12月 16

第870話【絵葉書の風景】<年賀葉書>

2021年2月 一部更新しました。地図の追加、樺太関係の記事追加。内容の一部修正をしました。

2016年12月
年も押し迫ってきました。年賀状の準備の季節です。 今回紹介する<一枚の絵葉書>は年賀状です。
発行年は 宛名欄から 1915年(大正4年)
絵柄は この年の干支にちなんでウサギ達が楽隊を編成
大八車に農産物と果物を積んで賑やかに行進する絵柄です。
発信者は
「堀田忠次郎」「堀田隆治」の二名連名。
両名は
「開港五十年紀念横浜成功名誉鑑」に登場しています。 これを含めたいくつかの資料よれば、
慶応七年横浜萬代町一丁目七番に開業し明治23年に三忠合名会社となりました。ジャガイモ、玉ねぎ、蜜感、農産物、海産物を主に輸出入する会社として登場、一時代を築きます。
この年賀状は、「三忠合名会社」オリジナルの絵葉書で、取引先に送ったものと思われます。
明治25年「三忠合名会社」は北海道小樽にも支店を置き、北日本各地の物産を扱い中でも当時日本国領土だった南樺太との取引も多くあったようです。
この年、1915年(大正4年)の年賀状にはもう一つ意味があったようです。
政界進出の準備だったのでしょうか
9月25日に行われた神奈川県議会議員選挙に
政友会から立候補、262票(次点)で落選しています。
落選で懲りたのか政界への立候補はこれだけしか確認できませんでした。
この時、政友会としてトップ当選したのが「新井清太郎」で352票でした。
前市役所前に創業者の名を拝した「(株)新井清太郎商店」ビルが建っています。
「三忠合名会社」のその後は?ネットで確認した程度ですが、
貿易商”横浜三忠商店”を継承した企業が現在も東京で事業を営んでいます。
株式会社 三忠

<年賀状>
さて、今回のサブテーマである年賀状、年末に出し、正月にまとめて配達される予約配達システム。
古くは江戸期に街道の整備がすすみ「飛脚」制度が充実する中、豊かになった町民・商人の間で「年賀の書状」のやりとりが新年に行われていました。
今日のように<正月>に集中して賀状の配達が行われるようになったのは明治の郵便制度が整備されてからのことです。
<はがき>の登場によって、手軽に多くの人にメッセージを送ることができるようになり、爆発的に<年賀はがき>への利用が増えます。
結果
年末数日に年賀を目的とした郵便の取扱量が急増・集中し流通がパンクします。
そこで制度として<年賀郵便>のルールが決まりました。
基本は<1月1日>の到着に日本人はこだわったのです。郵便のルールは投函されたら順次配達していきますから、人々は元旦に届く年末ギリギリを狙った訳です。当然、配達が間に合わなくなってきます。
1899年(明治32年)に
年賀郵便だけ 暫定的に普通郵便と分離します。
1906(明治39)年
そして、「年賀特別郵便規則」が公布され正式に法制化され現在に至ります。それまで普通郵便は配達期日の指定をすることができなかった訳です。
翌年の
1907年(明治40年)から
「年賀」であることを表記すれば、郵便ポストへの投函も可能となり正月に届くことが制度化されます。
そして
2017年は
年賀状制度110年目を迎えることになりました。
年賀状は以前厳しい減少傾向にあり、正月の風物詩から消えることは無いと思いますが、残念な傾向です。

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12月 14

【市電ニュースの風景】1931年 №23

目下1930年代の短期間に発行していた「市電ニュース」の風景を読み解いています。

1931年(昭和6年)6月
六、七、八日 神奈川洲崎神社大祭(電車 洲崎神社社 バス 神奈川 下車)
七日 八大學新人水上競技選手権大会(電車元町下車)
=午後一時より元町横濱プールにて=
九日より十三日まで
第八回全神奈川バスケットボール大会(電車及バス 市役所前下車)
=各日午後六時半より横浜公園前YMCA室内体育場にて=
十日 剣道聯合会六月例会(電車弘明寺終点下車)
=午後六時半より横濱高工道場にて  観覧随意=
十一日 高松宮両殿下御帰朝
=『郵船』秩父丸にて午前十一時四號岸壁御着=
(懸賞標語)
注意が最良の安全地帯(当選者 青木文造君)
●洲崎大神(武州神奈川宿青木町御鎮守・洲崎神社)
源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して建久2年(1191)に創建したと伝えられています。
例大祭は現在6月6日以降の金・土・日曜日ですが
1931年の時は 土日月に渡って行われました。
●元町横濱プール
元町横濱プールは1930年(昭和5年)5月20日に完成、6月1日(日)に開場式が行われました。夜間施設を持っていましたので開場の翌月(7月)には日本初の夜間水上競技会が開催されました。
現在は「元町公園プール」と呼ばれています。
水源は井戸水を使っていたためにかなり冷たかったようです。もちろん現在は<水道>です。
戦後1946年(昭和21年)3月1日に接収され「オリンピックプール」とネーミングされ1952年(昭和27年)に解除、返還されました。
●横浜YMCA
1884年(明治17年)10月18日に横浜海岸教会の青年たちが中心となって設立されました。
横浜は東京・大阪に次いで3番目です。
1916年(大正5年)に現在の常盤町に会館が建ち、横浜で最初の室内体育場を持ちバスケットボール普及に大きく貢献しました。

