7月 3

【ハガキの風景】人の居る風景3

横浜の光景が描かれている絵葉書から人々が写っているものを紹介します。
まずは子供のいる風景から紹介しましょう。
外国の版元が作成した横浜の日常風景をハガキにしたものです。キャプションには日本の子供達とフランス語で表記されています。Cliche P.H. という署名らしきものがあります。これ以上の来歴は調査していません。
ここに写されている子供達は12名、大人の姿が見えません。明確に男の子と判るのが2名、女の子が5名、残りは幼子のようです。

lig_横浜絵葉書再編01_41次に紹介するのが ある写真館の子供達三人の集合写真です。
この絵葉書の“表”も合わせてご覧ください。

lig_横浜絵葉書再編01_43lig_横浜絵葉書再編01_44横浜絵葉書では有名な「トンボヤ」製のものです。全国的にも有名だった「トンボヤ」は全てが横浜の絵葉書ではなく他の地域絵葉書も製造していたようです。この写真館の絵葉書はどうのようなシチュエーションだったのでしょうか?
想像の領域でしかありませんが、三人の物語を想い描いてみましょう。「トンボヤ」御用達の写真館で撮影された子供達は三兄弟に見えないことも無い?長男が左で次男が右端、中央で椅子に座っているのが末っ子の三男坊ではどうでしょうか。
さらに想像を膨らませ、中央の三男坊の誕生日に三人の記念写真を撮った!
“表面”からこの絵葉書は大正7年以前に発行されたことが判ります。
彼らは明治後期から大正初期に生まれ、激動の大正昭和を生きたことになります。
lig_横浜絵葉書再編01_47 lig_横浜絵葉書再編01_45横浜の原風景、川遊びの風景です。場所は「お三の宮」あたりのようです。

今日一番の一枚。
lig_横浜絵葉書再編01_85鉄桟橋に子供達が見学の“遠足”にでも来ているのでしょうか、教師らしき人が数名、男子生徒と女子児童がグループを作っています。
中に二つ傘が見えるのは誰が使っているのか?興味が湧きます。
場所は横浜の鉄桟橋であることはほぼ間違いないと推論できますが、撮影の時期特定が難しいところです。ヒントは桟橋の欄干が有りません。
1894年(明治27年)に鉄桟橋が完成し
1913年(大正2年)に第二期工事が完成します。
この映像はこの頃のものではないか?と推理していますが、傍証未確認です。
子供達の風景が“絵葉書”になるのは戦前の限られた時期だけのようです。

7月 3

【ハガキの風景】人の居る風景2

前回、水辺に人の居る風景が描かれた“絵葉書”を紹介しました。

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大分県別府市の鉄輪温泉(かんなわおんせん)は別府八湯の一つです。この写真は、鉄輪温泉の中でも老舗の旅館である「旅館富士屋」の観光絵葉書です。旅館富士屋は明治31年に新築され当時も温泉で世界から注目されていた大分県内旅館でも人気ナンバーワンとなったそうです。

大分別府温泉郷は、北九州の炭坑産業を背景に温泉リゾート地として湯治客が絶えませんでした。(温泉そのものは江戸時代以前からですが)
この一枚の絵葉書がとても気になったのは、登場人物が子供達だということです。
ここに写ってる子供達は誰だろう?
湯治客だろうか?(湯治客の家族)
それとも 地元の子供達、従業員の子供達かもしれません。
写真中央の子供達が写っている光景で、左手に比較的年齢が上の女性(娘)が三名写っていますが、彼女達は恐らく下働きの従業員のようにも見えます。
昔は子供の頃から家の仕事は手伝ったものですから ここでも従業員として“絵葉書”に登場したのでしょう。
鉄輪温泉旅館富士屋は廃業しましたが、現在国の登録有形文化財だそうです。

lig_絵葉書水辺の人々045

 

もう一枚、子供のいる風景です。場所は周防岩国の紅葉谷公園とキャプションにあります。三人の子供達は何をしているのでしょうか。ここが場所の名前通りに紅葉の名所なら、子供達は“紅葉”を拾っているのかもしねません。奥の東屋に大人の姿を見ることができますので、もしかしたら保護者かもしれません。前の三人の誰かの親御さんでしょうか。

