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第965話 醤油、塩 横浜雑景Ⅱ

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前回に続き、醤油と塩から横浜を見てみたい。
横浜市域は地形的には東から北東にかけて、鶴見川に沿って農耕地が点在するが西部エリアは起伏が多く農耕地はあまり多くなかったため近世、全体としては米穀の生産量は全国平均と比較して少ない。
かといって近世の横浜エリアがコメの取れない貧しい村々で埋め尽くされていたと考えるのは早計だ。林業、漁業を含め多角的経営が行われていたようだ。
少し横浜の時間を近世江戸期に戻してみよう。
近世の横浜は、武蔵国の南部と相模国の東部にまたがり、久良岐郡の一部を除き殆どが幕府直轄領で、江戸城を中心にした経済圏内にあった。
つまり藩の国境がなかったので、物流に関しては周囲30km程度の範囲は江戸経済のヒンターランド(後背地)に横浜市域の半分が入っていた。単純に直線で30kmといえば、保土ケ谷宿あたりになる。江戸の消費力は、周辺エリアの生産構造を大きく変え、相互の村々も商品や資源のやり取りを頻繁に行っていたことが、村に残る明細帳・日記等から明らかになっている。
近世以降、集約的農業を行わなければならなかった農家にとって<肥料>の確保は死活問題だった。酸性土の多い関東ローム層では中和剤として糠を必要とし、川沿いの農耕地では干鰯や粕を必要としたため肥料市場が形成されていた。
同様に、戦国時代の「敵に塩を送る」という言葉があるように、人々の暮らしに欠かせないのが塩だった。人は塩分を摂取しなければ生きて行けない。
塩の生産は古代から重要な<営み>だったが、江戸時代になると重要な産業の一つとなった。明治38年に塩の生産管理が専売法によって行われるまで、塩は地場の重要産品で、大小様々な形態で製塩が行われていた。
明治まで金沢平潟湾の塩はさかんに生産され、古くは室町時代後期南北朝時代に称名寺領洲崎・町屋に塩垂場(製塩場)があり塩で年貢を収めていたことが記録で確認することができる。鎌倉幕府を失った後も称名寺の重要な収入源が塩であったことがうかがえる。
この製塩はただ海があれば生産できるものではなく、幾つかの条件が必要である。製塩には「塩水・干潟・燃料・物流手段」などの条件を十分に兼ね備えた場所でしか成立できない。
製塩といえば、播州赤穂の塩が有名で、江戸期には藩の経済を支えた重要産業でもあった。製塩は「藻塩焼」「揚浜式塩田法」「入浜式塩田法」などがあり、現在では「流下式塩田」「イオン交換法」などが用いられている。
江戸時代、全国の諸藩は独自に「塩」を確保しなければならなかったため、多く生産できる藩は財源ともなった。加賀百万石とも言われた加賀藩は、石高だけではなく製塩を産業化し江戸期から専売制を敷いていた。新潟村上も古くから製塩で有名である。豊かな塩田があるところはコストを支払い高瀬舟を使ってでも多くの燃料を遠方から調達した。
塩田の要は安定した<燃料>確保である。
生産に必要な燃料が地域の植生バランスを壊せば、たちまち製塩コストが急上昇してしまう。特に小さな塩田には循環型に近いかたちでの燃料供給が必須だった。つまり地域循環程度の生産量を維持する規模の製塩は、「塩水・干潟・燃料・物流手段」のバランスが揃った場所で行われていた。
起伏に富み後背地に広い森林を持ち、干潟があった六浦(金沢)はまさに適地だったようだ。
江戸後期に編集された新編武蔵風土記稿には金沢の製塩業の様子が克明に記されている。金沢では干潟で濃縮された海水を釜に入れ、燃料(塩木)を燃やし煮詰め結晶化させ炊き塩を抽出する方法が一般的だったようだ。
1872年(明治5年)三分村(六浦) では年間67トンの塩、三万束の薪が生産されたことが記録されている。金沢の製塩業は1905年(明治38年)に塩が専売品となった以降急速に縮小され、地場の塩が消えていくことになる。
江戸前期まで、製塩が行われていた場所が、前回
第964話 醤油、塩 横浜雑景 で紹介した南太田・蒔田にあった。
現在蒔田公園となっている一帯を含め、このエリアは塩の生産地でもあったようだ。
この蒔田公園あたりは、吉田勘兵衛が新田開発に取り掛かるまで大岡川の河口だったからだ。そしてこの蒔田公園を見下ろす高台にはかつて「蒔田城」があり、そこには戦国時代三河国幡豆軍吉良荘をルーツに持つ「(武蔵)吉良氏」が城主として領地の南端拠点としていた。
「(武蔵)吉良氏」は武蔵国世田谷郷にあった世田谷城を拠点として、小田原北条氏を支えた武将として活躍した一族だ。
ここからは推論に過ぎない。
吉良一族のルーツとなった足利氏一族の血筋を持つ東条吉良氏が領主を務めた地名「吉良吉田」が愛知県に残る。この場所は「吉良」の名が残りかつて「塩田」があったことで有名である。中世から矢作古川河口付近を中心に製塩業が営まれ、専売法施行後の1970年代まで続いた三河湾の中心的塩田だった。
蒔田の製塩と三河の製塩が吉良氏で繋がるのではないか?
中世の多能武士集団に<塩作り技能者>がいたのではないか?
全くの推論に過ぎない。
ただ 世田谷城主 吉良氏と横浜の因縁は蒔田城だけではない。
北条氏綱の娘、崎姫が小田原より吉良家に嫁入りする際、従ってきた武将の中に
■苅部氏
■森氏
■並木氏
がいる。
彼らは小田原北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた際、帰農し在に残り江戸時代に名主などを務め、現在も苅部家があり、その他の武士は地名を残している。
また、吉良家の世田谷拠城下に吉良家が建立した寺院が弘徳院で、後に彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺とした「豪徳寺」である。

