12月 30

No.701 運河の街誕生(序章)

江戸時代の日本は、同時代の世界経済史上からもユニークな経済体制だったといわれています。
幾つか理由が挙げられますがその一つが17世紀から2世紀半もの間、戦争(領土拡張も)が無かったことです。緩やかに成長しながら循環型社会が出来上がったことで日本を比較的安定した経済状態を維持することができました。

この近世経済の中核を担ったのが<米(こめ)>でした。
江戸時代の経済は絶妙な「石高制」が支えたのです。
ここに<戦国時代>に進化した利水・治水技術の革新と普及が土地活用の変化を起こします。
耕作地の改善と増加、<稲作>への転換により米の増収が可能となる河口部の干拓事業を全国の諸藩は積極的に推進します。
(河口干拓)
現在のような河口域の青田風景は近世に出来上がります。
それまで河口域は豊富な水があることにはまちがいありませんが、一度大雨となると田畑は根こそぎ流されるハイリスクな場所となっていました。
中世から近世にかけて日本の農業とりわけ稲作は、谷あいの筋に作られ<谷戸田><谷池田>と呼ばれるエリアに集中します。

江戸時代に入り、河口部、湖沼部の開墾事業が<官><民>で盛んに行われるようになります。特に民間の事業者は開墾事業(干拓・埋立て)をすることで新たな土地の所有権や、名字帯刀などの名誉も受けられたため積極的に事業申請が行われます。
この頃、江戸に港都横浜誕生の恩人が登場します。
千住中村の音無川流域の湿原の干拓事業に成功し、木材・石材の販売や新田の農業経営に才能を発揮した江戸の木材・石材問屋「吉田 勘兵衛良信」です。
light_吉田勘兵衛碑彼は、江戸での事業を果敢に進めますが、幕府に申請した目標千石に至りませんでした。
そこで勘兵衛は関東近在の候補地から久良岐郡戸部村近くの大岡川河口に広がる深い入海に着目します。

十七世紀中頃の話です。
この頃、多くの事業家達が江戸近辺の候補地探しを実施していました。江戸袖ヶ浦近辺簡略図をみても明らかなように、江戸時代に河口は「帷子川」「大岡川」の二つありました。勘兵衛は何故「大岡川」河口を選んだのでしょうか?
詳細な理由は資料が無いため判りませんが、この大岡川河口地を選択したことが後に都市横浜を育てた大きな要因となっていきます。仮説がありますが、いずれまとまった時点で紹介します。
(干拓事業)
1656年(明暦2年7月17日)に干拓事業を開始し釣鐘形の入り海を挫折を含め11年の歳月をかけて完成させます。
大岡川入海に誕生した新田は約35万坪、横浜近辺の干拓事業の中では一番早い<大普請>となりました。

横浜の歴史で必ず習う「吉田新田」が開拓されることで、<横浜開港>が現実のものとなります。干拓前の入海状態では、国際港を支える<開港場>の形成は難しく日本側も欧米列強側も<横浜港>議論にはならなかったに違いありません。

もし?帷子川河口が先に<干拓>されていたら、その後の横浜史が大きく変わったことは間違いないでしょう。
ここに歴史の<イフ>の面白さが広がっていきます。

大岡川河口域の<入海>と帷子川河口域<入海>=袖ヶ浦を比較すると
農業経営に適した新田事業候補地として考えた時
帷子川河口域<袖ヶ浦>干拓は非現実的でした。
神奈川宿(湊)に近い帷子川河口域芝生村近辺は、東海道筋にあたり帷子川を使った水運経済が盛んだったことで干拓する理由がありませんでした。
一方の大岡川河口域の<入海>は、江戸中期には河口域の半分が遠浅で船の利用が難しくなっていたようです。
しかも<入海>全体をまとめて干拓するスケールメリットがある点も
勘兵衛はこの地に着目した点でしょう。
吉田新田

これに対して帷子川河口域<袖ヶ浦>の干拓事業は、江戸後期に沿岸部が徐々に部分的に進められます。事業の直接のきっかけが宝暦の「富士山噴火」でした。神奈川県一円に大量の火山灰が降り落ち、上流の支川に流れ込み入江に沈殿するようになります。
川を使っていた帷子川河口域の人たちは必要に迫られて河岸の整備(埋め立て)を幕府に申請します。一方で、河口でこれまで水運事業をすすめてきた勢力とは、入海の利用を巡って係争の記録も残っています。
帷子川河口域は挑戦しつつも失敗、挫折を繰り返し新田を開拓していきました。

