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陸橋も含む

第947話【横浜の橋】リユース都橋(みやこばし)

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※なんとサボりにサボって2018年初ブログです。まずは慣らし運転で。

大岡川の橋を良く渡ります。
中でも「都橋」を渡ることが一番多く、好きな橋でもあります。橋には<蒲の穂>をモチーフにしたレリーフが飾られています。親柱の電灯にも重厚感があります。時折カモメが止まっている風景は港街を感じさせます。
「都橋」これまでもこのブログで何回か書いています。まずはこれらをちょっとまとめてみました。
No.425 川の交差点、都橋界隈

No.425 川の交差点、都橋界隈


【番外編】 1月29日謎解き都橋

【番外編】 1月29日謎解き都橋

都橋は鉄道が初めて開通した1872年(明治5年)に「野毛橋」から改名した橋です。
野毛橋は幕末に「横濱道」が突貫工事で開通したことによって一躍重要な橋となりました。

「野毛町一丁目往還北側茅屋を毀ち、道路を改修し、野毛橋を毀ち、更に北方へ凡そ三間位置を換へ、橋台を築造し、無杭木橋に改造し、都橋と改称す同月野毛橋の古材を太田村に移し、以て栄橋を架す。」

埋立と護岸整備が進み、
幕末期に架けられた野毛橋の位置より三間(約10m)下流に都橋が架替えられます。当時の絵地図から類推すると、当初は子の神社脇を通り野毛橋へと繋がっていた<横浜道>が整備され道筋変更に伴い橋の位置も変わったようです。
(再生)
野毛橋の部材を再活用し上流の栄橋を架けたとあります。
リユースですね。
1882年(明治15年)に都橋は木橋から鉄橋に代わり、関東大震災で被災、しばらく暫定の木橋が架けられていましたが、1928年(昭和3年)7月に震災復興橋として生まれ変わります。この時に中村川に架かっていた「共進橋」の親柱を再活用され完成しました。 橋梁部材は、江戸期<木製の時代>から今日の鉄骨の時代まで時折条件次第で再利用されてきました。大岡川下流域では、西之橋が浦舟水道橋として再生されました。新山下の「霞橋」も部分的リユースです。
(都ぞ春)
都橋の「都」は、9世紀後半に古今和歌集で素性法師が詠んだ「見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」に因んでいます。すでに大岡川本支流に架かっていた「柳橋」「櫻橋」を元に鉄道用地埋立で作られた櫻木川(櫻川)に架かる「錦橋」と共にこの句が当てられたと思われます。
第885話【横浜の橋】都ぞ春

第885話【横浜の橋】都ぞ春

第931話【横浜の風景】伊勢佐木から山手

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この画像は、伊勢佐木から山手方向を撮影したものです。
撮影時期を推理してみます。
風景の左に横浜市役所が見えます。
歴代の歴史から画像にある市役所は
二代目市庁舎(1911年~1923年)と思われます。
(三つの橋)
市役所の横を流れる派大岡川に架かる
トラス橋の「港橋」と
アーチ橋の「花園橋」、
桁(ガーター)橋の「吉浜橋」が見えます。
代表的橋の構造が三種類見える風景も中々ありませんね。
ちょっと見えにくいですが。


山手の建造物群はまだ本腰をいれて時代別の整理をしていません。いずれやらなければならない課題の一つです。
もう一つ大きなヒントが写っています。
画像の下ギリギリに有隣堂のロゴ看板が見えます。
伊勢佐木にある老舗書店有隣堂本店は「第四有隣堂」として1909年(明治42年)12月13日に創業します。
No.348 12月13日(木)いっさつの本があれば

No.348 12月13日(木)いっさつの本があれば


創業時は木造2階建ての店舗で、
1920年(大正9年)に株式会社となり、これをキッカケに間口5間・奥行15間の3階建店舗を新築します。
ここに写っている社屋は 2階建てなのか三階建てなのか?
このロゴは何時から使われているのか?
このあたりが判ればもう少し絞り込みができるかもしれません。
当時の横浜情報として「横濱貿易新報」の大正9年12月17日付け記事に
歳末お歳暮特集が組まれていて、市内のお店紹介記事が掲載されています。
ここに大正9年に完成した有隣堂の紹介記事が写真入りで紹介されていました。

