9月 8

第911話 中世の横浜を理解する(1)

近年、横浜の近世以前が丁寧に解説されるようになってきました。確かに開港一辺倒の横浜史が多い時期もありました。
今年は吉田新田完成350年ということもあり、近世=江戸時代に少し光が当たっています。
さらに時代を遡って中世の横浜は?
横浜市域が武士の時代を迎える頃が中世の始まりですが、調べ始めると知らないことばかりでした。まず、入門ということで、中学生の副読本を読み始めました。これがかなり<難解>というか複雑な関係を簡単に表記しようとしているためか、一読では中々内容が理解できない内容でした。
私の理解力が低下していることも理由にあげられますが、中学生のレベルでもかなりハードルが高いのであなどれません。
私、中世日本の一般的な歴史知識は無く、高校での授業も殆ど記憶にありません。最近、近世史以降は少し学び始めていますが、中世というと真っ暗なのが現状です。
西洋史では<中世>は暗黒なんて言われていた時代があります。それはさておき、横浜市域の中世をざくっとレビューしてみました。
まず、そもそも論から。
ここが私の<困った>ところです。
古代から中世への分岐点(画期)は、律令制の行き詰まりにより武士が力を持った平安末期とするのが一般的のようです。平安末期、院政が始まり「保元・平治の乱」で平清盛が太政大臣に就任し、武家政権が成立したあたりからが中世ということです。
古代から、東国は良馬の生産地でもありました。※

平安時代末期に天皇家と摂関家による家督争いが表面化し実力行使が行われるようになってきました。この実力行使に、源氏・平家の武士団が動員され、地域に生きる豪族・武士団が政権存続に関わるようになりました。ここに東国の地方豪族=武士団が次々と登場するようになります。
横浜市域は武蔵国・相模国にまたがっていますから、「武蔵国武士団」「相模国武士団」が中世の重要登場人物となっていきます。
□五畿七道(ごきしちどう)
古代律令制度の時代にはその後の日本に影響を与えた様々な国家制度が作られますが、中でも地域区分を行うことで、国の政治制度を支えました。
五畿とは「畿内」ともいい、大和、山城、摂津、河内、和泉の五国。
七道とは全国の大きな行政区分で、東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七道のことです。地域区分により街道も整備され現在もこの七道は<道>としても活きています。以後、鎌倉幕府は「鎌倉道」を整備し、近世・近代に至るまで、国家は道作りの歴史でもありました。
武蔵国武士団は「東山道」に属していましたが、東海道東部、相模国武士団とも大きく関係するようになり人的交流が生まれます。同じ武士団でも
この頃、北関東一帯の有力武士団であったのが秩父一族です。帷子川流域の榛谷氏、鎌倉幕府の有力御家人となった畠山氏の畠山重忠らは横浜市域で活躍した秩父一族です。
□里山の風景
古代から中世にかけて形成された集落が現在の里山集落の原型・原点となっています。河川下流域に大きな集落が生まれるのは近世以降で、中世の集落の殆どが<谷戸><山間地>の村でした。海側の集落では漁業を生業とする漁村も誕生します。
現在の桜木町駅近辺は野毛浦と呼ばれた磯場で、江戸湾人気のマナコ漁が盛んに行われていました。歴史でクローズアップされるのが<戦(いくさ)>ですが、戦の場となるのが集落の拠点と成る山城です。小机城、蒔田城、荏田城、高田城、神奈川城、青木城、佐々木城といった城群が中世には点在していました。といっても戦闘方法が変わる戦国時代以降の城郭ではなく、丘陵を活かした陣地という程度のもので十分だったようです。
中世と近世の分れ目(画期)は検地・刀狩りによる兵農分離といわれています。織田信長・豊臣秀吉が強力に推し進めた兵農分離以前は、戦う農民そして田畑を耕し生産活動を行っていた「もののふ」が軍事力の中心でしたので、田植えの時期や収穫期の<いくさ>は両陣営でなるべく避けたそうです。
中世は下克上「源平合戦」の始まりでもあります。
次回は 横浜を舞台にした<戦い>を眺めてみます。
※京都平安京から遥か離れた<東国>には良馬の生産地として天皇の直轄の<御牧(みまき)>が何箇所かありました。
(2)横浜の戦い  へつづく

8月 20

第909話 【大岡川運河エリア史】江戸湾編

素人調べレベルと予め宣言しておきます。
大岡川河口域に広がっていた<内海>は絵図を見ると新田開発が始まるまでは、漁場だったようです。<横浜の砂州>が冬場の北波を防ぐ防波堤の役割をしていたから中々の漁場だったのではないでしょうか。
その後、吉田新田干拓(1667年)によって、<内海>の漁場が野毛村近辺と横浜村外海が漁村として残された他は、いわゆる農業が行われました。
ただ新田がすぐに稲作に適した土地になることは無く、塩抜きを含め数年にわたる手入れが必要でした。干拓には約11年かかり、順次上流域から耕作地となっていきましたが幕府から正式に新田として認められるにはもう少し時間がかかります。
江戸時代、八割は百姓でした。その大半が農業従事者だったので百姓=農民と表現されるようになりますが、百姓は稲作中心の農民という姿以外にも多彩な生活スタイルを持っていました。
(百姓=地域に生きる多能工)
半農半漁、農業ができないから漁業も。
逆に漁業だけでは生活できないから農業も。
といった表現は百姓=農民、米生産者からの視点です。
石高制の幕府にとって米生産者は 最も歓迎すべき納税者でした。
現代におけるサラリーマン(源泉納税層)みたいなものです。
漁業従事者は一般的に網役(あみやく)という漁業年貢を収めていました。
年貢米と同様に、共同体単位で収めていたようです。

