6月 29

第835話 1875年(明治8年)6月29日小学校と呼ぶ

1875年(明治8年)の今日6月29日
「学舎の名を<学校>と改称(横浜歴史年表)」
横浜の小学校は制度として1872年(明治5年)から寺院等を使って始まりました。それ以前に江戸時代からの<寺子屋>として地域の教育機関だったものもあります。新学制が導入され小<学舎>と呼ばれてその後1875年(明治8年)の今日、小学校と呼ばれるようになりました。
上記の(横浜歴史年表)表記によると

壮行学舎→横浜学校<注1>
存心学舎→吉田学校
立志学舎→太田学校
養賢学舎→石川学校
三到学舎→元街学校
就蘭学舎→北方学校
洗心学舎→本牧学校
主敬学舎→根岸学校※
(正)※志敬学舎→根岸学校
真照学舎→磯子学校
弘照学舎→鶴見学校※
(正)※弘明塾→鶴見学校

と紹介されていますが、調べていくと誤記(文字変換誤作動)等があり整理に手間取りました。一部確認できたものを修正しました。
明治期にかなりの小学校が地域に設立されています。日本の近代化を支えた柱の一つです。
<注1>横浜小学校
https://ja.wikipedia.org/wiki/横浜小学校
(明治前期創設の小学校)
明治前期に<現横浜市域>に設立され現在もある小学校リストを一覧化してみました。(廃校は略しています)

※印は創設時の<学舎>
1872年(明治5年)
山下小学校  北八朔町1865-3※中村学舎
石川小学校  中村町1-66※養賢学舎
豊岡小学校  豊岡町27-1※弘明塾
1873年(明治6年)
子安小学校  新子安一丁目24-1※子安学舎
都岡小学校  都岡町4-8※今宿学舎・川井学舎
北方小学校  諏訪町29※就蘭学舎
鉄小学校  鉄町427※鉄学舎
星川小学校  星川三丁目18-1
元街小学校  山手町36※三到学舎
末吉小学校  上末吉一丁目9-1※末吉学舎
谷本小学校  藤が丘一丁目55-10※谷本学舎
保土ケ谷小学校  神戸町129-4※程谷学舎
磯子小学校  久木町11-1※真照学舎
杉田小学校  杉田一丁目8-1※森田学舎→森中原学校
根岸小学校  西町2-46※志敬学舎
金沢小学校  町屋町26-26※知足学舎・柴村小学舎・野島学校
釜利谷小学校  釜利谷東六丁目37-1※赤井学舎(万蔵院)
六浦小学校  六浦三丁目11-1※三分学舎(光伝寺)
大綱小学校  大倉山4丁目2-1※地域の四学舎(大乗寺・東照寺・本乗寺・観音寺)
日野小学校  日野七丁目11-1※日野学舎
田奈小学校  田奈町51-13※??
富岡小学校  富岡西七丁目13-1※富岡学舎
日吉台小学校  日吉本町一丁目34-21※清林学舎
長津田小学校  長津田町2330※壮行学舎
戸塚小学校  戸塚町132※富塚学舎
市場小学校  元宮一丁目13-1※真明学舎
潮田小学校  向井町三丁目82-1※潮田学舎
山内小学校  新石川一丁目20-1※荏田学舎
青木小学校  桐畑17※青木学舎
市沢小学校  市沢町781※市野澤学舎
二俣川小学校  二俣川1-33※宮沢学舎
石川小学校  中村町1-66※養賢学舎
大岡小学校  大橋町3-49※大岡学舎
太田小学校  三春台42※立志学舎
日下小学校  笹下3丁目9−1※笹下東樹学舎
1874年(明治7年)
高田小学校  高田町1774※高田学舎
中川小学校  牛久保東二丁目21-1※大棚学舎
鴨居小学校  鴨居四丁目7-15※ 鴨居学舎
桜岡小学校  大久保1丁目6−43※最岡学舎
1875年(明治8年)
川島小学校  川島町1162※川島学舎
神奈川小学校  東神奈川二丁目35-1※神奈川学舎
1876年(明治9年)
千秀小学校  田谷町1832
1879年(明治12年)
戸部小学校  伊勢町2-115※戸部学舎
1880年(明治13年)
今井小学校  今井町981-1(3月25日)
白根小学校  中白根一丁目9-1(7月5日)※今宿学舎(本立寺)より分校
1889年(明治22年)
新治小学校  新治町768※久保学舎より分校
1890年(明治23年)
瀬谷小学校  相沢四丁目1-1(11月15日)※ 瀬谷学舎・二つ橋学舎・若宮学舎・新道学舎・阿久和学舎などが統合?
1892年(明治25年)
豊田小学校  長沼町125-4(5月1日)※龍臥学舎(明治5年2月)
中和田小学校  和泉町3721(5月17日)※岡津学舎
中山小学校  中山町925(9月1日)※移転し「森の台小学校」中山第二小学校が「中山小学校」に※中山学舎
川上小学校  秋葉町203-2(10月1日)
本郷小学校  中野町16-1(10月5日)
永野小学校  上永谷二丁目21-10(11月3日)※棲心庵学舎(明治5年)
このように、明治前期に地域の学校が多く設立されます。
学校の敷地は地元の協力で(寺社、私有地等)を寄付し開校された学校が多かったようです。
※各小学校・区役所の資料から表記を整理したものです。表記以外に<学舎>として歴史があるものも散見されます。