写真外観を確認すると、(画像では見難い)風景写真に写り込んでいる有隣堂と同じだろうと判断できます。
この風景写真は1920年(大正9年)12月から
1923年(大正12年)8月までの間に撮影されたものだろうと思われます。

第927話【金沢区物語】島にもどった野島

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「野島(のじま)は、神奈川県横浜市金沢区の平潟湾に浮かぶ島である。かつては砂州によって陸続きの陸繋島であったが、水路の建設などで分断され、島となった。(wikipedia)」

野島沖

野島
かつては島で、海流の作用で陸続きの<陸繋島>ということらしい。近世には地続きとなっていたようですので上記の表現、<水路の建設などで分断され、島となった。>とネガティブに表現しているけれど<戻った>ってことですね。

野島の夕照

横浜市では
「安藤広重の描いた「野島夕照」で知られる野島は、現在のこの公園のあたりといわれています。公園前面の海岸は、埋立てにより失われた中で残された市内唯一の自然海浜で、江戸時代には称名寺と共に物見遊山の客で賑わったそうです。第二次大戦中は巨大な地下基地が構築されましたが、戦後まもなく横浜市が立てた大臨海公園の計画に基き、大蔵、建設の両省と幾多の折衝を重ね国有地の無償貸与を受け、隣接民有地も買収し昭和30年から整備を行いました。昔の地形の特徴をそのまま残している野島山には、新しい展望台が、またその周りの運動広場、野球場、青少年研修センター、キャンプ場などは臨海のレクリエーションゾーンとして親しまれています。(横浜市環境創造局)」
ここでは、野島運河の話や経緯については触れていません。

■野島山展望台
野島の観光スポットである展望台は海抜57mあります。眼下には隣接する「海の公園」や八景島シーパラダイス」が広がり、反対方向では晴れた日に遠く丹沢、富士の山並み海側は房総半島を望むことができます。
平潟湾の夕照は昔と変わらない美しさを楽しむことができます。
■旧伊藤博文金沢別邸
野島にはもう一つ重要な観光スポットがあります。伊藤博文の別邸が復元されて公開されています。1898年(明治31年)に建てられ、ゲストハウスとして活用しました。
老朽化が進んでいたため解体工事・調査を行い、現存しない部分を含め、創建時の姿に復元し庭園と併せて整備し公開しています。
http://www.hama-midorinokyokai.or.jp/park/nojima/hakubuntei/outline.php
■平潟湾
平潟湾は横浜市内の湾岸部でも貴重な海岸線を残していますが、それでもほとんど失われてしまった風景です。侍従川、宮川、六浦川、鷹取川(横須賀市)の小河川が湾に流れ込んでいます。
近世後期の時点では、野島は陸続きで歩いて渡れる観光地でした。
ここに水路(野島運河)を作り、島化したのが現在の野島です。
島となった背景には、夏島が軍事基地として埋め立てが進められに、野島と接近したことで平潟湾の出口が無くなったため「野島運河」が作られました。
いっそのこと野島と夏島をつなげてしまえば!!と思いましたが、埋め立てしない理由があったのでしょう。
戦後、海苔養殖を営む漁業従事者と近隣の埋立地に進出する工場から出される排水の被害を巡って対立が起こります。
平潟湾を含め、金沢(柴漁港)の漁業権闘争の歴史は凄まじいものだったようです。
平潟湾には「金沢漁業協同組合」単独の共同漁業権(採貝採藻など)と区画漁業権(魚類養殖などの養殖)が設定されていました。一部横須賀の漁協と入漁権契約(山林の入会権)を結んでいました。
平潟湾に関しては 現実的に夏島などの埋立地により追い詰められていたこともあり、新たな24ha埋立交渉は昭和37年10月に始まり、約半年の厳しい交渉で3月に決着します。
熾烈な反対運動が行われたのが金沢地先埋立計画でした。
平潟の埋立事業交渉で先鞭をつけた形でしたが、昭和43年7月に発表されると同時に
柴・富岡・金沢の三漁協は強く反対を表明します。ここでは反対から妥結までの詳細な経緯は紹介しませんが、
現在ほぼ旧来の海岸線と漁業権を失った横浜湾岸は南北で大きく漁業再生事業の流れが分かれる形となります。根岸以北の多くの業業従事者は陸に上がり漁業から離れる結果となりましたが、南部の漁業はすべて満足という形ではないにしろ、転業を含め近海漁業が残っているという点で、今世紀の横浜にとって<救い>ではないでしょうか。海苔の栽培、蝦蛄漁他、金沢では美味しい海の食材を現在も提供し続けています。
野島を楽しみ 野島を眺めながら海を楽しむ
「海の公園」
本来の浜辺では無く<人工海浜>公園ではありますが、海辺が守られ、海と触れ合う空間がここに維持されていることは大切にしていきたい横浜の資産だと思います。
No.51 2月20日 海の公園計画発表
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=570
お薦め
海の公園「かき小屋」
平成29年11月1日(水) 〜 平成30年3月31日(土)
http://www.kanazawarinkaisv.co.jp/kaki.html
横浜市金沢区海の公園10
080-1218-3967
11:00〜21:00