十七世紀に入り、兵農分離で闘う武士が都市生活者となり、安定した徳川時代が訪れます。治水・利水技術の発展と普及で山間地農業が河川域全般に稲作が広がり、江戸時代は急激に人口増と米の収穫増となります。
ただ、稲作は労働集約型なので人力が必要でした。
また江戸期からの農業は限られた田畑に<肥料>を投入する集約農業スタイルとなります。特に都市近郊農業は<糞尿>を有料で購入し投入することで収量を増やしていきます(金肥)。
では海辺や谷戸ばかりで<平地>の少ないエリアでは どのような生業で集落共同体は成り立っていたのか?
地に生きるとは、地(海)から恵を得ることです。生業とはそういうことです。
海付の村、海辺からすぐに谷戸となる地域の多い横浜は
農・漁・搬送を複合的に生業とする「漁師百姓」によって村落共同体が形成されていました。
漁場を巡る争い
19世紀に入り「内海三十八職」という取り決めが江戸湾内漁業従事者の間で行われます。江戸湾で認められた38種類の漁法のことです。
当時、江戸前には84の浦と、18の磯付(いそつき)村があったといわれていますが漁場を巡る争いも多く、都度話し合いによって解決してきました。
江戸時代も後期に入ると 都市近郊の在郷町に市場経済が発達し
漁業も江戸市場への稼ぎ頭となってきたため 漁法規制が必要になってきました。

文化13年(1816年)6月
江戸湾沿岸の相模・武蔵・上総の漁村44の代表が集まって会合を開き、一通の議定書を作成します。
・各漁村は毎年春に会合を開くこと。
・御菜八ケ浦が年番で代表を務め、会合の開催やその他重要なことは廻状によってそれぞれの村に伝えること。
・各郡にも年番の惣代を置いて議定書の内容を守らせるとともに御菜八ケ浦や他郡の惣代との連絡を行うこと。
・新規漁法を原則禁止とし、どうしても行いたいとする希望が出されたならば会合における合意を得ること。
等を取り決めます。
◆江戸湾内湾漁撈大目三十八職」または「内湾三十八職漁法」
手繰網(一名うたせ)
三艘張網
鮑漁
貝草取(貝藻取)
揚繰(あぐり)網
とび魚漁
こませ流し網※
肥取漁(ひとり網)
地引(ちびき)網
このしろ網
鰆(さわら)網
張網
貝類巻※
縄舟漁縄編漁
小晒(こさらし)網
投げ網※
あびこ流(網)
六人網
小貝桁網※
鰻掻(うなぎかき)
のぞき網(漁)
八田網
釣職一式(釣船)
海鼠(なまこ)漁
たいこんぼう網(一名かひかつら網)
鵜縄網
小網
ころばし網
鯔(ぼら)網
鯛縄
貝桁漁
いなだ網
四手(よつで)網※
丈長網
白魚網
藻流し網
歩行引網(かち網)
たつき(たたき)網
このしろ網
ななめ網
竿小釣網
※四十一種類ありますが
時期によって 種類が異なったようです。それにしても多彩です。

◆従来から使用を認められた漁具「小職」
簣引網、ズリ網、尨魚引抜網、蛎万牙漁、蛎挟漁、蜆流網、アサリ熊手漁、アミ漁網、サデ押網一名糖魚網、不笊漁、ウナギ筒網、ウナギ筌漁(方言ウケ、ドウ)、ウナギ抄(方言メボリ)、サザエ引網、鰌漁網、ボッサ縄、海苔桁網(方言ケタ網)
※その後追加された漁法
「エビケタ網」

領域を多彩な分類によって一つ一つ決めていくのは日本のお家芸ですね。

参考文献
「東京都内湾漁業興亡史」東京都内湾漁業興亡史刊行会
「巨大都市と業業集落」成山堂書店
安室 知(神奈川大学) 論文
「百姓たちの江戸時代」ちくま
「江戸日本の転換点」NHK

8月 20

第908話 【大岡川運河エリア史】漁師百姓

大岡川に関心を持った中で
江戸期の百姓の姿を知りたいと考えました。
そこで
この夏の集中テーマを江戸の「百姓」に置き 学習計画を立てました。
大岡川下流域、横浜村エリアに暮らした百姓の姿を推理するには何が必要か?
と考えたからです。
1667年に吉田新田が完成した以降、開港までの横浜村エリアの百姓はどんな暮らしをしていたのか?
●大岡川運河エリア
ここでは「横浜村エリア」を
吉田新田に関係するエリア=「大岡川運河エリア」と考えました。現在の「関内外エリア」という表現ではどうもしっくり来なかったので、大岡川運河エリアとしました。
では大岡川運河史をざくっと!まとめます。大岡川河口域に「吉田新田」が完成する前は蒔田あたりまで<海域>でした。
蒔田一帯は「塩田」や「漁業」を生業とする百姓が中心
吉田新田が1667年に完成したことで まずこのあたりの経済構造が大きく変わっていったと想像できます。
<海域>から<川域>になり
大岡川右岸から派川として中村川が誕生します。
干拓による人工の河川なので「運河群」といって良いでしょう。
吉田新田完成によって大岡川運河が誕生します。
中村川河口は?ちょっと判断が難しいです。
堀川ができるまでは大岡川本流の河口あたりで合流することになっていますが
現在の石川町駅あたりからは小さな入海ともいえます。(後の派大岡川)
この出口右岸側に浅瀬・沼地ができるようになり、
「太田屋新田」「横浜新田」ができあがます。
開港によって この地域の役割が大きく変わり
開港場が登場し 堀川が開削されて 関内出島が誕生。
おそらく このあたりで中村川が明確に見えてきたことで一般的に「中村川」となったのでは?<勝手な推理>
明治に入り
堀割川が完成し、吉田新田一帯の灌漑用水が整備され運河化して
一応の「大岡川運河エリア」整備が終わります。(つづく)