豪徳寺井伊直弼碑

井伊直弼像は蒔田城の下流にある掃部山から海を見ている。
不思議な因縁である。
さらにコジツケレば、井伊家の本拠地である彦根は琵琶湖に面し、淡水であるこの湖岸にも「近江塩」を生成した場所があった。
塩は人間に必須成分なので、塩の道をたどれば<全て>に繋がってしまう。

■大岡川に関係する武士たちを現在整理している。まとまり次第紹介したい。
第964話 醤油、塩 横浜雑景

第964話 醤油、塩 横浜雑景


No.471 横浜・世田谷・彦根

No.471 横浜・世田谷・彦根

第944話 中世の横浜(2)

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歴史上横浜市域における<いくさ>はあまり多くなかったようです。
中世期に 幾つか横浜の戦いがありました。
横浜の中世史に関心のある方に横浜の<戦場>は?
と質問すると、
多くの方が挙げるのが、緑区の「小机城」
神奈川区の「権現山」です。
さらに
御家人畠山重忠の終焉の地「鶴ケ峰古戦場(旭区)」を中世の<戦場>とする資料もあります。
これらの<いくさ>は室町幕府の権力が完全に失墜した乱世を背景に起こったものです。
舞台としては600年あまりの長い中世末期、応仁の乱以降に始まった「戦国時代」でした。
平安時代が保元の乱・平治の乱で終わりを告げ、東西に分かれ源氏と平家の勢力闘争が起こります。もののふの登場です。
西の京都は平家、平清盛が太政大臣となり実権を握りますが、東国の源氏が反転し、平家が壇ノ浦で破れ鎌倉時代となります。
海の平家が陸の源氏に、舟の平家が馬の源氏に負けたという表現もできるでしょう。
このころの横浜市域でのできごとは
伊豆から逃げる源氏の反転の舞台となりました。
幾つかの劇的な<いくさ>を経て、鎌倉に幕府が開かれ横浜市域には<かまくら道>が整備されます。
源(みなもと)から北条に政権が移るも鎌倉の地は京都から離れた政治の中心地を維持することになります。初代執権北条時政による北条氏体制を決定づける<いくさ>といっても<謀略>ですが、
1205年(元久2年6月22日)畠山重忠の乱が起こります。
武蔵国二俣川、現在の旭区鶴ケ峰あたりです。
この近くには畠山重忠が戦って敗れた北条氏の一万騎兵に因んだ「万騎が原」の地名も残っています。
※畠山重忠は「坂東武士の鑑」と呼ばれ源頼朝の信頼が厚かった御家人の一人で、埼玉県に居館等があったことで埼玉の偉人の一人をなっています。
1333年(元弘3・正慶2)新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼし、南北朝分裂を経て足利尊氏により室町幕府が始まります。
この足利政権末期に各地で武士たちの群雄割拠が始まり、戦国時代へと時代は変わっていきます。小机の戦いはその前哨戦とでもいえるでしょう。
(小机の戦い)
謎多き応仁の乱が収束に向かった
1478年(文明10年)太田道灌(おおた・どうかん)がお家騒動、家督争いにより起こった長尾景春の乱を最終的に小机城攻めによって落城させた戦いを「小机の戦い」といいます。ことの発端は家督争いですが、長尾景春も太田道灌もこれまでにない新しい知略による<いくさ>を展開した武将で、両者の戦いは南関東全域を舞台に歴史的な戦いとして注目に値します。
中世の戦いの特徴の一つに、お家騒動、嫉妬、恨み等、怨恨?に起因するものが多く起こります。前述の畠山重忠の乱もそうです。
“武士道”にはほど遠い?お家騒動連発の時代です。その結果が戦国時代、下克上へとなっていきます。

この小机城、
鶴見川を防衛の要素に取り入れた城です。後北条氏が縄張りを整備し標高42m(比高22m)の根小屋風・連郭式平山城です。
道灌は、この小机城を攻めるため鶴見川を挟む対岸に、亀之甲山(かめのこやま)城を築き拠点として持久戦を用い
2月6日から攻め4月11日にようやく落城させます。

権現山の戦いは
第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い

第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い

第911話 中世の横浜を理解する(1)

第911話 中世の横浜を理解する(1)

第938話【2017・年末ネタ】

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毎年12月師走ともなると、交響曲第九の公演とドラマ忠臣蔵が定番行事でしたが、近年時代劇不振で、再放送ばかりのようです。
「交響曲第九の公演」
「忠臣蔵=赤穂事件」
共に 横浜とも関係があるので年末ネタとして紹介しておきましょう。
「交響曲第九の公演」
https://www.youtube.com/watch?v=F0j2gPgRc1s