(その他の6月29日ブログ)
No.181 6月29日(金) オーシャンビューの35棟解体
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=427
1959年(昭和34年)6月29日(月)の今日、米軍に接収されていた山下公園が“一部解除”されたことを祝う式典が行われました。
この接収時期の山下公園風景が絵葉書にされています。

山下公園米軍接収風景
制作当時、この風景が未来永劫?続くと思ったのでしょうか?
それとも、貴重な風景ととらえたのでしょうか?
14年に渡る接収は当時の横浜中心部接収事情からはかなり長い接収期間といえるでしょう。

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6月 28

第834話 1966年(昭和41年)6月28日女性職員3人犠牲

1966年(昭和41年)6月28日の今日
「台風4号で第二磯子寮が被災。女性職員3人が犠牲(横浜市営交通八十年史)」
昭和41年の台風第4号は6月28日の今日、房総半島に接近し神奈川県内に大きな被害をもたらしました。
http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/summary/wnp/s/196604.html.ja
市内の被害は
「死者32人 負傷者14人 倒壊家屋58棟 浸水家屋38,859戸 崖崩れ850箇所損」
過去の記録からもこの4号台風被害が大きかったことがわかります。
昭和から現在までの水害一覧

1938年(昭和13年)6月水害 27,791戸※第二位
1948年(昭和23年)9月アイオン台風 2,282戸
1949年(昭和24年)8,9月キティ台風及び豪雨 5,690戸
1950年(昭和25年)6月豪雨 1,303戸
1952年(昭和27年)6月ダイナ台風 643戸
1953年(昭和28年)9月台風13号 443戸
1956年(昭和31年)10月豪雨 1,952戸
1958年(昭和33年)7月台風11号 1,336戸
1958年(昭和33年)9月台風22号 24,036戸※第三位
1961年(昭和36年)6月集中豪雨 19,956戸※第四位
1961年(昭和36年)10月台風24号 504戸
1965年(昭和40年)8月台風17号 1,972戸
1965年(昭和40年)9月台風24号 764戸
1966年(昭和41年)6月台風4号 45,757戸※※第一位
1966年(昭和41年)9月台風26号 99戸
1970年(昭和45年)7月集中豪雨 3,142戸
1971年(昭和46年)8,9月台風23号 1,512戸
1972年(昭和47年)2月集中豪雨 775戸
1972年(昭和47年)7月集中豪雨 643戸
1972年(昭和47年)9月台風20号 1,574戸
1973年(昭和48年)11月集中豪雨 5,774戸
1974年(昭和49年)6月雷雨 370戸
1974年(昭和49年)7月集中豪雨 6,361戸
1975年(昭和50年)6月雷雨 609戸
1976年(昭和51年)9月台風17号 5,764戸
1977年(昭和52年)9月台風9号 3,101戸
1979年(昭和54年)10月台風20号 1,160戸
1981年(昭和56年)7月集中豪雨 562戸
1981年(昭和56年)10月台風24号 424戸
1982年(昭和57年)9月台風18号 7,763戸
1983年(昭和58年)8月台風6号,5号 50戸
1985年(昭和60年)6,7月台風6号 24戸
1989年(平成1年)8月集中豪雨 1,192戸
1990年(平成2年)8月台風11号 97戸
1990年(平成2年)9月集中豪雨 22戸
1990年(平成2年)9月台風20号 1,335戸
1991年(平成3年)9月台風18号 272戸
1993年(平成5年)11月集中豪雨 608戸
1994年(平成6年)7月大雨 175戸
1994年(平成6年)7月大雨 62戸
1994年(平成6年)8月大雨 439戸
1996年(平成8年)8月大雨 26戸
1998年(平成10年)7月大雨 261戸
2001年(平成13年)7月大雨 251戸
2002年(平成14年)7月台風7号 49戸
2003年(平成15年)3月大雨 210戸
2004年(平成16年)10月台風22号 1007戸→横浜駅前が氾濫しました。
2004年(平成16年)10月台風23号 101戸
2005年(平成17年)9月大雨 78戸
2008年(平成20年)7月大雨 23戸
2009年(平成21年)8月大雨 10戸
2010年(平成22年)12月大雨 22戸
2011年(平成23年)8月大雨 20戸(横浜の災害)より

この「昭和41年台風第4号」による大岡川中・下流域の氾濫がキッカケで行われた河川事業が
「大岡川分水路」計画です。


大岡川分水路竣工記念碑
コンクリート護岸の誤算
戦後の護岸治水は都市河川の<直線化>という課題を産みました。手っ取り早い護岸のコンクリート化が進み、また川に流れ込む降雨時の雨水が道路舗装の普及で土砂とゴミを直接河川に運びこむことになりました。結果、水質悪化が起こり川が本来持っていた浄化機能が無くなるに等しい状態となります。
雨が降れば水位が一気に上がり、河口へ土を吐出、この悪循環を無くすことと、豪雨等の急激な水量をコントロールするために大岡川にも分水路が設けられました。大岡川分水路位置図 2012-07-10 5.29.06light201506250175 light201506250351