8月 14

第907話 九隻のペリー艦隊

ここに「横濱村辺之図」という江戸末期に描かれた絵図があります。
横浜の歴史を大きく変えた米国ペリー艦隊が横浜沖に集結している様子を描いたものです。
さて?
この絵図の描いた時期はいつごろか?最初にペリーが江戸湾に現れたのが
1853(嘉永六)年のことです。この時は、四隻の黒船で現れました。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」
という狂歌が有名ですが、作られたのは明治以降ではないか?というのが現在の定説のようです。
絵図に戻ります。この絵図には 黒船が8隻描かれています。
すると、時は1854(嘉永七)年、暮れには元号が変わり安政となった
この年に再び来航した時のペリー艦隊の様子を描いたものという可能性が出てきました。
実はペリー艦隊は、時差で日本を目指しました。
ペリー艦隊来航の様子を順を追って整理してみます。
まず、
2月11日(一月十四日)に一隻の輸送艦「サザンプトン」(帆船)が浦賀沖に現れます。
二日後
2月13日(旧暦は省略)に旗艦「サスケハナ」号以下<蒸気外輪船>が帆船を曳航するかたちで六隻江戸湾浦賀沖に到着します。
「ミシシッピ」(蒸気外輪船)
「ポーハタン」(蒸気外輪船)
「マセドニアン」(帆船)
「ヴァンダリア」(帆船)
「レキシントン」(帆走補給艦)
2月24日 艦隊は神奈川沖に停泊することになります。
これで 合計七隻が横浜沖に集結します。
細かいことですが旗艦がここで「サスケハナ」から「ポーハタン」に変わります。
さらに約一週間後
3月4日に「サラトガ」(帆船)が合流し、
3月19日「サプライ」その名の通り帆走補給艦が合流して
合計九隻とあいなります。
幕府は驚きます。予定より半年早い不意打ちに近いペリー再来訪だったからです。
前年の1853年に初めてペリーが四隻の黒船で現れたのに対し、
今度は九隻ですから倍以上の陣容で来航したことになります。
なかなかの威圧です。交渉は双方冷静に厳しく行われます。
ところが!この絵図には
艦艇が八隻しか見当たらない!

順を追うと
ペリー艦隊九隻目の帆走補給艦「サプライ」が到着していない!
ということになります。
この絵図が正確であれば
1854年3月4日以降、19日までの二週間に観測された図?
さらに描かれている絵をじっくり見ると
蒸気外輪フリゲート艦が3隻描かれています。
旗艦「サスケハナ」「ミシシッピ」「ポーハタン」
正確ですね。
かなり信用できる絵図ということでしょうか。
ということは
第一陣が来航し、最後の一隻が到着する間に日米交渉の場(応接所)が設営されている間、艦上で厳しい交渉に入ったあたりをこの絵図が描いているということになります。
その後、九隻のペリー艦隊の下で日米交渉が行われますが、
途中の3月24日には
蒸気外輪フリゲート艦「サスケハナ」号が香港に戻ります。
日米和親条約が幕府の応接所で無事締結されたのが
1854年3月31日(嘉永七年三月三日)です。
この日黒船は横濱沖に八隻停泊していたことになりますが
蒸気船は二隻、帆船が六隻という陣容でしたので
【結論】この絵図は、
1854年3月4日以降、19日までの二週間に観測されたと推理するのが妥当かと思われます。
締結後ペリー艦隊全艦は
1854年4月10日(嘉永七年三月十三日)
横濱沖を出発し、最初に幕府が拒んだ江戸湾奥まで艦隊を進め、羽田沖あたりまで侵攻(測量を兼ね)しますがこの辺りでUターンします。
幕府はかなり焦ったと思います。ペリーがUターンした理由は記録に残されていませんが
羽田沖は海苔の養殖棚が多く養殖の杭を江戸湾の防護杭とペリーは勘違いしたようです。
その後、一行は伊豆下田に本拠地を移し
日米関係に新しい時代が訪れます。
些細な史実ですが 解き明かす面白さを感じた一枚の絵図でした。

(関連ブログ)
No.412 多吉郎、横浜に死す。

4月 3

第884話【今日の横浜】4月2日リベンジ横浜!

 万治2年2月11日(1659年4月2日)
横浜の原点となった「吉田新田」の第二回鍬入れ(再開)の日です。 旧暦では2月11日ですが、ここではネタ用に西暦を使わせていただきます。
実は 吉田新田干拓計画はさかのぼるところ
1656年9月5日
明暦2年7月17日に江戸の吉田勘兵衛が江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得て、入海の新田づくり鍬入れ式を行います。
ところが
1657年6月21日
明暦3年5月10日に新田工事の最中、13日まで大雨が降り続き
6月24日に潮除堤が崩壊し干拓工事事態が中止に追い込まれます。
これに屈すること無く、吉田勘兵衛は新田開発再開を決意、
万治2年2月11日(1659年4月2日)に
再開の鍬入れが行われました。この再開の決意がなければ現在の横浜はどうなっていたのでしょうか?
様々な想像ができます・
ただ、大岡川の隣を流れる帷子川に見られるように 大岡川河口もしばらくして複数の干拓事業が行われたでしょう。地権者が増えることによって このエリアの発展がスムースに進んだか? その後も沼地のままになったかもしれません。  今年は、「吉田新田完成350年」にあたります。
一人の事業者によっていち早くこの一帯が整備された意義は大きいのでないでしょうか。
吉田新田事業「土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島」から持ってきたそうです。

(吉田新田前史)
今から約350年以前の横浜エリアは、山手から砂嘴が突き出し、その内側には大岡川の河口から釣鐘形をした深い入り海が広がっていました。
このくちばしのような<砂嘴>の突先に 弁天様が祀られ
洲干弁天と称しました。 1170年代、12世紀の治承年間 源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝えられています。以降、850年近く経ちます。
■枕詞を疑え!!
少々余談となりますが、横浜史の枕詞(まくらことば)に
「入江の砂州上の寒村であった横浜村の更に先端にあり」
「戸数約100戸の半農半漁の寒村・横浜村(今の関内地区)」
と決まってペリー来航以前を<寒村>をしますが、
私は違和感を感じます。ここが<寒村>とするなら 日本中の豊かな村とはどんな村なのか?問いたい!
国語辞典にも「かん‐そん【寒村】 の意味 貧しい村。さびれた村。」
「洲干弁天社は開港前から景勝地として知られ、開港後は開港場の中心をなす横浜町の入口に位置することから、横浜名所の一つとなり、茶屋などが集まった。(開港資料館)」
と近年 横浜村周辺の表現が変わりつつあります。
→横浜村風光明媚論は追って書きます。

