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第885話【横浜の橋】都ぞ春

開港時から明治期にかけて、横浜開港場界隈に架かる<橋>数数あるなか
知名度なら「吉田橋(派大岡川)」でしょう。
明治初期、開港場付近の橋といえば?
辨天橋・大江橋・前田橋・西之橋・谷戸橋・湊橋・豊国橋 他
居留地と外を結ぶ<関門橋>があり、多くが現存しています。
中でも吉田橋は、関内外を結ぶ橋として一際注目されてきました。
横浜の重要な道を繋ぐという視点で<橋>を眺めてみると
「都橋」が横浜発展の要となっていたことに気がつきます。
「都橋」は
1872年(明治5年)7月
「野毛町一丁目往還北側茅屋を毀ち、道路を改修し、野毛橋を毀ち、更に北方へ凡そ三間位置を換へ、橋台を築造し、無杭木橋に改造し、都橋と改称す同月野毛橋の古材を太田村に移し、以て栄橋を架す。」
開港時「野毛橋」と称していました。
東海道から帷子川の越え、野毛坂を越え「野毛村」と突貫工事で切り開いた開港の道(横浜道)は「野毛橋」で大岡川を越え吉田橋関門へとつながる重要な橋の一つでした。
この「野毛橋」の架かる一帯の整備が行われ、
道路を改修、新しい橋に架け替えられます。
この時に、名称を「都橋(みやこはし)」と一新するのですが、
なぜ「みやこはし」となったのか?
オツな話が伝えられています。
古今和歌集56番
「見わたせば
柳桜をこきまぜて
都ぞ春の錦なりける」素性法師
“ここから眺めてみると、
柳の緑と桜の色とが混ざり合って、
都が春の錦のようであることよ”
といった美しい春の風景を詠っています。
見渡せばとあるので 何処か高いところから見下して詠ったものですので
野毛に置き換えれば<野毛山>からの眺めと重ねたのかもしれません。
実は
「見わたせば柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」の
歌中にある<柳><錦>から
都橋下流の大岡川と派大岡川、桜川と川の十字路となっていたところに
「柳橋」と「錦橋」が架かっています。 この2つの橋と桜川をかけて
ちょうどよい歌を引用し「都」橋と名付けたそうです。

#大岡川の橋

第881話【時折今日の横浜】3月30日4mの背伸び

1934年(昭和9年)3月30日
「横浜税関庁舎(クイーンの塔)竣工(横浜税関百二十年史)」
横浜三塔の一つで三塔の内で、昭和に竣工したのがクイーンと呼ばれる「横浜税関」です。設計は<横浜税関>によると
「吉武東里氏(国会議事堂も設計)と伝えられているが、詳細は不明」としています。
その他の資料の多くは「吉武東里設計、戸田組施工」と表記しています。
何故?本元とデータが違うのか 良く判りません。
(4mの背伸び)
三代目横浜税関建設にはエピソードが残されています。
「関東大震災(大正12年)で税関庁舎も倒壊。その後、財政窮乏の続いた時代に、税関の仕事は平屋のバラック建で行われていた。そんな折り、時の大蔵大臣高橋是清が「失業者救済のため土木事業を起こすべき…」との発言。
1932年(昭和7年)第22代税関長に就任した金子隆三は、この意を受け
失業者救済をかねて三代目税関庁舎(現庁舎)建設に着手し、急ピッチで建設が進められます。
この時に、横浜港界隈には“神奈川県庁(高さ49m)”と“横浜開港記念会館(高さ36m)”という当時の高層建築物が2つランドマークとなっていました。
塔の高さ47mの税関庁舎の当初の設計図を見た金子税関長は「日本の表玄関たる国際港横浜の税関の庁舎とするなら、高くすべき…」と言及。設計図が書き直され、当初より4m高い現庁舎“横浜税関(高さ51m)”が完成したそうです。」

だからですかね、たしかに 少し首長に見えます。
竣工データは
SRC造、地上5階+塔屋。敷地面積が6,875m2、延床面積が12,184m2です。

(簡単な横濱税関史)
安政元年、米国との間に「日米和親条約」が結ばれます。
安政五年に「安政五カ国条約」が締結されこの条約ににもとづき、日本(徳川政府)は
1859年(安政六年六月)
開港し関税と外交事務をあつかう部署「神奈川運上所」を設置します。
場所は、現在の神奈川県庁本館のある場所で記念碑が建っています。
1866年(慶応二年)の大火で焼失
1867年(慶応三年三月)再建
18871年(明治4年)組織変更に伴い「神奈川運上所」を「横浜運上所」に改称。
※歴史のif
神奈川県は横浜県となったかもしれませんね。
No.79 3月19日 神奈川(横浜)県庁立庁日

その後、
1872年(明治5年)11月
「横浜役所」における「運上所」を「税関」と統一し関東大震災前までは、日本大通りが横浜港とつながる現在の象の「鼻パーク一角」にありました。
1885年(明治18年)11月
二代目税関庁舎竣工。清水満之助の請負といわれています。<中央に塔を配した煉瓦造2階建ての2代目庁舎><冬の横浜税関>

