いづらいのが現状です。
※例えば
横浜市交通局のサイトには
市営地下鉄「便利な乗車位置」という情報提供があります
市営地下鉄便利な乗車位置(あざみ野行き)
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/sub/norikae/azamino.html
市営地下鉄便利な乗車位置(湘南台行き)
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/sub/norikae/syounan.html
でも
交通局トップページからは探しにくい!んです。
http://www.city.yokohama.lg.jp/koutuu/sub/

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※その他の鉄道会社も情報は充実してきましたが
 いざ 探そうとすると 情報のあるページにたどり着くのが
 一苦労します。何か一工夫できないものでしょうか。

(昭和の歴史資産)
横浜市内には、市電が走っていた時期の公衆トイレが幾つか残っています。
中の設備は 新しくなっていますが、外観は昭和を感じさせます。

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弘明寺(2014年改装されました。写真は旧版です)

(デザイン豊富)
全国的な傾向ですが、横浜市内にも
デザイン性のある公衆トイレが増えてきました。

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横浜公園

→他写真検索中※最後に
 私は公衆トイレのピクトサインを撮影コレクションしています。
 みなさん あまり気にしないようですが
 男女の左右表示が 結構バラバラだったり デザインが異なったり
 身近で確認してみてはいかがでしょう。

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11月 3

【ミニミニよこはま】No.4 国際港を楽しむ

横浜港にぶらっと出かけたおり、
船舶を見かけることも多いでしょう。
今日は、船舶の楽しみ方の一つ
「船舶 煙突鑑賞」を紹介しましょう。

船の煙突は、もともとはといえば近代以降、蒸気船から始まり
煙りを出すだけで
多くの煙突が煤の汚れが目だたないように黒く塗られていました。
この煙突(ファンネル)を「国籍」や「船会社」の識別用に使い始めます。
実は、
最近の船舶に煙突(ファンネル)はあまり重要な機能を担っていません。
もちろん燃料を燃やした煙を外へだすためにあるのですが、船舶エンジンの進化で、外に排出させる“煙”がほとんど出なくなっています。
実際には、あの大きな煙突はダミーの場合がほとんどで、
客船などでは内部が展望台になっていることもあるくらいです。
それでも 必要ないのに何故?
モクモク煙突時代に定型化したファンネル・マークが現在でも重要な役割を果たしているからです。
まあ、船体とか旗とか方法は他にもあるのですが、
船には真ん中に「ファンネルとマーク」がないと
バランスが悪いというか あったほうが カッコいい
という理由が本当の所でしょう。

(家紋のようなファンネル・マーク)
ファンネル・マークは船舶会社の数だけあります。

家紋のように、デザインも様々です。
http://www.jsanet.or.jp/kids/mark/

(横浜港といえば)
横は港といえば
「ニ引きの赤」の日本郵船。


「橙色」一色の商船三井。

その他にも多くの船が出入りします。

ロイヤルウィング
第三管区海上保安庁の基地もあります
海保のマークです

地元横浜の海運会社の一つ
「熊沢海運」のマークは「濱菱とK」です。


関連会社
ケーエムシーコーポレーションといえば
ご存知の方も多いのでは?
「工場夜景萌」の先駆者で、火付け役でもあります。
http://www.reservedcruise.com

11月 2

【ミニミニよこはま】No.3 国際交流

横浜市は戦後
世界各国の都市と交流事業をすすめていきます。
今日は現在の国際交流を簡単にまとめてみました。
姉妹都市のもともとの狙いは、第2次世界大戦後の1956年(昭和31年)に米国大統領アイゼンハワーが提唱した”People-to-People Program”からスタートし
第一号の日米姉妹都市は長崎市とアメリカ・ミネソタ州セントポール市でした。
1957年(昭和32年)10月29日に横浜市は
初めて米国サンディエゴ市と姉妹都市となりました。