(帷子川河口域の新田史)
1707年(宝永4年)
宝永大地震の49日後に、富士山が中腹から大噴火が起こります。
徳川吉宗の新田開発推奨により尾張屋新田・藤江新田・宝暦新田など帷子川河口の岸沿いに「塩除け堤」を築き小さな新田開拓が行われます。
1761年(宝暦11年)
検地を受け宝暦新田(大新田)<干拓洲>となる。
1779年(安永8年)
検地を受け尾張屋新田<2町7反>となる。
→開発者の尾張屋九平次、その子武平治に引き継がれますが、頓挫し開発権は藤江、平沼両氏に譲ることになります。
1780年(安永9年11月)
検地を受け安永新田<干拓洲>となる。
1817年(文化14年)
検地を受け藤江新田となる。
→藤江新田を手掛けた藤江茂右衛門も挫折。残りの権利を岡野勘四郎に譲ります。
(岡野・平沼)
1830年(天保年間)
程ヶ谷宿の豪商 平沼家と岡野家が大規模な干拓事業を開始します。
1833年(天保4年)
岡野新田鍬入れ
1839年(天保10年)
検地を受け岡野新田となる。
1845年(弘化2年9月)
検地を受け弘化新田となる。
1864年(元治元年)
さらに検地を受け岡野新田拡大。
しかし、完全に帷子川河口埋め立てが完了したのは大正時代でした。
帷子川河口新田変遷

(大岡川河口新田史)
1656年(明暦2年)
吉田勘兵衛、江戸幕府から、新田開発の許可を得た。
1656年9月5日(明暦2年7月17日)
吉田新田 鍬入れ式
1657年6月21日(明暦3年5月10日)から13日(6月24日)まで
大雨で潮除堤が崩壊
1659年4月2日(万治2年2月11日)
吉田新田 工事を再開 土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島
1667年(寛文7年)
吉田新田 完成
1669年(寛文9年)
功績を称え新田名を吉田新田と改称
1674年(延宝2年)
公式の検地、新田村となった。
1804年〜文化年間
横浜新田完成
1850年代
太田屋新田事業着工、完成
1859年11月10日(安政6年)
太田屋新田沼地を埋め立てて港崎町を起立し、港崎遊郭開業。
1859年7月1日(安政6年6月2日)
横浜港が開港する。久良岐郡横浜村が「横浜町」と改称。運上所周辺には駒形町が、太田屋新田の横浜町隣接地には太田町
1864年(元治元年11月)
野毛山下海岸を埋立て石炭倉庫6棟が竣工。桜川の誕生。

(まとめ)
吉田勘兵衛が、江戸で成功し新たな事業として大岡川河口干拓に着手。
農業事業として干拓を考えたため事業リスクはありましたが一気に<入海>全体の干拓事業を構想したおかげで まとまった港の後背地が誕生します。
宝暦の富士山噴火で入江に大量の灰が流れ込み帷子川河口域の埋立てが促進されます。沿岸の人たちが必要に応じて順次埋立てを進めていきます。
なかなか全域の埋め立てには至りませんが、入江の埋立て全体の骨格が形成されていきます。この入江のエッジが開港場の要となった<横浜道>筋となります。
1874横浜道ペリーが来航し、一気に横浜開港へと歴史が展開します。
二つの大きな入江が、それぞれの自然条件とここに関わる人々の情熱が重なり合うことで、横浜が<開港場>として誕生することができたのです。
新田3

※斎藤司先生の講演を元に構成させていただきました。

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12月 30

No.700  【横浜の河川】川いろはのイ

これまでいろいろ横浜の川を紹介してきました。
この横浜の「河川の基本?!」をおさらいしておきます。
(その1)
川の左岸・右岸の基準知っていますか?
「川の上流から下流に向かって、左側を左岸、右側を右岸と呼びます。」
例:かつて横浜市電は堀割川の右岸を走っていた。
横浜市中区にある元町商店街は堀川右岸に沿っている。

堀割川
(その2)
本川(ほんせん)・支川(しせん)・派川(はせん)
「たくさんの川が(=支川)が集まって大きな流れ(=本川)になります。また、途中から本川と分れて直接海に注いだり再び本川に合流する流れを(=派川)といいます。または本川=本流・幹川、支川=支流、派川=分流といった別称が使われる場合があります。」
この本川(ほんせん)・支川(しせん)・派川(はせん)全体を総称して<水系>と呼びます。