関東大震災ですべて倒壊、

倒壊した横浜税関

1934年(昭和9年)3月30日
横浜税関現本関庁舎(クイーンの塔)が竣工します。

竣工間もない横浜税関

占領中新港橋から税関

1945年(昭和20年)8月30日
横浜税関本庁舎は接収されアメリカ陸軍第8軍司令部が置かれました。一時期、税関長室をマッカーサーが使用していたこともあるそうです。
税関業務は、仮庁舎で行われ
1953年(昭和28年)11月にようやく接収解除となり 現在の場所に戻ります。

第872話【横浜市境を歩く】川崎市境1

市境の基本は
・川筋
・尾根筋
・道路筋
※横浜市境を歩くと横浜が見えます!
今回は川崎・横浜 市境その1

ポイント1
<川崎市下麻生3丁目>
<青葉区寺家町> ●川筋
鶴見川の市境はごく一部です。
横浜市域の北部を流れ東京湾に至る<鶴見川>は一級河川ですが、市域を分ける”境川”となっているのはごく一部に限られています。
何故、暴れ川鶴見川が市域を分けないのか?
一方で、横浜市域の西部は二級河川<境川>によって多くの部分で分かれています。
このエリアを流れる鶴見川上流は恩田川との合流点までを「谷本川(やもとがわ)」とも呼ばれています。

ポイント2
<川崎市麻生区早野>
<青葉区寺家町> ●「寺家橋」
横浜市の西北部に広がる寺家(じけ)は、都市部に貴重な里山が維持管理されているエリアです。寺家エリアの多くは「東京都町田市」と接しています。(別レポートで紹介します)
このエリアは寺家ふるさと村(じけふるさとむら)と呼ばれていますが、
鶴見川に架かる寺家橋は「じげはし」と知って、少し驚きでした。

ポイント3
鶴見川「河内橋」(かわちはし)付近
横浜あおば霊苑 ●尾根筋
短い<川筋区間>に終わりを告げ、長い尾根筋市境ルートに入ります。
横浜市市域と川崎市域の境目の多くが<尾根筋>です。途中、一部を除いて港北区の日吉エリアあたりまで尾根歩きが可能です。
横浜と川崎の<境>がどのような自然条件で決定したのか、地理学的にも面白いルートと言えるでしょう。

ポイント4
●尾根筋
★★★ ここは ちょっとマニアックですが、おすすめです。
横浜市境ルートで最も”ケモノミチ”のような尾根筋ポイントがここです。
横浜の市境には南部に公田や朝比奈エリアがありますが、
この道も負けず劣らず ハイキングコースになりそうな<縦走>体験ができます。

ポイント5
●尾根筋 かなりブッシュを掻き分けないと前に進めない道でした。
草刈りの予定でもあるのか、白いビニルテープが市境に張られていました。
地面の市境道標は
まるでヘンゼルとグレーテルの<パンくず>ような感じでした。

ポイント6
●尾根から道路へ ここは川崎市と横浜市にまたがって開発された住宅地。
川崎側 虹が丘
横浜側 すすき野
1970年代〜1980年代に開発・分譲され、両市で土地区画整理事業が進められました。
横浜市青葉区すすき野は、
鉄町、黒須田町、元石川町から新設されたエリアです。
最寄駅は東急田園都市線あざみ野駅または小田急線柿生駅で、エリア中央に東急SCがあります。

ポイント7
●市境の奇妙 このポイントには不思議な段差がありました。
市境にある「すすき野二丁目北公園」(すすき野二丁目8−5)
面積5,000m2
公開1984年1月25日(S59年)
公園横に隣接して 広い道路があります。
この道路には車止めがあり車両は侵入できません。
これは良くある道路使用のスタイルですが
一般道とつながる交差点に段差がありました。

(川崎2につづく)

第867話 【明治の風景】横浜駅前公衆便所

初代横浜駅が開業したのは1872年6月12日(明治5年5月7日)
考えてみれば、開港以来十数年で産業革命の象徴を導入したことになる。
わが国の鉄道発祥の駅舎は新橋駅と共にアメリカ人建築家、R・P・ブリジェンスが設計した。

この横浜駅前、鉄道開業後の写真に写る<謎>の建物は何か?
私は新しい「公衆便所」ではないかと推理した。
撮影時期は、初代横浜駅開業期から
1902年(明治35年)初代大江橋架替までの間であることは間違いない。
さらに絞りこめるか、果たして公衆便所なのか
資料を漁ってみた。
まず簡単に横浜公衆便所史から
開港後、欧米人が出会った日本の風習の中で、
庶民が平気でどこでも<立ちション>するという行為には閉口したという。
そこで外国人たちは<公衆便所>の設置を時の行政府に強く要望した。
早速動いたのが横浜町会所、現在の横浜商工会議所だった。
1871年(明治4年)11月に横浜町会所の費用で町内83カ所に小便所を設置。
掲示板を使って設置場所を掲示し
「右之通りに付旅人は別して心得居可申事也」とした。
この小便所は四斗樽大の桶を地面を掘り下げて埋め込み、板囲いをした程度の簡単なものであったため臭いがきつく外国人にはかなり不評だったようだ。
「主要地区には瓶(かめ)を埋め込み、男女両用に供し、屋形式のやや完全なるものに改造するなど、統廃合の結果、多くは橋詰に設置する事となり、其の数も四十数箇所となった。」
これが写真にある初代横浜駅前広場、大江川橋詰に設置された公衆便所ではないか?
<横浜駅前公衆便所>
確証は無いがその他にこの当たりに必要な<建築物>が考えつかない。邏卒所=交番も考えたが、川沿いに建てる必要があるのか疑問が残る。
拡大してみると人影が見え”立ちション”に見えないこともない。
写真左側には「大江橋」が架かっている。下流右岸から「大江橋」を見ている。
反対側からの風景でも確認してみたい。