■過去ブログから
1996年(平成8年)6月28日の今日
「横浜能楽堂開館」
掃部山公園の一角にあり、1996年(平成8年)3月に竣工し6月28日に開館しました。
「能舞台は、1875年(明治8年)に東京・根岸の前田斉泰邸に建てられ、東京・染井の松平頼寿邸に移築された「旧染井能舞台」で、関東地方では最古の能舞台である。」
No.180 6月28日 横浜能楽堂、その点と線
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=428

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6月 27

第833話1936年(昭和11年)6月27日発禁!

1936年(昭和11年)6月27日の今日
横浜市出身の歌手、渡辺はま子の「忘れちゃいやヨ」が発売禁止となります。
https://www.youtube.com/watch?v=3OZl8OrajAk

作詞:最上洋
作曲:細田義勝
「月が鏡であったなら〜」
さてどこが発売禁止内容なのか?

文字通りのハマっ子として戦前戦後を生き、生涯横浜を愛した渡辺はま子は、人気歌手を越えた信念の人でした。
wikipedia以外の資料も含め年歌手以外の側面を中心に「渡辺はま子」年譜を自作してみました。
【渡辺はま子年譜】
※複数の資料から正確さを求めましたが
個々の裏取りはしておりません!
1910年(明治43年)10月27日
横浜の長者町の<花屋>に生まれ本名は「加藤 浜子」。
1929年(昭和4年)
捜真女学校普通科卒業。
1933年(昭和8年)
「武蔵野音楽学校」を卒業、
9月に横浜高等女学校の音楽教師として赴任します。
1934年(昭和9年)
日比谷公会堂で急遽 代役に抜擢され<漁師の娘>役を演じる。
ここで注目されJ.Oスタヂオ映画「百万人の合唱」に出演するために10月勤務先の横浜高女を休み、このことが父兄の間で物議となります。
1935年(昭和10年)10月
横浜高等女学校を退職し、ビクターの流行歌手に専念します。
1936年(昭和11年)6月27日の今日、
「忘れちゃいやヨ」発売から3ヵ月後、政府の内務省から『あたかも娼婦の嬌態を眼前で見るが如き歌唱。エロを満喫させる』とステージでの上演禁止とレコードの発売を禁止する統制指令が下ります。
改訂版として「月が鏡であったなら」とタイトルを変更し歌詞の一部分を削除してレコードを発売し大ヒット!
1945年(昭和20年)
戦地、中国大陸の慰問先で終戦を迎え、捕虜生活も経験します。
1947年(昭和22年)10月23日
歌手を廃業を宣言、中区上野町に花屋<パインクレスト花園>を開業します。
1950年(昭和25年)
芸能使節団として、小唄勝太郎、三味線けい子らと共に渡米。
1951年(昭和26年)1月3日
第一回NHK「紅白歌合戦」紅組の初代トリとして「桑港のチャイナ街」を唄います。
「桑港のチャイナ街」
1952年(昭和27年)12月23日
当時国交の無かったフィリピン、マニラに向け出発。
現地で戦犯慰問を行い、これがキッカケで日本人戦犯の特赦令が出ます。(フィリピン大統領エルピディオ・キリノ)
1953年(昭和28年)7月
「白山丸」で戦犯108人全員が横浜港に上陸し帰還。
1959年(昭和34年)9月22日
市長公舎で早川雪洲、北林透馬、林家正蔵らと対談
1972年(昭和47年)
横浜文化賞(国際親善)を受賞。
1973年(昭和48年)
紫綬褒章、日本レコード大賞特別賞
1974年(昭和49年)
神奈川文化賞を受賞。
1976年(昭和51年)6月28日
サンディエゴ使節団 出発(団長渡辺はま子)
1977年(昭和52年)6月12日
フィリピン独立記念日に現地で新曲<愛の花>を発表します。
1981年(昭和56年)
勲四等宝冠章を受章。
1982年(昭和57年)9月
「コアラと市民の会」(会長渡辺はま子)結成。
日本レコード大賞特別賞
1982年(昭和57年)
「サンライズ・イン・ヨコハマ」発売。
1983年(昭和58年)11月
「ああ忘れられぬ胡弓の音」出版。
1987年(昭和62年)10月
歌手生活55年記念リサイタル。
1999年(平成11年)12月31日 死去。89歳。
2000年(平成12年)
日本レコード大賞特別功労賞
2001年(平成13年)
「奇跡の歌姫 渡辺はま子」初演。
2015年(平成27年)1月24日 (土) 〜2015年1月31日 (土)
「横浜夢座15周年記念 第12回公演 奇跡の歌姫 渡辺はま子」再演。
(横浜を舞台にした代表曲)
2015年(平成27年)6月27日(土)
置賜文化ホールにて
「奇跡の歌姫 渡辺はま子」米沢公演
■6月28日(日)
山形市民会館 大ホール
■6月30日(火)
上越市文化会館 大ホール
■7月2日(木)
南魚沼市民会館大ホール