ベートーベン作曲の有名な交響曲で、ご当地ドイツのライプツィヒで年末大晦日公演が1918年に名門オーケストラであるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって始まります。日本では戦前に公演は行われますが、年末恒例となったのは戦後のことです。戦前のエピソードとしては
1918年(大正7年)6月1日
日本で最初に「第九」が演奏されたのが徳島県の鳴門市(当時は板東町)で、ここにあったドイツ兵の俘虜(捕虜)収容所でのことでした。当時は第一次世界大戦の真っ最中で、連合国側として参戦していた日本とは敵国でした。(第一次世界大戦〜1918年11月11日終戦)
時は流れ、戦後まもなくの
1947年(昭和22年)12月
日本交響楽団(現NHK交響楽団)がレオニード・クロイツァー指揮で9、10、13日の3夜第9の演奏会を開催して多くの観客を集めたのがキッカケといわれています。
その後、
1950年(昭和25年)12月17日
アマチュア・オーケストラとして本邦初めてこの第九を公演したのが横浜交響楽団でした。場所は横浜公園脇にあった「フライヤージム」です。その後、横浜交響楽団の年末恒例演奏会の目玉となりました。
ちなみに、日本交響楽団は1947年(昭和22年)単発公演で
初めて年末恒例としたのは横浜交響楽団???(裏とってません)かもしれません。
「忠臣蔵=赤穂事件」
冒頭にも書きましたが、年の瀬は「忠臣蔵」という時代がありました。
歴史学的には「赤穂事件」として、
五万石の大名がお家断絶、身は切腹、城は公収、数千に及ぶ家臣とその家族を路頭に迷った事件です。
江戸時代、18世紀初頭の元禄年間に播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩(ながのり)が江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央(よしひさ)に対し<傷害事件>を起こしたというものです。
主君浅野内匠頭長矩は切腹、その後この事件に端を発し家臣の大石内蔵助良雄以下47人が長期計画を練り最終的に
元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜
本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央をはじめ、小林央通、鳥居正次、清水義久らを殺害します。
何が原因だったのか、その後どのように仇討ち計画が組まれたのか?
史実としては不明な点が多かったが故に、後世の作家たちが様々な物語を構築して、幕末から現在に至るまで<国民的ドラマ?>となりました。
「忠臣蔵」で一躍悪役となったのが吉良上野介義央です。
(吉良家)
吉良家は足利氏の一族で、後北条氏とも姻戚関係にあります。
足利義氏(足利家3代目当主)の三人の息子がそれぞれの道を歩みます。
泰氏(三男ですが本妻の子)→足利家→足利尊氏
義継(長男)→奥州吉良氏→蒔田吉良氏
長氏(次男)→西条吉良氏→上野介・今川家
長男であった義継の流れが奥州吉良家として関東で勢力を伸ばし、中世後期の室町時代応永年間(1394〜1427)に武蔵世田谷(東京都)に本拠を置き南は蒔田(横浜市南区)に居城を持つようになります。この城は発掘調査や歴史資料が少なく、いわば”まぼろしの城”とも言われていますが、明治以降あまり周辺環境が変わっていない往時の地形をおぼろげながら感じ取ることができます。

戦前の蒔田城周辺

蒔田の居城は吉良頼康によって築城され
「蒔田御所」と呼ばれるほどその威光を示しました。
現在は「青山学院横浜英和中学校高等学校」の敷地となっています。
1880年(明治13年) ブリテン女学校として設立
1886年(明治19年) 横浜英和女学校に改称
1916年(大正5年) 横浜英和女学校が現在地に移転
1939年(昭和14年) 成美学園に名称変更
1996年(平成8年) 横浜英和学院に改称
2016年(平成28年) 青山学院横浜英和中学校高等学校に改称
校庭から当時のツボの欠片が出土し学内に展示されているそうです。(見ていません)
その後の吉良家
1590年(天正18年)豊臣秀吉が小田原征伐を行い北条一族の居城、小田原城が落城します。これによって北条氏は滅ぶことになります。これにともない蒔田城も廃城になって静かに明治まで眠っていました。
吉良家はその後、徳川家の家臣となり明治期まで続きます。歴史の表舞台にはあまり登場しませんが、横浜と世田谷を、中世と現在を結ぶ歴史の貴重な<糸口>です。

No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー

No.190 7月8日(月)パブリック・ディプロマシー


1950年(昭和25年)12月17日
横浜交響楽団がベートーベンの第九演奏会を開催します。

(図版は追って追記します)

第911話 中世の横浜を理解する(1)

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近年、横浜の近世以前が丁寧に解説されるようになってきました。確かに開港一辺倒の横浜史が多い時期もありました。
今年は吉田新田完成350年ということもあり、近世=江戸時代に少し光が当たっています。
さらに時代を遡って中世の横浜は?
横浜市域が武士の時代を迎える頃が中世の始まりですが、調べ始めると知らないことばかりでした。まず、入門ということで、中学生の副読本を読み始めました。これがかなり<難解>というか複雑な関係を簡単に表記しようとしているためか、一読では中々内容が理解できない内容でした。
私の理解力が低下していることも理由にあげられますが、中学生のレベルでもかなりハードルが高いのであなどれません。
私、中世日本の一般的な歴史知識は無く、高校での授業も殆ど記憶にありません。最近、近世史以降は少し学び始めていますが、中世というと真っ暗なのが現状です。
西洋史では<中世>は暗黒なんて言われていた時代があります。それはさておき、横浜市域の中世をざくっとレビューしてみました。
まず、そもそも論から。
ここが私の<困った>ところです。
古代から中世への分岐点(画期)は、律令制の行き詰まりにより武士が力を持った平安末期とするのが一般的のようです。平安末期、院政が始まり「保元・平治の乱」で平清盛が太政大臣に就任し、武家政権が成立したあたりからが中世ということです。
古代から、東国は良馬の生産地でもありました。※