大江橋上流の右岸から「大江橋」を写している。
恐らくこの風景の方が新しいものだろう。電信柱が増えているのが判る。
ちょうど樹木が遮っていて、正確に確認することができないが、角度的には橋詰の<建造物>は無いように見える。
短期間で撤去された可能性もある。

明治二十年代の初代横浜駅周辺。横浜電気鉄道はまだ開通していない。

明治25年の絵図には小屋みたいな建物がありますね!?

1872年(明治5年)2月17日の横浜毎日新聞には
「仮名垣魯文、立ち小便で科料(とがりょう)とられる。仮名垣魯文、当港へ来たり、本町辺にて風と立小便為し、邏卒に見咎められ、科料申付けられし由、西洋膝栗毛の趣向を一寸実施に見せたるは面白し。」と時の有名人も”立ちション”で捕まったようだ。
(参考資料:荒井保男『日本近代医学の黎明 横浜医療事始め』2011 中央公論新社)
※番外編
偶然の一致。大江橋近くに今年まで年代物の公衆便所があったが、廃止。

第864話 野毛界隈入門その1

(プロローグ)
「野毛界隈入門」と題したのは私が<野毛界隈>について入門、体験の記録である。light_p6281170 light_p6281209 この野毛の街を語るにはかなり勇気がいる。
この界隈を愛し、この界隈を語ったら止まらない大先輩から若手論客諸氏が手ぐね引いて構えておられるからだ。
私も野毛の近くに暮らし始めて十五年を越え、ぼちぼちこの街のことを調べてみようと思い立ったが大変な作業であることに気がついた。実に奥が深い。
野毛に関しては数多くの研究資料、エッセイが残されている。これらの諸先輩の資料を読み解く作業も楽しい。野毛といえば夜のイメージが強いが近くに暮らすこともあり昼間の野毛散策も多い。坂が多く年寄りには難儀するが、時折街並みの合間から見える野毛の街並みも面白い。夜の野毛はかつてノンベイだった頃の記憶がたくさん残っている。
呑みに行く<野毛界隈>には漠然と宮川町や日ノ出町も含まれていたので、ここでも野毛界隈として広く日ノ出町、宮川町、花咲町をベースに紅葉ヶ丘、宮崎町、老松町も含まれるていることをご了解いただきたい。
界隈は界隈であって、行政区分ではなく、時に範囲が自在に伸縮するところが<界隈性>なのだと思う。

<野毛連山>
野毛界隈は川と海に面し、背後に野毛連山を配する町である。堅く言えば丘の範疇だが、野毛界隈には地名にも野毛山・掃部山・伊勢山(これは皇大神宮の関係だが)・御所山・久保山といった名が残っている。light_%e9%87%8e%e6%af%9b%e5%b1%b12943
この山々の連なりを<野毛連山>と仮に命名すると
大岡川を挟んで左岸の野毛連山が、右岸には山手連山が迫っている入江に<吉田新田>が生まれ、居留地が誕生した位置関係が見えてくる。
野毛村から野毛連山を越えると、また深い入江があった。帷子川の入江である。
横道にそれるが、帷子川の入江の向こうにも丘が広がり、海に迫る幸ヶ谷公園から高島山・高島台(高島嘉右衛門)から台町・浅間台とこちらも帷子川の入江を囲むように丘が迫っている。
東海道は江戸日本橋を出発して平らな街道の旅をし、最初の山坂が神奈川宿を過ぎたあたりから始まる。保土ケ谷を過ぎると国境に<権太坂>が待ち受けていた。
明治期にはちょいワルおやじたちが7人東京から横浜・金沢まで観梅(杉田)を兼ねて自転車ツーリングに出かけたという記録がある。このルートも保土ケ谷から山を越え(たぶん引いて越えた)井土ヶ谷にでて杉田に向かったのだろう。
No.53 2月22日 アーティストツーリング
俳人正岡子規に至っては
親友の秋山真之と無謀な徒歩旅行に出かける。酔った勢いで着の身着のまま何の準備も無く「鎌倉に行こう」と下駄履きで出発、へばりながらも戸塚手前でギブアップ。東神奈川まで這々の体で戻り電車で東京に帰ることになる。
No.253 9月9日(日)子規、権太坂リターン