(横浜に関する渡辺はま子の歌)
TANGO DI YOKOHAMA
サンライズ・イン・ヨコハマ
ヨコハマ・パレード
ヨコハマ物語
港が見える丘
ヨコハマ懐古

(過去の6月27日ブログ)
No.179 6月27日(水)電気が夢を運んだ時代?
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=429
1877年(明治10年)6月27日(水)横浜の発明王といわれた山田与七が、「クロモジから香水・香油・香煉油をとること」を発明した日?

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6月 26

第832話 1934年(昭和9年)6月26日流血の暴動事件

1934年(昭和9年)6月26日の今日
「日吉村合併問題にからむ流血の暴動事件がおき検事・神奈川署員が出動した(横浜歴史年表)」
この日は、橘樹郡日吉村で臨時村会が開かれます。全日吉村は「横浜市」に入る意見書が緊急動議として提案され決選投票の結果<横浜市合併>が議決されます。
この知らせを聞いた日吉村の一部の村民が異議を申し立て
上記の<暴動事件>が起こります。
日吉村は予てから<川崎・横浜分割合併派><全域横浜派>分かれていましたが川崎市・横浜市、そして仲介に入った神奈川県が条件を協議しますが日を追うごと対立が先鋭化します。
この日、<川崎・横浜分割合併派>は「日吉村川崎市合併期成同盟会」を組織しさらに行動を過激化し、最終的に<川崎・横浜分割合併>となり矢上川を境に川崎市と横浜市に分かれ合併されることになります。
横浜市の市域拡大の過程で紛糾し村を分割した形で合併が決定するケースは<橘樹郡日吉村>だけでした。ただ同時期、横浜市は南の合併にも悩みの種を抱えていました。
久良岐郡六浦荘の合併問題です。(1936年(昭和11年)10月1日磯子区に編入)
この<日吉村顛末>は別立てのテーマで横浜市・川崎市の市域拡大史を整理しているところです。
キーワードは<都市化>に伴う水問題でした。
関東大震災後、多くの都市中心部に暮らしていた住民が郊外へ移り始めます。郊外化が始まる中、鉄道が拍車をかけます。
東京横浜電鉄の<目論見>はまさにここにありました。
一方、工業都市を目指す川崎市、貿易から重工業へ産業の厚みを求める横浜市は昭和に入り首都圏の産業構造の転換を図ります。工場を誘致し自治体の財政基盤を安定させようとする試みが東京を取り巻く首都圏で盛んになります。
結果、そこに必要とされるインフラが<水道設備(利水)>と<洪水に強い(治水・下水)>です。
川崎市は工業都市を目指す上で、多摩川と鶴見川のエリアを整備し市域拡大を目指します。1929年(昭和4年)に中原町と日吉村に対して合併を申し入れます。
中原町内で独立派と川崎市編入派に分かれ対立が激化します。結果、中原町は水道事業の財政負担に耐えられなくなり川崎市との合併を受け入れることになります。

日吉村は、意見がまとまりませんが時間の問題だろうと川崎市側も静観し<粛々と>日吉村を含めた都市計画案を作成していきます。
昭和7年、ここに東急東横線の日吉への慶應義塾誘致計画が持ち上がります。

しかも東急は横浜市に水道の提供を求め、事態が複雑化します。
市域外に市営水道を提供する訳にはいかないということで、横浜市は日吉村に
1933年(昭和8年)6月10日 正式に合併提案を行います。
これに慌てた川崎市は すぐさま7月13日に対案を提示し、一気に村を分けた大問題となっていきます。
川崎市は 生活圏のことなる矢上川を境に<分割案>
横浜市は 元々提案していた日吉村<全域編入案>を提示し
村は二分、神奈川県も仲裁に入りますが
4年に渡って紛糾を重ね
1937年(昭和12年)4月
横浜市は第5次市域拡大として橘樹郡日吉村の一部を
川崎市は第3次市域拡大として橘樹郡日吉村の一部を編入することになります。
この日吉村が<地政学的>に川崎市の重要エリア(喉元)であったことはいうまでもありません。

(関連ブログ)
No.91 3月31日 自治体国取り合戦勃発
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=526

(過去の6月26日ブログ)
No.178 6月26日(火)孟買への道
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=430
1965年(昭和40年)6月26日(土)
インド共和国の最大都市ムンバイと横浜市は姉妹都市締結を行いました。

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6月 25

第831話 1950年(昭和25年)6月25日朝鮮戦争勃発

1950年(昭和25年)6月25日の今日
「朝鮮動乱が勃発する。この戦争はわが国経済に多大な「特需」をもたらした(横浜商工会議所百年史)」
「朝鮮戦争勃発。(横浜市史)」
Wikipediaでは
「朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、1950年6月25日-1953年7月27日休戦)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡り北朝鮮が、国境線と化していた38度線を越えて侵攻したことによって勃発した国際紛争。」
です。
朝鮮戦争は市内中心部が米軍により接収されていた横浜にとって大きな影響を与えました。そこには<光と影>があり、占領下の日本<横浜>の現実が鮮明になった戦争でもありました。