<簡単横浜の新田史>
1640年代(慶安年間)には元町1丁目の増徳院が別当となります。
1656年(明暦2年)吉田勘兵衛、江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得ます。
1656年(9月5日)(明暦2年7月17日)吉田新田 鍬入れ式が行われます。
1657年(6月21日))明暦3年5月10日)から13日(6月24日)まで大雨で潮除堤が崩壊
★1659年4月2日(万治2年2月11日)
吉田新田 工事を開始 土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島から
1667年(寛文7年)吉田新田 完成
1669年(寛文9年)功績を称え新田名を吉田新田と改称
1674年(延宝2年)公式の検地、新田村となった。
1707年(宝永4年)宝永大地震の49日後に、富士山が中腹から大噴火
1761年(宝暦11年)検地を受け宝暦新田(大新田)<干拓洲>となる。
1779年(安永8年)検地を受け尾張屋新田<2町7反>となる。
1780年(安永9年11月)検地を受け安永新田<干拓洲>となる。
1817年(文化14年)検地を受け藤江新田となる。
1818年(文化15年)「横浜新田」の名が初見(完成は?)。
1830年(天保年間)程ヶ谷宿の豪商 平沼家と岡野家が大規模な埋め立てを開始。
1833年(天保4年)岡野新田鍬入れ
1839年(天保10年)検地を受け岡野新田となる。
1845年(弘化2年9月)検地を受け弘化新田となる。
1853年(嘉永6年)「太田屋新田」完成。
1854年 3月8日(嘉永7年)アメリカ海軍提督ペリーが黒船を率いて日本へ2度目の来航をし、横浜村へ上陸する。
1859年11月10日(安政6年)太田屋新田沼地を埋め立てて港崎町を起立し、港崎遊郭開業。
1859年6月2日(安政6年)横浜港が開港する。久良岐郡横浜村が「横浜町」と改称。運上所周辺には駒形町が、太田屋新田の横浜町隣接地には太田町
1864年(元治元年11月)野毛山下海岸を埋立て石炭倉庫6棟竣工。
1864年(元治元年)さらに検地を受け岡野新田拡大。
1867年(慶応3年)慶応の大火事の復興工事、町は和風から洋風への建て替えが始まり、石造りの洋風2階建ての「神奈川奉行所」完成。それを期に「横浜役所」へ名称変更。馬車道が開通する。
1868年8月(慶応4年)横浜町と太田町をあわせて二地区(上町・下町)に分け、5名の名主が担当した。
1869年(明治2年)洲干弁天社が移転。
1869年(明治2年3月)花咲町6丁目の内田清七、福島長兵衛ら県より請負い吉田橋北詰より野毛浦までの埋立てに着手。
1870年(明治3年)町屋の整った地域に長者町・福富町の二町が起立。
1871年7月(明治4年)横浜町と太田町の区域に正式に町名を付ける。本町・南仲通・北仲通・弁天通・元浜町・海岸通・堺町・太田町・小宝町・相生町・高砂町・住吉町・常盤町・尾上町・真砂町・港町・駒形町・羽衣町
1871年8月(明治4年)横浜関内各町を五区に分け、各々1名の名主が担当する。
1872年11月28日(明治5年)横浜役所は「横浜税関」へ名称変更。
1873年(明治6年)南一ツ目にあった遊水池(沼地)埋め立て、寿町ほか7か町が起立(埋地7か町)。
1873年5月1日(明治6年)神奈川県を20区に分け、区下に複数の番組を編成。横浜町は第1区1番組に編入される。
1873年5月1日(明治6年)平沼新田のうち、横浜道沿いの町屋が形成されていた箇所に平沼町が起立する。大区小区制により神奈川県第1大区3小区に属した。
1874年6月14日(明治7年)大区小区制に伴い、第1大区1小区に編入される。この頃伊勢佐木町ほか数町が起立
1874年8月1日(明治7年)堀割川開削完了。中村・大岡・吉田の各川に航路が開通。
1876年(明治9年)洋式の公園「横浜公園」が開園。
1878年(明治11年)郡区町村編制法により以前の新田村が復活し、久良岐郡平沼新田、橘樹郡岡野新田に戻るが、平沼町は横浜区に編入された。(久良岐郡より独立)
1878年11月21日(明治11年)郡区町村編制法に基づき、横浜区となる。(久良岐郡から分離)
1878年7月(明治11年)市街地化した南三ツ目・北四ツ目までが横浜区に編入
1880年(明治13年)南三ツ目に高島町遊廓が移転
1889年(明治22年)市制町村制が施行され、平沼新田は久良岐郡戸太村に、岡野新田は橘樹郡保土ヶ谷村に、平沼町は横浜市にそれぞれ編入される。
1889年(4月1日)明治22年 市制施行により関内全域が横浜市となる。久良岐郡吉田新田から久良岐郡戸太村大字吉田新田となる。
1894年(明治27年)横浜港鉄桟橋(現:大さん橋)が完成する。
1895年(7月1日)明治28年 町制施行により久良岐郡戸太町大字吉田新田に。
1901年(明治34年)戸太町(戸太村が町制を施行)と保土ケ谷町の一部が横浜市に編入され、西平沼町と岡野町が置かれる。
1901年4月1日(明治34年)横浜市に編入。大字吉田新田の地に南吉田町を起立。全域が市街地となる。
■ざくっと一覧にして
関内外エリアがあらためて 埋立ての町=運河の町であることがわかります。
No.701 運河の街誕生(序章)

No.187 7月5日(木) 目で見る運河

番外編ですが
堀割川の話です。ちょっと力作(自分的には)
No.437 横浜ドラゴンズ、吉田さんに斬られる!