平安時代末期に天皇家と摂関家による家督争いが表面化し実力行使が行われるようになってきました。この実力行使に、源氏・平家の武士団が動員され、地域に生きる豪族・武士団が政権存続に関わるようになりました。ここに東国の地方豪族=武士団が次々と登場するようになります。
横浜市域は武蔵国・相模国にまたがっていますから、「武蔵国武士団」「相模国武士団」が中世の重要登場人物となっていきます。
□五畿七道(ごきしちどう)
古代律令制度の時代にはその後の日本に影響を与えた様々な国家制度が作られますが、中でも地域区分を行うことで、国の政治制度を支えました。
五畿とは「畿内」ともいい、大和、山城、摂津、河内、和泉の五国。
七道とは全国の大きな行政区分で、東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道のことです。地域区分により街道も整備され現在もこの七道は<道>としても活きています。以後、鎌倉幕府は「鎌倉道」を整備し、近世・近代に至るまで、国家は道作りの歴史でもありました。
武蔵国武士団は「東山道」に属していましたが、東海道東部、相模国武士団とも大きく関係するようになり人的交流が生まれます。同じ武士団でも
この頃、北関東一帯の有力武士団であったのが秩父一族です。帷子川流域の榛谷氏、鎌倉幕府の有力御家人となった畠山氏の畠山重忠らは横浜市域で活躍した秩父一族です。
□里山の風景
古代から中世にかけて形成された集落が現在の里山集落の原型・原点となっています。河川下流域に大きな集落が生まれるのは近世以降で、中世の集落の殆どが<谷戸><山間地>の村でした。海側の集落では漁業を生業とする漁村も誕生します。
現在の桜木町駅近辺は野毛浦と呼ばれた磯場で、江戸湾人気のマナコ漁が盛んに行われていました。歴史でクローズアップされるのが<戦(いくさ)>ですが、戦の場となるのが集落の拠点と成る山城です。小机城、蒔田城、荏田城、高田城、神奈川城、青木城、佐々木城といった城群が中世には点在していました。といっても戦闘方法が変わる戦国時代以降の城郭ではなく、丘陵を活かした陣地という程度のもので十分だったようです。
中世と近世の分れ目(画期)は検地・刀狩りによる兵農分離といわれています。織田信長・豊臣秀吉が強力に推し進めた兵農分離以前は、戦う農民そして田畑を耕し生産活動を行っていた「もののふ」が軍事力の中心でしたので、田植えの時期や収穫期の<いくさ>は両陣営でなるべく避けたそうです。
中世は下克上「源平合戦」の始まりでもあります。
次回は 横浜を舞台にした<戦い>を眺めてみます。
※京都平安京から遥か離れた<東国>には良馬の生産地として天皇の直轄の<御牧(みまき)>が何箇所かありました。
(2)横浜の戦い  へつづく

第909話 【大岡川運河エリア史】江戸湾編

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素人調べレベルと予め宣言しておきます。
大岡川河口域に広がっていた<内海>は絵図を見ると新田開発が始まるまでは、漁場だったようです。<横浜の砂州>が冬場の北波を防ぐ防波堤の役割をしていたから中々の漁場だったのではないでしょうか。
その後、吉田新田干拓(1667年)によって、<内海>の漁場が野毛村近辺と横浜村外海が漁村として残された他は、いわゆる農業が行われました。
ただ新田がすぐに稲作に適した土地になることは無く、塩抜きを含め数年にわたる手入れが必要でした。干拓には約11年かかり、順次上流域から耕作地となっていきましたが幕府から正式に新田として認められるにはもう少し時間がかかります。
江戸時代、八割は百姓でした。その大半が農業従事者だったので百姓=農民と表現されるようになりますが、百姓は稲作中心の農民という姿以外にも多彩な生活スタイルを持っていました。
(百姓=地域に生きる多能工)
半農半漁、農業ができないから漁業も。
逆に漁業だけでは生活できないから農業も。
といった表現は百姓=農民、米生産者からの視点です。
石高制の幕府にとって米生産者は 最も歓迎すべき納税者でした。
現代におけるサラリーマン(源泉納税層)みたいなものです。
漁業従事者は一般的に網役(あみやく)という漁業年貢を収めていました。
年貢米と同様に、共同体単位で収めていたようです。

十七世紀に入り、兵農分離で闘う武士が都市生活者となり、安定した徳川時代が訪れます。治水・利水技術の発展と普及で山間地農業が河川域全般に稲作が広がり、江戸時代は急激に人口増と米の収穫増となります。
ただ、稲作は労働集約型なので人力が必要でした。
また江戸期からの農業は限られた田畑に<肥料>を投入する集約農業スタイルとなります。特に都市近郊農業は<糞尿>を有料で購入し投入することで収量を増やしていきます(金肥)。
では海辺や谷戸ばかりで<平地>の少ないエリアでは どのような生業で集落共同体は成り立っていたのか?
地に生きるとは、地(海)から恵を得ることです。生業とはそういうことです。
海付の村、海辺からすぐに谷戸となる地域の多い横浜は
農・漁・搬送を複合的に生業とする「漁師百姓」によって村落共同体が形成されていました。
漁場を巡る争い
19世紀に入り「内海三十八職」という取り決めが江戸湾内漁業従事者の間で行われます。江戸湾で認められた38種類の漁法のことです。
当時、江戸前には84の浦と、18の磯付(いそつき)村があったといわれていますが漁場を巡る争いも多く、都度話し合いによって解決してきました。
江戸時代も後期に入ると 都市近郊の在郷町に市場経済が発達し
漁業も江戸市場への稼ぎ頭となってきたため 漁法規制が必要になってきました。