関内エリアは大半が占領地でした11666056_1007196312657806_2158586649515523571_n 横浜にとってこの戦争による最初の影響は横浜に司令部のあった「米国第八軍司令部」が韓国に移動します。在韓米軍は編成替えを行い極東を統括していた第八軍司令官ウォルトン・H・ウォーカー中将が朝鮮派遣アメリカ地上軍司令官に就任。
第八軍は横浜から大邱(テグ)へ司令部を移すことになります。

11377094_1007194569324647_2128983487843944639_n 11391788_1007194509324653_7381001016816611094_n大邱市内
この第八軍は現在もソウル特別市竜山(ヨンサン)基地に司令部があります。
第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)6月10日にロバート・アイケルバーガー中将の指揮下に編成された部隊でダウンフォール作戦の相模湾(茅ヶ崎)上陸作戦を行う予定でした。10933703_1007194792657958_6417406341188521689_n このダウンフォール作戦の本土上陸作戦が実施される前に日本が降伏したことにより、第八軍は終戦後司令部を横浜市(横浜税関本庁舎)に設置し東日本(実質日本全体)の占領任務に就きます。
No.243 8月30日 (木)横浜の一番長い日
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=363

No.252 9月8日(土)横浜終戦直後その3
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=352

この第八軍は横浜を中心に様々な施設を接収していました。戦後接収時代を知る世代の方々は、市内のいたるところに「第八軍マーク」を見た記憶があるそうです。
第八軍マーク1795513_1007192579324846_1617232656768115400_n1896973_1007192605991510_2705981110115481566_n 10660179_1007192665991504_6360759367323415246_n
朝鮮戦争、朝鮮を舞台にした米ソの代理戦争となり日本は「国連軍」の支援という立場でこの戦争に関わることになります。横浜は「朝鮮戦争勃発にともなって横浜は国連軍の兵站基地となった。(高村直助「都市横浜の半世紀」)」ことだけでなく、過剰なレッドパージも行われ、他方 広範囲で公職追放されていた戦前の要職者の追放解除も行われることになります。
その後 1951年(昭和26年)9月8日 サンフランシスコ講和条約が結ばれ、ようやく国権を回復することになります。
No.246 9月2日(日)90年後の横浜(加筆修正)
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=358

No.177 6月25日(月) 出られない出口
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=431
「海芝浦」の話です。

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6月 24

第830話  6月24日は美空ひばり命日

1989年(平成元年)6月24日の
美空ひばりが亡くなった日です。light美空ひばり像
彼女は 我が国女性として初めて国民栄誉賞を贈られました。
No4 1月4日(水) 昭和の歌姫
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=619

ちょっと一覧化してみました。題して
【横浜と美空ひばりの歌】
※関係あるんだろうな? レベルのリストです。
抜けもあるかもしれませんのでご了承ください。
気楽に始めましたが 結構時間がかかってしまいました。
◎1949年(昭和24年)
「河童ブギウギ」松竹「踊る龍宮城」挿入歌

※竜宮城→浦島伝説からムリムリ
◎1949年(昭和24年)
「悲しき口笛」作詞:藤浦 洸 作曲:万城目 正
◎1954年(昭和29年)
「ひばりのマドロスさん」作詞:石本 美由起 作曲・編曲:上原 げんと

※石本 美由起さんは横浜の方で、横浜をイメージする作詞も多い方です。

神奈川区の歌も作詞されています。ちなみに歌は 由紀さおりさん。
◎1955年(昭和30年)
「あの日の船はもう来ない」作詞:西沢 爽 作曲・編曲:上原 げんと
◎1956年(昭和31年)
「港は別れてゆくところ」作詞:西沢 爽 作曲:船村 徹
◎1956年(昭和31年)
「君はマドロス海つばめ」作詞:石本 美由起 作曲・編曲:上原 げんと
◎1957年(昭和32年)
「みなと踊り」作詞:星野哲郎(補作詩石本美由起)作曲:船村 徹
※横浜市/産経時事新聞社選定「横浜の歌」

◎1957年(昭和32年)
「浜っ子マドロス」作詞:星野哲郎(補作詩石本美由起)作曲:船村 徹
※横浜市/産経時事新聞社選定「横浜の歌」
→この産経時事新聞社選定「横浜の歌」は未確認です。追って調べてみます。
◎1957年(昭和32年)
「港町さようなら」作詞:水島 哲 作曲:万城目正 編曲:若木みのる◎1958年(昭和33年)