(横浜市内の主な水系)
鶴見川・帷子川・大岡川・境川の四つが横浜の代表的な水系です。

(その3)
この水系には<等級>があります。
<一級水系><二級水系><単独水系>
『国土保全上または国民経済上特に重要な水系を建設大臣が直接管理し「一級水系」』と呼びます。「一級水系」以外の水系は「二級水系」として都道府県知事が管理します。この一級水系,二級水系以外に「単独水系」と呼ばれる水系もあります。
<その2>で紹介した「本川(ほんせん)・支川(しせん)・派川(はせん)」はそれぞれ
一級水系に係わる河川→「一級河川」
二級水系に係わる河川→「二級河川」
「一級水系,二級水系,単独水系」→一部「準用河川」等級にかかわらず設定され(河川法の規定の一部を準用し)市町村長が管理する河川といった区分があります。
定義だけではどうも想像しにくいので 横浜市内で例にとり紹介しましょう。

(水系と河川)
一級水系鶴見川には国が直接管理する「一級河川」が9河川あります。
<本川の一級河川鶴見川(30,500m)>
<支川>恩田川(7,600m)、梅田川(2,200m)、鴨居川(100m)、大熊川(2,840m)、鳥山川(4,180m)、砂田川(1,470m)、早渕川(9,770m)、矢上川(2,800m)

二級水系帷子川には神奈川県知事が管理する「二級河川」が7河川あります。
<本川の帷子川>帷子川(17,340m)
<支川>中堀川(850m)、今井川(5,590m)、石崎川(1,600m)、新田間川(2,200m)、幸川(300m)、帷子川分水路(6,610m)

二級水系大岡川には神奈川県知事が管理する「二級河川」が6河川あります。
<本川の大岡川(10,540m)>
<支川>)日野川(1,900m)、中村川(3,000m)、堀川(900m)、堀割川(2,700m)、大岡川分水路(3,640m)
二級水系境川には神奈川県知事が管理する「二級河川」が9河川あります。
<本川の境川(18,300m)>
<支川>柏尾川(7,030m)、平戸永谷(4,920m)、阿久和川(5,510m)、いたち川(7,180m)、和泉川(9,510m)、宇田川(3,830m)、舞岡川(1,640m)、名瀬川(2,210m)

この水系の他に「侍従川(2,620m)」と「宮川(2,040m)」も「二級河川」です。
合わせて市内には「二級河川」が合計24河川あります。
さらに 市長が管理する「準用河川」は25河川あります。
市内には58の河川(準用河川を除く)が流れています。
市が管理する準用河川にも鶴見川水系の黒須田川(2,820m)、奈良川(3,470m)といったかなり長い河川が存在します。

横浜の河川関係ブログ
No.377 1月11日(金)花鳥風月のまちづくり

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No.378 1月12日(土)川辺の横浜

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12月 9

No.699 【横浜 失われた風景】ある総菜店

1990年代、戸部駅近辺に事務所があって良く買った総菜店があります。
当時は写真なんて考えていなかったので記録はありませんが、魚のフライがめちゃくちゃ美味しいお店でした。
コンビニでライスだけ購入して総菜はここで揃えるランチに凝った時期もありました。
この店の名は「たかさご亭」。国道一号線沿いにある知るヒトぞ知るお店でした。
横浜の総菜店として紹介したことがあります。
この時お店の名は伏せて欲しいとの要望があり「店名は秘密」としました。
スクリーンショット 2014-12-09 1.52.45        <横浜18区のほん「横浜の食材」>
国道一号線を戸部駅あたりから保土ケ谷駅方向に走ると左手に、セットバックせず拡張工事から取り残されているような“一見 立ち退き反対のような”建物が2軒あって、その一つが総菜店「高砂亭」看板は「たかさご亭」とひらがなになっていました。
一方反対側にはこれまた取り残されたように「理容店」と「酒屋」が営業中で、他に数軒閉店した店舗が並んでいました。時系列ははっきり記憶していませんが
理容店・酒屋が閉まった後も「たかさご亭」は営業していて、コロッケを買いました。
お店には 時折 笑顔がすてきなおばあちゃんがいらして立ち話をしたものです。
このあたりの国道1号線拡幅工事のための土地買収が始まったのがバブルの直前で、以来四半世紀遅々として進んでいないのが現状です。京急戸部駅の拡幅に対応した工事が終了してるので、そろそろ最終工事に入るかな?という状況ですね。
元々 このあたりは1928年(昭和3年)9月に扇田町となり戦後の1966年(昭和41年)に西区中央となったエリアです。扇田のなごりは石崎川に架かる「扇田橋」くらいですね。
light_PC080117 light_PC080119おばあちゃんの話では「たかさご亭」は戦後まもなく義理のお兄さんが開店したお店が始まりだとか。区役所があり市電「扇田駅」近くということもあり商売は順調だったようです。
スクリーンショット 2014-12-09 2.56.56