文化13年(1816年)6月
江戸湾沿岸の相模・武蔵・上総の漁村44の代表が集まって会合を開き、一通の議定書を作成します。
・各漁村は毎年春に会合を開くこと。
・御菜八ケ浦が年番で代表を務め、会合の開催やその他重要なことは廻状によってそれぞれの村に伝えること。
・各郡にも年番の惣代を置いて議定書の内容を守らせるとともに御菜八ケ浦や他郡の惣代との連絡を行うこと。
・新規漁法を原則禁止とし、どうしても行いたいとする希望が出されたならば会合における合意を得ること。
等を取り決めます。
◆江戸湾内湾漁撈大目三十八職」または「内湾三十八職漁法」
手繰網(一名うたせ)
三艘張網
鮑漁
貝草取(貝藻取)
揚繰(あぐり)網
とび魚漁
こませ流し網※
肥取漁(ひとり網)
地引(ちびき)網
このしろ網
鰆(さわら)網
張網
貝類巻※
縄舟漁縄編漁
小晒(こさらし)網
投げ網※
あびこ流(網)
六人網
小貝桁網※
鰻掻(うなぎかき)
のぞき網(漁)
八田網
釣職一式(釣船)
海鼠(なまこ)漁
たいこんぼう網(一名かひかつら網)
鵜縄網
小網
ころばし網
鯔(ぼら)網
鯛縄
貝桁漁
いなだ網
四手(よつで)網※
丈長網
白魚網
藻流し網
歩行引網(かち網)
たつき(たたき)網
このしろ網
ななめ網
竿小釣網
※四十一種類ありますが
時期によって 種類が異なったようです。それにしても多彩です。

◆従来から使用を認められた漁具「小職」
簣引網、ズリ網、尨魚引抜網、蛎万牙漁、蛎挟漁、蜆流網、アサリ熊手漁、アミ漁網、サデ押網一名糖魚網、不笊漁、ウナギ筒網、ウナギ筌漁(方言ウケ、ドウ)、ウナギ抄(方言メボリ)、サザエ引網、鰌漁網、ボッサ縄、海苔桁網(方言ケタ網)
※その後追加された漁法
「エビケタ網」

領域を多彩な分類によって一つ一つ決めていくのは日本のお家芸ですね。

参考文献
「東京都内湾漁業興亡史」東京都内湾漁業興亡史刊行会
「巨大都市と業業集落」成山堂書店
安室 知(神奈川大学) 論文
「百姓たちの江戸時代」ちくま
「江戸日本の転換点」NHK

第908話 【大岡川運河エリア史】漁師百姓

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大岡川に関心を持った中で
江戸期の百姓の姿を知りたいと考えました。
そこで
この夏の集中テーマを江戸の「百姓」に置き 学習計画を立てました。
大岡川下流域、横浜村エリアに暮らした百姓の姿を推理するには何が必要か?
と考えたからです。
1667年に吉田新田が完成した以降、開港までの横浜村エリアの百姓はどんな暮らしをしていたのか?
●大岡川運河エリア
ここでは「横浜村エリア」を
吉田新田に関係するエリア=「大岡川運河エリア」と考えました。現在の「関内外エリア」という表現ではどうもしっくり来なかったので、大岡川運河エリアとしました。
では大岡川運河史をざくっと!まとめます。大岡川河口域に「吉田新田」が完成する前は蒔田あたりまで<海域>でした。
蒔田一帯は「塩田」や「漁業」を生業とする百姓が中心
吉田新田が1667年に完成したことで まずこのあたりの経済構造が大きく変わっていったと想像できます。
<海域>から<川域>になり
大岡川右岸から派川として中村川が誕生します。
干拓による人工の河川なので「運河群」といって良いでしょう。
吉田新田完成によって大岡川運河が誕生します。
中村川河口は?ちょっと判断が難しいです。
堀川ができるまでは大岡川本流の河口あたりで合流することになっていますが
現在の石川町駅あたりからは小さな入海ともいえます。(後の派大岡川)
この出口右岸側に浅瀬・沼地ができるようになり、
「太田屋新田」「横浜新田」ができあがます。
開港によって この地域の役割が大きく変わり
開港場が登場し 堀川が開削されて 関内出島が誕生。
おそらく このあたりで中村川が明確に見えてきたことで一般的に「中村川」となったのでは?<勝手な推理>
明治に入り
堀割川が完成し、吉田新田一帯の灌漑用水が整備され運河化して
一応の「大岡川運河エリア」整備が終わります。(つづく)

第907話 九隻のペリー艦隊

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ここに「横濱村辺之図」という江戸末期に描かれた絵図があります。
横浜の歴史を大きく変えた米国ペリー艦隊が横浜沖に集結している様子を描いたものです。
さて?
この絵図の描いた時期はいつごろか?最初にペリーが江戸湾に現れたのが
1853(嘉永六)年のことです。この時は、四隻の黒船で現れました。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」
という狂歌が有名ですが、作られたのは明治以降ではないか?というのが現在の定説のようです。
絵図に戻ります。この絵図には 黒船が8隻描かれています。
すると、時は1854(嘉永七)年、暮れには元号が変わり安政となった
この年に再び来航した時のペリー艦隊の様子を描いたものという可能性が出てきました。
実はペリー艦隊は、時差で日本を目指しました。
ペリー艦隊来航の様子を順を追って整理してみます。
まず、
2月11日(一月十四日)に一隻の輸送艦「サザンプトン」(帆船)が浦賀沖に現れます。
二日後
2月13日(旧暦は省略)に旗艦「サスケハナ」号以下<蒸気外輪船>が帆船を曳航するかたちで六隻江戸湾浦賀沖に到着します。
「ミシシッピ」(蒸気外輪船)
「ポーハタン」(蒸気外輪船)
「マセドニアン」(帆船)
「ヴァンダリア」(帆船)
「レキシントン」(帆走補給艦)
2月24日 艦隊は神奈川沖に停泊することになります。
これで 合計七隻が横浜沖に集結します。
細かいことですが旗艦がここで「サスケハナ」から「ポーハタン」に変わります。
さらに約一週間後
3月4日に「サラトガ」(帆船)が合流し、
3月19日「サプライ」その名の通り帆走補給艦が合流して
合計九隻とあいなります。
幕府は驚きます。予定より半年早い不意打ちに近いペリー再来訪だったからです。
前年の1853年に初めてペリーが四隻の黒船で現れたのに対し、
今度は九隻ですから倍以上の陣容で来航したことになります。
なかなかの威圧です。交渉は双方冷静に厳しく行われます。
ところが!この絵図には
艦艇が八隻しか見当たらない!