7月 19

第852話 7月19日京浜急行と権現山の戦い

京浜急行神奈川駅は京急線の中で一番“狭い”ホームのある駅です。(感覚です。実際測っていません)
開業は1905年(明治38年)12月24日、歴史ある駅です。
light20150211神奈川駅 lightP2110494 lightP2110514今日は駅そのもののエピソードは別の機会に譲ります。
神奈川駅のある一帯は明治期に鉄道を敷設する際、丘陵の一角を大きく削りました。
神奈川駅を挟んで両側が繋がっていました。light台場神奈川駅東京に向かって右側(東側)の駅際にある小高い丘が「幸ケ谷公園(権現山)」、反対側の西側が高島台にあたります。
今日は横浜の歴史を一気に戦国時代へと時間を戻しましょう。
時は16世紀初め、永正7年(1510年)7月19日の今日は、9日間も壮絶な権現山(ごんげんやま)の戦いが終わった日です。
「権現山の戦い」とは、上杉連合軍がここ権現山を居城とした上田勢と支援した北条氏を破った戦いです。
江戸時代に本格的に整備された東海道ですが、それ以前から東海道は太田道灌の開いた江戸と西国を結ぶ重要な道でした。東京駅から東海道線に乗ると品川近辺の御殿山を過ぎると、平坦な道が続きます。
神奈川県に入り最初の丘陵がここ<神奈川>です。
中世から、権現山は街道の要衝にあたり、戦略的に重要な場所でした。
当時武蔵の国一帯は上杉一族の勢力下にありました。その南端にあたる城が権現山城で扇谷上杉朝良家臣<上田蔵人政盛>が城主として一帯を治めていました。ここに、波乱が起こります。伊豆にあった北条早雲が、鎌倉まで勢力を伸ばし、さらには武蔵の国へと侵攻します。
この時、早雲は権現山城主であった上田 政盛に、上杉傘下から我が北条の仲間になれというメッセージに呼応し兵を挙げます。
この権現山の戦いに関しては上田 政盛が早雲の策略に乗って主君<上杉>を“裏切る”といった表現が多いようです。
「伊勢宗瑞(北条早雲)の調略に応じて相模国境に近い武蔵国権現山城で挙兵した。」
「まず扇谷上杉朝良の家臣・上田政盛を寝返らせ、修築したばかりの相模国<ママ>権現山城に据えた。」(文中相模国→武蔵国)
「早雲は永正4年(1507)、越後の守護代長尾為景(ながおためかげ、1489〜1543・上杉謙信の父)と守護上杉房能の戦いに乗じて、扇谷上杉氏家臣の権現山城主上田政盛(うえだまさもり、生没不詳)を寝返らせます。」
資料を読むと事態はそれほど単純では無く、関東上杉家の<内紛>が<上杉家>に反旗を翻す要因と考えるのが妥当と思われます。元々、権現山城主 上田政盛は扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家臣でした。ところが、同じ上杉家の<山内上杉家>によって領地だった神奈川湊を奪われてしまいます。ここに<山内上杉家>に対する反感(恨み)が生まれ、新たなる勢力となってきた北条早雲に与します。
ただ悲劇なのは、この反旗によって仲違いした扇谷上杉家の上杉朝良と山内上杉家の上杉憲房が連合で上田政盛の挙兵した権現山城を圧倒的陣容で包囲し壮絶な戦いが行われ、早雲の援軍が到着する前に陥落します。
※一説では上田政盛は生き残り、後に扇谷上杉家家臣として復活したという説もあります。

この権現山の戦いをキッカケに関東全域をめぐって伊勢氏(後の北条氏)と上杉氏との同盟関係が完全に破綻、戦国時代の覇権争いが激化していくことになります。

(神奈川台場)
この権現山の戦いの舞台となった場所は現在幸ヶ谷公園となっています。ただ戦いのあった当時よりかなり<低く>なっています。
ペリー来航後、急遽神奈川台場を構築するにあたり、埋立て用の土砂がこの権現山の山頂部分を削って使用されたため低くなり<台形>に変わっています。

※余談
この権現山の戦い、2万の上杉勢に対し2000の将兵で迎え撃った上田政盛陣営は圧倒的大軍の前に惨敗しますが、そこに
「19日上杉勢がなだれのごとく城内に乱入した時、城中より「我こそ神奈河の住人間宮の某」と叫びつつ上杉に突入した勇ましい武士がいた。神奈河(今は神奈川と書く)住民間宮とは信冬もしくは子の彦四郎信盛と伝えられている。」
この間宮は討ち死にせず戦のあと笹下に居を構え、北条政権下磯子一帯の領主となります。この間宮家が杉田家となり産業の少ないこの地で梅林などの殖産に務めました。

No.201 7月19日(木)港を感じる絶景ポイント
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=406
横浜港のある東京湾は、船舶の航行が集中するポイントにあたります。
船舶通航信号所として
1986年(昭和61年)7月19日(金)「横浜港シンボルタワー」が完成しました。

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3月 8

【ミニミニ今日の横浜】3月5日

タイムリーなネタから

1854年(嘉永7年3月5日)
「吉田松陰、海外渡航を狙って保土ケ谷宿にくる。」
数え年・25歳の時のことです。

ペリーが来航した際、一年後の再来を予告し去りますが、
半年も早くペリーは
1854年2月13日(嘉永7年1月16日)
琉球を経由して再び浦賀に来航し幕府を慌てさせます。その後も次々と艦船が江戸湾に入港、
3月19日(嘉永7年2月21日)
最終的に総勢9隻のペリー艦隊が江戸湾に集結します。
この時 ペリーに直接会う!と決めた人物が吉田松蔭です。足軽の金子重之輔と二人で、まず東海道の「保土ケ谷宿」に入り、そこから横濱に入ります。(おそらく 保土ケ谷道から戸部に出た?)
light_吉田松陰 ところが横濱では沖のペリー艦隊に近づくことが実行できず失敗。
ペリーが下田に移動したことを知り、伊豆に向かった松蔭らは海岸につないであった漁民の小舟を盗み艦船に向かい旗艦ポーハタン号に乗船、渡航を直訴しますが拒否され、断念。幕府の命で萩の野山獄に幽囚されることになります。下田踏海事件というそうです。
これを美談とするのか、愚行とするのか? 意見が別れるところです。
日米ワシン

