10月 26

図書館設置問題と水源林買収

今日は横浜資料からたまたま出会った史実を紹介します。
(掃部山公園)
横浜市史5巻目第二章「第一次世界大戦下の市政」第二節に
「図書館設置問題と水源林買収」という項目が書かれています。
読んでも2ページ程度なので全て引用しても良いのですが、前振りも含めて少し編集してみました。
第二節のタイトルは「遅々たる公共施設の整備」
ここでは横浜史の中で明治末期から大正初期について触れています。
横浜は開港50周年の記念行事も行い交易も盛んな大都市になった割にインフラを含め公共設備がなっとらん!と市議会で問題提起されます。

大正3年には「開港記念横浜会館」の建設が始まります。

当時
「一つの公会堂なく一つの図書館なし」と揶揄された横浜市は、まあ経済優先だったのでしょう。港湾施設は国のお金で大きく整備されてきましたが、市内を見回すと<ろくなものがない>という状態、文化施設不毛の町でした。様々な文化施設の計画が無かったわけではありません。市議会での議論がまとまらなかったのです。
例えば「商品陳列館」(現在のコンベンション・トレードセンター?)の建設計画も紛糾し先送りとなります。<市会>は明治以来<商人派><地主派>の系譜が二大勢力となって対立状況がありました。
同じく市民力のバロメータである「図書館」建設も明治期からの懸案事項でした。
ライバル神戸市は明治44年に規模は小さいですが本の閲覧を始めていました。その後、本格的な図書館が大正10年に開設されます。横浜市立図書館、そして大阪市立図書館も、大正10年に<横浜公園仮設閲覧所>が開設されます。
といっても戦後制定された<図書館法>による公共図書館の体裁はあまり整っておらず、本格的な開館は戦後を待ちます。
大正10年に図書館が開館した背景には「公立図書館職員令(同年勅令336号)」があるのかもしれません。
この辺詳しくないので勅令のタイミングだけ記しておきます。

※水源林確保のテーマは 横浜水道史のキモ!なので別立てで紹介します。

大正3年に彦根の井伊家から「掃部山」一帯4,233坪を横浜市に寄付するという申し入れが“正式に”あります。この広大なしかも整備された公園空間を無償で提供した背景は、聞くも涙、語るも涙の井伊家と支援者の努力があったのですが背景は別段で。
この公園、
寄付には条件がついていました。
●未来永劫 公園として使用しすること
●井伊直弼像はそのままにしておくこと※
※これが井伊家の<本望><photo id=”7″ />
●公園にはその他の建造物、井伊像とは関係のない記念物を建てない!
そして ここが肝心、
◎市が開港記念のために図書館を建設することは許す。
しかも 井伊家から2万円を補助するというものでした。
この申し入れをチャンスに図書館を建設しようという考えもだされます。ただ、この井伊掃部頭像を巡っては <開港50年式典>で政界を巻き込んで一悶着があった公園ですから、その後もスムースに掃部山に図書館ができるわけもなく、
横浜市は候補地を北仲にあった宮内省御用地払下げを目論みますが、条件が折り合わず計画は頓挫します。
結局大正10年になって横浜公園の仮設閲覧所を経て、昭和2年にようやく現在の中央図書館が開設されるに至ったのです。

一方、現在の<神奈川県立図書館>は戦後になり<サンフランシスコ講和条約>の記念事業として紅葉丘、掃部山公園に隣接する場所に設置されます。この時の知事は内山岩太郎という“豪腕知事”でした。

井伊家のメッセージに寄り添ったのか判りませんが、マッカーサーがペリーを意識した<講和条約>の記念事業に掃部山脇の図書館というのも歴史の皮肉といえるでしょう。

(大横浜)
横浜に様々な施設が登場するのは昭和に入ってからです。
残念ながら関東大震災後の復興事業によって横浜商工奨励館や横浜中央電話局、本町旭ビル、横浜地方裁判所の他都市中心部の威容は整います。

文化施設も、公園が整備されたのも関東大震災後の復興事業でした。

山下公園、野毛山公園もこの時期に整備されます。
実は 関東大震災後の復興計画で 横浜市の中心部を戸部に置く計画もありました。
市域を拡大し、市としても拡大していく上で、中心をどこに置くか?
今回市役所の移転で、少し市の軸がまた北に移動しますね。
ちょっと暴言になりますが、横浜の原点は<野毛・吉田橋>にあるんじゃないか?
と時々思うようになりました。<photo id=”3″ />

この辺に関しては 改めて。
最近横浜もビアガーデンが復活しているらしいので 飲みに行きますか!!