順を追うと
ペリー艦隊九隻目の帆走補給艦「サプライ」が到着していない!
ということになります。
この絵図が正確であれば
1854年3月4日以降、19日までの二週間に観測された図?
さらに描かれている絵をじっくり見ると
蒸気外輪フリゲート艦が3隻描かれています。
旗艦「サスケハナ」「ミシシッピ」「ポーハタン」
正確ですね。
かなり信用できる絵図ということでしょうか。
ということは
第一陣が来航し、最後の一隻が到着する間に日米交渉の場(応接所)が設営されている間、艦上で厳しい交渉に入ったあたりをこの絵図が描いているということになります。
その後、九隻のペリー艦隊の下で日米交渉が行われますが、
途中の3月24日には
蒸気外輪フリゲート艦「サスケハナ」号が香港に戻ります。
日米和親条約が幕府の応接所で無事締結されたのが
1854年3月31日(嘉永七年三月三日)です。
この日黒船は横濱沖に八隻停泊していたことになりますが
蒸気船は二隻、帆船が六隻という陣容でしたので
【結論】この絵図は、
1854年3月4日以降、19日までの二週間に観測されたと推理するのが妥当かと思われます。
締結後ペリー艦隊全艦は
1854年4月10日(嘉永七年三月十三日)
横濱沖を出発し、最初に幕府が拒んだ江戸湾奥まで艦隊を進め、羽田沖あたりまで侵攻(測量を兼ね)しますがこの辺りでUターンします。
幕府はかなり焦ったと思います。ペリーがUターンした理由は記録に残されていませんが
羽田沖は海苔の養殖棚が多く養殖の杭を江戸湾の防護杭とペリーは勘違いしたようです。
その後、一行は伊豆下田に本拠地を移し
日米関係に新しい時代が訪れます。
些細な史実ですが 解き明かす面白さを感じた一枚の絵図でした。

(関連ブログ)
No.412 多吉郎、横浜に死す。

第884話【今日の横浜】4月2日リベンジ横浜!

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 万治2年2月11日(1659年4月2日)
横浜の原点となった「吉田新田」の第二回鍬入れ(再開)の日です。 旧暦では2月11日ですが、ここではネタ用に西暦を使わせていただきます。
実は 吉田新田干拓計画はさかのぼるところ
1656年9月5日
明暦2年7月17日に江戸の吉田勘兵衛が江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得て、入海の新田づくり鍬入れ式を行います。
ところが
1657年6月21日
明暦3年5月10日に新田工事の最中、13日まで大雨が降り続き
6月24日に潮除堤が崩壊し干拓工事事態が中止に追い込まれます。
これに屈すること無く、吉田勘兵衛は新田開発再開を決意、
万治2年2月11日(1659年4月2日)に
再開の鍬入れが行われました。この再開の決意がなければ現在の横浜はどうなっていたのでしょうか?
様々な想像ができます・
ただ、大岡川の隣を流れる帷子川に見られるように 大岡川河口もしばらくして複数の干拓事業が行われたでしょう。地権者が増えることによって このエリアの発展がスムースに進んだか? その後も沼地のままになったかもしれません。  今年は、「吉田新田完成350年」にあたります。
一人の事業者によっていち早くこの一帯が整備された意義は大きいのでないでしょうか。
吉田新田事業「土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島」から持ってきたそうです。

(吉田新田前史)
今から約350年以前の横浜エリアは、山手から砂嘴が突き出し、その内側には大岡川の河口から釣鐘形をした深い入り海が広がっていました。
このくちばしのような<砂嘴>の突先に 弁天様が祀られ
洲干弁天と称しました。 1170年代、12世紀の治承年間 源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝えられています。以降、850年近く経ちます。
■枕詞を疑え!!
少々余談となりますが、横浜史の枕詞(まくらことば)に
「入江の砂州上の寒村であった横浜村の更に先端にあり」
「戸数約100戸の半農半漁の寒村・横浜村(今の関内地区)」
と決まってペリー来航以前を<寒村>をしますが、
私は違和感を感じます。ここが<寒村>とするなら 日本中の豊かな村とはどんな村なのか?問いたい!
国語辞典にも「かん‐そん【寒村】 の意味 貧しい村。さびれた村。」
「洲干弁天社は開港前から景勝地として知られ、開港後は開港場の中心をなす横浜町の入口に位置することから、横浜名所の一つとなり、茶屋などが集まった。(開港資料館)」
と近年 横浜村周辺の表現が変わりつつあります。
→横浜村風光明媚論は追って書きます。