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こちらは、この町の一番眺めの良い場所に“集合した”悪ガキ連中でしょうか。キャプションには「城趾より那珂川を望む」とあります。子供の風景になったのは、常連の子供達をそのまま写真に収めたものなのかわかりませんが、被写体としてはかなりリラックスしていているようです。
那珂川城趾は水戸城のことでしょうか。水戸駅からほど近い小高い丘に現在は学校が建っています。昔、勿来(福島県)から東京まで約一週間かけて歩いたときに昼食をとった場所に似ていますが、正確なことは覚えていません。
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子供がセミ取りでしょうか、棒をもって年下(弟・妹?)の子と一緒に遊んでいます。キャプションには「仙台名所 向山」とあります。現在のどのあたりでしょうか?お寺の境内のようです。麦わら帽子をお揃いで被った後ろ姿は微笑ましい光景です。

このごろ、子供は麦わら帽子を被りませんね。逆に若い人達が帽子を被るようになってきました。戦前の風景には“帽子”を被った人物が多くいました。戦後しばらく帽子文化がありましたが、高度成長後半位からでしょうか帽子姿が減りました。サラリーマンが被らなくなったからかもしれません。
この帽子文化は女性も明治以降 様々なスタイルの歴史を辿ります。帽子となると少し横浜の香りがしてきます。この帽子と横浜の話は次回に。

7月 3

【ハガキの風景】人の居る風景1

昔の雑多な絵葉書の中から、魅惑的な一枚を探し出す楽しみに耽った時期がありました。単価にしたら10円から30円程度でしょうか、値段のつかないモノクロハガキの束の中から少し汚れや痛みが目立つ中一枚一枚を見ているとそれまで見えなかった風景がそこに登場します。

今日は「人の居る風景」というテーマで発見した中から何枚か紹介しましょう。
特に水辺の側、海水浴場と海辺、そして子供の風景をピックアップしてみました。勿論、横浜に関係があるものもありますよ。
(かなり気取っているような)
まず南紀白浜、千畳敷の観光絵葉書です。

lig_絵葉書水辺の人々037戦前の発行ですが、中々“格好つけている”と思いませんか?
モデルらしき男性が麒麟麦酒と三ツ矢サイダーを置いて構図を作っています。

三ツ矢サイダーといえば、
「三ツ矢サイダーの起源は、明治時代に宮内省が、兵庫県多田村平野(現在の川西市平野3-23-1)の平野鉱泉を用いて炭酸水の御料工場を建てたことに始まる。その後、工場は三菱に払い下げられ、明治屋が権利を得て、1884年(明治17年)に「三ツ矢平野水」(みつやひらのすい)として販売した。」(Wikipedia)
とあります。横浜と関係するではないか。キリンはもちろん横浜生まれですが、現在アサヒビールが販売する三ツ矢は、横浜の明治屋が育てたことになる訳です。
無理無理は承知?!。
というのも、その後、三ツ矢サイダーは帝国鉱泉株式会社→日本麦酒鉱泉株式会社→大日本麦酒株式会社→朝日麦酒株式会社に。

一時期「全糖三ツ矢シャンペンサイダー」なんて命名していた時代もあったそうです。現在はアサヒ飲料株式会社が販売しています。
逆に歴史を遡ると外国人居留地でイギリス人ノース・アンドレーが製造販売したのが最初の国産サイダーであるとか?王冠を用いることによって本格的に流通したサイダーの元祖は、1899年(明治32年)、横浜扇町の秋元己之助が興した「金線サイダー」であるとか、サイダーには“横浜”の香りがしますね。
※ちなみに、ここで使われている椅子は“トーネット”でしょうか。
明治大正期は輸入家具主流の時代でした。横浜・神戸のような開港場の街を除くと国産の洋家具が作られるようになるにはもう少し時間が必要だったようです。

lig_絵葉書水辺の人々001 lig_絵葉書水辺の人々003 lig_絵葉書水辺の人々005 lig_絵葉書水辺の人々007 lig_絵葉書水辺の人々009 lig_絵葉書水辺の人々011 lig_絵葉書水辺の人々013 lig_絵葉書水辺の人々015 lig_絵葉書水辺の人々017戦前の海水浴の光景を絵葉書にしたものです。釣りや地引き網も入っていますが、概ね海辺の風景です。

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