(過去の7月29日ブログ)
No.211 7月29日 (日)株式会社横浜国際平和会議場
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=396
1991年(平成3年)7月29日の今日、
横浜みなとみらいに通称“パシフィコ横浜”
「会議センター」と「ヨコハマグランドインターコンチネンタルホテル」が完成しました。運営会社の正式名称は「株式会社横浜国際平和会議場」です。
これに伴い
1991年(平成3年)7月29日

「市営バス141系統<横浜駅前〜パシフィコ横浜〜桜木町駅前間>運転開始(横浜市営交通八十年史)」します。

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10月 26

正岡子規「墨汁一滴」

正岡子規「墨汁一滴」

 鮓の俳句をつくる人には訳も知らずに「鮓桶」「鮓圧(お)す」などいふ人多し。昔の鮓は鮎鮓(あゆずし)などなりしならん。それは鮎を飯の中に入れ酢をかけたるを桶の中に入れておもしを置く。かくて一日二日長きは七日もその余も経て始めて食ふべくなる、これを「なる」といふ。今でも処によりてこの風残りたり。鮒鮓も同じ事なるべし。余の郷里にて小鯛、鰺、鯔など海魚を用ゐるは海国の故なり。これらは一夜圧して置けばなるるにより一夜鮓ともいふべくや。東海道を行く人は山北にて鮎の鮓売るを知りたらん、これらこそ夏の季に属すべき者なれ。今の普通の握り鮓ちらし鮓などはまことは雑なるべし。(七月二日)

正岡子規は1865(慶応3年)に生まれました。

同世代(慶応3年生まれ)に夏目漱石、幸田露伴、尾崎紅葉、内藤湖南、狩野亨吉、白鳥庫吉、黒田清輝、藤島武二、伊東忠太、宮武外骨、豊田佐吉、池田成彬、平沼騏一郎らがいます。

さらに年齢の枠を数年広げるだけで、近代日本を築いたあらゆる分野の重要人物が<ごろごろ>登場します。

この「墨汁一滴」は明治34年1月16日から7月2日まで、新聞『日本』に途中四日休載はありましたが、164回にわたって連載されました。

1900年(明治33年)8月に大量の喀血を起こした子規、かなり病状も良くない中 病魔と闘いながらの執筆でした。最後となった7月2日は<寿司>の話をテーマに軽妙に俳句論を語りますがこれで連載を止めることになります。

連載の始まった1月16日からの前半部には、力強い彼の歌論が展開されていますのでぜひご一読ください。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/1897_18672.html

この新聞『日本』と彼の連載を楽しみにしていた女性が子規同様に病気に倒れた中島 湘煙です。

中島 湘煙は夫で神奈川県令などを務めた中島信行とともに天下の悪法「保安条例」違反で<東京ところ払い!>浜流しにあった一人です。

横浜に流された中島信行はハマから政治家を志し神奈川県第5区から立候補、議員として活躍します。

https://ja.wikipedia.org/wiki/中島信行
1899年(明治32年)3月26日に信行が肺結核のため53歳で亡くなり、
1901年(明治34年)5月25日
一年後追うように中島湘烟も、肺結核のため38歳で亡くなります。ちょうど同時期に子規の「墨汁一滴」が連載されていました。
※新聞「日本」は1889年(明治22年)〜1914年(大正3年)末まで発行された日刊紙でした。創設者は陸 羯南(くが かつなん)、正岡子規はここの記者として一時期働き、その後支援を受けていました。
中島 湘煙について
No.475 点・線遊び「足利尊氏からフェリスまで」
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=10

正岡子規について
No.253 9月9日(日)子規、権太坂リターン
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=351
No.314 11月9日 (金)薩長なんぞクソクラエ
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=279

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10月 26

1954年(昭和29年)6月30日東口「横浜ホテル」

1954年(昭和29年)6月30日
「西区高島通り1丁目5番地にある横浜ホテルを東急が買収(東京急行50年史)」
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<東京急行50年史より>新館完成後か?
light横浜ホテル
昭和24年頃 買収直前か、買収後改装前のものと思われます。