<野毛を横浜の中心に>
横浜開港場という立地は、江戸から見てダブルリバー、神奈川宿から3つの山を越えて行くことになる。その中でも一際厳しい<野毛連山>を開港時には突貫工事で真っ直ぐな道を開くことになった。横浜道である。
この野毛連山の頂きに横浜の新しい中心都市を置くことを目論んだ人物がいる。
震災後、横浜の復興計画を立案した牧彦七という人物だ。
牧彦七は「雷親父」「ライオン」とあだ名された土木のスペシャリストで、関東大震災後、上司の後藤新平から誘われ都市計画局長として帝都復興事業に尽力した。
中でもダイナミックな5億円規模の横浜・震災復興都市計画案(通称・牧案)は関係者を驚かせた。
現在のように、東海道本線の「横浜駅」界隈と開港の町JR根岸線「関内駅」界隈(開港場であり関内外エリア)の分断を結ぶ必要性を感じ中間に街を開こう!と考えた。
この計画は見事に地元の反対から夢物語に終わったが、実現していたらこの街はどうなっていったか?創造すると実に面白い。

第860話 RE name Yokohama 大岡川

(あらためて解説表現を考えてみる)
「大岡川」とは?
こう尋ねられたときにどう答えるだろう?
一般的にはどう説明されているのでろう?
詳しくではなく 簡単にである。
てっとり早いのは<wikipedia>
「大岡川(おおおかがわ)は、神奈川県横浜市を流れ横浜港に注ぐ二級河川。上流の日野川と笹下川の合流地点より下流を本来は大岡川と呼ぶ。」
この説明ちょっと引っかかる。
ここで説明されているキーワードは
“横浜港に注ぐ二級河川”
“日野川と笹下川”
「本来は」  とある。日野川と笹下川の合流地点から下流が大岡川だと説明している。%ef%bc%91%ef%bc%93%ef%bc%93%e5%a4%a7%e5%b2%a1%e5%b7%9d
<Wikipedia>では歴史的経緯から本来は<笹下川>の方が由緒ある名だと主張している。無理無理の部分もあるが一読に値する。
基礎データにも相違が見られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/大岡川_(神奈川県)

横浜市はどのような説明だろうか?
ワンキャッチフレーズには少し長い説明だが引用する。
(横浜市 環境創造局 大岡川水系)

「大岡川は、全長14.04km、流域面積27.25km2の二級河川です。
川のはじまりは,横浜で2番目に高い円海山(えんかいざん)にあります。山からしみだした水は氷取沢(ひとりざわ)市民の森を流れ出て、港南区の上大岡で日野川と合流し、南区で中村川と堀割川(ほりわりがわ)に分流します。大岡川の本流は、中区の日の出町、野毛の市街地(しがいち)を流れ、みなとみらい21で横浜港に注ぎます。
大岡川と中村川に囲まれたところには、伊勢佐木町(いせざきちょう)・馬車道・中華街・横浜スタジアムがあり、市役所や県庁・横浜税関(ぜいかん)・県警(けんけい)本部などもあります。大岡川は、横浜の心臓部にあたるところを流れる川といえます。」
キーワードはwikipedia に加え
全長14.04km、流域面積27.25km2
横浜で2番目に高い円海山
氷取沢市民の森
南区で中村川と堀割川に分流
みなとみらい21で横浜港に
大岡川は、横浜の心臓部

もう一つ区域の真ん中を大岡川が流れる港南区(南区もそうだが)はどのような説明をしているか?
(横浜市港南区)

「大岡川(おおおかがわ)
大岡川は、円海山周辺の金沢区、磯子区、港南区に源を発し、上大岡駅近くの笹野橋で合流、南区、中区を経て、みなとみらい地区で横浜港にそそぐ川です。
港南区内では、日下小学校前を流れる通称笹下川と、日野地区を源とする日野川がおもな流れです。
昭和44年から工事を始めた大岡川放水路は、下流域の洪水対策として平成 年に完成しました。
日野川の日野立体近くから笹下川打越付近を経て、JR磯子駅近くの磯子区森で根岸湾に注いでいます。」
さらにデータも用意されている。
管理区分: 二級河川・準用河川
起点: 大岡川:(磯子区栗木)
終点: 大江橋(中区)
河川延長: 14.04キロメートル
流域面積: 27.25平方キロメートル

大岡川放水路
起点: 大岡川:笹下二丁目
日野川:日野五丁目
終点: 森
河川延長: 3.64キロメートル%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%83%e3%83%88-2016-09-22-11-09-24

大岡川は二級河川にあたるので管理は神奈川県が行っている。
神奈川県はどのような説明か?
神奈川県の説明もかなり長いので冒頭部分を紹介する。
(神奈川県)