No.65 3月5日 サルビアホール一周年(改訂)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=554
今日は 短く 失礼します。

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12月 30

No.701 運河の街誕生(序章)

江戸時代の日本は、同時代の世界経済史上からもユニークな経済体制だったといわれています。
幾つか理由が挙げられますがその一つが17世紀から2世紀半戦争(領土拡張も)無かったことです。緩やかに成長しながら循環型社会が出来上がったことで日本を比較的安定した経済状態を維持することができました。

この経済の中核を担ったのが<米(こめ)>でした。
江戸時代の経済は絶妙な「石高制」が支えたのです。
ここに利水・治水技術の革新と<稲作>の転換により米の増収が可能となり全国の諸藩は河口部の干拓事業を積極的に推進します。
(河口干拓)
現在のような河口域の青田風景は近世に出来上がります。
それまで河口域は豊富な水があることにはまちがいありませんが、一度大雨となると田畑は根こそぎ流されハイリスクな場所となっていました。中世から近世にかけて日本の稲作は、谷あいの筋に作られ<谷戸田><谷池田>と呼ばれます。

江戸時代に入り、河口部の開墾事業が<官><民>で盛んに行われるようになります。特に民間の事業者は開墾事業(干拓・埋立て)をすることで土地の所有権や、名字帯刀などの名誉も受けられたため積極的に事業申請が行われます。
この頃、江戸に港都横浜誕生の恩人が登場します。
千住中村の音無川流域の湿原を干拓事業に成功し、木材・石材の販売や新田の農業経営に才能を発揮していた江戸の木材・石材問屋「吉田 勘兵衛」です。
light_吉田勘兵衛碑彼は、江戸での事業を果敢に進めますが、幕府に申請した目標千石に至りませんでした。
そこで勘兵衛は関東近在から戸部村近くの大岡川入海に着目します。

十七世紀中頃の話です。
江戸袖ヶ浦近辺1656年(明暦2年7月17日)に埋立てを開始し釣鐘形の入り海を11年の歳月をかけて埋め立てます。
大岡川入海は約35万坪、横浜近辺の埋立ての中では歴史が一番古い<大普請>となりました。
簡略図をみても明らかなように、江戸時代に河口は「帷子川」「大岡川」の二つありました。勘兵衛は何故「大岡川」河口を選んだのでしょうか?

横浜の歴史で必ず習う「吉田新田」が開拓されることで、<横浜開港>が現実のものとなります。干拓前の入海状態では、国際港を支える<開港場>の形成は難しく日本側も欧米列強側も<横浜港>議論にはならなかったに違いありません。

もし?帷子川河口が大規模に<埋め立て>られていたら、開港場は変わったかもしれません。
ここに歴史の面白さが広がっていきます。
大岡川河口域の<入海>と帷子川河口域<袖ヶ浦>を比較すると
農業経営に適した新田事業候補地として考えた時
帷子川河口域<袖ヶ浦>干拓は非現実的でした。
神奈川宿(湊)に近い帷子川河口域芝生村近辺は、東海道筋にあたり帷子川を使った水運経済が盛んだったことで埋め立てる理由がありませんでした。
一方の大岡川河口域の<入海>は、江戸中期には河口域の半分が遠浅で船の利用が難しくなっていたようです。
しかも<入海>全体をまとめて干拓するスケールメリットがある点も勘兵衛はこの地に着目した点でしょう。
吉田新田

これに対して帷子川河口域<袖ヶ浦>の埋め立ては、江戸後期に沿岸部が徐々に部分的に進められます。埋め立てのきっかけとなったのが
宝暦の「富士山噴火」でした。神奈川県一円に大量の火山灰が降り落ち、上流の支川に流れ込み入江に沈殿するようになります。
川を使っていた帷子川河口域の人たちは必要に迫られて河岸の整備(埋め立て)を幕府に申請します。
帷子川河口域は生活防衛のために新田を開拓していきました。

(帷子川河口域の新田史)
1707年(宝永4年)
宝永大地震の49日後に、富士山が中腹から大噴火が起こります。
徳川吉宗の新田開発推奨により尾張屋新田・藤江新田・宝暦新田など帷子川河口の岸沿いに「塩除け堤」を築き小さな新田開拓が行われます。
1761年(宝暦11年)検地を受け宝暦新田(大新田)<干拓洲>となる。
1779年(安永8年)検地を受け尾張屋新田<2町7反>となる。
1780年(安永9年11月)検地を受け安永新田<干拓洲>となる。
1817年(文化14年)検地を受け藤江新田となる。
約半世紀かけて 河口域の岸辺が整備されます。
1830年(天保年間)程ヶ谷宿の豪商 平沼家と岡野家が大規模な埋め立てを開始。
1833年(天保4年)岡野新田鍬入れ
1839年(天保10年)検地を受け岡野新田となる。
1845年(弘化2年9月)検地を受け弘化新田となる。
1864年(元治元年)さらに検地を受け岡野新田拡大。
しかし、完全に帷子川河口埋め立てが完了したのは大正時代までかかります。
帷子川河口新田変遷