第919話【横浜の小さな橋】大清水橋(滝ノ川)

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Google Earth

滝ノ川に架かる「大清水橋」
かな表記は「だいしみずばし」だが市の橋梁台帳では「おおしみずはし」となっている。読みが全く異なるもの珍しい。理由は近所に60年暮らす方に聞いても解らなかったが、その方は「おおしみずばし」だと思っていたようだ。
滝の川だと神奈川区、滝ノ川は境川の小派川となる。「滝ノ川」の名は神奈川東京に多くあり、小さいが時に滝のように流れるからかもしれない。
横浜市戸塚区小雀町付近(公文学園)あたりを源に横浜市と鎌倉市の境付近を沿うように流れ、藤沢市に入り、藤沢宿近くで境川に流れ込む。普段は殆ど水量の少ない川だが、一旦雨が降ると一気に水量が増し、両脇の畑が浸水することもあるという。
長さと幅がほぼ同じくらいなので橋面は四角い感じがする。記憶違いかもしれないが、
かつてこの橋の近くを横浜ドリームランド線(モノレール)が走っていたころ、車両が交差するポイント近くを流れる小さな川の記憶が残っている。
少し小高い尾根筋のような<国道1号線>と横浜市水道局小雀浄水場のある丘に挟まれた谷戸が滝ノ川。現在も川沿いには畑が多く残っている。実はこの「大清水橋」はかつて神奈川有数の渋滞交差点「原宿」の迂回路として使っていた個人的に懐かしい橋だった。今冷静に地図を眺めるとやたら遠回りで、少しは時間短縮に役立ったのかドウか実に怪しい抜け道だ。でも渋滞で頻繁にアクセルとブレーキを踏むより<走る>ことでストレスレスだったのかもしれない。
ただ少し小高いところから<冬場に限るが>見る富士はなかなかである。

小雀から富士

第895話 【横浜のミニ暗渠】新田間川緑道

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横浜市内の小さな(短い)暗渠を紹介します。
今回はわかりやすい「新田間川緑地」です。
「新田間川緑地」は
帷子川支流の新田間川のさらに派川部分が暗渠になっています。
川の名称は運河となると少々面倒ですが、帷子川の派川の一つです。
ここは端から端まで簡単に暗渠探しできます。 起点(上流)は新田間川に架かる「新田間橋」脇の左岸から分岐し「新田間川緑地」の標識が設置されています。途中ビル街の合間を抜け、帷子川分水路出口にある「楠ポンプ場」まで暗渠となっています。ポンプ場の奥は「楠木町公園」、不思議な空間ですのでおヒマな時にお尋ねください。
話はそれますが、下水道局のポンプ場を探すとそこは<暗渠>のシグナルです。吉野町市民プラザ吉野ポンプ場(日枝神社大池)、桜木ポンプ場(桜川)などもかつては水路・池だった場所に設置されています。

もう一つ
新田間川(しんあらたまがわ)は、新田・間・川→新田と新田の間を流れる川という意味で名付けられたそうです。左岸側が岡野新田、右岸が安永新田・弘化新田にあたる場所です。まあ「しんでんあいだがわ」では呼びにくいですね。

この「新田間川緑地」はその昔、横浜駅西口一帯が埋め立てられた時期に排水路も兼ねて運河化しましたので「派新田間川」となりました。現在「北幸」と「鶴屋町」の境が運河で、上を首都高速三ツ沢線が走っています。
この「派新田間川」はある意味、嫌われ川で、何時暗渠化するのか<してほしい>という状況でした。
とは言え何年かに一度の<帷子川氾濫>への対策が求められる中、大規模の<分水路計画>が策定されます。
帷子川の中流部にあたる横浜市旭区白根1丁目付近で帷子川から分水し延長約 5.3kmのトンネルでつなぎ、ドブ川だった 旧派新田間川に接続、横浜駅東口あたりで帷子川本川に合流(総延長約 6.6km)する事業で 1997年(平成9年)に完成することで、死に体の「派新田間川」が生き返りました。
※それでも 帷子川はその後2度氾濫被害にあっていますので、自然は想定できないものだということを記憶しなければなりませんね。
※地図上の表記が「新田間川緑道」となっていますが、正しくは「新田間川緑地」です。訂正が面倒なもんですみません。
関連ブログ
【横浜風景】護岸・誤岸?