「大岡川は、横浜市内の中でも豊かな自然の残されている磯子区の円海山(標高153m)の氷取沢にその源を発し、丘陵地帯に挟まれた谷を下り上大岡で左支川の日野川を合わせた後に、平地部をゆるやかに流下し横浜市南区山王町のお三の宮付近で中村川を分派し、横浜市中区の桜木町駅付近で横浜港に注いでいる。お三の宮付近で大岡川から分派した中村川はすぐに堀割川を分派した後に、大岡川の南側を大岡川とほぼ平行に横浜の中心市街地を挟む形で流れ、西の橋付近で堀川と名前を変え、中区の山下町で横浜港に注いでいる。堀割川は国道16号に沿って南下し、根岸湾に注いでいる。幹川流路延長は約14km、流域 面積約35.6km2 の二級河川である。」

河川図を見て分かるように
大岡川は支流が合流し、下流域で再度分流してるので説明が難しいので神奈川県の苦労がよく分かる。
これに続く神奈川県の説明からキーワードを一部列記してみる。
・大岡川流域は南北に長い形状
・横浜市西区、中区、南区、港南区、保土ケ谷区、磯子 区、金沢区、栄区の8区
・大岡川は住民の身近な河川
・港町横浜の発展を支えた運河の面影が残る川
・お三の宮から下流の大岡川と中村川に囲まれた区域は、江戸時代初めまで「洲乾の湊」と呼ばれた遠浅の入り江
・水上ネットワーク都市横浜lightp9210039 light%e7%b4%85%e8%91%89%e3%81%ae%e5%a4%a7%e5%b2%a1%e5%b7%9d (その他の大岡川解説文)
■大岡川は横浜市南部の円海山を源流とする二級河川で、港南区や南区を通り、中区を抜けて横浜港へと至る。
かつて今の横浜港から伊勢佐木町あたりは入江の海で、中村川と分岐するお三の宮のある吉野町、蒔田公園あたりが大岡川の河口であった。
1656年(明暦2年)から材木商の吉田勘兵衛によって始められた新田開発により現在に続く地盤が造られ、それまで入江となっていたところの沿岸部が現在の大岡川と中村川となり、大岡川の河口も現在の桜木町辺りの下流まで延びた。
そんな大岡川は上流から中流にかけてはごく普通の河川と変わりないが、下流になると少々趣が異なってくる。
中村川と分岐し京急線と並行する南太田付近からは、春は京急線車内からもその美しい桜並木を堪能できる反面、近年まで黄金町から日ノ出町付近あたりには近寄りがたい、戦後から続く古い「昭和」の雰囲気が残っており、京急線のガード下から川沿いまで特殊飲食店が立ち並ぶ風俗エリアとしての顔をもっていた。
(ヨコハマ経済新聞アンテナ)
■下流が横浜のもっともメジャーな地区を流れる大岡川は全長14kmの典型的な都市型河川である。源流のある円海山は標高153m、磯子区峰町にあり、港南区・栄区・金沢区との境の緑地帯にある山だ。大岡川はこの円海山に端を発して横浜港に注ぐ中規模河川である。横浜の都会の超近代的な風景と横浜の最後の秘境?を結ぶ川、大岡川の姿を楽しんでいただきたい。
http://www.geocities.jp/kk810558/ooka.htm
■神奈川県横浜市の大岡川は、流域面積約35.6㎢、延長約28kmを有する2級河川である。該当河川は、源流を市内南部の円海山とし、市内5つの区を通り東部の横浜港へ流れる。
■「大岡川」とは 横浜市内を流れる川磯子区円海山周辺が源流の二級河川。
■大岡川は、神奈川県横浜市を流れ横浜港に注ぐ二級河川。上流の日野川と笹下川の合流地点より下流を本来は大岡川と呼ぶ。
■大岡川とは、一時ゴマあざらしの“タマちゃん”が出没して話題となった河川
■大岡川とは・・・源流は横浜市磯子区にある円海山。
港南区→南区→中区→横浜港へと注ぐ全長役12kmの二級河川。
■大岡川は、全長14.04km、流域面積27.25㎢の二級河川です。
磯子区氷取沢町、横浜で2番目に高い円海山を源に、笹下川として、
氷取沢市民の森を流れ、港南区上大岡で日野川と合流、大岡川となります。
■大岡川は源流を円海山に発し、ゲンジボタルが自生する氷取沢市民の森を流れて笹下川となり、上大岡の手前で日野川と合流し大岡川となり、南区、中区を経て横浜港に注ぐ流路延長約12kmの二級河川です。
■大岡川は、全長14.04km、流域面積27.25km2の二級河川です。
■大岡川は、円海山周辺の金沢区、磯子区、港南区に源を発し、上大岡駅近くの笹野橋で合流、南区、中区を経て、みなとみらい地区で横浜港にそそぐ川です。
■大岡川は、横浜市南部にある標高153メートルの円海山近くの「氷取沢市民の森」付近に端を発し、横浜港に注ぐ全長約14キロメートルの2級河川。
■大岡川は、横浜市南部にある標高153メートルの円海山近くの「氷取沢市民の森」付近に端を発し、横浜港に注ぐ全長約14キロメートルの2級河川。「横浜水辺マップ」は、中区・西区付近の、かつて「吉田新田」と呼ばれた下流域をカバーしている。
■大岡川は、磯子区の円海山あたりを源流にして途中で上大岡を通り、京急「南太田駅」付近でY字型に分岐します。北の流れは桜の並木を従えて流れくだり桜木町駅の脇から日本丸近くで海に出ます。南の流れは中村川と名前を変え、首都高と共に石川町から元町に沿って流れ、山下町で首都高と別れて海に出ます。
■大岡川は円海山に源を発し、横浜市の磯子区、南区を貫流し、桜木町付近で東京湾に注ぐ河川である。
流路延長14km、流域面積27.25㎞2で、流域の土地利用のほとんどは宅地であり、横浜の市街地を流れるいわゆる都市河川である。都市河川である大岡川周辺は人口密集地で治水重要性も高く、人の生命と財産が集中している。土地に余裕がないため、雨をどう流すかが治水上重要になってくる。そんな川を管理する上で一番重要なのは洪水対策でいかにして洪水を安全に流下させるかであり、水系には様々な治水上の工夫がされている。都市河川ならでは謎めいた川

