No.701 運河の街誕生(序章)

江戸時代の日本は、同時代の世界経済史上からもユニークな経済体制だったといわれています。
幾つか理由が挙げられますがその一つが17世紀から2世紀半もの間、戦争(領土拡張も)が無かったことです。緩やかに成長しながら循環型社会が出来上がったことで日本を比較的安定した経済状態を維持することができました。

この近世経済の中核を担ったのが<米(こめ)>でした。
江戸時代の経済は絶妙な「石高制」が支えたのです。
ここに<戦国時代>に進化した利水・治水技術の革新と普及が土地活用の変化を起こします。
耕作地の改善と増加、<稲作>への転換により米の増収が可能となる河口部の干拓事業を全国の諸藩は積極的に推進します。
(河口干拓)
現在のような河口域の青田風景は近世に出来上がります。
それまで河口域は豊富な水があることにはまちがいありませんが、一度大雨となると田畑は根こそぎ流されるハイリスクな場所となっていました。
中世から近世にかけて日本の農業とりわけ稲作は、谷あいの筋に作られ<谷戸田><谷池田>と呼ばれるエリアに集中します。

江戸時代に入り、河口部、湖沼部の開墾事業が<官><民>で盛んに行われるようになります。特に民間の事業者は開墾事業(干拓・埋立て)をすることで新たな土地の所有権や、名字帯刀などの名誉も受けられたため積極的に事業申請が行われます。
この頃、江戸に港都横浜誕生の恩人が登場します。
千住中村の音無川流域の湿原の干拓事業に成功し、木材・石材の販売や新田の農業経営に才能を発揮した江戸の木材・石材問屋「吉田 勘兵衛良信」です。
light_吉田勘兵衛碑彼は、江戸での事業を果敢に進めますが、幕府に申請した目標千石に至りませんでした。
そこで勘兵衛は関東近在の候補地から久良岐郡戸部村近くの大岡川河口に広がる深い入海に着目します。

十七世紀中頃の話です。
この頃、多くの事業家達が江戸近辺の候補地探しを実施していました。江戸袖ヶ浦近辺簡略図をみても明らかなように、江戸時代に河口は「帷子川」「大岡川」の二つありました。勘兵衛は何故「大岡川」河口を選んだのでしょうか?
詳細な理由は資料が無いため判りませんが、この大岡川河口地を選択したことが後に都市横浜を育てた大きな要因となっていきます。仮説がありますが、いずれまとまった時点で紹介します。
(干拓事業)
1656年(明暦2年7月17日)に干拓事業を開始し釣鐘形の入り海を挫折を含め11年の歳月をかけて完成させます。
大岡川入海に誕生した新田は約35万坪、横浜近辺の干拓事業の中では一番早い<大普請>となりました。

横浜の歴史で必ず習う「吉田新田」が開拓されることで、<横浜開港>が現実のものとなります。干拓前の入海状態では、国際港を支える<開港場>の形成は難しく日本側も欧米列強側も<横浜港>議論にはならなかったに違いありません。

もし?帷子川河口が先に<干拓>されていたら、その後の横浜史が大きく変わったことは間違いないでしょう。
ここに歴史の<イフ>の面白さが広がっていきます。

大岡川河口域の<入海>と帷子川河口域<入海>=袖ヶ浦を比較すると
農業経営に適した新田事業候補地として考えた時
帷子川河口域<袖ヶ浦>干拓は非現実的でした。
神奈川宿(湊)に近い帷子川河口域芝生村近辺は、東海道筋にあたり帷子川を使った水運経済が盛んだったことで干拓する理由がありませんでした。
一方の大岡川河口域の<入海>は、江戸中期には河口域の半分が遠浅で船の利用が難しくなっていたようです。
しかも<入海>全体をまとめて干拓するスケールメリットがある点も
勘兵衛はこの地に着目した点でしょう。
吉田新田