第892話【ある日の横浜】東口「横浜ホテル」

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ここに在る日の横浜の風景写真があります。

横浜ホテル

この写真は、かつて横浜駅東口にあった「横浜ホテル」と帷子川の風景です。
撮影年は確定できませんが昭和24年頃と推定しました。
東急電鉄がこのホテルを買収する直前か、買収後で改装前のものと思われます。
万里橋の上から国道1号線が通る築地橋方向を撮影しています。その先は当時の「表高島町」操車場にあたります。
このホテルは現在、東急グループの神奈川都市交通が経営するガソリンスタンドとなっています。
横浜ホテルと東急の関係は以前ブログで紹介しましたので参照ください。
1954年(昭和29年)6月30日東口「横浜ホテル」
もう一枚この近所が同時期に撮影されている写真も紹介します。

横浜東口高島通商店街

万里橋の袂で現在、裏高島の面白い飲食店が集まるエリアです。
横浜大空襲を経て終戦となり復興が始まった「高島通商店街」の様子が垣間見ることができます。ここ「高島通商店街」は80年代までは賑わったエリアです。90年代に入り高島エリア(みなとみらいエリア)の空洞化に伴い刃毀れ状態となっていて衰退。
横浜駅の中心が”東から西”へシフトし減退エリアの象徴のようになってしまいました。
写真正面に見える「三共商会」は最近までこの地で運輸業を営業していましたが、移転したようです。

実はこの場所が<高島町2丁目>裏高島エリアだと確定したのは
「三共商会」の奥に「神奈川県製パン協同組合」のビルを確認できたからです。

横浜駅東口エリアには
豆腐会館
神奈川県製パン協同組合
神奈川県印刷組合
など 様々な業界の組合ビルもありました。
※豆腐会館は現在もあります。

このエリア活性化の動き
裏横浜地域活性化プロジェクト urayoko net
http://urayoko.net
ちょっとデータが古いですね。
一時期<裏高島>で頑張ったていましたが
さらに
もうひと踏ん張りして欲しいですね。
2017年6月記す。

第891話【横浜の橋】A B 橋

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かつて大岡川には川の十字路がありました。

運河の交差点

大岡川下流域は吉田新田の干拓によって誕生した運河の町です。<灌漑水路>として中村川・派大岡川が生まれ堀川が作られ、明治に入って堀割川開削で磯子湾につながることで水運機能が高まります。

吉田新田

水田の吉田新田域が次第に宅地化・近代化していく過程で<灌漑水路>が<水運水路>として「吉田川」「新吉田川」「日ノ出川」「富士見川」が整備されていきます。
この時期に、横浜にとって重大な事業計画が進められます。野毛浦地先に鉄道が引かれる用地が埋め立てられることになりました。 ここに排水路を兼ねた「桜川」が誕生します。

大岡川に桜川と派大岡川が繋がり川の交差点が誕生します。
ここには「柳橋」と「錦橋」、大岡川には「都橋」「大江橋」が架かっていました。
※明治初期には「櫻橋」という木製の橋が短期間ですがありました。

櫻橋

このポイントは首都高速道路、JR根岸線、市営地下鉄、大岡川、幹線道路が集中し大工事が行われた場所でもあります。
「桜川」と「派大岡川」が無くなり大岡川だけになった時に、道路整備が行われ「桜川新道」ができ大岡川に「桜川橋」が架けられます。

【横浜の橋】№10 残った紅葉橋(陸橋)

【横浜の橋】№10 残った紅葉橋(陸橋)