<簡単横浜の新田史>
1640年代(慶安年間)には元町1丁目の増徳院が別当となります。
1656年(明暦2年)吉田勘兵衛、江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得ます。
1656年(9月5日)(明暦2年7月17日)吉田新田 鍬入れ式が行われます。
1657年(6月21日))明暦3年5月10日)から13日(6月24日)まで大雨で潮除堤が崩壊
★1659年4月2日(万治2年2月11日)
吉田新田 工事を開始 土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島から
1667年(寛文7年)吉田新田 完成
1669年(寛文9年)功績を称え新田名を吉田新田と改称
1674年(延宝2年)公式の検地、新田村となった。
1707年(宝永4年)宝永大地震の49日後に、富士山が中腹から大噴火
1761年(宝暦11年)検地を受け宝暦新田(大新田)<干拓洲>となる。
1779年(安永8年)検地を受け尾張屋新田<2町7反>となる。
1780年(安永9年11月)検地を受け安永新田<干拓洲>となる。
1817年(文化14年)検地を受け藤江新田となる。
1818年(文化15年)「横浜新田」の名が初見(完成は?)。
1830年(天保年間)程ヶ谷宿の豪商 平沼家と岡野家が大規模な埋め立てを開始。
1833年(天保4年)岡野新田鍬入れ
1839年(天保10年)検地を受け岡野新田となる。
1845年(弘化2年9月)検地を受け弘化新田となる。
1853年(嘉永6年)「太田屋新田」完成。
1854年 3月8日(嘉永7年)アメリカ海軍提督ペリーが黒船を率いて日本へ2度目の来航をし、横浜村へ上陸する。
1859年11月10日(安政6年)太田屋新田沼地を埋め立てて港崎町を起立し、港崎遊郭開業。
1859年6月2日(安政6年)横浜港が開港する。久良岐郡横浜村が「横浜町」と改称。運上所周辺には駒形町が、太田屋新田の横浜町隣接地には太田町
1864年(元治元年11月)野毛山下海岸を埋立て石炭倉庫6棟竣工。
1864年(元治元年)さらに検地を受け岡野新田拡大。
1867年(慶応3年)慶応の大火事の復興工事、町は和風から洋風への建て替えが始まり、石造りの洋風2階建ての「神奈川奉行所」完成。それを期に「横浜役所」へ名称変更。馬車道が開通する。
1868年8月(慶応4年)横浜町と太田町をあわせて二地区(上町・下町)に分け、5名の名主が担当した。
1869年(明治2年)洲干弁天社が移転。
1869年(明治2年3月)花咲町6丁目の内田清七、福島長兵衛ら県より請負い吉田橋北詰より野毛浦までの埋立てに着手。
1870年(明治3年)町屋の整った地域に長者町・福富町の二町が起立。
1871年7月(明治4年)横浜町と太田町の区域に正式に町名を付ける。本町・南仲通・北仲通・弁天通・元浜町・海岸通・堺町・太田町・小宝町・相生町・高砂町・住吉町・常盤町・尾上町・真砂町・港町・駒形町・羽衣町
1871年8月(明治4年)横浜関内各町を五区に分け、各々1名の名主が担当する。
1872年11月28日(明治5年)横浜役所は「横浜税関」へ名称変更。
1873年(明治6年)南一ツ目にあった遊水池(沼地)埋め立て、寿町ほか7か町が起立(埋地7か町)。
1873年5月1日(明治6年)神奈川県を20区に分け、区下に複数の番組を編成。横浜町は第1区1番組に編入される。
1873年5月1日(明治6年)平沼新田のうち、横浜道沿いの町屋が形成されていた箇所に平沼町が起立する。大区小区制により神奈川県第1大区3小区に属した。
1874年6月14日(明治7年)大区小区制に伴い、第1大区1小区に編入される。この頃伊勢佐木町ほか数町が起立
1874年8月1日(明治7年)堀割川開削完了。中村・大岡・吉田の各川に航路が開通。
1876年(明治9年)洋式の公園「横浜公園」が開園。
1878年(明治11年)郡区町村編制法により以前の新田村が復活し、久良岐郡平沼新田、橘樹郡岡野新田に戻るが、平沼町は横浜区に編入された。(久良岐郡より独立)
1878年11月21日(明治11年)郡区町村編制法に基づき、横浜区となる。(久良岐郡から分離)
1878年7月(明治11年)市街地化した南三ツ目・北四ツ目までが横浜区に編入
1880年(明治13年)南三ツ目に高島町遊廓が移転
1889年(明治22年)市制町村制が施行され、平沼新田は久良岐郡戸太村に、岡野新田は橘樹郡保土ヶ谷村に、平沼町は横浜市にそれぞれ編入される。
1889年(4月1日)明治22年 市制施行により関内全域が横浜市となる。久良岐郡吉田新田から久良岐郡戸太村大字吉田新田となる。
1894年(明治27年)横浜港鉄桟橋(現:大さん橋)が完成する。
1895年(7月1日)明治28年 町制施行により久良岐郡戸太町大字吉田新田に。
1901年(明治34年)戸太町(戸太村が町制を施行)と保土ケ谷町の一部が横浜市に編入され、西平沼町と岡野町が置かれる。
1901年4月1日(明治34年)横浜市に編入。大字吉田新田の地に南吉田町を起立。全域が市街地となる。
■ざくっと一覧にして
関内外エリアがあらためて 埋立ての町=運河の町であることがわかります。
No.701 運河の街誕生(序章)

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

番外編ですが
堀割川の話です。ちょっと力作(自分的には)
No.437 横浜ドラゴンズ、吉田さんに斬られる!