これに対して帷子川河口域<袖ヶ浦>の干拓事業は、江戸後期に沿岸部が徐々に部分的に進められます。事業の直接のきっかけが宝暦の「富士山噴火」でした。神奈川県一円に大量の火山灰が降り落ち、上流の支川に流れ込み入江に沈殿するようになります。
川を使っていた帷子川河口域の人たちは必要に迫られて河岸の整備(埋め立て)を幕府に申請します。一方で、河口でこれまで水運事業をすすめてきた勢力とは、入海の利用を巡って係争の記録も残っています。
帷子川河口域は挑戦しつつも失敗、挫折を繰り返し新田を開拓していきました。

(帷子川河口域の新田史)
1707年(宝永4年)
宝永大地震の49日後に、富士山が中腹から大噴火が起こります。
徳川吉宗の新田開発推奨により尾張屋新田・藤江新田・宝暦新田など帷子川河口の岸沿いに「塩除け堤」を築き小さな新田開拓が行われます。
1761年(宝暦11年)
検地を受け宝暦新田(大新田)<干拓洲>となる。
1779年(安永8年)
検地を受け尾張屋新田<2町7反>となる。
→開発者の尾張屋九平次、その子武平治に引き継がれますが、頓挫し開発権は藤江、平沼両氏に譲ることになります。
1780年(安永9年11月)
検地を受け安永新田<干拓洲>となる。
1817年(文化14年)
検地を受け藤江新田となる。
→藤江新田を手掛けた藤江茂右衛門も挫折。残りの権利を岡野勘四郎に譲ります。
(岡野・平沼)
1830年(天保年間)
程ヶ谷宿の豪商 平沼家と岡野家が大規模な干拓事業を開始します。
1833年(天保4年)
岡野新田鍬入れ
1839年(天保10年)
検地を受け岡野新田となる。
1845年(弘化2年9月)
検地を受け弘化新田となる。
1864年(元治元年)
さらに検地を受け岡野新田拡大。
しかし、完全に帷子川河口埋め立てが完了したのは大正時代でした。
帷子川河口新田変遷

(大岡川河口新田史)
1656年(明暦2年)
吉田勘兵衛、江戸幕府から、新田開発の許可を得た。
1656年9月5日(明暦2年7月17日)
吉田新田 鍬入れ式
1657年6月21日(明暦3年5月10日)から13日(6月24日)まで
大雨で潮除堤が崩壊
1659年4月2日(万治2年2月11日)
吉田新田 工事を再開 土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島
1667年(寛文7年)
吉田新田 完成
1669年(寛文9年)
功績を称え新田名を吉田新田と改称
1674年(延宝2年)
公式の検地、新田村となった。
1804年〜文化年間
横浜新田完成
1850年代
太田屋新田事業着工、完成
1859年11月10日(安政6年)
太田屋新田沼地を埋め立てて港崎町を起立し、港崎遊郭開業。
1859年7月1日(安政6年6月2日)
横浜港が開港する。久良岐郡横浜村が「横浜町」と改称。運上所周辺には駒形町が、太田屋新田の横浜町隣接地には太田町
1864年(元治元年11月)
野毛山下海岸を埋立て石炭倉庫6棟が竣工。桜川の誕生。

(まとめ)
吉田勘兵衛が、江戸で成功し新たな事業として大岡川河口干拓に着手。
農業事業として干拓を考えたため事業リスクはありましたが一気に<入海>全体の干拓事業を構想したおかげで まとまった港の後背地が誕生します。
宝暦の富士山噴火で入江に大量の灰が流れ込み帷子川河口域の埋立てが促進されます。沿岸の人たちが必要に応じて順次埋立てを進めていきます。
なかなか全域の埋め立てには至りませんが、入江の埋立て全体の骨格が形成されていきます。この入江のエッジが開港場の要となった<横浜道>筋となります。
1874横浜道ペリーが来航し、一気に横浜開港へと歴史が展開します。
二つの大きな入江が、それぞれの自然条件とここに関わる人々の情熱が重なり合うことで、横浜が<開港場>として誕生することができたのです。
新田3

※斎藤司先生の講演を元に構成させていただきました。