扇田町近辺 先日、閉店した「たかさご亭」前を通ったら閉店の張り紙に多くの方の書込みがありました。心温まるメッセージですね。
light_PC080127 もったいないので記念に撮っておきました。
人づての話では、国道拡幅計画に対し、反対ではないがお店を移転して営業するつもりは無いので、ぎりぎりまで営業したいという意向があったようで、計画進行が遅れることにともなってこの店の命も長らえたというところのようです。また一つ 横浜から時代の記憶が消えていきました。

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12月 5

No.698 【横浜 橋物語】幻の橋?、吉田橋。

「橋」の定義はなんだろう?
「人や物が、谷、川、海、窪地や道路、線路などの交通路上の交差物を乗り越えるための構造物である」
「河川・渓谷・運河などの上に架け渡し、道路・鉄道などを通す構築物。橋。」
「土木工学ハンドブック」では
「橋梁とは、道路、鉄道、水路等の輸送路において、輸送の障害となる河川、渓谷、湖沼、海峡あるいは他の道路、鉄道、水路等の上方にこれらを横断するために建設される構造物の総称である。」「市街地において効率的な土地利用の観点から、道路上あるいは河川上の空間に連続して建設される高架橋も橋梁の一形態である。」

今日は<橋>の話です。江戸から明治に<近世>から<近代>になった大きな変化の一つに橋梁の歴史があります。江戸幕府は橋梁設置に消極的でした。一方で近代に入り、橋梁は政府の重要政策となります。ちなみに大阪も東京も<橋都(きょうと)>です。城下町には橋がシンボルですね。
前置きが長くなりましたが、横浜も新田の町、運河の町として発達してきました。特に開港時からは<橋>が重要になってきます。
横浜開港場の<橋>といえば、
『吉田橋』です。ここは関門橋ですから、まさに横浜開港場の<関内><関外>を繋ぐ橋でした。このあたりに関しては、多くの歴史情報、観光情報がありますので<吉田>の名を含めて調べる楽しみがあると思います。実際に『吉田橋』脇に解説看板も記念碑もありますので参考にしてください。
light_2014-12-05 15.34.28

今日は 吉田橋の歴史的解説をするためにブログを書き始めた訳ではありません。
もう少しひねくれた 素朴な疑問です。
冒頭に橋ってなんだろう?と疑問を提示しました。
(川は濁って橋は濁らない?)思いっきり寄り道します。
ちなみに、行政的に<橋>は<はし>で<ばし>とは表記されていません。
light_みやこはしlight_2014-12-05 15.34.07川の表記は<おおおかがわ><つるみがわ><かたびらがわ> 何故なんでしょうね?
本論に行く前に横路にそれていますが どんどん行きます。
当たり前ですが橋には一つ一つ名前があります。それぞれ橋を渡る時 橋の名を確認することができます。(面倒でなければ)
橋=橋梁には 両脇に欄干=高欄(こうらん、hand rail)があります。この高欄の端々(四隅)に親柱というものを立てたり、プレートを設置したりします。
この高欄の四隅に着いている橋に関する<プレート>河川橋の場合、全て異なっています。
1橋梁名称の正式名称(漢字かな表記)
2橋梁名称のふりかな(ひらがな表記)
3設置河川名称
4設置年月
では?陸橋や架線橋の場合は?
→謎解きは ご自分の目で!確認してみましょう。(別の機会にじっくり紹介します)
はなしが捩れてきましたので元に戻します。
横浜が開港した際、治外法権の居留地(関内)と市街地(関外)を結ぶ橋が「吉田橋」です。
<派大岡川>の上に架けられ、その後ここを首都高速が通ることになりましたので、河川橋から架道橋に変身します。
【架道橋】道路や鉄道を立体交差で越えるために架けられた橋。跨道(こどう)橋・跨線橋など。
吉田橋、(首都高道)路の上を渡る<橋>であるはずなんですが、
「吉田橋」は橋じゃない?かもしれないという 疑問が湧いてきたのです。
いやー どうみても 橋でしょ!
でも、横浜市の橋梁リストに「吉田橋」がありません!!!!