この桜川橋は珍しい橋の一つだと思います。
構造的には普通の<上下線分離型>2連橋ですが上下で”橋名”が異なります。
普通は上下まとめて名称が付けられます。
「紅葉坂」「国際橋」も上下線分離型の2連橋です。さらには上下線、長さが極端に変わる「新山下橋」も上下線分離型の2連橋ですが名前は一つです。
「桜川橋」 上下線に区別がある”大変珍しい橋”なんです。
しかも呼び名も変わっていて
上流から
「桜川A橋(さくらがわえーきょう)」
長さ41.8m
幅は16.8m
架橋年は昭和48年

「桜川B橋(さくらがわびーきょう)」
長さ38.7m
幅は16.8m
架橋年は昭和48年

普段、橋上を走っていると全く判りませんが、川筋や袂から眺めるとしっかり「桜川B橋」のみ明記されています。

桜川物語も調査中ですのであらためて紹介します。

第890話【横濱の風景】西之橋からみる風景

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ふと気がついた疑問をFacebookにアップしたネタですが、結構反応があり改めて確認してみると面白いのでブログアップします。
昔の絵葉書や地図を少しコレクションしていますが、
絵葉書とマップを比較することはほとんどありませんでした。
今回のテーマは
【中村川】横濱西ノ橋川岸雪ノ景
横濱の冬景色の絵葉書は少なく風情のあるいい風景です。

この絵葉書に関してこれまで
下記のキャプションを用意してきました。
「中村川と堀川そして埋め立てられた派大岡川が交わるあたりを西之橋から見た雪風景です。現在は石川町駅と首都高速が川の上にありこの風景の面影は殆どありません。今の西之橋は大正15年に再建された震災復興橋の一つで画像上流には、中村川に架かる亀之橋が見えます。昔の美しい景色が写る貴重な運河の風景です。」

ここで遠くに見える橋を中村川に架かる「亀之橋」とばかり思い込んでいました。根拠は「横浜絵葉書」関連書籍に同じ風景が収録されていて
「亀之橋」とあったので検証しなかったからです。
ところが実際「西ノ橋」袂に立ってみるとここから亀之橋を確認することはかなり厳しい角度にあります。
奥に見える高架は根岸線、その奥が 「石川町駅前歩道橋」です。
1960年代に首都高工事で「派大岡川」を埋め立てた際に少し中村川の川筋が変わった可能性もあるので、過去の地図を幾つか探し出してみることにしました。

大正11年

昭和2年

見えないこともない?色々探してみると 発見したのがもう一つの橋でした。
「亀之橋」と「西之橋」の間にもう一つ橋が架かっている地図があったのです。
現在の根岸線の石川町駅前歩道橋あたりに架かっていたようです。
<ようです>というのは
この謎の橋が表記されていない地図もあったからです。戦前の地図、少なくとも橋に関しては、<謎の橋>が時折現れます。ここにもう一枚、陸軍測量部迅速図明治41年発行「横浜」を拡大しました。陸軍の迅速図の場合、要素が欠けている場合がありますが、余分な情報を付け加えることはありません。西ノ橋と亀之橋の間には橋が確認できます。
さて?
この橋の名は。地図上にも橋梁名が記されていません。
仮に<石川町橋>とでもしておきましょうか。
解明はこれからです。

さらにこの地図から新たなる疑問が。「堀川」ではなく「中村川」になっています。正式に堀川は何時から呼ばれるようになったのでしょうか。(2017.09追記)
また宿題が増えました。

第885話【横浜の橋】都ぞ春

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開港時から明治期にかけて、横浜開港場界隈に架かる<橋>数数あるなか
知名度なら「吉田橋(派大岡川)」でしょう。
明治初期、開港場付近の橋といえば?
辨天橋・大江橋・前田橋・西之橋・谷戸橋・湊橋・豊国橋 他
居留地と外を結ぶ<関門橋>があり、多くが現存(架替えていますが)しています。
中でも吉田橋は、関内外を結ぶ橋として一際注目されてきました。
横浜の重要な道を繋ぐという視点で<橋>を眺めてみると
「都橋」が横浜発展の要となっていたことに気がつきます。
「都橋」は
1872年(明治5年)7月
「野毛町一丁目往還北側茅屋を毀ち、道路を改修し、野毛橋を毀ち、更に北方へ凡そ三間位置を換へ、橋台を築造し、無杭木橋に改造し、都橋と改称す同月野毛橋の古材を太田村に移し、以て栄橋を架す。」
開港時「野毛橋」と称していました。
東海道から帷子川の越え、野毛坂を越え「野毛村」と突貫工事で切り開いた開港の道(横浜道)は「野毛橋」で大岡川を越え吉田橋関門へとつながる重要な橋の一つでした。
この「野毛橋」の架かる一帯の整備が行われ、
道路を改修、新しい橋に架け替えられます。
この時に、名称を「都橋(みやこはし)」と一新するのですが、
なぜ「みやこはし」となったのか?
オツな話が伝えられています。
古今和歌集56番
「見わたせば
柳桜をこきまぜて
都ぞ春の錦なりける」素性法師
“ここから眺めてみると、
柳の緑と桜の色とが混ざり合って、
都が春の錦のようであることよ”
といった美しい春の風景を詠っています。
見渡せばとあるので 何処か高いところから見下して詠ったものですので
野毛に置き換えれば<野毛山>からの眺めと重ねたのかもしれません。
実は
「見わたせば柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」の
歌中にある<柳><錦>から
都橋下流の大岡川と派大岡川、桜木川(桜川)と川の十字路となっていたところに
「柳橋」と「錦橋」が架かっています。 この2つの橋と桜木川をかけて
ちょうどよい歌を引用し「都」橋と名付けたそうです。

