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第914話【横浜路上観察】の手引

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私は横浜の路上を意識的に観察し始めて10年、
一昨年からは仲間を集めて横浜路上観察学会なるものも始めました。
このブログでは殆ど紹介していなかったので、これも横浜の一風景ということでこのブログに紹介することにしました。
路上には<意図しない>歴史の痕跡があり、
<意識しない>街の記号が存在します。

<意図しない><意識しない>風景に意識を向けると、新しい街の姿が見えてきます。
私達の視覚は不思議なことに、不用な<記号=風景>は視野から消えます。
視線は向いていても見ない風景があるのです。だから日常生活があるのですが、逆に意識するとこれまで見えてこなかった視野に新しい風景や記号が見えてきます。
簡単な例が<マンホール>です。多数の人が往来する足元に存在する<マンホール>を意識して歩いている方はほんの一握りの方です。大多数の方にとって、<マンホール>は道路の一部であり一々区別し認識する必要がありません。
ところが、一度気になり始めると、この世界に引きずり込まれます。
私は横浜市内だけに留めていますが、300種類を越える異なった路上の蓋が公道には設置されているのです。丸型、角型の二種類が基本です。マンホールはその名の通り丸の形で<人孔>と訳されています。人が点検や修理のために地下施設に入ることを想定した路上の蓋のことです。一方「ハンドホール」という路上の蓋もあります。「内部寸法の大小に関係なく、工事完了後の保守作業に際して作業員がその中に入ることを想定しない。(そのため手穴「ハンドホール」と呼ばれるらしい)」
また、単純に雨水などを下水溝に流し込む「雨枡」の蓋もあります。
路上の蓋、デザインで区別すると
横浜市オリジナルの「ハママーク」のついたものと全国規模のインフラ用の共通デザインのものまで多様にあります。
区や、通り、商店街用オリジナルもあれば 今年優勝した「ベイスターズ」バージョンもあります。
デザインで追いかけると
同じ機能のものでも表記文字(字体)が異なったり、大きさや文様が異なっているものも多くあります。
■追いかけない(ハンティングしない)
路上観察の基本として、私は<マンホーラー=マンホールハンター>ではないので、自らマンホールを求めて探し歩くことをしません。もっと欲張りで、路上の他の<痕跡><記号>を歩きながら観察し発見したいからです。
私の場合、まず場所(スタート)を決め、ある一定時間ぶらぶら歩きながら路上を観察していきます。するとどの街でも、沢山の発見があり一定時間を歩くと<痕跡>と<記号>が山のように出てきます。
これが正しい方法ではありません。それぞれ個人流があって当然です。
しっかり目的を持ってハンティングすることも路上観察の楽しみ方の重要な方法です。
関心の無い方や地元の方からの<奇異の目>に晒されることは覚悟しておく必要がありますが。
でも、それを越える<楽しみ>が路上観察にはあるので辞められません。
■風景を見るのではなく見えてくる風景に反応する
禅問答のようですが、あるがままに風景を見るとあるがままに風景は見えてきます。図と地が逆転したり、意識していなかった痕跡が突如登場してくるのです。
路上観察は私に向いている<趣味>だと実感しています。
私はどこでも観察場所を選びません。どこの道でも歩くのが好きです。街なら所を選びません。「ダーツの旅」みたいに何処に行っても、その地域で少なくとも数日はじっくり歩き回ることを愉しむことができます。
先日も、多くの方々と山梨にぶどう狩りに行きました。その時も、時間の合間をヌッて、ぶどう畑の狭間に寂れた神社があることを発見ししばし観察してきました。
特に日本国内の路上観察は
地域性の差異が均質性の延長線上にあるため、私には面白いのかもしれません。
■電柱とバス停
古い地名、地図にない地名を「電柱」と「バス停」によって発見することが多くあります。路上と云いながら、見上げることも多々あります。
電柱には昔二種類あって、電力を伝える「電力柱(でんりょくちゅう)」、そして電話回線をつなぐ「電信柱(でんしんばしら)」です。
かつて、といっても戦前明治・大正期ですが この二種類は管理省庁が異なったこともあり道路の左右をあえて別れて配線されていました。電力と電信が道路左右に別れていた訳です。それが現在では共用していますが、
<柱>によって電力会社管理とNTT管理と異なってるのもわからない風景の一つです。
※見分ける方法もあるのですが   ここでは内緒。
電柱には<座標プレート>が付いていて名前と番号で管理されています。この管理名が電力会社(関東では東電)と電信会社(NTT)ではほぼ異なっています。このプレートを読んでいくのも路上観察のスパイス的楽しみです。
バス停ですが、停留所名は意外に昔の名前を保持しているケースが多く、かつて川だったところに橋名が残っていたり、無くなった施設名も残っていたりもします。
(つづく)

第913話【時代判断の決め手】

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昔の風景写真に出会ったとき、いつごろの時代なのか気になります。