(大岡川河口新田史)
1656年(明暦2年)吉田勘兵衛、江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得た。
1656年9月5日(明暦2年7月17日)吉田新田 鍬入れ式
1657年6月21日(明暦3年5月10日)から13日(6月24日)まで大雨で潮除堤が崩壊
1659年4月2日(万治2年2月11日)吉田新田 工事を開始 土は天神山、中村大丸山、横浜村の洲干島
1667年(寛文7年)吉田新田 完成
1669年(寛文9年)功績を称え新田名を吉田新田と改称
1674年(延宝2年)公式の検地、新田村となった。
1859年11月10日(安政6年)太田屋新田沼地を埋め立てて港崎町を起立し、港崎遊郭開業。
1859年7月1日(安政6年6月2日)横浜港が開港する。久良岐郡横浜村が「横浜町」と改称。運上所周辺には駒形町が、太田屋新田の横浜町隣接地には太田町
1864年(元治元年11月)野毛山下海岸を埋立て石炭倉庫6棟が竣工。桜川の誕生。

(まとめ)
吉田勘兵衛が、江戸で成功し新たな事業として大岡川河口干拓に着手。
農業事業として干拓を考えたため事業リスクはありましたが一気に<入海>全体の干拓事業を構想したおかげで まとまった港の後背地が誕生します。
宝暦の富士山噴火で入江に大量の灰が流れ込み帷子川河口域の埋立てが促進されます。沿岸の人たちが必要に応じて順次埋立てを進めていきます。
なかなか全域の埋め立てには至りませんが、入江の埋立て全体の骨格が形成されていきます。この入江のエッジが開港場の要となった<横浜道>筋となります。
1874横浜道ペリーが来航し、一気に横浜開港へと歴史が展開します。
二つの大きな入江が、それぞれの自然条件とここに関わる人々の情熱が重なり合うことで、横浜が<開港場>として誕生することができたのです。
新田3

※斎藤司先生の講演を元に構成させていただきました。

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10月 12

【一枚の横浜絵葉書】神奈川熊野神社(688話)

ここに偶然手に入れた二枚の戦前の絵葉書があります。

light_神奈川熊野神社神殿light_神奈川熊野神社正面 タイトルは「熊野神社拝殿(神奈川)」と「熊野神社正面(神奈川)」
この「熊野神社」は現存するのだろうか?
するとすればどこか?探してみることにしました。
この作業、意外に難しかったので、推論のプロセスを簡単にトレースしてみます。
●第一段階
この二枚の絵葉書は表面から戦前の発行であることが判りました。(ここでは画像は省略します)
ではこの「神奈川」は神奈川県を示しているのか?それとも横浜市内の神奈川を示しているのか?
この絵葉書の神奈川は横浜の<神奈川>と考えるのが妥当だと思います。一般的に県下全般の表示は特別な施設に限られていて 多くは地域の地名が入っているからです。

●第二段階
戦前の神奈川は現在の神奈川区に含まれほぼ一致します。そこで神奈川区に熊野神社が幾つあるのか?ネットで探すと熊野関係は三社が見つかりました。
○<東神奈川熊野神社> 神奈川区東神奈川1-1-3
○<熊野社> 神奈川区菅田町2712
○<須賀社> 神奈川区菅田町熊野台2669(地名が熊野台なので関連を考えました)
近隣の鶴見区にも3社ありましたが地理的にも離れているので除外しました。
▲熊野神社 横浜市鶴見区市場東中町9-21
▲熊野神社 横浜市鶴見区寺谷1-21-7
▲熊野神社 横浜市鶴見区北寺尾2-3-30

神社には社格というランクがあるのですが、絵葉書になる位ですから、地域を代表する神社だろうと推定できそうなので、神奈川で一番の神社を探したところ「東神奈川熊野神社」にほぼ間違いないことが判りました。
light_PA120087 この「東神奈川熊野神社」以前訪れたことのある神社です。京急仲木戸駅からほど近い住宅街の中にあります。
ところが、絵葉書と現在の社殿、鳥居の姿・軸が異なります。
light_PA120067これではここだ!と確定することができません。では「東神奈川熊野神社」の歴史を追ってみました。
■寛治元年に神奈川郷の鎮守として権現山(幸ヶ谷山上)に勧請
■応永五年正月山賊等のため祠宇焼失
■明応三年再建
■永正七年、権現山合戦で火災などですべてなくなる。
■正徳二年(1712)現地に遷座
■慶応四年正月大火で類焼、その後、社殿、神楽殿、神輿庫等を整備
<絵葉書の発行された時期はこの間あたりと推定できます>
■昭和二十年五月二十九日戦災(横浜大空襲)により焼失
■昭和三十八年八月現社殿を再建
■昭和三十九年に竣工奉祝祭。鳥居、玉垣、氏子会館(四十九年)、戦没者慰霊碑(四十一年)を建設
という記録がありますので、戦災で失った後の再建で社殿の様式が変わった可能性が判ります。この記録を解釈する限り<狛犬>は再建されていないようですので、絵葉書と現在の神社から痕跡を探す必要がでてきました。実際 現地に行ってみることにしました。

結果は実に簡単に判明しました。神社の方に写真を見せたところ、
「焼ける前のものですね」という答えをいただき、この絵葉書が「東神奈川熊野神社」であることが確定しました。なぜ建築様式が変わったのか?についてはご存知無く、今後の課題となりました。

light_PA120063
現在修復された「吽」形狛犬

「当時の狛犬が残っています」

スクリーンショット 2014-10-12 18.29.23

light_PA120077
現在残る「阿」形狛犬

スクリーンショット 2014-10-12 18.31.03合致しました。阿吽の内 本殿に向かって左側の「阿」は嘉永年間 「吽」は平成に入って修復されたものです。幕末期の記憶が残されていました。この「神奈川熊野神社」起源は近くの「権現山」です。次回は権現山から梅干しの道を探ってみます。

7月 29

横浜史最大級のミステリー?