(結び)
川の名というのは、上流と下流で呼び名が変わることはママあることだ。
川の規模の大小に関わらず、時代の流れで川の名が変わってしまうこともある。
横浜で一例を挙げるなら
一級河川支流 宇田川の名は 上流で「村岡川」と呼ばれ、現在もその名残を残している。本流は支流が集まっているので、多くの支流を合わせて<本流>の名が付けられている。大きい川となると<水系>という表現もある。
大岡川水系は 笹下川・日野川が合流し一本となり大岡川と呼ばれ蒔田に深い入り江の河口があったのが江戸時代中期まで。
その後、吉田勘兵衛が入り江を埋め立てる大事業に挑戦し、吉田新田が誕生します。ここで大岡川と中村川が誕生します。
まさに大岡川は、中世から近世、近代に至るまで 市街化する河川の歴史を明確に表していると言えるだろう。
大岡川下流域が近代化する過程で「運河の街」であったことを忘れてはいけないだろう。
大岡川を説明するキーワードは
・現在も自然ゆたかな円海山周辺の源流域
・吉田新田の誕生
・住宅が密集する都市河川という宿命
・都市発展に欠かせなかった「運河」
これらが説明されることが望ましいと思う。

(関連ブログ)
No.192 7月10日(火)【横浜の河川】もう一つの大岡川

No.2148月1日(水)開港場を支えた派川工事

No.435 大岡川物語(1)

【番外編】(ざくっと横浜その1)村は川に沿って生まれる

No.700  【横浜の河川】川いろはのイ

第856話 絵葉書に見る風景<ある日の弁天橋>

1000話まで残り144話となりました。ここから少しスピードアップして950話まで飛ばします。ゴール50話はじっくり振り返ってみたいと思っています。
大岡川河口近くに架かる弁天橋はブログでも複数取り上げています。
今日は、横浜絵葉書を含め<弁天橋の風景>を紹介します。
<弁天橋>の名は開港時に横浜村弁天社があったことに由来します。幕末以前開港場洲干弁天入口
かながわの橋100選では
「桜木町の“玄関の橋”として親しまれ、橋の親柱の意匠に人気がある。現在の橋は昭和51年の竣工で、橋長54mの鋼鈑桁橋。床組は鋼床版である。弁天橋が初めて架けられたのは明治4年で、横浜から新橋間に汽車が開通する1年前であった。当時の横浜駅は今の桜木町駅で、当時の弁天橋はまさに横浜の玄関というべき橋であった。」
light2016年07月19日23時36分31秒 light2016年07月19日23時46分20秒 light20150408120248_001 light20150624100851_002 light20150710122409 lightP3229774 lightP6141089 lightP6141103 lightP6141109 lightP6141112 lightP6141119 lightP6141121 lightP6141126 lightP6141160【横浜絵葉書】弁天橋の日米国旗
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=7201
【横浜橋物語】弁天橋(横浜市中区)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=5832

第853話 7月20日 京急仲木戸

1941年(昭和16年)7月20日(日)
「海の日」の起源となった「海の記念日」が制定され、横浜でヨット大会が開催されました。
幻の東京オリンピックにも関係したこのレースの話
ではありません。
安政6年の話です。まずは京急「仲木戸駅」から始まります。
京急「仲木戸駅」を降り、海に向かって少し歩くと国道15号線に出ます。

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この道をさらに真っ直ぐ進むと「村雨橋」その先に「瑞穂橋」があります。
この2つの橋は、横浜戦後史にその名を残す「戦車」の橋でした。
今回はこの橋を越えず 手前で右に曲がるとしばらくして運河沿いの景色が見えます。