(東西戦争)
神奈川県下、東急と西武の熾烈な開発競争が行われました。小田原箱根伊豆における東西戦争の歴史は獅子文六の小説にもなり有名です。
箱根は東急傘下の小田急と西武が、伊豆をめぐっては東急と西武が鉄道・バス路線でガチンコ勝負となります。
この東西戦争、巷のネタにはあまりなっていませんが、ここ横浜でも戦後熾烈な企業競争が行われました。
市内の拠点を俯瞰してみると 新横浜、磯子、八景島あたりに西武が拠点を置いていますね。
「横浜ホテルを東急が買収」した1950年代は東急が本格的にホテル事業に進出し始めた時期にあたります。
ヒルトングループとの提携をベースに東急グループに高級ホテル事業を成功させたいと
考えます。まず1954年(昭和29年)3月に軽井沢パークホテルを買収します。その3ヶ月後には<横浜駅前戦略>の幕開けとなった横浜駅東口(西区高島通り1丁目5番地)にあった神奈川都市交通の経営する小さなホテルの買収でした。
一方の西武鉄道も
1954年(昭和29年)10月1日
旧東伏見宮別邸を横浜プリンス会館として開業、
1960年(昭和35年)9月14日には
横浜プリンスホテル新館が開業し横浜のレジャー部門に楔を打つ形で進出を図ってきます。
(ヘッドハンティング)
「横浜ホテル」社長にはキャピー原田と呼ばれた和歌山県出身の両親を持つ日系アメリカ人「原田恒男」が就任。彼は1921年(大正10年)カリフォルニア州に生まれ、日米戦争で日本語情報将校として従軍します。終戦後はGHQ経済科学局(Economic Scientific Section)局長であるウイリアム・F・マーカット少将の副官(中尉)として配属され、当時の大蔵大臣・池田勇人とマーカットとの国家予算など重要な交渉の通訳を担当した人物です。
キャピー原田に関しては<日米野球の恩人>として有名で、この「横浜ホテル」社長だったことに驚く人も多いと思います。
戦前「大東急」を作り、戦後も東急電鐵王国を築いた五島慶太の才能の一つに人材力、事業展開に必要な人物のスカウト力がありました。
GHQを退官後、ハワイアン・トラベル・サービスホテルという日米旅行中心の代理店を開設していた原田恒男もその一人でした。
買収した「横浜ホテル」は木造モルタル造り、二階建て27室という旅館に毛の生えた小さなホテルでしたが経営陣には
社長は前述の原田恒男
取締役には五島昇、
五島慶太の懐刀「大川 博」
神奈川都市交通の「伊藤 福一」
※ちなみに神奈川都市交通の命名は「大川 博」
といった錚々たるメンバーが参画します。
同年12月27日に新館増築、本館改装を行い新規営業を開始します。
さらには
1955年(昭和30年)4月 「横浜ホテル」は先に買収済みの軽井沢パークホテルの経営にも当たることになります。
そして
1959年(昭和34年)に念願の東京に、銀座東急ホテルが着工し本格的なホテル経営に参入することになります。
1961年(昭和36年)4月に「横浜ホテル」は「横浜東急ホテル」へ商号を変更します。

(東口から西口へ)
東急電鉄は以前から横浜駅西口を軸に相鉄線との連結を含め本格的な横浜進出を狙い、「横浜ホテル」は東口から西口にシフトします。
1962年(昭和37年)3月27日
高島のホテルを閉鎖し横浜駅西口に横浜東急ホテルを移し新規オープンします。
この年、11月23日には横浜ステーションビル(シアル)が開業し、横浜駅西口駅前の核施設となります。11253231_1010023155708455_8184732838177142553_n 10492318_1010016622375775_2405860058021609436_n 2002年「横浜エクセルホテル東急」と名称変更。

2011年3月31日に閉館
現在は、「エキサイトよこはま22」計画が進行中です。
(関連ブログ)
No.328 11月23日(金)横浜駅東西戦争史
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=263
No.274 9月30日 (日)巨大資本の東西戦争
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=328
No.19 1月19日(木) 五島慶太の夢
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=604
No.87 3月27日 横浜駅のヘソが変わる
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=530
No.207 7月25日 (水)五島慶太の「空」(くう)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=399

※少し長くなりましたが まだまだ
この草創期の東急ホテル事業に関わった人物が面白い!
「横浜ホテル」初代社長の「原田 恒男」
彼の人脈に銀座東急ホテル・東京ヒルトンホテルの「星野 直樹」
星野ファミリーは横浜と深い因縁があります。
東映・大映との関係、平和球場での日米野球
いずれ 掘って!みたいと思います。

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10月 26

横浜学舎の歴史

1875年(明治8年)6月29日のこと
「学舎の名を<学校>と改称(横浜歴史年表)」
横浜の小学校は制度として1872年(明治5年)から寺院等を使って始まりました。それ以前に江戸時代からの<寺子屋>として地域の教育機関だったものもあります。新学制が導入され小<学舎>と呼ばれてその後1875年(明治8年)の今日、小学校と呼ばれるようになりました。
上記の(横浜歴史年表)表記によると