このブログのネタは歴史的転換期となった横濱開港あたりがどうしても多くなってしまいます。今回も幕末ネタでご勘弁ください。

ただ、私の筆力を除けば“横浜最大級”のミステリーであることは間違いありません。
lig_中居屋重兵衛碑横浜市中区の関内にある“桜通”にひっそりとある記念碑が建っています。
「生糸貿易商 中居屋重兵衛店跡」
中居屋重兵衛(なかいやじゅうべえ)
Wikiでは
http://ja.wikipedia.org/wiki/中居屋重兵衛
「中居屋 重兵衛(なかいや じゅうべえ、文政3年3月(1820年)〜文久元年8月2日(1861年9月6日))は、江戸時代の豪商・蘭学者。火薬の研究者としても知られる。中居屋は屋号で、本名は黒岩撰之助(くろいわ せんのすけ)。」
記述内容も少なく、断片的に史実を表記しているだけで、中々彼の人生は見えにくいようです。
1859年(安政6年4月)に文献に登場した中居屋 重兵衛は、他の群馬商人と共に本町通近辺に生糸関係の店を開きますが、lig_役宅39lig_安政六年中居屋店位置2年後の19611861年(文久元年8月)に店で起こった火事以降、突如姿を消します。
失踪の理由には諸説ありますが、
たった2年の間に開港場で三井の商店を遥かに上回る豪勢な銅御殿の店構えとなり、当時の原善三郎もその他の生糸商も少なからず中居屋 重兵衛の供給する上質な生糸・絹の恩恵を被っていたはずです。
ところが、記録から消えてしまいます。同時代の商人たちの記録にもまるで「箝口令」が敷かれたようです。

lig_201312絵はがき017
<文久二年発行「開港見聞誌」玉蘭斎 貞秀>

たった2年の期間に
いくら一攫千金の商いを求めた“山師”的な商人が全国から横浜に押寄せたとしても、成功の絶頂期になんらかの大きな力が働いたとしか考えにくいために
“陰謀”“暗殺”といった話が中居屋 重兵衛の周辺につきまとったまま時間が流れてしまいました。中でも井伊直弼暗殺の陰の立役者という説は荒唐無稽とは言えかなりの説得力があります。小説としてはすばらしいネタです。
とにかく信憑性のある資料が少ない点も彼を謎の人物にしてしまう大きな理由の一つです。
※実際の中居屋商店は、重兵衛失踪後も細々と続き、1870年(明治3年)に店を閉じたという資料が見つかっているそうです。
lig_P1060002.jpg中居屋 重兵衛に関する研究資料を幾つか読むとそこに意外な側面が見えてきます。
まず中居屋 重兵衛は武器商人であったことは間違いないようです。
上野国吾妻郡中居村、現在の群馬県吾妻郡嬬恋村三原から江戸に出るころ中居屋 重兵衛こと本名 黒岩撰之助は郷里群馬か江戸のどちらかで火薬の製造法をマスターします。
中居屋研究の第一人者である萩原進氏は「炎の生糸商 中居屋重兵衛」(有隣新書)で、大胆にも郷里を訪れた佐久間象山に「群馬」で火薬製造法を学んだ説を採っています。藩の命令で中居屋=黒岩家が火薬製造法を学んだと思われる資料もあり、この辺の歴史的判断は難しいところです。

中居屋 重兵衛が最も才能を現したのが「生糸ビジネス」です。
開港場に江戸を中心に商人が集まりますが、ビジネスコミュニケーションが殆どできない状況下、“一体 何が売れるのか?何を仕入れることができるのか?”殆ど手探り状態で開港場の西半分にニワカ仕立ての商店を建て、手持ちの商品を並べ始めた中でいち早く「これは絹・生糸製品だ!」と確信し
生産現場をおさえ、品質管理を行い一気に開港場への物流を確保した(数少ない)一人だったようです。
居留地でのビジネスは、商店を構えて小売りするのではなく、居留地の外国商館のまとめ買いに対応する“仲買”的な役割が莫大な利益を開港場商人にもたらしました。
居留地の日本人商人たちは“走り屋”と呼ばれ、居留地外国商館のニーズとオファーにいち早く応えることが成功への近道でした。
重兵衛にはその才があったということでしょう。そこには幕府の“掟”破りもじさない強引さもあり、また政商として派手に動き回ることで幕府を含め“敵”も多くなることは当然の結果かもしれません。

「中居屋 重兵衛とらい」小林茂信 皓星社(現在絶版)では、
群馬の生家黒岩家では古くから「ハンセン氏病」=「ハンセン病」を治療する家であり、黒岩撰之助=中居屋 重兵衛もまた、ハンセン病治療の「生き神様」と呼ばれた人物としました。ところが、歴史に残っている癩治療史には一切残っていないというミステリーを解き明かそうと試みた資料です。商人としての中居屋 重兵衛に歴史的資料が皆無でしたが、ハンセン病の専門医でもある小林茂信氏の資料には、傍証が数多く挙げられています。
ところが、この小林説の元となった「中山文庫(資料)」に疑問を持ち、<真贋>追求していったプロセスを描いたのが
「真贋ー中居屋重兵衛のまぼろし」(1998年・松本健一著 原本1993年新潮社刊)です。
著者 松本健一は2014年(平成26年11月27日)
に亡くなった日本近代史・精神史を追求した人物で実際に「中山文庫」の出所先を追います。結論は<贋作>の積み重ねから作られたフィクションと結論づけます。
中居屋がこのハンセン病治療の「生き神様」でなくとも分かる範囲だけでこの時代のパイオニアであったことは間違いありません。

多くの群馬商人の中で飛び抜けて行動力と商才に優れた中居屋 重兵衛は、「絹の道」によって群馬と横浜を繋ぎました。高島嘉右衛門同様、政商のイメージで評価が低くなっているかもしれませんが、高嶋・中居屋 この二人抜きに横浜開港場の歴史は語ることができません。
今後の研究に期待したいところです。

No.302 10月28日(日)全ての道は横浜に 

中居屋重兵衛の墓
lig_中居屋重兵衛群馬碑嬬恋村三原
県指定史跡 1956年(昭和31年)6月20日