ゴルフ練習場のフェンスを左手に見ながらさらに進むと“古い石積み”を観察することができます。
奥に高層マンションが見え、手前に倉庫群がありこの建物を大きく周り込むように進むと「神奈川台場」の遺構が一部残された「神奈川台場公園」があります。
(神奈川台場公園)
横浜の歴史好きなら一度は訪れたことのある場所です。昨日の「第852話 7月19日京浜急行線権現山」で少し触れた神奈川台場は幸ヶ谷から土砂を削りだし埋立て、石は真鶴から運んだと言われている江戸末期の遺構です。
ここは
勝海舟が基本設計を行い伊予松山藩が築造した船舶警備用の施設です。
台場といえば品川の「お台場」が有名で、全国にも数多くの幕府と各藩により築かれた「台場」が残り“指定文化財”“国の史跡”等に指定されています。
その点、この神奈川台場は開港場沖を監視するという重要な役割を担いますが、間もなく歴史からその姿を消してしまいます。light神奈川台場 この神奈川台場は他の台場には見られない“船溜まり”を持つ構造を持っていて、「蝙蝠台場(こうもりだいば)」とも呼ばれた歴史的にも貴重な歴史遺構でしたが、近代化のうねりに飲み込まれてしまいました。
ペリーが江戸湾に姿を現したことで、幕府は江戸湾の警備をいくつかの藩に命じます。この「台場」のある神奈川宿一帯は“坂の上の雲”で一躍注目された伊予松山藩が担当することになります。(因みに横浜開港場は越前松平藩が担当)
「万延元年(1860年)に藩財政1年分にあたる7万両と、延べ30万の人員を投入しわずか1年で完成させました。設計は西洋通の勝海舟に一任したと言われています。この台場は軍事施設でありましたが、明治以降は諸外国の外交団が来日した際や、国王・大統領の誕生日などに儀礼として祝砲を発射する施設として利用され、国際都市横浜の発展を支える重要な役割を果たしてきたと言えます。
明治32年(1899年)に台場は廃止され、大正10年(1921年)頃より徐々に埋め立てられ、現在ではJR東高島貨物駅構内にごくわずかに石垣を残すのみとなり、かつての景観はありませんが、現在の横浜市はこの台場が基礎となっており、貴重な史跡となっています。(伊予萬翠荘)」
「隠岐守(伊予藩)は海防の事には頗る熱心であった丈けに、幕府に砲台を築く事を願ひ、最初は神奈川宿の猟師町と並木町との二ケ所に設ける考へであったが、段々調査して見ると相当の砲台を築くならば、近距離に二ヶ所も設くる必要は無いと云ふので猟師町の方だけに築造する事にした。
当時品川砲台は頗る不評判であったので,折角築造するならば効力の充分なものをとの評議であった。(横濱市報1938年)」
と説明されています。
<品川台場>が不評だった!という記述には1938年当時、東京と神奈川で開港紛争が起こっていましたので100%丸呑みにはできませんが、<神奈川台場>のデザイン性からもかなり実効性を求めたことが判ります。
そして台場の設計が勝海舟に依頼され、安政6年5月に実測後の<縄張り・杭打ち>を佐藤政養が担当し

この年の7月20日の今日
工事が始まります。工期は当時としては極めて短期間の約一年で完成、万延元年6月に竣工しました。
横浜開港の幕開けに欠かせない<神奈川台場>近年再調査と保全が進められています。まだ多くの遺構がJR貨物の「高島駅」構内に埋もれています。light神奈川台場合成007
今後、遺構が再出現する可能性もあり楽しみです。
現在は台場に隣接して<コットンハーバー>のマンションが建っていますが、この一帯は浅野造船所でもあったため、造船所も遺構も残されています。light_20150404125158浅野造船所略図
夏は少し汗ばみますが、秋口にでも一度散策されてはいかがでしょう。
※コットンハーバー行きのバスがあります。
京急仲木戸からは徒歩20分くらい

No.202 7月20日 (金) 港をヨットが舞った日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=405
今日は元「海の日」です。

第834話 1966年(昭和41年)6月28日女性職員3人犠牲

1966年(昭和41年)6月28日の今日
「台風4号で第二磯子寮が被災。女性職員3人が犠牲(横浜市営交通八十年史)」
昭和41年の台風第4号は6月28日の今日、房総半島に接近し神奈川県内に大きな被害をもたらしました。
http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/summary/wnp/s/196604.html.ja
市内の被害は
「死者32人 負傷者14人 倒壊家屋58棟 浸水家屋38,859戸 崖崩れ850箇所損」
過去の記録からもこの4号台風被害が大きかったことがわかります。
昭和から現在までの水害一覧