「ご機嫌ようマドロスさん」作詞:西沢 爽 作曲:船村 徹
◎1958年(昭和33年)
「白いランチで十四ノット」作詞:石本美由起 作曲:万城目 正
◎1958年(昭和33年)
「風に唄えば」作詞:石本美由起 作曲:万城目 正(B面)
◎1960年(昭和35年)
「アロハの港」作詞:三木嘉平 作曲:古賀政男
◎1960年(昭和35年)
「ひばりの船長さん」作詞:石本美由起 作曲・編曲:船村 徹
◎1960年(昭和35年)
「哀愁波止場」作詞:星野 哲郎 作曲・編曲:船村 徹
◎1960年(昭和35年)
「初恋マドロス」作詞:西沢 爽 作曲:遠藤 実
◎1960年(昭和36年)
「ヨコハマ物語」作詞:西沢 爽 作曲:遠藤 実
◎1963年(昭和38年)
「港は涙のすてどころ」作詞:石本美由起 作曲・編曲:上原げんと
※ジャケットは柳沢良平?
◎1964年(昭和39年)
「港は心のふるさと」作詞:三浦康照 作曲:船村 徹
◎1964年(昭和39年)
「お久し振りネマドロスさん」作詞:三浦康照 作曲:船村 徹
◎1967年(昭和42年)
「あの人の…」作詞・永六輔 作曲・中村八大
これは注目です。
美空ひばり オフィシャルウェブサイトには見当たりませんでした。
探し方が悪いのかもしれません。
https://www.youtube.com/watch?v=uxbmVCAuOAM
ユーチューブは 著作権上 削除される可能性が高いので
確認したい方は 早めに!!!

※追って調べました。

 アルバム「歌は我が命~美空ひばり芸能生活20周年記念」に収録。

 シングルでは発売されていません。残念です。
◎1967年(昭和42年)
「港のむせび泣き」作詞:三浦 康照 作曲:山本 丈晴
◎1969年(昭和44年)
「星くずの港」作詞:吉岡 治 作曲:下川博省 編曲:河村 利夫
◎1970年(昭和45年)
「港が見える丘」アルバム
◎1972年(昭和47年)
「ひばり仁義」作詞:石本 美由起 作曲:市川 昭介
◎1977年(昭和52年)
「港町十三番地」作詞:石本 美由起 作曲・編曲:上原 げんと
◎1986年(昭和52年)
「恋港」作詞:志賀 貢 作曲:岡 千秋 編曲:斉藤 恒夫
◎1999年(平成11年)
「元禄港歌」作詞:秋元 松代 作曲:猪俣 公章
※1905年録音

No.176 6月24日(日) 関内の粋といやーー、ね。
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=432
関内を代表する割烹料亭「千登世」が
1881年(明治14年)6月24日(金)の今日、
住吉町6丁目79番地に開業しました。

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6月 22

第829話 1936年(昭和11年)6月23日日本製鋼横浜製作所JSW

人を結ぶ点と線
■1936年(昭和11年)の今日
「日本製鋼横浜製作所JSW」が金沢町泥亀に竣工・操業開始した日です。
日本製鋼横浜製作所の母体となった株式会社日本製鋼所は
1907年(明治40年)11月北海道室蘭にて
当時国防の要だった兵器の国産化を目的として英国と日本の共同出資により創業された兵器製造の合弁会社でした。近代化を進める日本にとって富国強兵、武器の欧米技術を採り入れることが急務でした。20世紀初頭、兵器製造技術のトップクラスであった英国のアームストロング社とヴィッカース社から精密機械技術のノウハウの提供を受け今日まで精密機械の分野でトップクラスの技術を誇っています。
かつて、横浜市金沢区エリアは、日本有数の軍事技術が終結したエリアです。
日本製鋼横浜製作所の他、
大日本兵器株式会社、日本飛行機株式会社、石川島航空工業等々、現在も軍事から民間需要に転換し業界をリードしている企業群です。
「日本製鋼横浜製作所JSW」も
1945年(昭和20年)終戦にともない民需転換を開始します。
1983年(昭和58年)に神奈川県横浜市金沢区福浦に移転。
「鋼と機械の総合メーカー」として世界的に評価されています。
http://www.jsw.co.jp/index.html
創業の
1936年(昭和11年)当時「日本製鋼横浜製作所JSW」のあった金沢町泥亀は10月に横浜市に編入されたばかりでした。
ここに一人の人物と横浜を結ぶ点と線がありました。

1942年(昭和16年)
二年前に上京し東京會舘に見習いとして就職した一人の青年が一時期、
国民徴用によりここ「日本製鋼横浜製作所・横銃製造所」に勤めることになります。
石川県鹿島郡余喜村字酒井の出身で横浜市鶴見に暮らす親戚に誘われて15歳で能登金澤駅から上野をめざした青年の名は今井清(いまい・きよし)
戦後知る人ぞ知るバーテンダーの最高峰「ミスター・マティーニ」と呼ばれた男です。「日本製鋼横浜製作所」では持ち前の才能を発揮、神奈川県下15万人の徴用工員の中から800名選ばれた優良工員の一人となります。
彼は国民徴用(白紙)から3年後の1944年(昭和19年)10月に召集令状(赤紙)が届き、厳しい状況下で兵役を努め終戦を迎えます。