■横浜市の姉妹・友好都市一覧
 「スポーツ・文化・技術などを通して、目的や期間に特別な取り決めをせず、包括的な交流を行っています。」
 ①サンディエゴ(アメリカ合衆国)
  1957年(昭和32年)10月29日提携
 ②リヨン(フランス共和国)
  1959年(昭和34年)提携
 ③ムンバイ(インド)
  1965年(昭和40年)6月26日提携
 ④オデッサ(ウクライナ)
  1965年(昭和40年)7月1日提携
 ⑤バンクーバー(カナダ)
  1965年(昭和40年)7月1日提携
 ⑥マニラ(フィリピン共和国)
  1965年(昭和40年)7月1日提携
 ⑦上海市(中国)→友好都市
  1973年(昭和48年)11月30日提携
 ⑧コンスタンツァ(ルーマニア)
  1977年(昭和52年)10月12日提携


■横浜市のパートナー都市
 「横浜市の重点政策に合わせ、具体的なテーマや期限を定めて戦略的な交流を行っています。 」
 ①北京市(中国)
  ・両市の友好交流関係の一層の促進、相互理解と友情の増進
  ・環境対策、観光振興、スポーツ、文化、
   ビジネス等の分野での相互協力 
 ②台北市(台湾)
  ・芸術家交流など文化交流、青少年のスポーツ交流ほか経済、
   観光、環境などの相互交流
  ・両市に役立つと考えられる専門知識交換や技術協力
 ③釜山広域市(韓国)
  ・市民交流や観光交流の分野で相互協力
  ・環境対策やまちづくりなど都市環境の分野で相互協力
  ・2010年横浜開催のアジア太平洋経済協力(APEC)の協力
 ④ホーチミン市(ベトナム)
  ・両市企業の相互の投資・貿易活動支援、
   ホーチミン市日事務所の活動支援
  ・横浜市立大学とホーチミン市の大学の留学生交流支援
  ・両市の水道事業者により実施される協力事業支援
  ・シティネットでの協力
  ・羽田〜ホーチミン間直行便就航に向けた協力
 ⑤ハノイ市(ベトナム)
  ・投資、ビジネス、貿易、観光などの経済交流
  ・都市交通や環境などの都市問題の解決に向けた協力
  ・文化、芸術、スポーツ等の交流
  ・大型コンベンション情報の交換
  ・羽田〜ハノイ直行便就航に向けた協力
 ⑥仁川広域市(韓国)
  ・観光プロモーション及びコンベンション施設間の交流支援
  ・都市づくり
  ・環境対策
  ・中区同士の交流
  ・シティネットでの協力
 ⑦フランクフルト市(ドイツ)
  ・地球温暖化対策、経済、
   文化芸術創造都市の分野での交流


■横浜港の姉妹・友好・貿易協力港
 ①オークランド港 (姉妹港 アメリカ)
  1980年(昭和55年)5月2日姉妹港提携
  →西海岸の重要港
  http://www.portofoakland.com
 ②バンクーバー港  (姉妹港 カナダ)
  1981年(昭和56年)5月15日姉妹港提携
  →カナダの海の玄関として重要港
  http://www.portmetrovancouver.com/en/Default.aspx
 ③上海港  (友好港 中国)
  1983年(昭和58年)10月12日友好港提携
  →中国の重要な商業港
  http://www.shanghaiport.gov.cn/html/index.html
 ④メルボルン港 (貿易協力港 オーストラリア)
  1986年(昭和61年)5月24日貿易協力港提携
  →南半球最大のコンテナ港
  http://www.portofmelbourne.com
 ⑤大連港  (友好港 中国)
  1990年(平成2年)9月5日友好港提携
  →中国東北部最大の貿易港
  http://www.portdalian.com/index.html
 ⑥ハンブルグ港 (姉妹港 ドイツ)
  1992年(平成4年)10月27日姉妹港提携
  →ドイツ最大のコンテナ港
  http://www.hafen-hamburg.de

■海外事務所
 ①横浜市フランクフルト事務所(ドイツ)
  1997年(平成9年)6月開設
  →欧州地域 
  →http://www.yokohama-city.de
 ② (公財)横浜企業経営支援財団上海事務所(中国)
  1987年(昭和62年)10月開設
  →東アジア地域 
  →http://www.idec.or.jp/shanghai/
 ③横浜市ムンバイ拠点機能(インド)
  2009年(平成20年)3月開設
  →南アジア地域  
  →http://www.yokohama-mumbai.com/ja/index.html