1938年(昭和13年)6月水害 27,791戸※第二位
1948年(昭和23年)9月アイオン台風 2,282戸
1949年(昭和24年)8,9月キティ台風及び豪雨 5,690戸
1950年(昭和25年)6月豪雨 1,303戸
1952年(昭和27年)6月ダイナ台風 643戸
1953年(昭和28年)9月台風13号 443戸
1956年(昭和31年)10月豪雨 1,952戸
1958年(昭和33年)7月台風11号 1,336戸
1958年(昭和33年)9月台風22号 24,036戸※第三位
1961年(昭和36年)6月集中豪雨 19,956戸※第四位
1961年(昭和36年)10月台風24号 504戸
1965年(昭和40年)8月台風17号 1,972戸
1965年(昭和40年)9月台風24号 764戸
1966年(昭和41年)6月台風4号 45,757戸※※第一位
1966年(昭和41年)9月台風26号 99戸
1970年(昭和45年)7月集中豪雨 3,142戸
1971年(昭和46年)8,9月台風23号 1,512戸
1972年(昭和47年)2月集中豪雨 775戸
1972年(昭和47年)7月集中豪雨 643戸
1972年(昭和47年)9月台風20号 1,574戸
1973年(昭和48年)11月集中豪雨 5,774戸
1974年(昭和49年)6月雷雨 370戸
1974年(昭和49年)7月集中豪雨 6,361戸
1975年(昭和50年)6月雷雨 609戸
1976年(昭和51年)9月台風17号 5,764戸
1977年(昭和52年)9月台風9号 3,101戸
1979年(昭和54年)10月台風20号 1,160戸
1981年(昭和56年)7月集中豪雨 562戸
1981年(昭和56年)10月台風24号 424戸
1982年(昭和57年)9月台風18号 7,763戸
1983年(昭和58年)8月台風6号,5号 50戸
1985年(昭和60年)6,7月台風6号 24戸
1989年(平成1年)8月集中豪雨 1,192戸
1990年(平成2年)8月台風11号 97戸
1990年(平成2年)9月集中豪雨 22戸
1990年(平成2年)9月台風20号 1,335戸
1991年(平成3年)9月台風18号 272戸
1993年(平成5年)11月集中豪雨 608戸
1994年(平成6年)7月大雨 175戸
1994年(平成6年)7月大雨 62戸
1994年(平成6年)8月大雨 439戸
1996年(平成8年)8月大雨 26戸
1998年(平成10年)7月大雨 261戸
2001年(平成13年)7月大雨 251戸
2002年(平成14年)7月台風7号 49戸
2003年(平成15年)3月大雨 210戸
2004年(平成16年)10月台風22号 1007戸→横浜駅前が氾濫しました。
2004年(平成16年)10月台風23号 101戸
2005年(平成17年)9月大雨 78戸
2008年(平成20年)7月大雨 23戸
2009年(平成21年)8月大雨 10戸
2010年(平成22年)12月大雨 22戸
2011年(平成23年)8月大雨 20戸(横浜の災害)より

この「昭和41年台風第4号」による大岡川中・下流域の氾濫がキッカケで行われた河川事業が
「大岡川分水路」計画です。

大岡川分水路竣工記念碑
大岡川分水路竣工記念碑
コンクリート護岸の誤算
戦後の護岸治水は都市河川の<直線化>という課題を産みました。手っ取り早い護岸のコンクリート化が進み、また川に流れ込む降雨時の雨水が道路舗装の普及で土砂とゴミを直接河川に運びこむことになりました。結果、水質悪化が起こり川が本来持っていた浄化機能が無くなるに等しい状態となります。
雨が降れば水位が一気に上がり、河口へ土を吐出、この悪循環を無くすことと、豪雨等の急激な水量をコントロールするために大岡川にも分水路が設けられました。大岡川分水路位置図 2012-07-10 5.29.06light201506250175 light201506250351

■過去ブログから
1996年(平成8年)6月28日の今日
「横浜能楽堂開館」
掃部山公園の一角にあり、1996年(平成8年)3月に竣工し6月28日に開館しました。
「能舞台は、1875年(明治8年)に東京・根岸の前田斉泰邸に建てられ、東京・染井の松平頼寿邸に移築された「旧染井能舞台」で、関東地方では最古の能舞台である。」
No.180 6月28日 横浜能楽堂、その点と線
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=428

第827話 1876年(明治9年)6月21日張り棹禁止

1876年(明治9年)の今日
前に紹介しました神奈川県史料によると
沿海各区と正副区戸長に対し
「第三十
船乗渡世之者張り棹禁止之事」と題した禁止令を出しています。lightスクリーンショット 2016-06-20 07.58.08
船乗を仕事としている者、張り棹を使って石垣の透間へ棹を差し込み
船を繋ぎ碇泊したり
あるいは潮の満ち干を待つなどするものがいるが
これは石垣損傷の原因となるのでこれからは行ってはいけない
指定地域での船待、船宿および船乗乗などに
もれなく伝える!
って感じですかね。
内容は河川の石垣損傷の原因となるので棹をむやみやたらに隙間に挿すな!!という内容です。
昔の船の風景を追いかけてみます。

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小舟による水運が盛んな明治から大正にかけて、堀に係留する際<棹>は重要な役割を果たしました。棹を石垣の隙間に挿すな!と言われた船乗りたちは どうしたのでしょうか?
※ついでに第三十一号禁令では
早染めあるいは染め粉という理由で有毒の薬品を使うのは禁止する!
という行政命令も出ています。
横浜は輸出用の<染物>捺染の工場が集中した地域でもありますから、違法行為も多く出てきたのでしょう。

(過去の6月21日ブログ)
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=435
1964年(昭和39年)6月21日(日)の今日、
横浜市神奈川区にある三ツ沢公園(みつざわこうえん)で、
この年の10月10日開催予定の「第18回夏季東京オリンピック」に向けた横浜フェスティバルが開催され約45,000人が参加しました。