スクリーンショット 2014-12-05 20.46.37

「吉田橋」を横から見たことありますか?

吉田橋下 改装前

light_2014-12-05 15.38.25       <改装後の 吉田橋 マリナード入口あたり>
構造は、マリナード地下街の入口通路の上に<屋根>のように吉田橋、通路の下に首都高速が通っています。地下街の下を通過する道路にイチイチ橋梁名は付いていないですし、ここは<暗渠>なの?
light_2014-12-05 15.29.44 light_2014-12-05 15.29.18この天井が吉田橋ですね。
リストには無いし、橋の下は広場?だし…
なぞは深まるばかり。
期待させといて つづく!

<吉田橋関連ブログ>(他にもいろいろありますが)
【絵葉書が語る横浜】 吉田橋脇

【絵葉書が語る横浜】吉田橋脇2

【しりとり横浜巡り】6月10日(火)吉田橋

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12月 4

No.697 【一枚の横浜絵葉書】昔の絵葉書風景を読む。

戦前の絵葉書の役割は現在の絵葉書とは少し異なります。<観光>に加えて<ニュース性>のある絵葉書が多く発行されています。
今回は一枚の読み解きにくい<風景>を探索します。

light_資料絵葉書001 「Yokohamashi Zenkei 横浜市全景」
<港>や<水際>の無い横浜の全景絵葉書です。あまりに場所がわかりにくい<風景>ですね。ランドマークが良く判らない風景です。横浜全景なのに港がありません。港の無い「横浜」は市域拡張後の横浜では普通ですが、「横浜市全景」をタイトルにしているところから開港場周辺であるとは疑いがないでしょう。ということは、戦前の<組絵葉書>の可能性があります。
港の風景と住宅街の風景を対比させているかもしれません。
が、この絵葉書に写し出されている情景のみで“すこし”読み解いてみましょう。
(ヒントとなるものを探す)
「横浜市全景」という表現からこの風景が1889年(明治22年)から1927年(昭和2年)の市域拡大前の時期ではないかと推理しました。さらに1923年(大正12年)の関東大震災以前ではないかとも推理できそうです。
次に遠景から、地平線に稜線があり、この風景の撮影ポイントもある程度の高いところからと思われます。初期の横浜の特徴を良く顕している<山手側>か<野毛山側>であることは間違いないでしょう。
では、山手側・野毛側?どちらでしょうかと推理してみます。その前に、
ここで一点考えておかなければならない“要素”が「逆版」です。一応逆版画像も紹介しておきます。

light_横浜全景逆版     <トーンを変えています>
昔の写真や絵葉書には時折この<逆版>がありますので注意しなければなりませんが、今回は参考程度に留めておきます。
稜線の高さが一定に見えるように視界が開け、さらには開港場の洋館などがあまり見えない場所はどこか?
その前に、この風景に写っている<ポイント>を探します。
画像を右下から左上に向け対角線状にかなり広い道路が走っています。
※電信柱から十四・五連の大きさを読み取ることができます。
この通りに沿って、商家の家が連なっています。
ここに通りと川筋を私の推測で引いてみました。

light_横浜市全景通り筋light_横浜市全景通り筋川筋予想 遠景に教会・仏閣が見えます。さらに目を凝らしてみると 左上ゾーンには和風の甍が無いことがわかりますので、もしかしたら元町方向かも?しれません。
稜線の上には建物らしき影もあります。

M五年開港場 さらに基本的な風景情報としてこの<光景>は朝焼け?夕焼け?
これらの情報をもう少し織り込んで さらなる謎解きを続けます。
(今回はここまで)
さらに探索を続けます。
light_百段坂遠景この情景は、震災で崩れた「百段坂」上からの開港場風景です。目前に堀川端がはっきり見えています。今回の謎解き風景には道路が一切見えておりません。おそらくもう少し低い位置からの風景と推理できます。
light_百段元町<百段坂>階段中腹としても目前に広がる風景には少し違和感を感じます。では上記画面左端のあたりから見たらどうでしょうか?そうすると<遠景>の建物がかなりマッチするように思えます。
(20150120)時点での中間報告です。

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