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12月 8

第868話 【ある日の氷川丸】

山下公園に係留されている氷川丸(ひかわまる)
1930年(昭和5年)竣工。日本郵船の12,000t級貨客船だ。
北太平洋航路で活躍、戦後まで残った貴重な船である。
現在は博物館船として公開され国の重要文化財(歴史資料)に指定されている。
ここに数枚の係留された氷川丸風景を紹介する。 これらの風景の違いがお分かりになるだろうか?
氷川丸は、
1960年(昭和35年)8月27日に横浜からシアトルへ出港し10月1日に横浜・3日に神戸着で最終航海となった後、横浜港に戻ってその後の処置を待つ身の上となった。廃船の計画も出たが、各方面からの熱いリクエストがあり存続が決定。
翌年の1961年(昭和36年)に ユースホステルとして再登場した。この時、船体下部が黄緑色に塗られた。
その後、繋留のために作られた<桟橋>先端に1963年(昭和38年)<白灯台>が設置された。
これに関する顛末は
No.105 4月14日 白の悲劇(加筆)

No.105 4月14日 白の悲劇(加筆)


1960年代以降の「氷川丸」も様々な表情を変化させながら現在に至っている。
85年の輝かしい歴史を辿るには
「氷川丸ものがたり」は最新刊だ。

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12月 8

第867話 【明治の風景】横浜駅前公衆便所(加筆)

初代横浜駅が開業したのは1872年6月12日(明治5年5月7日)考えてみれば、開港以来十数年で産業革命の象徴を導入したことになる。
わが国の鉄道発祥の駅舎は新橋駅と共にアメリカ人建築家、R・P・ブリジェンスが設計した。
ここに横浜駅前、鉄道開業後の写真に写る<謎>の建物を発見?

初代横浜駅前

明治25年に発行された絵地図にも駅前噴水の先、大岡川に面した場所に何か建造物がある。
私はこれは新しい「公衆便所」ではないかと推理した。
撮影時期は、初代横浜駅開業期から
1902年(明治35年)に初代大江橋が架替されるまでの間であることは間違いないだろう。
さらに絞りこめるか、果たして公衆便所なのか
資料を漁ってみた。
まず簡単に横浜公衆便所史から
開港後、欧米人が出会った日本の風習の中で、
庶民が平気でどこでも<立ちション>するという行為には閉口したという。
そこで外国人たちは<公衆便所>の設置を時の行政府に強く要望した。
早速動いたのが横浜町会所、現在の横浜商工会議所だった。
1871年(明治4年)11月に横浜町会所の費用で町内83カ所に小便所を設置。
掲示板を使って設置場所を掲示し
「右之通りに付旅人は別して心得居可申事也」と示した。
この小便所は四斗樽大の桶を地面を掘り下げて埋め込み、板囲いをした程度の簡単なものであったため臭いがきつく外国人にはかなり不評だったようだ。
「主要地区には瓶(かめ)を埋め込み、男女両用に供し、屋形式のやや完全なるものに改造するなど、統廃合の結果、多くは橋詰に設置する事となり、其の数も四十数箇所となった。」
これが写真にある初代横浜駅前広場、大江橋詰に設置された公衆便所ではないか?
<横浜駅前公衆便所>
確証は無いがその他にこの当たりに必要な<建築物>が考えつかない。邏卒所=交番も考えたが、川沿いに建てる必要があるのか?窓がない、川に向かって蓋らしき構造、などなど疑問が残る。
拡大してみると人影が見え”立ちション”に見えないこともない。
写真左側には「大江橋」が架かっている。下流右岸から「大江橋」を見ている。
反対側からの風景でも確認してみたい。

大江橋上流の右岸から「大江橋」を写している。
恐らくこの風景の方が新しいものだろう。電信柱が増えているのが判る。
ちょうど樹木が遮っていて、正確に確認することができないが、角度的には橋詰の<建造物>は無いように見える。
短期間で撤去された可能性もある。

明治二十年代の初代横浜駅周辺。横浜電気鉄道はまだ開通していない。

1872年(明治5年)2月17日の横浜毎日新聞には
「仮名垣魯文、立ち小便で科料(とがりょう)とられる。仮名垣魯文、当港へ来たり、本町辺にて風と立小便為し、邏卒に見咎められ、科料申付けられし由、西洋膝栗毛の趣向を一寸実施に見せたるは面白し。」と時の有名人も”立ちション”で捕まったようだ。
(参考資料:荒井保男『日本近代医学の黎明 横浜医療事始め』2011 中央公論新社)
※番外編
偶然の一致?

桜木町公衆便所遠景
桜木町公衆便所

大江橋近くに2016年までなかなか良いデザインの公衆便所があったが、廃止されてしまった。
位置的にも古地図の位置と合っている(若干大江橋寄りではあるが)!んだけどな。
さらに追いかけてみるか?

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