壮行学舎→横浜学校<注1>
存心学舎→吉田学校
立志学舎→太田学校
養賢学舎→石川学校
三到学舎→元街学校
就蘭学舎→北方学校
洗心学舎→本牧学校
主敬学舎→根岸学校
(正)※志敬学舎→根岸学校→根岸小学校
真照学舎→磯子学校
弘照学舎→鶴見学校
(正)※弘明塾→鶴見学校→豊岡小学校

と紹介されていますが、調べていくと誤記(文字変換誤作動)等があり整理に手間取りました。一部確認できたものを修正しました。
明治期にかなりの小学校が地域に設立されています。日本の近代化を支えた柱の一つです。
<注1>横浜小学校
https://ja.wikipedia.org/wiki/横浜小学校
(明治前期創設の小学校)
明治前期に<現横浜市域>に設立され現在もある小学校リストを一覧化してみました。(廃校は略しています)

※印は創設時の<学舎>
1872年(明治5年)
山下小学校  北八朔町1865-3※中村学舎
石川小学校  中村町1-66※養賢学舎
豊岡小学校  豊岡町27-1※弘明塾
1873年(明治6年)
子安小学校  新子安一丁目24-1※子安学舎
都岡小学校  都岡町4-8※今宿学舎・川井学舎
北方小学校  諏訪町29※就蘭学舎
鉄小学校  鉄町427※鉄学舎
星川小学校  星川三丁目18-1
元街小学校  山手町36※三到学舎
末吉小学校  上末吉一丁目9-1※末吉学舎
谷本小学校  藤が丘一丁目55-10※谷本学舎
保土ケ谷小学校  神戸町129-4※程谷学舎
磯子小学校  久木町11-1※真照学舎
杉田小学校  杉田一丁目8-1※森田学舎→森中原学校
根岸小学校  西町2-46※志敬学舎
金沢小学校  町屋町26-26※知足学舎・柴村小学舎・野島学校
釜利谷小学校  釜利谷東六丁目37-1※赤井学舎(万蔵院)
六浦小学校  六浦三丁目11-1※三分学舎(光伝寺)
大綱小学校  大倉山4丁目2-1※地域の四学舎(大乗寺・東照寺・本乗寺・観音寺)
日野小学校  日野七丁目11-1※日野学舎
田奈小学校  田奈町51-13※??
富岡小学校  富岡西七丁目13-1※富岡学舎
日吉台小学校  日吉本町一丁目34-21※清林学舎
長津田小学校  長津田町2330※壮行学舎
戸塚小学校  戸塚町132※富塚学舎
市場小学校  元宮一丁目13-1※真明学舎
潮田小学校  向井町三丁目82-1※潮田学舎
山内小学校  新石川一丁目20-1※荏田学舎
青木小学校  桐畑17※青木学舎
市沢小学校  市沢町781※市野澤学舎
二俣川小学校  二俣川1-33※宮沢学舎
石川小学校  中村町1-66※養賢学舎
大岡小学校  大橋町3-49※大岡学舎
太田小学校  三春台42※立志学舎
日下小学校  笹下3丁目9−1※笹下東樹学舎
1874年(明治7年)
高田小学校  高田町1774※高田学舎
中川小学校  牛久保東二丁目21-1※大棚学舎
鴨居小学校  鴨居四丁目7-15※ 鴨居学舎
桜岡小学校  大久保1丁目6−43※最岡学舎
1875年(明治8年)
川島小学校  川島町1162※川島学舎
神奈川小学校  東神奈川二丁目35-1※神奈川学舎
1876年(明治9年)
千秀小学校  田谷町1832
1879年(明治12年)
戸部小学校  伊勢町2-115※戸部学舎
1880年(明治13年)
今井小学校  今井町981-1(3月25日)
白根小学校  中白根一丁目9-1(7月5日)※今宿学舎(本立寺)より分校
1889年(明治22年)
新治小学校  新治町768※久保学舎より分校
1890年(明治23年)
瀬谷小学校  相沢四丁目1-1(11月15日)※ 瀬谷学舎・二つ橋学舎・若宮学舎・新道学舎・阿久和学舎などが統合?
1892年(明治25年)
豊田小学校  長沼町125-4(5月1日)※龍臥学舎(明治5年2月)
中和田小学校  和泉町3721(5月17日)※岡津学舎
中山小学校  中山町925(9月1日)※移転し「森の台小学校」中山第二小学校が「中山小学校」に※中山学舎
川上小学校  秋葉町203-2(10月1日)
本郷小学校  中野町16-1(10月5日)
永野小学校  上永谷二丁目21-10(11月3日)※棲心庵学舎(明治5年)
このように、明治前期に地域の学校が多く設立されます。
学校の敷地は地元の協力で(寺社、私有地等)を寄付し開校された学校が多かったようです。
※各小学校・区役所の資料から表記を整理したものです。表記以外に<学舎>として歴史があるものも散見されます。