第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い

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京浜急行神奈川駅は京急線の中で一番“狭い”ホームのある駅です。(感覚です。実際測っていません)
開業は1905年(明治38年)12月24日、歴史ある駅です。
light20150211神奈川駅 lightP2110494 lightP2110514今日は駅そのもののエピソードは別の機会に譲ります。
神奈川駅のある一帯は明治期に鉄道を敷設する際、丘陵の一角を大きく削りました。
神奈川駅を挟んで両側が繋がっていました。light台場神奈川駅東京に向かって右側(東側)の駅際にある小高い丘が「幸ケ谷公園(権現山)」、反対側の西側が高島台にあたります。
今日は横浜の歴史を一気に戦国時代へと時間を戻しましょう。
時は16世紀初め、永正7年(1510年)7月19日の今日は、9日間も壮絶な権現山(ごんげんやま)の戦いが終わった日です。
「権現山の戦い」とは、上杉連合軍がここ権現山を居城とした上田勢と支援した北条氏を破った戦いです。
江戸時代に本格的に整備された東海道ですが、それ以前から東海道は太田道灌の開いた江戸と西国を結ぶ重要な道でした。東京駅から東海道線に乗ると品川近辺の御殿山を過ぎると、平坦な道が続きます。
神奈川県に入り最初の丘陵がここ<神奈川>です。
中世から、権現山は街道の要衝にあたり、戦略的に重要な場所でした。
当時武蔵の国一帯は上杉一族の勢力下にありました。その南端にあたる城が権現山城で扇谷上杉朝良家臣<上田蔵人政盛>が城主として一帯を治めていました。ここに、波乱が起こります。伊豆にあった北条早雲が、鎌倉まで勢力を伸ばし、さらには武蔵の国へと侵攻します。
この時、早雲は権現山城主であった上田 政盛に、上杉傘下から我が北条の仲間になれというメッセージに呼応し兵を挙げます。
この権現山の戦いに関しては上田 政盛が早雲の策略に乗って主君<上杉>を“裏切る”といった表現が多いようです。
「伊勢宗瑞(北条早雲)の調略に応じて相模国境に近い武蔵国権現山城で挙兵した。」
「まず扇谷上杉朝良の家臣・上田政盛を寝返らせ、修築したばかりの相模国<ママ>権現山城に据えた。」(文中相模国→武蔵国)
「早雲は永正4年(1507)、越後の守護代長尾為景(ながおためかげ、1489〜1543・上杉謙信の父)と守護上杉房能の戦いに乗じて、扇谷上杉氏家臣の権現山城主上田政盛(うえだまさもり、生没不詳)を寝返らせます。」
資料を読むと事態はそれほど単純では無く、関東上杉家の<内紛>が<上杉家>に反旗を翻す要因と考えるのが妥当と思われます。元々、権現山城主 上田政盛は扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家臣でした。ところが、同じ上杉家の<山内上杉家>によって領地だった神奈川湊を奪われてしまいます。ここに<山内上杉家>に対する反感(恨み)が生まれ、新たなる勢力となってきた北条早雲に与します。
ただ悲劇なのは、この反旗によって仲違いした扇谷上杉家の上杉朝良と山内上杉家の上杉憲房が連合で上田政盛の挙兵した権現山城を圧倒的陣容で包囲し壮絶な戦いが行われ、早雲の援軍が到着する前に陥落します。
※一説では上田政盛は生き残り、後に扇谷上杉家家臣として復活したという説もあります。

この権現山の戦いをキッカケに関東全域をめぐって伊勢氏(後の北条氏)と上杉氏との同盟関係が完全に破綻、戦国時代の覇権争いが激化していくことになります。

(神奈川台場)
この権現山の戦いの舞台となった場所は現在幸ヶ谷公園となっています。ただ戦いのあった当時よりかなり<低く>なっています。
ペリー来航後、急遽神奈川台場を構築するにあたり、埋立て用の土砂がこの権現山の山頂部分を削って使用されたため低くなり<台形>に変わっています。

※余談
この権現山の戦い、2万の上杉勢に対し2000の将兵で迎え撃った上田政盛陣営は圧倒的大軍の前に惨敗しますが、そこに
「19日上杉勢がなだれのごとく城内に乱入した時、城中より「我こそ神奈河の住人間宮の某」と叫びつつ上杉に突入した勇ましい武士がいた。神奈河(今は神奈川と書く)住民間宮とは信冬もしくは子の彦四郎信盛と伝えられている。」
この間宮は討ち死にせず戦のあと笹下に居を構え、北条政権下磯子一帯の領主となります。この間宮家が杉田家となり産業の少ないこの地で梅林などの殖産に務めました。

No.201 7月19日(木)港を感じる絶景ポイント
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=406
横浜港のある東京湾は、船舶の航行が集中するポイントにあたります。
船舶通航信号所として
1986年(昭和61年)7月19日(金)「横浜港シンボルタワー」が完成しました。

【ミニミニ今日の横浜】3月5日

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タイムリーなネタから

1854年(嘉永7年3月5日)
「吉田松陰、海外渡航を狙って保土ケ谷宿にくる。」
数え年・25歳の時のことです。

ペリーが来航した際、一年後の再来を予告し去りますが、
半年も早くペリーは
1854年2月13日(嘉永7年1月16日)
琉球を経由して再び浦賀に来航し幕府を慌てさせます。その後も次々と艦船が江戸湾に入港、
3月19日(嘉永7年2月21日)
最終的に総勢9隻のペリー艦隊が江戸湾に集結します。
この時 ペリーに直接会う!と決めた人物が吉田松蔭です。足軽の金子重之輔と二人で、まず東海道の「保土ケ谷宿」に入り、そこから横濱に入ります。(おそらく 保土ケ谷道から戸部に出た?)
light_吉田松陰 ところが横濱では沖のペリー艦隊に近づくことが実行できず失敗。
ペリーが下田に移動したことを知り、伊豆に向かった松蔭らは海岸につないであった漁民の小舟を盗み艦船に向かい旗艦ポーハタン号に乗船、渡航を直訴しますが拒否され、断念。幕府の命で萩の野山獄に幽囚されることになります。下田踏海事件というそうです。
これを美談とするのか、愚行とするのか? 意見が別れるところです。
日米ワシン

No.65 3月5日 サルビアホール一周年(改訂)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=554
今日は 短く 失礼します。