#大岡川の橋

第881話【時折今日の横浜】3月30日4mの背伸び

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1934年(昭和9年)3月30日
「横浜税関庁舎(クイーンの塔)竣工(横浜税関百二十年史)」
横浜三塔の一つで三塔の内で、昭和に竣工したのがクイーンと呼ばれる「横浜税関」です。設計は<横浜税関>によると
「吉武東里氏(国会議事堂も設計)と伝えられているが、詳細は不明」としています。
その他の資料の多くは「吉武東里設計、戸田組施工」と表記しています。
何故?本元とデータが違うのか 良く判りません。
(4mの背伸び)
三代目横浜税関建設にはエピソードが残されています。
「関東大震災(大正12年)で税関庁舎も倒壊。その後、財政窮乏の続いた時代に、税関の仕事は平屋のバラック建で行われていた。そんな折り、時の大蔵大臣高橋是清が「失業者救済のため土木事業を起こすべき…」との発言。
1932年(昭和7年)第22代税関長に就任した金子隆三は、この意を受け
失業者救済をかねて三代目税関庁舎(現庁舎)建設に着手し、急ピッチで建設が進められます。
この時に、横浜港界隈には“神奈川県庁(高さ49m)”と“横浜開港記念会館(高さ36m)”という当時の高層建築物が2つランドマークとなっていました。
塔の高さ47mの税関庁舎の当初の設計図を見た金子税関長は「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき…」と言及。設計図が書き直され、当初より4m高い現庁舎“横浜税関(高さ51m)”が完成したそうです。」

だからですかね、たしかに 少し首長に見えます。
竣工データは
SRC造、地上5階+塔屋。敷地面積が6,875m2、延床面積が12,184m2です。

(簡単な横濱税関史)
安政元年、米国との間に「日米和親条約」が結ばれます。
安政五年に「安政五カ国条約」が締結されこの条約ににもとづき、日本(徳川政府)は
1859年(安政六年六月)
開港し関税と外交事務をあつかう部署「神奈川運上所」を設置します。
場所は、現在の神奈川県庁本館のある場所で記念碑が建っています。
1866年(慶応二年)の大火で焼失
1867年(慶応三年三月)再建
18871年(明治4年)組織変更に伴い「神奈川運上所」を「横浜運上所」に改称。
※歴史のif
神奈川県は横浜県となったかもしれませんね。
No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日

その後、
1872年(明治5年)11月
「横浜役所」における「運上所」を「税関」と統一し関東大震災前までは、日本大通りが横浜港とつながる現在の象の「鼻パーク一角」にありました。
1885年(明治18年)11月
二代目税関庁舎竣工。清水満之助の請負といわれています。<中央に塔を配した煉瓦造2階建ての2代目庁舎><冬の横浜税関>

関東大震災ですべて倒壊、

倒壊した横浜税関

1934年(昭和9年)3月30日
横浜税関現本関庁舎(クイーンの塔)が竣工します。

竣工間もない横浜税関

占領中新港橋から税関

1945年(昭和20年)8月30日
横浜税関本庁舎は接収されアメリカ陸軍第8軍司令部が置かれました。一時期、税関長室をマッカーサーが使用していたこともあるそうです。
税関業務は、仮庁舎で行われ
1953年(昭和28年)11月にようやく接収解除となり 現在の場所に戻ります。