展示会や、資料には推定年代が示されていることも多いので史料として役立ちます。
一方で、年代の分からない風景に出会うと、これまた別の意味で興味が湧いてきます。
「この風景は何時だろう?」
時代判断の決め手について紹介しましょう。
時代のランドマークが判るエリアはそれが基準となります。
戦前昭和期の関内エリアは「三塔」が鍵となります。
古い順に
今年150年を迎えた開港記念会館(ジャックの塔)、
1917年(大正6年)に竣工しますが震災で全焼し
1927年(昭和2年)に再建されます。
帝冠式の厳かな佇まいの神奈川県庁「キングの塔」が
1928年(昭和3年)10月31日に竣工します。
そして最後に1934年(昭和9年)3月竣工した
横浜税関の現 本関庁舎(クイーンの塔)を合わせて三塔と呼びます。
港に入ると横浜港にこの3つの塔がシンボルとして見えたそうです。この三塔によって微妙に時期がことなりますので
昭和2・3・9年で順を追うことができます。
今回紹介します風景は
この三塔の時差から税関(クイーンの塔)が見えないようです。
そこから昭和3年〜昭和8年ごろと時期が絞りこむことができます。
横浜関内外の風景は、
関東大震災で建物が大きく変わります。
そして戦災(横浜大空襲)と接収時代を経て
高度成長期となり、オリンピックの頃には人口爆発真っ只中で
横浜は都市基盤整備に日々追われることとなります。
大正から昭和にかけて、震災の被害は大きかったけれど復興に努力する短い時代が横浜にとっては数少ない良き時代だったのかもしれません。

第912話 【市境を歩く】長尾台町あたり

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横浜側:長尾台、田谷
鎌倉側:玉縄、岡本
今年の春、市境踏破を目指しました。ほぼ全市境あたりを歩きましたので、第二ステップでは、市境をもう少し探ってみることにしました。
(長尾台)
大船駅西口から柏尾川に沿って上流に向かうと程なく「長尾台」のバス停があります。このあたりで川を背にすると目の前に切り立った高台とその周辺が長尾台です。
中世戦国時代に後北条氏伊勢盛時、後の北条早雲となったに武将によって築かれた玉縄城(たまなわじょう)の出城があった場所とされています。
この長尾台は東と南の方角を見据える良い立地で古くから小城(館)があったことが発掘調査で判っています。平安時代の武将、源義家に従って活躍した長尾次郎の名がこの地名の由来とされています。中世に北条氏の三浦攻めの拠点となった鎌倉玉縄城は、永正9年(1512年)に後北条氏伊勢盛時のちの北条早雲によって築かれます。長尾台は玉縄城の重要な出城で近くを流れる境川支流柏尾川が堀の役割をする絶好の要害の地でした。
現在も長尾台の丘陵部は人里離れた別天地の様相で、横浜に居ることを忘れてしまいそうです。
この長尾台と隣接する田谷の境界にはケモノミチがあり、この道を抜けると玉縄五丁目に出ることができます。
(夢を運ぶ)
この市境にはかつて、モノレールが走っていました。
この話にピンとくるかどうかで一つの世代を測ることができます。夢のように現れ、夢のように消えた「横浜ドリームランド」の消滅要因がこの横浜ドリームランドと大船駅を結ぶ”モノレールドリームランド線”のトラブルでした。モノレールが開通した翌年、1967年(昭和42年)に構造上の欠陥が見つかり早くも運行が休止され、送客できないことでドリームランド閉鎖の致命的要因となります。モノレールを担当した東芝は、責任を認めず、長い裁判となります。
※このドリームランドモノレール事件の裁判過程は実に興味深いのでじっくり読み解いてみたいテーマです。 池井戸潤の「下町ロケット」にも通じる、大手企業の<影>が見えてきます。
掲載の地図に引かれている路線図はかなり乱暴ですが、実際は長尾台・田谷付近の市境に沿って路線が引かれていました。すでに市街化していたこの地域に交通機関を設置する唯一残された空間だったのかもしれません。
(市境)
JR大船駅ホームの下を柏尾川の小派川「砂押川」が流れています。横浜市と鎌倉市の境、市境の決まり方としては一般的な「境の川」です。
「砂押川」が柏尾川に合流し市境も柏尾川に沿って400mほど北(上流)に伸び、柏尾川右岸側、西方向に入り込み長尾台西南の尾根筋が市境となっています。
現在の長尾台は古来「相模国鎌倉郡」で、1889年(明治22年)明治期最大の市町村再編成が行われます。この市町村合併は近世江戸の集落関係に関係なく様々な軋轢を残したまま実行されます。
柏尾川右岸の金井村・田谷村・長尾台村と小雀村が合併し現在の鎌倉市境、横浜市西部のかなりまとまったエリアが長尾村となります。
ところが、1915年(大正4年)に再編が起こます。
“広い長尾村”周辺が解体され、国道(東海道)沿いの小雀村・富士見村・俣野村・長尾村(一部)が大正村に
田谷村・金井村・長尾(台)が明治22年に柏尾川左岸でまとまった豊田村と大正4年に合併し大きな「豊田村」となります。
単純化すれば、川をベースにした農業エリア柏尾川両岸でまとまり、東海道筋経済圏で戸塚宿以南でまとまった新しい自治体を作り直したという構図です。
ただ、長尾(台)村は大船駅に近かったため、早くから大船村への合併を希望していましたが叶いませんでした。
(鉄道の時代)
明治に入り、街道の時代に加え鉄道の時代が始まります。
東海道線 大船駅は
1888年(明治21年)11月1日に開業。当時、駅の正面は西口の観音側でしたので、長尾台村にとっても重要な最寄り駅となっていました。
さらに翌年の1889年(明治22年)6月16日には横須賀線が大船駅〜横須賀駅間で開通し、鎌倉駅・逗子駅・横須賀駅も合わせて開業します。
戸塚町は明治中期以降、工業都市として急速に発展していきます。横浜市が昭和に入り「大横浜」を指向する中、柏尾川沿いの町は大横浜に入るのか、これまでのコミュニティを維持するのか、大きな選択を経て現在の横浜市域が誕生していきます。
改めて境界を歩くと長尾台から玉縄の台地を鎌倉時代、相模のもののふ達が去来した思いを馳せることができるでしょう。