1939年(昭和14年)暮、横浜鶴見に暮らす叔母から東京で働いてみないかという誘いを受けて今井は上京します。叔母の隣の家に暮らしていた東京會舘に勤める本多春吉という人物が弟子を探していました。本多は以前自分の下で働いていた北陸出身者を気に入り、叔母にも故郷北陸出身の働き手を求めていたからです。
この本多春吉こそ、
横浜グランドホテルからこの東京會舘のチーフバーテンダーとなった人物で、「ミスター・マティーニ」と呼ばれた男の終生の師となりました。

このエピソードは まだまだ横浜を舞台にひろがりますが
今日はここまでにしておきます。

もう一つ人を結ぶ点と線を紹介しておきます。
1913年(大正2年)6月23日の今日、
日本の女医第一号となった荻野吟子が東京府本所区小梅町の自宅で亡くなります。62歳、波瀾万丈の人生でした。
この女医<荻野吟子>と横浜の接点を少しミステリアスに追求したのが下記のブログです。
No.463 高島嘉右衛門 風聞記
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=91
高島嘉右衛門は北海道でも様々なビジネス展開にトライします。
北海道と彼が関わる中で、上記の<荻野吟子>の支援、そして北海道で一時代を築いた<丸井今井>の今井藤七との出会い、あまり語られることのない北海道での高島嘉右衛門像の一部を紹介しました。
このブログでも10回以上の登場場面がありました。
No.462 北海道と横浜を結ぶ点と線2
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=9
実に面白い人生を生きてきた人物です。今度の資料研究に期待したいところです。

(過去の6月23日ブログ)
No.175 6月23日 フランス軍港があった丘
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=433
1971年(昭和46年)6月23日の今日、歴史的景観と良好な住環境確保のために横浜市が4億円で買収しふらんすやまとして整備されます。

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6月 22

第828話 1889年(明治22年)6月22日杉村濬

1889年(明治22年)の今日
初代の<在バンクーバー日本国領事館(現在総領事館)>に杉村濬(すぎむら・ふかし)領事が着任します。
正確には彼を長としてカナダで初めて領事館が開設されました。
当時、カナダの在留邦人は200名程度で悲惨な状況だったそうです。
このカナダ領事時代の体験が杉村濬のブラジル移民政策に大きく影響を与えました。
杉村濬は<ブラジル日本移民の端緒を開いた人>といわれています。
盛岡出身
「杉村濬(幼名:順八)は1848年(弘化5年)1月16日,岩手郡仁王村大沢川原小路4番戸(現:盛岡市大沢川原)にて盛岡藩士杉村秀三,ナカの次男として生まれた。父秀三は剣術に優れ,濬も明治期の作人館で剣術を教えていた。濬は明治初期から外交畑で活躍し,のちにはカナダやブラジルへの移民事業に努めた。(盛岡市サイトより)」

1875年(明治8年)横浜毎日新聞論説記者となり編集長兼主筆として<朝鮮に関する論策>を中心に活躍しました。
1880年(明治13年)に外務省に出仕、京城公使館書記官、釜山浦領事館、台湾総督府事務官等を経て外務省通商局長として海外移民計画を立案するポジションに立ちます。ここから彼の移民政策を中心とした外交官人生がはじまりました。
カナダには2年赴任します。その後も主に日朝関係の諸問題を担当し最後は自ら希望したブラジルのリオデジャネイロに赴任、1906年(明治39年)5月19日に亡くなるまで移民事業促進にあたります。
横浜とバンクーバー、そしてブラジルは現在も深い関係にあります。バンクーバーはいち早く横浜と航路が開通した町です。

バンクーバー港と横浜港は姉妹港です。
http://www.city.yokohama.lg.jp/kowan/guide/shimaiko/
移民に関しては
「海外移住資料館」が新港埠頭にあります。
http://www.jomm.jp
お勧めです。レストランは特にバラエティに富んだ各国の料理を<都度>楽しむことができます。
夏は最高のビアレストランです。

ブラジルは<神戸市>と友好姉妹都市で、残念ながら横浜はなっていません。
おそらく ブラジル移民船第一号「笠戸丸」が神戸港から出発したからかもしれません。

ブラジルでは現在約150万人の日系人が暮らしています。
彼らの家族の中には横浜から旅だった方も多いと思います。なぜ 彼らは日本を離れたのか、そして今 国とは何か?
「海外移住資料館」を訪れる度に 考えさせられます。

(過去の6月22日ブログ)
清水市と横浜市は開港以来関係の深い町です。
No.174 6月22日(金) しみずみなとの名物は?
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=434
1897年(明治30年)6月22日(火)
外国との貿易に欠かせない横浜税関清水支署が設置されました。
これによって、清水港の国際化の歴史が大きくかわります。