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10月 26

昭和41年台風第4号

1966年(昭和41年)6月28日
「台風4号で第二磯子寮が被災。女性職員3人が犠牲(横浜市営交通八十年史)」
昭和41年台風第4号は6月28日の今日、房総半島に接近し神奈川県内に大きな被害をもたらしました。
http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/summary/wnp/s/196604.html.ja
市内の被害は
「死者32人 負傷者14人 倒壊家屋58棟 浸水家屋38,859戸 崖崩れ850箇所損」
過去の記録からもこの4号台風被害が大きかったことがわかります。
昭和から現在までの水害一覧

1938年(昭和13年)6月水害 27,791戸※第二位
1948年(昭和23年)9月アイオン台風 2,282戸
1949年(昭和24年)8,9月キティ台風及び豪雨 5,690戸
1950年(昭和25年)6月豪雨 1,303戸
1952年(昭和27年)6月ダイナ台風 643戸
1953年(昭和28年)9月台風13号 443戸
1956年(昭和31年)10月豪雨 1,952戸
1958年(昭和33年)7月台風11号 1,336戸
1958年(昭和33年)9月台風22号 24,036戸※第三位
1961年(昭和36年)6月集中豪雨 19,956戸※第四位
1961年(昭和36年)10月台風24号 504戸
1965年(昭和40年)8月台風17号 1,972戸
1965年(昭和40年)9月台風24号 764戸
1966年(昭和41年)6月台風4号 45,757戸※※第一位
1966年(昭和41年)9月台風26号 99戸
1970年(昭和45年)7月集中豪雨 3,142戸
1971年(昭和46年)8,9月台風23号 1,512戸
1972年(昭和47年)2月集中豪雨 775戸
1972年(昭和47年)7月集中豪雨 643戸
1972年(昭和47年)9月台風20号 1,574戸
1973年(昭和48年)11月集中豪雨 5,774戸
1974年(昭和49年)6月雷雨 370戸
1974年(昭和49年)7月集中豪雨 6,361戸
1975年(昭和50年)6月雷雨 609戸
1976年(昭和51年)9月台風17号 5,764戸
1977年(昭和52年)9月台風9号 3,101戸
1979年(昭和54年)10月台風20号 1,160戸
1981年(昭和56年)7月集中豪雨 562戸
1981年(昭和56年)10月台風24号 424戸
1982年(昭和57年)9月台風18号 7,763戸
1983年(昭和58年)8月台風6号,5号 50戸
1985年(昭和60年)6,7月台風6号 24戸
1989年(平成1年)8月集中豪雨 1,192戸
1990年(平成2年)8月台風11号 97戸
1990年(平成2年)9月集中豪雨 22戸
1990年(平成2年)9月台風20号 1,335戸
1991年(平成3年)9月台風18号 272戸
1993年(平成5年)11月集中豪雨 608戸
1994年(平成6年)7月大雨 175戸
1994年(平成6年)7月大雨 62戸
1994年(平成6年)8月大雨 439戸
1996年(平成8年)8月大雨 26戸
1998年(平成10年)7月大雨 261戸
2001年(平成13年)7月大雨 251戸
2002年(平成14年)7月台風7号 49戸
2003年(平成15年)3月大雨 210戸
2004年(平成16年)10月台風22号 1007戸→横浜駅前が氾濫しました。
2004年(平成16年)10月台風23号 101戸
2005年(平成17年)9月大雨 78戸
2008年(平成20年)7月大雨 23戸
2009年(平成21年)8月大雨 10戸
2010年(平成22年)12月大雨 22戸
2011年(平成23年)8月大雨 20戸

(横浜の災害)より
この「昭和41年台風第4号」による大岡川中・下流域の氾濫がキッカケで行われた河川事業が「大岡川分水路」計画です。
この分水路に関しては、7月4日に現地視察を行いました。
大岡川分水路竣工記念碑大岡川分水路竣工記念碑

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