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6月 20

第827話 1876年(明治9年)6月21日張り棹禁止

1876年(明治9年)の今日
前に紹介しました神奈川県史料によると
沿海各区と正副区戸長に対し
「第三十
船乗渡世之者張り棹禁止之事」と題した禁止令を出しています。lightスクリーンショット 2016-06-20 07.58.08
船乗を仕事としている者、張り棹を使って石垣の透間へ棹を差し込み
船を繋ぎ碇泊したり
あるいは潮の満ち干を待つなどするものがいるが
これは石垣損傷の原因となるのでこれからは行ってはいけない
指定地域での船待、船宿および船乗乗などに
もれなく伝える!
って感じですかね。
内容は河川の石垣損傷の原因となるので棹をむやみやたらに隙間に挿すな!!という内容です。
昔の船の風景を追いかけてみます。

light20150612225726 lightスクリーンショット 2016-06-20 08.49.13

小舟による水運が盛んな明治から大正にかけて、堀に係留する際<棹>は重要な役割を果たしました。棹を石垣の隙間に挿すな!と言われた船乗りたちは どうしたのでしょうか?
※ついでに第三十一号禁令では
早染めあるいは染め粉という理由で有毒の薬品を使うのは禁止する!
という行政命令も出ています。
横浜は輸出用の<染物>捺染の工場が集中した地域でもありますから、違法行為も多く出てきたのでしょう。

(過去の6月21日ブログ)
No.173 6月21日(木)横浜の代表的な運動公園
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=435
1964年(昭和39年)6月21日(日)の今日、
横浜市神奈川区にある三ツ沢公園(みつざわこうえん)で、
この年の10月10日開催予定の「第18回夏季東京オリンピック」に向けた横浜フェスティバルが開催され約45,000人が参加しました。

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6月 20

第826話 1973年(昭和48年)6月20日横浜市地区センター条例

1973年(昭和48年)6月20日付けで
横浜市地区センター条例が<公布>されています。
http://www.city.yokohama.jp/me/reiki/honbun/ag20212071.html
市条例も<公布>と言うんですね!まず小さな驚き。
「地区センター条例」は、地区センターについて取り決めたものです。
これ 横浜市民にはあまり驚きがありません。「地区センター」の利用ルールでしょう?という程度かもしれません。
確かにこの「地区センター条例」は

(設置)
(利用の目的)
(開館時間等)
(利用の制限)
(指定管理者の指定等)
(管理の業務の評価)
(利用の許可)
(利用料金)
(利用料金の減免)
(利用料金の不返還)
(許可の取消し等)
附則 等々

さらには
「横浜市地区センター条例施行規則」まで
事細かに決まっています。今日の突っ込みどころはここではありません。
前々から気になっていたテーマでもありますが
特に追っかけていなかったので<正解>はわかりませんので予めご了解ください。
そもそも
「地区センター」とは何ですか? という話です。
条例の第一条には
「地域住民が、自らの生活環境の向上のために自主的に活動し、及びスポーツ、レクリエーション、クラブ活動等を通じて相互の交流を深めることのできる場として、横浜市に地区センターを置く。」
利用の目的として
(1) スポーツ、レクリエーション、クラブ活動及び学習
(2) 講演会、研究会、展示会その他各種集会の開催
(3) その他地域住民の自主的な活動と相互の交流のため必要な事項

戻ります。
そもそも「地区センター」って公共施設の中でどのような役割をもっているのでしょうか?

 
地区センターなんでこだわるのかというと
全国の自治体で「地区センター」という呼称はかなり珍しいのです。
目的はさておき 地域の公共施設は 例えば
「住区センター」「公民館」「生涯学習センター」「地区行政センター」「市民センター」「コミュニティハウス」「スポーツ会館」「地域ケアプラザ」
など 様々な名称があります。
横浜市には「公民館」がありません。公共の建物の代表といえば「公民館」です。
「より多くの人々が施設で交流を深めてもらうよう、公民館を「生涯学習センター」「交流館」などと言い換える設置者(市町村など)もある。(wikipedia)」
という説明の後に公民館以外の呼称を用いている例として
横浜市は「地区センター」、川崎市は「市民館」ですが、当初は公民館としていました。
横浜市は方針で<公民館という名称を一切使っていなかった>とどこかの資料に書かれていた記憶がありますが定かではありません。
偶然ですが富山市も「地区センター」があり小学校区に一つくらいの割合で設置(公民館に併設)されているそうです。ということは公民館と少し役割が違うということでしょうか。
ここで一つ 皆さんは「地区センター」を利用されていますか?
少し前の調査の記憶しかありませんが「利用者の常連化、固定化傾向」があり使う人は使っているが、全く関心のない地域住民も多いのが現状でしょう。
図書館からケアプラザまで、この地区センターも含めバラバラ感は否めません。
今後 少子高齢化の中で、地域福祉の活動拠点の多様な対応が求められるようになってきています。
もうすでに公共施設の有機的なつながりをダイナミックにデザインしていく時期を逃しつつあるように思います。
今日はちょっと視点が違いましたが たまには良いでしょう。(過去の6月20ブログ)
No.172 6月20日(水) 階級差なく埋葬
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=436
1946年(昭和21年)6月20日(木)の今日
日本軍が使用していた児童遊園地を連合軍が接収した日です。
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